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キリシタン

ジャパンナレッジで閲覧できる『キリシタン』の世界大百科事典・国史大辞典・日本国語大辞典のサンプルページ

世界大百科事典

キリシタン

ポルトガル語のChristãoの発音がそのまま日本語になり,キリスト教(カトリック)およびその信者を指した。初め幾利紫旦,貴理師端,のち吉利支丹,切支丹,鬼理至端の文字があてられた。

伝来

15~16世紀にかけ幕あけした大航海時代はイベリア半島のポルトガル,スペイン両国がこれをリードしたが,両国王はローマ・カトリック教会と深く結びつき教皇を精神的よりどころとしてキリスト教の弘布に尽くした。この時期,ローマ・カトリック教会の腐敗を批判して起こった宗教改革は,カトリック内部の自己改革を触発し,1534年イエズス会がイグナティウス・デ・ロヨラにより創設された。同会は清貧・貞潔・服従を誓約し,イエス・キリストの伴侶として神のために働く聖なる軍団たることを目ざした。会は40年に教皇の認可を得,その要請によりポルトガル国王のインド植民政策を宗教的側面から助けることになり,王室の財政援助すなわち布教保護権Padroadoを得て東洋布教に着手し,42年ザビエルがゴアに到着した。ザビエルの鹿児島到着は49年8月(天文18年7月)で,同地出身のヤジロー(アンジロー)が先導者となった。ザビエルは国王(天皇)に謁して布教許可を得るため平戸(長崎県),山口より上京したが目的を果たせず,山口で大内義隆に謁して布教を許された。彼が滞日した2年3ヵ月間の受洗者は約1000名にすぎないが,彼は戦国社会の現実に即応した布教方針のもとに領主層に接近を図り,教理の説明には仏僧の非難を避けて仏教用語の援用をやめ,ラテン語とポルトガル語をそのまま使うことにした。

布教の進展

ザビエルの後継者トレスは山口より豊後府内に本拠を移し,のちイエズス会員となったアルメイダの援助を得て病院等を経営した。布教活動はポルトガル船の定期的来航に伴い西南九州に進展した。諸領主は生糸や軍需品をもたらす商船の来航を求めていたから,トレスは商船に入港先を指示し,一方諸領主にキリスト教保護を強要した。布教と貿易の一体化に積極的であった大村純忠は63年(永禄6)に受洗し,領内のキリシタン化を図った。畿内の布教は1559年日本人イルマンのロレンソ了西を伴ったビレラにより着手され,翌年将軍足利義輝から布教を許された。畿内の諸領主と庶民は救霊を第一とした熱心な信者が多く,結城山城守忠正,高山父子,池田丹後守,小西父子等の武将が受洗し,彼らは畿内キリシタンの中核として教会を支え,70年(元亀1)以降の織田信長・豊臣秀吉時代に至るキリシタン興隆の礎となった。70年来日した布教長カブラルはオルガンティーノを畿内に配し,同年および74年(天正2)に畿内巡察を行い信長に謁した。信長の政治的地位の上昇・確立に伴い教会勢力も増大し,77年3階建ての教会(南蛮堂,南蛮寺)が落成した。

バリニャーノの改革

巡察師バリニャーノはマカオ市との間に生糸貿易参加に関する契約を結んで日本布教の財源確保に努めたのち,79年来日した。彼は日本イエズス会を準管区に昇格させ,これを下(しも)・豊後・都の3布教区に分けて,クエリョを準管区長に任じた。布教の強化・拡充のために日本人修道者・司祭養成の必要性を痛感して教育機関(コレジヨ,セミナリヨ,ノビシアド)を設け,日本の国情に即した布教を模索して日本文化への適応を積極的に進めた。また大村氏から長崎と茂木を譲り受けてイエズス会領とし,キリシタンの町長崎の基礎を作った。また離日直前に急きょ有馬・大村・大友のキリシタン大名に対し少年使節のローマ派遣を建議し,82年2月一行をゴアに帯同した(天正遣欧使節)。遣使の意図は,彼らを通じてヨーロッパ世界の偉大さをキリシタンに伝えさせ,日本布教の成果をローマ教会に誇示して日本イエズス会に対する援助を確保することにあった。82年当時のキリシタン数は15万,下地方11万5000,都地方2万5000,豊後地方1万であった。

豊臣秀吉とキリシタン

秀吉は当初キリシタンに好意的でオルガンティーノに大坂の地所を与え,86年クエリョを大坂城に引見した。87年当時のキリシタンは20万,教会数200,イエズス会員は113名で22の教会施設を有していた。しかし87年7月(天正15年6月),秀吉は博多で5ヵ条からなる伴天連(バテレン)追放令を発し,神国日本への邪法の弘布を禁じ,長崎を没収した。このためクエリョは平戸に宣教師を集めて善後策を講じ,潜伏による布教維持を図った。しかるに,秀吉のマニラ入貢要求に対する総督使節として,93年フランシスコ会のペドロ・バウティスタ等が来日し,のち上京して公然と布教を展開したが,96年に起こったサン・フェリペ号事件のために再び迫害が起こり,バウティスタ等は他のキリシタンとともに捕らわれ,97年(慶長2)2月長崎で処刑された(二十六聖人の殉教)。

江戸幕府とキリシタン

徳川家康は秀吉の禁教政策を踏襲したが,対外貿易推進のため宣教師の活動を黙認したため,ドミニコ,アウグスティヌス両修道会会士が相つぎ来日した。彼はまた日本司教セルケイラやイエズス会準管区長パジオを引見し,キリシタン容認を世間に印象づけた。しかし,朱印船貿易,中国,スペイン,オランダ,イギリスの各商船の来航によりポルトガル貿易の比重は著しく低下し,長崎貿易の仲介者としてのイエズス会の地位も同様であった。1612年岡本大八事件を契機に家康は直轄地に禁教令を発し,14年さらに禁教迫害を全国に拡大して宣教師等を国外に追放した。各修道会は全体で46名の宣教師を残留・潜伏させた。キリシタンは各地にコンフラリア(講,組)を組織して信仰維持に努めたが,19年(元和5)以降京都,長崎,江戸等の各地で多数の殉教者が出た。幕府のキリシタン検索は寛永年間(1624-44)にいっそう強化され,島原の乱(1637-38)後潜伏の宣教者はことごとく捕らわれ,キリシタンは絵踏(踏絵),宗門改,寺請制によって締めつけを受け,大村の郡(こおり)崩れ,濃尾崩れ,浦上崩れのごとく潜伏キリシタン(隠れキリシタン)の摘発は続いた。1873年明治新政府は,欧米外交団の強い談判に押されてキリシタン禁制の高札を撤廃し,キリシタンはおよそ280年ぶりにようやく信仰の自由を許された。
→南蛮美術 →南蛮文化
[五野井 隆史]

[索引語]
Christão キリスト教 カトリック 吉利支丹(切支丹) イエズス会 Padroado ザビエル,F.de. トレス,C.de 豊臣秀吉 オルガンティーノ,G.S. バリニャーノ,A. クエリョ,G. 禁教令 絵踏 踏絵 潜伏キリシタン 隠れキリシタン


国史大辞典

吉利支丹
キリシタン
十六世紀の中ごろヨーロッパから伝えられたキリスト教の呼称で、ポルトガル語のChristãoによるものである。幾利紫丹・記利支丹・幾利支丹・切支丹・吉利支丹などの漢字を宛てたが、「吉利支丹」は延宝八年(一六八〇)将軍徳川綱吉の諱を避けて、用いることを禁止されたという。のちには鬼・死など不快な漢字を宛てるようになった。その宗旨ばかりでなく、その信者のことにもまた教会に関することにも用いられた。歴史学上は、ふつう明治以降に伝わったキリスト教をキリスト教(基督教)と呼んで、はっきりと区別している。伝来の当初わが国ではその宗旨のことを天竺宗・南蛮宗、あるいはデウス(ダイウス)の教の意味からダイウス宗とも呼び、中でもダイウス宗の呼称は江戸時代の初めまで用いられた。キリシタン布教の歴史は大別して四期に分けることができる。第一期は、天文十八年(一五四九)のフランシスコ=ザビエルの渡来から天正十五年(一五八七)豊臣秀吉の伴天連追放令発布に至るまでの時期である。この間、イエズス会士による布教がポルトガルの貿易船の来航と結びついていたこともあり、またその伝道方針が戦国大名の共感をよんだこともあって、その信仰は北九州地方から京畿方面にまでひろまり、大村純忠・有馬鎮貴(晴信)・大友義鎮・高山右近・内藤如安・小西行長らの大名が入信した。宣教師たちは神仏信仰を偶像崇拝として排撃して唯一の神デウスの教に帰依することを勧め、封建道徳に基づく生命軽視の風潮を誡め、純潔貞操の観念を教え、婚姻に際しては離婚を禁じ、一夫一婦を固く守らせ、また育児の義務を教えた。布教に伴う西欧の文化・科学の移入、社会事業、医療事業なども信仰の普及に大いに役立ったが、信徒の間には武運長久や病気平癒、航海安全などの現世利益を期待する傾向が強かった。天下統一に乗り出した織田信長は、仏寺の勢力を抑制する意図もあって、宣教師たちを厚遇し教会を保護した。そのため伝道事業は最盛期を迎えた。布教制度も整い、都・豊後・下(しも)の三布教区が設けられ、また日本人司祭を養成するためにセミナリヨ・コレジヨ・ノビシヤドなどの学校制度ができて、安土と有馬にセミナリヨが置かれた。当時信者の数は十五万人に達した。天正遣欧使節が派遣されたのもこのころである。本能寺の変ののち、信長の遺志をついだ豊臣秀吉は教会に対してしばらくは信長の政策を継承したが、天正十五年九州征伐を終え、ほぼ天下統一を成しとげた段階で、伴天連追放令を発布して、布教事業に対する抑圧の態度を明らかにしたのである。第二期は、この年から慶長十九年(一六一四)徳川家康が禁教令を強化して多数の信徒を国外に追放するまでの時期である。伴天連追放令は、ポルトガル船の貿易に対しては制約を加えなかったため不徹底に終ったが、イエズス会の自粛に乗じて、日本への進出を図ったスペイン系のフランシスコ会の布教活動が活溌となった。やがて両会の反目は、慶長元年スペイン船サン=フェリペ号の土佐漂着をめぐって表面化し、ついに二十六聖人の殉教をひきおこす結果となった。秀吉の死後、関ヶ原の戦によって天下を掌握した徳川家康は、幕府の基礎を固める必要から、しばらくはその信仰を黙認し、対外政策のために宣教師を利用したこともあった。そのためフランシスコ会の勢力は関東から東北地方に伸びた。仙台の伊達政宗は同会のルイス=ソテロと結んでローマ教皇のもとに使節を派遣した。なおこのころ松前地方に渡った信者たちを慰問するため、イエズス会の宣教師がはじめて蝦夷地を訪れた。江戸時代にはいって日本貿易に加わるようになったオランダとイギリスはともに新教を奉ずる国で、日本市場から競争相手であるポルトガル・スペイン両国を締め出す目的で、家康をはじめ幕府の当局者に対して、カトリック教会を中傷し、両国が国土侵略の意図をもっていると警告した。かねてその信仰が思想統一の障碍となることを惧れていた家康は慶長十七年まず幕府の直轄領に禁教を令し、同十八年十二月にこれを全国に及ぼした。そして高山右近・内藤如安をはじめ数多くの信徒が宣教師らとともに長崎からマニラ・マカオに追放された。また京坂地方の信徒の武士ら七十余人が奥州外ヶ浜(津軽領)に配流されたが、このことはかえって信仰が東北地方からさらに蝦夷地にまでひろまる機縁となった。第三期は元和から寛永にかけての激しい弾圧の時代で、島原の乱ののち、寛永十六年(一六三九)ポルトガル船の来航が禁止され、鎖国の体制が完成するまでの約二十五年間である。信徒迫害は全国に及び、苛酷な処刑が相つぎ、探索のために、五人組の連坐制、宣教師や信徒を密告した者に賞金を与える制度、踏絵によって信仰を試す制度などが行われるようになった。海外から潜入する宣教師も多かったがほとんど捕えられ処刑された。元和八年(一六二二)長崎で行われた大規模の処刑は「大殉教」として名高い。寛永十四年に勃発した島原の乱は、領主の誅求に対する農民の一揆で、信仰に根ざしたものではなく、教会側でもむしろ信仰に背くものとして戦死者を殉教者として認めなかった。しかし幕府はこれを信徒の叛乱と見なし、禁教政策を一層強化する一方、同十六年ポルトガル船の来航を一切禁止し、かねてすすめていた鎖国政策を徹底させた。すでにイギリスは元和九年に商館を閉鎖し、スペインは翌寛永元年幕府から渡来を禁止されていたので、ヨーロッパの国々の中で残るのはオランダだけになったのである。第四期は幕末に至るまでの時期である。幕府は信仰の根絶を図り、全国の仏寺を統制下に置き、檀那寺の制度を設け、すべての人民をそれぞれの宗派の寺院に帰属させ、寺請証文、さらに宗旨人別帳によってキリシタンの信徒でないことを明らかにさせた。しかし明暦三年(一六五七)から肥前大村領郡(こおり)村を中心に「郡崩れ」と呼ばれる大量の検挙があり、また寛文年間(一六六一―七三)には豊後・美濃・尾張などで多くの信徒が捕えられるなど、信仰は容易に跡を断たなかった。幕府は貞享四年(一六八七)さらに類族調の制度を設け、かつての信徒でのちに転宗したものの親族・子孫をすべて類族として登録させ、三代、四代にわたって厳重に監視する方法をとった。このような徹底した禁教政策によって信仰は全く根絶されたかに見えたが、九州の一角にはなおその弾圧に堪えてその信仰を守りぬいた人々があった。幕末開国ののち、慶応元年(一八六五)長崎にはじめて天主堂が建てられたが、その見物人の間から、浦上村の信徒達が宣教師プティジャンにその信仰を告白した。教会ではこれを「キリシタンの復活」と呼んでいる。信徒が潜伏していた地方は浦上村のほか、外海地方・高島・伊王島・平戸・五島、天草の崎津・大江などであった。これらの信徒は、長い年月教会の指導を離れ、また弾圧に堪えて父祖の信仰を守りぬいて来たため、その信仰はかなり土俗化して特異の形態を備えたものになっていた。その多くはのちに教会に帰属したが、なお父祖以来の信仰形態を正当なものとして、教会に帰属することを拒みつづけている信徒たちが、生月・黒崎・五島地方に現在ものこっている。これを「隠れキリシタン」と呼んでいる。キリシタンの布教は、このように日本の統一封建国家形成の時期に際会したために、結局は実を結ばなかったが、その布教事業に伴って伝えられたヨーロッパの学問や芸術・文化・風俗などが与えた影響は少なくない。また日本をひろく世界に紹介する機縁となったことからいっても、その文化史的意義は大きい。
[参考文献]
『イエズス会士日本通信』(村上直次郎訳 柳谷武夫編 『新異国叢書』一・二)、『イエズス会日本年報』(村上直次郎訳 柳谷武夫編 同三・四)、『フロイス日本史』(松田毅一・川崎桃太訳)、『イエズス会と日本』(高瀬弘一郎訳・注 『大航海時代叢書』二期六・七)、姉崎正治『切支丹伝道の興廃』、同『切支丹禁制の終末』、海老沢有道『日本キリシタン史』(『塙選書』五二)、高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』、レオン=パジェス『日本切支丹宗門史』(吉田小五郎訳 『岩波文庫』)、J.Fr.Schütte:Monumenta Historica Japoniae I 1553―1654;C.R.Boxer:The Christian Century in Japan 1549―1650;J.Fr.Schütte:Introductio ad Historiam Societatis Jesu in Japonia 1549―1650.
(岡田 章雄)


日本国語大辞典

キリシタン 【吉利支丹・切支丹】

解説・用例

〔名〕

{ポルトガル}Christa〓o 「キリスト教徒」の意)

(1)室町時代の終わり頃、フランシスコ=デ=ザビエルをはじめとするヨーロッパ人(おもに、スペイン人、ポルトガル人)の宣教師によって日本に伝えられた、キリスト教ローマカトリックの信徒。また、そのキリスト教そのもの。天主教。

*ぎやどぺかどる〔1599〕上・一・三「如何にきりしたん、爰にをひて観念せよ」

*どちりなきりしたん(一六〇〇年版)〔1600〕序「デウスより御やくそくをもてきりしたんにあたへ玉ふべきごしゃう」

*妙貞問答〔1605〕下「貴理志端之教の大綱之事〈略〉さて其真とは何ぞと申に、我宗きりしたんの教の事にてさふらふ」

*乾坤弁説〔1656〕序「耶蘇之法、此を鬼利支端と謂ふ」

*集義和書〔1676頃〕八「道なく人心くらくば、終には吉利支丹にとらるべきか」

*浮世草子・傾城色三味線〔1701〕京・一「切死丹の頭取程にこはがり」

*書言字考節用集〔1717〕九「耶〓 ヤソ 今云。切死丹」

*契利斯督記〔1797〕「今度吉利支丹穿鑿之儀」

*天草土産〔1933〕〈上林暁〉五「切支丹のお寺の尖塔」

(2)(1)の僧侶が、布教の手段として使用し、当時の日本の人々に魔術としてうけとられた、科学を応用した技術。

*外来語辞典〔1914〕〈勝屋英造〉「キリシタン(切支丹)〈略〉『キリシタン』の僧侶が布教の方便に理化学を応用して種々玄妙不可思議なる事を為ししありしより、転じて魔術の称となる」

語誌

「吉利支丹」「幾里志多無」など種々の当て字がみられるが、徳川幕府五代将軍綱吉以後は「吉」字をはばかって用いず(「吉利死丹の字如此之処切支丹と改る、常憲院(綱吉)殿御緯之字を憚て書改也」〔柳営秘鑑‐三〕)、雑俳の「若えびす」(元祿一五年)にも「きりきりと文字あらたまる切死丹」がある。同時にことさら悪印象を与える表記法がとられるようになった。

語源説

(1)十字架をいうクルイスから〔甲子夜話〕。

(2)ポルトガル語で、キリスト教の意のChrista〓o の転〔大言海〕。

発音

〓[リ]〓[シ]

辞書

ヘボン・言海

正式名称と詳細

表記

切支丹ヘボン言海


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35. キリシタンの復活[宗教]
イミダス 2016
同年3月17日、これまで潜伏していた浦上の隠れキリシタン(→「キリシタン禁教令」)が、礼拝のためここに姿を現した。これを「キリシタンの復活」(教会側からは「キリ ...
36. キリシタン‐バテレン
日本国語大辞典
〔名〕({洋語} {ポルトガル}Christa〓o +{ポルトガル}padre 「神父」。「バテレン」は「伴天連」とも書いた)キリ ...
37. キリシタン版
日本大百科全書
される。キリシタン版は、1980年ベニス発見の2点を加え、現在約31種、75点が世界に、1点か数点ずつ散存する。内容別には、(1)キリスト教教義、信心録など。例 ...
38. キリシタン版
世界大百科事典
心霊修行》《どちりな・きりしたん》《コンテンツス・ムンヂ》などで,《ぎや・ど・ぺかどる》はキリシタン文学の傑作である。教外文学書には,《平家物語》《和漢朗詠集》 ...
39. キリシタン‐ばん【キリシタン版】
デジタル大辞泉
0)に活字印刷機を伝えてから刊行。欧文本・ローマ字本・邦文本・欧和混用本がある。「ドチリナキリシタン」「伊曽保物語」「日葡(にっぽ)辞書」など。  ...
40. キリシタン‐ばん【─版】
日本国語大辞典
〔名〕主として一六〜一七世紀、イエズス会が日本国内に印刷所を設置して刊行した活字本の総称。天正一八年(一五九〇)帰国した天正遣欧使節に同行したバリニャーノが日本 ...
41. キリシタンばん【キリシタン版】
国史大辞典
書』なども加えてキリシタン版と称することもある。さらに幕末開国による布教再開後、すなわち慶応元年(一八六五)―明治十六年(一八八三)の間に、横浜・長崎などで出版 ...
42. キリシタン版
日本史年表
1591年〈天正19 辛卯①〉 この年 肥前国加津佐で 『サントスの御作業の内抜書』 が刊行され, キリシタン版 の印刷始まる。  ...
43. キリシタン版一覧1[図版]
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
44. キリシタン版一覧2[図版]
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
45. きりしたんばんわかんろうえいしゅう【キリシタン版『倭漢朗詠集』】 : 和漢朗詠集
国史大辞典
キリシタン版『倭漢朗詠集』〕 慶長五年(一六〇〇)日本耶蘇会刊『倭漢朗詠集』いわゆるキリシタン版『朗詠集』一冊が、スペインのマドリードの西北方エル=エスコ ...
46. キリシタン‐ぶぎょう【キリシタン奉行】
デジタル大辞泉
江戸幕府の職名。キリシタンの探索や取り締まりのために、寛永17年(1640)設置。のち宗門改役(しゅうもんあらためやく)と改称。  ...
47. キリシタン‐ぶぎょう[‥ブギャウ]【─奉行】
日本国語大辞典
〔名〕江戸幕府の職名の一つ。キリシタンの捜査、取締に任じたもの。島原の乱後の寛永一七年(一六四〇)はじめて置かれた。はじめ大目付一名が兼任したが、のち定員二名と ...
48. キリシタン文化
世界大百科事典
→南蛮文化 ...
49. キリシタン文学
日本大百科全書
る。東方巡察使バリニャーノが将来した活字印刷機によって刷られたものをキリシタン版と称しているが、キリシタン文学はキリシタン版として読まれたもので、これにはローマ ...
50. キリシタン‐ぶんがく【キリシタン文学】
デジタル大辞泉
室町末期から江戸初期にかけて、キリシタンの宣教師などにより、日本語で著述・翻訳された宗教文学、および宣教用・語学用の書物。「伊曽保物語」「日葡(にっぽ)辞書」な ...
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潜伏キリシタン(国史大辞典)
江戸幕府がキリスト教禁止令を出した慶長十八年(一六一三)から信仰を表明して復活した慶応元年(一八六五)までの約二百五十年間にわたり禁圧・迫害のため潜伏を余儀なくされたキリスト教信徒。宣教師の国外追放後も日本に残留潜伏した一部パードレ、イルマン
日本二十六聖人(日本大百科全書(ニッポニカ))
1597年2月5日(慶長元年12月19日)に長崎で豊臣秀吉の命令によって処刑されたカトリックの司祭、修道士、信徒。秀吉は1587年(天正15)に宣教師の国外追放を命じたが、イエズス会員は秀吉の感情を害さぬように慎重に行動したので、事態は穏便に経過していた。
シャビエル(フランシスコ・ザビエル)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五〇六-五二。スペイン人イエズス会士。キリスト教(ローマ=カトリック)を日本に最初に伝えた。古記録には「しびえる」(寛永ころの日繰、祝日表)、「ジャヒエル」(『契利斯督(キリスト)記』)、「サベイリウス」(『西洋紀聞』)と表記され
イエズス会(世界大百科事典・国史大辞典・集英社世界文学大事典)
カトリック教会内の司祭修道会の一つ。16世紀イグナティウス・デ・ロヨラによって創立された。耶蘇会とも書かれ,同会士はジェスイットJesuitとも呼ばれる。イグナティウスはマンレサの神体験後,パリ大学で出会った6人の同志P.ファーブル,ザビエル,D.ライネス,N.ボバディリャ
バテレン 【伴天連・破天連・頗姪連】(日本国語大辞典)
キリスト教が日本に伝来した当時の宣教師・神父に対する呼称。パーテレ。日本に伝来したキリスト教の俗称。また、その宗徒。バテレン宗。*俳諧・信徳十百韻〔1675〕「百姓等国の悪党数千人 伴天連吟味ありぬへら也」*放浪記〔1928〜29〕
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聖書(集英社世界文学大事典・世界大百科事典)
ユダヤ教およびキリスト教の聖典。人類の歴史において,聖書ほど広く世界に行き渡り,人々の心を深く捉え,その社会・文化あるいは思想の形成に多大な影響を与え,また熱心な研究の対象となってきたものはおそらくないであろう。その意味で,聖書は人類の大いなる遺産
閻魔(日本架空伝承人名事典・日本国語大辞典・世界大百科事典)
閻魔は冥府の王として仏教とともに日本に入り、恐ろしいものの代名詞とされたが、地蔵菩薩と習合して信仰対象にもなった。奈良時代には閻羅王と書かれ、まれに閻魔国とも書かれている(『日本霊異記』)。閻羅は閻魔羅闍(えんまらじゃ)の略で、閻魔王の意味である。
信教の自由(日本大百科全書・世界大百科事典)
宗教を信仰し、宗教上の行為を行う自由。宗教の自由ともいう。信教の自由は、宗教的権威から人間精神を解放することにより、近代の精神的自由の確立に大きな役割を果たした。また、信教の自由は、人間の魂の救済にかかわる自由として、精神的自由の源をなし、近代以来の
三宝絵詞(東洋文庫・国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
平安中期,出家した尊子内親王に源為憲が献じた仏教入門書。表題には「絵」とあるが,絵は失われて詞書だけがのこる。本生譚,経典の功徳,仏教・年中行事などを内容とする。1990年01月刊
渓嵐拾葉集(国史大辞典・世界大百科事典)
叡山の光宗が応長元年(一三一一)から貞和四年(一三四八)にかけて叡山天台の行事・作法や口伝法門などを集録したもの。もと三百巻あったと伝えるが、現在は百十三巻。顕部・密部・戒部・記録部・医療部・雑記部の六部からなり、当時の天台の顕・密・禅・戒に関する
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