ポルトガル語のChristãoの発音がそのまま日本語になり,キリスト教(カトリック)およびその信者を指した。初め幾利紫旦,貴理師端,のち吉利支丹,切支丹,鬼理至端の文字があてられた。
伝来
15~16世紀にかけ幕あけした大航海時代はイベリア半島のポルトガル,スペイン両国がこれをリードしたが,両国王はローマ・カトリック教会と深く結びつき教皇を精神的よりどころとしてキリスト教の弘布に尽くした。この時期,ローマ・カトリック教会の腐敗を批判して起こった宗教改革は,カトリック内部の自己改革を触発し,1534年イエズス会がイグナティウス・デ・ロヨラにより創設された。同会は清貧・貞潔・服従を誓約し,イエス・キリストの伴侶として神のために働く聖なる軍団たることを目ざした。会は40年に教皇の認可を得,その要請によりポルトガル国王のインド植民政策を宗教的側面から助けることになり,王室の財政援助すなわち布教保護権Padroadoを得て東洋布教に着手し,42年ザビエルがゴアに到着した。ザビエルの鹿児島到着は49年8月(天文18年7月)で,同地出身のヤジロー(アンジロー)が先導者となった。ザビエルは国王(天皇)に謁して布教許可を得るため平戸(長崎県),山口より上京したが目的を果たせず,山口で大内義隆に謁して布教を許された。彼が滞日した2年3ヵ月間の受洗者は約1000名にすぎないが,彼は戦国社会の現実に即応した布教方針のもとに領主層に接近を図り,教理の説明には仏僧の非難を避けて仏教用語の援用をやめ,ラテン語とポルトガル語をそのまま使うことにした。
布教の進展
ザビエルの後継者トレスは山口より豊後府内に本拠を移し,のちイエズス会員となったアルメイダの援助を得て病院等を経営した。布教活動はポルトガル船の定期的来航に伴い西南九州に進展した。諸領主は生糸や軍需品をもたらす商船の来航を求めていたから,トレスは商船に入港先を指示し,一方諸領主にキリスト教保護を強要した。布教と貿易の一体化に積極的であった大村純忠は63年(永禄6)に受洗し,領内のキリシタン化を図った。畿内の布教は1559年日本人イルマンのロレンソ了西を伴ったビレラにより着手され,翌年将軍足利義輝から布教を許された。畿内の諸領主と庶民は救霊を第一とした熱心な信者が多く,結城山城守忠正,高山父子,池田丹後守,小西父子等の武将が受洗し,彼らは畿内キリシタンの中核として教会を支え,70年(元亀1)以降の織田信長・豊臣秀吉時代に至るキリシタン興隆の礎となった。70年来日した布教長カブラルはオルガンティーノを畿内に配し,同年および74年(天正2)に畿内巡察を行い信長に謁した。信長の政治的地位の上昇・確立に伴い教会勢力も増大し,77年3階建ての教会(南蛮堂,南蛮寺)が落成した。
バリニャーノの改革
巡察師バリニャーノはマカオ市との間に生糸貿易参加に関する契約を結んで日本布教の財源確保に努めたのち,79年来日した。彼は日本イエズス会を準管区に昇格させ,これを下(しも)・豊後・都の3布教区に分けて,クエリョを準管区長に任じた。布教の強化・拡充のために日本人修道者・司祭養成の必要性を痛感して教育機関(コレジヨ,セミナリヨ,ノビシアド)を設け,日本の国情に即した布教を模索して日本文化への適応を積極的に進めた。また大村氏から長崎と茂木を譲り受けてイエズス会領とし,キリシタンの町長崎の基礎を作った。また離日直前に急きょ有馬・大村・大友のキリシタン大名に対し少年使節のローマ派遣を建議し,82年2月一行をゴアに帯同した(天正遣欧使節)。遣使の意図は,彼らを通じてヨーロッパ世界の偉大さをキリシタンに伝えさせ,日本布教の成果をローマ教会に誇示して日本イエズス会に対する援助を確保することにあった。82年当時のキリシタン数は15万,下地方11万5000,都地方2万5000,豊後地方1万であった。
豊臣秀吉とキリシタン
秀吉は当初キリシタンに好意的でオルガンティーノに大坂の地所を与え,86年クエリョを大坂城に引見した。87年当時のキリシタンは20万,教会数200,イエズス会員は113名で22の教会施設を有していた。しかし87年7月(天正15年6月),秀吉は博多で5ヵ条からなる伴天連(バテレン)追放令を発し,神国日本への邪法の弘布を禁じ,長崎を没収した。このためクエリョは平戸に宣教師を集めて善後策を講じ,潜伏による布教維持を図った。しかるに,秀吉のマニラ入貢要求に対する総督使節として,93年フランシスコ会のペドロ・バウティスタ等が来日し,のち上京して公然と布教を展開したが,96年に起こったサン・フェリペ号事件のために再び迫害が起こり,バウティスタ等は他のキリシタンとともに捕らわれ,97年(慶長2)2月長崎で処刑された(二十六聖人の殉教)。
江戸幕府とキリシタン
徳川家康は秀吉の禁教政策を踏襲したが,対外貿易推進のため宣教師の活動を黙認したため,ドミニコ,アウグスティヌス両修道会会士が相つぎ来日した。彼はまた日本司教セルケイラやイエズス会準管区長パジオを引見し,キリシタン容認を世間に印象づけた。しかし,朱印船貿易,中国,スペイン,オランダ,イギリスの各商船の来航によりポルトガル貿易の比重は著しく低下し,長崎貿易の仲介者としてのイエズス会の地位も同様であった。1612年岡本大八事件を契機に家康は直轄地に禁教令を発し,14年さらに禁教迫害を全国に拡大して宣教師等を国外に追放した。各修道会は全体で46名の宣教師を残留・潜伏させた。キリシタンは各地にコンフラリア(講,組)を組織して信仰維持に努めたが,19年(元和5)以降京都,長崎,江戸等の各地で多数の殉教者が出た。幕府のキリシタン検索は寛永年間(1624-44)にいっそう強化され,島原の乱(1637-38)後潜伏の宣教者はことごとく捕らわれ,キリシタンは絵踏(踏絵),宗門改,寺請制によって締めつけを受け,大村の郡(こおり)崩れ,濃尾崩れ,浦上崩れのごとく潜伏キリシタン(隠れキリシタン)の摘発は続いた。1873年明治新政府は,欧米外交団の強い談判に押されてキリシタン禁制の高札を撤廃し,キリシタンはおよそ280年ぶりにようやく信仰の自由を許された。
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