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日中国交回復(日中共同声明)

ジャパンナレッジで閲覧できる『日中国交回復(日中共同声明)』の世界大百科事典・日本大百科全書のサンプルページ

世界大百科事典

日中国交回復
にっちゅうこっこうかいふく

中華人民共和国が成立したのは1949年であるが,日本が中国と正常な国交関係を樹立したのは72年の日中共同声明においてであった。新しい中国が誕生してから23年目の国交樹立であり,日本は79番目の中国承認国となった。日中国交回復が遅れていたのは,日本がそれまで台湾の中華民国政府を中国の正統政府と認める立場をとっていたからである。1951年12月,サンフランシスコ講和会議(9月)の後に,自由党の吉田茂総裁はアメリカのダレス国務長官あてに書簡を送り中華民国と講和条約を結ぶ意志を表明した。その結果,52年4月,日米安保条約発効と同時に日華平和条約が調印され,日本と中国本土にある中華人民共和国政府との関係は〈不正常な状態〉のままにおかれることになった。

 日ソ国交回復(1956年10月)のあと,日中国交回復が日本政府にとって主要な外交課題の一つとなったが,歴代の官僚出身首相はこの課題に十分に取り組めなかった。1972年に自民党総裁となった田中角栄は,日中国交回復を派閥連合の主要な柱としていた。田中は組閣直後,公明党を橋渡し役にしたうえで訪中,日中共同声明に調印した(9月29日)。調印後,直ちに大平正芳外相は日華平和条約の消滅を公にした。超党派の議員による友好の動きの積み重ねがあり,LT貿易(1962年11月,中国の廖承志(L)と日本の高碕達之助(T)の間で結ばれた〈日中総合貿易に関する覚書〉にもとづいた貿易)と呼ばれた準政府間的民間協定が成立するなど,日本と中国の関係史の重みが自民党内派閥抗争に作用して,田中内閣に国交回復を決断させたとみられる。日中国交回復は日本にとってはニクソン米大統領の訪中に追随するものであり,中国にとっては毛沢東の〈三つの世界論〉の方針にのっとったものであった。それは従来の欧米一括の世界観を改め,米ソ両超大国と,その支配・干渉下におかれているアジア,アフリカ,ラテン・アメリカの第1中間地帯,ヨーロッパ,日本などの第2中間地帯の三つに世界を区分し,中間地帯諸国は両超大国に対する抵抗を行っているというのが要旨である。しかも毛沢東らの認識は〈力の衰えた帝国〉アメリカよりも,〈力を伸ばしつつある帝国〉ソ連のほうが現状では危険であるというものであった。

 日中共同声明は,前文で〈戦争状態の終結と日中国交の正常化〉をうたい,日本側はとくに〈過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し,深く反省する〉との態度表明を行った。また,共同声明の第2項と第3項は,中華人民共和国が中国の正統派政府であることと,台湾が中華人民共和国に帰属することを認めた。この共同声明によって,日中両国の間に,大使館の設置と大使の交換による外交関係の樹立がなされるにいたった。中国側は戦争賠償の請求の放棄を明らかにした。日中共同声明発表後,両国政府は平和友好条約の締結を目的とする交渉を開始したが,交渉は難航し,日中平和友好条約が調印されたのは1978年8月である。平和条約の調印が遅延したのは〈覇権〉問題のためであった。日中共同声明の第7項は〈覇権〉否認を規定していた。中国は,この〈覇権〉規定を中ソ対立に関連させ,ソ連に対抗する米・中・日のブロック体制を築こうとする意図をみせた。日本政府がそれを拒否したため,平和条約の調印には,共同声明の発表後,6年の時日を要した。ただし,日中航空協定は2年後の1974年4月に調印されている。
[高橋 彦博]

[索引語]
日中共同声明 LT貿易 三つの世界論 日中平和友好条約 日中航空協定


日本大百科全書(ニッポニカ)

日中共同声明
にっちゅうきょうどうせいめい

1972年(昭和47)9月29日、わが国の田中角栄首相・大平正芳 (まさよし)外相と、中国の周恩来 (しゅうおんらい)首相・姫鵬飛 (きほうひ)外相との間で、それまで行われた意見交換の結果として、両国政府によって発出された「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」。これによって台湾との間の「日台平和条約」は終了し、わが国は中華人民共和国政府と国交を樹立することになった。声明は、「三つの思想」から構成される前文と9項目の本文とからなり、両国国民の願望、戦争の反省、国交正常化、中国政府の唯一合法性の承認、台湾が中国の一部であることの尊重、外交関係の樹立、戦争賠償の放棄、平和五原則と国連憲章の原則の確認、覇権主義に対する反対、平和友好条約の締結のための交渉の合意、貿易・海運・航空・漁業等の諸実務協定の締結のための交渉の合意を内容とする。声明の当夜、「台湾政府」は日本との外交断絶を宣言し、日本の対中国関係は新段階に入った。

[石本泰雄]

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