中国東南部の福建省の対岸に幅150~200kmの台湾海峡を東にへだてて,位置する島。総称としての台湾は,台湾本島と21の付属島嶼(とうしよ)および澎湖諸島の64の島々を合計した86の島からなる。付属島嶼を含めて面積3万6008km2。これは,福建省の約3分の1の面積で,海南省(海南島)と並ぶ。総人口は2322万(2011),人口密度約600人/km2。政治,経済,文化の中心は台北市。台北市と高雄(たかお)市は院(行政院)直轄市,基隆(キールン),台中,台南,新竹,嘉義の5市は省直轄市,その他は18の県に分割され,下部行政体としては,県直轄市,鎮,郷がある。鎮は日本の町,郷は村にあたっている。
地理環境
ほぼ中央を北回帰線が通り,亜熱帯気候で,平地では冬にも降霜をみない。北部の台北では平均気温2月14.9℃,7月28.2℃,年平均21.7℃,南部の台南では2月17.1℃,7月27.8℃,年平均23.2℃である。降水量は夏に多いが,北部では北東季節風の影響で冬季にも比較的雨が多い。年降水量は台北で2116mm,台南で1797mmである。南北方向に中央山脈が走り,玉山(旧称新高山(にいたかやま)3997m),雪山(旧称次高山(つぎたかやま)3884m)など3000mを超える山々がつらなっている。北部には1000m内外の高度をもつ大屯火山群がそびえ,温泉を湧出させている。西部には平野がひらけ,淡水河,濁水渓,高屛渓(下淡水渓)などの河川が流れる。東部では山地が直接太平洋にのぞみ,宜蘭,台東の狭い平野がみられるだけである。海岸線は単調で,良港湾には恵まれない。
住民
少数の外国人を除くと先住民の高山族と大陸から移住してきた漢族を中心とする大陸系住民の二大部分からなる。高山族はインドネシア系統あるいは原(プロト)マレー系統の種族であるといわれている。高山族が台湾に渡来してきた経路は明らかでない。南方の島づたいに来たとも,中国南部から台湾海峡を渡って来たともいわれている。いずれにせよ,彼らは早い時期に渡来し,定住するようになった。しかも,台湾への漢族の渡来はこれより遅れるので,高山族は長くその種族としての特質を保持することができた。狩猟,焼畑農業が彼らの生業であった。人口は約37万(1995)で,アタヤルAtayal,ツォウTsou,ルカイRukai,パイワンPaiwan,プユマPuyuma,アミAmi,ブヌンBunun,サイシャットSaisiyat,ヤミYamiなどの諸族に分かれている。高山族に対しては現在近代化政策がとられているので,かつての生活様式は大きく変わり,焼畑も姿を消しつつある。大陸系住民はまた先移住の本省人と後移住の外省人に分けられる。本省人とは,第2次大戦終結前までに開拓を主な目的として,対岸の福建・広東両省から入台した漢族とその末裔を指す。本省人はまた使用言(母)語別に福佬(ふくりよう)人と客家(ハツカ)人の2系統に分かれる。前者は閩南(びんなん)(福建省南部の泉州と漳州が中心)と福佬語に近い潮州語をあやつる広東省潮州府出身者を含む。後者は広東省梅県を祖籍とする人々が中心だが,客家語を母語とする福建省の汀州,永定などの出身者もその出身省と関係なく客家人に分類できる。福佬系移民が先に定住したため,西部沿海の沃野を占めてきた。出おくれた客家系移民は,高山族の住む高山部と福佬人の占める平野部との中間地帯の山麓部に多くが居住する。なお,日本の敗戦で中国に復帰後,農地改革,工業化,輸出保税加工区設置などの高度成長経済政策で,台湾の社会経済構造は急速な変貌をみせている。そのため客家人の都市部進出,工業団地の創設などで住民の言語別地域分布にも変動が起こっている。本省人の人口は約1800万,86%を福佬系が,14%弱を客家系が占め,一般に台湾人という場合は多数者グループの福佬人だけを指す。したがって台湾語もまた福佬語すなわち閩南語だけをいう。高山族人口が約37万といわれているゆえ,残りの約300万がいわば外省人人口となろう。外省人と概称される後移住大陸系住民は,台湾の祖国復帰と中国革命の余波であらたに大陸から移住した人々をいう。出身地は東南沿海地域とくに浙江・江蘇両省が中心である。しかし彼らの多くが国民党の軍・政関係者であるため,出身地の分布は全大陸に広がる。少数だが漢族以外の少数民族の出身者もいる。
歴史
漢籍に載る台湾最古の記録を,一部の学者は戦国時代(前403-前221)の地理書〈禹貢〉(《書経》の一篇)にまでさかのぼり,同書の〈島夷〉を台湾と見たてる。だが3世紀半ばの《臨海水土志》に〈夷州〉と見えるのを台湾史最古の現存記録とみるのが通説である。のちの史料には〈流求〉〈留仇〉〈流虬〉等の呼称であらわれ,大陸・台湾間の往来は三国時代以降,断続的にあったとされる。地方行政機構の巡検司が台湾に設置されたのは元代になってからである。明代になると,〈小琉球〉の呼称で台湾は呼ばれる。これはこの時代,沖縄の中山国王が明朝に入貢し,〈琉球〉と称したのに対し,中国側はこれを区別して沖縄を〈大琉球〉,台湾を〈小琉球〉としたためである。
明代嘉靖年間(1522-66)以降,大陸と台湾との往来は発展していくが,これより先,鄭和の南海遠征軍の台南寄港,倭寇と通じていた林道乾らの台湾開拓があったと史書にはある。同じころ東漸してきたポルトガル人は海上から台湾を眺望して,Ilha Formosa美麗島(うるわしのしま)とよんだ。ヨーロッパ文献で台湾を称してフォルモーサと記すゆえんである。1624年(天啓4),オランダ東インド会社は中国,日本との通商基地として台南一帯を占領し,安平にゼーランジア城,台南にプロビンチア城を築いた。26年にはスペインがオランダに対抗して北部台湾の淡水にサン・ドミンゴ城,基隆にサン・サルバドル城を築いた。42年,オランダは台湾の独占をくわだてスペイン勢力を一掃し積極的に植民地経営に乗り出した。しかしオランダの台湾支配も長く続かなかった。それは,61年(順治18)滅亡した明朝の回復をはかろうとした鄭成功が2万5000の兵をひきいて台湾に上陸,翌年,ゼーランジア城を攻めてオランダ人を追放し,南台湾を中心に〈反清復明〉の基地経営を試みたからだった。
鄭成功は対岸の福建省から移民を誘致するとともに,営盤田制をしいて開拓の進展を図った。営盤田制とは,農民を平時には農業に従事させ,有事には兵として参戦させる制度である。鄭氏の台湾支配は3代22年で終わり,83年(康煕22)には清の版図に入った。84年,清は台湾府を設置し福建省に隷属させた。〈台湾〉の呼称は,本来,台湾南部に居住した高山族の平埔人部落を指していったが,台湾府の設置により,全島の呼称となった。なお江戸時代の日本では台湾を〈高砂(たかさご)国〉と称していた。
清朝治下になると福建省,広東省からの移民が増加し,開拓は北へ向けて進められた。なお17世紀末には中部地方が開拓されて彰化,台中,新竹などの都市が発達した。18世紀の初めからは北部の開拓が進み,淡水河の下流に台北の旧市街艋(もうこう)ができた。また18世紀末からは北東部の宜蘭平野に開拓の手がのびた。しかし,交通の不便な東部の台東平野は19世紀になっても未開拓であった。開拓は墾戸(または大租戸)開拓という形をとって行われた。これは,墾戸とよばれる開拓事業主が官の許可をうけたのち,佃戸(でんこ)とよばれる農民を引きつれて開墾する方法で,墾戸は官に対して租税をおさめるが,他方佃戸からは年貢を徴収する。佃戸は墾戸の支配を受けたが,その身分的隷属関係は比較的稀薄であり,また彼らは草分け農家的性格をもっていたから,新移住者が増加してくると自己の耕作地を他の小作農(現耕佃人)に転貸し,しだいに地主化していった。このため,年貢を分けて,佃戸が墾戸に納めるものを大租,現耕佃人が佃戸に納めるものを小租というようになり,台湾の農村社会は墾戸(大租戸),佃戸(小租戸),現耕佃人の3階層に分化し,このうち佃戸の地位がしだいに向上していった。
行政組織についていうと,台湾は初め福建省に隷属する台湾府として取りあつかわれ,台南にその官衙があった。また1875年(光緒1)には台湾府とは別に台北府が設けられ,さらに85年,福建省から分離独立させて台湾省を設け,劉銘伝を巡撫に任命した。劉銘伝は開明的な官僚で,省城を台北に定めたのち,在任7年の間に基隆・新竹間の鉄道の敷設,郵便制度の改革,土地清賦事業などを遂行した。このうち土地清賦事業は彼が最も力を注いだもので,測量による隠田の整理,大租戸権の否定による官と小租戸(地主)という関係での租税体系の確立がそれであった。
日清戦争の結果,95年台湾は清国から日本に〈割譲〉され,日本の植民地支配が始まる。日本が台湾に対してとった方法は直接統治策であった。枢要な機関はすべて日本人によっておさえられ,その頂点に立つ者が総督である。郡守(郡長),市長も日本人が任命され,下級官吏もほとんど日本人であったし,台湾銀行のような重要な金融機関の行員も大部分が日本人だった。こうした直接統治策をとった日本の台湾支配は,初めの3年,漢族系官・民の激しい武力抵抗にあい,帝国議会では台湾売却論さえ出る始末だった。98年以降約10年間,民政長官後藤新平は第4代総督児玉源太郎のもとで,あめとむちを併用した辣腕政治を行った。〈匪徒刑罰令〉を行使して抗日ゲリラを問答無用で刑死に追い込む一方,地主士紳層には〈饗老典〉(耆老を集め酒宴や菓銭を供与),〈揚文会〉(漢詩を士紳儒者らと吟じる会)を開催し,紳章(一種の勲章)の佩帯をすすめるなどのあめをしゃぶらせて懐柔を試みた。治安の確立と並行しながら,後藤は新渡戸稲造(にとべいなぞう)を殖産局長に迎え,糖業を振興する。植民地開発の進展に伴い,砂糖,ショウノウ,茶は外貨の面で,台湾米は米騒動後の緊急事態に対し,そして木材などの資源は日本資本主義を大いに潤した。〈満州事変〉に始まる15年戦争期には,台湾の〈人的資源〉を侵略体制に組みこみ,皇民化運動を強化しながら,台湾島民を漢族,高山族の別なく戦争に駆りたてた。
なお漢族系武装抗日運動は,ジェノサイド的大弾圧で結着をつけられた西来庵事件(1915)をもって一応は終息した。だが,文化的・社会的そして地下運動の形態をとった中国復帰運動,植民地解放運動は1945年8月15日まで間断なく続いた。日本の台湾支配もまた基本的には分割支配であった。台湾総督府は戸口規則を制定(1905)し,種族欄を設け,〈父ノ種族ニ依リ内地人(日本人),本島人(福建人,広東人,其ノ他ノ漢人,熟蕃人,生蕃人),支那人(中国国籍を保持する漢人)ノ区別ヲ記スベシ……〉(最初と最後の( )内は引用者注)と定め,被支配民族の各個撃破と抗争対立を利用して分割統治を強化遂行した。その典型的で悲劇的な事例は,霧社事件における,警察官が仕組んだ〈味方蕃〉(日本側に懐柔された高山族)の〈敵蕃〉(蜂起した高山族)遺族に対する闇打ち事件(第2次霧社事件)である。台湾は中国の辺境である南海の孤島を全中国から切り離される形で植民地化された特殊性と,すでに成立していた寄生地主制が台湾総督府の土地調査事業による再編で中小地主層が中産階級の核として成長しつつあったことなどが台湾における抵抗運動のユニークさをつくりあげた。第1に〈曲線救台〉,すなわち中国大陸での反帝・反封建革命に参与し,それを成就させて後,台湾解放を目ざす発想と行動様式を生み出した。第2に,中小地主層の存在と中国大陸と陸続きでないことが,台湾の左翼運動の展開をいちじるしく阻んだ。
日本統治下の経済
経済についても日本中心の政策がとられた。日本が台湾に求めたものは米,砂糖,茶,バナナ,ショウノウ,塩などの食料,工業原料であった。とくに米,砂糖の増産には大きな努力がはらわれ,その一環として灌漑施設が整備された。このうち桃園大圳(たいしゆう)は台北盆地の西にひろがる桃園台地に設けられた水路で,これは台北市の南西52km,北流する淡水河が桃園台地によって行く手をさえぎられ,東へ流路を変える石門にダムをつくり,これを台地上に導いて溜池に給水するものである。嘉南大圳は台湾南部を西流する官佃渓上流の烏山頭に高さ55m,長さ1.3kmのダムをつくり,山をへだてた曾文渓の水をトンネルで取り入れるもので,1920年に着工し,30年に完成した。ダム湖は谷にそって樹枝状に広がるので珊瑚潭ともよばれ,現在観光地にもなっている。灌漑施設のほか,品種改良や農法の改善にも努力がはらわれた。米については,日本人の嗜好に適する蓬萊米(ほうらいまい)という新品種が育成された。これは鹿児島県の気候に近い台北市北方の大屯山頂上付近(標高1000m)に最初の種苗田をつくって日本米を育成したのち,これを順次山腹下方の種苗田に移植して台湾の気候になれさせたものである。砂糖でも,原料サトウキビについてはハワイ種とジャワ種とを交配させて優良種をつくったうえ,栽培方法については米,サツマイモ,サトウキビを組み合わせた3年輪作が奨励された。これには輪作によって地力の消耗を防ぐということのほか,米とサトウキビの灌漑必要期の違いに着目して,嘉南大圳の灌漑用水を効果的に利用しようというねらいもあった。すなわち,耕地は150haを標準単位とする給水区に分けられ,これがさらに50ha単位の3小区に細分されたのち,各小区ごとに米,サツマイモ,サトウキビを輪作するのである。
戦後史と近況
日本の敗戦で台湾は中国に復帰した。1947年2月28日,戦後期特有の混乱と当局の失政で二・二八峰起が起こり,当局関係者の報復的弾圧で,本省人を中心とした知識分子と指導者層のかなりの部分が非業の死を遂げた。49年10月1日,中国共産党政権の成立と並行して国民党政府の中央政府は台湾に移り,今なお台湾海峡をはさんで対峙している。国共両政権の対峙とアメリカの台湾海峡情勢に対する軍事介入で,二・二八事件関係の島外〈亡命者〉グループは中華人民共和国への参与派と台湾独立派の両極に分解した。台湾独立派は56年1月に日本で亡命政府を作り,自由主義陣営と社会主義陣営の対立ならびにアメリカを中心とした〈中国封じ込め政策〉の間隙を縫って台湾独立運動を試みる。おもな担い手は福佬系台湾土着ブルジョアジーとその子弟である。彼らはいろいろな台湾民族論,台湾非中国人論を提唱するが,論理自体に無理があり説得力にも欠けていたので運動は遅々として進まなかった。60年代半ば以降,台湾経済が高度成長段階に移り,台湾土着ブルジョアジーの体制内再編成が進展する過程で,第一世代の台湾独立派の指導層のかなりの部分が国府の融和策で帰順するかもしくは運動から離脱した。とくに〈ピンポン外交〉に始まった米中接近,日中国交樹立等で形成された新国際環境への適応にとまどった形跡が濃厚である。他方で〈保釣運動〉(釣魚島すなわち尖閣列島防衛運動)から発展した中国統一運動がアメリカ・カナダの留学生・知識人界を風靡し,台湾独立運動を凌駕せんばかりの勢いを70年代半ばに見せたが,四人組体制の崩壊,文化大革命批判の公然化で挫折し,以後は低潮期にある。
なお台湾の内部では中国共産党の対米・日接近とベトナム戦争の終結に伴って,アメリカによる台湾切り捨てはもはや時間の問題とみる危機意識が資産階級を中心にはびこり,中上層の資金・人間双方の北米向け流出は急を告げるありさまだった。米中の国交樹立(1979末)に伴って,島内民主化運動は一段と激しさをみせ始め,それに呼応するように,60年代以来アメリカに定住し始めてきた台湾独立派の第二世代が,70年代半ば以来,急速に北米に流入定住した台湾人新移民層を基盤に,外省人をも巻き込んだ形で1800万台湾人(台湾に生活・運命共同体としてのアイデンティティを認める台湾在住のあらゆる人々を指していう)の自決をスローガンに掲げるようになる。島内民主化運動陣営内においても,台湾自決派(台湾独立派への指向が濃厚)と大陸との和平統一派の両極分解のきざしがみえはじめた。中国共産党側の重なる和平統一攻勢と島内外の民主化運動ならびに台湾独立運動の突きあげに,国民党政府は中国共産党に対して和平会談を拒絶する代り,三民主義による中国統一のスローガンを掲げ,島内反体制運動には懐柔と弾圧の双方を巧みに展開させながら窮境からの出口を模索していた。
80年代以降,経済発展により中産階級は肥大化し,北米滞在者を中心とする民主化支援運動もまた盛んとなる。島内の矛盾は激化し,当局と反体制側の抗争もまた様相を新たにする。反体制陣営は長年のタブーに挑戦して野党=民主進歩党(民進党)を結成(1986年9月28日)したが,当局はこれを黙認したばかりか,翌年7月15日の零時を期して世界一長い戒厳令を解除した。同年11月1日には中国大陸への親族訪問を解禁し,88年1月1日には〈報禁〉(新聞の創刊と増ページの制限令)を解除した。結社と言論の自由化と中・台間の往来を徐々に緩和していくことで体制側からの〈ガス抜き〉がタイムリーに進められたと言ってよい。上からの民主化を試みた蔣経国総統は88年1月13日に死去したため,憲法の規定にもとづいて副総統李登輝が台湾人として史上最初の総統と国民党の党主席代行にそれぞれ就任した。李は国民代表大会の間接選挙を経て90年5月20日に総統職の続投をする。李総統は96年3月には自ら立候補して総統の直接選挙を戦い,再選された。
李登輝国民党内の異分子が飛び出して新党を結成し(93年8月),次いで民進党の〈台湾独立建国〉を原理主義的に主張するグループが台湾独立系の業者と組んで新たに〈建国党〉を結党(96年10月)した。
2000年の総統選挙では野党,民進党の陳水扁が国民党の候補を破って当選し,04年再選された。08年3月の総統選挙では国民党の馬英九が当選し,8年ぶりに国民党が政権に復帰した。12年1月,馬英九は再選を果たした。
戦後の経済復興
最後に台湾の戦後復興をいちべつしておこう。復帰後の台湾では,農地改革が行われ,工業化が進んでいる。農地改革としては〈三七五減租〉〈公地放領〉が行われた。〈三七五減租〉とは小作料を1000分の375(37.5%)におさえることであり,〈公地放領〉とは台湾総督府,日本企業,日本人の所有していた土地を接収して公地とし,これを土地を所有しない農民に払い下げることをいう。その結果,小作農は36%から10%に減少し,自作農は38%から78%に増加した。農産物にも変化が起こった。砂糖生産は国際市場でフィリピンや中南米の追い上げをうけて減少したが,ジャガイモ,タマネギ,アスパラガス,豆類などの蔬菜類生産は日本を市場とする商品作物として発展した。ウーロン茶,バナナ,パイナップルなど日本領時代に発展した作物の生産も多い。工業の発達はとくに顕著である。現在,台湾の経済は農業中心から工業中心に移り重化学工業よりも台湾の特性を生かしたハイテク産業への傾斜がいちじるしい。輸出貿易においても工業製品の占める割合が90%に達している。
幹線交通機関としては,基隆市から高雄市にいたる縦貫鉄道と高速道路のほか,中央山脈を横断して台中市と花市を結ぶ東西横貫公路がある。航空路は台北空港を中心に島内各地との間に開かれている。台北市郊外にある桃園空港は国際空港である。
台湾経済は最近21年間(1975-96)に平均8.15%の高度成長を遂げた。台湾のGNPは2636億ドル,世界210の経済体で第19位,アジアでは同じく第5位を占める。なお国民1人当りGNPは1万2439ドルで世界第26位を占めた(1995)。とくに世界の注目をうけているのは半導体産業の躍進と中・台経済関係の展開である。大陸訪問を87年に自由化して以来96年度までに台湾地区から大陸地区に赴いた者は累計で,のべ1000万人を超える。なお香港経由の中・台間移出入貿易の総額は178億ドル(1995)を超え,うち台湾からの移出が131億ドルを占める。台湾から大陸への投資も活発で91-96年の許可件数が1万1637件,金額にして68億7000万ドル(台湾側発表)に及ぶ。
→中華民国
台湾先史時代
更新世において,台湾は大陸の華南地方とは,幾度かにわたって連続したと考えられる。その間に華南の動物群の台湾への遷移があった。人類の移動の証跡もあるはずであるが,ウルム氷期終末期におさえられているにすぎない。台東県長浜郷八仙洞の発掘調査によって明らかにされたチョッパーと剝片石器群がそれで,これを長浜文化とよぶ。炭素14法によると1万5000年前から5000年前に及ぶ時期としておさえられている。形質人類学の資料としては,台南県左鎮郷菜寮渓河床から3万~2万年前に属する人類の頭蓋骨片が発見されている。更新世が終わって,台湾が孤島化した後,出現した最早の文化は縄文陶文化である。縄文陶は粗縄文陶と細縄文陶がある。前者が古層に属している。それらは発達した磨製石器を伴う。長浜文化との関連は考えられない。この古層の文化は大坌坑(だいふんこう)文化とよばれている。大坌坑文化以後に,北部において登場するのは,有肩石斧,有段石(せきほん)を含む多様の石器技術を伴う円山文化である。この文化には磨製石庖丁を伴わない。その石器の組成から見るなら,福建省西辺から広東省沿海地域にかけての石器技術に近似している。この円山文化は前期の円山期,印文軟陶を伴う後期の植物園期に分けられる。その後,台湾西海岸中・南部には紅陶文化が登場,ひきつづき黒陶と灰陶を伴う文化が展開する。この西海岸中・南部に登場展開する文化を張光直は竜山形成期文化とよび,紅陶文化には,青崗文化(青崗遺跡)に類似するところがあり,中部の灰陶・黒陶文化は良渚(りようしよ)文化(良渚鎮遺跡)に比較されうるものがあると述べている。また南部の灰陶・黒陶文化は閩江(びんこう)の曇石山文化と一源的文化であると説いている。近年台北盆地に発見された芝山巌文化には少量の黒陶も伴出するほかに,曇石山出土彩陶に近似した黒彩の彩陶を伴っている。竜山形成期文化は大陸から幾波かの波として台湾に登場したと思われる。この文化には磨製の石庖丁が発達,まれには石鎌を伴う例もある。この文化は稲と粟の穀作をもったことが考えられる。
台湾西海岸各地には紀元前後から鉄器が導入される。土器としては幾何形印文をもつ黒色陶,櫛目文あるいは圏点文をもつ灰陶を伴う。一般に火度は高くなる。その幾何形印文陶は華南沿海地方の幾何形印文陶と酷似している(印文土器)。台湾南部の恒春半島から東海岸にかけて,巨石を用いる2系の文化がある。恒春半島から台東平野にかけて,板岩の組合せ石棺,板岩の石柱,石杵等を伴う遺跡が分布,海岸山脈の東縁に岩棺,石像,石製円盤等を伴う遺跡が分布する。前者はアミ族の文化に関連をもつと見られる。台湾東岸南部の沖に位置する蘭嶼(らんしよ)の住民とその文化はバシー海峡のバタン島,イトバヤット島等から渡来したことがわかっている。西海岸北部の印文陶の末流はケタガラン族の文化に伝えられている。西海岸南部の先史時代末期は赤褐色素面含砂陶の時代で,この文化は漢族入植の時期まで持続する。
台湾音楽
高山族と漢民族の音楽に二大別できる。高山族の音楽は多彩で,声楽は和音,カノン,平行,変奏曲,ドローン,ファルセット,対位法,応答などの基本唱法の原始形態を有している。しかしすべての種族がこれを所有しているのではなく,種族によってはかなり簡単な構造による音階の歌もある。器楽の方は独奏が多く楽器は口琴,弓琴,ノーズ・フルート等でおもに若い男女の求愛用として使われる。この他縦笛,杵(しよ),鈴類がある。かつては彼らの生活に密着していたが,近年に至ってはテレビ,ラジオ,音響設備等の普及によって音楽遺産も急激に失われつつあり,流行歌やエレキギターがこれにとって替わった。
漢民族の伝統音楽は,台湾では国楽といい,民謡,劇楽,器楽,宗教音楽など多彩である。民謡は〈福佬系〉と〈客家系〉とがあり,後者の方が数も多く変化に富んでいる。両者ともに七言一句,合計4句の歌詞をもつ構造の歌が多い。劇楽は大陸より移入した京劇のほか,台湾の劇としては北管戯と歌仔戯とがある。北管戯は清朝時代に大陸より導入されたもので,歌詞は北京官話調なので北方系の言葉を解しない台湾の人達には理解されにくくしだいに民衆から遠ざかった。一方,平易な台湾語を使い,演目も一般民衆の趣向に迎合した芝居である歌仔戯が生まれ,今日の地方戯を支配するにいたった。そのほか牛犂陣(ぎゆうりじん),車鼓陣,鑼鼓陣等の道教の祭りの行列のときに数人で演ずる雑伎が南部の農村に行われている。器楽には南管という弦楽器を主体とした優雅な合奏と北管といわれシャーナイ(スルナイ)や胡弓を主楽器とする豪放な合奏が代表的である(両者共に純粋器楽合奏曲と歌唱入りの器楽曲とがある)。その他おもに慶弔時に使われる八音や娯楽用として演奏される十音,十三音がある。宗教音楽には仏教,儒教,道教の音楽がある。仏教の音楽は梵唄といわれ,うたい方は旋律的である。儒教の音楽は孔子廟の祭りの音楽で編鐘,編磬(へんけい),柷(しゆく),敔(ぎよ),篪(ち)等の中国古代の楽器で奏される。道教の音楽はおもに道士または師公とよばれる司祭者によって行われ,おもに建醮(けんしよう)とよばれる祭儀や葬儀等に使われる。台湾の伝統音楽の最も大きい特色は,民謡がやや例外であるほかは,ほとんどの音楽が道教を中心に動き,結びついていることである。
これらの音楽は従来農村や漁村等の人達によって支えられ,知識階級から分離していた。しかし近年郷土文学,郷土芸術等とともに伝統音楽の復興が叫ばれ,知識人や若者の共鳴を得,かなり関心をもたれるようになってきた。また近年各大学の学生や若者を中心に挍園民歌と称するフォークソングが流行しブームを引き起こしている。