出羽の名は「続日本紀」和銅元年(七〇八)九月二八日条に「越後国言、新建出羽郡
、許
之」とみえるのが初見で、越後国の申請を受けて新たに越後国の北部に出羽郡を置いたと記す。同二年七月一日条には「令
諸国運
送兵器於出羽柵
、為
征
蝦狄
也」とあり、軍事基地として
国辟
疆、武功所
貴、設
官撫
民、文教所
崇、其北道蝦狄、遠憑
阻険
、実縦
狂心
、屡驚
辺境
、自
官軍雷撃
、凶賊霧消、狄部晏然、皇民無
擾誠望便乗
時機
、遂置
一国
、式樹
司宰
、永鎮
百姓
、奏可之、於
是始置
出羽国
」とあり、北方経営の一環として出羽国が設置され、同年一〇月一日条にはさらに「割
陸奥国最上置賜二郡
、隷
出羽国
焉」とあり、直ちに最上・置賜二郡(現山形県)をも出羽国に編入し、一国としての形を整えた。以来近世末までの出羽国は、現
秋田地方の縄文時代は西暦紀元前八〇〇〇―前七〇〇〇年から西暦紀元を過ぎるまで、長い年月にわたると推定される。それだけに早期から晩期までの各遺跡、多彩な遺物包含地も広く分布し、海成・河成の段丘、丘陵面や扇状地上に発見される。その生活を物語る貝塚は
四世紀後半には東北地方南部で古墳が、五―六世紀には福島・宮城地方で中期古墳が築かれたとされるが、秋田地方で確認されるのは後期の八世紀以降の古墳である。北部では
「日本書紀」斉明天皇四年に、越国守阿陪臣が舟軍を率いてきたり、
「続日本紀」に天平五年(七三三)一二月「出羽柵遷置於秋田村高清水岡
、又於
雄勝村
建
郡居
民焉」とみえ、軍事拠点出羽柵を庄内最上川南岸(現山形県)から北方秋田村高清水岡に移し、また中央盆地の
中央盆地では天平宝字三年に雄勝郡北部をさいて平鹿郡が設置された。宝亀(七七〇―七八〇)の夷俘の大反乱では両郡は賊地に陥ったようで、「続日本紀」延暦二年(七八三)六月一日条に「宝亀十一年雄勝・平鹿二郡ノ百姓、為メニ賊ノ所レテ
略セ、各失
本業ヲ
」とみえる。また宝亀一一年八月二三日条によれば、秋田城の孤立化を恐れ、国府を南の河辺府(庄内地方)に移し、秋田城には鎮守専当の国司として出羽介すなわち秋田城介を駐留させ、北辺の防守にあてた。事態はやがて平静化に向かい、同書によれば延暦二年両郡に「更ニ建テ
郡府ヲ
、招
集シテ 散民ヲ
」口分田を給し、三年の調庸を免じ、さらに同一一年平鹿郡の「狄田租」すなわち帰伏の蝦夷の田租を永年免じた(類聚国史)。
蝦夷の平定は延暦期の坂上田村麻呂、弘仁期の文室綿麻呂によって終了した。田村麻呂は延暦二一年に
延暦二三年、秋田城は軍政をやめ、秋田河(雄物川)以北に秋田郡を設けて郡治にゆだねた。払田柵を含む平鹿郡北部の山本郡(現仙北郡)、秋田川以南の河辺郡もまもなく設置された模様で、九世紀後半には、県域南半は律令国家の行政区に編成された。なお秋田城介は城司として秋田城を警固し、介としては国司の次官、郡司の上級行政官として永承五年(一〇五〇)平繁盛が補任されるまで継続した。
蝦夷順撫の方策は、弘仁七年(八一六)の勅が延暦二〇年の格を引用して「荒服之徒未練
風俗
、狎馴之間不
収
田租
」(類聚国史)とあり、夷俘の田租を免ずるなどの優遇策をとった。もちろん、弘仁七年に順化して年久しい者には口分田を授け、六年以上を経た者からは田租を取ることに改めている(類聚国史)。延暦二二年には「家
人
好
占、出羽国須
開発
地、百姓失
往業
而在」(類聚三代格)と富者の土地占有を禁じた。弘仁二年には「陸奥・出羽両国、土地曠遠、民居稀少、百姓浪人随
便開墾、国司巡
、随即収公、是以人民散走、無
有
静心
」(日本後紀)として、百姓の墾田を保護した。
しかし秋田郡などでも、北に行くほど狩猟生活も色濃く、独立的な性格を維持していた。元慶二年(八七八)の反乱では、秋田東辺および東南部にある「俘囚并良民」混住の
なお「類聚国史」には天長七年(八三〇)一月三日のこととして秋田地方の地震が、
と記される。当地方の地震の初見で、マグニチュード七・四と推定されている(理科年表)。
天慶二年(九三九)の俘囚反乱では、秋田城軍のほかに「国内浪人不論
高家雑人
、差
宛軍役
」(本朝世紀)とあり、国内に土着した在庁官人・在地豪族を反乱の鎮定にあたらせた。そうした高家雑人にあたるのが後の出羽国山北俘囚主清原真人武則である。
清原氏の内訌に起因する後三年の役(一〇八六―八七)の結果、清原氏の遺領はことごとく平泉(現岩手県)藤原氏の手に帰した。藤原氏は「六箇郡之司」と「出羽山北俘囚主」の立場を併せ得、また藤原清衡は陸奥押領使、基衡は出羽押領使、秀衡は鎮守府将軍として、職権を通じ両国の在地領主を総括支配することになった。「吾妻鏡」にみえる比内の数代の郎従河田次郎、大河の泰衡の郎従大河兼任、由利の同由利維平などはそれを物語る。
そうした中で平泉中尊寺の寺領も設定されたようで、下って延元二年(一三三七)陸奥守鎮守府将軍北畠顕家が小野寺肥後守・平賀四郎左衛らにあてた国宣に「秋田郡君野村、破岩上・下村、雄友村、白山村、女法寺、千女寺、成福寺」が中尊寺別当管領の地とみえるのがそれにあたる。
仏教といえば古く秋田城内に四天王寺があり(類聚国史)、貞観一二年(八七〇)には山本郡内の丈伴守光・女旦主伴希子銘があり、「仏師天台僧蓮如願也」と刻まれている。仙北郡中仙町
仏教信仰のほかに在地神の信仰もあった。
源頼朝による文治五年(一一八九)の戦いで出羽北部の情勢は一変した。平泉藤原氏数代の郎従、
ほかにも御家人で所領を与えられたものがある。
元弘三年(一三三三)に鎌倉幕府は倒れた。「保暦間記」に同年「東国ノ武士多ハ出羽・陸奥ヲ領シテ其力アリ、是ヲ取放サント議シテ、当今ノ宮一所可奉
下トテ、国司ニハ彼ノ親王ニ親ク奉
成ケルニヤ、土御門ノ入道大納言親房息男顕家卿ヲナシテ、父子トモニ下サル」とあるが、北条氏は出羽・陸奥に多くの得宗領を設け、多数の御内人、現地に所領を有する御家人層を方人としていた。建武新政府はそれら北条の余党を掃討するため、北畠顕家を陸奥守として下向させたというのである。同年葉室光顕を出羽守に任じ秋田城務を担当させたのも同趣旨であった。
南北朝の対立が激化すると、足利尊氏は奥州に奥州総大将、次いで奥州管領を設けて奥羽支配を目指した。両勢力は相互に元弘没収地を勲功の賞として与え、自派の伸展を図った。出羽国司葉室光顕は小早川性秋に由利五郎惟方の跡地を与え(「小早川家文書」元弘三年八月二四日)、陸奥国司北畠顕家は南部師行に「鹿角郡闕所」地に地頭を入れさせている(「南部文書」建武元年三月二一日)。北部鹿角・比内地方は東に有力な南朝方の南部氏があり、北の津軽地方には北朝方の曾我氏・安東氏があって、その動向に左右された。南部氏は内戦の過程で鹿角郡に浸透して成田・安保・秋元・奈良各氏ら小勢力を麾下に収め、比内へも進出したようで、建武元年(一三三四)二月南部師行は比内
秋田郡の地は鎌倉末期に橘氏の所領が秋田城介安達氏に帰し、小鹿島その他の地に得宗領も設けられたようである。「吾妻鏡」によれば安達氏は建保六年(一二一八)景盛が補任され、その職を世襲した。鎌倉幕府の滅亡で秋田城介安達高景は秋田の所領に逃れ、新政府に抵抗したようで(元弘日記裏書)、建武元年二月「朝敵余党人等、小鹿島并秋田城
今 |
湊 |
将軍足利義満は鎌倉の関東府に陸奥・出羽二国の管轄権を与えたが、奥州支配についての幕府との対立、関東公方と関東管領の不和などにより統制力は弱化し、北奥の国人は戦国大名への道を歩き始めた。
雄勝郡の小野寺氏は一五世紀末までに平鹿郡を平定して
西部の檜山(現能代市)、湊(現秋田市)の両安東氏は一六世紀の初め、湊安東氏の後嗣の絶えた機会に、その婿として檜山安東愛季が両家を統一して男鹿
天正一六年、秀吉の「天下一統ニ御安全ニ可仕執成」(奥羽文書纂)との停戦令が出、次いで同一八年の奥羽仕置の結果、北出羽の地は豊臣政権の支配下で安定を得た。ただし由利十二頭は、
それまでも日本海の航路は開かれており、とくに安東氏が領主として成長するに伴い遠く北陸諸国との来往があり文化も流入した。仏教についていえば、一四世紀以来加賀
奥羽仕置で秋田地方に太閤蔵入地が置かれ、その蔵米を財源とする太閤板の回漕は日本海海運をいっそう拡大した。湊・野代(能代)湊と越前
慶長七年(一六〇二)徳川家康は関ヶ原の戦後処理を行い、大名地図を一変させた。佐竹義宣を常陸から秋田・仙北の地に移封、それに付随して秋田(安東)氏を常陸
同じく最上氏は所領の
元和九年、
佐竹義宣は慶長七年九月一七日秋田氏旧城の湊城に入った。義宣は秋田・仙北各地に支城をおいて一部の家臣を分散駐屯させ、新しい支配に備えた。翌八年より久保田城を築き翌年移城、直ちに城下町の建設に着手した。
義宣は入部に先立って検地(先竿)を命じた。目的は年貢徴収の基本を定め、村切で土地と農民を把握して権力の基盤を確保するにあった。しかし慶長七―八年に仙北
慶長一八年二回目の検地(中竿)を実施し、村と村との間の農民の出入作を調べ、それを禁止しながら村切を推し進め、並行して家臣団の知行制度を確立した。次いで正保三年(一六四六)と慶安元―三年(一六四八―五〇)に検地(後竿)が行われ、その結果、「慶安三年三月御検地役中江被仰付、面々打立之帳面江免付被相究、同在々新免被仰付候」(享保一四年一二月「郷村御調覚書」)となったが、これにより藩初以来の新田開発と新村が藩権力のもとに統一的に掌握され、村切支配が確立された。
慶長七年に佐竹義宣に与えられた領地朱印状には「出羽国之内秋田・仙北両所進置候、全可有御領知候也」とあり、知行高の記載がない。同一六年の禁裏普請軍役高は一八万五千石を標準として決定されており、それ相当の知行石高と認められたものであろう。享保一四年(一七二九)の郷村御調覚書(県立秋田図書館蔵)によれば、慶安三年終了の検地に基づき寛文四年(一六六四)に作製した郷村高辻帳を幕府に提出した。郷村高辻帳六郷〆高は
但野州之内河内郡・ |
都賀郡之高ハ略之 |
で、うち「野州之内河内郡・都賀郡之高」は慶長一〇年義宣が鷹場として下賜されたものである。その結果、
目録在 |
別紙 |
との判物を幕府から得、表高二〇万五千八〇〇石と公認された。これを役高といい、これにより藩の格式・軍役高の基準が確定した。表高に「古田過」高、「新田」高を加えた三一万九千八四七石は内高である。宝暦九年(一七五九)御代々御被指上候郷村高辻帳並郷帳御末書写によれば、内高貞享元年―宝永八年(一六八四―一七一一)の三四万石余を頂点に、だいたい三二万石余に終始している。
藩領は蔵入地(直轄地)と知行地(給分)とに分けられた。その割合は正保二年に高二八万五千三九三石余、うち蔵分七万九千三九一石余、給分二〇万六千二石余でだいたい三対七になり、石高の増加はあっても、その割合は幕末まであまり変化しなかった。そのうち元禄一四年(一七〇一)に藩主佐竹義処が亡父義隆の願いにより庶兄弟の壱岐守義長へ二万石、式部少輔義真へ一万石を蔵分より分け、本家分はそれだけ減じた(御控出羽国下野国之内秋田領郷村高辻帳、御代々御被指上候郷村高辻帳並郷帳御末書写)。ただし式部少輔家はその後義堅が宗家の養嗣子となることにより延享三年(一七四六)郷村高辻帳より消えた。
秋田藩は、国替で伝来の本領を失った一門・門閥の家臣に新恩地を支給し、軍役を分担させた。彼らを地頭あるいは給人とよび、給地を知行地として支配権を認めた。この形を地方知行という。ただし物成・諸役の徴収に恣意的な取扱いは禁止された。給人のほかに蔵米取、扶持米取の下級武士もいた。給地は検地の進行とともに割り付けられた。慶長八―九年頃の知行状によれば、知行割は地域的に集中し、知行高が全体として均等で、免の表示がないと指摘されている(秋田県史)。先竿段階では早急の知行割で、統一的租税法はその後で確定されたものであろうか。それゆえ、中竿が始まると知行割替を急速に進め、知行高の加増とともに知行地の分散や錯綜化をはじめ物成諸役をも規制するなどして、給人支配の確立を図った。しかし佐竹氏は移封に伴う減封のため、随従の家臣団を制限し、家臣の知行高も縮小した。それでも帰属する者が多かったため、当初は差紙(許可状)開による新田開発を奨励し、新田を知行地に高結(高に加える)することを認めた。それゆえ秋田藩の地方知行地は恩給地のほか伝領的な開発私有地が加えられていたのである。藩では寛文期になって差紙開をやめ、注進開にかえ、開発高の約三分の一を
領内統治のために検地高でなく、当高を用いた。明治五年(一八七二)秋田県が伺を立てた当高之名儀廃止方伺(秋田県史)によれば、当高とは「当管内羽後国藩続之県ニ従前当高と唱、草高江免を乗し貢米を得、是を平均免六ツを以除し、当高と号し候者、全ク貢米之当り高」と説明している。天和三年(一六八三)の平鹿郡今泉村黒印御定書写(糸井家文書)に記載された第一条に「六ツ成高百石ニ付物成六拾石宛」とあり、高に免を掛け、それに六分の一〇を掛けたものが当高である。免が六ツであれば高と当高は同じで、免が六ツ以上であれば当高は高より大きくなる。
天和三年の平鹿郡今泉村黒印御定書写について今泉村の当高・物成をみると、
免六ツ五歩成高弐百八拾九石三斗七升六合 | 本田 |
免六ツ五歩成同弐拾六石三斗壱升壱合 | 新田 |
免五ツ五歩成同百七石三斗九升五合 | 新田 |
当高〆四百四拾石三斗九升五合 | |
此物成弐百六拾四石弐斗三升七合 |
右当高〆高は各件当高の合計、物成はそれを六分の一〇で除して算出したもの。すなわち当高計算がしてあれば、貢租量が簡単に把握されるし、それを基準に諸役負担を課する場合でも単純であり、また便宜がある。
この当高制は中竿段階に事実上成立したともいわれるが、中竿直後の慶長二〇年雄勝郡の飯沢村黒印御定書には当高記載はない。享保一四年の郷村御調覚書所収の寛文四年五月一三日付の出羽国之内
秋田 |
仙北 |
検地完了後、藩は黒印御定書を村に交付した。先竿検地後の慶長一〇年、馬場目村黒印御定書には
とある。黒印御定書は貢納すべき物成・諸役を記し、領主の黒印を押して公的な文書としたもので、総検地のたびごとに交付された。最終的な下付は天和三年で、藩の村落支配の形態がほぼ確立された。
黒印御定書で最も重要なのは、農民から地代として徴収する田畑の米納物成である。必要に応じて一部を雑穀・油類で代納させる小物成があり、また別に物成六〇石につき一石二斗の口米も徴収された。
諸役とは、糠・藁・薪・萱などの現物納と、諸種の夫役・伝馬役などが含まれる。諸役は慶安四年以降銀納に改められて小役銀というが、給人側の必要に応じ現物納もあったようである(天和三年「在々諸役御定写」県立秋田図書館蔵)。また元禄一四年には夫役の一部を労役奉仕にかえ、高一〇石につき五斗の米納とした。これを五斗米といい、明治五年の「五斗米免除之義再伺」(秋田県史)に「当県雑税五斗米之義は、別紙の通正租外に取立来候処、右は元禄年間佐竹氏江戸参勤往来の人足・荷馬等農民より差出候様相定候より起候次第、旧記有之、就而は夫米たる事明瞭之訳に付、当壬申より免除被仰付度」とみえ、五斗米は元禄期の創始で、夫役代米の雑税であった。ほかに山林・原野・河川の用益に課税する山川野役もあった。
天和三年の段階で年貢収納の村請はほぼ確立され、欠落者などがあれば、蔵入・給郷ともに「当物成小役共ニ壱郷ニて償、皆納可仕」「跡田地作人有是迄者壱郷之者仕付、荒申間敷事」(延宝三年「黒印御定書」)として村の連帯責任を強化した。そのほか黒印御定書で農民の生活・諸行事なども規制したが、年貢徴収の確保と無関係ではない。
郷村支配の単位は黒印御定書を下付した村である。村の代表者が肝煎で、由利諸藩の村の庄屋と対応する。肝煎には本百姓が選ばれ領主が任命する形をとるが、一般に過去の土豪の系譜を引く者が多く、世襲の場合があった。年貢・諸役の収納はもちろん、村民の生活全般にわたる規制を負わされていた。
灌漑用水の開削・管理や農耕・生活に伴う山野の入会などで村を越えた地域連帯の必要があり、とくに初期の新田開発はその傾向を助長した。藩も村落支配の方法を考え、延宝二年(一六七四)に
当初の藩の村落支配は、とくに蔵入地については大身に分割して代官支配にゆだねた。寛文一二年に郡奉行が設けられても、その形は維持されたようで、天和三年の郡奉行廃止で初めて大身の蔵入郷代官に代わり蔵入高郷代官が任命された。この代官の権限はしだいに拡張されたようで、寛政七年(一七九五)の郡奉行の再設置に伴い、蔵入地・給分地の区別なく、その支配下に入れられた。同年の村方への被仰渡覚書(旧「秋田県史」)に「村々最寄之地所へ御役屋被建置候故、公事訴訟は元より、諸事願筋、早速御役屋へ可被申立候」とあり、役屋を通して郷村を把握する体制が確立された。役屋は四―五親郷ごとに設けられ、親郷肝煎たちは交代で役屋へ詰めた。
寛文期になると貨幣商品経済の浸透や生活の向上などが、米に基礎を置いた藩財政をおびやかし始め、木材収入や鉱山収益も衰えて赤字財政が現れてきた。そこで延宝期には農民に免の増徴を実施し、以後恒常的になる家臣の知行借上げなどで補充した。元禄期には五斗米制を打ち出し、沖口出入役銀や酒役銀の増徴や
元文二年(一七三七)より寛保二年(一七四二)にわたる秋田鋳銭、宝暦四年より七年までの銀札発行は赤字財政の克服にあったが、前者は大坂市場の銭相場の低落に関係して禁止され、後者は不換紙幣を濫発した結果と、宝暦五年の大飢饉と重なり市場の混乱・物価騰貴を招き、銀札発行当事者らの疑獄をもって終焉した。その最も暗い時期が佐竹義敦の明和―安永期(一七六四―八一)であるが、この時期には小田野直武を中心とし、直武に学んだ藩主義敦や角館所預佐竹義躬などの秋田蘭画が知られる。直武は安永二年に領内銅山振興のため来秋した平賀源内に学び、次いで江戸に上り、洋画の方法をとり入れた。また江戸の明和―安永期の文化の影響をうけ、秋田の文化興隆のさきがけとなった。
他方農村では一七世紀末以来の赤字財政のため、過重な負担にあえいだ。その上貨幣商品経済の浸透・米価の変動・多発する凶作飢饉などのため、農民の階層分化が進んだ。その反面、質地地主の成立、村方地主から豪農・商人地主が成立して土地を集積した。藩は年貢収納の不足を地主の調達金・上納金などに求め、褒賞・賞賜を与えるなどして優遇した。
天明五年(一七八五)に就封した佐竹義和は藩学
積雪寒冷で冷害による凶作が多く、飢歳懐覚録に「五十年に大飢 三十年に一度は小饉」とある。先御代々御財用向御指繰次第覚に「延宝三卯年より同八申年迄六ケ年之間差而不作者無之と相見得、御蔵入毛引百石ニ付壱石内外之引高に候処、其内辰年者六石八斗六升五合、未年七石壱斗六升に候故、是等之引高にては御回米不足に候歟」とみえ、延宝期には蔵入毛引高(稲の作柄に応じた年貢減免高)一〇〇石につき一石は平作で、六―七石以上は不作であった。それからまもない貞享三年は「作毛之不熟者以前にも無之儀ニ而、御蔵入平均毛引高百石に付拾三石八斗に相当り、左迄之引高ニ無之候へとも、此節飢民夥敷有之」(同文書)と毛引高一〇石以上で、この時を貞享飢饉といった。元禄期は不作・飢饉が連続し、同八年「不作平均毛引三拾弐石七斗、貞享飢饉に不相替飢民多」、翌九年「去秋不作ニ付諸人命ニ及申躰ニ被成」(同文書)とあり、ために久保田城下
最大の飢饉として宝暦五年、天明三年、天保四年(一八三三)が挙げられる。宝暦の飢饉は仙北郡
とある。北部でも、
消費者は米不足による米の高値で苦しんだが、それに加えて藩の銀札価格が濫発で大暴落し、宝暦六年一二月「米直段正銀遣之節より弐拾増倍余も高直」(「憲自御家老勤中日記抄」国典類抄)となった。藩は対策として米の専売統制、沖出米の禁止などで飯米確保を図るとともに定例上せ米を停止、米麦六万八千四八七石(代銀五千一五六貫)を買い上げて救済にあてたが、それだけ財政的打撃をうけた。
天明三年は
天保四年の巳年飢渇には資料が多いが、稲成育期の日照りによる水不足、成熟期の長雨を原因としている(老農見聞録、八丁夜話、飢歳懐覚録)。七月頃から動揺が起こり、八月の土崎湊の打こわし(秋田市の→敷、其向
ニ而厳重ニ回番相増候」とみえ、所預のいる湯沢町でも騒立てのあったことが南家日記、湯沢町小川家の万日記(湯沢市立図書館蔵)などにみえる。
その被害数は天保五年の藩の死亡人御届書(伊頭園茶話)に次のようにある。
疫癘による死亡とあるが、飢死・栄養失調などに伴う疫病死の合算であり、また四月以前の死亡も当然あったはずである。藩の被害としては、領内救済のため藩が入手した大坂買下米八万六千石、湊買入米三万七千石、他地買入米一万五千石の約一四万石、そのための借財大坂・江戸計六五万二千―六五万三千両、領内借財約一〇万両の総計七五万二千―七五万三千両余と、膨大なものであった。
寛永二一年九月一八日の本荘地方の地震は、「大地震ニテ本荘城廓大破シ、屋倒レ人死ス、市街モ亦多ク焼失セリ」(本荘町志)とある。
元禄七年の能代大地震(「理科年表」の推定はマグニチュード七)は、久保田でも「上肴町記録」に「五月廿七日朝五ツ前に殊外大地震仕候て、諸人迷惑申、其ゆへ蔵大方土はしり申候」とあり、「閏五月五日迄地震致候」と余震がつづき「谷橋山王にて御祈祷久保田中にて仕候」と記される。宝永元年の能代地震(推定マグニチュード六・九)は元禄地震とともに「代邑聞見録」に詳細である。久保田城下では「上肴町記録」に「四月廿四日昼過少廻り大地震、大かた土蔵はしり申候、それより度々少つゝ地震致候、町々にて商売相止、寺町・八橋村・上野なとへかり木屋をかけ、諸道具はこひ、騒動おひたたし」とある。
文化元年の由利郡
なお明治二九年の陸羽地震はマグニチュード七・五で仙北・平鹿二郡が被害を受け、昭和一四年(一九三九)の男鹿地震はマグニチュード七で、住家全壊八五八戸、非住家全壊一〇六戸であった(理科年表)。
明治元年(一八六八)一二月七日の布告で出羽国が南北に二分され(東京城日誌)、北半部の
羽後国は、南は羽前国(現山形県)、東は陸前国(現宮城県)、陸中国(現岩手県)、北は陸奥国(現青森県)に境し、西は日本海にのぞむ。
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旧国名。羽州。現在の山形,秋田両県。
東山道に属する上国(《延喜式》)。北から東,南東部まで陸奥国に接し,陸奥国とともに奥羽(おうう)と総称され両国の一体関係は強かった。政治的には721年(養老5)以来陸奥按察使(むつのあぜち)の統轄下に属し,軍制上も陸奥多賀(たが)城のちには胆沢(いさわ)城に置かれた鎮守府の指揮下にあった。この地方が史上最初にあらわれるのは,658年(斉明4)越(こし)の国守阿倍比羅夫(あべのひらふ)の北航に際し齶田(あきた)/(あいた),渟代(ぬしろ)に郡(評)(こおり)を置いたという《日本書紀》の記事である。以来越の管轄下にあったらしく,708年(和銅1)に越後国は出羽郡を建てた。これが出羽(伊氐波(いでは))の地名の初見であり,越後国の北部に突出した出端郡の意と解される。〈出羽〉の文字によって允恭朝に鳥の羽を土地の産物として献上したことに由来を求める地名説話もあるが,史料的には根拠がない。当初現在の庄内地方を主たる郡域としたが,北方秋田方面までその延長上とされていたから,遠くかつ広くて掌握しにくかったらしく,712年9月に地域安定を理由に独立した出羽国が建置された。そして1郡1国である同国に10月陸奥国置賜(おきたま),最上(もがみ)2郡が割き加えられ,北陸道ではなく東山道に属した。国府はまず,現鶴岡市の旧藤島町辺に置かれ,733年(天平5)に秋田村高清水(たかしみず)岡(現,秋田市)に進出した出羽柵に移された。出羽柵は秋田城になるが,国府は奈良朝末の政情不安によって現在の酒田市北郊城輪柵(きのわのさく)遺跡の地に南遷した。この庄内の国府と秋田城,雄勝(おがち)城(横手盆地南部)は〈一府二城〉と称し古代出羽国経営の中心となった。国分寺は庄内にあり,秋田城には四天王寺があった。
政治的にも軍事的にも陸奥の多賀城から指令を受けることが多かったので,759年(天平宝字3)雄勝城が築かれ雄勝,平鹿(ひらか)2郡が分割整備されると,陸奥国加美(かみ)から奥羽山脈を越え玉野(たまの)(尾花沢市)-避翼(さるはね)(舟形町)-平戈(ひらほこ)(金山町)-横河(湯沢市の旧雄勝町)-雄勝(羽後町)-助河(すけかわ)(横手市の旧増田町)と通ずる出羽山道駅路が開設された。道は究極的には秋田城を目ざすものであったが,平安時代になると水道駅路として完成された。《延喜式》によると最上(山形市)-村山(東根市)-野後(のじり)(大石田町)-避翼-佐芸(鮭川村)-飽海(あくみ)(酒田市の旧平田町)-遊佐(ゆざ)(遊佐町)-蚶方(きさかた)(にかほ市の旧象潟町)-由理(ゆり)(由利本荘市の旧本荘市)-白谷(しらや)(秋田市の旧雄和町)-秋田の駅順で,野後,避翼,佐芸,白谷は他国に類のない馬船兼備の水駅であった。《延喜式》によると郡は置賜,最上,村山,雄勝,平鹿,山本,田川,出羽,飽海,河辺,秋田の11郡で,出羽国府から京都まで調庸運送の公式日数は陸路で上り47日,空荷の下り24日,海路は52日である。878年(元慶2),939年(天慶2)に俘囚(ふしゆう)の乱もあったが,前九年の役で山北の俘囚主清原氏が強大になり,後三年の役で滅びると奥州藤原氏が出羽にも強い影響力を持った。やがて由利郡も置かれ源頼朝の奥入りを迎えた。
鎌倉期にも奥羽両国は同様の政治状況下におかれ,鎌倉幕府が国衙機構の実権を完全に掌握する。貴族が出羽守に任命されることがあっても,田数調査や寺社興行など出羽国の国家的行事は幕府が出羽国留守所に命じて取りしきった。同時に郡,荘園,保すべてに総地頭が任命され,各地における行政一般や軍事・警察・裁判上の重要な職権を与えられた。奥羽両国が守護不設置なのは,この官職的性格の強い総地頭が守護職権をも包摂していたためである。これらの職は関東御家人により独占され,出羽留守職の菅原氏については未詳であるが,例外的存在は由利維久ぐらいである。それ以外の初期の総地頭は,米沢盆地の3荘1郡や寒河江(さがえ)荘の地頭に大江広元,仙北郡に中原親能が任命されたのをはじめ,秋田郡・小鹿島(おがしま)の橘公業,平鹿郡の松葉助宗,大泉荘・海辺荘の武藤資頼,小田島荘の中条兼綱,大曾禰荘の安達盛長,成生(なりう)荘の二階堂氏等々,いずれも幕府の官僚系武士であった。彼ら自身またはその弟や次男は,ただちに地頭職を名字の地として,出羽国御家人の地位と新武士団を築いた。長井,大泉,小鹿島,小田島,平賀,大曾禰の各氏を代表とする。とくに1218年(建保6)安達景盛は秋田城介に任命され,名字とした。蝦夷に接する奥羽両国は新たに蝦夷島管轄の拠点とされたが,秋田城介はこの任務を出羽側で担当したとみられる。このような地頭の配置と支配機構の強化は,奥羽特殊地域観を助長し,基本税も依然として馬,砂金,布などが田率ごとに賦課された。莫大な実益を伴う地頭職は幕府の政変ごとに持主を交替し,鎌倉末期には幕府で専制権を握った北条氏に大半が集積される。奥羽両国は幕府支配組織のモデルと評価されるほど,鎌倉政権の重要基盤だったのである。先進文化が積極的に移入され,一宮鳥海・月山の両所や小鹿島赤神山の神祇崇拝,および山寺立石寺,羽黒山,秋田城古四天王寺の将軍家御願所指定などを通じて,出羽民衆の精神生活まで幕府支配は浸透したが,一方では蝦夷蜂起の動きも絶えなかった。
鎌倉幕府滅亡後,建武政府は貴族の葉室光顕を出羽守兼秋田城介に任命し出羽国を掌握しようとしたが,光顕は横死した。かわって陸奥守兼鎮守府将軍北畠顕家,ついで同北畠顕信に奥羽併管を命じ,多少の効果をあげた。しかし南北両朝の対立によって,北朝足利方も奥羽併管の特設軍政官を派遣し,出羽でも南北両党はめまぐるしく激突した。足利方の担当官は奥州総大将斯波家長,石塔義房をへて,1345年(興国6・貞和1)奥州管領制に切り換えられる。南北両朝ともに,奥羽両国をひとつの広域行政区として支配しようとしたのである。だが観応の擾乱(じようらん)以後の政変により奥州管領は分裂し,56年(正平11・延文1)出羽一国を管轄対象とする羽州管領も成立したと伝えられる。初代管領は斯波兼頼で,やがて職制は羽州探題に切り換えられた。しかし羽州管領と羽州探題の存在を否定する説もある。91年(元中8・明徳2)暮に鎌倉府が奥羽を併管し,1399-1440年(応永6-永享12)稲村御所,篠川御所の管轄下におかれた。この内乱期から室町幕府支配の下で,郷村を名字とする数多くの土豪層,国人層が台頭し,守護大名的領主も出現する。庄内の大宝寺氏,仙北の小野寺氏,米沢・伊達の伊達氏,秋田・津軽の安東氏は,京都扶持衆にもなった。十刹諸山に指定された光明寺,勝因寺,崇禅寺,金剛寺,資福寺は彼らの勢力範囲に照応する。
伊達氏,安東氏の勢力は奥羽両国にまたがっていたが,戦国期の争乱の中で各勢力の角逐はいっそう激化する。出羽北辺では,津軽から米代川河口の檜山(ひやま)に本拠を移した安東氏が,日之本(ひのもと)将軍を称して蝦夷島を管轄し,陸奥国比内,鹿角にも勢力を広げ,秋田湊安東氏を統合して,戦国大名秋田氏となる。出羽南辺では,米沢城に本拠を移した伊達晴宗が奥州探題にも任命され,羽州探題を自認する最上氏と戦国大名の覇を競った。庄内には越後上杉氏の勢力が侵入する。仙北では雄勝から平鹿に本拠を移した小野寺氏が戸沢氏,六郷氏らと抗争をくりかえし,由利には十二頭と称される国人勢力があった。彼らは中央政界の動向にも敏感であり,織田信長の天下統一時,秋田,戸沢,大宝寺,寒河江,伊達などの各氏はいち早く信長に鷹を献上している。1590年(天正18)豊臣秀吉の奥羽仕置では,87年関東奥羽惣無事令以後も法令違反の合戦を続けたにもかかわらず,出羽諸氏は陸奥諸氏ほど大幅な改易をうけなかった。最上,伊達両氏は領国内仕置権ともいうべき特別権限まで保証される。それ以外の諸氏も,領地の3分の1を太閤蔵入地に設定されながらも,仕置当時の勢力をほぼ承認され朱印状を交付された。秋田氏の管轄する蝦夷島が蠣崎氏管轄下に切り換えられ,浅利領陸奥国比内郡が秋田領出羽国秋田郡に正式に編入されたのも,このときである。豊臣政権下で,出羽国にも近世的秩序が形成されはじめることになる。
豊臣秀吉は1590年6月,奥羽の諸将に小田原参陣を命じ,8月10日,会津黒川城で奥羽検地の厳命を発した。検地奉行木村常陸介重(しげこれ),大谷刑部少輔吉継による〈出羽国御検地条々〉も同日付けでだされている。これによれば,検地は指出しの方法をとり,一定の換算率によって苅高を永楽銭の貫高にあらため,納入させるものであった。出羽地方に現在まで天正検地帳は残っていないが,その実施が現地の土豪たちに厳しいものであったことは検地反対一揆によって知ることができる。この一揆は庄内と仙北郡に起こった。庄内の検地は大谷吉継と上杉景勝によって行われたが,検地に反対する一揆勢は一時庄内の諸城を占領し,尾浦城も包囲される勢いであった。一揆の中核は武藤氏に仕えた地侍であったが,やがて上杉方に鎮圧されて庄内の武藤氏は滅び,庄内は上杉氏の所領となった。仙北一揆は同年10月,検地役人の大谷氏の配下を殺したことを口火として,小野寺領内の増田,山田,川連(かわつら)などの城主を中心として起こっている。この一揆勢も,やがて上杉軍によって制圧された。検地をもとに91年正月,石高による知行宛行(ちぎようあてがい)朱印状が出羽諸将に交付された。奥羽唯一の太閤蔵入地が秋田氏を代官として設置されたほか,南部の置賜は伊達氏より没収して蒲生氏に与えられ,村山,最上と仙北の一部は最上氏領,庄内は上杉領となり,また北部では秋田氏,戸沢氏,小野寺氏などがおもな大名であった。
1600年(慶長5)の関ヶ原の戦は徳川家康の上杉討伐で始まったが,出羽では徳川方の最上軍と豊臣方の上杉軍との戦いとなって戦況は長びき,徳川大勝の関ヶ原の戦報によって終結した。関ヶ原の戦後,家康は上杉景勝の領地を120万石から30万石として,城下を米沢に移し,最上氏は村山,最上のほかに庄内と由利郡も手にした。
さらに,上杉氏に味方した小野寺義道の領地を没収し,秋田,戸沢,六郷などの諸氏を常陸に移して常陸の佐竹義宣(よしのぶ)を出羽に国替させた。幕藩制下の新しい大名配置はかくして定まったのである。近世出羽の成立期でもっとも大きな事件は,22年(元和8)一族の内紛によって最上氏(57万石余)が改易となり,そのあとに諸大名が入部したことである。鳥居忠政(山形22万石),酒井忠勝(鶴岡14万石)をはじめ,戸沢氏(新庄),松平氏(上山)などであり,以後近世期の藩として山形,上山以外はそれぞれ幕末まで定着した。したがってこの地域のその後のおもな都市のほとんどは,近世初期の城下町として形成されている。国替のもっとも多かった山形藩は,最上氏以後元禄年間までに9回,その後幕末までに4回を数えた。
近世初期には各藩とも開発が著しく進んだ。17世紀初頭に各藩とも総検地を実施して,実際の村高を把握したが,藩の実高は幕府の朱印高に対して大幅の増加をみている。例えば表高30万石の米沢藩の実高は51万石余,秋田藩(20万石)は実高30万石余を打ちだした。1647年(正保4)の出羽国絵図によれば,置賜,村山,最上,田川,櫛引,遊佐,油利,雄勝,平刈(平鹿),山本,豊嶋,秋田,檜山の13郡があり,石高の合計は95万石余で,その領域は佐竹(秋田),上杉(米沢),松平(山形),酒井(鶴岡)などのほか幕府代官領(11万石余),寺社領(1万7000石余)など14に色分けしているが,その石高合計は幕府への届高と同じである。
北部(現,秋田県)では米代(よねしろ)川流域の杉材が著名であり,院内銀山を中心に金銀山の開発が佐竹氏の入部以後急速に進んだ。米は出羽の産物の第一であるが,とくに庄内米が知られ,また羽州南部では最上紅花,青苧(あおそ),蠟,漆などが有名である。秋田杉はすでに豊臣期に軍用板として用いられ,出羽の産物のほとんどは北国海運あるいは西廻海運によって,上方・瀬戸内方面と結びついていた。米や大豆ははじめ敦賀,小浜に入港し,京都や大坂に入ったが,河村瑞賢による西廻海運の整備以後は下関を回って大坂,江戸に行くものが多くなった。最上紅花は京都西陣織の染料として,置賜や最上の青苧は奈良晒(さらし)や北陸の縮織の原料として移出された。出羽の特産物の多くは上方に移出されたが,その帰り荷として塩,古手,木綿,瀬戸物などの商品が移入され,西廻海運によって出羽の産業と上方の経済は密接な関係にあった。山形や秋田など城下町の有力商人に,堺や近江出身のものが多いのもそのためである。
陸上の主要な街道は羽州街道で,諸大名の参勤交代にはすべてこれが使われた。この街道は奥州街道(仙台-松前道)から桑折(こおり)で分かれ,陸奥の七ヶ宿街道から金山峠を越えて出羽に入り,上山,山形,新庄,横手,秋田,大館を結んでいる。南下するほどこの街道を利用する大名は多くなるが,近世初頭,とくに佐竹氏が整備したところも多い。日本海に面する出羽地方から太平洋側に出るには,奥羽山脈を越えなければならないが,脇道として山形-仙台の笹谷峠越え,天童-仙台の関山峠越え,新庄-古口への堺田峠越え,角館-盛岡の仙岩峠越えなど,多くの横断道がある。日本海側にはほぼ南北に,奥羽三関の一つとされる念珠ヶ関(ねずがせき)から大山,酒田,秋田と結ぶ北国街道があるが,巡見使街道ともいわれ,危険なところも多いため利用する人は少なかった。
中期以後,各地に商品生産や流通が発達する一方で,藩財政の窮乏が深まり農村の荒廃も進んだ。これに対して,18世紀中ごろ以降に行われた米沢藩,秋田藩,庄内藩などの藩政改革は有名である。
米沢藩では宝暦末年,郡代森平右衛門が財政の再建と農村の復興のために支配機構の改革などを試みたが,藩政内部の対立で失敗した。そのあとに断行した明和・安永の改革は,新藩主に15歳の治憲(鷹山)を迎え竹俣当綱(まさつな)を中心とする改革派グループによって進められた。その内容は大倹約令にはじまり,これまでの御用商人との縁を切ること,農村をはじめ領内各地に漆,楮(こうぞ),桑をそれぞれ100万本植えること,また縮織の技術を導入し,藩校興譲館を創設したことなどである。しかしこの第1次の改革は,天明の飢饉に遭遇したこともあって暗礁にのりあげた。その後天明の中断期をはさみ,いわゆる寛政の改革が実施された。治憲は隠退したが強力な後見者となり,執政は先に小姓頭で失職した中老莅戸(のぞぎ)善政が中心であった。改革は農村支配の整備のために代官制度を改革し,国産物の奨励を広くまた積極的に行い,とくに養蚕業の振興を図った。この改革は,農村の復興と財政の再建に多くの成果をあげたことから,この時期の改革の典型とも目されている。
秋田藩でも1789年(寛政1)以後改革を開始した。まず藩制の刷新のため,新たに評定・財用の両奉行を置き,全体を統括する総奉行を設けた。また1781年(天明1)以後藩財政の再建のため国産物の増産をはかり,山林木山方,薪方を置き,銅山方を設けている。そこでのちの秋田杉の植林が行われ,大坂の銅商人大坂屋に経営を請け負わせる銅山改革が実施された。勧農政策としては,郡奉行を設置し,農村の復興のために諸産物を奨励したり,また荒廃田を再興し,新田開発を目的とする六郡開発令を出している。特産物の奨励には産物方支配人があたり,とくに養蚕業の発達を背景とした秋田畝織(うねおり)が知られる。その他この時期に著しい発達をみた産物に,川連漆器,能代春慶塗などがある。藩校の創設が企てられたのは1789年であるが,93年江戸の折衷学派山本北山を迎えて機構を整え,明道館(のち明徳館)ができた。
庄内藩でも1767年(明和4)財政窮乏打開のため財政改革に着手した。豪農商の本間光丘(みつおか)が登用され,まず家中の会計整理をはじめ,安永および天明年間に〈御地盤組立〉という財政再建計画をだしている。しかしこの財政整理は農村の荒廃を救うことにならなかった。95年にはじまる改革は,改革御用掛竹内八郎右衛門,白井矢太夫を中心に行われ,その大綱は困窮農民の救済策や農業振興策など,農村の復興をはかる農政改革を重要課題とした。庄内藩の藩校致道館が開設されたのは1805年(文化2)で,祭司は寛政改革の執政白井であった。秋田藩の総奉行中山青峨が明道館初代祭酒であったが,そのことからも改革における藩校の位置が理解されよう。
近世後期から幕末期の出羽諸藩は,北羽(現,秋田県)ではその変化が少ないが,南羽(現,山形県)ではかなりの変動をみている。とくに最上川中流部における幕領の増減と山形藩主の移動によるものである。村山郡の幕領は天明年間に約20万石となり,1798年(寛政10)に長瀞藩(1万1000石),1830年(天保1)に天童藩(2万石)ができ,山形には1767年(明和4)に秋元氏が入部し,1845年(弘化2)には水野忠精(5万石)に代わるなど,幕領諸藩領の錯綜がいっそう進んだ。幕末の出羽諸藩にはとくに目だった藩政改革はないが,小藩でも新庄藩の吉高勘解由(かげゆ)の改革,上山藩の金子清邦の改革などが注目される。また近世中後期の出羽出身の人物に北羽では佐藤信淵,平田篤胤などの日本的学者があらわれ,南羽では幕末に清川八郎や雲井竜雄など維新の志士を生んだ。戊辰戦争は,結局西南雄藩の政府軍と会津・庄内を中心とする奥羽越列藩同盟の戦いとなったが,出羽諸藩の中でも北羽の秋田藩は官軍につき,庄内藩軍との間に激しい戦いを交えた。しかし米沢藩,山形藩をはじめ,出羽諸藩の大部分は同盟軍となったが,政府軍の洋式軍備のもとに次々と降伏して,約6ヵ月の戦いは終結した。
新政府は奥羽支配のために新たな国郡制を設け,1868年12月出羽国を羽前国,羽後国の2国とした。また戦争の論功行賞として,秋田,本荘などには賞典禄を与える一方,米沢,山形,庄内などの朝敵諸藩には領地没収,首謀者の斬罪などの処分を行った。また旧幕領と没収地に民政局を設置し,69年7月には酒田県を設置した。以後,全国的な廃藩置県をまたずに70年9月には山形県ができたが,71年7月の廃藩置県の断行により,羽前は8県,羽後は5県となり,まもなく統合して同年11月には,秋田県,置賜県,山形県,酒田県の4県となっている。現在の秋田県は同年に成立したが,現在の山形県が行政的に一つになるのは,3県が統合した76年であった。
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