面積=65万2864km2
人口(2010)=2449万人
首都=カーブルKābul(日本との時差=-5時間)
主要言語=パシュト語,ペルシア語(ダリー語)
通貨=アフガニAfghani
アジア大陸のほぼ中央部に位置し,北緯29°30′から38°30′まで,東経60°30′から75°にわたる地域を占める。北はトルクメニスタン,ウズベキスタン,タジキスタン3国,西はイラン,東と南はパキスタン,北東は中国と,それぞれ接している。
自然,住民
内陸国で海に面しないため,海外への通路はパキスタンを経由する。面積は日本の約1.7倍である。この国の北東から南西にかけてヒンドゥークシュ山脈が走っており,それは北東に高く,南西に向かって低くなる。最高峰はノシャーフ(7470m)で,この国の北東隅にある。平野はヒンドゥークシュ山脈の北または南にあり,北のそれはアフガン・トルキスタンと呼ばれ,トルキスタン地方に連続している。集落の高度は標高約400mから2600mに及ぶ。主要河川としては,中央山地に源を発し,東流してパキスタンに入ってインダス川に注ぐカーブル川,同じく中央山地に発して南西に流れ,イランとの国境付近の湖に注ぐヘルマンドHelmand川,西流してヘラートの地名の起源となったハリー・ルードHarī Rūd川,およびパミールから流れ出て,その上流部がタジキスタン,ウズベキスタンとの国境をなすアム・ダリヤなどがある。ヒンドゥークシュ山脈を南北に越えるおもな峠としては,カーブル寄りには,アレクサンドロス大王や玄奘が通ったハーワークKhāwak峠(3600m),1932年に自動車道として開かれたシバルShibar峠(3260m),および64年にサーラングSālang峠(4075m)の下に開通したトンネル(3363m,長さ2.7km)がある。西方,ヘラート寄りにはパロパミスス山脈を越えるサブザクSabzak峠(2500m)がある。
アフガニスタンの気候は概して乾燥気候で,寒暑の差が大きい。首都カーブル(東経69°10′,北緯34°30′,標高1800m)を例にとって,1965年10月から翌年9月までの気候を見ると,月平均気温の最高月は6月で,32.1℃,最低月は12月で,-8.3℃である。月平均湿度の最高は2月の76%,最低は8月の25%である。年雨量は318.4mm,そのうちの約7割が2~4月の3ヵ月に降る。この国で気温を決める要素は緯度よりも高度で,例えばトルキスタンはカーブルより北にあるが,標高が低いため気温は高い。
人口の約半数を占めるのがパシュトゥーン(アフガン,パターンPathānとも呼ばれる)族で,南東部山地を故地とし,それとほぼ同数が地続きのパキスタン北西部に住んでいる。19世紀後半からトルキスタンへの移住も見られる。アフガニスタンは建国以来この民族が支配して現在に至っている。人口と勢力においてパシュトゥーン族に次ぐのがタジク族(構成比約30%)で,全国各地に住み,ペルシア語を母語とする。アフガニスタン・トルキスタンの主要な住民はウズベク族とトルクメン族で,チュルク系の言語を用いる。中央高地たるハザーラジャートの住民はモンゴル的容貌のハザーラ族である。そのほか特異な民族として,今なおモンゴル語を保存しているモゴール族,東部山地の住民で19世紀後半にイスラムに強制的に改宗させられたヌーリーNūrī族,西部のチャハール・アイマーク族がある。
歴史
アフガニスタンAfghānistānとは,〈アフガン人の地〉の意で,その領域が現在の形をとったのは19世紀末である。この地は,中央アジア,西アジア,インドを結ぶ交通の要衝にあたり,古代から諸民族・諸文明の交点となっていた。前2千~前1千年紀にアーリヤ系民族の移住が行われ,前6世紀にはアケメネス朝ペルシアに属した。アレクサンドロス大王の東征以後,ギリシア・ヘレニズム文化の影響をうけ,これは,バクトリア王国支配(前3~前2世紀)をへて,クシャーナ朝時代に,仏教文化と融合したガンダーラ美術となって結実する。クシャーナ朝は,カニシカ王時代に北インド・アフガニスタンを中心に東西を結ぶ一大版図をつくりあげるが,アフガニスタンは4世紀中ごろにササン朝の支配に服し,5世紀には一時エフタルの侵入をこうむった。
アフガニスタンの領域に,アラブによるイスラム勢力が入ってきたのは7世紀後半で,その当時は少数の改宗者を出しただけで,仏教やゾロアスター教などの信者がなお多くいた。9世紀のターヒル朝,サッファール朝などのイスラム政権の下で,信者はしだいにふえていった。その次のサーマーン朝(875-999)の下で,近世ペルシア語とその文化が栄え,それはガズナ朝(977-1186)に受け継がれた。ガズナに都したこの王朝は,アフガニスタンの地における最初のイスラム王朝で,ペルシア文化を保護するとともに,北インドへの侵入をくりかえして,その地のイスラム化を促進した。ペルシア語長編叙事詩《シャー・ナーメ》の作者フィルドゥーシー,《インド誌》のビールーニーは,この時代の人である。
982年に作られた作者不明のペルシア語地理書《世界の諸地域》によると,〈アフガン〉人がスレイマン山脈中に住んでいるとある。またガズナ朝の軍隊の中で〈アフガン〉人が一部隊を編成していた。彼らは山地からしだいに西方の平地,ガズナ,カンダハール方面へ拡大していった。また同書には,ハラジュ・トゥルクKhalaj Turkと呼ばれるものがガズナ付近に住んでいたとある。彼らはもとトルキスタンにいたのが南下して来たものである。その一部はインドに進んで,デリーを中心にハルジー朝を建てた。ガズナ付近に残ったものは〈アフガン〉と同化し,その言語パシュトゥー語を採用し,以後アフガンと同族と見なされ,ギルザイの名で呼ばれるようになる。現在,アフガン族は自らを〈パシュトゥーン〉と称する。この名は16世紀ごろに始まり,その複数〈パシュターナ〉から〈パターン〉の語ができて,インド側からはこの名で呼ばれている。
アフガン族でまず歴史に登場するのはギルザイである。彼らはヘラートからイランに攻めこみ,1722年,サファビー朝の首都イスファハーンを占領した。しかし彼らの支配は永続せず,サファビー朝の後から興ったナーディル・シャーによって撃退された。以後ギルザイは政治の舞台から遠ざかることになる。ナーディル・シャーはアフガニスタンを経由してインドを征服し,ムガル帝国に打撃を与えたが,帰国後,47年6月に暗殺された。彼の指揮下にあったアフガン兵たちは故郷カンダハールに帰り,翌月,アフガン部隊の指揮官であったアブダリー(のちドゥッラーニーDurrānīと改称)系のサドーザイ家のアフマド・シャー・ドゥッラーニーを擁立して,部族連合を結成した。これがアフガニスタンの建国(ドゥッラーニー朝)である。彼はインドやイランに遠征して戦利品を獲得することによって自らの支配権を維持した。しかし王としての彼の権威は,個人的能力と,ドゥッラーニー諸族長の勢力の均衡に頼るものであった。19世紀に入ってドゥッラーニー内部の勢力争いの結果,バーラクザイBārakzaiがサドーザイに代わって統治権を得,1826年,ドースト・ムハンマドDōst Muḥammad(1793-1863)が王となった。以後のアフガニスタンの王位は,彼の家系が継承することになり,彼の名をとってムハンマドザイ(またはバーラクザイ朝)と呼ばれる。その支配は1978年まで続く。
19世紀のアフガニスタンは,国内的には国家形成期であり,国際関係ではイギリスとロシアの競争の場であった。インドを支配していたイギリスは,ロシアの勢力がトルキスタンのホーカンド・ハーン国などイスラム諸政権を圧迫しつつ南下し,アフガニスタンに接近し,さらにこれに浸透しようとしていることが,インドに対する脅威であると考えていた。そこでイギリスは2度にわたって軍隊をアフガニスタンに派遣し,カーブルその他の東部の主要都市を占領した。これが第1次,第2次イギリス・アフガニスタン戦争(1838-42,78-80)である。2度とも,カーブル駐在の外交代表が殺害されたり,戦闘において軍隊が敗北したりして,イギリスは大損害を被った。そこでイギリスはこの国の直接支配をあきらめ,国王アブドゥル・ラフマーン`Abd al-Raḥmān(1844-1901,在位1880-1901)を援助することによって,この国をロシアに対する防壁として利用することにした。アフガニスタンとしては,内政上は,この国王の下で,従来の部族連合から専制国家へ脱皮し,王権の確立と諸部族の弱体化が達成された。第1次世界大戦後,1919年,イギリスの疲弊に乗じて,今度はアフガニスタン側がインドに侵攻し,第3次イギリス・アフガニスタン戦争となった。まもなく双方から停戦の議がおこり,ラーワルピンディー条約を結んでそれまでイギリスが握っていたこの国の外交権を獲得した。これがアフガニスタンの独立である。
この国にとって西洋との唯一の通路はイギリス支配のインドであった。インドを通じて西洋の文物を過度に輸入することは,国の独立を危うくするおそれがあった。独立は西洋化に優先していた。しかし20世紀初頭の西アジア諸国,例えばトルコやイランの改革運動を目撃した知識人の一人,マフムード・タルジーMaḥmūd Tarzī(1865-1933)は,1911年に新聞を発行して,国内条件との調和のとれた近代化を主張した。タルジーの娘ソライヤーをめとった国王アマーヌッラーAmānullāh(1892-1960,在位1919-29)は,かぶりものなしの王妃を伴って西アジアとヨーロッパの諸国を訪問して,社会改革と経済開発の志を抱いた。帰国後それを実行に移そうとしたが,宗教家や部族民など保守派の反対にあい,亡命を余儀なくされた。その後を継いだムサーヒバーン家のナーディル・シャーは,急激な社会改革よりも経済開発に重点を移した。
第2次世界大戦勃発に際して中立を宣言したが,外国との貿易が激減し,とくにドイツからの建設資材輸入の途絶は,経済発展を停滞させた。日本は,1934年,カーブルに公使館を開設,第2次大戦による中断の後,55年に国交を再開して大使館を設置した。
政治
第2次世界大戦が終わったとき,国王ザーヒル・シャーZāḥir Shāh(在位1933-73)は30歳であった。そして父王ナーディル・シャーの弟ムハンマド・ハーシムMuhammad Hāsimが首相として事実上の統治者であった。その地位はハーシムの弟シャー・マフムードに受け継がれ,さらに53年から10年間はザーヒル・シャーのいとこムハンマド・ダーウドMuḥammad Dāwud(1912-78)が首相として実権を握った。
政府の外交方針としては非同盟中立を維持し,米ソ双方から援助を受けたが,東隣のパキスタンに対しては強硬な態度をとった。すなわちパキスタンとの国境は1893年にインドの支配者たるイギリスがアフガニスタンに強制したもので,パシュトゥーン族の住地を二分する不当な国境であるとして,政府はこれを承認せず,ガファール・ハーンが始めたパキスタン側のパシュトゥーン族の反政府・自立の運動を支援した。これによりアフガニスタンとパキスタンの対立は激化して,1961年には国交断絶・国境閉鎖にいたった。パキスタンを経由しないでアフガニスタンと西側諸国との貿易は成り立たず,アメリカはアフガニスタンよりもパキスタンを選び,アフガニスタンはやむなく北隣の大国ソ連に依存することになった。これはこの国の地理的必然でもある。
63年,パキスタンとの断交による経済の停滞の責任を問われ,またようやく実権を得てきた国王ザーヒル・シャーとの対立に敗れ,ダーウド首相が辞任し,平民宰相の時代に入り,パキスタンとの復交も実現した。64年の新憲法発布と翌年の総選挙は,百家争鳴の時代を現出し,以後のこの国の運命にかかわる諸条件を作り出した。すなわちバブラク・カルマルBabrak Kārmal(1929-96)が下院議員に当選して政治の舞台に登場したこと,カーブル大学や諸高等学校の学生運動が高まったこと,労働組合が組織されストライキも行われるようになったこと,ヌール・ムハンマド・タラキーNūr Muḥammad Tarakī(1918?-79)らの新聞《ハルク(人民)》,カルマルらの《パルチャム(旗)》が発刊され,政治団体としての言論活動が始まったことなどである。これらの条件が,1933年の即位以来,パシュトゥーン族のムハンマドザイ系のムサーヒバーン家出身のザーヒル・シャーと,彼を支える同家一門による,40年間にも及ぶ安定した支配をくつがえすことになった。
73年,かつての実力者ダーウドが,新しい一政治勢力となった青年将校にかつがれて復活し,王制廃止を宣言して,自ら大統領に就任した。国王は滞在地イタリアから退位の書簡をいとこのダーウドに送り,国内の王族も降伏して,ほとんど流血を見ずに〈アフガニスタン共和国〉が成立した。しかしダーウドを支持した軍部やハルク派,パルチャム派も,5年後には彼と対立し,78年4月,彼を殺害して〈アフガニスタン民主共和国〉を成立させた。革命評議会議長・首相タラキー,副議長・副首相カルマル,副首相・外相ハフィーズッラー・アミーンḤafīẓ Allāh Amīn(1929-79)をいただく社会主義政権である。しかしこの政権も不安定で,中央ではハルクとパルチャムの対立から,7月にはカルマルらパルチャム派の閣僚が大使に転出させられ,9月には解任された。79年にはハルク内部の抗争からタラキーが死亡してアミーンが支配権を握り,同年12月にはソ連軍が進駐してモスクワからもどったカルマルが政権を奪い,アミーンが処刑されるという大事件が起こった。また地方でも反政府・反ソ連軍の反乱が相次ぎ,多くの武装ゲリラ組織(ムジャーヒディーンmujāhidīnと呼ばれる。ジハード(聖戦)を行う者の意)が生まれた。これら反政府勢力をパキスタン,アメリカ,イランが支援するなどして戦争は長期化し,中央政府の支配領域は首都および一部の地域のみとなった。
経済,産業
アフガニスタンの経済を規定する条件は,第1には内陸国・山岳国であることと,第2には鉱物資源に乏しいことである。鉱物資源としては,石炭がバグラーン州に2ヵ所,サマンガーン州に1ヵ所の炭鉱に産する。また岩塩がタハール州に産する。るり色の半宝石ラピスラズリは古代から西アジア一帯で装飾に用いられたもので,バダフシャーン州に産し,1966年には8万5000tであった。1960年にジョーズジャーン州で天然ガスが発見され,その大部分は68年以来,援助の見返りとしてパイプラインでソ連に送られている。以上の主要品目はすべてヒンドゥークシュ山脈以北に産することは注目すべきで,以南にあるカーブル,カンダハールなどの大都市へ輸送する困難が伴う。石油は1930年代以来断続的に,50年代からは連続的に全国各地で探索が行われたが,いまだ採掘にいたっていない。
この国の主要産業は牧畜と農業で,人口の約90%がこれに従事している。牧畜には2種あって,定住して農業を主として行い,少数の家畜を自家消費のために飼う場合と,多数の家畜を企業として所有し,その飼育のために季節的移動を行ういわゆる遊牧とがある。遊牧民は全人口の15~20%を占める。おもな夏営地は,北東部のシワShiwa湖付近と中央山地ハザーラジャートである。パキスタンから国境を越えて往来する者も少なくない。遊牧民のほとんどはパシュトゥーン族である。家畜は第1に羊,ついで牛,ヤギである。農業生産物の中心は主食となる小麦,大麦,米,トウモロコシである。換金作物としての綿花とテンサイも政府の奨励により栽培されるようになった。
アフガニスタンの土地所有形態の特色として小土地所有の優勢が挙げられ,農地の約60%が自作である。農村は住居が1ヵ所に集中しており,その周囲に耕地がある。乾燥地帯であるから人工灌漑が必要で,主として河川の水を引いて用いる。一部の地方ではカレーズ(地下水を人工地下水路で導く設備。カナートとも呼ばれる)が設けられている。小麦,大麦の作付けに2種類あり,秋にまいて人工灌漑を行い,冬を過ぎて夏に収穫するものと,春に天水を利用して作付けを行い,夏に刈り取るものとある。後者は雨量が足りないと栽培不能となる。農業技術として,機械化はほとんど行われておらず,昔ながらの人間と家畜(おもに牛)の労働に頼っている。穀物以外の作物としては,アルファルファやクローバーなどの飼料作物,ブドウ,スイカ,メロンを主とする果物がある。農家で飼っている牛の乳および乳製品は穀物と並ぶ重要な栄養源である。この国の南部でヘルマンド川にダムをつくって水量を調節し,灌漑に利用して遊牧民を定着させる計画が,第2次大戦後まもなくアメリカの援助によって始まり,ほぼ完成したが,その成果はむしろ失敗と評価されている。
工業は未発達で,工場も規模が小さく,国内の需要を満たすにいたっていない。まず紡織においては,カーブル北方のジャバルッシラージに1930年代に綿紡織工場が設立された。42年にはトルキスタンのプリ・フムリーの工場が操業を開始し,60年にはカーブル北方のグル・バハールの工場が完成した。これらの工場に供給するための製綿工場はクンドゥーズにあり,綿繰りのほかに,綿実油とそれから食用油やセッケンをつくる工程も備えている。人造絹糸では58年にカーブルに工場がつくられた。羊毛織物はカーブルとカンダハールで行われている。砂糖は,バグラーンでテンサイから,またジャララバードではサトウキビから,それぞれ生産されている。アフガニスタンは山岳国であるため,道路条件はきびしい。標高が高く険阻な個所では,積雪,崖崩れ,洪水などによって道路が寸断されるおそれがあり,不断の補修を必要とする。鉄道はまだない。
社会,文化
アフガニスタンは多民族国家で,各民族は自らの母語をもっている。パシュトゥーン族はパシュト語(パシュトゥー語とも),タジク族はペルシア語,ウズベク族はウズベク語,トルクメン族はトルクメン語,ハザーラ族はペルシア語である。これらのうちペルシア語(公式にはダリーDarī語と呼ばれる)とパシュト語が国語として認められている。ともにインド・ヨーロッパ語族のイラン語派に属し,アラビア文字で表記される。ペルシア語はパシュト語よりも圧倒的に豊富な文献をもっているため,書写語としてはほとんどこれだけが用いられ,また共通語として国内どこででも通用する。アフガニスタンのペルシア語はイランのそれと古典を共有するが,現代口語ではかなりの相違がある。住民の容貌は民族によってまた個人によってかなりの違いがある。服装も民族や地域や階層によりさまざまである。西洋的服装は一般的ではない。
教育の場としては2種ある。一つは伝統的なもので,イスラムにもとづくものである。町や村ごとにモスクがあり,宗教指導者がいて,ここで住民の精神生活を指導し,教育も行われる。もう一つの教育の場は政府の手による世俗的なそれ,つまり学校である。アフガニスタンのような発展途上国においては,高等教育より初等教育が優先されなければならない。それは辺地の農村においても,読み書き計算といった最低水準において普及しつつある。この程度の教育は文字の読めない成人に対しても必要であるが,教師と教材の不足のため十分には行われていない。いわゆる近代教育は西洋を模範とするものであるから,隣国のイランやパキスタンに比べて西洋との接触の少ないアフガニスタンは劣っている。推定識字率は,1947年で6%,85年で24%である。そのうえ,この国では富の蓄積が行われていないから,都市が発達せず,都市に何世代も住みついている知識人がきわめて少ない。したがって彼らは知識人層という一つの勢力をなしていない。
ソ連軍侵入以前のアフガニスタンはパシュトゥーン族の支配する国家で,18世紀中ごろの建国以来その地位は安泰であった。他の諸民族は従順で,パシュトゥーンにとって代わろうとはしない。ただしこの支配民族もつねに分裂している。まず都市に定住した者についていうと,彼らはこの国の共通語で書写語であるペルシア語を用い,母語であるパシュト語を失っていく。とくに最上層の知識人はパシュト語を知らないことを誇りにさえする。一方,地方のパシュトゥーン族は,国家の法よりも部族の慣習法を重んじ,仲間同士ではパシュト語を使う。彼らにとってペルシア語は〈外国語〉つまり他民族との伝達の手段である。さらに地方の住民も分裂していて,部族間・家族間の反目闘争がふんだんにある。対立の原因は財産や女性で,いったん傷害や殺人がおこれば,復讐が何世代も続くことがある。部族的分裂と相応して,パシュト語には方言が無数にあり,優勢な標準語がないため,辞書・文法書も不十分なものしかつくられていない。
アフガニスタンは政治的にも分裂傾向をもっている。山岳国で道路が整備されておらず,運輸・通信も未発達であるから,中央と地方,地方相互の関係は疎遠である。農村は政府から恩恵も圧迫もほとんど受けない。国民は自分の生活に必要な限りでの生産・流通,それに情報伝達の手段を,政府に頼ることなく自らの手で確保している。そのため国民の生活は平和時でも混乱期でも大きな変化はない。
音楽
古代以来,東西南北の文明を交流させ,融合してきたアフガニスタンの文化は,さまざまの要素を歴史的に埋積した重層的な様相を示している。音楽もまたその例外ではなく,古代文化の栄華を象徴するバーミヤーンの遺跡に描かれた壁画には,いくつかの楽舞図を伝えている。ペルシア的舞人,インド的楽人図など音楽文化繁栄の跡をとどめているが,東西を結ぶルートの衰退とともに,中世以来内陸の孤島と化したアフガニスタンの音楽文化の実態は,現代近くに至るまで推測の域を出ない。現代においては,国境を接する西方イラン,北のトルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン,南東のパキスタン,北東の一端を中国と結び,これら周辺文化の影響を深く受けながら固有の音楽をはぐくんでいる。
伝統的芸術音楽の領域では,西部の古都ヘラートを中心にペルシア(イラン)芸術音楽の系統を継ぎ,首都カーブルを中心に南東部のジャララバードやカンダハールなどの都市部では,北インドの芸術音楽ヒンドゥスターニー音楽(インド音楽)の影響を色濃くもち,その両者を融合させた形でアフガニスタン固有の芸術音楽を継承するなど,三つの系統に分かれる。
もっとも変化にみち豊富な伝承を伝えるのは民俗音楽であり,大きく六つの系統に分類できる。第1は,ヒンドゥークシュ山脈以外のマザーリ・シャリーフなどを中心とするウズベク族を軸とする音楽であり,アム・ダリヤをへだてて接するウズベキスタン,トルクメニスタン,タジキスタンなどの共和国の音楽と共通する要素が多い。弦鳴楽器ではタンブールやヒチャック,膜鳴の打楽器としてダイラや壺の底に羊皮を張ったゼルバガリを主体として,他の地域とも共通する脚韻の四行詩(チャルバイティ)による抒情的民謡が豊富である。第2の地域は,クンドゥーズ,ファイザバードなど北東部であり,タジク族やキルギス族などの音楽が主体である。弓奏2弦のヒチャックをとくに好むとともに,チャルバイティによるシャマリー(北の歌)の宝庫である。第3は,西部のヘラートを中心とし,イラン音楽の影響が強い。撥弦のセタールやオルガン系のハルモニウムの楽器演奏を背景に,イランの伝統的叙事詩《シャー・ナーメ》や恋物語《シーリーンとファルファド》など長大な歌を伝承している。第4の系統は,中部山岳地帯を中心に居住するモンゴル系のハザーラ族の音楽で,2弦の撥弦楽器ダンブーラの弾きうたいで恋愛詩が愛好され,とくに裏声の唱法に特徴が見られる。第5の系統は,首都カーブルを中心に,アフガニスタンを構成する主要民族パシュトゥーンの音楽である。全地域に共通するペルシア語ダリー方言の歌とともに,パシュト語によるランダイなどの固有の詩を保有し,一方ではアラブ,イランに源をもつと考えられる《ライラとマジュヌーン》などのロマンス詩も豊富である。第6の系統として,パキスタンに接する東部の山岳ヌーリスタンに,アレクサンドロスの末裔とも語られるヌーリスターニーの特異な音楽が分布し,4弦のハープなど,この地域にのみ固有な楽器も多い。
これら民俗的音楽のほかに,現代では都市を中心にインド映画音楽をはじめ,流行的な音楽が若年層を中心に大きな展開をとげつつある。本来,典礼などの音楽を禁じたイスラム社会にあって宗教音楽は存在しないが,礼拝を呼びかけるアザーンは,きわめて象徴的な詠唱として美しい旋律を伝えている。