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  11. 征韓論
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
征韓論問題
せいかんろんもんだい
いわゆる「明治六年(一八七三)十月の政変」をひきおこした外交政策論争。明治政府は成立早々の明治元年十二月(一八六九年一月)対馬藩主宗義達に命じて王政復古を朝鮮政府に通告させたが朝鮮政府は釜山で宗氏の家臣に対し、日本からの国書には日本天皇が朝鮮国王より名分論的に上位にあることを示す「皇室」「奉勅」などの字句を含み新印を使用するなど従来の日本朝鮮間の外交文書交換の旧例に反するという理由で受理を拒絶した。明治維新前は日本の外交権を代表する大君(徳川将軍)と朝鮮国王は対馬藩主を通じて彼比対等の礼をとり交隣の関係と称してきた。そこに外臣として事大の関係にある清国皇帝の使用する字句である「皇」「勅」などを含む国書の送達をうけたので朝鮮側としては受理し得なかったのである。しかし、日本では国学の盛行とともに古代の史書にみえる日本の朝鮮支配の記述をそのまま事実と考えて朝鮮を蔑視する傾向があらわれ、幕末に近づくとともに日本が欧米諸国の圧迫によって失ったものを朝鮮侵略により補うべしという議論があらわれた。対馬藩の家老大島友之允(正朝、老中板倉勝静につかえた)は儒者山田方谷から説かれた征韓論を祖述して長州藩の桂小五郎(木戸孝允)に対馬を中心とする日朝提携論を入説した。大島と桂はさらにこれを軍艦奉行並勝義邦(海舟)に献策した。勝は欧米勢力に対抗する日清韓三国の連合を構想し軍艦に乗じて朝鮮に渡ることを企図していたが免職により挫折した。これら幕末期の朝鮮政策は戊辰戦争直後の木戸孝允や大村益次郎に強い影響を与えた。かれらは戊辰戦争に動員された将士を朝鮮侵略に転用するとともに国民の眼を外にそらしたいと考えていた。ここに朝鮮の国書受理拒否という事態が発生したので征韓論が燃えあがったのである。そこで政府は朝鮮交渉事務を宗家から接収し、外務省出仕佐田白茅(素一郎)・外務少録森山茂を釜山に派遣した。両人は朝鮮の国情を視察して帰国すると明治三年(一八七〇年四月)に外務卿沢宣嘉に三十大隊を出兵すれば朝鮮を征服できると建議した。これに対し、政府部内には日清対等の条約を締結すれば清国皇帝に外臣としての礼をとる朝鮮は日本の国書を拒否できないから日清条約の締結を先行させるべきだとの議論があらわれ、清国に外務大丞花房義質が派遣され交渉にあたった。清国は原則的に条約締結に同意したので、日本政府は伊達宗城を派遣、日清対等の日清修好条規の締結に成功した。しかし、日本側の期待にもかかわらず朝鮮側は草梁倭館への食糧供給を拒絶し倭館の門前に日本を無法の国と侮辱した書札を掲示した。これが日本政府に伝えられると、岩倉具視大使以下の政府首脳が遣欧中であった留守政府の板垣退助参議は朝鮮に出兵して居留民を保護せよと主張した。しかし筆頭参議の西郷隆盛はまず大使を特派して朝鮮政府と直接交渉することを提案した。太政大臣三条実美は朝鮮出兵と特使派遣を含む原案を太政官に提出したが、西郷は即時出兵に同意せず特使にみずから任ずることを前提に特使派遣による交渉を強く主張した。これを板垣が支持し大木喬任・後藤象二郎・江藤新平も賛同した。折から外交の主務者である外務卿副島種臣が清国出張中であったので副島の帰国を待って裁定することにした。明治六年七月副島が帰国して清韓宗属関係についても朝鮮自主の保証を清国から得たとして遣韓大使の派遣に賛成したが大使にはみずからあたることを要望した。同年八月十七日、西郷の要望により三条太政大臣の私邸で催された閣議の席上、西郷の遣韓大使任命が内決されたが、事重大に属するので岩倉大使の帰国を待って熟議することとし、翌日上奏裁可を得て三条はその旨を西郷に伝え、問題は一時延期のかたちとなった。九月二十三日岩倉は帰国復命した。副使大久保利通はすでに同年六月に帰国し木戸孝允副使も七月に帰国していたが閉居して八月の閣議にも参加していなかった。岩倉大使帰国後も西郷派遣は延引されていたが大久保が岩倉から遣使延期方針の内約を得て十月十二日参議に就任、均衡上から副島外務卿も参議兼任となり、ようやく十月十四・十五両日の閣議でこの問題が討議された。西郷は八月十七日の閣議決定のとおり遣韓大使任命を即決するよう主張したが、岩倉・大久保らは内政改革・国力充実を急務として出兵を予想した大使派遣に反対し、決定に至らなかった。両派の板ばさみになった三条は煩悶の極、発病し、十月二十日岩倉に太政大臣代行の勅命が下ると岩倉は樺太問題が急務であるという趣旨を上奏し、二十四日遣使中止の上諭が下った。すでに西郷は二十三日辞表を提出して東京を離れていたが、二十四日板垣、副島・江藤ら遣韓大使派遣論の参議は一斉に下野し、近衛の将士の辞職も相ついだ。これが明治六年の政変であり、翌年の佐賀の乱、台湾出兵をはじめその後の政局に大きな影響を与えた。
[参考文献]
毛利敏彦『明治六年政変の研究』、煙山専太郎『征韓論実相』、田保橋潔『近代日鮮関係の研究』上
(藤村 道生)


日本大百科全書
征韓論
せいかんろん

明治の初め日本政府の内外で展開された朝鮮侵略の主張。豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮侵略の失敗後、徳川幕府は朝鮮との修交に努めたが、江戸時代中期以降、儒学、国学の学者たちの間で朝鮮侮蔑(ぶべつ)の傾向がしだいに強まり、欧米諸国の圧迫を受けた幕末には、その圧迫による損失を朝鮮を攻めて補うべしという議論も台頭してきた。こうした議論の主唱者たちは、また『日本書紀』の記述をそのまま歴史的事実とし、古代にも日本は朝鮮を支配していたと考え、その「復活」を目ざした。明治政府が成立すると、征韓論はただ希望的な議論にとどまらず、政府の直面した内外の政治的、経済的状況を背景に、政府の対外政策の根幹の一つとなった。まだ戊辰(ぼしん)戦争も終わらない1868年(明治1)12月から翌春にかけて、朝鮮との国交交渉も緒につかず、したがって朝鮮の「無礼」はもとより、征韓の口実となることは、朝鮮側からはなにひとつ起こっていないにもかかわらず、早くも岩倉具視(ともみ)や木戸孝允(たかよし)ら政府首脳らによって朝鮮侵略が画策された。彼らは幕末の征韓論を思想的に受け継ぎ、そのうえに新政権成立後の士族の不満を外に向け、かつ朝鮮を侵略することによって、政治的、経済的、心理的な諸方面で、欧米諸国による圧迫の代償を得ようとしたのであった。当時、朝鮮では国王高宗の父、李〓応(りかおう)が大院君として政治の実権を握り、対外政策では欧米諸国の侵入に激しく反対し、日本も同じく「洋賊」であるとして、国交を開くことに強く反対していた。そこで西郷隆盛(たかもり)らは、岩倉らが欧米に派遣されている間に、朝鮮への使節の派遣を強硬に主張し、自らその使節となり、事態の打開を計ることを主張した。1873年のことである。しかし、岩倉や木戸、大久保利通(としみち)らが同年秋に帰国すると、彼らは内治の先決を唱えて西郷らと対立、西郷ら征韓派の参議は政府を去った。しかし大久保らも朝鮮侵略に反対ではなかった。翌年台湾に出兵し、75年には日本軍艦を派遣して江華島(こうかとう)事件を挑発し、それを契機に76年には、朝鮮に一方的に不利な不平等条約である日朝修好条規(江華条約)を押し付け、朝鮮侵略に突破口を開いた。これ以後、政治的、経済的に日本の朝鮮侵略は年とともに強まり、日本人の思想のなかに征韓論的発想はますます増幅され、客観的に朝鮮をみる目が失われ、その後遺症は現在まで尾を引いている。
[中塚 明]



改訂新版・世界大百科事典
征韓論
せいかんろん

幕末・明治初年の朝鮮侵略論をいい,とくに明治6年(1873)10月の政変の原因がいわゆる征韓論争にあったことから,一般にはこのときの対朝鮮論をさすことが多い。幕末期の征韓論は佐藤信淵や吉田松陰などにみられるが,大島正朝(友之允,対馬藩)や木戸孝允(桂小五郎,長州藩)などの主張を経て,一方では勝海舟(義邦,幕臣)の欧米勢力に対する日清韓3国の提携構想となり,他方では戊辰戦争直後の木戸や大村益次郎(蔵六,長州藩)らの軍事出兵を背景とする征韓論となる。おりしも明治新政府の国書の形式からする朝鮮側の受理拒否問題から端を発し,1869年(明治2)から翌70年にかけては,外務省派遣の佐田白茅(素一郎)や森山茂らの対韓出兵論,あるいは柳原前光(さきみつ)(外務大丞)の対朝鮮積極論などが出され,これに対しては賛否両論があった。この場合,征韓論は日本の国家統一とからんで発想されていることは注目してよい。

 明治政府は1872年5月,これまでの対馬と朝鮮との関係を絶ち,対朝鮮交渉は外務省の専管とし,ついで8月,外務大丞花房義質(よしもと)らを釜山草梁館に派遣して折衝させたが,不調に終わった。翌73年に入り,朝鮮側の排外鎖国政策は〈洋夷〉への反感と相まって高まり,日本との修交を依然がえんじなかった。かくして三条実美太政大臣は閣議に対朝鮮問題を論じた議案を付し,そのなかで〈今日ノ如キ侮慢軽蔑之至ニ立到リ候テハ,第一朝威ニ関シ国辱ニ係リ,最早此儘閣(お)キ難ク,断然出師之御処分之(これ)無クテハ相成ラザル事ニ候〉(一部読下し)といい,当面,陸海の兵を送って韓国の日本人居留民を保護し,使節を派して〈公理公道〉を朝鮮政府に説くことを提議した。参議西郷隆盛は即時出兵には同意せず,使節にみずからがなろうとし,板垣退助,後藤象二郎,江藤新平,大隈重信,大木喬任の諸参議が賛同していったん内定はしたものの,正式決定は岩倉使節団の帰国をまつこととした。しかし使節団帰国後もこの遣使問題は延引され,大久保利通と副島種臣の参議就任をまって賛否両論がたたかわされた。岩倉具視や大久保,木戸らは強硬にこれに反対し,その結果,三条に代わって閣議をリードした岩倉のもと,大久保,木戸に大隈,大木も同調し,10月24日西郷の遣韓使節は中止が決定された。西郷,板垣,後藤,江藤,副島はいっせいに下野した。いわゆる征韓論分裂であり,明治6年10月の政変といわれるものである。

 この征韓派と非征韓派の対立を,異質の政治勢力(その程度の差で諸説は分かれる)とみるか,同質の政治勢力の対抗ないし政府主導権の争いとみるかで多くの見解が出されており,また,西郷はあくまで交渉による朝鮮との修交を求めたもので,これまでの彼の征韓論者的イメージを否定する意見も出されている。この征韓論争に勝利し,大久保を中心として固められた大久保政権は1874年には台湾に出兵し,翌75年には江華島事件を引き起こし,朝鮮に対し軍事力を行使した。征韓論争の内実は,こうしたその後の日本の対朝鮮行動と合わせ総体的にとらえなければならない。また,この征韓論が近代日本の対アジア観の原点であり,その延長線上に近代日本の大陸侵略政策があったことも留意しなければならない。
[田中 彰]

[索引語]
三条実美 明治6年10月の政変
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1. 征韓論
日本大百科全書
そのまま歴史的事実とし、古代にも日本は朝鮮を支配していたと考え、その「復活」を目ざした。明治政府が成立すると、征韓論はただ希望的な議論にとどまらず、政府の直面し ...
2. 征韓論
世界大百科事典
いい,とくに明治6年(1873)10月の政変の原因がいわゆる征韓論争にあったことから,一般にはこのときの対朝鮮論をさすことが多い。幕末期の征韓論は佐藤信淵や吉田 ...
3. せいかん‐ろん【征韓論】
日本国語大辞典
*新聞雑誌‐明治七年〔1874〕二月八日「佐賀県士族或る寺に集り征韓論を唱へ」*思出の記〔1900〜01〕〈徳富蘆花〉一・三「明治六年征韓論破裂以来、世の中兎角 ...
4. せいかんろんもんだい【征韓論問題】
国史大辞典
あらわれた。対馬藩の家老大島友之允(正朝、老中板倉勝静につかえた)は儒者山田方谷から説かれた征韓論を祖述して長州藩の桂小五郎(木戸孝允)に対馬を中心とする日朝提 ...
5. 愛国公党
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(1)1874年(明治7)1月12日結成された自由民権政治結社。征韓論に敗れて下野した前参議の板垣退助(たいすけ)、後藤象二郎(しょうじろう)、副島種臣(そえじ ...
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世界大百科事典
明治時代の政治結社。2度結成された。(1)自由民権政社。征韓論に敗れて下野した前参議板垣退助,後藤象二郎,副島種臣,江藤新平や政府高官の由利公正,岡本健三郎,小 ...
7. 赤坂喰違の変
日本大百科全書
右大臣岩倉具視(ともみ)が征韓派の不平士族に襲撃された事件。前年10月、征韓論争によって明治政府内部が分裂した結果、敗退した征韓論者は対立した内治派を恨んだ。当 ...
8. あかさかくいちがいのへん【赤坂〓違の変】
国史大辞典
明治七年(一八七四)一月十四日夜、東京赤坂喰違見附で右大臣岩倉具視が襲撃され、負傷した事件。前年十月二十四日、征韓論が破裂し、征韓派の参議西郷隆盛・板垣退助らは ...
9. 秋月の乱
日本大百科全書
主張して自害し、今村ら50~60名はなおも秋月地方に転戦し、多くは捕らえられた。1873年(明治6)の征韓論争の破裂(明治六年の政変)以後、有司(ゆうし)専制に ...
10. あさくら-なおたけ【朝倉尚武】
日本人名大辞典
戊辰(ぼしん)戦争で佐賀藩軍監付き,ついで小隊長として東北各地を転戦。のち東京でまなび,明治4年帰郷。征韓論争が決裂すると佐賀征韓党を組織し,政府軍とたたかって ...
11. アジアしゅぎ【アジア主義】
国史大辞典
進めながら、アジア連帯への契機を欠落させて行った。民権論者と国権論者のアジア主義の源流が、ともに征韓論者西郷隆盛の西南戦争の挙に求められることは重要である。つま ...
12. アメリカ彦蔵自伝 2 209ページ
東洋文庫
視〕が城から家にかえる途中、その生命を狙われた。岩倉は重傷を負ったが、幸運にも助かった。その征韓論や台湾急襲への反対が、向う見ずで不満をいだき、覇気あふれる南国 ...
13. アメリカ彦蔵自伝 2 210ページ
東洋文庫
殺害した台湾人たちに有効の手段をとるため、外征の装備をととのえた。 注   いわゆる佐賀の乱は、征韓論に敗れて    下野した江藤新平(もと参議、司法卿)    ...
14. アメリカ彦蔵自伝 2 248ページ
東洋文庫
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15. アメリカ彦蔵自伝 2 288ページ
東洋文庫
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16. ありま-とうた【有馬藤太】
日本人名大辞典
薩摩(さつま)鹿児島藩士。戊辰(ぼしん)戦争に従軍,近藤勇をくだすなど功をたて,東京府参事となる。のち征韓論に敗れた西郷隆盛にしたがい辞職,西南戦争で投獄される ...
17. いけだ-おうすけ【池田応助】
日本人名大辞典
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18. い‐し[ヰ‥]【遺士】
日本国語大辞典
〔名〕先代の王朝や主家などの滅亡後、生き残っている士。*穏健なる自由思想家〔1910〕〈魚住折蘆〉「征韓論者の暴動が寧ろ明治政府に不満なる旧幕の遺士に依て助けら ...
19. 板垣退助
日本大百科全書
の大参事として藩政改革を行い、1871年新政府の参議に任ぜられる。1873年10月に西郷らと征韓論を主張して敗れて参議を辞した。1874年1月には後藤象二郎らと ...
20. 板垣退助
世界大百科事典
津攻略を指揮した。維新後は藩の大参事を経て,71年(明治4)新政府の参議に就任。73年10月征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。翌年1 ...
21. いたがき‐たいすけ【板垣退助】
日本国語大辞典
政治家。旧姓、乾(いぬい)。土佐藩出身。幕末、討幕運動を推進。維新後、参議となったが征韓論を主張して辞職。愛国公党を結成して民選議院設立建白書を提出する。以後自 ...
22. いたがき-たいすけ【板垣退助】
日本人名大辞典
まれ。土佐高知藩士。戊辰(ぼしん)戦争で総督府参謀をつとめ,明治4年新政府の参議となる。6年征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。翌年民 ...
23. 板垣退助[文献目録]
日本人物文献目録
父板垣退助伯』和田三郎『西郷南洲と予との関係』板垣退助『自由伯と吐雲博士の印象』田中貢太郎『征韓論と板垣伯』秋山弥助『政党史の一節 板垣洋行問題』尾佐竹猛『大政 ...
24. 伊藤博文
日本大百科全書
その間に大久保利通(おおくぼとしみち)の信任を得ることになった。1873年帰国後の政局で大問題となった征韓論争には、大久保、木戸孝允(きどたかよし)を支持して征 ...
25. 伊藤博文
世界大百科事典
張(岩倉使節団),その間に同行した大久保利通の信任をえた。73年帰国,政府内で問題化していた征韓論争では岩倉・大久保らを支持して征韓派を退け,その後の政府改造に ...
26. いとうひろぶみ【伊藤博文】
国史大辞典
権副使として加わり、二年にわたる欧米視察において注目すべき活躍を示した。同六年帰朝後、政府の征韓論争に直面した彼は、終始内治の整備・近代化優先の立場において非征 ...
27. いわくらけんがいしせつ【岩倉遣外使節】
国史大辞典
大使節団が欧米の進歩を目のあたりに見たことは、一つの大きな収穫であった。使節が帰国したころ留守内閣では征韓論が沸騰していた。これを抑えたのは使節団の首脳部であり ...
28. 岩倉具視
日本大百科全書
引率して外国を巡回し、1873年に帰国した。その直後、西郷隆盛(さいごうたかもり)らが主張した征韓論に対して、岩倉は大久保利通(おおくぼとしみち)らと組んでそれ ...
29. 岩倉具視
世界大百科事典
倉使節団)。帰国後,73年のいわゆる征韓論に対しては,大久保,木戸らと反対し,明治6年10月の政変の結果,大久保政権が実現した。74年,赤坂喰違坂で征韓論支持者 ...
30. いわくら‐ともみ【岩倉具視】
日本国語大辞典
討幕運動に加わって、維新後、副総裁、右大臣となり、特命全権大使として政府首脳を率い渡欧。また、征韓論に反対し、欽定(きんてい)憲法の制定を主唱した。文政八〜明治 ...
31. いわくらともみ【岩倉具視】
国史大辞典
きをなした。十一月、特命全権大使として欧米各国に赴き条約改正の予備交渉を行い、六年帰朝すると征韓論争で政府が分裂、三条太政大臣の病中その代理となり、非征韓派の大 ...
32. いわくら-ともみ【岩倉具視】
日本人名大辞典
。明治4年特命全権大使となり欧米各国を歴訪。帰国後,三条実美(さねとみ)太政大臣の代理として征韓論をしりぞける。自由民権運動の高まりに抗して,欽定(きんてい)憲 ...
33. 岩倉具視[文献目録]
日本人物文献目録
岩倉具視』羽倉敬尚『明治初期における祭政の問題 岩倉具視を中心として』吉田久一『明治初期における大陸外交 初期征韓論をめぐる木戸と岩倉』小林克己『明治四年岩倉全 ...
34. 右翼
日本大百科全書
いわれた頭山満(とうやまみつる)(1855―1944)は、西郷隆盛(たかもり)が征韓論に敗れて下野するや、征韓論派と気脈を通じて維新の新政府を非難し、朝鮮討伐の ...
35. うよくうんどう【右翼運動】
国史大辞典
通じて右翼運動の最高指導者であったことと、さらに次のことに示されている。すなわち、明治六年に西郷隆盛らが征韓論に敗れて下野すると、これに憤激した福岡の「人参畑の ...
36. 江藤新平
日本大百科全書
1873年参議に任ぜられたが、西郷隆盛(さいごうたかもり)、板垣退助(いたがきたいすけ)らと征韓論を主張して敗れ、10月下野した。翌年1月の民撰(みんせん)議院 ...
37. 江藤新平
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法を直訳した《民法草案》など民法編集事業を推進した。73年参議となり,西郷隆盛,板垣退助らと征韓論を唱え,敗れて辞職。74年1月板垣らと民撰議院設立建白を政府に ...
38. えとう‐しんぺい【江藤新平】
日本国語大辞典
佐賀藩出身。尊王攘夷運動に参加。維新後、司法卿として司法制度の確立に努める。参議となり、西郷隆盛らと征韓論を唱えたが、敗れて辞職し、民撰議院設立の建白に携わる。 ...
39. えとうしんぺい【江藤新平】
国史大辞典
完成、四月司法省を去り参議となった。司法省時代、井上馨・山県有朋などと対立があった。六年十月征韓論争に破れて下野し、翌年一月民撰議院設立建白に署名。帰郷後、二月 ...
40. えとう-しんぺい【江藤新平】
日本人名大辞典
維新後新政府の文部大輔をへて明治5年司法卿となり,司法権の独立,司法制度の整備につくす。6年参議。征韓論がいれられず辞職。7年佐賀で挙兵し,敗れて4月13日処刑 ...
41. 海老原穆
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75年3月集思社を設立して《評論新聞》を創刊,小松原英太郎,末広鉄腸,宮崎八郎らを客員として征韓論と民権論を激越に唱えた。76年7月発禁処分にあうと《中外評論》 ...
42. 大木喬任
世界大百科事典
卿となり近代教育制度の基礎を築いた学制の発布に尽力し,また教部卿を兼任した。73年参議となり征韓論に反対し,大久保利通政権では参議兼司法卿として活躍,76年の萩 ...
43. おおくぼせいけん【大久保政権】
国史大辞典
明治六年(一八七三)の征韓論による政府分裂によって、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣が参議を辞職して下野し、その後の政府は岩倉具視・大久保利 ...
44. 大久保利通
日本大百科全書
受けた。 約1か年半余りの外遊から帰国した利通は、その対外経験から、国力充実の必要を説き、西郷らの征韓論を退け、彼らを下野させたのち、内政担当の中央官庁である内 ...
45. おおくぼとしみち【大久保利通】
国史大辞典
箔をつけた。六年五月一行に先立って帰国したが、折から政府内では、参議西郷隆盛・同板垣退助らの征韓論が支配し、西郷を遣韓大使とする案が実現の寸前にあった。利通は内 ...
46. おおくぼ-としみち【大久保利通】
日本人名大辞典
奉還,廃藩置県をおこなう。明治4年大蔵卿となり,岩倉遣外使節団副使。6年参議となり西郷隆盛の征韓論をしりぞけ,同年内務卿を兼任。佐賀の乱,神風連の乱,西南戦争な ...
47. 大久保利通[文献目録]
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久保利通』矢部新作『近代政治家伝 大久保利通』阿部真之助『大久保利通公之伝』-『大久保利通と征韓論』石光真人『大久保利通における「日本相固〆論」』池田清『大久保 ...
48. 大隈重信
日本大百科全書
この間、岩倉具視(いわくらともみ)一行の遣欧中の留守政府内では西郷隆盛(さいごうたかもり)らの征韓論に反対の立場をとり、ついで大久保利通(おおくぼとしみち)の下 ...
49. おおくましげのぶ【大隈重信】
国史大辞典
裁ついで大蔵卿となり、十一年五月地租改正事務局総裁を兼任、十三年二月参議専任となった。この間征韓論に反対し、七年の台湾出兵で蕃地事務局長官、十年の西南戦争では征 ...
50. 大隈重信[文献目録]
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特に大隈重信の条約改正と関連して』中村菊男『新指定の史跡二つ 鉄道0哩標識と大隈侯旧宅』井上万寿蔵『征韓論争後の大久保と大隈』中村尚美『張郡国府秘書長の大隈侯と ...
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いわゆる「明治六年(一八七三)十月の政変」をひきおこした外交政策論争。明治政府は成立早々の明治元年十二月(一八六九年一月)対馬藩主宗義達に命じて王政復古を朝鮮政府に通告させたが朝鮮政府は釜山で宗氏の家臣に対し、日本からの国書には日本天皇が朝鮮国王より名分論的に
バスク人(文庫クセジュ ベストセレクション)
バスク人 文庫クセジュ735 ジャック・アリエール著/萩尾 生訳 歴史・地理・民族(俗)学 はじめに バスク語・コーカサス語学者ルネ・ラフォンの思い出に われわれがバスク人について知っていることのすべてをこの小冊のなかで述べようなどと試みるのは、あきらかに勝ち目のない
憲法改正問題[政党](イミダス 2016)
衆参両議院の憲法調査会が2005年5月、最終報告書を発表したのに続いて、自由民主党(自民党)は同年11月27日の結党50周年党大会で「新憲法草案」を発表。民主党は同月31日に「憲法提言」を発表した。公明党は「加憲」を主張し、社会民主党、日本共産党は改憲に反対している。
違憲立法審査制度(改訂新版・世界大百科事典)
立法行為をはじめとする国家の諸機関の行為について,それが憲法に適合するか否かを審査し,違憲の場合にはその行為を無効と宣言する権限を裁判所に与える制度。司法審査制とか法令審査制ともいう。国家の最高法規である憲法が国家機関によって侵害されるのを防ぐために設けられる憲法保障の制度の一つであり
仏教(国史大辞典)
仏陀と称せられる歴史的人物ゴータマの創始した宗教。〔開祖ゴータマの生涯〕仏教の開祖は姓をゴータマGotama(瞿曇(くどん))、個人名をシッダッタSiddhatthaという。前四六三年ごろ(他の学説によるとそれよりも約一世紀以前)に釈迦(パーリPāli語でŚākiya、サンスクリットSanskrit語でSākya)
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