1. 執権政治
日本大百科全書
征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任命された。 執権政治には二つの側面がある。第一は、北条氏が執権として行う政治という側面で、その意味では執権政治は1203年に「
2. 執権政治
世界大百科事典
鎌倉幕府の歴史は,その政治形態によって,前期の鎌倉殿(将軍)独裁政治,中期の執権政治,後期の得宗専制政治の3期に区分される。中期の執権政治の特色として,第1に鎌
3. しっけんせいじ【執権政治】
国史大辞典
を握っただけでは執権政治とはいえず、鎌倉殿独裁制とは違った合議政治としての執権政治の出現は後年を待たねばならなかった。佐藤は和田氏の乱で執権政治が成立したとする
4. 足利直義
日本大百科全書
担当する二頭政治であったが、まもなく尊氏の権限は直義に委譲され、以後直義が表面にたち政治を行った。 直義は執権政治を理想として文治政治をとり、幕府機構の整備、法
5. あしかがただよし【足利直義】画像
国史大辞典
多くの難問をかかえた幕政も比較的順調な発足を示し得たのであった。直義の政治理念は前代北条泰時の執権政治期を鎌倉幕府の全盛期とみなしてそれを踏襲することにあり、安
6. 伊賀氏の変
世界大百科事典
にそれぞれ流されて事件は落着した。この内紛を乗り越えたことによって泰時は幕府の実権をにぎり,執権政治への道を進むこととなった。新田 英治 伊賀氏 伊賀光宗
7. いがしのへん【伊賀氏の変】
国史大辞典
ある。この紛争は承久の乱を勝ちぬいた義時指導下の幕政の弱点を明るみに出すとともに、泰時による執権政治展開のための一つの出発点を形づくったものである。→伊賀光宗(
8. うだいしょうけのれい【右大将家例】
国史大辞典
幕府の創始者たる源頼朝によって(または頼朝の時代に)定められたと称された諸規範。北条氏を中心とする執権政治の形成過程で、執権政治こそが頼朝の政治の正しい継承者で
9. 大江広元
日本大百科全書
鎌倉をしばしば往還し、朝幕間の折衝にあたった。頼朝の死後は、北条政子まさこ、義時よしときと協調し執権政治の基礎を築くのに努力したが、1213年和田義盛わだよしも
10. 大江広元
世界大百科事典
非違使となって,朝幕関係の安定化に努めた。頼朝の死後は,政子の信任を得て,北条氏を中心とする執権政治確立の基礎固めをした。99年(正治1)に将軍頼家の訴訟親裁を
11. おおえ‐の‐ひろもと【大江広元】
日本国語大辞典
なり、守護、地頭の設置を進言。のち政所(まんどころ)別当。頼朝の死後は北条氏に協力して、その執権政治の確立に功績があった。後年出家して覚阿と号した。その子孫は諸
12. おわりのくに【尾張国】愛知県
日本歴史地名大系
在庁官人中島宣長が京方に属して一時期所領を奪われ、春部郡の安食庄や一宮付近の西門真庄の地頭らも改易された。執権政治は泰時・時頼の努力もあって安定したが、蒙古襲来
13. 神奈川(県)画像
日本大百科全書
1219年(承久1)には源氏が滅び(将軍源実朝さねともの暗殺、藤原頼経よりつねの下向)、北条氏の執権政治が始められた。北条氏は評定衆ひょうじょうしゅうを設けて武
14. かねざわさだあき【金沢貞顕】画像
国史大辞典
京都と鎌倉、公家と武家との関係の、極度に緊張した時期に、幕政の首脳の重要人物としてその責に任じており、執権政治をめぐる幕府政界においても、宗家・二階堂氏・長崎氏
15. 鎌倉時代画像
日本大百科全書
その弟実朝さねともを鎌倉殿にたて、同時に時政は執権(政所別当まんどころべっとう)となった。ここに執権政治が成立した。さらに、のち子息義時よしときは1213年(建
16. かまくらじだい【鎌倉時代】
国史大辞典
執権北条泰時を中心に、複数執権制(執権・連署制)・評定衆制などを採用、合議政治への転換を実施し、執権政治の全盛を迎えた。貞永元年(一二三二)に制定された『御成敗
17. かまくらどののせいかくとそのへんせん【鎌倉殿の性格とその変遷】 : 鎌倉幕府
国史大辞典
北条政子が死亡するまでの鎌倉殿独裁政治、(二)寛元四年(一二四六)、北条時頼の執権就任までの執権政治、(三)それ以後の得宗専制政治の三期に分かたれる。
18. 鎌倉幕府画像
日本大百科全書
退けて、その弟実朝さねともを鎌倉殿に擁立し、時政自身は政所別当べっとうとして執権を称し、ここに執権政治が発足した。時政の子の義時よしときは1213年(建保1)侍
19. 鎌倉幕府
世界大百科事典
政は頼家を退け,その弟の実朝を鎌倉殿に擁立し,時政みずからは政所別当として執権を称し,ここに執権政治が発足した。時政の子の義時以後は,政所別当に加えて侍所別当ま
20. かまくらばくふ【鎌倉幕府】画像
国史大辞典
北条政子が死亡するまでの鎌倉殿独裁政治、(二)寛元四年(一二四六)、北条時頼の執権就任までの執権政治、(三)それ以後の得宗専制政治の三期に分かたれる。 (一)
21. かわむらし【河村氏】画像
国史大辞典
許され、同国阿津賀志山の戦に功をたて、頼朝の命で元服し、河村郷も充行われて源氏の御家人にもどった。執権政治のもとでは本宗の波多野氏とともに北条氏に従い、承久の乱
22. かんとうごぶんこく【関東御分国】画像
国史大辞典
ほとんど解明されていない。名国司は頼朝時代には源氏一族だけに限定されていたが、やがて有力御家人にも拡大され、執権政治成立以後は北条氏一族の有力者のみで独占された
23. 関東評定伝
世界大百科事典
冒頭に載せ,執権,評定衆,引付衆の現任者を列記し,あわせて彼らの公武の官職の異動,略歴を記したもの。鎌倉幕府執権政治の中核たる幕府意思決定機関の人員構成の変遷を
24. 近世説美少年録 257ページ
日本古典文学全集
字考・一)。以下の七言古詩は出拠不明。北条時政の娘で、源頼朝の妻。頼朝の死後、幕政に参加し、執権政治を確立。「政子」は、原詩の二字を馬琴がかく改めたものであろう
25. ぎょくよう【玉葉】
国史大辞典
ことができる。時あたかも平氏の最盛期から治承・寿永の争乱期を経て、鎌倉幕府がその創設期を了え執権政治期を迎えようとする前夜に至る間にあたり、因襲的なものの見方の
26. くまもとし【熊本市】熊本県
日本歴史地名大系
以後内部的には所職を細分化しながらも、室町時代まで地頭職を保持していった。承久の乱以後北条氏は執権政治を行い、文永・弘安の役後には得宗専制政治をとった。文永・弘
27. けっか【結果】 : 承久の乱
国史大辞典
帰東して執権の職を襲った泰時が、貞永元年(一二三二)に制定した『御成敗式目』は、評定衆の制度とともに執権政治の完成を示す徴憑とされるが、それはまた、乱後の訴訟・
28. 源威集 46ページ
東洋文庫
秩父氏は桓武平氏良文流。武蔵国惣検校職を継承する有力在庁官人(岡田清一「武蔵 国留守所惣検校職に就いて1北条執権政治体制成立史の一齣」『学習院史学』一一、一九
29. このじてんのこうもくへんせい【この辞典の項目編成】 : 中世
国史大辞典
各政権の政治機構については「六波羅政権」「鎌倉幕府」「南朝」「北朝」「室町幕府」の項目で扱い、さらに「執権政治」「得宗専制政治」「管領政治」の項目で政治過程を概
30. 御前沙汰
世界大百科事典
れることもある。室町幕府は,その成立の当初においては,鎌倉時代の北条義時・泰時ごろのいわゆる執権政治全盛期を模範としていた。幕府の最高意志を決める場も鎌倉幕府の
31. さがみのくに【相模国】神奈川県地図
日本歴史地名大系
正治二年(一二〇〇)梶原景時、建保元年(一二一三)の和田義盛、宝治元年の三浦泰村など、北条氏の勢力拡大、執権政治の展開とともにその多くは滅び、所領は没収されてい
32. 執権
日本大百科全書
引付衆ひきつけしゅうらを率いて幕府の実権を掌握し、北条氏の独裁体制を確立した。この執権北条氏の独裁的な体制を執権政治という。田中文英
33. 執権
世界大百科事典
制度の影響であろう。なお室町幕府の管領をも執権といい,後には諸大名の重臣をも執権といった。→執権政治上横手 雅敬 勾当 蔵人頭 執権職事 北条時政 御後見 御後
34. しっけん【執権】画像
国史大辞典
→鎌倉幕府(かまくらばくふ),→執権政治(しっけんせいじ),→連署(れんしょ) [参考文献]『武家名目抄』職名部四ノ一(『(新訂増補)故実叢書』一一)、杉橋隆夫
35. しっけん【執権】 : 執権/(二)
国史大辞典
。室町幕府および鎌倉府の管領、諸大名の重臣をも執権と称した。→鎌倉幕府(かまくらばくふ),→執権政治(しっけんせいじ),→連署(れんしょ)
36. しっけんせいじ【執権政治】 : 執権政治/(一)
国史大辞典
を握っただけでは執権政治とはいえず、鎌倉殿独裁制とは違った合議政治としての執権政治の出現は後年を待たねばならなかった。佐藤は和田氏の乱で執権政治が成立したとする
37. しっけんせいじ【執権政治】 : 執権政治/(二)
国史大辞典
得宗専制はここに確立した。執権政治が合議政治であるといっても、所詮幕府政治の本質は独裁・専制であり、専制の主体が鎌倉殿から北条氏(得宗)に移行するにすぎず、合議
38. しっけんせいじ【執権政治】 : 執権政治/(三)
国史大辞典
(三) 執権政治の性格についていえば、泰時に代表される執権政治は、すでに同時代から善政を讃えられていたが、佐藤をはじめ今日の歴史家も一般に執権政治に高い評価を
39. 信濃国画像
世界大百科事典
り,承久の乱における諏訪社大祝の動きが,他の信濃国武士に与える影響は大きかった。また北条氏の執権政治にとっても,諏訪社祭祀組織を活用することは,信濃国御家人を統
40. しゅご【守護】画像
国史大辞典
幕政担当者の守護観、守護職の吏務的側面を象徴するものといえよう。承久の乱を契機に武家政権の弱体性が克服されて執権政治が展開すると、守護職の帰属もほぼ安定し、守護
41. 所務沙汰
日本大百科全書
裁判のこと。鎌倉幕府の裁判は、源頼朝よりとものときは鎌倉殿かまくらどのたる頼朝の親裁であったが、執権政治の発展につれ、「御成敗式目ごせいばいしきもく」の制定を経
42. 承久の乱
世界大百科事典
の志に富んでいたが,すでに将軍は独裁者の地位になく,幕政の実権は北条氏に移りつつあった。北条執権政治が御家人たちの支持を得るために打ち出した諸策は,本質的に上皇
43. じょうきゅうのらん【承久の乱】画像
国史大辞典
退けられ、弟の千幡に替わった。この政変を演出した北条時政は、幕府政所の執権別当となり、ここに執権政治の制度的基点が設定されたのである。前年に源通親が死去して以後
44. スルタン
世界大百科事典
ム)に隔離・教育した。このことはスルタンの行政能力の低下,軍人・官僚・ハレムなどの側近による執権政治への移行をもたらした。なお,1517年にエジプトを征服してア
45. せいかくとはいち【性格と配置】 : 守護
国史大辞典
幕政担当者の守護観、守護職の吏務的側面を象徴するものといえよう。承久の乱を契機に武家政権の弱体性が克服されて執権政治が展開すると、守護職の帰属もほぼ安定し、守護
46. せいじかてい【政治過程】 : 鎌倉時代
国史大辞典
執権北条泰時を中心に、複数執権制(執権・連署制)・評定衆制などを採用、合議政治への転換を実施し、執権政治の全盛を迎えた。貞永元年(一二三二)に制定された『御成敗
47. ぜんし【前史】 : 承久の乱
国史大辞典
退けられ、弟の千幡に替わった。この政変を演出した北条時政は、幕府政所の執権別当となり、ここに執権政治の制度的基点が設定されたのである。前年に源通親が死去して以後
48. 太平記 334ページ
日本古典文学全集
東国武士を卑しめた語。日葡辞書「Gaibun 副詞。「随分」に同じ。注意深く、熱心に」。北条氏代々の執権政治を是とし、高時の悪政を非とする姿勢は、この時代共通の
49. 歎異抄・執持鈔・口伝鈔・改邪鈔 123ページ
東洋文庫
となったが、十年後、出家して道崇、最明寺となのった。鎌倉時代の代表的政治家の一人で、 執権政治を強固にし、北条氏の権力を確保した。謡曲『鉢の木』で知られる
50. ちゅうせい【中世】
国史大辞典
各政権の政治機構については「六波羅政権」「鎌倉幕府」「南朝」「北朝」「室町幕府」の項目で扱い、さらに「執権政治」「得宗専制政治」「管領政治」の項目で政治過程を概