アイヌは、日本列島北部に先住してきた独自の言語と文化をもつ民族である。
アイヌ語でアイヌとは人間を意味し、自らの居住する領域を陸と海を含めてモシリとよんでいた。アイヌの占有的に生活する領域はアイヌモシリ、すなわち人間の大地、人間の世界を意味する。近代の日本とロシアの国家体制に組み込まれるまでアイヌは、現在の北海道島を中心にサハリン(樺太 (からふと))南半部や千島(クリール)列島、さらに本州の北端を含む広大な地域を活動の舞台にしていた。
現在、アイヌは日本国内に大部分が居住し、北海道に約2万4000人、関東に約3000人を数える。日本全体では少なくとも3万人以上が生活していると推定される。また、ロシアのサハリン州に自らがアイヌとして民族名の登録をする者がごくわずかながら存在する。日本領有時代の1939年(昭和14)の統計によれば、サハリン島の南半部のアイヌは1263人であった。また色丹 (しこたん)島には北千島から強制的に移住させられたアイヌがわずかながら居住していた。この地域は、近世末までアイヌが歴史的に居住してきた地域、すなわちアイヌモシリの歴史的伝統をふまえている。アイヌモシリは大きく三つの集団に分けられ、その差異は、言語学的にも認められる。北海道方言の集団は北海道島と国後 (くなしり)・択捉 (えとろふ)両島を含む地域、千島方言はウルップ島以北の千島列島の地域、樺太方言はサハリン島の南半部の地域であり、この方言の差は文化的な諸要素にも及んでいる。
アイヌは基本的に自然物に依存した生活形態を日常としてきた。つまり食料はもとより日常生活に必要な素材の大部分を漁労、狩猟、植物採集という手段で自らの手によって得てきた。しかし、アイヌ社会は、自給自足の採集経済のみという閉ざされたものではなく、活発な交易活動を展開し、これに対応し得る大量の商品生産を組織的に行っていたことが、近年明らかになってきている。ことにラッコやオットセイ、テンなどの毛皮や、コンブやアワビなどの海産物を商品化していた。自然物のみに依存する脆弱なアイヌ社会のイメージは、見直しを迫られている。
北海道島でみるかぎり、13~14世紀ごろには、隣接する日本(本州以南の和人社会)や中国との直接的間接的な商品経済活動圏に組み込まれて、アイヌ社会はこれに対応できる商品生産を可能にする大きな川筋などを単位とする地域集団としての強い結束をもった社会へと転換したと考えられる。このことは、最近の考古学的な発掘調査の目覚ましい成果によって明らかにされつつあるのである。たとえば、少なくとも15世紀以前に用いられたとみられる大型の板綴船が北海道各地から出土しているばかりか、交易によってもたらされたとみられる大陸製や日本製の金属器や漆器、織物やガラスなどが出土している。イタオマチップとよばれる積載量の大きい板綴船を用いて盛んに行われたアイヌの自立的交易活動による文化交流や技術移転は、アイヌ社会と文化に大きな刺激を与えた。
この交易を通して、アイヌ自らの言語と他者との言語の違いをはじめ、風俗・習慣という文化の相違を強烈に意識したとき、文化や利害を共有する仲間意識で結ばれた集団結合が強固に形成されていったと推定される。この時期をもって、今日でいう民族としてのアイヌとその文化の大枠が形成されたとみたい。他者が外見ですぐさまアイヌであることを識別できるアイヌ文様で飾られた衣服は、まさにこの所産である。
アイヌは19世紀初頭に幕府によって大陸との往来を禁止されるまで、自由に交易や中国への朝貢を行っていた。これ以後、アイヌが介在していた交易活動は幕府が直轄経営するいわゆる山丹交易として、アイヌを排除して幕府の崩壊まで存続した。
1868年の明治政府の成立とともに、蝦夷 (えぞ)地は北海道と改称され、翌年、開拓使が設置された。先住民であるアイヌの土地は「無主地」として国有化され、本州からの多数の日本人移住者が送り込まれて、急速にしかも大規模に農業、鉱業、林業、漁業などを経営する「開拓」が行われた。とうぜん道路、港湾、鉄道などの整備も一体化して進行した。そのため豊かに限りない自然の恵みをアイヌにあたえてくれた環境は、またたくまに破壊されていった。原野も焼き払われて耕牧地にされ、狩猟や漁労の権利も奪われてしまった。このように伝統的な居住地での生活を追われ、アイヌはいやでも開拓に伴う賃労働で生活するしか方法がなくなっていった。採集民文化としてはもっとも成熟した段階に到達していたとみてよいアイヌは、明治政府による先住民としての権利の無視にくわえて、日本文化への同化を強いられ、目に見える範囲ではその文化の独自性を急速に失っていった。ことに、母語であるアイヌ語が公教育の場で禁止され、日常会話においても民族語を用いる機会は失われていった。
しかし、1970年代後半より、国際的な先住民運動の高まりのなかでアイヌも世界の先住民と交流を深め、自らの民族的権利獲得と伝統的な文化再生の必要性を自覚していった。アイヌの民族的権利獲得の運動は、アイヌ最大の組織である北海道ウタリ協会を中心に多くの同族の支持によって進められた。その結果、アイヌを民族として否定する同化政策法ともいえる1899年(明治32)に制定された「北海道旧土人保護法」の廃止と、新たな民族の尊厳と権利を保証する法律の制定を求める声は、全国的に展開され、国や北海道などの関係機関も具体化に向けて動き出した。そして1997年(平成9)5月8日に、アイヌ新法が国会で可決成立し、7月1日に施行された。
しかし、公教育の場をはじめさまざまなメディアを通して誤ったアイヌ像が植え付けられており、民族的な差別と偏見が払拭されない現状にあると言わざるを得ない。アイヌ新法では、これらの誤った認識を正すための事業を行うが、その主体は財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構である。これからの事業活動の成果が新法の将来に影響する重要な組織である。まだ、事業も緒についたばかりであり、今後に期待したい。
なお、新法が制定される以前から取り組まれていたアイヌ語学習の場は、1998年現在、北海道内に14か所が設置され、また、アイヌの伝統的な歌舞も古式舞踊として文化庁より17団体が無形民俗文化財に指定されて次世代への継承が図られつつある。工芸技術の分野も機動訓練などの形で学習の場が設けられている。
アイヌ民族の歴史
アイヌ文化の成立
考古学からみたアイヌ文化を北海道の擦文 (さつもん)文化消滅以降と考えると、その成立年代は13世紀末ごろとすることができる。アイヌ文化の成立の基盤となったのは擦文文化であり、その担い手もアイヌであるといえる。そしてその存続年代と文化圏などから考えて、それは「エゾ」(蝦夷)とよばれる人々と結び付けることができる。
アイヌ文化の成立期を13世紀以降から15世紀ころと考えると、その時期になんらかの「アイヌ文化の基本形態の形成」があったとしなければならない。考古学の成果をみると、住居構造の転換に伴う内耳 (ないじ)土器そして内耳鉄鍋 (てつなべ)の使用がその時期にみられる。それは、壁際に設けられたかまどによる生活から、屋内中央に設けた炉を囲む生活への転換を意味する。火に対する信仰・儀礼形態が確立しつつある時期であり、火と火の神への祈りを生活の中心に置いたアイヌの精神的な変換期でもある。それを推進させた外的要因として、内耳鉄鍋で代表させうる各種の本州産品の北海道への流入がある。外的物質文化による変換である。そしてこのような和産物の流入は、平等、互恵的な交易ではなく、アイヌ地への武力を背景にした和人の侵略を伴うことになる。その結果、アイヌは自己の手になるチャシ(砦 (とりで)、柵 (さく))を構築し、和人と相対することとなる。ここにアイヌ文化の重要要素の一つであるチャシが登場し、それは16世紀以降にきわめて軍事的色彩を濃くしていき、1789年のクナシリ・メナシの戦いまで続く。
一方、炉と火の神を中心とした精神的変換を契機に諸儀礼の確立がみられる。考古学的には「物送り場」の調査によって証明される。食用動物や日常生活具、祭具などの霊的存在を天上の神々のもとに送り返す儀礼の最終的な場である。その対象がすべてにわたり、かつ送り場の数も増加するということは、擦文文化以降の精神的変革を意味している。この送り儀礼の最高の姿が仔熊 (こぐま)飼育型のイオマンテである。また死者に対しては伸展葬の墓制が確立してくる。このように擦文文化を基盤として、一部に骨塚儀礼や動物信仰などのオホーツク文化の精神文化的影響を受けて、アイヌ文化が成立してくるわけである。考古学的には18世紀末までの「原アイヌ文化」とそのあと現代までつながる「新アイヌ文化」に分けられる。
和人の進出
1457年(長禄1)蝦夷 (えぞ)地南部で起こったコシャマイン(?―1457)らの一大蜂起 (ほうき)は、アイヌ勢有利のうちに戦いを進めながらも、結果的にはアイヌ側の敗北に終わる。こののち、およそ1世紀にわたってアイヌ、和人間の闘争が続けられる。そのおもなものには、1515年(永正12)のショヤコウシ兄弟の蜂起、1529年(享禄2)タナサカシ(?―1529)の蜂起、1536年(天文5)タリコナ(?―1536)の蜂起などがあるが、そのいずれもが謀略をもってアイヌの指導者を殺すことで収拾が図られている。こうしたアイヌ・和人闘争の過程で和人勢力の再編が進み、安東氏一派から蠣崎 (かきざき)氏(後の松前氏)への勢力の交代があり、蠣崎氏によって蝦夷地の和人が統一される。1550年(天文19)には、蠣崎氏とセタナイのハシタイン(生没年不詳)、シリウチのチコモタイン(生没年不詳)との間に一種の和平協定(蝦夷商船往還の制)が結ばれ、アイヌ・和人の協調の時代となった。
こののち、松前氏が豊臣 (とよとみ)秀吉、徳川家康によって蝦夷地の支配権を認められ、松前藩が成立する。米のとれない蝦夷地では、要所要所に商場 (あきないば)(場所)という交易所を設け、そこでの対アイヌ交易権を家臣に知行として与えた。商場は複数のコタン(集落)を含んだり、従来のアイヌの勢力範囲を越えて設けられたり、さらに交易に不正が伴うなど、アイヌの側の不満が高じていき、ついに1669年(寛文9)に大規模なアイヌの蜂起となる。有名な「シャクシャインの蜂起」である。和人がシャクシャイン(?―1669)らを謀殺することで戦いは鎮められるが、この戦争を収拾することで、松前藩は実質的な蝦夷地全域の支配権を確立する。この前後から知行地である商場の経営を、運上金を収めることで商人にゆだねるようになる。「場所請負制」である。これによってアイヌは、和人による蝦夷地支配という枠のなかに組み込まれ、従属を余儀なくされる。商人は利潤をあげるためにアイヌを酷使し、また、梅毒などの伝染病を持ち込むなどの無理無体を重ねた。そうした不満が高じて、1789年(寛政1)にはクナシリ、メナシなど東部のアイヌが蜂起した。このクナシリ・メナシの戦いでは松前藩の正規兵は直接戦闘を行わず、むしろ、和人の意向をくんだイコトイ(?―1820)、ツキノエ(生没年不詳)らの同胞の説得によって蜂起を収拾した。この蜂起を最後として、大規模なアイヌ・和人闘争は終わりを告げる。アイヌは完全に和人の支配下に入るのである。
この間のアイヌと和人の勢力関係は、1550年の協定までをアイヌ和人拮抗 (きっこう)期、シャクシャインの蜂起前後までを和人優位期、それ以後を和人支配期とそれぞれ性格づけることができよう。
開拓以後
明治維新以降のアイヌは、幕末以来急速に進められていた内民化政策をいっそう受けることとなった。まず、それまで「異域」を意味した呼称方式「蝦夷地」が、古代以来の国家領域の理念といえる北海道と改称され、明治国家の行政区画割が導入されるに至り事実上消滅する。それとともに、もともとその土地に居住していたアイヌは、戸籍法の施行に基づき平民籍に編入され、日本式姓名をもって戸籍簿に登載される一方、「旧土人」といった新式呼称方式の創出によって「新平民」同様、別の差別を受けることとなる。
こうして外面的に明治国家の構成員に加えられたアイヌは、明治政府によって一貫して「内地人民と同一」になること、すなわち「同化」政策(勧農と教育をセットにした統合)を受けることとなる。具体的には、男子の耳環 (みみわ)、女子のいれずみの禁止などをはじめ、アイヌ固有の生産様式である狩猟、漁労法の禁止などが、アイヌ側の抵抗にもかかわらず強引に実行され、あわせて勧農や日本語、日本文字使用が奨励された。またアイヌの子弟多数が東京の開拓使仮学校に送られ、そこで日本式教育を受けたのをはじめ、樺太 (からふと)(サハリン)と千島の領土の交換(1875)によって両地方から強制移住させられたアイヌへも勧農と日本式教育が実行された。それらは急激な生活環境の変化をもたらし、アイヌをいっそう衰微させるのみであった。
1899年(明治32)「北海道旧土人保護法」が制定され、アイヌの農耕民化と日本式教育の徹底を通して「皇国臣民」化の完成が意図された。施行後17年を経過した1916年(大正5)では、アイヌのうち農業従事者は52%に達したが、年間の収入は一般農家の4分の1程度にすぎず、格差は歴然としていた。教育においても、アイヌの子弟のみを教育する「旧土人学校」が1901年(明治34)から1916年(大正5)までに21校(うち2校はすでに廃校)開校され、アイヌの子弟の就学率も1901年に45%弱(全道平均77%)であったものが、15年後の1916年には94%弱(同99%)と著しく高まった。しかしこの数字の裏には、アイヌの統合に対するとまどいや不信感を読み取らねばならない。
そういう過程でアイヌの自発性を引き出し、主体性をある程度認める小組織集団づくりが官主導のもとに進められた。すなわち青年団、処女会などの名称をもって、知徳の啓発、生活改善、貯蓄奨励、飲酒矯正など、いわば「臣民」としての要素の修養を等しく掲げた「地方改良運動」の展開である。
やがて昭和初期に入ると、これらの運動が発火剤となってアイヌ自身による二つの動向を生み出した。一つは、近代におけるアイヌの苦悩はまさしく北海道開拓にあると糾弾する個性の形成と、一つは、自主的に自民族の生活改善と「同化」を高めようとする運動の出現である。前者が違星北斗 (いぼしほくと)による短歌運動(同人誌『コタン』)であり、後者が北海道アイヌ協会の運動(機関誌『蝦夷の光』)である。満州事変が契機となった「国民自力更生運動」は、アイヌの居住する村々へも浸透し、チン青年団(『ウタリ之光り』)や北海小群更生団(『アイヌの同化と先蹤 (せんしょう)』)などの運動となって現れた。そしてアジア太平洋戦争ではアイヌも出征兵士として多数戦場に送られ、中国や沖縄で「皇軍アイヌ兵」として戦った事実が明らかにされている。
敗戦後、民主化の動きとともにアイヌ問題への新たな取組みが活発化し、『アイヌ新聞』(アイヌ問題研究所)や『北の光』(北海道アイヌ協会)などが発刊された。
その後1970年代以降、民族問題としてアイヌ民族をはじめ民族を超えた幅広い層の人々によって民族差別、教育、民族文化保存の問題など、民族の誇りと人権の復権を目ざした粘り強い闘いが展開されるに至った。そのような活動とともに1980年代にははじめて『アイヌ資料集』全15巻(1980~1985年)が刊行され、アイヌ史研究の基本文献が復刻されたり、北海道ウタリ協会アイヌ史編集委員会による『アイヌ史』資料編1~4、活動編(1988~1994年)が刊行されるなど、アイヌ民族独自の歴史編纂 (へんさん)活動が活発化した。
これらを受けて1994年(平成6)6月に北海道立アイヌ民族文化研究センターが札幌に開設され、全国初のアイヌ民族文化の総合的な研究機関が誕生した。それとともに同年7月には萱野茂 (かやのしげる)(1926―2006)参議院議員が繰上げ当選を果たし、アイヌ民族では初の国会議員の誕生となった。そして懸案だったところの「北海道旧土人保護法」の廃止と「アイヌ新法」の立法化を積極的に働きかけ、1997年5月「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(アイヌ文化法)を公布、同年7月施行となった。これに伴い、「北海道旧土人保護法」「旭川市旧土人保護地処分法」は廃止された。また、アイヌ文化法に基づき同年7月、財団法人「アイヌ文化振興・研究推進機構」が設立され、アイヌ民族の誇りが尊重される社会を目ざして大きな第一歩を踏み出した。しかし、いまなおアイヌ民族問題はさまざまな面で多くの課題を残している。
アイヌの形質
和人をはじめとする周囲のモンゴロイド人種と比較した場合、北海道のアイヌは次のような身体的特徴をもっている。
(1)皮膚の色が、黄色みの乏しい明褐色である。
(2)新生児の仙骨部の皮膚の色素斑 (はん)(児斑)がまれにしかみられない(11%)。
(3)体毛が比較的太く、かつ長い。
(4)頭毛が波状を呈し、断面形が扁平 (へんぺい)である。
(5)脳頭蓋 (とうがい)の前後径が大きく、頭長幅示数が長頭に近い中頭型(76.6%)である。
(6)顔高が低く、頬骨弓 (きょうこつきゅう)幅が広い。
(7)眉稜 (びりょう)、鼻骨の隆起が強く、目はくぼみ、上瞼 (まぶた)は二重 (ふたえ)瞼が多く、内眼角ひだ(蒙古ひだ)は少ない(5%)。
(8)耳垂が発達し、癒着型は少なく、遊離型がほとんどである(95%)。
(9)耳垢 (じこう)は湿型が非常に多い(87%)。
(10)歯の咬合 (こうごう)型式は鉗子 (かんし)状が多い。
(11)身長は、1890年代の小金井良精 (よしきよ)による調査では男性平均156.6センチメートル、1950年代の小浜基次 (こはまもとつぐ)(1904―1970)らの調査では同じく160.1センチメートルと報告されており、同時代の和人の平均と大きな差はないが、体の比例についてみると上肢長、下肢長が相対的に長く、胴の長さが比較的短い。
(12)手の指紋には渦状紋が比較的少なく蹄 (てい)状紋が多い。以上の特徴は、北海道アイヌばかりでなく、樺太アイヌ、千島アイヌにもほぼ共通して認められるが、樺太アイヌは北海道アイヌに比べてやや顔高が大きく、千島アイヌはやや低身で短頭という傾向をもっている。
現生人類の人種分類体系のなかでのアイヌの位置づけについては、古くから多くの説があって、いまだに意見の一致がみられていない。皮膚の色、頭毛の形状、体毛の発達、瞼の形態、指紋型や湿型耳垢の頻度などでは、コーカソイド人種の一部やオーストラロイド人種などとの共通性が認められるが、血液型や血清タンパクの遺伝的多型の研究によれば、アイヌはやはり東アジアのモンゴロイドにもっとも近いという。
近年、北海道における古人骨の研究が進み、北海道縄文時代人が、一方において本州の縄文時代人ときわめて近縁な関係にあり、しかも他方において、続縄文時代以降の連続的な変化を通して歴史時代のアイヌにもつながることが、しだいに明らかになってきている。おそらくアイヌの主たる起源は、モンゴロイドの特殊化のあまり進んでいなかった、旧石器時代から縄文時代にかけての日本列島の先史人類集団のなかに求められるのであろう。
アイヌの伝統文化
アイヌの伝統文化とその技術は、狭義の意味では経験豊かな古老たちが少なくなり、社会的条件も重なって、学習し次世代に継承していくことの困難な状況にあるといえよう。しかし、近年、若い世代を中心に、自分たちの民族的なアイデンティティを確かめ、父祖伝来の文化の継承可能な部分を現在に生かしながら、新たな伝統を構築し裾野を広げていこうとする大きな動きがあることは注目される。ことに1997年7月施行の「アイヌ新法」に基づく文化振興のための「機構」の設置による事業展開が新しい状況をつくりだしている。つぎに記述するアイヌの伝統文化は、17~19世紀半ばごろまでに展開されたもので、アイヌ自身の体験や見聞、口誦伝承、和人の記録などによって再構成されたものである。これらの伝統文化のなかから、現代に再生し、持続させていく試みや実現したものも少なくない。そうした意味で、伝統文化のかなりの部分は時代の状況に応じて変容しながら継承されつつある。
生業
アイヌは、自らの生活に必要な素材の大部分を自然から得ていた。つまり、食糧はもとより、衣服の素材から建築材料に至るまで、ほとんど自給自足していたのである。しかし、これらを加工する工具や利器となる鉄製品や漆器、木綿やガラス玉などは、大陸や日本との活発な交易活動によって入手していた。したがって、アイヌの生活基盤は、基本的に狩猟、漁労、植物採集という三つの組合せによって成り立っていた。これらの自然の恵みは、年ごとの生態、気候条件などによって獲得できる量の異なることがしばしばおこった。ことに、3年ないし4年ごとに不漁にみまわれるサケ漁の事例はよく知られている。また、内陸のコタン(集落)と海浜のコタンでは、当然のことながら生産対象に相違がみられた。基本的生業である狩猟、漁労、植物採集のほかに、動物飼育と原初的農耕が行われたが、あくまでも副次的な役割しか果たさなかった。イヌに対する去勢、クマの牙 (きば)切りなど獣類の管理技術は一定の進展がみられたが、隣接する民族ウイルタのトナカイ飼養のように、牧畜に適した獣類をアイヌの居住地域では飼えなかったことに、その限界が求められよう。
(1)狩猟 陸獣のなかでもっとも重要な位置を占めたのはシカである。数多く棲息 (せいそく)していたうえに捕獲が容易であり、しかも毛皮は上等で、肉も美味であった。シカ肉は安定した食糧として主食的役割を、サケと並んで果たした。このほか陸獣ではウサギ、キツネ、テンなどが毛皮や食肉にされた。海獣では小形のハクジラ類、イルカ、オットセイ、アザラシなどであり、ときたま浜に打ち上げられる「寄りクジラ」も利用された。オットセイは精力剤などとして和人に珍重され、その捕獲を奨励された。鳥類ではワシ、タカ類が矢羽根として高価な交易品になるため捕獲された。またツル、カモ、ヤマドリも捕獲された。狩猟具は、陸獣には弓矢や槍 (やり)だけでなく、さまざまな罠 (わな)を用いた。また、アマッポ(仕掛け弓)も使われた。海獣狩りや大形魚類の捕獲にはキテ(離頭銛 (もり))が効果的であった。鏃 (やじり)や銛先に毒性の強いトリカブトを塗って捕獲を容易にした。イヌを慣らして猟犬に使うこともした。
(2)漁労 丸木舟を自由に操って、河川や湖沼ばかりでなく、かなり沖に出て海漁も行った。漁ではサケ・マス漁が生産性も高く、もっとも重要な位置を占めた。また河口での網によるシシャモ漁、沖漁ではメカジキ漁が好んで行われた。サケ漁には、マレクとよぶ回転鉤 (かぎ)がよく使用された。貝類ではシジミ、ホッキガイ、カキなどをとって食用にした。やす、釣り針などの漁具のほか筌 (うけ)や簗 (やな)も用いられた。結氷した水面を割って魚をとることもされた。サケ漁は産卵場が捕獲しやすいため、それぞれのコタンごとに専有の場所をもっていた。
(3)植物採集 各種の植物が採集されて食用や薬用、あるいは衣服を織るための繊維として利用された。ことに、ウバユリの球根から得られる良質なデンプンは、食糧生産全体からみても重要な役割を担った。このデンプンを、団子や粥 (かゆ)にして食した。デンプンをとった残りかすは、中央に穴をあけた円盤状のものにして乾燥し、保存して、食糧が欠乏したり、飢饉 (ききん)にみまわれたときに用いた。クロユリ、ヒシ、カタクリなどのデンプンも食用にされた。果実ではコクワ、ヤマブドウ、野イチゴなど、海藻ではコンブ、フノリなどである。植物採集は主として女の仕事であり、ユリ根などを土中から掘り出す長いへら状の掘り具や手鍬 (てぐわ)を道具にした。
社会
社会組織についての調査は、1951年(昭和26)に日高の沙流 (さる)川流域において比較的詳細なものが行われたにすぎず、これをもってアイヌ社会全体を論ずることはできない。あくまでも日高地方の事例としてみるべきものである。
(1)家族 アイヌには家族を表すことばがないが、1軒の家に生活する単位を家族とすれば、それは一般に父母と未婚の子女である。これに配偶者を亡くした祖父母が同居することもあった。結婚した子女は新しく別に家を建てて住み、1軒の家に2組の夫婦が同居することは通常ではなかった。一般に夫方同居であり、結婚と決まれば親族や友人などが集まって新居を建ててやる習わしであったといわれる。
(2)親族 親族に近い内容のことばには、ウタリとかイルなどがあるが、いずれもかなり広い範囲をさし、非血縁者も含まれる。アイヌの親族組織を特徴づけるものは、エカシイキリ(男系)とフチイキリ(女系)という、性に基づいて血縁集団を認識する体系の存在であろう。同じエカシイキリに属する男は、共通のエカシイトクパ(祖印)をもち、パセオンカミ(特別に重い神への礼拝)の儀礼をともに行う。また同じエカシイキリの者は、狩猟などの集団労働の単位でもあったといわれるが、詳細は不明である。このエカシイトクパは父から息子へと伝えられる。
同じフチイキリの女は、同じ編み方でつくった下紐 (ひも)(ラウンクッ)を同じ巻き方で腰に巻くものとされている。下紐は、ツルウメモドキの繊維を編んだ細紐を数条巻いたもので、母から娘へと同一の形とその編み方が継承された。出産の手伝いとか病人の世話、ことに葬儀においての手伝いは死者と同一のフチイキリの者でなければならないとされた。
(3)結婚 婚姻年齢は、男は19~20歳、女は16~17歳であった。ことに女は、適齢に達するまで口や前腕や手甲にいれずみを施し、結婚と同時に完成させる習慣もかつてあった。婚約は、娘からは、自分の針仕事の腕を振るった刺しゅう入りの着物、男からは、心を込めて彫刻を施した小刀などが贈られる。このほか、男から娘の父親に宝刀や漆器類などイコロとよばれる財貨的品物が贈られる。アイヌは一夫一婦を原則としているが、寡婦が亡夫の兄弟に養われることは社会的に認められていた。婚姻規制としては、近親婚の禁止のほかに、男は母親と同じ下紐の女とは結婚できなかった。
(4)集落 いくつかの家が近くに散在して一かたまりになっているところを、コタン(集落もしくは村)とよんでいた。自然物にのみ依存するアイヌ社会では、コタンの規模も5~6軒から大きくて10軒前後であり、生産性が低いため、あまり集中することができなかった。コタンでは、これを統率するコタンコロクルとよばれる首長が選ばれたが、これは絶対的な権力者ではなく、指導的役割を果たすものであった。
(5)イウオロ これは、コタンによって占有されている特定の猟場、漁場、植物採集の場を含んだもので、いわばこれ自体がアイヌの小世界を形成していた。イオルのなかでは、さらに仕掛け弓をかける場所や冬眠用の熊穴の場所などが、特定の家の専有とされていることもあった。イウオロという小世界から外にほとんど出ることもなく生涯を終える者も少なくなかったといわれる。
住居
ずっと昔はアイヌが住居を構える場合いちばん重要なことは、近くで食糧を入手できること、次はチセ(家)の近くに寒中でも凍らない湧水 (わきみず)があることであった。家はたいていの場合一部屋で仕切りがなく、夫婦の寝床は蒲 (がま)草で編んだ茣蓙 (ござ)を垂らしてあった。建て方は、大地に穴を掘り直接柱を立て、柱は腐食しにくいドスナラかエンジュを使った。旭川 (あさひかわ)地方は屋根や囲いは笹 (ささ)だが、沙流川地方は萱 (かや)が主で、その場で手に入れやすい材料を用いる。屋外にはルカリウシ(男女別々の便所)があり、ほかにクマの檻 (おり)がある場合もあるが、仔熊 (こぐま)を生け捕ったときのみのもので、かならずあるというものではなかった。プ(倉)は干肉や干魚を貯蔵し、ときにはヒエやアワなどを穂のままトッタという大袋に詰めて入れて置き、必要のない場合は梯子 (はしご)を外し、ネズミが倉へ入ることを防いだ。仮小屋は、山猟や川漁に行き野宿あるいは数日滞在するときに、フキの葉、青草、松葉などその場で手に入るものを材料にしてつくる。
服飾
衣服として一般によく知られているのはアツシ(近年はアットゥシと表記されることが多い)である。これはハルニレ、オヒョウなどの内皮からとった繊維を用いて織った木皮布の一種である。色は自然の褐色で無地が多いが、黒や紺、白などの木綿糸を経糸 (たていと)に入れた縞 (しま)地などもある。衽 (おくみ)はなく、もじり袖 (そで)が主。肩や袖口、裾 (すそ)などに切伏せ文が入る。
樺太ではイラクサを用いるためやや白っぽいものとなり、レタラペ(白いもの)の名でよばれる。
(1)木綿衣 和人との交易や労働の報酬によって得た古着に、アイヌ文様を施したもので、形状はアツシに似るが、色裂 (いろぎれ)を多用するために非常に華やかなものとなる。チカラカラペ(われらがつくったものの意)とよばれる衣服で代表される。このほか、絹や木綿の端裂 (はぎれ)を縫い合わせたパッチワークのような衣服も伝えられている。
(2)その他の衣服 アイヌはアツシを発明する以前には、獣皮や魚皮など自然に得られる素材を用いて衣服をつくっていた。そのなかにはアザラシなどの海獣の皮によったウル(獣皮衣)、サケやイトウなどの皮でつくったチェプル(魚皮衣)、エトピリカなどの羽によるラプル(鳥皮衣)、草を編んでつくったケラ(草衣)などがある。
交易で得たものでは、日本文化から陣羽織や木綿、絹などの古着類。前述のチカラカラペのようにアイヌ風に改める場合と、小袖などをそのまま用いる場合とがある。また沿海州(ロシア)からは俗に山旦服 (さんたんふく)、韃靼裂 (だったんぎれ)などとよばれる清 (しん)朝の朝服などがもたらされている。これらの交易品は、アイヌのなかでも「役蝦夷 (やくえぞ)」とよばれる富裕な指導者層の晴れ着として用いられた。
(3)下着 男は褌 (ふんどし)の上に直接着物を着たが、女はモウルというワンピース状の肌着を用いていた。女が人前で肌をさらすことは強く戒められていたため、授乳などの際にも気を配っていたという。また下着とはいえないが、腰には女系を示す下紐を巻いており、これは夫にも見せることのできないものとされていた。
(4)冠物 (かむりもの) コンチ(頭巾 (ずきん))は冬の山猟の際に男がかぶる防寒用のもののほか、喪礼用のチシコンチ(涙頭巾)などがある。またマタンプシあるいはチェパヌップなどという鉢巻類。さらに男が信仰儀礼の際にかぶるサパンペ(イナウルともいう)という礼冠がある。
(5)手甲・脚絆 (きゃはん) テクンペ(手甲)、ホシ(脚絆)といい、労働用と礼装用との別がある。手袋は樺太 (からふと)アイヌが用いていた。ライクルテクンペ、ライクルホシ(死者の手甲、脚絆)は葬儀の際に死者の身につけるもので、普段から用意しておくのがたしなみとされた。
(6)履き物 冬季や山猟のときなどにはケリ(靴)を履いた。靴は、サケなどの魚皮を用いたものや、アザラシの皮でつくったもの、またブドウづるなどで編んだものなどがあった。
(7)装飾品 男女ともニンカリ(耳飾り)をするほか、女はタマサイ(シトキともいう。首飾り)やレクトゥンペというチョーカーに似た首飾りを用いた。まれに腕輪をすることもあったが、髪飾りや指輪は用いなかった。また護身の意を込めてマキリ(小刀)を帯に下げた。男は日常、たばこ入れを離さなかった。
衣服や服飾品につける文様はアイウシ(括弧 (かっこ)状)文やモレウ(渦状)文が主体となることは、ほかのアイヌ工芸と同じである。しかし、衣服にはことのほか大胆に文様を展開したものがみられるほか、古くから伝わる衣服類には文様構成や色裂の配置に優れた感覚をもつものが多い。
工芸
ユーカラ(アイヌ語ではユカラと表記)の冒頭には、ヒーローならば彫刻に余念がないさまが、ヒロインならば刺しゅうにいそしんでいるさまが、かならず描写されている。この二つはアイヌ工芸の双璧 (そうへき)をなすものであった。
(1)彫刻 木彫りは平彫りが主体であり、現在北海道の観光地でみられる立体的な熊彫りのようなものはごく新しいもので、アイヌの伝統的な彫刻とは異なる。
マキリ(小刀)1本で、盆、たばこ入れ、小刀鞘 (さや)などを彫り出すが、彼らは木の性質を熟知しており、盆にはクルミ、カツラ、たばこ入れにはイタヤを用いるなど、用途によって材料を使い分けている。木彫りのなかでも重要なものはイクパスイ(捧酒箸 (ほうしゅばし))である。これは人と神とを仲介する祭具で、アイヌの信仰生活上欠かすことのできないものである。長さ30センチメートル、幅3センチメートルほどの小さなものであるが、このなかにはアイヌ彫刻のあらゆる技巧が用いられている。
彫刻に限らずアイヌ文様は、彼らの信仰に根ざしており、木片に彫刻を施すことは、それに魂を吹き込むことであり、持ち主の守護神となることである。したがってその一刀一刀に精魂を傾けた。木彫りにみられる文様はモレウ(渦状)文やアイウシ(括弧 (かっこ)状)文を展開したものや、組紐文、青海波文などのほか、クマやシャチなどの動物文、家や什器 (じゅうき)などを器物をかたどって彫り出したものなどがある。なお、アイヌは漆器を好んだが、その多くは和人との交易品であった。
(2)刺しゅう 女の工芸の代表的なもの。アツシ(アットゥシ)などの衣服の袖、肩口、背、裾などに黒裂地 (きれじ)を切り伏せて刺しゅうをしたものにその典型をみる。この切伏せと刺しゅうとは衣服や服飾品(手甲、脚絆、前掛け、袋物、鉢巻など)にかならず施されるものである。フランス刺しゅうと共通する技法もみられる。
(3)織物・編物 織物にはアツシがある。アツシはアットゥシカラペという戸外機を用いて織るが、織機の各部には美しい彫刻が施されており、婚約者や夫によりつくられたものという。
編物ではエムシアッ(刀綬 (とうじゅ))や花茣蓙 (はなござ)が知られている。このうち、エムシアッは礼装の際、太刀 (たち)(エムシ)を肩から下げるための綬で、アツシと同じく樹木の内皮からとった繊維が用いられる。文様は緯糸 (よこいと)を使っての編み込みで、非常に複雑な技法がとられている。
刺しゅうや織物・編物の文様も彫刻と同様にモレウ文やアイウシ文を変形、展開させたものが多いが、エムシアッには亀甲 (きっこう)文や菱形 (ひしがた)文、花茣蓙には市松文が多くみられる。
文様は彫刻、衣服などの用途によらず魔除け的な性格をもつとされる。また、その展開は左右対称によく似たものとなる。彼らはこうした文様を施すにあたって下絵を描くようなことはしない。美しい文様の型は幼児のころから両親や祖父母のつくるそれを体で覚えているのである。
神話・伝説
アイヌには「ユカラ(ユーカラ)」とよばれる吟誦 (ぎんしょう)形式の叙事詩がある。このユカラには鳥獣などの自然のカムイ(神)が自らの身上を叙する「カムイ・ユカラ」(神謡)、アイヌの始祖神の功業を内容とする(日高地方の)「オイナ」(聖伝)、さらに人間の英雄を主人公とし、その武勲、遍歴を物語る狭義の「ユカラ」(英雄詞曲)などがある。そのうち、重要な神話的内容をもっているのは「カムイ・ユカラ」と「オイナ」であるが、その他にも各地の伝説などに断片的ながら神話的説話や観念がみられる。
この世の初め大地の創造にあたった神はコタンカルカムイ(国造神 (くにつくりがみ))とよばれているが、この神は妹神とともに大海の中に陸地を築き、草木のない荒涼たる国土に山や川、島をつくり、そこに住む人間、動物、植物などを創造した。この国造神は鯨を串 (くし)刺しにしてあぶったり、湖に入っても膝 (ひざ)までしかぬれないというほどの巨人の神である。地上世界の創造が終わると、この神は妹神とともに天上の世界に帰ったが、その際、妹神が脱ぎ捨てたものが蛸 (たこ)や亀 (かめ)に、妹神の涙や洟 (はな)が萱 (かや)や他の雑草になったと伝えられている。
天上世界にはカントコルカムイ(天をつかさどる神)があり、その命によって地上世界の造化がなされたことになっている。カントコルカムイをカンナカムイ(雷神)と同一視する伝承もある。天上世界は多数の神々の世界であり、アイヌの主要な食糧であった鹿や魚を地上の山野や川に下す神々も天上にいる。
コタンカルカムイによって国土がつくられたが、その人間世界(アイヌモシリ)に降下してアイヌに生活の知恵を授けた、いわゆる文化英雄は、アイヌラックルもしくは、オキクルミであるが、またの名をアエオイナカムイ、オイナカムイなどといい、アイヌ始祖神として尊崇され、その功績は「オイナ」に語り伝えらている。一説ではアイヌラックルは大雪山に美しく立っていたハルニレの木を母神とし、父神は天神とも、雷神とも伝えられ、地上と天上世界を縦横に駆け巡って地上の魔神を征伐して、地下世界へ撃退する。ついで、生活の基盤となる狩猟、漁労、耕作の方法、食用・薬用の植物のこと、彫り物や機織り、刺しゅうなどの男女の手仕事、家や舟のつくり方、着物を仕立てることなどを教えた。さらに、イナウ(木幣)や酒を捧 (ささ)げてカムイを敬い祀 (まつ)ること、祈り詞 (ことば)、さまざまな信仰儀礼の由来ややり方、争いの解決や調停の仕方、男女が各々に伝えるべき伝承に至るまですべての生活習慣がアイヌラックルもしくはオキクルミによって創始されたと語り伝えられている。また、天下る際に自分の脛 (すね)のなかにヒエの種を隠し持ち、人間に穀物をもたらしたのはオキクルミである。オキクルミの説話にはサマイクルという兄弟が登場し、愚者、滑稽 (こっけい)者の役を演ずることも、文化英雄の性格を知るうえでは留意すべきである。
以上は創世神話であるが、日常、イナウや酒を捧げて祀られるのはアイヌの生活に直接かかわりのある自然――太陽、月、風、雨、雪や山、川、湖、そこにすむ鳥、獣、魚、昆虫、草や木――のカムイ、さらには火や船、疱瘡 (ほうそう)などのカムイである。このような自然のカムイの素性、尊崇し祀られるべきゆえんを明らかにしているのが「カムイ・ユカラ」である。この「カムイ・ユカラ」の特徴は「サケヘ」という繰り返しの句をつけて、一人称形式で謡われることにある。その内容はカムイと人間との相互関係、すなわち、動物や自然そのものと人間とがお互いにどのようにかかわるべきであるかという行動や倫理的規範のわかりやすい説明である。この「カムイ・ユカラ」は、アイヌの口承文芸のもっとも大きな特徴であり、近隣の諸民族に類例のない特異なジャンルといえよう。
アイヌの伝承では天上と地上の世界のほかに、地下世界が語られているが、この死後の世界については異なる二つの観念がみられる。「オイナ」ではアイヌラックルに滅ぼされた悪神や魔物が轟音 (ごうおん)とともに地下世界に墜落していくさまが謡われているが、そこは湿った魔神の国である。それとは別に、人間が死後に赴く下の世界は、地上のアイヌの村と同じ様相を呈し、そこでは地上と同じ生活が営まれている。この世との違いは昼夜や夏冬が逆である点で、このような観念は北方の諸民族にも広く共通している。神話や伝説にみる限り、アイヌの人格神の世界を構成しているのは、天上の神々と文化英雄であり、地上のカムイは人格的であるよりは自然そのものの観念化である。そして、地下世界に君臨する神は明確でない。また、諸神の間にはより「重い」神、すなわち、だいじな尊い神という序列はあっても、上下関係がみられないことは、アイヌの社会との関連で留意すべきであろう。
信仰
アイヌは、人間にかかわりあるものであれば、自然物であれ人工物であれ、基本的にはすべての「もの」に霊的なものが存在すると信じていた。しかしながら、霊的存在であってもそれには強弱があり、人間が神の力を借りなくても、その霊力を思うままにできる草木や器物は神になれないのである。神と霊との関係は次のようなものである。たとえば、丸木舟をつくろうと意図して大きな樹を伐採するときには、森を支配する神に理由を述べて許しを請い、その樹に宿る霊を森の神のもとに送り返す儀礼を丁重に執り行わなければならない。この手続を経て初めて森の神の加護が得られ、伐採中にけがなどの人身事故を避けることができるとされた。ついでこの原木から舟の形に手斧 (ておの)で削っていくわけであるが、斧を入れる前とか、仕上がったときなど、仕事の折り目ごとに、神とのきずなをよい状態に保つために神に酒を捧げるカムイノミ(飲酒儀礼)を欠かさず行う。さらに、新しくできあがった舟を川に初めて浮かべるときは、チプサンケ(舟おろしの儀礼)をして、その川の神に舟の安全を祈願するのである。
またサケ漁の場合は、その年に最初にとれたサケを、神からの使者として特別に扱い、初漁の儀礼を行った。このあと、本格的に多量に捕獲するサケに対しては、儀礼とよべるものはなされず、とらえたら暴れさせないで瞬時に魚頭打棒 (ぎょとうだぼう)でたたいて殺すことによって、その霊を魚体から離脱させて神のもとに送った。これによって鮮度が保たれ、暴れてうっ血させると味が落ちるということを防ぐ実利的な面も大きかったのであろう。
人間の手によってつくりだされた器物自体も霊的存在とみなされた。使用できなくなった椀 (わん)や鉄鍋 (てつなべ)などの什器 (じゅうき)類をはじめ祭具も含めて、あらゆる器物は単に捨ててはならず、特定の「送り場」に持って行き、そこで内在する霊を神の世界に返す手続をして、真の意味での形骸 (けいがい)としなければならなかった。
よく知られている「熊祭」は、正しくは飼い熊送り儀礼というべき内容のものであるが、仔熊 (こぐま)をたいせつに育てて殺す考えも、肉体と霊との分離にほかならない。つまり、神の世界から人間の世界に熊の姿をして遣わされた熊神は、その仮装を解いて霊的な存在にならなければ、ふたたび神の世界へ帰ることができないのである。仮装に用いていた毛皮や肉は、熊神からアイヌに授けられる土産である。アイヌは、これに謝意を表すために、美しく削り掛けたイナウを立てて祈り詞 (ことば)をあげ、団子や干魚などたくさんの土産を背負わせて、熊神の霊を神の世界へ送り届けるのである。このように歓待しておけば、熊神はふたたび自分たちのコタンをかならず訪れてくれるものと信じていた。
このように、アイヌには、霊魂は不滅であり再生するという観念が確立している。人間の死も、アイヌは同じ考えに基づいている。死は、永遠の享楽を送ることができるユートピアに赴くための手段として欠かせないものである。あるアイヌは、死ぬことは怖くはないが、醜い遺骸 (いがい)をこの世に残していかねばならないから悲しいのであると語ってくれた。
アイヌの世界観は、垂直的には3層で構成されていると信じられていた。つまり、現実の人間の世界(アイヌモシリ)は大地の上にあり、死後の世界(ポクナモシリ)は地下に、そして神々の世界(カムイモシリ)は天上にあるとされた。
神々の体系は、至高神的性格のものは存在せず、パンテオンを構成していない。しかし、天神や雷神は他の神より高位にあるとされているが、儀礼の目的に応じて主役としての神の位置づけがなされる。たとえば、熊送り儀礼の祭壇であれば、熊神を中心に森の神、水の神、狩猟の神が祀られ、これより一段低い位置に先祖祭祀 (さいし)の場が設けられる。
アイヌの儀礼において、熊送り儀礼よりも場合によっては重要視されたといわれているものにフクロウ送りがある。フクロウはコタンを守護する神としてあるだけでなく、この儀礼の際には熊送りよりも広範な狩猟集団が参加して行われたという伝承がある。
神々と人間とが儀礼を通して相互に依存しあい交歓することによって、神々から自然の恵みが授けられ、その永続性が保証されるものと信じられていた。したがって、人間のためにならない神であれば祀らないぞと脅かしたりもする。アイヌにおいては、神と人間とがほぼ対等な位置にあるとみてよい。
遊戯
古くはアイヌの子供の遊びは、大人になってから生活に必要なことを練習する場面が多く、蔓 (つる)でつくった輪を転がし、横から突いて止め、槍 (やり)の腕を競った。弓矢をもって小魚をとらえるのも、食物を手に入れると同時に弓が上達し、棒高跳びは身軽になるために役だった。アイヌ語だけで生活をしていた時代は遊戯など特別なものはなかったが、遊びの種類は約50種ほどあった。いずれも、狩猟民族としての心得を教えるものが多いように思われる。
歌舞
歌はさまざまな儀礼のときに、神と人間とが交歓するためのものであり、善神に対してはその加護を願い、悪神に対しては威嚇して災いを排除するためのものである。旋律は単純なものが多く、これに掛け声や手拍子や行器の蓋 (ふた)をたたいて拍子音を加えることが多い。楽器の種類はごく少なく、ムックリ(口琴 (こうきん))やトンコリ(五弦琴)などが知られているにすぎない。
舞踏は、呪術 (じゅじゅつ)的行為としてなされるものと、儀礼のあとの余興的性格のものとしてなされるものの2種に分けられよう。前者のおもなものはタプカラ(踏舞)といわれ、長老が刀を振りかざして悪霊を払いながら足を踏みならして示威行動するものである。後者は主として女たちが楽しむ踊りで、ホリッパ(輪舞)、ウポポ(神歌)、ハララキ(鶴 (つる)の舞)などがある。
アイヌ研究史
アイヌに関する調査、研究は、16世紀中葉、耶蘇 (やそ)会(イエズス会)の外国人宣教師たちによって始まった。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの手紙(1565)やイグナシオ・モレイラIgnacio Moreira(1538―?)の記録(1591)にアイヌに関する記載がある。ついで17世紀に入ると、ポルトガルの宣教師ジロラモ・デ・アンジェリスやディオゴ・カルワーリュ(カルバリヨ)は北海道でアイヌと接触し、その風俗習慣を記録にとどめた。
1669年(寛文9)シャクシャインの蜂起 (ほうき)によって人々の北方への関心は高まり、水戸藩では探検船を北海道に派遣し、実地調査を行うほどであった。新井白石の『蝦夷志 (えぞし)』(1720)にはアイヌに関する詳細な記事があり、日本人による最初の研究書といえよう。18世紀末、北方からのロシアの南下によって、人々の北方への関心はさらに高まり、幕府自体も、たびたび北海道、千島、樺太 (からふと)方面の調査を行った。その結果、北方に関する情報とともに、最上徳内 (もがみとくない)の『蝦夷草紙』(1790)、村上島之丞 (しまのじょう)(1760―1808)の『蝦夷島奇観』(1800)、村上島之丞・間宮林蔵 (まみやりんぞう)の『蝦夷生計図説』(1823)、上原熊次郎 (くまじろう)(生没年不詳)の『蝦夷方言藻汐草 (えぞほうげんもしおぐさ)』(1804)など、アイヌに関する諸記録、図鑑、アイヌ語辞典が刊行された。
その後、欧米における近代の学問を身につけて来日した学者たちの間で、アイヌの人種論、起源論が日本人種論とともに論争された。ドイツ人学者シーボルト父子は日本石器時代人アイヌ説を、アメリカ人学者モースは、日本石器時代人はアイヌ以前に住んでいたというプレ・アイヌ説を唱え、やがて坪井正五郎 (つぼいしょうごろう)をはじめとする日本人学者もこの論争に加わった。一方、バチェラー、金田一京助、知里真志保 (ちりましほ)らによるアイヌ語、ユーカラの研究を母体として、風俗、習慣、歴史の研究も広く展開された。そして今日では民族学、民俗学、考古学、形質人類学、言語学などの学問の発達により、アイヌ文化の再検討の機運が熟し、北からみた日本史といった新しい課題を生み出した。また、1997年(平成9)に、アイヌ新法の制定、財団法人「アイヌ文化振興・研究推進機構」の設立によって、アイヌ民族の誇りが尊重される社会へ向けて、大きく、力強く一歩が踏み出された。