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ジャパンナレッジで閲覧できる『憲政擁護運動』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典

日本大百科全書(ニッポニカ)

憲政擁護運動
けんせいようごうんどう

1912~13年(大正1~2)と、24年(大正13)の二度にわたって展開された藩閥専制政府打倒を目ざす政党、民衆の運動。護憲運動と略称する。

[阿部恒久]

第一次護憲運動

行財政整理により財源を確保し、日露戦後経営の完遂を期す第二次西園寺公望 (さいおんじきんもち)内閣下の1912年11月、上原勇作陸相は海軍拡張に対抗して2個師団増設を要求したが、これがいれられないとなると、12月2日辞表を単独で天皇に提出した。そして陸軍から後任大臣を得られなかった西園寺内閣は5日総辞職し、21日内大臣兼侍従長の桂 (かつら)太郎がとくに詔勅 (しょうちょく)を得て第三次内閣を組織した。これら一連の事態は藩閥の横暴と広く受けとめられ、憲政擁護運動を興起させた。

 運動は西園寺内閣倒壊直後に本格化した。まず立憲政友会各地支部が増師反対、閥族剿滅 (そうめつ)の決議をあげ、東京では12月13日に新聞記者、弁護士らが憲政作振会を結成、14日慶応義塾出身者のクラブ交詢社 (こうじゅんしゃ)の有志が、政友会の尾崎行雄 (おざきゆきお)、立憲国民党の犬養毅 (いぬかいつよし)を引っ張り出して時局懇親会を開き、憲政擁護会を発足させた。運動の兵站部 (へいたんぶ)を自任する同会は、19日歌舞伎 (かぶき)座で最初の憲政擁護大会を催し(約3000人参加)、「憲政擁護・閥族打破」を決議、運動を大きく盛り上げた。この前後から全国各地でも大小の演説会が行われ、年末年始の議会休会中には帰郷代議士が中心となって運動をいっそう発展させた。これに対し桂首相は1913年(大正2)1月21日以降15日間議会を停会し、一方で新党(立憲同志会)結成構想を発表、政党勢力の分断を図った(国民党の過半を占める改革派が新党に参加)。しかしこのため、政友会、国民党両党は態度をより硬化させ、世論も権力を利用した政党づくりの非を鳴らし、1月24日(東京)、2月1日(大阪)の憲政擁護大会は万余の参加者に満ち、運動は激化した。2月5日停会明けの議会に政友・国民両党は内閣不信任案を提出。桂首相は再度5日間の停会を命じ、9日詔勅を政友会の西園寺総裁に下させ、不信任案の撤回を強要した。政友会では動揺する原敬 (たかし)ら幹部を一般代議士が突き上げ、不信任案をもって議会に臨むことを確認。これに対し桂首相は解散策をもって議会に臨もうとした。しかし2月10日激高した数万の群衆が議会を取り囲むなかで、桂は大岡育造 (おおおかいくぞう)衆議院議長から、解散すれば内乱が起こると直諫 (ちょっかん)され、ついに総辞職を決意するに至った。桂はそのためにさらに3日間の停会を命じた。しかしこの事情を知らぬ群衆は停会に怒り暴動化し、御用新聞社、交番などを襲撃した。また11~17日には大阪、神戸などでも同様の事態が発生した。後継内閣は海軍大将の山本権兵衛 (ごんべえ)が政友会を与党として組織した。民衆の多くは政友・国民両党提携による政党内閣を期待していたから、政友会の妥協は民衆を失望させた。このため尾崎ら交詢社系の議員は政友会を脱党し政友倶楽部 (くらぶ)を結成。国民党も新内閣と一線を画した。これに対し山本内閣・政友会は文官任用令改正、軍部大臣現役武官制改正(現役規定をなくす)、行財政整理断行などによって批判をかわし、運動はいちおう収束した。

 この運動では政党、新聞記者らが表面にたったが、日露戦争後頻発した都市民衆騒擾 (そうじょう)のなかで巨大なエネルギーを蓄え、政治的成長を遂げた民衆の運動が絶えず政党を突き上げており、客観的主導力は民衆の側にあった。また青年層や実業家も活発な動きを示し、総じて大正デモクラシー状況を大きく切り開いたものといえる。

[阿部恒久]

第二次護憲運動

1924年(大正13)1月1日、貴族院を基礎とする清浦奎吾 (きようらけいご)内閣が成立した。22年6月政友会の高橋是清 (これきよ)内閣倒壊以後、加藤友三郎、山本権兵衛に続いて三度官僚内閣が出現したことは、政党の結束を促し護憲運動を興起させた。しかし政友会の反総裁派は運動に反対して脱党、政友本党を結成し政府与党となった。これがいっそう政友会、憲政会、革新倶楽部の提携を強め、1月18日三浦梧楼 (ごろう)の斡旋 (あっせん)で高橋是清、加藤高明 (たかあき)、犬養毅の三党首会談が実現、「憲政の本義に則 (のっと)り政党内閣制の確立を期すること」を申し合わせ、運動を本格的に出発させた。これに対し清浦内閣は1月31日議会を解散したが、護憲三派は全国各地で護憲大会などを開き、普通選挙制実行や貴族院改革などを唱えて運動を展開、5月10日の総選挙には合計286名の絶対多数を得て圧勝した(憲政会151、政友会105、革新倶楽部30)。この結果清浦内閣は総辞職し、元老西園寺公望の推薦により、憲政会総裁の加藤を首班とし、他2党と連立の護憲三派内閣が6月11日成立、以後1932年(昭和7)までの、衆議院第一党の党首が内閣を組織する「政党内閣制」の慣行を樹立した。しかしこの運動には、激化しつつあった階級闘争をいかに封じ込めるかという観点が内在し、運動を主導した政党と民衆の結合関係は第一次のそれより弱く、したがっていまひとつ盛り上がりを欠いた。このことが25年、護憲三派内閣下で普通選挙法とともに治安維持法が制定される背景をなしたのである。

[阿部恒久]



国史大辞典

憲政擁護運動
けんせいようごうんどう
大正の初期と末期に起った、藩閥官僚の専横を打破し、憲政を擁護(実は確立)しようとする政治運動。護憲運動と略称して、第一次・第二次にわけることもあるが、第一次を憲政擁護運動(広義の大正政変に含まれる)、第二次を護憲運動とよぶこともある。

〔第一次〕

明治四十四年(一九一一)八月に成立した第二次西園寺内閣は財政難の折から行政財政整理を最大の政策として国民の要望にこたえようとしたが、陸軍はこれを怠り、極東の国際関係より二個師団の増設を要求した。翌年七月明治天皇の死を契機に民主的政治を要望する「大正維新」の声が起っていたので、反増師の世論はたかまり、大正元年(一九一二)十一月二十二日に東京商業会議所幹部が閣僚訪問・陳情を開始すると各地の会議所はこれを応援、軍事研究会・増師反対同盟会・国防議会・立憲政友会地方支部も起ち上がった。内閣が増師要求を拒絶すると、同年十二月二日に上原勇作陸相は辞職し、陸軍は後任を出さなかったから五日に内閣は総辞職した。この政変については内閣陰謀説と官僚派倒閣説がある。前者は内閣が行政財政整理に行き詰まり、増師に藉口して辞職、衆怨を陸軍・官僚派にむけようとする陰謀とみる説、後者は整理が成功すると西園寺内閣が世論の支持を得て政党内閣に一歩前進するので、官僚派が増師の難問を先頭に、整理の失敗か倒閣かに持ち込もうとしたとする説で、後者が妥当のように思われる。この総辞職は主義に殉じて玉砕したものとして世論の支持を得、陸軍攻撃は激化した。十二月六日から後継首班推薦の元老会議が開かれたが、難局を担当するものなく、難航のすえ内大臣桂太郎が十四日に出馬を受諾し、十七日正式に決定した。ところが宮中より府中に出る不都合をとりつくろうため、十七日に勅語が発せられ、また海軍充実の確約を求めて海軍が海相推薦を躊躇すると、二十一日斎藤実海相留任の勅語が出されて、同日第三次桂内閣は成立した。以上の過程は世論を憤激させた。まず十二月七日に政友会有志約六十名が有志懇談会を開き、八日同会院外団幹事会、九日同会関東倶楽部同志大懇親会、十三日憲政作振会結成(十八日第一回演説会)に続き、慶応義塾出身者のサロンである交詢社の炉辺談話から、十四日に護憲運動の中核となった憲政擁護会が結成され、十九日歌舞伎座で憲政擁護大会が開かれて最初のもりあがりをみせた。有名な宣言「閥族の横暴跋扈、今や其極に達し、憲政の危機目睫の間に迫る。吾人は断乎妥協を排して、閥族政治を根絶し、以て憲政を擁護せんことを期す」が読みあげられ、「閥族打破、憲政擁護」のスローガンは全国を風靡した。各地で盛んに憲政擁護大会が開催され、未曾有の盛況を示し、派遣弁士も圧倒されるばかりであった。また新聞雑誌の有志記者が起ち上がったことは、情勢の伝播を容易にした。翌大正二年一月十二日には護憲団体が「都下十八団体連合会」を開催(演説会は十四日)、十七日全国同志記者大会、大阪では十二日政友会、十三日政国連合の憲政擁護大会(会衆約一万人)など、いぜん全国各地で大会が開かれ、二十一日に備えた。政友会の最高幹部は十二月中旬には不就不離の態度をとっていたが、次第に護憲運動を注視し、一月中旬になると党員の自由行動を認めた。桂は組閣当初、政友会との妥協打切りを声言し、護憲運動には大して注意を払わなかったが、運動の意外なもりあがりに驚き、一月二十日に新党組織の計画を発表、翌二十一日に議会は予算書の印刷未完を口実に停会し、新党組織を急ぐとともに政党の切崩しを始めた。立憲国民党は、二十一日大石正己ら五領袖の脱党についで改革派がぞくぞく脱党し、大分裂をとげた。政友会は官僚系二名を除名して結束を固めた。桂の新党組織は、政友会切崩しに失敗し、貴族院も首相在任中の政党組織に反対して不参加を申し合わせたので頓挫した。護憲運動は一月二十四日東京新富座の第二回大会(会衆約三千人)、二月一日大阪旧市公会堂跡の第二回大会(会衆二~三万人)を頂点に全国的に展開された。二月五日議会再開の日、民衆数万が議院前に集まり、議場では内閣不信任決議案が提出され、説明に立った尾崎行雄が「彼等は玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするもの」と大演説を行い、また詔勅とても人間が作ったものだから誤りなしといえぬとも述べたことは、時勢の変化を物語っていた。この直後議会を再停会した桂は、加藤高明外相の進言を入れ、天皇即位直後を理由に西園寺に政治的休戦を申し入れ、さらに二月九日詔勅を奏請し、西園寺をして政友会を鎮撫せしめようとした。政友会首脳は動揺したが、党員は断乎素志邁進を決議して十日議場にむかった。この日も数万の民衆が議院を包囲し形勢不穏であった。この朝、山本権兵衛が桂を訪問して面罵した(政友会と薩派の提携)。桂は議会を解散する予定であったが、衆議院議長大岡育造が桂に民衆の不穏を述べて辞職を勧告、桂もこれを容れていちおう議会を停会としたのち、十一日総辞職した。しかし辞職の意図を知らず、数次の停会に激高した民衆は、十日から十一日にかけて取締りの警官と衝突するなど暴動化した。この暴動で桂支持の国民・都・やまと・二六などの各新聞社や警察署・交番が焼き打ちされ、軍隊が出動した。暴動は地方に波及し、十一日大阪、十三日神戸、十六日広島、十七日―十九日京都で焼打ちが行われた。民衆の力が内閣を倒した希有の事件で、大正デモクラシーの開幕をつげるものといえよう。二月二十日第一次山本内閣が成立したが、政友会はこれと提携してその与党となり、世の非難をあびた。この政変の意義については、薩摩閥が長州閥に代わっただけで、民衆は倒閣のため政党に利用されたにすぎぬという見解が当時よりあるが、これは結果的に形式より見た説にすぎず、根底はさらに深く、藩閥政治に打撃を与え、政党政治に一歩すすめたといえる。すなわち、大正初頭の「官権より民権へ」の指向や民衆の政治的自覚の向上を基底とし、尾崎の詔勅批判や政友会員が西園寺に対する詔勅を排して突進したこと、インテリやジャーナリストの蹶起、実業家の支援、各地の大会における民衆の関心や護憲派代議士への激励などにそれを見ることができる。したがって運動の推進力にも政党・中間階級・インテリ・ジャーナリスト・民衆のいずれか、または複合に比重をおかれるが、総合的にとらえて分析する必要がある。交詢社についても三井の産業資本と規定するもの、また背後に三井対三菱の対抗と見るものなどがあるが、単純にわりきり難い。桂の態度を情意投合・元老排除・政党結成意図などの諸点から、伊藤―桂―原と系譜的に捉えて進歩的に評価するものもあるが、策士としての桂の機会主義的な権謀が目立ち、賛同し難い。

〔第二次〕

第二次護憲運動の原因は大正十三年一月、貴族院を基礎として清浦内閣が成立したことにある。これよりさき、原敬・高橋是清二代の立憲政友会内閣ののち、政権は加藤友三郎・山本権兵衛(第二次)の海軍閥についで、枢密院議長の清浦奎吾にまわった。元老西園寺公望は次期総選挙を公平に施行する目的で清浦を推薦し、一月一日に大命を受けた清浦は政友会に援助を求めて確答が得られず、摂政宮に辞退を表明したが慰撫され、四日に貴族院の研究会が組閣援助を決定したので、全面的にこれに依拠して七日内閣は成立した。これに対し「特権内閣打破」の声が起り、七日に革新倶楽部(代表犬養毅)が反対を声明、九日に政友会・憲政会院外団が協力を約し、十日に政・憲・革三派有志が倒閣運動を開始した。十五日、政友会総裁高橋是清は幹部会で清浦内閣反対を表明し、翌十六日には爵位を辞して故原敬の地盤盛岡から総選挙に立候補する悲壮な決意を声明した。この日政友会反主流の床次(とこなみ)竹二郎・山本達雄らは大挙脱党、同党は大分裂をとげ、床次らは二十九日政友本党を結成した(代議士数では第一党)。この間十八日三浦梧楼は熱海より上京し、高橋是清・加藤高明・犬養毅の三党首会談を斡旋して政党内閣樹立を申し合わさせた。三十日、三党首は大阪の憲政擁護市民大会に出席したが、帰途三党首の搭乗列車転覆未遂事件が起り、翌三十一日の議会はこの事件で混乱し、解散された。二月十七日東京における護憲デモをはじめ、各地で護憲運動が展開されたが第一次ほどのもりあがりはなく、政党が主導したものの、二月十二日には革新倶楽部を除外して政・憲両党首が密談した。しかし政友会はかつて普通選挙に反対したので政策協定は十分行われず、選挙運動の過程で三派の結束を強化するため普選のスローガンが持ち出された。五月十日の総選挙で護憲三派は大勝し、憲政会が第一党となり、政友本党は大敗した。清浦は留任を策し、また一部で政友会・政友本党が合同して与党となる工作もあったが成功せず、六月十一日に加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立し、翌年普通選挙法案を通過させ、同時に日ソ国交回復とからんで治安維持法を成立させた。この内閣以後、昭和七年(一九三二)の五・一五事件まで、議会に多数を占める政党の党首が政党を基礎に組閣する、いわゆる「憲政の常道」が確立し、政党内閣時代が続いた。第二次護憲運動は第一次と異なり、政党内閣樹立が目標とされたが、この間、米騒動など社会の変化も著しく、大正九年三月の戦後恐慌、同十二年九月の関東大震災などで不況は深刻化し、社会不安は増大し、社会運動は過激な様相を帯びた。この危機を打開するため、その安全弁として政友会以外は普選を主張し、また高橋内閣下の過激社会運動取締法案(不成立)などが企図されたが、清浦内閣の成立をみて政党が蹶起し、特権内閣を打破するとともに、政権獲得後は前記二法案を通過させた。大正デモクラシーの成立期は、すでに政党は急進化する民衆に受身で対応していたのである。
→大正政変(たいしょうせいへん),→大正デモクラシー(たいしょうデモクラシー)
[参考文献]
『原敬日記』三、小泉策太郎『懐往時談』、我妻栄他編『日本政治裁判史録』大正、徳富猪一郎編『公爵山県有朋伝』下、同編『公爵桂太郎伝』坤、高倉徹一編『田中義一伝記』上、小林雄吾編『立憲政友会史』三・五、憲政会史編纂所編『憲政会史』、信夫清三郎『大正デモクラシー史』、山本四郎『大正政変の基礎的研究』、升味準之輔『日本政党史論』三・五、坂野潤治『大正政変』
(山本 四郎)


世界大百科事典

護憲運動
ごけんうんどう

大正時代,民衆運動を背景とした政党の藩閥官僚政治打破,立憲政治確立の運動。憲政擁護運動ともいわれる。第2次大戦後にも新憲法改正に反対する運動をこの名をもって呼ぶこともあるが,日本近代史上の用語としては先のものをさす。

第1次

日露戦争後の日本の戦後経営は,軍備拡張,植民地経営を軸に展開された。そのため戦時非常特別税は戦後も継続され,そのうえ新たな増税が行われた。また戦時の外債に加えて新規の外資導入も相ついだ。財政の窮迫は国民生活を著しく圧迫した。他方,権力は機構内部において陸海軍の政治的発言力が強まり,反動化が進んだ。これに対して都市を中心に新中間層の自由主義的言論も広がり,中小ブルジョアジーをはじめとする悪税反対運動や普通選挙制など民主的諸権利を求める民衆運動が活発化した。こうしたなかで1911年政友会を基礎に成立した第2次西園寺公望内閣は,行財政整理を第1の課題に掲げた。しかし,この方針は翌12年には陸軍の2個師団増設要求と鋭く対立し,陸相上原勇作は帷幄(いあく)上奏により単独辞職した。その結果,陸軍の反対によって後任陸相をえられずに西園寺内閣は総辞職した。後継首班には,前年明治天皇の死去にともない内大臣兼侍従長として宮中入りしていた長州藩閥の寵児桂太郎が推薦され,第3次桂内閣を組織した。桂は組閣にあたって詔勅を出させ,海軍拡張を主張する斎藤実海相を詔勅によって留任させた。この政変を通じて,ジャーナリズムや各地の商業会議所,政党院外団などは軍閥の横暴を批判し,また桂首相の非立憲的行動を非難,これらはやがて藩閥専制体制そのものへの批判に発展した。12月14日には交詢社系ブルジョアジーを中心に憲政擁護会が組織され,〈憲政擁護・閥族打破〉をスローガンに第1回の憲政擁護大会が東京明治座で開かれ,3000余の民衆が参加した。運動は全国に波及し,各地で集会が開かれた。地方遊説の代議士はかえって民衆に激励され,国民党の犬養毅,政友会の尾崎行雄は〈憲政二柱の神〉と称された。第30議会休会あけの1月20日,桂は新党組織の計画を発表し,議会を停会して反対党の分裂を策した。しかし新党の立憲同志会も国民党の官僚派代議士と政友会の数名が参加したにとどまり,失敗に終わった。停会あけの議会で尾崎行雄は桂の詔勅政策を批判する演説を行うなど民党の結束は固く,2月10日には数万の民衆が議会を包囲するなかで,桂内閣は民衆の革命化を恐れてついに辞職した。この大正政変と呼ばれる政変は,民衆の力が内閣を倒した最初であった。

 桂内閣のあと政友会の支持をえて海軍の巨頭で薩摩閥の山本権兵衛が内閣を組織した。しかし民衆運動の圧力のもとで山本内閣は大幅な行財政整理を行うとともに,陸海軍大臣の任用資格を予・後備役の大・中将までに拡大し,文官任用令を改正して自由任用の幅を拡大した。これらは大正政変の直接的成果であるといえる。山本内閣のもとでも中小ブルジョアジーを中心に大規模な営業税廃止の運動が憲政擁護会と結びついて展開された。そのうえ1914年1月海軍高官の収賄事件であるシーメンス事件が暴露されるとふたたび民衆運動は燃え上がり,野党も足並みをそろえた。2月には数万にのぼる国民大会が東京の両国国技館や日比谷で開かれ,10日の議会での内閣弾劾決議案が否決されると,激高した民衆は議院正門を破壊,御用新聞社を包囲するなど騒擾状態となり,結局3月には山本内閣は辞職することになった。これらの第1次護憲運動は絶対主義的政治勢力に打撃を与えた民主主義運動であった。

第2次

第1次護憲運動の後,大隈重信内閣の成立,第1次世界大戦と政界は一時期反動期を迎えるが,この間にも民衆勢力は着実に成長していった。1918年の米騒動の結果,藩閥官僚の巨頭山県有朋も政党内閣を認めざるをえなくなり原敬内閣が成立した。第1次世界大戦後には労働運動,農民運動をはじめ各種の社会運動が高揚し,19年以来普選運動が全国的に展開した。こうしたなかで,憲政会,国民党は普選を主張するに至った。しかし,民主主義勢力も十分ではなく,22年前後からサンディカリスムの影響もあって労働組合は普選に消極的となり,この問題での政党の比重が大きくなった。この年加藤友三郎内閣が成立すると憲政会,革新俱楽部(国民党の後身)を中心に憲政擁護大会が開かれ,第2次護憲運動が始まった。24年1月枢密院議長の清浦奎吾が貴族院を中心に超然内閣を組織すると,ジャーナリズムをはじめ清浦内閣反対の声が高まった。これらを背景に,憲政,革新両党と清浦内閣支持をめぐって分裂した政友会の政府反対派が加わり,護憲三派を形成,政党内閣制の樹立,普選法制定,貴族院改革の3要求を掲げて清浦内閣打倒を目ざした。清浦内閣は衆議院を解散してこれに対抗したが,総選挙の結果は護憲三派が絶対多数を占めて圧勝し,ついに清浦内閣は総辞職した。このあと第一党の憲政会総裁の加藤高明が護憲三派を基礎に内閣を組織し,これによって日本の政党内閣制の慣行が成立し,32年の五・一五事件まで続くことになった。

 護憲三派内閣は行財政整理,軍縮,貴族院改革などを実行,1925年の第50議会では選挙法を改正して男子普通選挙制を実現した。しかし,同時に治安維持法を制定して革命運動に備えた。これらは第1次世界大戦後の社会的諸矛盾のなかで発展した社会運動と支配体制の動揺に対応しながら,行き詰まった政治体制を再編し,新たな支配体制をつくりだすことをねらったものにほかならなかった。結局,第2次護憲運動は日本的政党内閣制の慣行を成立させたものの,その運動は第1次護憲運動と比較して民衆運動との結びつきがほとんどみられず,既成政党の運動に終わった。それだけに民主主義的性格は後退しており,せっかく成立した政党内閣制の慣行も強固な民衆的基盤をもつことができずに,その後の政治的・経済的・社会的変動のなかで,その脆弱(ぜいじやく)性を示すことになった。
[由井 正臣]

[索引語]
第1次護憲運動 桂太郎内閣 憲政擁護会 憲政二柱の神 大正政変 山本権兵衛内閣 第2次護憲運動 清浦奎吾内閣 護憲三派
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1. 憲政擁護運動
日本大百科全書
勅しょうちょくを得て第三次内閣を組織した。これら一連の事態は藩閥の横暴と広く受けとめられ、憲政擁護運動を興起させた。 運動は西園寺内閣倒壊直後に本格化した。まず
2. 憲政擁護運動
世界大百科事典
→護憲運動
3. けんせいようご‐うんどう【憲政擁護運動】
日本国語大辞典
が内閣を組織した時、政党無視の官僚政治に対して起こった第一次憲政擁護運動と、同一三年清浦奎吾内閣に対して起こった第二次憲政擁護運動とがある。護憲運動。ケンセ
4. けんせいようごうんどう【憲政擁護運動】
国史大辞典
擁護(実は確立)しようとする政治運動。護憲運動と略称して、第一次・第二次にわけることもあるが、第一次を憲政擁護運動(広義の大正政変に含まれる)、第二次を護憲運動
5. 憲政擁護運動
法律用語辞典
大正デモクラシーの中心課題であった官僚政治、閥族政治の打倒、議会主義政治の確立を目ざして起こった憲政を守るための運動の総称。護憲運動と略称される。大正元年の第三
6. 朝日新聞
日本大百科全書
1911年6月のこと(『大阪朝日』は翌1912年10月)である。春原昭彦大正期1913年(大正2)第一次憲政擁護運動の際は、憲政の大義を論じ民論の先頭に立ち、翌
7. 朝日新聞
世界大百科事典
また1904年に二葉亭四迷,07年には夏目漱石が入社し,次々と作品を発表した。大正政変に際しては憲政擁護運動の一角を担い桂太郎内閣を攻撃,18年の米騒動では悪徳
8. あさひしんぶん【朝日新聞】
国史大辞典
行停止を受けた。これに続く著名な言論活動としては、大正元年(一九一二)末に起った桂内閣弾劾憲政擁護運動、同三年シーメンス事件に基づく山本内閣弾劾護憲運動、七年の
9. あやめかい【あやめ会】
国史大辞典
また単に時事問題に対する意見を交換する社交倶楽部と意義づけたりしたが、護憲三派内閣の成立で無為に終った。→憲政擁護運動(けんせいようごうんどう) [参考文献]山
10. いぬかいつよし【犬養毅】
国史大辞典
後藤新平・伊東巳代治との三角同盟など)を合わせもつ複雑な性格の政治家であったことに注目する必要があろう。→憲政擁護運動(けんせいようごうんどう),→五・一五事件
11. いぬかい-つよし【犬養毅】画像
日本人名大辞典
23年衆議院議員(当選19回)。43年立憲国民党を,大正11年革新倶楽部(クラブ)をつくり,憲政擁護運動,普選運動を推進。昭和4年政友会総裁。6年首相となり,戦
12. 大石正巳
日本大百科全書
1910年(明治43)犬養らと妥協して立憲国民党を結成して常務委員となったが、1913年(大正2)憲政擁護運動が高まるなかで脱党し、桂かつら太郎の立憲同志会結成
13. 大隈重信画像
日本大百科全書
続行したが、1907年1月辞任して、一時政界から引退、4月早稲田大学総長に就任した。第一次憲政擁護運動ののち、ふたたび政界に復帰し、1914年(大正3)4月第二
14. おおのばんぼく【大野伴睦】
国史大辞典
父直太郎は収入役、助役、村長などを四十余年にわたり歴任。十八歳で上京、明治大学法科に入学したが、第一次憲政擁護運動に参加、政府系新聞社焼打ちに加わって逮捕された
15. 尾崎行雄画像
日本大百科全書
二次西園寺公望さいおんじきんもち内閣が倒れると、国民党の犬養毅いぬかいつよしとともに第一次憲政擁護運動の先頭にたって活躍、「憲政の神様」と称された。政友会が第一
16. おざきゆきお【尾崎行雄】
国史大辞典
任、議会では政交倶楽部・猶興会に属したが四十二年再び政友会に入党した。大正元年(一九一二)憲政擁護運動がおこると立憲国民党の犬養毅とともに運動の先頭に立ち、議会
17. 桂太郎画像
日本大百科全書
、8月侍従長兼内大臣となるが、まもなく第二次西園寺内閣の総辞職で12月第三次桂内閣を組織、憲政擁護運動に会して翌1913年(大正2)2月総辞職、政治的生命を絶た
18. かつら‐たろう【桂太郎】
日本国語大辞典
回組閣。日英同盟を結び、日露戦争を断行。社会運動を弾圧し韓国併合を行なったが、第三次内閣は憲政擁護運動の攻撃をうけて崩壊。弘化四~大正二年(一八四七~一九一三)
19. かつらたろう【桂太郎】
国史大辞典
個師団増設問題で第二次西園寺内閣が倒れたあと、宮中からでて三たび内閣を組織したが、かえって憲政擁護運動をもりあがらせる結果となった。これに対抗して立憲同志会組織
20. 桂太郎自伝 340ページ
東洋文庫
日本が列強の一員として飛躍し、一人前の帝国主義国となる諸契機をつくった。 しかし、第三次内閣では、組閣前から憲政擁護運動によるはげしい批判に直面して、わず
21. 桂太郎自伝 343ページ
東洋文庫
設要求のため総辞職した後、桂が三たび内閣首班として躍り出し、「閥族打破・憲政擁護」を唱える憲政擁護運動の高まりの中で政権の座を降りた。かつて、「共和演説事件」で
22. 桂太郎内閣画像
日本大百科全書
こと海相留任にも詔勅が出された。ここに憲政擁護運動がおこり、桂は政党(後の立憲同志会)を結成して対抗しようとしたが、山県系の反感を買い、また憲政擁護運動が全国に
23. かつらないかく【桂内閣】画像
国史大辞典
留任させるために勅諚をださせるなど詔勅を乱用したことから、非立憲の声がたかまり、憲政擁護運動が起った。こうした政党と民衆の憲政擁護運動に対して、桂内閣は国防会議
24. かつらないかく【桂内閣】 : 桂内閣/〔第三次〕
国史大辞典
留任させるために勅諚をださせるなど詔勅を乱用したことから、非立憲の声がたかまり、憲政擁護運動が起った。こうした政党と民衆の憲政擁護運動に対して、桂内閣は国防会議
25. かわさき-かつ【川崎克】
日本人名大辞典
1880−1949 大正-昭和時代の政治家。明治13年12月28日生まれ。尾崎行雄に師事し,憲政擁護運動に参加。大正4年衆議院議員(当選10回)となり,憲政会,
26. 関東大震災画像
日本大百科全書
ラシー運動は、関東大震災を契機に屈折と敗北の過程に入った。その後1924年1~5月の第二次憲政擁護運動を経て、6月に第一次加藤高明たかあき内閣が成立し、翌192
27. 清浦奎吾内閣画像
日本大百科全書
明らかにした。ここにいわゆる護憲三派が形成され、清浦内閣打倒と政党内閣の樹立を目ざす第二次憲政擁護運動が高まった。衆議院における内閣支持勢力は立憲政友会脱党派に
28. きようらないかく【清浦内閣】画像
国史大辞典
清浦内閣を非立憲的な特権階級の内閣としてこれに反対し、清浦内閣打倒と政党内閣樹立をめざして第二次憲政擁護運動に乗り出した。政友会の中で清浦内閣援助を主張した床次
29. きんだい【近代】画像
国史大辞典
支配階級を動揺させた。大正十三年第二次憲政擁護運動で清浦奎吾官僚内閣を倒して成立した加藤高明護憲三派内閣以後、政党内閣制は慣習として安定した。その翌年第一次憲政
30. きんだい【近代】 : 近代/〔明治三十三年―大正六年(一九一七)〕
国史大辞典
つまる資本家の援助を得、都市のプチブル層や民衆を動員して、藩閥・軍部の横暴に反対する第一次憲政擁護運動をおこし、桂内閣は倒れた(大正政変)。大正三年八月、本格的
31. きんだい【近代】 : 近代/〔大正七年―昭和五年(一九三〇)〕
国史大辞典
支配階級を動揺させた。大正十三年第二次憲政擁護運動で清浦奎吾官僚内閣を倒して成立した加藤高明護憲三派内閣以後、政党内閣制は慣習として安定した。その翌年第一次憲政
32. 近代社会
日本大百科全書
その独占資本主義段階への移行のてことなった。1910年代に入ると、藩閥打倒と政党内閣実現を目ざす護憲運動(憲政擁護運動)、財産による選挙権の制限の撤廃を求める普
33. ぎいんないかくせい【議院内閣制】
国史大辞典
置くものでなければならぬとする政党内閣論であり、大正元年(一九一二)と十三年の二次にわたる「憲政擁護運動」はこの原則に対する官僚勢力の露骨な挑戦への反発であった
34. くろいわるいこう【黒岩涙香】
国史大辞典
見が合わず退社した。黒岩は大正期に入ると実際政治への関心を強く示し、大正二年(一九一三)の憲政擁護運動では第三次桂内閣の倒閣に激しい論陣をはり、翌三年のシーメン
35. ぐんじせいど【軍事制度】
国史大辞典
この方針実現のための軍部の強硬な主張から生まれたものである。この事件をきっかけとする第一次憲政擁護運動の結果、大正二年第一次山本内閣は陸海軍大臣の補任資格を、現
36. 桂園時代
日本大百科全書
中で帰国した桂は、内大臣になったのを理由に政府の調停依頼を怠り内閣は倒れた。第三次桂内閣は憲政擁護運動のため2か月余で倒れた。この時代は桂内閣と政友会との表面妥
37. けいえんじだい【桂園時代】
国史大辞典
しかしこの陸軍の横暴は世論を激高させ、桂が宮中より府中に出たこと、詔勅を乱発したことなど、その非立憲的行為は憲政擁護運動を誘発し、桂内閣は民衆運動のなか、翌二年
38. 憲政会
日本大百科全書
のうえに党勢を拡張することに成功した。1924年1~5月、政友会、革新倶楽部とともに第二次憲政擁護運動を指導し、5月の第15回総選挙では151名と大勝、6月第一
39. けんせい‐かい[‥クヮイ]【憲政会】
日本国語大辞典
公友倶楽部の一部が合同、結成した政党。総裁は加藤高明。元老否認、政党政治確立を掲げて第二次憲政擁護運動の先頭に立ち、同一三年、政友会、革新倶楽部と共に護憲三派内
40. 憲政の常道
法律用語辞典
本来は、立憲政治が通常採るべき在り方を意味するが、大正年間の憲政擁護運動の際に特別の意味で用いられた。憲政の要旨は、内閣の政治的責任を明確にすること及び国民的基
41. げんろう【元老】画像
国史大辞典
裁を辞した後、特別の優遇をうけ、薩長出身以外のただ一人の元老となった。大正政変をきっかけに憲政擁護運動がおこり、政党内閣を要求する民衆の政治運動が激烈となると、
42. 小泉策太郎
日本大百科全書
総裁高橋是清これきよに辞爵と衆議院進出の決意を促し、清浦奎吾きようらけいご内閣打倒の第二次憲政擁護運動の契機をつくり、翌1925年には高橋総裁の引退と田中義一ぎ
43. 国民新聞
日本大百科全書
その論調は政界に大きな影響力をもった。1905年には日露講和条約支持で、13年(大正2)の憲政擁護運動でも桂内閣を支持して民衆の襲撃を受けたが、根強い蘇峰信者の
44. こくみんしんぶん【国民新聞】
国史大辞典
このためたちまちにして都下有数の新聞にまで回復した。大正二年(一九一三)二月、第三次桂内閣に対する憲政擁護運動の渦中で再度群衆の襲撃を受け、またも多数の読者を失
45. 護憲運動
日本大百科全書
憲政擁護運動
46. 護憲運動
世界大百科事典
大正時代,民衆運動を背景とした政党の藩閥官僚政治打破,立憲政治確立の運動。憲政擁護運動ともいわれる。第2次大戦後にも新憲法改正に反対する運動をこの名をもって呼ぶ
47. ごけん‐うんどう【護憲運動】
日本国語大辞典
〔名〕憲政擁護運動の略称。藩閥による官僚政治に反対し、立憲政治の確立を目的とする政治運動。(1)第一次。大正元年(一九一二)一二月、政党・新聞記者らが提唱して憲
48. ごけんうんどう【護憲運動】
国史大辞典
憲政擁護運動(けんせいようごうんどう)
49. ごけんさんぱ【護憲三派】
国史大辞典
三浦梧楼の斡旋で会合し、政党内閣確立を申し合わせたときに成立し、第一次加藤高明内閣の辞職のときに解消した。→憲政擁護運動(けんせいようごうんどう) (松尾 尊
50. 護憲三派内閣
日本大百科全書
第二次憲政擁護運動勝利のうえに、1924年(大正13)6月11日、憲政会総裁加藤高明たかあきを首班に立憲政友会、革新倶楽部くらぶとの連立で成立した政党内閣。第一
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