1. 憲政擁護運動
日本大百科全書
勅しょうちょくを得て第三次内閣を組織した。これら一連の事態は藩閥の横暴と広く受けとめられ、憲政擁護運動を興起させた。 運動は西園寺内閣倒壊直後に本格化した。まず
3. けんせいようご‐うんどう【憲政擁護運動】
日本国語大辞典
が内閣を組織した時、政党無視の官僚政治に対して起こった第一次憲政擁護運動と、同一三年清浦奎吾内閣に対して起こった第二次憲政擁護運動とがある。護憲運動。ケンセ
4. けんせいようごうんどう【憲政擁護運動】
国史大辞典
擁護(実は確立)しようとする政治運動。護憲運動と略称して、第一次・第二次にわけることもあるが、第一次を憲政擁護運動(広義の大正政変に含まれる)、第二次を護憲運動
5. 憲政擁護運動
法律用語辞典
大正デモクラシーの中心課題であった官僚政治、閥族政治の打倒、議会主義政治の確立を目ざして起こった憲政を守るための運動の総称。護憲運動と略称される。大正元年の第三
6. 朝日新聞
日本大百科全書
1911年6月のこと(『大阪朝日』は翌1912年10月)である。春原昭彦大正期1913年(大正2)第一次憲政擁護運動の際は、憲政の大義を論じ民論の先頭に立ち、翌
7. 朝日新聞
世界大百科事典
また1904年に二葉亭四迷,07年には夏目漱石が入社し,次々と作品を発表した。大正政変に際しては憲政擁護運動の一角を担い桂太郎内閣を攻撃,18年の米騒動では悪徳
8. あさひしんぶん【朝日新聞】
国史大辞典
行停止を受けた。これに続く著名な言論活動としては、大正元年(一九一二)末に起った桂内閣弾劾憲政擁護運動、同三年シーメンス事件に基づく山本内閣弾劾護憲運動、七年の
9. あやめかい【あやめ会】
国史大辞典
また単に時事問題に対する意見を交換する社交倶楽部と意義づけたりしたが、護憲三派内閣の成立で無為に終った。→憲政擁護運動(けんせいようごうんどう) [参考文献]山
10. いぬかいつよし【犬養毅】
国史大辞典
後藤新平・伊東巳代治との三角同盟など)を合わせもつ複雑な性格の政治家であったことに注目する必要があろう。→憲政擁護運動(けんせいようごうんどう),→五・一五事件
11. いぬかい-つよし【犬養毅】画像
日本人名大辞典
23年衆議院議員(当選19回)。43年立憲国民党を,大正11年革新倶楽部(クラブ)をつくり,憲政擁護運動,普選運動を推進。昭和4年政友会総裁。6年首相となり,戦
12. 大石正巳
日本大百科全書
1910年(明治43)犬養らと妥協して立憲国民党を結成して常務委員となったが、1913年(大正2)憲政擁護運動が高まるなかで脱党し、桂かつら太郎の立憲同志会結成
13. 大隈重信画像
日本大百科全書
続行したが、1907年1月辞任して、一時政界から引退、4月早稲田大学総長に就任した。第一次憲政擁護運動ののち、ふたたび政界に復帰し、1914年(大正3)4月第二
14. おおのばんぼく【大野伴睦】
国史大辞典
父直太郎は収入役、助役、村長などを四十余年にわたり歴任。十八歳で上京、明治大学法科に入学したが、第一次憲政擁護運動に参加、政府系新聞社焼打ちに加わって逮捕された
15. 尾崎行雄画像
日本大百科全書
二次西園寺公望さいおんじきんもち内閣が倒れると、国民党の犬養毅いぬかいつよしとともに第一次憲政擁護運動の先頭にたって活躍、「憲政の神様」と称された。政友会が第一
16. おざきゆきお【尾崎行雄】
国史大辞典
任、議会では政交倶楽部・猶興会に属したが四十二年再び政友会に入党した。大正元年(一九一二)憲政擁護運動がおこると立憲国民党の犬養毅とともに運動の先頭に立ち、議会
17. 桂太郎画像
日本大百科全書
、8月侍従長兼内大臣となるが、まもなく第二次西園寺内閣の総辞職で12月第三次桂内閣を組織、憲政擁護運動に会して翌1913年(大正2)2月総辞職、政治的生命を絶た
18. かつら‐たろう【桂太郎】
日本国語大辞典
回組閣。日英同盟を結び、日露戦争を断行。社会運動を弾圧し韓国併合を行なったが、第三次内閣は憲政擁護運動の攻撃をうけて崩壊。弘化四~大正二年(一八四七~一九一三)
19. かつらたろう【桂太郎】
国史大辞典
個師団増設問題で第二次西園寺内閣が倒れたあと、宮中からでて三たび内閣を組織したが、かえって憲政擁護運動をもりあがらせる結果となった。これに対抗して立憲同志会組織
20. 桂太郎自伝 340ページ
東洋文庫
日本が列強の一員として飛躍し、一人前の帝国主義国となる諸契機をつくった。 しかし、第三次内閣では、組閣前から憲政擁護運動によるはげしい批判に直面して、わず
21. 桂太郎自伝 343ページ
東洋文庫
設要求のため総辞職した後、桂が三たび内閣首班として躍り出し、「閥族打破・憲政擁護」を唱える憲政擁護運動の高まりの中で政権の座を降りた。かつて、「共和演説事件」で
22. 桂太郎内閣画像
日本大百科全書
こと海相留任にも詔勅が出された。ここに憲政擁護運動がおこり、桂は政党(後の立憲同志会)を結成して対抗しようとしたが、山県系の反感を買い、また憲政擁護運動が全国に
23. かつらないかく【桂内閣】画像
国史大辞典
留任させるために勅諚をださせるなど詔勅を乱用したことから、非立憲の声がたかまり、憲政擁護運動が起った。こうした政党と民衆の憲政擁護運動に対して、桂内閣は国防会議
24. かつらないかく【桂内閣】 : 桂内閣/〔第三次〕
国史大辞典
留任させるために勅諚をださせるなど詔勅を乱用したことから、非立憲の声がたかまり、憲政擁護運動が起った。こうした政党と民衆の憲政擁護運動に対して、桂内閣は国防会議
25. かわさき-かつ【川崎克】
日本人名大辞典
1880−1949 大正-昭和時代の政治家。明治13年12月28日生まれ。尾崎行雄に師事し,憲政擁護運動に参加。大正4年衆議院議員(当選10回)となり,憲政会,
26. 関東大震災画像
日本大百科全書
ラシー運動は、関東大震災を契機に屈折と敗北の過程に入った。その後1924年1~5月の第二次憲政擁護運動を経て、6月に第一次加藤高明たかあき内閣が成立し、翌192
27. 清浦奎吾内閣画像
日本大百科全書
明らかにした。ここにいわゆる護憲三派が形成され、清浦内閣打倒と政党内閣の樹立を目ざす第二次憲政擁護運動が高まった。衆議院における内閣支持勢力は立憲政友会脱党派に
28. きようらないかく【清浦内閣】画像
国史大辞典
清浦内閣を非立憲的な特権階級の内閣としてこれに反対し、清浦内閣打倒と政党内閣樹立をめざして第二次憲政擁護運動に乗り出した。政友会の中で清浦内閣援助を主張した床次
29. きんだい【近代】画像
国史大辞典
支配階級を動揺させた。大正十三年第二次憲政擁護運動で清浦奎吾官僚内閣を倒して成立した加藤高明護憲三派内閣以後、政党内閣制は慣習として安定した。その翌年第一次憲政
30. きんだい【近代】 : 近代/〔明治三十三年―大正六年(一九一七)〕
国史大辞典
つまる資本家の援助を得、都市のプチブル層や民衆を動員して、藩閥・軍部の横暴に反対する第一次憲政擁護運動をおこし、桂内閣は倒れた(大正政変)。大正三年八月、本格的
31. きんだい【近代】 : 近代/〔大正七年―昭和五年(一九三〇)〕
国史大辞典
支配階級を動揺させた。大正十三年第二次憲政擁護運動で清浦奎吾官僚内閣を倒して成立した加藤高明護憲三派内閣以後、政党内閣制は慣習として安定した。その翌年第一次憲政
32. 近代社会
日本大百科全書
その独占資本主義段階への移行のてことなった。1910年代に入ると、藩閥打倒と政党内閣実現を目ざす護憲運動(憲政擁護運動)、財産による選挙権の制限の撤廃を求める普
33. ぎいんないかくせい【議院内閣制】
国史大辞典
置くものでなければならぬとする政党内閣論であり、大正元年(一九一二)と十三年の二次にわたる「憲政擁護運動」はこの原則に対する官僚勢力の露骨な挑戦への反発であった
34. くろいわるいこう【黒岩涙香】
国史大辞典
見が合わず退社した。黒岩は大正期に入ると実際政治への関心を強く示し、大正二年(一九一三)の憲政擁護運動では第三次桂内閣の倒閣に激しい論陣をはり、翌三年のシーメン
35. ぐんじせいど【軍事制度】
国史大辞典
この方針実現のための軍部の強硬な主張から生まれたものである。この事件をきっかけとする第一次憲政擁護運動の結果、大正二年第一次山本内閣は陸海軍大臣の補任資格を、現
36. 桂園時代
日本大百科全書
中で帰国した桂は、内大臣になったのを理由に政府の調停依頼を怠り内閣は倒れた。第三次桂内閣は憲政擁護運動のため2か月余で倒れた。この時代は桂内閣と政友会との表面妥
37. けいえんじだい【桂園時代】
国史大辞典
しかしこの陸軍の横暴は世論を激高させ、桂が宮中より府中に出たこと、詔勅を乱発したことなど、その非立憲的行為は憲政擁護運動を誘発し、桂内閣は民衆運動のなか、翌二年
38. 憲政会
日本大百科全書
のうえに党勢を拡張することに成功した。1924年1~5月、政友会、革新倶楽部とともに第二次憲政擁護運動を指導し、5月の第15回総選挙では151名と大勝、6月第一
39. けんせい‐かい[‥クヮイ]【憲政会】
日本国語大辞典
公友倶楽部の一部が合同、結成した政党。総裁は加藤高明。元老否認、政党政治確立を掲げて第二次憲政擁護運動の先頭に立ち、同一三年、政友会、革新倶楽部と共に護憲三派内
40. 憲政の常道
法律用語辞典
本来は、立憲政治が通常採るべき在り方を意味するが、大正年間の憲政擁護運動の際に特別の意味で用いられた。憲政の要旨は、内閣の政治的責任を明確にすること及び国民的基
41. げんろう【元老】画像
国史大辞典
裁を辞した後、特別の優遇をうけ、薩長出身以外のただ一人の元老となった。大正政変をきっかけに憲政擁護運動がおこり、政党内閣を要求する民衆の政治運動が激烈となると、
42. 小泉策太郎
日本大百科全書
総裁高橋是清これきよに辞爵と衆議院進出の決意を促し、清浦奎吾きようらけいご内閣打倒の第二次憲政擁護運動の契機をつくり、翌1925年には高橋総裁の引退と田中義一ぎ
43. 国民新聞
日本大百科全書
その論調は政界に大きな影響力をもった。1905年には日露講和条約支持で、13年(大正2)の憲政擁護運動でも桂内閣を支持して民衆の襲撃を受けたが、根強い蘇峰信者の
44. こくみんしんぶん【国民新聞】
国史大辞典
このためたちまちにして都下有数の新聞にまで回復した。大正二年(一九一三)二月、第三次桂内閣に対する憲政擁護運動の渦中で再度群衆の襲撃を受け、またも多数の読者を失
46. 護憲運動
世界大百科事典
大正時代,民衆運動を背景とした政党の藩閥官僚政治打破,立憲政治確立の運動。憲政擁護運動ともいわれる。第2次大戦後にも新憲法改正に反対する運動をこの名をもって呼ぶ
47. ごけん‐うんどう【護憲運動】
日本国語大辞典
〔名〕憲政擁護運動の略称。藩閥による官僚政治に反対し、立憲政治の確立を目的とする政治運動。(1)第一次。大正元年(一九一二)一二月、政党・新聞記者らが提唱して憲
48. ごけんうんどう【護憲運動】
国史大辞典
⇒憲政擁護運動(けんせいようごうんどう)
49. ごけんさんぱ【護憲三派】
国史大辞典
三浦梧楼の斡旋で会合し、政党内閣確立を申し合わせたときに成立し、第一次加藤高明内閣の辞職のときに解消した。→憲政擁護運動(けんせいようごうんどう) (松尾 尊
50. 護憲三派内閣
日本大百科全書
第二次憲政擁護運動勝利のうえに、1924年(大正13)6月11日、憲政会総裁加藤高明たかあきを首班に立憲政友会、革新倶楽部くらぶとの連立で成立した政党内閣。第一