面積=60万3500km2
人口(2010)=4596万人
首都=キエフKiev(日本との時差=-7時間)
主要言語=ウクライナ語(公用語),ロシア語
通貨=フリブナHryvna(1996年8月まではカルボバネッツKarbovanets)
ソ連邦を構成する共和国の一つであった〈ウクライナ・ソビエト社会主義共和国Ukrains'ka Radyans'ka Sotsialistichna Respublika〉が,1991年8月24日独立し,国名を〈ウクライナ〉と改称したもの。独立国家共同体(CIS)の構成国の一つ。人口や経済的重要度において,旧ソ連邦中ロシアに次ぐ第2位を占め,文化的にも長い伝統を保持してきた。北東でロシア連邦と,北でベラルーシ,西でポーランドとスロバキア,南西でハンガリー,ルーマニア,モルドバの諸国とそれぞれ国境を接し,南は黒海,アゾフ海に面している。ロシアを除けば,国土面積ではヨーロッパ最大,人口ではドイツ,イギリス,フランス,イタリアに次ぐ。ハリコフ,キエフ,オデッサなど24の州oblast’とクリミア自治共和国からなる。ウクライナという名称は〈辺境〉を意味するクライkraiからつくられたもので,12世紀ころから使われていた。なお〈小ロシア〉という呼称がウクライナの別称として使用されることがあるが,正確には,後述するように,これはウクライナの一部に与えられた行政地名である。
自然
ほぼ全域が小高地や丘陵を含む平たんな地形でおおわれており,平均標高170m。例外は西の国境沿いのカルパチ山脈(最高峰はゴベルラ山で2061m)とクリミア半島のクリミア山脈(最高峰はロマン・コシ山で1545m)である。主要河川はドニエプル川(全長2200kmでヨーロッパ第3位。ウクライナ領内1200km),ブーグ川,ドニエストル川,ドネツ川などで,ほとんどすべての河川が南のアゾフ海,黒海に流れ込んでいる。巨大な人造湖(ドニエプル下流のカホフカ湖など)を除けばウクライナには湖は少なく,いずれも比較的小さい。気候は穏やかな大陸性気候で,平均気温は1月が北部および北東部で-7~-8℃,クリミア南部で2~4℃。7月は北西部で18~19℃,南東部で23~24℃となる。年降水量は最も少ない南東部で年間300mm,最も多いカルパチ地方で1200~1600mmに達する。雪は通常11月終りごろから降り始める。ウクライナを土壌と植生から見ると次の3地帯に分けられる。(1)ポレシエ地方 森林と沼沢に富み,ポドゾルと呼ばれる耕作に不適な酸性土壌の地帯。キエフ以北の地方で,ウクライナ全体の19%を占める。(2)森林ステップ地方 肥えた黒土(きわめて肥沃な黒色土壌チェルノーゼム。最高16%までの腐植土を含み,180cm程度の層をなしている)地帯で,ドニエプルをはさんでウクライナの中央にひろがる地方。ウクライナ全体の33%を占める。(3)ステップ地帯 ウクライナ南部の草原地帯で,やはり黒土を土壌とする。ウクライナ全体の48%を占める。また経済的観点からみて,次の2地方は特に重要な意味をもっている。(1)クリボイ・ログ地方(ドニエプロペトロフスク州) 鉄鉱石の豊富な埋蔵地で,1881年以来採鉱されており,鉄の含有率は68%に達する。(2)ドネツ炭田(ドンバスとも呼ぶ。ルガンスク州とドネツク州) 豊富な石炭埋蔵量を誇り,推定埋蔵量は635億~762億t。1721年に石炭が発見され,19世紀初めから採掘されている。その他,マンガン,硫黄,石油,天然ガスなどの天然資源にも恵まれている。
住民
ウクライナ人はロシア人,ベラルーシ人とともに東スラブ族に属する。他の東スラブ族に比し身長は高く,肩幅が広い。陽気で,歌や踊りを好み,コサック・ダンスと民族楽器のバンドゥーラが有名である。1989年の民族の構成比は,ウクライナ人72.2%,ロシア人22.1%,ユダヤ人とベラルーシが各0.9%など。ウクライナ以外の旧ソ連諸国に677万人,うちロシア連邦に436万人が住むが,その母語率は4割強で,ロシア化が浸透している。ウクライナに住んでいるウクライナ人のうちウクライナ語を母語とするものは1989年で87.7%(1970調査では91.4%)であり,母語率は低下しているが,地域別ではウクライナの西から東へ,また北から南へと低下する傾向がみられる。89年ウクライナの人口の67%は都市に住んでいる(1970年には55%)。ウクライナ最大の都市は首都のキエフで,人口は264万5000(1991)。そのうちウクライナ人は約7割である。人口100万以上の都市は,ほかにハリコフ,ドニエプロペトロフスク,オデッサ,ドネツクがある。旧ソ連以外に住んでいるウクライナ人は300万以上で,アメリカとカナダおよびポーランドにその大部分がいる。その他西ヨーロッパ諸国,南米,オーストラリアに居住しており,スロバキアなどの東ヨーロッパにも少数民族として住んでいる。
ウクライナ在住のロシア人1100万余(旧ソ連の非ロシア系諸国在住のロシア人約2000万人の半分に当たる)は,おもにウクライナ東部と南部に住んでいる。西部や中部の諸州ではロシア系住民は10%以下だが,東部と南部では10~50%を占め,とくにクリミア自治共和国では70%に及ぶ。このような住民構成が,独立後のウクライナとロシア連邦との関係,ウクライナの政策を考えるうえで,前提条件となる。
産業
ウクライナの鉱工業生産は1940年と比べて80年には約14倍となった。電力生産は80年に2360億kWhに達し旧ソ連全体の約20%を生産していた。石炭は1970年以来毎年2億t前後を産し,旧ソ連全体の3分の1に達していたが,94年には9000万t台に下がっている。鉄鉱石は旧ソ連全体の約50%,マンガン鉱は4分の3を産し,その他の鉱物資源も豊富である。鉄鋼生産(1994年5130万t)をはじめとする冶金・金属工業,重機械製造業,化学工業などの重工業がドンバス,ドニエプル流域で,またハリコフ,キエフ,オデッサなどの大都市とその周辺では,精密機械工業や食品工業が盛んに行われている。国内総生産(GDP)の約31%を鉱工業が占め,農業は21%強である(1993)。
ウクライナは古くから穀倉地帯として知られている。1917年の革命後,とくに第2次大戦後の目ざましい工業発展によって産業の中心は工業分野に移ったとはいえ,農業生産の重要性は不変であり,増産がはかられてきた。農業総生産は,1940年と比べて80年には2.1倍となった。主要穀物の生産は1976年に4460万tで,旧ソ連全体のおよそ20%を占めたが,79年以降大幅に生産が落ち込み,95年に小麦が1627万tである。穀類以外では旧ソ連全体の6割以上を産したテンサイをはじめとして,トウモロコシ,ヒマワリ,綿花,大豆,野菜,果物などが栽培されている。古くからの産業である養蜂,養魚も盛んである。畜産業も盛んで95年で牛1962万頭,豚1395万頭,羊・ヤギ557万頭が飼育されている。鉄道総延長は2万2557km,自動車道路は17万2000km(1995)。黒海とアゾフ海の北岸にはオデッサ,ヘルソン,ニコラエフ,マリウポリ(旧ジダーノフ)などの港町がある。
歴史
ウクライナは地理的に見て顔を南に向けている。ウクライナを流れる主要な川は南流し,すべて黒海かアゾフ海に注いでいる。前8世紀ころから後13世紀まで,黒海はウクライナにとっては〈帝国(すなわち地中海地域)への窓〉の役割を果たしつづけた。ウクライナ人の祖先はその政治的・社会的体制(世襲制),キリスト教信仰をはじめとする文化をコンスタンティノープルから導入してきた。
古代から中世へ
ウクライナの古代史は黒海北岸とステップ地帯で始まった。前8~前7世紀に黒海北岸にはテュラス,オルビア,ケルソネソス,パンティカパイオン(現,ケルチ),タナイスなどのギリシア人植民市が建設された。ステップ地帯はスキタイ,サルマートといった騎馬遊牧民族国家の一部となった。ウクライナ史におけるヘレニズム時代は黒海北岸東部のボスポロス王国(前4世紀~後4世紀)の時代である。
中世初期のユダヤ人国際商業団ラダニヤと対抗した南フランスのキリスト教徒の国際商業団ルーシに発したルーシ・ハーン国は,イティリを首都としたハザル・ハーン国(〈ハザル族〉の項参照)のカバル革命(830年代)によるハーン亡命によって成立した。ルーシ・ハーン国はボルガ時代(839-930),ドニエプル時代(930-1036),キエフ時代(1036-1169)の3時期に分けられる。そのうちの10~12世紀後半はキエフ・ロシアまたはキエフ・ルーシとも呼ばれる。キエフ・ロシアは,ウクライナ人が以前から住んでいたポレシエと森林ステップ地帯に加えて,〈ワリャーギからギリシアへの道〉と,黒海北岸の一部を領域として統合し支配した。
民族意識の形成
キエフ・ロシアが崩壊した後,ガーリチ・ボルイニ公国(13~14世紀)はポレシエと森林ステップ西部を支配したが,14世紀にガリツィアはポーランドに,ボルイニはリトアニアに併合された。1569年のルブリン連合によりリトアニアはポーランドと合同しレーチ・ポスポリタ(共和国)が形成され,ウクライナはポーランド支配下に入ることとなった。すでに15世紀からステップ地帯にはポーランド,リトアニアからの逃亡農民を中心にウクライナ人コサックの集団が形成され,先住コサックであるタタール人コサックと競合かつタタール化しつつしだいに軍事集団として成長し,クリム・ハーン国最大の奴隷市場のあったカーファ(現,フェオドシア)をはじめとする都市攻撃を敢行していた。1550年ころリトアニア貴族出身のD.I.ビシネベツキー(?-1564)はドニエプル川の中洲のホルティツァに要塞を建設してコサックの本営(シーチ)とした。彼らはザポロージエ(〈早瀬porogiの向こう〉の意)のコサックと呼ばれた。17世紀初めに登場したザポロージエ・コサックの指導者P.K.サハイダーチヌイ(?-1622)はキエフの再建に着手し,教会を再建し,正教(キリスト教)を保護した。1634年にはモヒラ・アカデミー(ペトロ・S. モヒラによる正教研究中心の学問施設)が設立され,キエフは再び東ヨーロッパの一大文化センターとなった。ウクライナ・コサックはそのキエフの保護者として正教信仰を核とした自覚的民族意識をもった集団となっていった。48年ウクライナ・コサックはポーランドからの独立戦争をボフダン・フメリニツキー(1595-1657)に率いられて開始した。54年にはウクライナ・コサックは新興の正教国モスクワとペレヤスラフ協定を結んでポーランドと対抗した。しかし67年ポーランドとモスクワはアンドルソボの講和によりウクライナを分割することに同意した。このためドニエプル右岸はポーランド領に,左岸(ただしキエフを含む)はロシア領となった。ロシア領となった左岸ウクライナには〈ヘトマンシチナ〉と呼ばれるウクライナ・コサックによる自治国家が18世紀後半まで約1世紀間存続することになる。このヘトマン国家はコサックの頭領ヘトマン(ロシア語ではゲトマン)を長とし,財政,外交,法律,軍事などの閣僚がヘトマンを補佐して政府を構成していた。国内は16の地域に分けられ,それぞれにコサックの連隊が駐留してその地を支配した。18世紀初め北方戦争の最中,ヘトマンのI.S.マゼパ(1644-1709)はロシアからの独立をはかってスウェーデンのカール12世と連合してロシアと戦ったが,ピョートル大帝に敗北し(1709年,ポルタワの戦),ウクライナの自治は制限されていった。エカチェリナ2世はウクライナ・コサックに対する攻撃を強化し,1764年にはヘトマンという役職とその政府を廃止した。75年にはザポロージエの本営に依拠して抵抗していたコサックを征服し,本営を破壊した。さらにエカチェリナ2世は83年にヘトマン国家体制をその地方行政組織にいたるまで完全に廃止し,この地方を小ロシアと名づけ,直轄諸県に分割した。左岸ウクライナに農奴制が導入されるのはこの年である。一方,ポーランド支配下の右岸ウクライナでは18世紀を通じて正教を信仰するウクライナ農民とコサックのカトリック・ポーランドに対する大規模な反乱(ハイダマキ運動)が起こった。とくに1734,50,56年の反乱の際にはポーランド政府の要請によってロシア軍が反乱鎮圧に出兵した。ポーランド領ウクライナはポーランド分割によりガリツィアを除いてロシア領となった。
ウクライナを19世紀までの歴史的経過によって地域分けすると,(1)スロビツカ(自由な)・ウクライナ ドンバス,ハリコフなどを含むウクライナ東部で早くからモスクワの支配下に入った地方。おもにロシア人(一部ウクライナ人)による植民地域で,ウクライナにおける最初の西欧型大学が1805年この地のハリコフに設立された。(2)マロロシア(小ロシア。かつてのヘトマン国家の地域) キエフ市もここに属する。ウクライナの文化的伝統を代表する地域。(3)右岸ウクライナ ポーランド分割によりロシア帝国に併合された。ポーランド人地主の多い地域。(4)ノボロシア(新ロシア) ウクライナ南部で,ザポロージエの本営の粉砕,クリム・ハーン国の併合(1783)後にロシア人,ウクライナ人,ユダヤ人などが入植した植民地域。オデッサが中心的大都市。(5)ガリツィア ポーランド分割によりオーストリア領となった。
ウクライナのルネサンス
1798年に刊行されたイワン・コトリャレフスキー(1769-1838)の《エネイダ》は,近代ウクライナ文語の発展の始まりを意味するものであり,19世紀のウクライナ民族のルネサンスの開始を告げるものであった。農奴出身の詩人T.G.シェフチェンコ(1814-61)はその力ある詩と生涯により,ウクライナ民族を代表する詩人となった。1846年キエフで結成された政治結社キリル・メトディウス団にはシェフチェンコのほか,歴史家で作家のパンテレイモン・クリシ(1819-97),歴史家で作家のN.I.コストマーロフ(1817-85)など,19世紀のウクライナを代表する知識人が参加し,スラブ連邦形成,農奴制廃止などを掲げたが,47年全員逮捕され,とくにシェフチェンコはその詩の反ロシア的な内容を理由に中央アジアへ10年間の流刑となった。19世紀後半,ロシア政府はウクライナ民族に対して激しいロシア化政策をもって臨み,63年にはロシアの内相P.A.バルーエフ(1815-90)の指令によって,また76年にはエムス法によって,オリジナルと翻訳を問わずウクライナ語出版を全面的に禁止しただけでなく,ウクライナ語による劇,歌謡,講演までも禁止するという弾圧処置を実行した。ロシア帝国下で文化的活動の余地さえなくなったウクライナ人は,活動の場をオーストリア領ガリツィアに求めた。ここではすでに1848年に農奴解放が行われ,60年代の改革で国会,地方議会も開設されて,まがりなりにも合法的なウクライナ人の活動が可能だったからである。ジュネーブで亡命生活を続けていたM.P.ドラホマーノフ(1841-1895)やイワン・フランコ(1856-1916)の活動によりガリツィアはしだいに民族運動の中心となり,〈ウクライナのピエモンテ〉ともいうべき重要な役割を演じることになった。90年,ウクライナ急進党がガリツィアで形成され,94年にはリビウ(リボフ)大学にウクライナ史の講座ができ,M.S.フルシェフスキーが教授となった。
1900年にはロシア帝国内のハリコフでウクライナ革命党が形成され,02年にはハリコフ,ポルタワで農民蜂起が起こるなど,革命運動が盛んとなった。05年革命後の国会にはウクライナ人の代表が議員となり,学校でのウクライナ語授業を認めるよう要求をしたが入れられなかった。第1次世界大戦で一時ロシア軍に占領された東ガリツィアでは,徹底したウクライナ人弾圧,ロシア化政策がとられた。
内戦と社会主義政権の確立
1917年二月革命の後,キエフにフルシェフスキー,V.K.ビンニチェンコ(1880-1951),S.V.ペトリューラ(1879-1926)らを指導者として成立したウクライナ中央ラーダ政府(〈ラーダ〉の項参照)は帝政時代のロシア化政策を一掃して,ウクライナ化政策を各分野で実行しようとした。とくに軍隊のウクライナ化をめぐってロシアの臨時政府と厳しく対立した。十月革命後,中央ラーダ政府はソビエト・ロシアと絶縁し完全独立を宣言したが,ソビエト・ロシアは軍隊を送ってキエフを占領した。ウクライナはドイツと講和を結び,ドイツ軍との協力のもとにソビエト軍をウクライナから追放した。しかし18年4月ドイツ軍は中央ラーダ政府をクーデタによってスコロパツキー政権に代え,農村からの収奪を強行した。ドイツ軍が18年秋に撤退した後,19年を通じてウクライナは激しい内戦の舞台となった。ソビエト軍,ペトリューラ主導のディレクトーリア軍(民族派),N.I.マフノらに率いられる農民軍,A.I.デニキン率いる白衛軍などが入り乱れて戦った。20年にはほぼソビエト権力がウクライナに確立したが,その過酷な穀物徴発政策により21年夏までに約100万人の農民が飢饉により死亡した。この間ガリツィアのウクライナ人は1918-19年にかけて西ウクライナのオーストリアからの独立を宣言し,ウクライナ本国との合同を追求したが,ポーランドに敗北して失敗し,ガリツィアはポーランド領となった。
1918年夏にはすでにウクライナ共産党が形成され,19年春にはウクライナ社会主義ソビエト共和国の設立が宣言されていたが,22年暮れにはロシア,白ロシア,ザカフカスの3共和国とともにソ連邦を形成した。ソ連邦の形成と1924年憲法の制定の過程で,ウクライナの指導者はグルジアの指導者らとともに中央集権化に反対する主張を展開した。
ウクライナ化への道
1920年代を通じて,ウクライナの党と政府は公式の路線として〈ウクライナ化政策〉を採用した。ウクライナにおけるソビエト権力を根づかせるためにそれが必要と認識されたのであった。O.シュムスキー(1890-1946),M.スクリプニク(1872-1933)といった党の指導者により,学校教育のウクライナ化,党や政府へのウクライナ人の登用,ウクライナ語出版物の増大などがはかられ,多くの詩人や作家が輩出し,ウクライナ科学アカデミーを中心にウクライナ史などの研究も精力的に行われ,ウクライナの文化生活は一種のルネサンスを迎えた。しかし,30年代になるとウクライナ化政策は180度の転換を示した。ウクライナ人知識人に対する最初の〈見世物裁判〉がいくつか行われ,1920年代に活躍した詩人,作家,評論家,歴史家などが次々に批判され,解職,逮捕,流刑となった。さらにウクライナ化政策を推進した指導者や党員も次々に粛清の対象となった。21年に成立してウクライナ人の多くが属していたウクライナ独立正教会も解散を指示された。多くの者の〈罪状〉として挙げられたのは民族主義であった。1927年ハリコフで合意されたウクライナ語正字法は,1920年代のウクライナ言語学者の努力の結実であったが,これもロシア語正字法からの分離を図ったとされ,言語学者は逮捕された。それまで使われていたgを削除するなど,正字法自体もロシア語に近づける方向で手直しされた。一方,29年から開始された〈上からの革命〉もウクライナに大きな打撃を与えた。強制的な農業集団化,過酷な穀物徴発はウクライナ農村に大きな混乱と飢饉をもたらし,33年前後に少なく見積もっても人口の10%以上を飢饉で失うという惨状となった。
ウクライナ化政策の廃止,ロシア化への逆行,飢饉,粛清を経験したウクライナ人の中には,41年6月の独ソ戦の勃発にスターリン体制からの解放の希望を見た者もあった。ウクライナ民族組織(OUN)のバンデラ派はドイツ軍占領下のウクライナでウクライナの独立を宣言したが,ドイツ軍はそれを認めず,OUNの指導者は逮捕された。ナチス・ドイツはウクライナをその植民地と見なし,ウクライナ人を〈劣等人種Untermensch〉として取り扱い,数十万のウクライナ人を〈東方労働者Ostarbeiter〉として強制的にドイツに送った。ウクライナ・パルチザン軍(UPA)を結成したウクライナ人たちは42年からドイツ軍に対してゲリラ戦を開始した。ドイツ軍撤退のあとUPAは反ソ独立を掲げてソビエト軍と戦闘を継続したが,50年代半ばまでには鎮圧された。第2次大戦でウクライナでは少なく見積もって550万の死者が出た。そのうち民間人は390万であり,さらにそのうち少なくとも90万がユダヤ人であった。第2次世界大戦によってガリツィアはウクライナに併合されたが,その直後から農業集団化が強行され,その地で優勢だったウクライナ・カトリック教会は非合法化され,ガリツィアから約50万の人々がシベリアに流刑となった。なおウクライナ共和国は白ロシア共和国とともに国際連合にその設立と同時に加盟したが,この決定は1945年のヤルタ会談で行われたものである。53年にスターリンが死亡すると,ウクライナ共産党第一書記だったL.G.メリニコフ(1906- )は,誤ったロシア化政策を遂行したと批判され,ウクライナ人のO.I.キリチェンコ(1908-75)に代わった。54年にはペレヤスラフ協定300年が祝われ,クリミア半島はロシア共和国からウクライナ領に移譲された。多くの粛清されたウクライナ人の名誉回復が56年以降行われた。50年代末から60年代前半にかけて,若い世代の作家や詩人たちによりウクライナ文化の活発化がはかられ,再び〈ウクライナ化〉を求める声が高まった。63年から党第一書記であったP.Yu.シェレスト(1908-96)は部分的ではあるが,国内のウクライナ化を求める声に支持を与えた。シェレストは外交政策においては強硬派で68年のチェコスロバキア事件に際しては出兵を強く主張した。彼は72年アメリカ大統領ニクソン訪ソのときに失脚したが,後に〈民族主義者〉として批判された。ウクライナの反体制派に対しては72年に大量逮捕が行われた。76年11月には人権擁護団体ウクライナ・ヘルシンキ・グループが結成されたが,彼らもまた逮捕された。1972年ウクライナ共産党第一書記になったV.V.シチェルビツキーはいくつかの難しい問題を抱えていた。まず,ロシア化に抵抗するウクライナの民族運動,文化運動である。ウクライナ民族とその文化が歴史的に長い伝統を誇っていること,1920年代および部分的にしろ60年代に党・政府の公式路線として〈ウクライナ化〉,ウクライナ文化の発展に対する鼓舞が行われたことが,この運動を根強いものにしていた。ロシア化の社会的・行政的圧力は増大していたが,そのこと自体がまたウクライナ人の反発を強めていた。第2には停滞する経済である。66年に始まった第8次五ヵ年計画以来,重点投資地域でなくなったことも原因となって,工業生産の伸び率は著しく低下し,石炭や鉄鋼の生産はむしろ減少する傾向が見えていた。農業生産も78年を除けば不振で,とくに1972年と79年以降は深刻な状態が続いていた。すでにシェレストもシチェルビツキーもソ連中央に対して予算と税の分配に関して不満を表明したことが何度かあった。
唯一の政党であるウクライナ共産党は293万6404(1983)の党員を擁し,ドネツク,ハリコフ,ドニエプロペトロフスク,キエフなどのグループに分かれ,最大のグループはドネツクのグループであった。ウクライナ共産党は独自の中央委員会と大会をもつとはいえ,ソ連共産党の一地方組織であり,ソ連共産党中央委員会メンバー319人のうちウクライナ人は45人であった(1982年。1976年には287人のうち50人)。
ペレストロイカから独立へ
1986年以来,ペレストロイカの下で,ウクライナでは民族運動が活発になったが,それは〈第3のウクライナ化〉ともいうべきもので,ウクライナ語の地位向上,特に教育現場におけるウクライナ語使用の拡大,ウクライナ語の公用語化,ウクライナ語出版物の増大などの要求が知識人・作家を中心に出され,また,歴史の見直し作業も進んだ。89年に入って,〈シェフチェンコ名称母語協会〉〈ナロードニイ・ルーフ(民衆運動)〉という二つの民間団体が形成されて,こうした運動を指導した。後者は〈ペレストロイカを支持するウクライナ民衆運動〉の略称で,〈ルーフRukh〉は〈運動〉の意。90年以降は独立志向を強め,名称から〈ペレストロイカを支持する〉を外し,91年には70万人のメンバーを擁した。ここに結集した反体制派や体制内改革派の活動をベースに,モスクワでの保守派による91年8月クーデタの失敗直後,ウクライナは8月24日独立を宣言した。同年12月1日の国民投票で9割以上の賛成により独立宣言は承認され,同月初代大統領にL.クラフチューク(旧ウクライナ共産党の幹部)が就任した。同年末の独立国家共同体(CIS)の発足に参加した。
しかし,独立後ウクライナは,従来ロシアに石油・天然ガスの大半を依存してきたため,生産低下とハイパー・インフレーションに直面し,経済は混乱を極めた。94年7月の大統領選挙では,CIS諸国との経済的統合は推進するが政治的・軍事的統合はしないとするL.クチマ(もとは兵器工場の管理者)が勝利した。この間にルーフは分裂し,93年にV.チョルノビルの率いる政党に組織替えしたが,94年の大統領選では敗れたクラフチュークを支持したこともあり,退潮している。
この間,1986年4月に起こったチェルノブイリ原発事故は,地元ウクライナおよび隣接するベラルーシなどに甚大な被害をもたらし,経済の困難に拍車をかけている。
ロシア連邦との関係では,黒海艦隊(ウクライナのセバストポリが基地)の分割をめぐる交渉が難航した(2分の1に分割することでは合意)ほか,クリミア自治共和国をめぐる問題が大きい。ウクライナの行政単位のなかで,唯一ロシア人が過半数を占めていたクリミア州では,ウクライナ独立の動きと並行してウクライナからのクリミア自立・ロシア接近の動きが進行し,91年9月に〈クリミア共和国〉を宣言するに至った。曲折をへて〈クリミア自治共和国〉とされているが,この問題には,クリミアの先住民といえるクリミア・タタール人のスターリンによる1944年の追放と近年の帰還も重なっている。
NATO(北大西洋条約機構)やEU(ヨーロッパ連合)などの西側の組織と大国ロシアのはざまに立つウクライナは,外交路線を決定するうえでもさまざまな問題をかかえている。
→クリミア半島