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執権政治

ジャパンナレッジで閲覧できる『執権政治』の国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書のサンプルページ

国史大辞典

執権政治
しっけんせいじ
鎌倉時代、北条氏が執権の地位によって、幕府の実権を掌握した政治。鎌倉殿(将軍)独裁制や得宗専制とは違って、執権政治は合議を特色とするとされる。「執権政治」の用語をはじめて用いたのは、大正十年(一九二一)、竜粛(りょうすすむ)の「尼将軍政子」(『中央史壇』三ノ四)あたりである。竜は将軍の血統こそ変わっても、幕府の実権を握ったのは一貫して執権北条氏であり、幕府政治はすなわち執権政治であるとし、北条氏が執権として権勢を確立する過程に関心を向けている。安田元久が正治元年(一一九九)に源頼朝が没してのちの鎌倉幕府の政治をすべて広義における北条氏執権体制の展開とし、幕府政治の大半を執権政治の時代と見、これを形成期、成熟期、変質期、衰退・滅亡期の四期に分けているのも(安田はこのうち第一・二の時期を狭義の執権政治とよぶ)、同様の立場からであろう。しかし今日ではこのように鎌倉幕府政治の大半を執権政治と見るよりも、その中のある時期のみを執権政治と呼ぶことが多い。すなわち幕府の歴史をその政治形態によって、前期の将軍(鎌倉殿)独裁制、中期の執権政治、後期の得宗専制の三期に分かつのである。この時期区分をはじめて提唱したのは、昭和三十年(一九五五)の佐藤進一「鎌倉幕府政治の専制化について」である。もっともすでに明治四十年(一九〇七)三浦周行は鎌倉幕府の三大時期として、元暦元年(一一八四)の公文所・問注所設置から嘉禄元年(一二二五)の北条政子の死までの創業時代、弘安七年(一二八四)の時宗の死までの守成時代、その後、元弘三年(一三三三)の幕府滅亡までの衰微時代をあげているが(『鎌倉時代史』)、この時期区分は後年の佐藤のものと通ずる点があり、また政子の死を幕府史上の重要画期としているのも注目される。執権政治とそれに前後する二つの政治形態との関連を考え、幕府史上における執権政治の位置づけを試みる場合、その成立と崩壊(変質)の過程が問題になるが、学説史的にいえば、執権政治の崩壊、得宗専制への移行がまず取り上げられた。昭和十八年、佐藤は『鎌倉幕府訴訟制度の研究』において、北条時宗が没し、貞時が執権に就任した翌弘安八年、御家人勢力を代表する安達泰盛一族が、得宗被官勢力を代表する平頼綱と対立して滅ぼされた霜月騒動の意義を強調した。またこれに先立って時頼・時宗のころ、重要政務決定の中枢機関が、評定衆会議から得宗私邸での「寄合」に移ることなどを指摘し、「執権政治より得宗政治への移行」を説いた。ついで佐藤は昭和二十七年の「執権政治」(『世界歴史事典』)では、将軍に代わる執権北条氏の政権掌握を執権政治と見、その成立過程にも注意を向け、建保元年(一二一三)執権北条義時が侍所別当和田義盛一族を滅ぼし、政所・侍所別当を兼ね、幕府機構の上に自己の権力を樹立した時をもって執権政治の成立とした。一方、執権政治の崩壊過程についても、時頼が執権に就任した翌宝治元年(一二四七)に起った三浦氏の乱の前後から、得宗の権威が急速に絶対化され、時宗の時代には執権政治機構の変質が顕著に進み、霜月騒動で得宗専制が確立したとするなど、所論を展開させており、この論稿では執権政治の成立から崩壊に至るまでの大綱がほぼ完成している。このあとを承けて、佐藤は三年後に前述の三時期論を主張したのである。前掲の諸論文のほか、「初期封建社会の形成」(昭和二十九年)を含めて、このころに発表された佐藤の見解が、今日の通説になっているが、これに対しては上横手雅敬「鎌倉幕府と公家政権」(昭和五十年)などの異説も述べられている。次に執権政治の(一)成立、(二)崩壊、(三)性格などに関して論点を紹介する。

(一)

執権政治の成立についていえば、和田義盛の乱で執権政治が成立したと見る佐藤説に対して、上横手はそれより十年早く、建仁三年(一二〇三)北条時政が将軍源頼家の外家比企氏を滅ぼし、頼家を廃して実朝を擁立し、時政自身は政所別当として執権に就任したのを執権政治の成立とする。こうして時政が政権を握ったが、元久二年(一二〇五)時政は実朝を廃し女婿の平賀朝雅を将軍に立てようとして失敗し、伊豆に追われ、義時が執権に就任してのちは、政子・義時が政権を掌握した。鎌倉殿実朝は傀儡にすぎず、承久元年(一二一九)実朝が殺されてのち、京都の九条家から迎えられた三寅(道家の子)も幼年で、まだ将軍に任命されてさえいなかったが、故源頼朝の後家北条政子が実質的な鎌倉殿として、御家人との主従結合の頂点に立って政治を独裁し、執権義時は幕府の官僚機構を掌握してこれを助け、承久三年の承久の乱にも、政子・義時の指導のもとに幕府方は勝利を収めることができた。この間の政治の性格は鎌倉殿独裁制の延長であった。したがって単に北条氏が政権を握っただけでは執権政治とはいえず、鎌倉殿独裁制とは違った合議政治としての執権政治の出現は後年を待たねばならなかった。佐藤は和田氏の乱で執権政治が成立したとする一方、執権政治を典型的には承久の乱後の政治形態とし、特に執権泰時の時代をその典型と見ている。上横手も同様の認識に立って、建仁三年の執権政治の「成立」とは別に、嘉禄元年、政子の死を契機に、泰時が行なった一連の政治改革を重視し、これを執権政治の「確立」とする。その改革の内容は、執権を二名に増員し(うち一名が連署)、評定衆を新設して合議政治を発足させ、さらに前に都から迎えていた三寅を元服させて、頼経と名乗らせ、朝廷に申請して、翌嘉禄二年、頼経の征夷大将軍就任(摂家将軍)を実現させたことなどである。さらに貞永元年(一二三二)には『御成敗式目』が制定され、裁判の基準が定まり、執権政治は円滑に運営されていった。『御成敗式目』は幕府の勢力圏にのみ適用され、朝廷や荘園領主の支配下では、それぞれの法が有効であった。幕府は荘園領主や在地領主の領主権を尊重し、その内部には立ち入らず、国司・領家の成敗にも干渉しなかった。

(二)

執権政治の崩壊と得宗専制への移行に関しては、佐藤も時頼以来の得宗専制の傾向を述べているが、上横手は得宗専制を単に幕府内の対立としてだけでなく、幕府と公家政権との関係の中で把えるべきだという立場に立ち、得宗専制を二段階に分けることによって、執権政治の規定をより厳格なものにした。すなわち得宗専制の第一段階は時頼・時宗の時期であり、第二段階は貞時・高時の時期である。まず第一段階についていえば、時頼は北条一門の不平分子、三浦氏をはじめとする有力御家人、摂家将軍などの反対勢力を排除する強圧的な政治を行い、治天の君や皇位の決定、摂関の人選をはじめ、朝廷の政治全般に干渉を加えた。時宗も蒙古襲来にあたり、朝廷の伝統的外交権を奪って独断で強硬な外交政策をとり、また本所領の年貢などを兵粮米として徴発し、本所一円地の荘官らの非御家人を動員する権限を獲得するなど、本所領に干渉しなかった従来の原則を大きく修正した。時頼は九条頼経・頼嗣らの摂家将軍を相ついで京都に追い、かわりに親王将軍を迎えたが、その後、将軍の傀儡化はさらに進み、歴代の将軍は陰謀を口実に簡単に追放された。時頼は執権を退いてのちも、得宗として幕府の実権を握っており、得宗と執権とは分離され、権力の根源は執権よりも得宗に置かれるようになった。幕政の運営が評定衆による「評定」から得宗私邸での「寄合」に移る傾向も始まった。これらの点から見て、時頼・時宗の時代は得宗専制期に含められるべきであり、一部でいわれているように、執権政治期に含めるのは妥当ではない。ただこの時期には、得宗専制の対象は主に朝廷や貴族・寺社に向けられたため、得宗としては御家人の支持をとりつける必要があり、引付を置いて裁判の迅速、正確化に努め、大番役勤仕の期間を短縮して御家人の負担を軽減させるなど、御家人保護の政策をとった。しかしこうして公家側への干渉に成功すると、得宗専制は御家人との対立を強める第二段階に入るが、その契機となったのが霜月騒動であり、得宗専制はここに確立した。執権政治が合議政治であるといっても、所詮幕府政治の本質は独裁・専制であり、専制の主体が鎌倉殿から北条氏(得宗)に移行するにすぎず、合議的執権政治なるものも、北条氏が鎌倉殿に代わる独裁を確立するに至るまでの過渡期に例外的に見られる政治形態にほかならない。したがって執権政治は厳密にいえば、執権泰時・経時の時代、すなわち嘉禄元年から寛元四年(一二四六)までの約二十年間の政治を指すものと限定さるべきである。ただし鎌倉殿独裁制・得宗専制との過渡期をも含めて、建仁三年から弘安八年までの約八十年を広義の執権政治と見ることもできる。

(三)

執権政治の性格についていえば、泰時に代表される執権政治は、すでに同時代から善政を讃えられていたが、佐藤をはじめ今日の歴史家も一般に執権政治に高い評価を与えている。佐藤によれば、執権政治は朝廷に寄生して自己の権力を確立した将軍の独裁制を克服するものであり、武士階級、特に東国の武士は執権政治においてはじめて幕府を自分自身の政権とすることができたとし、「文字通りの武家政権の実現」と見ており、このような見解をとる学者は少なくない。一方、上横手は「承久の乱の歴史的評価」(昭和三十一年)などで、承久の乱後の執権政治は、在地領主勢力と荘園領主勢力との均衡の上に、両者の対立を調停する権力として定着したのであり、在地領主の成長を抑止する一面のあったことを指摘している。ただ同じく在地領主(武士)といっても、佐藤は主として東国の豪族的領主を念頭に置いているし、上横手は全国的な武士を考えているという論点の相違もある。そしてこれら昭和三十年前後の佐藤・上横手の見解は、いずれも鎌倉幕府の半古代的性格を指摘し、封建制の成立を鎌倉時代以後に求め、しかも在地領主を封建制展開の重要な担い手と見る当時の社会構成史的視角の影響を顕著に受けている。のち上横手が執権政治を鎌倉殿独裁制から得宗専制への過渡期における例外的なものと見たのは、従来の執権政治讃美の傾向に対する疑問からであり、杉橋隆夫のように、評定衆の大半は文筆官僚であって、東国の豪族的領主は少なかったとして、「合議」の実質に疑問を抱く論者もいる。
→鎌倉幕府(かまくらばくふ),→得宗専制政治(とくそうせんせいせいじ)
[参考文献]
三浦周行『日本史の研究』新輯一、竜粛『鎌倉時代』上、佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』、上横手雅敬『日本中世政治史研究』、安田元久『鎌倉執権政治』(『歴史新書』五六)、佐藤進一「初期封建社会の形成」(『新日本史大系』三所収)、同「鎌倉幕府政治の専制化について」(竹内理三編『日本封建制成立の研究』所収)、上横手雅敬「承久乱の歴史的評価」(『史林』三九ノ一)、同「鎌倉幕府と公家政権」(『(岩波講座)日本歴史』五所収)、田中稔「執権政治」(永原慶二・貫達人・安田元久編『中世史ハンドブック』所収)、杉橋隆夫「鎌倉執権政治の成立過程」(御家人制研究会編『御家人制の研究』所収)、同「執権・連署制の起源」(『立命館文学』四二四―四二六合併号)、村井章介「執権政治の変質」(『日本史研究』二六一)
(上横手 雅敬)


世界大百科事典

執権政治
しっけんせいじ

鎌倉時代,北条氏が執権の地位によって,幕府の実権を掌握した政治体制。鎌倉幕府の歴史は,その政治形態によって,前期の鎌倉殿(将軍)独裁政治,中期の執権政治,後期の得宗専制政治の3期に区分される。中期の執権政治の特色として,第1に鎌倉殿に代わって執権北条氏が政権を握っていること,第2にその政治の性格は,その前後の時期の独裁・専制とは異なり合議政治であることがあげられる。これらの条件を考慮して,鎌倉殿独裁政治から執権政治への画期を求めると,第1の条件からは1203年(建仁3),第2の条件を満たすならば25年(嘉禄1)ということになり,これらをそれぞれ執権政治の成立・確立の時点と見る。次に執権政治から得宗専制政治への移行を考えると,得宗専制は46年(寛元4)に成立し,85年(弘安8)に確立したといえる。したがって執権政治期は,もっとも狭義には執権北条泰時・経時の時代のみであるが,広義にはこれに先だつ時政,義時の時代,これに続く時頼,長時,政村,時宗の時代も含まれ,これらの時期は,それぞれ鎌倉殿独裁政治期および得宗専制政治期との過渡期に相当する。執権政治期を狭くとれば,1225-46年の約20年にすぎないが,本来鎌倉幕府の政治は,鎌倉殿や得宗の独裁・専制の政治であり,執権政治のような合議政治は,得宗が鎌倉殿に代わる専制の主体に成長しきれない段階におこる特殊な現象であって,その期間が短いのも当然なのである。

 1203年,北条時政は源頼家を廃し,その弟実朝を鎌倉殿に立て,時政自身は政所別当として執権に就任した。これが執権政治の成立である。時政の子義時は13年(建保1)侍所別当和田義盛を滅ぼし,政所・侍所別当を兼ね,その後北条氏は両職を世襲して権勢を振るった。19年(承久1)実朝が殺されると,幕府は京都の摂関家から藤原頼経を鎌倉殿として迎え,21年の承久の乱にも勝利を収めた。この間の幕府の性格を見ると,鎌倉殿実朝は従来の鎌倉殿と違って傀儡(かいらい)にすぎず,頼経は幼年で,まだ征夷大将軍に任命さえされていないが,故頼朝の妻北条政子が実質的な鎌倉殿として,そのカリスマ性によって,御家人との主従結合の頂点に立って政治を独裁し,執権義時は幕府官僚機構の上首としてこれを助けており,政治の体質としては,鎌倉殿独裁政治の延長である。したがって幕政の改革は,25年の政子の死を契機に,執権泰時によって精力的に行われた。すなわち執権を2名に増員し(うち1名が連署),評定衆を新設し,さらに頼経を元服させ,翌26年に頼経は征夷大将軍に任命される(摂家将軍)などであり,ここに執権政治が確立した。32年(貞永1)には最初の武家法典である《御成敗式目》が制定され,裁判の基準が定められた。この時期の執権政治は,複数執権制や評定衆制に見られるように,従来の独裁に代わる合議に特色がある。この合議政治は,承久の乱後の幕府の安定期にふさわしい政治のあり方であり,幕府は貴族・寺社などの荘園領主勢力と,地頭などの在地領主勢力との均衡の上に,両者の対立を調停する権力として定着した。幕府は荘園領主や在地領主の領主権を尊重し,その内部には立ち入らず,国司・領家の成敗にも干渉しなかった。《御成敗式目》は幕府の勢力圏にのみ適用され,朝廷や荘園領主の支配下では,それぞれの法が有効であった。

 さて泰時,経時に続く時頼の時代は,泰時の時代と同様に執権政治の全盛期とされてきた。それは時頼が引付を置いて裁判の迅速・正確化に努め,大番役など御家人の負担の軽減を図るなど,御家人保護の政策をとったためである。しかし46年に執権に就任した時頼は,さっそく北条一門の不平分子,三浦氏など有力御家人,摂家将軍など反対勢力を一掃する強圧的な政治を行っている。同時に公家政治にも干渉を加え,ついには皇位の選定権までも掌握した。頼経,頼嗣があいついで京都に追われ,摂家将軍に代わって親王(宮)将軍が登場したが,将軍の傀儡化はさらに進み,歴代の将軍は陰謀を口実に簡単に追放されている。時頼は執権を退いて後も,得宗として政治の実権を握っており,そのため得宗と執権とは分離され,権力の源泉は執権よりも得宗に置かれることになった。また評定衆の〈評定(会議)〉が形骸化し,得宗が私的に主宰する〈寄合〉に実質が移る傾向も始まっている。このようにすでに得宗専制の色彩はあらわれているが,ただこの時期には,公家政治への干渉など,専制がおもに朝廷や貴族・社寺に向けられたため,得宗としては御家人の支持をとりつける必要から,御家人保護の政策を行ったのである。それゆえ,公家側への干渉に成功した後の得宗専制は,明らかに御家人との対立を強めるようになる。貞時が執権に就任した翌85年には,有力御家人安達氏が得宗被官勢力を代表する平頼綱と対立して滅ぼされ(霜月騒動),ここに得宗専制が確立し,執権政治は完全に終止符をうたれたのである。
[上横手 雅敬]

[索引語]
鎌倉幕府 北条時政 北条政子 北条義時 北条泰時 摂家将軍 御成敗式目 北条時頼


日本大百科全書(ニッポニカ)

執権政治
しっけんせいじ

鎌倉時代、北条 (ほうじょう)氏が執権の地位によって、幕府の実権を掌握した政治体制。前期の鎌倉殿 (かまくらどの)(将軍)独裁政治、後期の得宗 (とくそう)専制政治の中間に位置づけられる。1203年(建仁3)北条時政 (ときまさ)は源頼家 (よりいえ)を廃して実朝 (さねとも)を鎌倉殿にたてた際、政所別当 (まんどころべっとう)(執権)に就任し、政権を握った。1205年(元久2)時政は実朝を廃して女婿の平賀朝雅 (ひらがともまさ)を将軍にたてようとして失敗、義時 (よしとき)が執権となってのちは、政子 (まさこ)・義時が政権を握った。13年(建保1)義時は侍所 (さむらいどころ)別当和田義盛 (よしもり)を滅ぼし、政所・侍所別当を兼ね、その後、北条氏は両職を世襲した。19年(承久1)に実朝が殺されると、幕府は摂関家から九条頼経 (くじょうよりつね)を迎えたが、政子が実質的な鎌倉殿となり、執権義時がこれを助け、21年の承久 (じょうきゅう)の乱でも勝利を収めた。25年(嘉禄1)政子が没してのち、執権北条泰時 (やすとき)は執権を2名に増員(うち1名が連署 (れんしょ))し、評定衆 (ひょうじょうしゅう)を新設して、合議政治を行い、翌26年には頼経が正式に征夷大将軍 (せいいたいしょうぐん)に任命された。

 執権政治には二つの側面がある。第一は、北条氏が執権として行う政治という側面で、その意味では執権政治は1203年に「成立」したといえる。第二は、鎌倉殿独裁政治や得宗専制政治とは異なる合議政治という側面である。この第二の点からみると、政子の時代までの政治は独裁的であり、鎌倉殿独裁政治に含めるのが妥当で、25年の政子の没後、泰時によって合議政治としての執権政治が「確立」されたということができよう。この合議政治は、承久の乱後、安定期を迎えた幕府にふさわしい政治体制で、32年(貞永1)には「御成敗式目 (ごせいばいしきもく)」が制定され、裁判の基準が定まり、執権政治は円滑に運営された。

 1246年(寛元4)北条時頼 (ときより)が執権となったころから執権政治は変質し始める。時頼は、北条一門の不満分子である名越 (なごえ)氏、有力御家人三浦 (ごけにんみうら)氏、摂家将軍頼経・頼嗣 (よりつぐ)ら反対勢力を次々に排除した。さらに院政を行う上皇(治天 (ちてん)の君 (きみ))や天皇の決定、摂関の人選をはじめ、朝廷の政治にも干渉した。時頼は執権を退いてのちも得宗として実権を握り、幕府権力の根源は執権よりも得宗に置かれるようになった。幕政の運営も評定衆の評議から、得宗が私的に主宰する「寄合 (よりあい)」に移り始めた。これらの点からみて、時頼の時代は得宗専制期に含めるのが正しいが、この時期には専制の対象はとくに朝廷、貴族、寺社に向けられ、御家人に対しては、その支持を得る必要からむしろ保護政策をとった。得宗専制と御家人との対立が顕著となるのは貞時 (さだとき)の時代からであり、1285年(弘安8)の霜月 (しもつき)騒動はその画期である。

[上横手雅敬]

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国史大辞典
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国史大辞典
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26. くまもとし【熊本市】熊本県
日本歴史地名大系
以後内部的には所職を細分化しながらも、室町時代まで地頭職を保持していった。承久の乱以後北条氏は執権政治を行い、文永・弘安の役後には得宗専制政治をとった。文永・弘
27. けっか【結果】 : 承久の乱
国史大辞典
帰東して執権の職を襲った泰時が、貞永元年(一二三二)に制定した『御成敗式目』は、評定衆の制度とともに執権政治の完成を示す徴憑とされるが、それはまた、乱後の訴訟・
28. 源威集 46ページ
東洋文庫
秩父氏は桓武平氏良文流。武蔵国惣検校職を継承する有力在庁官人(岡田清一「武蔵  国留守所惣検校職に就いて1北条執権政治体制成立史の一齣」『学習院史学』一一、一九
29. このじてんのこうもくへんせい【この辞典の項目編成】 : 中世
国史大辞典
各政権の政治機構については「六波羅政権」「鎌倉幕府」「南朝」「北朝」「室町幕府」の項目で扱い、さらに「執権政治」「得宗専制政治」「管領政治」の項目で政治過程を概
30. 御前沙汰
世界大百科事典
れることもある。室町幕府は,その成立の当初においては,鎌倉時代の北条義時・泰時ごろのいわゆる執権政治全盛期を模範としていた。幕府の最高意志を決める場も鎌倉幕府の
31. さがみのくに【相模国】神奈川県地図
日本歴史地名大系
正治二年(一二〇〇)梶原景時、建保元年(一二一三)の和田義盛、宝治元年の三浦泰村など、北条氏の勢力拡大、執権政治の展開とともにその多くは滅び、所領は没収されてい
32. 執権
日本大百科全書
引付衆ひきつけしゅうらを率いて幕府の実権を掌握し、北条氏の独裁体制を確立した。この執権北条氏の独裁的な体制を執権政治という。田中文英
33. 執権
世界大百科事典
制度の影響であろう。なお室町幕府の管領をも執権といい,後には諸大名の重臣をも執権といった。→執権政治上横手 雅敬 勾当 蔵人頭 執権職事 北条時政 御後見 御後
34. しっけん【執権】画像
国史大辞典
→鎌倉幕府(かまくらばくふ),→執権政治(しっけんせいじ),→連署(れんしょ) [参考文献]『武家名目抄』職名部四ノ一(『(新訂増補)故実叢書』一一)、杉橋隆夫
35. しっけん【執権】 : 執権/(二)
国史大辞典
。室町幕府および鎌倉府の管領、諸大名の重臣をも執権と称した。→鎌倉幕府(かまくらばくふ),→執権政治(しっけんせいじ),→連署(れんしょ)
36. しっけんせいじ【執権政治】 : 執権政治/(一)
国史大辞典
を握っただけでは執権政治とはいえず、鎌倉殿独裁制とは違った合議政治としての執権政治の出現は後年を待たねばならなかった。佐藤は和田氏の乱で執権政治が成立したとする
37. しっけんせいじ【執権政治】 : 執権政治/(二)
国史大辞典
得宗専制はここに確立した。執権政治が合議政治であるといっても、所詮幕府政治の本質は独裁・専制であり、専制の主体が鎌倉殿から北条氏(得宗)に移行するにすぎず、合議
38. しっけんせいじ【執権政治】 : 執権政治/(三)
国史大辞典
(三) 執権政治の性格についていえば、泰時に代表される執権政治は、すでに同時代から善政を讃えられていたが、佐藤をはじめ今日の歴史家も一般に執権政治に高い評価を
39. 信濃国画像
世界大百科事典
り,承久の乱における諏訪社大祝の動きが,他の信濃国武士に与える影響は大きかった。また北条氏の執権政治にとっても,諏訪社祭祀組織を活用することは,信濃国御家人を統
40. しゅご【守護】画像
国史大辞典
幕政担当者の守護観、守護職の吏務的側面を象徴するものといえよう。承久の乱を契機に武家政権の弱体性が克服されて執権政治が展開すると、守護職の帰属もほぼ安定し、守護
41. 所務沙汰
日本大百科全書
裁判のこと。鎌倉幕府の裁判は、源頼朝よりとものときは鎌倉殿かまくらどのたる頼朝の親裁であったが、執権政治の発展につれ、「御成敗式目ごせいばいしきもく」の制定を経
42. 承久の乱
世界大百科事典
の志に富んでいたが,すでに将軍は独裁者の地位になく,幕政の実権は北条氏に移りつつあった。北条執権政治が御家人たちの支持を得るために打ち出した諸策は,本質的に上皇
43. じょうきゅうのらん【承久の乱】画像
国史大辞典
退けられ、弟の千幡に替わった。この政変を演出した北条時政は、幕府政所の執権別当となり、ここに執権政治の制度的基点が設定されたのである。前年に源通親が死去して以後
44. スルタン
世界大百科事典
ム)に隔離・教育した。このことはスルタンの行政能力の低下,軍人・官僚・ハレムなどの側近による執権政治への移行をもたらした。なお,1517年にエジプトを征服してア
45. せいかくとはいち【性格と配置】 : 守護
国史大辞典
幕政担当者の守護観、守護職の吏務的側面を象徴するものといえよう。承久の乱を契機に武家政権の弱体性が克服されて執権政治が展開すると、守護職の帰属もほぼ安定し、守護
46. せいじかてい【政治過程】 : 鎌倉時代
国史大辞典
執権北条泰時を中心に、複数執権制(執権・連署制)・評定衆制などを採用、合議政治への転換を実施し、執権政治の全盛を迎えた。貞永元年(一二三二)に制定された『御成敗
47. ぜんし【前史】 : 承久の乱
国史大辞典
退けられ、弟の千幡に替わった。この政変を演出した北条時政は、幕府政所の執権別当となり、ここに執権政治の制度的基点が設定されたのである。前年に源通親が死去して以後
48. 太平記 334ページ
日本古典文学全集
東国武士を卑しめた語。日葡辞書「Gaibun 副詞。「随分」に同じ。注意深く、熱心に」。北条氏代々の執権政治を是とし、高時の悪政を非とする姿勢は、この時代共通の
49. 歎異抄・執持鈔・口伝鈔・改邪鈔 123ページ
東洋文庫
 となったが、十年後、出家して道崇、最明寺となのった。鎌倉時代の代表的政治家の一人で、   執権政治を強固にし、北条氏の権力を確保した。謡曲『鉢の木』で知られる
50. ちゅうせい【中世】
国史大辞典
各政権の政治機構については「六波羅政権」「鎌倉幕府」「南朝」「北朝」「室町幕府」の項目で扱い、さらに「執権政治」「得宗専制政治」「管領政治」の項目で政治過程を概
「執権政治」の情報だけではなく、「執権政治」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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