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大正デモクラシー

ジャパンナレッジで閲覧できる『大正デモクラシー』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

大正デモクラシー
たいしょうデモクラシー
日露戦争後から大正末年にかけ、政治の世界を中心に、社会・文化の分野にまで顕著に現われた民主主義的、自由主義的傾向。

〔研究状況〕

信夫(しのぶ)清三郎『大正デモクラシー史』(昭和二十九年(一九五四)―三十四年)以来、「大正デモクラシー」の用語がひろく使われるようになった。一九六〇年代の半ばより一九七〇年代にかけて、実証的研究が深化したが、なお見解の対立点が多い。時期については、始点を日露戦争直後に求める点ではほぼ一致しているが、終末については大正末年(信夫・三谷太一郎・筆者)と、満洲事変前(今井清一・金原左門)と両説がある。すなわち政党内閣期を含むか含まぬかの差がある。推進力については、これを官僚勢力に抗争する政党勢力に求めるもの(三谷・升味準之輔)と、政治的自由を要求する民衆運動に求めるもの(江口圭一・金原・筆者)とがある。宮地正人は前半期における民衆の排外主義的傾向に注目して、その政治指導グループを「国民主義的対外硬派」と名づけ、鹿野政直は、民衆意識の分析を通して大正デモクラシーの限界面に着目する。一九八〇年代に入り、政治権力構造および、民衆運動とその統合過程についての、より精密な研究が進みつつある。一方、(一)定義があいまいである、(二)デモクラシーが時代の主潮流ではない、(三)内容がデモクラシーの名称に適合しない、民本主義と呼ぶべきである、などの理由で、「大正デモクラシー」を歴史用語として使用すべきではない、との主張もある。

〔前期〕

大正デモクラシーは大正七年(一九一八)夏の米騒動をはさんで、前期と後期に分けることができる。前期の始点は、明治三十八年(一九〇五)九月に、全国主要都市をまきこんだ日露戦争講和反対運動である。この運動は当初、講和反対というスローガンとともに、非立憲的な桂官僚内閣打倒というスローガンをかかげたが、次第に後者に力点が移動した。運動の主力となったのは都市無産大衆で、労働者階級はその中に埋没していて、まだ独自の政治行動はとらなかった。運動を方向づけたのは、非特権資本を加えた中小商工業者を中心とする都市中間層で、その政治リーダーが、宮地正人により「国民主義的対外硬派」と名づけられた政治家・弁護士・新聞記者グループであった。この運動は、大正デモクラシーを特徴づける都市民衆運動のはじまりであるとともに、第一次西園寺内閣を生み、政党政治への第一歩たる桂園内閣期を開幕させた点で、大正デモクラシーの始点と位置づけることができる。「内に立憲主義、外に帝国主義」という大正デモクラシー出発時の政治理念は、次第に変容した。対外膨張主義はなお国民の心情をとらえていたが、戦時の非常特別税の延長に加える新規増税の負担は、戦後恐慌に直面した民衆の不満をかきたて、各地の商業会議所を中心とする都市民衆の悪税反対運動が議会ごとにくりひろげられた。その政治主張をもっとも尖鋭に展開したのは『東洋経済新報』で、悪税の原因たる軍備拡張をもたらす大陸侵略政策を批判し、小日本主義をとなえて満洲放棄を主張し、内政面では普通選挙にもとづく政党政治の樹立を要求した。大日本帝国憲法の正統的解釈たる天皇主権説に対し、天皇機関説が美濃部達吉によって主張されたのもこの時期であった。美濃部は主権の所在は天皇ではなく国家にありとし、天皇を国家の「最高機関」に位置づけたが、天皇の国務上の権能は、国務大臣を通して「国民代表機関」たる議会の拘束を受けると説き、政党内閣制に合憲性を与えた。このころ市民的自由要求の声もひろがり、平塚雷鳥らによる青鞜社の結成がみられ、夏目漱石・国木田独歩・武者小路実篤らの市民的文学もこの気運の中で育った。日露戦争のさなかに非戦論をとなえた社会主義者たちは、戦後、普選運動に加わり勢力の拡張をはかったが、その主流は直接行動論にとらえられ、民主主義のための日常的闘争を放棄した。民主的潮流との間に生じた隙に乗じ、官僚勢力は「大逆事件」を捏造して社会主義運動を潰滅させ、民主的潮流を阻止しようとしたが、逆にこの潮流は第一次護憲運動となって奔出した。立憲政友会総裁西園寺公望と、官僚派の主流長州閥を代表する桂太郎とが交代で政権をになう桂園時代において、政友会は原敬の指導する積極財政のもと、鉄道・港湾事業など地方利益にこたえ、他方では陸軍の軍備拡張を支持することにより、官僚勢力との協調につとめ、明治四十一年・四十五年と二度の選挙で議席の過半数を占めた。この政友会の伸張は官僚勢力の危機感を深めた。しかし、明治四十一年以来の経済不況の中で積極財政は行き詰まり、官僚勢力内部では、政友会の反対党たる立憲国民党と結んで自前の政党をつくろうとする桂太郎と、これに批判的な官僚勢力の主流山県有朋一派との対立、および軍拡の優先権をめぐる陸軍と海軍との対立がおこり、政友会内部でも薩摩閥と結ぶ西園寺公望・松田正久派と、長州閥と関係する原敬派との対立が生じ、明治天皇の死後、にわかに政局が不安定となった。大正元年十二月、陸軍は二個師団増設を強要して陸軍大臣上原勇作を辞任させ、後任を送らず、第二次西園寺内閣は倒れ、桂園内閣期は終った。代わって登場した第三次桂内閣に対し、閥族打破・憲政擁護を旗印とする全国的な民衆運動(第一次護憲運動)が発生した。桂は新政党立憲同志会を組織することを計画したが、立憲国民党の半数しか呼応しなかった。政友・国民両派は内閣不信任案を提出し、大正天皇は政府の意をうけて政争中止を求める詔勅を西園寺政友会総裁に下したが効果なく、議会を包囲する民衆の圧力の前に、桂内閣は大正二年二月に倒れた。議会に基礎をもたぬ政府は、天皇の権威をもってしても存続できぬことを示した点で、画期的な政変であった。政友会の支持で成立した薩派海軍の巨頭山本権兵衛を首相とする内閣は、外務・陸軍・海軍をのぞく閣僚をすべて政友会員で占め、軍部大臣の任用資格を現役から予備役にまで拡大し、文官任用令を改正するなど官僚勢力に打撃を与える改革を行なった。京大沢柳事件を契機とする大学自治の慣行の承認も、この内閣により行われた。しかし世論の官僚勢力批判および営業税などの悪税廃止要求はなお強く、シーメンス事件の発覚を機に再び倒閣運動がおこり、長州閥のまきかえしによる貴族院の予算案否決によって大正三年三月山本内閣は総辞職した。元老は民衆に人気のある大隈重信を首相に推したが、悪税廃止要求はなおおさまらなかった。このとき政府と官僚勢力にとっての天佑は、第一次世界大戦の勃発であった。政府はただちに参戦して中国に出兵しドイツの租借地青島を攻略した。挙国一致のムードのもと、反政府気運は一掃され、悪税反対運動は消滅した。政府は議会を解散して選挙を行い、与党立憲同志会を勝利させ、政友会の議席を半減させ、懸案の二個師団増設を実現させた。中国に対しては満蒙・山東その他の権益に関する二十一箇条要求を、軍事力を背景に受諾させ、中国の日本に対する敵対感情を決定的たらしめた。大正五年十月、大隈内閣に代わって登場した長州閥の直系寺内正毅内閣は、議会を解散して、立憲同志会の絶対多数を打破し、新総裁原敬の率いる政友会が第一党に復活して、国民党とともに準与党となった。寺内内閣は中国の北方軍閥段祺瑞政権を西原借款によって積極的に援助し、日華共同防敵軍事協定を結んで軍事的影響力を強め、さらにソビエト革命に対する干渉戦争を開始した。他方、国内においては社会主義運動はもとより普選運動や労働運動を圧迫し、言論統制を強化した。この第一次世界大戦下の政治的反動期にも、民主的風潮はおとろえなかった。大戦景気による資本主義の急成長のなかで非特権資本家層は脱落したが、都市中間層や労働者階級の間にデモクラシー運動の根はひろがった。鳥取・高松・広島・呉・滑川などの各地に、選挙権拡張をスローガンに掲げる市民的政治結社が生まれた。大正元年わずか十五人で始まった労働者団体友愛会は、大戦終了時には三万人の全国的労働組合に成長した。新聞雑誌がデモクラシーの風潮を鼓吹する中で、その先頭に立ったのは全国最大の発行部数をもつ東京と大阪の両『朝日新聞』であり、寺内内閣の一大敵国となった。デモクラシーの政治理念を「民本主義」として定式化したのが、東京帝大の政治学教授吉野作造であった。吉野は主権在民を意味する「民主主義」は帝国憲法のたてまえより許容できぬとしながらも、主権運用の目的を民衆の利福におき、その運用の意思決定を民衆にゆだねるという「民本主義」を日本政治の基本理念として設定した。この理念にもとづく政策の基調は次の三点にあった。(一)政党内閣主義。これは普通選挙と言論の自由を前提とし、枢密院・貴族院・参謀本部・軍令部など、議会を制約する諸機構を廃止ないし去勢して、衆議院を事実上の最高機関とすることを意図していた。(二)非膨張主義。中国や朝鮮の民族主義の必然性を認めて民族自決を尊重し、朝鮮の武断的統治および中国への軍事力による侵出の抑制を主張した。(三)労資平等主義。無制限の労働者搾取を許容する治安警察法を改正し、労働組合の存在を認めた上での労資対等関係の確立を説いた。友愛会の創始者鈴木文治は吉野の精神的な弟分で、吉野は積極的に友愛会を支援した。佐々木惣一・大山郁夫・堀江帰一らは吉野と傾向を同じくする政論家であった。文化の世界でもデモクラシー傾向は顕著に示された。文壇では白樺派が全盛期を迎え、高村光太郎・萩原朔太郎・室生犀星らが口語自由律詩の新風をおこした。画壇では横山大観・下村観山らの日本美術院(再興)、土田麦僊・小野竹喬らの国画創作協会、および洋画の二科会が、主流の文部省展覧会(文展)に叛旗をひるがえした。哲学者西田幾多郎・歴史学者津田左右吉・民俗学者柳田国男の独創的な学問の骨格は、この時期に形成された。

〔後期〕

大正七年夏、日本全土を一月半にわたってまきこんだ米騒動は、形態的には多くの労働争議を伴ったほかは、江戸時代の一揆・うちこわしと異ならなかったが、政党内閣を生み出し、組織的民衆運動の起点となったことで大正デモクラシーの画期として位置づけることができる。民衆を代弁して各新聞は連合して寺内内閣攻撃に起ち、九月には無爵の原敬が一党の総裁たる資格で首相に指名され、最初の政党内閣が出現した。このとき第一次世界大戦は連合国の勝利に終り、アメリカ主導によるベルサイユ体制が成立したこと、およびロシア革命を起点として世界に革命と民族独立運動の波紋がひろがったことは、日本の民主化に外圧として作用した。民衆の組織化は飛躍的に進行した。先頭に立ったのは労働者階級で、大正八年には争議数二千をこえる中で、労働団体数は二百を数えた。友愛会を中心に組合間の連合も進んだ。友愛会は、生存・団結・ストライキ・参政の「労働者の四大権利」を主張して普選運動に乗り出し、都市中間層がこれに呼応し、普選運動ははじめて大衆化し全国化した。平塚雷鳥・市川房枝らの新婦人協会が婦人参政権運動をおこしたのはこのときである。労働運動や普選運動の指導理念は民本主義であったが、堺利彦や山川均らを中心とする社会主義者も公然と活動を再開し、急速に影響力を強めた。都市民衆にとって、大正八年初めからの一年半ほど、希望にみちた時期は戦前にはなかったであろう。大戦中の好況が持続するなかで、このとき創刊された二大誌『改造』『解放』の表題に示されるような気分がみなぎった。この時期を限定して「大正デモクラシー運動期」とみなす論者もいるほどである。原内閣は大正八年初めの議会で、明治三十三年以来の衆議院議員選挙法を改正し、選挙権を拡張して有権者を約三百万人へと倍増させ、同時に小選挙区制に改めた上、翌年の第四十二議会では普選運動と正面から対決して議会を解散し、選挙の結果、議席の六割を政友会が占有するという大勝に導いた。このとき戦後恐慌が発生し、守勢に転じた労働運動には政治運動を否認するアナルコ=サンディカリズムが浸透し、普選運動は鎮静した。原内閣は衆議院与党の絶対多数を背景に、貴族院第一党の研究会との提携に成功し、軍備拡張政策により陸・海軍の要望をみたし、かつてない安定政権をきずいた。多年の政敵であった官僚派の頭目山県有朋も原敬の政治力に依存するに至った。原敬はベルサイユ体制に順応して米・英との協調方針をとり、露骨な大陸侵略政策を手控えた。シベリア出兵を縮小し、中国に対する新四国借款団に加わり、朝鮮・台湾総督の任用資格を文武官併任制に改め、軍政的色彩を弱めた。内政でも、公民権の拡張をはかり、陪審法制定を意図するなど漸進的民主化の方向をとったが、普選法や労働組合法の制定など民衆の要求は容れず、かえって治安立法の強化をはかるなど、言論・思想の自由に対する配慮を欠き、「平民宰相」への期待を裏切った。戦後不況は政友会伝統の積極政策を行き詰まらせ、ワシントン会議を目前に控えて政策転換に迫られたとき、大正十年十一月原敬は暗殺された。同月、病弱の父に代わり、裕仁親王が摂政となった。大正十一年初めから翌年の関東大震災までの間は、大正デモクラシーの最盛期であった。ワシントン体制の生み出した平和気運の中に、海軍だけではなく、陸軍の軍備縮小が実行に移され、シベリアからの撤兵も樺太北部を除き実現した。普選運動は大正九年初めの規模にまで復活し、市民政社はその数を増大し、既成政党を支える地方の名望家秩序を動揺させた。農村では小商品生産の発展した近畿型地域を中心に大規模な小作争議が続発し、小作立法と普選を要求する全国組織日本農民組合が急成長をとげた。この組合とほぼ同時、大正十一年三月に発足した被差別部落民の解放組織全国水平社がたちまち全国化したことは、大正デモクラシーの潮流が社会の底辺まで及んだことを示した。この間労働者階級の先進部分は普選運動から脱落したままであった。大正十年春出発した日本共産党も、革命早期到来の幻想から免れえなかった。理論面での最高指導者山川均は、アナルコ=サンディカリズムの克服をめざし、「政治へ、大衆へ」の方向転換論をとなえたが、日本のような後進帝国主義国では政治的自由発達の余地は乏しく、革命勢力にとっては、むしろそれは労働者階級の革命意識を鈍らせ、ブルジョワジーの支配を安定させる、として、普選運動参加に反対した。コミンテルンにより起草された「日本共産党綱領草案」は、共産主義者の普選運動参加と合法的無産政党の結成を指示したが、日本共産党はこれを採択しなかった。民衆の組織化が進みながら、無産政党を中心に一つの政治勢力にまとまらなかった間に、政策の方向転換を行なったのは野党第一党の憲政会であった。大正十一年初めの第四十五議会で、憲政会は新治安立法「過激社会運動取締法案」に反対し、普選と社会政策により国民統合をはかる政策路線を明確化した。院内では野党第三党で院内最左派の国民党と共同して普選法案を提出するとともに、院外でも普選運動に積極的に乗り出し、市民政社の抱込みをはかった。原敬の後任高橋是清総裁の率いる政友会内では、原敬路線の維持をはかる床次竹二郎らの一派と、これを修正して野党路線への接近をはかる総裁派との対立が激化し、十一年六月、高橋内閣は内紛により倒れた。次の加藤友三郎内閣は、政友会を与党としながらも緊縮財政方針をとり、衆議院議員選挙法調査会の答申をもとに、大正十二年六月、臨時法制審議会に選挙法改正を諮問したが、同年八月首相の病死により、関東大震災のさなかに第二次山本権兵衛内閣が成立した。新内閣は十月、普選法採用に踏み切った。これは閣内左派の犬養毅逓相と、右派の平沼騏一郎法相による、普選と新治安立法との抱合せ構想にもとづくものであり、軍部も憲政会もこれに同調した。しかし政友会は内紛を抱えながら反発し、政府の憲政会と国民党の後身たる革新倶楽部とを合同させて与党化する工作も失敗に終り、政府の構想は行悩みとなった。このとき摂政暗殺未遂の虎ノ門事件がおこり、内閣は倒れた。貴族院を母胎として大正十三年一月に成立した清浦奎吾内閣に対する態度をめぐって、政友会は二つに分裂し、憲政会・政友会・革新倶楽部は護憲三派を結成し、政党内閣制の樹立をめざし憲政擁護運動(第二次護憲運動)をおこした。政府は政友守旧派の政友本党を与党として議会を解散したが、五月の選挙では護憲三派が圧勝し、第一党の憲政会総裁加藤高明を首班とする護憲三派内閣が成立した。第二次護憲運動は原敬路線と野党路線との決着をはかる政争であったが、第一次と異なり、運動は階級闘争の誘発を恐れる三派の統制のもとに秩序ある選挙戦に終始し、街頭の民衆運動は姿を消した。第一次のときには存在しなかった無産勢力は、山本内閣の普選表明により、それまでの態度を一転し、アナ系の組合までもふくめて普選利用・無産政党結成へと動き始めたが、第二次護憲運動には一部の組合を除き参加しなかった。彼らは普選を既定の事実とみなし、いかなる内容の普選を実現すべきかの問題にほとんど関心を示さなかった。市民政社は政党色をつよめ、また政党側も中間層獲得のため多くの市民政社・農民政社をつくり出したが、憲政会の傘下に属するものが多かった。

〔結末〕

加藤高明内閣以来、昭和七年五・一五事件による犬養毅政友会内閣の倒壊まで、政友会と立憲民政党(憲政会の後身)の二大政党が交代で内閣を組織する政党政治の時代が展開する。日露戦争前、官僚勢力が支配体制内で占めた統合主体の地位に政党がついたのである。大正十四年の普選法成立の結果、日露戦争前には百万人にみたなかった有権者は本土人口の二割にあたる千二百万を越えた。治安警察法第一七条の削除(大正十五年)および小作調停法(大正十三年)・労働争議調停法(大正十五年)の制定により、労働者・農民の団結権と争議権は形式的にせよ公認された。無制限の労働者搾取は緩和され、半封建的な高額小作料も地域によっては二、三割減額された。労働者・農民の無産勢力は合法無産党の結成によって中央・地方の議会へ進出し始めた。国内民主化の進行と並行して、ベルサイユ・ワシントン体制に順応する協調外交をうたう幣原(しではら)外交が、日本外交の主流を占め、大正十四年には北樺太から撤兵し、日ソ基本条約を結び、ソ連との国交を回復した。軍備は大正四年以来の二十一個師団が、大正十四年には十七個師団へと、日露戦争直後の水準に後退した。これら大正デモクラシーの成果も、明治憲法によって規定された支配体制を一新することはできなかった。憲法改正はもとより、枢密院・貴族院・参謀本部・軍令部など、議会中心主義をおびやかす諸機関の廃止や権限縮小に手をつけることはできなかった。既成政党は、普選法と抱き合わせて治安維持法を成立させ、無産政党の進出を抑制し、また労働組合法などの労働者保護立法や、農民の耕作権を保障する小作法の制定を怠った。昭和初年の政党政治は、大正デモクラシーの指導理念であった吉野作造らの民本主義の主張を実現したものとはならなかった。これは後進帝国主義国における民主化の困難性を示すものであり、日本の政党政治は不安定なものにならざるをえなかった。世界大恐慌の襲来と、大陸の日本権益をおびやかす中国の民族運動発展という新事態に直面し、政党政治は無産政党の要望を入れつつ局面を打開するという方策をとりえず、一度は傘下におさめたかにみえた都市・農村の中間層は離反し、満洲事変の勃発と五・一五事件以後は軍部の主導するファシズム体制に道を譲ることになる。しかし、大正デモクラシーを推進してきた民衆組織と民本主義思想は、戦時下にあっても潜勢力を保持し、太平洋戦争後、占領軍の民主化政策のもとに展開された戦後民主主義を支える基盤となった。
[参考文献]
江口圭一他『大正デモクラシー』(『(シンポジウム)日本歴史』二〇)、由井正臣編『大正デモクラシー』(『論集日本歴史』一二)、金原左門『大正デモクラシーの社会的形成』、升味準之輔『日本政党史論』三・四、宮地正人『日露戦後政治史の研究』、松尾尊〓『大正デモクラシーの研究』、同『大正デモクラシー』(岩波書店『日本歴史叢書』)、三谷太一郎『大正デモクラシー論』、鹿野政直『大正デモクラシー』(小学館『日本の歴史』二七)、今井清一『日本近代史』二(『岩波全書』)
(松尾 尊〓


日本大百科全書(ニッポニカ)

大正デモクラシー
たいしょうでもくらしー

日露戦後から大正末年までの間、政治、社会、文化の各方面に顕著に現れた民主主義的、自由主義的傾向をいう。中心部分を占めるのは明治憲法体制に対抗する政治的自由獲得運動である。

[松尾尊兌]

第一期

1905年(明治38)の日露戦争非講和運動より1912~13年(大正1~2)の第一次護憲運動まで。非講和運動は藩閥政治打破の要求を含み、「外には帝国主義、内には立憲主義」の理念に指導された全国的な都市民衆運動であり、この点より大正デモクラシーの起点とすることができる。「外には帝国主義」の色彩は、1907年より09年にかけて展開された軍備拡張反対、悪税廃止を要求する商業会議所中心の運動を通して弱められた。2個師団増設問題を契機とする第一次護憲運動は、長州閥の桂 (かつら)太郎内閣を倒したが、これは民衆運動が政府を倒した最初の例であり、政党の基礎をもたぬ政府は、天皇の詔勅の権威をもってしても維持できぬことを示した点で画期的な意味をもつ。これら諸運動の中核となったのは、日露戦争後の資本主義の発展が生み出した非特権資本家層と都市中間層であり、普通選挙、軍備縮小、満州放棄を唱えた『東洋経済新報』は、その政治意識をもっとも先鋭に代表するものであった。また美濃部達吉 (みのべたつきち)の天皇機関説は、天皇の神格的絶対性を否定し、衆議院の国家機関における優越性と、政党内閣制の合憲性を主張することにより、護憲運動の要求に、憲法解釈上の合法性を与えた。この時期には市民的自由要求の声も盛り上がり、婦人解放の第一声たる平塚らいてうらの青鞜 (せいとう)社、封建的な束縛に対する自我の解放をテーマとする自然主義や白樺 (しらかば)派の文学運動に形象化された。

[松尾尊兌]

第二期

第一次護憲運動より1918年(大正7)の米騒動まで。第一次世界大戦の開始による大戦景気は、非特権資本家層の反動化をよび、護憲運動により危機に陥った体制は窮地を脱した。しかし増大する都市中間層を基盤に、デモクラシー運動の根は広がり、各地に普選を中心スローガンとする自主的な市民政社が生まれた。最大の発行部数を誇る『大阪朝日新聞』および知識人に人気のある『中央公論』を先頭に、ジャーナリズムはデモクラシー的風潮を鼓吹した。その風潮は、吉野作造 (さくぞう)の民本主義に理念化されている。吉野は、主権在民を意味する「民主主義」を憲法上許容できぬとしながらも、主権運用の目的を民衆の利福の実現に置き、かつその運用を民衆の意思決定にゆだねるという「民本主義」を憲政の基本理念として設定し、これに基づく具体的政策として、内には普選と政党内閣制の採用、外には武断的侵略政策の放棄を説いた。民本主義は鈴木文治 (ぶんじ)により労働運動に適用され、労働組合を媒介とする労資協調主義を唱える友愛会の結成となり、この組織は大戦中に急速に発展した。

[松尾尊兌]

第三期

米騒動より1924年(大正13)の第二次護憲運動まで。内には米騒動、外にはロシア革命以来のヨーロッパにおける革命的諸運動、およびILO(国際労働機関)の影響を受け、勤労民衆の政治的自覚がにわかに高まり、普選運動が全国的大衆運動として展開された。それとともに友愛会の後身日本労働総同盟を先頭とする労働組合運動、日本農民組合を主力とする農民運動、全国水平社の部落解放運動、新婦人協会などによる婦人参政権運動など民衆の実力により、言論・集会・結社の自由が実質的に拡大された。勤労民衆の要求は政治的自由より社会的自由へと拡大され、社会主義が急速に影響力を増大した。しかし社会主義のなかでも、政治行動を否定するアナルコ・サンジカリズムが支配的であったため、先進的労働者は普選運動から離脱した。平和に対する要望も広く民衆の間に強まり、シベリア出兵は国民的支持を欠いて敗北に終わり、ワシントン会議による軍備縮小は民衆に歓迎された。五・四、三・一の両民族運動のためもあって、露骨な中国侵略は手控えられ、朝鮮の武断的同化政策も修正された。最初の政党内閣たる原敬 (たかし)政友会内閣の成立(1918)以来、発言権を強化した政党勢力は、デモクラシー運動の発展に適合すべき政治体制の修正をめぐって政争を繰り広げた。関東大震災と虎 (とら)の門 (もん)事件はにわかに支配層に革命近しの恐れを抱かせ、これを防止し、安定した支配体制を維持するための方策として、普選の採用、政党内閣制の樹立を望む憲政会・革新倶楽部 (くらぶ)・政友会の護憲三派による第二次護憲運動がおこり、旧体制の保持を望む藩閥、官僚勢力および政友本党とを向こうに回しての選挙戦に勝利を得た。

[松尾尊兌]

結末

護憲三派を基礎として成立した加藤高明 (たかあき)内閣以来、1932年(昭和7)の五・一五事件による犬養毅 (いぬかいつよし)内閣の総辞職まで、政友・民政(憲政会の後身)の二大政党が交代で内閣を組織する政党政治の時代が展開する。日露戦前、山県有朋 (やまがたありとも)を頂点とする藩閥官僚勢力が体制内で占めた地位を政党が奪取したのである。普選法成立(1925)の結果、日露戦前100万人に満たなかった有権者は1200万人を超え、本土人口の20%に達した。治安警察法第17条廃止(1926)および小作調停法(1924)、労働争議調停法(1926)の制定により、労働者・農民の団結権と争議権が形式的にせよ公認され、無制限の労働者搾取は緩和され、半封建的な高額小作料も20~30%減額された。労働者・農民の無産勢力は中央、地方の議会に進出し、婦人に地方議会の選挙権を与える婦人公民権法案も1930年には衆議院を通過した。国内民主化の進行と、ベルサイユ・ワシントン体制と称される第一次世界大戦後の、アメリカ主導による新国際秩序の圧力のもと、協調外交をうたう幣原 (しではら)外交が日本外交の主流を占め、軍備も、第一次大戦中(1915)からの21個師団が、1926年には17個師団へと、日露戦争直後の水準に後退した。

[松尾尊兌]

課題

これらの成果も明治憲法体制を一新することはできなかった。憲法改正はもとより、枢密院・貴族院・参謀本部・軍令部など、議会中心主義を脅かす諸機構の権限縮小に手をつけるに至らなかった。既成政党勢力は他方では治安維持法(1925)を制定して無産勢力の政治的自由に新たな拘束を加え、また、労働組合法などの労働者保護法や、農民の耕作権を保障する小作法の制定を怠った。このため、世界大恐慌の襲来(1930)、大陸における日本権益を脅かす中国民族運動の発展という新事態に直面し、政党政治は無産勢力の要望を入れつつ局面を打開する方策をとりえず、一度は傘下に収めた中間層を含む民衆の信頼を喪失し、満州事変勃発 (ぼっぱつ)以後軍部ファシズムの興隆に道を譲ることになった。しかし、大正デモクラシーを推進した民衆組織と思想は戦時下といえども潜在勢力を保持し、戦後、占領軍の非軍事化政策のもとに展開された戦後民主主義を支える基盤となった。

[松尾尊兌]



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大正デモクラシー
たいしょうデモクラシー

大正時代の特徴をなす,政治,社会,文化の各方面にあらわれた民主主義的・自由主義的傾向をいう。日露戦争以後のアジアにおける国際的緊張関係の緩和,第1次世界大戦後のベルサイユ体制の成立による国際協調気運の発展を外部環境とし,資本主義の急速な発展にともない成長した都市中間層・無産階級の政治的・市民的自由への自覚を内発要因として,この傾向は形成された。政治面では普通選挙制度や言論・集会・結社の自由に基礎をおく議会中心政治,外交面では武断的な侵略や植民地支配の停止,社会面では団結権,ストライキ権など社会権の承認,半封建的地主小作関係の廃絶,被差別部落民の解放,男女同権,文化面では国家主義に対抗する自由教育,大学の自治,美術団体の文部省支配からの独立等々,さまざまの課題を掲げた自主的集団による運動が展開され,民主主義へ,自由主義への時代思潮をつくりだした。これらを総称して大正デモクラシー運動,あるいは略して大正デモクラシーと呼ぶ。

 その中心をなすのは明治憲法体制の改革をめざす政治運動で,その一貫した担い手は都市中間層であるが,第1次大戦前では非特権資本家(非財閥系資本家)層,戦後では都市・農村の無産階級を加える。有力な指導理念は民本主義で,その唱道者としては吉野作造が著名である。しかし,戦後,社会主義とくに政治否定のアナルコ・サンディカリスム(サンディカリスム)が無産階級の先進的部分をとらえると,運動に分裂と動揺が生まれた。運動の帰結は大正末年の加藤高明内閣の諸改革であるが,普通選挙制は実現したものの,言論・集会・結社の自由の制度的保障は獲得されず,逆に治安維持法により新しい規制が加えられた。また議会を拘束する枢密院,貴族院,軍部などの諸機関の権限にも変更は加えられなかった。このことが大正デモクラシーの産物としての政党政治体制の基礎をいちじるしく薄弱なものとした。大恐慌の襲来に有効に対処しえない政党政治に失望した中間層・無産階級は,満州事変により,デモクラシー運動の底部に沈静していたナショナリズムを噴出させられ,軍部主導のファシズム体制へと導かれる。大正デモクラシーの国民的経験によってのみ,戦後民主主義の定着化がありえたのである。

 大正デモクラシー運動は,ブルジョアジーの反動化した帝国主義時代に展開されたため,先行する民主主義運動たる自由民権運動に比べ,目標も組織体も指導理念も多様性を帯びている。このため大正デモクラシーの性格規定においてさまざまの説が生まれ,時代区分についても,1905(日露戦争終結)-25年(加藤内閣の改革),1918(第1次大戦終了)-31年(満州事変開始),1905-31年などの諸説がある。いずれにせよ大正天皇の在位期間(1912-26)を中心部分とし,1918年を一つの画期とみる点において共通している。

 なお,大正デモクラシーが人民主権をめざすものでないという理由,あるいは内容があいまいであり,かつ第2次大戦後の造語で,そのうえ大正時代の基本特徴を示す言葉として不適当であるなどの理由をもって,歴史用語として〈大正デモクラシー〉を否定する説も存在する。しかし,この言葉は,信夫清三郎《大正デモクラシー史》(1954)以来学界において市民権をもち,かつ同時代の言論人石橋湛山も,大正時代を〈デモクラシーの発展史上特筆大書すべき新時期〉(《大正時代の真評価》)と認識していることからいっても,これを抹殺することは不可能であろう。
→護憲運動 →大正時代
[松尾 尊兊]

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1. 大正デモクラシー
日本大百科全書
「外には帝国主義、内には立憲主義」の理念に指導された全国的な都市民衆運動であり、この点より大正デモクラシーの起点とすることができる。「外には帝国主義」の色彩は、
2. 大正デモクラシー
世界大百科事典
され,民主主義へ,自由主義への時代思潮をつくりだした。これらを総称して大正デモクラシー運動,あるいは略して大正デモクラシーと呼ぶ。 その中心をなすのは明治憲法体
3. たいしょう‐デモクラシー[タイシャウ‥]【大正─】
日本国語大辞典
に理論化された。*日本の思想〔1961〕〈丸山真男〉一・二「日本のリベラリズムあるいは『大正デモクラシー』の波が思想界に最高潮に達した時代においても」タイショ
4. たいしょうでもくらしー【大正デモクラシー】 : 近代
国史大辞典
大正デモクラシー大正デモクラシーの解釈は上部の政治面のみならず、下部の底辺からの民衆意識の盛り上りにその基盤を求めようとする見解が最近高まっている。そう
5. たいしょうでもくらしー【大正デモクラシー】 : 近代/(七)
国史大辞典
(七)大正デモクラシー  しかしその閉塞状況をうち破るように、新しい思潮が各方面に出現した。武者小路実篤・志賀直哉らの『白樺』の運動、平塚らいてうらの『青鞜』
6. たいしょうデモクラシー【大正デモクラシー】
国史大辞典
大正デモクラシーの研究』、同『大正デモクラシー』(岩波書店『日本歴史叢書』)、三谷太一郎『大正デモクラシー論』、鹿野政直『大正デモクラシー』(小学館『日本の歴
7. たいしょうデモクラシーきのせいじ【大正デモクラシー期の政治】
国史大辞典
⇒松本剛吉政治日誌(まつもとごうきちせいじにっし)
8. あかいとり【赤い鳥】
国史大辞典
創始発展は、児童教育界に多大の影響を与えた。童心主義を基調とした小市民性をもっていたが、大正デモクラシーの思潮を背景に児童文化の創造に寄与した業績は高く評価され
9. 朝日新聞
日本大百科全書
寺内正毅まさたけ内閣弾劾の筆鋒ひっぽうであった。当時、鳥居素川編集局長を先頭とする『大阪朝日新聞』は、大正デモクラシー運動の一方の旗頭となり、寺内軍閥・官僚内閣
10. 朝日新聞
世界大百科事典
,全国高等学校野球選手権大会)が開かれ,アマチュアスポーツの育成におおいに貢献している。大正デモクラシー期にはおおむね普通選挙実施,軍縮支持の論陣を展開,また第
11. 新しき村
世界大百科事典
全うすることをめざした。ロシア革命の成功による社会主義思想の普及,国内の政治的経済的混乱,大正デモクラシーの運動など多様な社会的要因に,実篤のトルストイズムが結
12. あべいそお【安部磯雄】
国史大辞典
また講道館の嘉納治五郎らとともに、翌四十四年大日本体育協会を創立し、わが国のスポーツ界に貢献した。その後大正デモクラシー運動の興隆とともに社会運動に復帰し、大正
13. アメリカ合衆国画像
日本大百科全書
どの多くは、アメリカに学ぶところが大きかった。 日米の緊張に一時的な融和が訪れたのは、「大正デモクラシー」時代である。第一次世界大戦(1914~1918)でドイ
14. アメリカがっしゅうこく【アメリカ合衆国】
国史大辞典
きわめて不利なものであり、日本海軍関係には反米思想が高まったが、二〇年代の日本はいわゆる大正デモクラシーの時代で、政界指導者はアメリカとの友好関係を推し進め、軍
15. アメリカ文学
世界大百科事典
見いだし,民衆詩派はデモクラシー詩人として彼をほとんど神格化し,翻訳紹介もおおいに行い,大正デモクラシーの風潮に助けられて,一時期,彼を詩壇の中央にすえた。そし
16. 育児
日本大百科全書
、子どもの本性・個性に沿った個人志向的な社会化の萌芽ほうがをみることができる。とはいえ、大正デモクラシーの風潮のなかで、近代的市民意識をもった知識層、新中間層の
17. 石橋湛山
世界大百科事典
継承,内における民主的政治体制の樹立と,外における帝国主義外交の廃止,とくに植民地放棄の主張をもって,大正デモクラシーの思想的頂点に立った。早くからケインズ理論
18. いちかわふさえ【市川房枝】
国史大辞典
愛知女子師範学校を卒業、小学校教員や『名古屋新聞』記者として職業婦人の体験をもった。当時大正デモクラシー期をむかえ、婦人問題に使命を感じて評論家山田わかを尋ねて
19. いまい-せいいち【今井清一】
日本人名大辞典
娘。丸山真男(まさお)にまなび,昭和40年横浜市立大教授,平成3年湘南国際女子短大教授。大正デモクラシーやファシズムを中心に近現代史を専攻。昭和30年の遠山茂樹
20. 今村紫紅
世界大百科事典
美の反面である醜をも積極的にとりあげて自我の表現を主張,現代画に通じる道を開いた役割は大きく,その生涯は大正デモクラシーのさきがけをなす。酒を好み36歳で没した
21. ウェッブ(Sidney James Webb)
世界大百科事典
し,日本の講壇社会主義者と接触し,京城(ソウル)で日本の朝鮮統治を観察した。共著の邦訳は大正デモクラシー期に多く,《国民共済策》(原著1911,大日本文明協会訳
22. 浮田和民
日本大百科全書
明治から大正時代の政治学者。大正デモクラシー運動初期の代表的な思想家。安政あんせい6年12月28日、熊本藩士の子として生まれる。熊本洋学校、同志社英学校(同志社
23. 浮田和民
世界大百科事典
1859-1946(安政6-昭和21) 政治学者。大正デモクラシー運動初期の理論的な指導者の一人。熊本県出身。熊本洋学校,同志社卒業後,イェール大学に留学。同志
24. うきたかずたみ【浮田和民】
国史大辞典
誌『太陽』の主幹を兼務し、同誌の花形論客として立憲主義論を精力的に展開することによって、大正デモクラシー運動初期の代表的な思想家としての役割を果たした。明治四十
25. 内田良平
世界大百科事典
奔走した。辛亥革命に当たっては,宮崎滔天らと有隣会を組織したが,すぐ満蒙独立構想を主張,大正デモクラシー運動高揚期には白虹事件(1918)をはじめ,デモクラシー
26. うちだ-りょうへい【内田良平】画像
日本人名大辞典
明治34年黒竜会を創立。日露戦争後は「日韓合邦」運動をすすめる。ロシア革命後シベリア出兵を主張し,大正デモクラシー運動に対抗。昭和6年大日本生産党を結成し総裁。
27. うぶかたとしろう【生方敏郎】
国史大辞典
たが、生涯の大半を自由なエッセイストとして送った。明治末年より昭和初年にかけてのいわゆる大正デモクラシー期には、ときの権力や資本家を諷刺する評論や短篇を『文章世
28. 右翼
日本大百科全書
が顕著にみられた。 観念右翼とは別の本来の「近代的」ファシズム団体は、第一次世界大戦後の大正デモクラシーの時代に叢生そうせいする。すなわち、大戦後ヨーロッパの自
29. えど・とうきよう【江戸・東京】東京都
日本歴史地名大系
神楽坂(現新宿区)など、少なくない花街が登場して、それらを中心に盛り場も発展した。〔日比谷焼打ち事件、大正デモクラシーの開幕〕日露戦争(明治三七―三八年)後から
30. 海老名弾正
世界大百科事典
方法として推進したが,同時に,宗教的意識の普遍性のゆえに,それを備えた人間の価値を唱え,大正デモクラシーの首唱者吉野作造や社会的基督教の指導者中島重(しげる)な
31. えびなだんじょう【海老名弾正】
国史大辞典
化発展を説いた。また神との人格的関係に生きる人間の尊厳を強調し、同胞博愛の精神を教えて、大正デモクラシーの首唱者吉野、社会的キリスト教の提唱者中島重を啓発した。
32. エールリヒ(Eugen Ehrlich)
世界大百科事典
れており,これによりM.ウェーバーと並ぶ法社会学の創始者とされる。彼の考え方は,日本では大正デモクラシー期における末弘厳太郎の市民法学に生かされ,第2次大戦後の
33. 欧化主義
世界大百科事典
それ以後,欧化主義と国粋主義とは対立しつつ併存し,それぞれのしかたで近代日本の国家体制を支える。ただ,大正デモクラシーやとくに昭和の共産主義のように欧化主義が国
34. 小川未明
日本大百科全書
労働文学の雑誌『黒煙』を指導するかたわら日本社会主義同盟の創立にも参加した。またこの時期には、大正デモクラシー思潮に支えられた『赤い鳥』の創刊なども影響して、処
35. 小倉清三郎
世界大百科事典
科学的に究明する決意を固めた。1913年,《相対会第一組合小倉清三郎研究報告》第1集を発行。大正デモクラシーの機運に乗って,一時は平塚らいてう,坪内逍遥,芥川竜
36. 大仏次郎
日本大百科全書
長兄に野尻抱影ほうえいがいる。東京府立第一中学校から旧制第一高等学校を経て東京帝国大学政治学科に学ぶ。大正デモクラシーの洗礼を受け、それ以後リベラルな立場をとる
37. おんな二代の記 195ページ
東洋文庫
どこの何ものともわからぬというので、本名の上に小さく「無名氏」と注をいれたものでした。この時代からいわゆる大正デモクラシーの論争がさかんになったわけです。 八月
38. おんな二代の記 318ページ
東洋文庫
とげた大正中期から、社会問題や労働運動がようやく軌道にのり、民主的思想がさかんに起っていわゆる大正デモクラシーの風潮を作ったのでしたが、女子教育は依然として国文
39. おんな二代の記 343ページ
東洋文庫
すでに明治末期から大正初期にかけて自由主義、社会主義の思想はようやく根づきはじめ、それが大正デモクラシーを育てていたのだが、『青踏』の婦人解放論もその一端をにな
40. かいきゅうとうそう【階級闘争】
国史大辞典
歴史研究の方法として重視するようになったのは、大正期の資本主義の危機の進行のなかで行われた大正デモクラシー・米騒動などの巨大な歴史的経験を経て、歴史における人民
41. 改造
日本大百科全書
総合雑誌。改造社から1919年(大正8)4月、山本実彦さねひこが創刊。大正デモクラシーの思潮を背景として生まれた社会問題や社会主義思想に関する論文を掲載し、河上
42. 改造
世界大百科事典
大正デモクラシー運動の高揚期に改造社の山本実彦(さねひこ)によって1919年(大正8)4月創刊された総合雑誌。創刊当初は明確な編集方針をもたず発行部数3万部(定
43. かい‐ほう[‥ハウ]【解放】
日本国語大辞典
まだ千二百四十五万」【二】総合雑誌。第一次創刊は大正八年(一九一九)で、大鐙閣から発行。大正デモクラシー思潮を背景に社会主義的傾向を示す。同一二年終刊。全五二冊
44. 革新倶楽部
日本大百科全書
大正時代の自由主義的政党。大正デモクラシー運動の高まりのなかで、立憲国民党を中心とする45名の代議士によって1922年(大正11)11月8日に結成された。党首を
45. 革新俱楽部
世界大百科事典
大正時代の自由主義的政治クラブ。大正デモクラシー運動が高まるなかで,普通選挙の即時実施などの政治革新を主張する立憲国民党が中心となり,無所属俱楽部や憲政会脱党組
46. カチューシャの唄
日本大百科全書
また『復活』公演の人気とも相まって各地に広まったが、全国的に歌われるのは同年6月中旬以降である。 大正デモクラシー高潮という時代背景がある反面、逆に第一次世界大
47. 加藤高明画像
日本大百科全書
「苦節十年」を余儀なくされた。 三菱からの豊富な政治資金により党内の統制を図るとともに、大正デモクラシー運動の高揚に対応して普通選挙即行論に踏み切り、1924年
48. 加藤高明内閣画像
日本大百科全書
による連立内閣。護憲三派内閣と通称されたこの内閣の成立により政党政治が確立したが、それは大正デモクラシー運動に示された人民のエネルギーを政党が巧みに吸収しつつ天
49. かの-まさなお【鹿野政直】
日本人名大辞典
沖縄史,民間学などの研究をすすめる。大阪出身。早大卒。著作に「資本主義形成期の秩序意識」「大正デモクラシーの底流」など。
50. かんとうぐん【関東軍】画像
国史大辞典
六個大隊が新設され、駐箚師団は一個師団に縮減され、のちの関東軍編成の基幹ができた。さらに大正デモクラシーの風潮と、朝鮮での独立運動の発生に鑑み、一般的に日本の植
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