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出羽国

ジャパンナレッジで閲覧できる『出羽国』の日本歴史地名大系・国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

日本歴史地名大系
出羽国(羽後国)
でわのくに(うごのくに)

出羽の名は「続日本紀」和銅元年(七〇八)九月二八日条に「越後国言、新建〓出羽郡〓、許〓之」とみえるのが初見で、越後国の申請を受けて新たに越後国の北部に出羽郡を置いたと記す。同二年七月一日条には「令〓諸国運〓送兵器於出羽柵〓、為〓〓蝦狄〓也」とあり、軍事基地として出羽柵でわのきがすでに機能している様子を伝える。同五年九月二三日条に「太政官議奏曰、建〓国辟〓疆、武功所〓貴、設〓官撫〓民、文教所〓崇、其北道蝦狄、遠憑〓阻険〓、実縦〓狂心〓、屡驚〓辺境〓、自〓官軍雷撃〓、凶賊霧消、狄部晏然、皇民無〓擾誠望便乗〓時機〓、遂置〓一国〓、式樹〓司宰〓、永鎮〓百姓〓、奏可之、於〓是始置〓出羽国〓」とあり、北方経営の一環として出羽国が設置され、同年一〇月一日条にはさらに「割〓陸奥国最上置賜二郡〓、隷〓出羽国〓焉」とあり、直ちに最上・置賜二郡(現山形県)をも出羽国に編入し、一国としての形を整えた。以来近世末までの出羽国は、現鹿角かづの市・鹿角郡(陸奥国)を除く秋田県域を含んでいた。

原始

秋田地方の縄文時代は西暦紀元前八〇〇〇―前七〇〇〇年から西暦紀元を過ぎるまで、長い年月にわたると推定される。それだけに早期から晩期までの各遺跡、多彩な遺物包含地も広く分布し、海成・河成の段丘、丘陵面や扇状地上に発見される。その生活を物語る貝塚は土花つちはな(由利郡西目町出戸でと菖蒲崎しようぶざき(本荘市川口)新屋浜あらやはま(秋田市新屋)児桜こざくら(秋田市寺内町)の砂丘上、角間崎かくまざき(南秋田郡若美町)寒風かんぷう山裾野台地上、女川おながわ男鹿おが市船川)萱刈沢かやかりさわ(山本郡八竜町)の海成段丘、柏子所かしこどころ落合おちあい(能代市)の河成段丘上などに発見されている。集落跡は清水しみず遺跡(鹿角市八幡平)のような竪穴住居が最も多く、下堤しもつつみ遺跡(秋田市四ッ小屋よつごや)は縄文中期の竪穴住居一〇が集合し、藤株ふじかぶ遺跡(北秋田郡鷹巣町)のように敷石住居といわれるものもある。また特徴的な組石遺跡は大湯おおゆ遺跡(鹿角市十和田)野中堂のなかどう万座まんざの環状列石をはじめ、県内で一六を数える。

志藤沢しとざわ遺跡(南秋田郡若美町)から縄文土器の伝統を有しながら籾痕のある土器片が発見された。新間あらまA遺跡(南秋田郡井川町黒坪)からも同じ籾痕土器が発見され、明らかに弥生式土器であるとされる。二者の年代は紀元二―三世紀を下らないと推定され、その段階で一部では農耕も行われ始めていたといえる。

四世紀後半には東北地方南部で古墳が、五―六世紀には福島・宮城地方で中期古墳が築かれたとされるが、秋田地方で確認されるのは後期の八世紀以降の古墳である。北部では高田たかだ古墳(鹿角市十和田毛馬内)枯草坂かれくさざか古墳群(十和田錦木)三光塚さんこうづか古墳(尾去沢東在家)中野なかの古墳(北秋田郡比内ひない町)、中央部ではいいまち古墳(男鹿市脇本)蝦夷台えぞがだい古墳(南秋田郡若美町鵜木)岩野山いわのやま古墳群(五城目町上樋口樽沢)久保台くぼだい古墳(秋田市太平八田)小阿地こあじ古墳(四ッ小屋)、由利郡にはすがさき古墳(象潟きさかた大砂川おおさがわ)、仙北地方には上中村かみなかむら古墳(仙北郡六郷町)蝦夷塚えぞつか古墳(平鹿ひらか郡雄物川町造山)などが知られる。いずれも出土の玉類・刀子・蕨手刀・刀装具・須恵器などから、この地に律令国家の支配が確立された時期のものといえよう。「日本後紀」には弘仁二年(八一一)征夷将軍文室綿麻呂に、出羽国邑良志閇むらしへ村の降俘吉弥侯部都留岐が協力を申し出て兵糧を請うたとある。邑良志閇村は北部の比内か鹿角辺りで、都留岐は吉弥侯部の姓を称するほど中央との接触をもつ在地族長であった。なかでも南部秋田郡以南の郡衙支配地では農耕社会も定着しつつあったとみられ、古墳を営造する生産力と政治的権力をもつ族長らが現れていたであろう。古墳築造者には、秋田城や郡衙の官人もあったのではなかろうか。

古代

〔律令の時代〕

「日本書紀」斉明天皇四年に、越国守阿陪臣が舟軍を率いてきたり、齶田あいた渟代ぬしろの二郡を設けたとある。しかし朝鮮半島の政治的緊張などもあってか経営は伸展せず、開発が緒につくのは律令体制が軌道に乗り、和銅五年に出羽国が建置されて以後である。

「続日本紀」に天平五年(七三三)一二月「出羽柵遷〓置於秋田村高清水岡〓、又於〓雄勝村〓〓郡居〓民焉」とみえ、軍事拠点出羽柵を庄内最上川南岸(現山形県)から北方秋田村高清水岡に移し、また中央盆地の南雄勝みなみおがち村にも拠点をすえた。天平九年にはそれと陸奥多賀柵(現宮城県)との間に直路も通じ、陸奥・出羽の連係による北方開拓の態勢ができた。天平宝字三年(七五九)には雄勝柵を拡充して雄勝城が造られ、坂東八国・北陸四国の浮浪人を柵戸に配し、相模・上総・下総・常陸・上野・武蔵・下野七国の軍士・器仗を送り(続日本紀)、後方の国府と出羽柵の連絡路を側面から擁護した。同五年頃までには国府も出羽柵に移され、柵も整備して秋田城と改められたようである。以来秋田城は律令国家の出羽国に対する政治・軍事・開拓の拠点となった。

中央盆地では天平宝字三年に雄勝郡北部をさいて平鹿郡が設置された。宝亀(七七〇―七八〇)の夷俘の大反乱では両郡は賊地に陥ったようで、「続日本紀」延暦二年(七八三)六月一日条に「宝亀十一年雄勝・平鹿二郡百姓、為メニ〓レテ〓、各失〓本業〓」とみえる。また宝亀一一年八月二三日条によれば、秋田城の孤立化を恐れ、国府を南の河辺府(庄内地方)に移し、秋田城には鎮守専当の国司として出羽介すなわち秋田城介を駐留させ、北辺の防守にあてた。事態はやがて平静化に向かい、同書によれば延暦二年両郡に「更〓郡府〓、招〓シテ 散民〓」口分田を給し、三年の調庸を免じ、さらに同一一年平鹿郡の「狄田租」すなわち帰伏の蝦夷の田租を永年免じた(類聚国史)

蝦夷の平定は延暦期の坂上田村麻呂、弘仁期の文室綿麻呂によって終了した。田村麻呂は延暦二一年に胆沢いさわ(現岩手県水沢市)、翌二年に志波しわ(現盛岡市)を設けたが、胆沢築城と同時に雄勝城に毎年「鎮兵糧」として「越後国米一万六百斛、佐渡国塩一百廿斛」(日本紀略)を送り、これを強化し、東西相並んで北方を固めた。平鹿郡北部に払田柵ほつたのさく(現仙北郡仙北町払田、同千畑村本堂城回)がある。その外郭南門跡北西土壙からは嘉祥二年(八四九)正月一〇日銘の木簡が出土しており、胆沢城と雄勝城のような関係が、志波城との間にあったことも推定される。

延暦二三年、秋田城は軍政をやめ、秋田河(雄物川)以北に秋田郡を設けて郡治にゆだねた。払田柵を含む平鹿郡北部の山本郡(現仙北郡)、秋田川以南の河辺郡もまもなく設置された模様で、九世紀後半には、県域南半は律令国家の行政区に編成された。なお秋田城介は城司として秋田城を警固し、介としては国司の次官、郡司の上級行政官として永承五年(一〇五〇)平繁盛が補任されるまで継続した。

蝦夷順撫の方策は、弘仁七年(八一六)の勅が延暦二〇年の格を引用して「荒服之徒未〓〓風俗〓、狎馴之間不〓〓田租〓(類聚国史)とあり、夷俘の田租を免ずるなどの優遇策をとった。もちろん、弘仁七年に順化して年久しい者には口分田を授け、六年以上を経た者からは田租を取ることに改めている(類聚国史)。延暦二二年には「家〓〓〓占、出羽国須〓開発〓地、百姓失〓往業〓而在」(類聚三代格)と富者の土地占有を禁じた。弘仁二年には「陸奥・出羽両国、土地曠遠、民居稀少、百姓浪人随〓便開墾、国司巡〓、随即収公、是以人民散走、無〓〓静心〓(日本後紀)として、百姓の墾田を保護した。

しかし秋田郡などでも、北に行くほど狩猟生活も色濃く、独立的な性格を維持していた。元慶二年(八七八)の反乱では、秋田東辺および東南部にある「俘囚并良民」混住の添河そえかわ覇別はわけ助川すけかわなどが「向化俘地」といわれたのに対し、以北の焼岡たけおか方上かたがみ姉刀あねたちつつみ大河おおかわ方口かたぐち腋本わきもと河北かわきた野代のしろ榲淵すぎぶち火内ひない上津野かづのの一二村は「秋田城下賊地」といわれた(三代実録)。反乱は、北方族長が秋田城司良岑近の暴政に蜂起し、合従拡大したと思われる。出羽権守藤原保則(のちに出羽守)により平定されたが、秋田郡治は八郎潟東南岸方上かたのうえ率浦いざうら郷以北に発展することはなく、山本郡でも北進は止まった(和名抄)。律令国家の衰退が停滞の一因でもあろうが、現山本郡・能代市・北秋田郡・大館市は秋田郡の奥として残された。

なお「類聚国史」には天長七年(八三〇)一月三日のこととして秋田地方の地震が、

今日辰刻、大地震動、響如〓雷霆〓、登時城郭官舎并四天王寺丈六仏像、四王堂等、皆悉顛倒、城内屋仆、撃〓死百姓十五人〓、支体折損類一百余人也、歴代以来未〓曾有〓聞、地之割辟、或処卅許丈、或処廿許丈、無〓処不〓辟、又城辺大河云〓秋田河〓、其水涸尽、流細如〓溝、疑是河底辟分、水漏通〓海歟、吏民騒動、未〓熟尋見〓、添河・覇別河、両岸各崩塞、其水汎濫、近側百姓懼〓〓暴流〓、競陟〓山崗〓

と記される。当地方の地震の初見で、マグニチュード七・四と推定されている(理科年表)

〔清原氏・藤原氏の時代〕

天慶二年(九三九)の俘囚反乱では、秋田城軍のほかに「国内浪人不〓〓高家雑人〓、差〓宛軍役〓(本朝世紀)とあり、国内に土着した在庁官人・在地豪族を反乱の鎮定にあたらせた。そうした高家雑人にあたるのが後の出羽国山北俘囚主清原真人武則である。山北せんぼくは雄勝・平鹿・山本三郡の総称である。武則は前九年の役(一〇五一―六二)に奥六郡の郡司安倍氏討伐に功があり、康平六年(一〇六三)鎮守府将軍に任ぜられている。勢力の基盤は山北地方で、兄光頼と武則を頂点とする同族団的結合を示し、陸奥出陣の部将に武則の甥橘貞頼(志万太郎)、武則の甥で婿吉彦秀武(荒川太郎)、貞頼の弟橘頼貞(新方二郎)、吉美侯武忠(斑目四郎)、清原武道(貝沢三郎)などの名がみえる。志万は島で「男鹿島」(現男鹿市)、荒川は現仙北郡協和町、斑目は現平鹿郡南部、貝沢は現雄勝郡羽後町貝沢にあたるであろうか。新方は志万とも考えられる。とすれば清原氏の勢力は現県域南部を覆い、それに奥六郡を併せ、鎮守府将軍として陸奥・出羽にまたがる大勢力となった。

清原氏の内訌に起因する後三年の役(一〇八六―八七)の結果、清原氏の遺領はことごとく平泉(現岩手県)藤原氏の手に帰した。藤原氏は「六箇郡之司」と「出羽山北俘囚主」の立場を併せ得、また藤原清衡は陸奥押領使、基衡は出羽押領使、秀衡は鎮守府将軍として、職権を通じ両国の在地領主を総括支配することになった。「吾妻鏡」にみえる比内の数代の郎従河田次郎、大河の泰衡の郎従大河兼任、由利の同由利維平などはそれを物語る。

〔信仰〕

そうした中で平泉中尊寺の寺領も設定されたようで、下って延元二年(一三三七)陸奥守鎮守府将軍北畠顕家が小野寺肥後守・平賀四郎左衛らにあてた国宣に「秋田郡君野村、破岩上・下村、雄友村、白山村、女法寺、千女寺、成福寺」が中尊寺別当管領の地とみえるのがそれにあたる。

仏教といえば古く秋田城内に四天王寺があり(類聚国史)、貞観一二年(八七〇)には山本郡内の安隆あんりゆう寺が定額寺となったことが知られる(三代実録)。仏教の浸透は平泉藤原氏時代の仏教文化に負うところが大きいようで、建久七年(一一九六)藤原女人銘・寿永三年(一一八四)大檀主尼殿銘経筒出土の湯沢市松岡まつおか経塚、久安五年(一一四九)銘経筒出土の平鹿郡大森町観音寺かんのんじ経塚、元久三年(一二〇六)銘経筒出土の横手市閑居長根かんきよながね二号経塚など、平安仏教天台宗の影響がみられる。また平鹿郡雄物川町千刈田せんかりだ出土の瑞花双鳳鏡には永延三年(九八九)願主〓丈伴守光・女旦主伴希子銘があり、「仏師天台僧蓮如願也」と刻まれている。仙北郡中仙町豊岡三十刈とよおかさんじつかり出土の水神社蔵八稜鏡には旦主延暦僧仁祐・女旦主藤源安女子銘、仙北郡中仙町上鶯野かみうぐいすの出土鏡には長元四年(一〇三一)旦主代公富岡・女旦主県末古公夏虫銘がある。これら諸鏡が将来品だとしても、天台僧に導かれた在地信仰を物語るといえよう。

仏教信仰のほかに在地神の信仰もあった。古四王こしおう神は秋田城に祀られ、延喜式内社の波宇志別はうしわけ神社(現平鹿郡大森町)塩湯彦しおゆひこ神社(現横手市)副川そいかわ神社(現仙北郡神岡町から南秋田郡八郎潟町へ移転)も農耕民の祀る在来の山神であった。ただし平安時代修験道の発達に伴い山岳信仰が栄えると、鳥海山とともに式内三社を祀る山は修験化した。男鹿本山おがほんざんの信仰もこの期に現れている。

中世

〔鎌倉・南北朝時代〕

源頼朝による文治五年(一一八九)の戦いで出羽北部の情勢は一変した。平泉藤原氏数代の郎従、比内ひないの河田次郎は藤原泰衡を討って逆に頼朝に誅され、由利中八維平は由利の所領を安堵、大河兼任は翌六年鎌倉に反して誅された。新たに軍功の賞として橘公業がこの地に所領を得た。その所領は秋田郡内楊田やなぎだ豊巻とよまきみなと湯河ゆかわ百三段ももさだ沢内さわのうち小鹿島おがしまの内伊森いのもり桃河ももかわ吉田よしだ滝河たきかわ・砥(いそわけ大嶋だいしまにわたる。橘氏の本領は伊予国宇和郡(現愛媛県)であったが、嘉禎二年(一二三六)肥前国杵島きしま長島ながしま庄・大隅国種ヶ島・肥後国求麻くま久米くめ郷・豊前国副田ふくだ庄を与えられ、長島庄に下向した。延応元年(一二三九)秋田郡内の所領は一一子公員に譲られたが、公員は三浦泰村討伐の宝治合戦(一二四七)に鎌倉で戦死したと伝え、その後秋田郡に橘氏の消息はない。由利維平は文治六年大河兼任と戦い戦死、遺領は維久が継いだが建暦三年(一二一三)の和田合戦に座し、所領は信濃源氏加加美次郎遠光の娘で頼朝に仕えた大弐局に与えられた。次いで兄小笠原長清の七子大井朝光に継がれ、その一族・庶子が由利郡に下向し、いわゆる由利十二頭の源流となった。

ほかにも御家人で所領を与えられたものがある。雄勝おがち郡には下野国都賀つが郡に本領をもつ小野寺道綱が地頭職に補任されたようで、一三世紀半ば頃道綱四代の孫経道が下向し、稲庭いなにわ(現雄勝郡稲川町)に拠った。平鹿ひらか郡には平賀氏が所領を得ていた。北部比内には甲斐源氏で甲斐国青島あおしま浅利あさり郷に本貫地をもつ浅利氏が、鹿角かづの郡には安保・成田・奈良・秋元諸氏が所領を得て移住している。安保氏は武蔵七党の丹治氏で、加美かみ(現埼玉県)安保郷に本領をもち名とした。その庶流武蔵騎西きさい(現埼玉県)成田なりた郷地頭安保信阿は正中二年(一三二五)鹿角郡東根ひがしねのうち田山たやま郷内の所領を嫡子基員に譲り、基員は成田姓を名乗る。奈良氏は成田氏と同族、秋元氏は下野国宇都宮流である。いずれも庶流で所領を分与され、北条氏専制が強化された鎌倉末期に下向した。

元弘三年(一三三三)に鎌倉幕府は倒れた。「保暦間記」に同年「東国ノ武士多ハ出羽・陸奥ヲ領シテ其力アリ、是ヲ取放サント議シテ、当今ノ宮一所可〓〓下トテ、国司ニハ彼ノ親王ニ親ク奉〓成ケルニヤ、土御門ノ入道大納言親房息男顕家卿ヲナシテ、父子トモニ下サル」とあるが、北条氏は出羽・陸奥に多くの得宗領を設け、多数の御内人、現地に所領を有する御家人層を方人としていた。建武新政府はそれら北条の余党を掃討するため、北畠顕家を陸奥守として下向させたというのである。同年葉室光顕を出羽守に任じ秋田城務を担当させたのも同趣旨であった。

南北朝の対立が激化すると、足利尊氏は奥州に奥州総大将、次いで奥州管領を設けて奥羽支配を目指した。両勢力は相互に元弘没収地を勲功の賞として与え、自派の伸展を図った。出羽国司葉室光顕は小早川性秋に由利五郎惟方の跡地を与え(「小早川家文書」元弘三年八月二四日)、陸奥国司北畠顕家は南部師行に「鹿角郡闕所」地に地頭を入れさせている(「南部文書」建武元年三月二一日)。北部鹿角・比内地方は東に有力な南朝方の南部氏があり、北の津軽地方には北朝方の曾我氏・安東氏があって、その動向に左右された。南部氏は内戦の過程で鹿角郡に浸透して成田・安保・秋元・奈良各氏ら小勢力を麾下に収め、比内へも進出したようで、建武元年(一三三四)二月南部師行は比内南河内みなみかわうちを太田行綱に与えている(南部文書)。それは比内の浅利氏との対立を生み、延元二年(一三三七)浅利氏は津軽の曾我氏と結び、鹿角に侵入した(同文書)。山北地方では、暦応四年(一三四一)頃山本郡内に和田氏が、観応三年(一三五二)陸奥国和賀郡内の和賀基義が、勲功の賞として闕所地を与えられている(鬼柳文書)。平鹿郡では平賀氏が延文四年(一三五九)に出羽国仙北平鹿郡惣領職を与えられたが(平賀家文書)、所領を元弘没収地に広げたものであろう。

秋田郡の地は鎌倉末期に橘氏の所領が秋田城介安達氏に帰し、小鹿島その他の地に得宗領も設けられたようである。「吾妻鏡」によれば安達氏は建保六年(一二一八)景盛が補任され、その職を世襲した。鎌倉幕府の滅亡で秋田城介安達高景は秋田の所領に逃れ、新政府に抵抗したようで(元弘日記裏書)、建武元年二月「朝敵余党人等、小鹿島并秋田城

楯築所々、可乱入津軽中之由、有其聞」(斎藤文書)などとみえ、高景は一一月に降伏した。その後も秋田城周辺は安定しなかった。延文元年に秋田城古四天王寺別当が文和三年(一三五四)以来尾張国内海城で没落した内海三郎・三浦弥六らが寺領に濫妨を加えていると訴え(新渡戸文書)、延文二年には安藤孫五郎入道が曾我時助遵行の地を押領したとある(斎藤文書)。安藤氏は安東氏で、鎌倉時代以来津軽十三湊とさみなと(現青森県)に拠り得宗領支配の御内人として、南の出羽国内の元弘没収地に浸透を図ったとしても不思議はない。安東氏のうち下国しものくに安東氏は南部氏との抗争に敗れ、永享二年(一四三〇)蝦夷地(現北海道)に移った。その同族鹿季は一五世紀初め頃男鹿島おがしまを経て土崎湊つちざきみなとに移り、湊安東氏を開いたようである。下国安東盛季の流れも一五世紀末までには蝦夷地より帰って檜山ひやまに拠り、檜山安東氏となった。

〔室町・戦国時代〕

将軍足利義満は鎌倉の関東府に陸奥・出羽二国の管轄権を与えたが、奥州支配についての幕府との対立、関東公方と関東管領の不和などにより統制力は弱化し、北奥の国人は戦国大名への道を歩き始めた。

雄勝郡の小野寺氏は一五世紀末までに平鹿郡を平定して沼館ぬまだて(現平鹿郡雄物川町)、次いで横手城に拠点をすえたが、その頃から南の最上義光が小野寺領に脅威を加え始めた。一方、滴石しずくいし(現岩手県雫石町)を本拠としていた戸沢氏は南部氏に追われ、山本郡門屋かどや(現仙北郡西木村)に移り、明徳二年(一三九一)関東府に従った諸氏の中に戸沢氏の名がみえるから、その時期までには山本郡に拠点を構えていた。二氏の発展の中に平賀氏の名は消えた(ただし本領は安芸国)。また、両氏の中間の仙北中浦なかうらといわれた地方には本堂氏と六郷氏、大曲には前田氏の小勢力があった。本堂氏は和賀氏の流派、六郷氏は二階堂氏の流れといわれるが、前田氏は滅び、本堂・六郷二氏は小野寺・戸沢両氏の勢力の間に生きながらえた。

西部の檜山(現能代市)、湊(現秋田市)の両安東氏は一六世紀の初め、湊安東氏の後嗣の絶えた機会に、その婿として檜山安東愛季が両家を統一して男鹿脇本わきもと(現男鹿市)に居城を移し、比内の浅利則祐を謀殺して従属化を進め、南部氏とは鹿角で争奪の戦いを交え、天正一〇年(一五八二)いったん占拠したが、同一二年に奪回された。由利郡の由利十二頭は小野寺氏・秋田氏・庄内(現山形県)大宝寺だいほうじの武藤氏の三勢力の間に合従連衡しながら存在を続けていたが、武藤氏の由利郡進出により愛季も由利に出兵し、天正一〇年より一一年にかけ武藤氏と戦った。愛季は拠点の檜山郡と秋田郡全域を覆う勢力を確立、遠く織田信長・豊臣秀吉とよしみを通じた。同一五年に愛季が死ぬと湊安東氏の道季は戸沢氏・小野寺氏とともに反旗をひるがえし、檜山城に幼少の実季を攻めたが、実季は逆に由利衆の援助で道季を追い、拠点を湊城に移した。

天正一六年、秀吉の「天下一統ニ御安全ニ可仕執成」(奥羽文書纂)との停戦令が出、次いで同一八年の奥羽仕置の結果、北出羽の地は豊臣政権の支配下で安定を得た。ただし由利十二頭は、仁賀保にかほ赤宇曾あこうそ(赤尾津)滝沢たきさわ内越うてつ岩屋いわやの五人衆に淘汰され、小野寺氏は奥羽仕置の際の仙北一揆で小野寺領上浦かみうら(現雄勝郡)三分の一を召し上げられ、初め代官領、次いで最上領となったようで、文禄二年(一五九三)最上勢は湯沢(現湯沢市)増田ますだ(現平鹿郡増田町)地方を占領した。

〔海上の道〕

それまでも日本海の航路は開かれており、とくに安東氏が領主として成長するに伴い遠く北陸諸国との来往があり文化も流入した。仏教についていえば、一四世紀以来加賀大乗だいじよう寺系、次いで能登総持そうじ寺系の曹洞宗が広まった。また奥羽山脈を越え陸奥正法しようぼう寺の系統もあった。いずれも土豪・領主層を中心に信仰され、小野寺氏の正平しようへい(現横手市)、六郷氏の永泉えいせん(現仙北郡六郷町)、檜山安東氏の国清こくせい(現能代市檜山)、湊安東氏の湊福そうふく(現男鹿市)、浅利氏の玉林ぎよくりん(現大館市)などが知られる。また外護の檀那は明らかでないが、秋田市山内の補陀さんないのほだ寺は近世にかけて秋田地方に大きく門葉を張った。一向宗も海上の道を通じて入り、湊を起点として安東氏の外護を得、内陸部にも広まった。湊に創建され、のちに久保田に移された浄願じようがん寺・西善さいぜん寺などである。また造塔の功徳を平易に実現しうるものとして真言・天台念仏の徒により創始された石造塔婆・板碑類も鎌倉末期以降南北朝期にかけて各地に造立されている。

奥羽仕置で秋田地方に太閤蔵入地が置かれ、その蔵米を財源とする太閤板の回漕は日本海海運をいっそう拡大した。湊・野代(能代)湊と越前敦賀つるが(現福井県敦賀市)、若狭小浜おばま(現福井県小浜市)との間には、敦賀、三国みくに(現福井県坂井郡三国町)氷見ひみ(現富山県氷見市)出雲崎いずもざき(現新潟県西蒲原郡出雲崎町)新潟にいがた佐渡さど輪島わじま(現石川県輪島市)安宅あたか(現石川県小松市)、小浜、長浜ながはま(現滋賀県長浜市)酒田さかた(現山形県酒田市)その他地船の廻船問屋が活躍し、太閤板の回漕にとどまらず、上方との政治・経済圏との交流を密接にした。

近世

慶長七年(一六〇二)徳川家康は関ヶ原の戦後処理を行い、大名地図を一変させた。佐竹義宣を常陸から秋田・仙北の地に移封、それに付随して秋田(安東)氏を常陸宍戸ししど五万五千石に、戸沢氏を同手綱たづな四万石、六郷氏を同府中ふちゆう二万石、本堂氏を同志筑しづき八千五〇〇石に移した。

〔由利郡の諸領〕

同じく最上氏は所領の雄勝おがち郡を由利郡にかえられ、その結果由利郡の仁賀保氏を常陸武田たけだ五千石へ、打越氏を同じく同国内二千石に移し、赤尾津・滝沢・岩屋三氏は最上氏の家臣団に編入された。最上義光は湯沢の楯岡豊前守満茂を由利に移して経営にあたらせた。その高は文献により異なるが、年月未詳の最上領由利諸給人渡分(本城文書)には本城領分本出合三万九千二二七石一斗六升、滝沢領分本出合一万八二九石三斗二升、岩屋領分本出合二千二六〇石三斗九升、三口合五万二千三一六石八斗七升とみえる。満茂は初め赤尾津の旧城に拠ったが、慶長一五年古雪ふるゆき川(子吉こよし川)下流、尾崎山おざきやまに城を築き本城ほんじよう城とよび、楯岡姓を改め本城氏を名乗った。元和八年(一六二二)最上氏は改易され、宇都宮の領主本多正純が入部したが、翌九年に秋田領山本郡(現仙北郡)大沢おおさわに配流、翌寛永元年(一六二四)横手に移され、同一四年没したと伝える。最上氏改易の時、佐竹氏は命ぜられて本城・滝沢二城を破却し、由利郡を預かったが、幕府に由利領百三段ももさだ(現秋田市新屋)と「もゝさだ知行高ほと秋田分」(梅津政景日記)との引換えを許された。

元和九年、川中島かわなかじま(現長野市)の岩城吉隆が亀田二万石、常陸府中の六郷政乗が本城(本荘)二万石に入り、由利旧族仁賀保挙誠・内越左近がともに常陸から仁賀保一万石、矢島三千石に戻った。しかし仁賀保挙誠は寛永元年に没し、所領は蔵人良俊・二男内膳誠政・三男内記誠次・四男主馬に分知されてともに旗本となったが、蔵人・主馬は早逝して断絶、内越光政も嗣子がなく同一一年断絶し、遺領はともに庄内酒井氏の預領となった。同一七年讃岐の生駒高俊を矢島やしまに移して預領のうち一万石を給し、残りの一千八五八石(現象潟町地内)は天領(酒井氏預領)として代官支配となり、この時期をもって由利郡は安定した(→由利郡

〔秋田藩〕

佐竹義宣は慶長七年九月一七日秋田氏旧城の湊城に入った。義宣は秋田・仙北各地に支城をおいて一部の家臣を分散駐屯させ、新しい支配に備えた。翌八年より久保田城を築き翌年移城、直ちに城下町の建設に着手した。

〔検地〕

義宣は入部に先立って検地(先竿)を命じた。目的は年貢徴収の基本を定め、村切で土地と農民を把握して権力の基盤を確保するにあった。しかし慶長七―八年に仙北金沢かねざわ(現横手市)大曲おおまがり(現大曲市)六郷ろくごう(現仙北郡六郷町)比内ひない(現北秋田郡・大館市)大阿仁おおあに(現北秋田郡)などで起こった先亡(旧領主の遺臣)の入部反対一揆で村切の目的は達せられなかった。

慶長一八年二回目の検地(中竿)を実施し、村と村との間の農民の出入作を調べ、それを禁止しながら村切を推し進め、並行して家臣団の知行制度を確立した。次いで正保三年(一六四六)と慶安元―三年(一六四八―五〇)に検地(後竿)が行われ、その結果、「慶安三年三月御検地役中被仰付、面々打立之帳面免付被相究、同在々新免被仰付候」(享保一四年一二月「郷村御調覚書」)となったが、これにより藩初以来の新田開発と新村が藩権力のもとに統一的に掌握され、村切支配が確立された。

〔石高〕

慶長七年に佐竹義宣に与えられた領地朱印状には「出羽国之内秋田・仙北両所進置候、全可有御領知候也」とあり、知行高の記載がない。同一六年の禁裏普請軍役高は一八万五千石を標準として決定されており、それ相当の知行石高と認められたものであろう。享保一四年(一七二九)の郷村御調覚書(県立秋田図書館蔵)によれば、慶安三年終了の検地に基づき寛文四年(一六六四)に作製した郷村高辻帳を幕府に提出した。郷村高辻帳六郷〆高は

高弐拾万石         村数六百弐拾八ケ村
 高五万九千四百六拾六石
出羽国之内六郡古田之過
 高六万三百八拾壱石     同国之内六郡新田
都合三拾壱万九千八百四拾七石也
但野州之内河内郡・
都賀郡之高ハ略之

で、うち「野州之内河内郡・都賀郡之高」は慶長一〇年義宣が鷹場として下賜されたものである。その結果、

出羽国秋田・山本・河辺・山乏(仙北)・平鹿・雄勝六郡弐拾万石、下野国河内郡・都賀郡之内五千八百石余都合弐拾万五千八百石余
目録在
別紙
事如前々充行之訖、全可領知之状如件
 寛文四年四月五日         御居判  
秋田侍従とのへ

との判物を幕府から得、表高二〇万五千八〇〇石と公認された。これを役高といい、これにより藩の格式・軍役高の基準が確定した。表高に「古田過」高、「新田」高を加えた三一万九千八四七石は内高である。宝暦九年(一七五九)御代々御被指上候郷村高辻帳並郷帳御末書写によれば、内高貞享元年―宝永八年(一六八四―一七一一)の三四万石余を頂点に、だいたい三二万石余に終始している。

〔地方知行〕

藩領は蔵入地(直轄地)と知行地(給分)とに分けられた。その割合は正保二年に高二八万五千三九三石余、うち蔵分七万九千三九一石余、給分二〇万六千二石余でだいたい三対七になり、石高の増加はあっても、その割合は幕末まであまり変化しなかった。そのうち元禄一四年(一七〇一)に藩主佐竹義処が亡父義隆の願いにより庶兄弟の壱岐守義長へ二万石、式部少輔義真へ一万石を蔵分より分け、本家分はそれだけ減じた(御控出羽国下野国之内秋田領郷村高辻帳、御代々御被指上候郷村高辻帳並郷帳御末書写)。ただし式部少輔家はその後義堅が宗家の養嗣子となることにより延享三年(一七四六)郷村高辻帳より消えた。

秋田藩は、国替で伝来の本領を失った一門・門閥の家臣に新恩地を支給し、軍役を分担させた。彼らを地頭あるいは給人とよび、給地を知行地として支配権を認めた。この形を地方知行という。ただし物成・諸役の徴収に恣意的な取扱いは禁止された。給人のほかに蔵米取、扶持米取の下級武士もいた。給地は検地の進行とともに割り付けられた。慶長八―九年頃の知行状によれば、知行割は地域的に集中し、知行高が全体として均等で、免の表示がないと指摘されている(秋田県史)。先竿段階では早急の知行割で、統一的租税法はその後で確定されたものであろうか。それゆえ、中竿が始まると知行割替を急速に進め、知行高の加増とともに知行地の分散や錯綜化をはじめ物成諸役をも規制するなどして、給人支配の確立を図った。しかし佐竹氏は移封に伴う減封のため、随従の家臣団を制限し、家臣の知行高も縮小した。それでも帰属する者が多かったため、当初は差紙(許可状)開による新田開発を奨励し、新田を知行地に高結(高に加える)することを認めた。それゆえ秋田藩の地方知行地は恩給地のほか伝領的な開発私有地が加えられていたのである。藩では寛文期になって差紙開をやめ、注進開にかえ、開発高の約三分の一を辛労免しんろうめんという形で知行地に加え、その他は原則として蔵入地に編入し、蔵分の増加を図った。

〔当高〕

領内統治のために検地高でなく、当高を用いた。明治五年(一八七二)秋田県が伺を立てた当高之名儀廃止方伺(秋田県史)によれば、当高とは「当管内羽後国藩続之県ニ従前当高と唱、草高免を乗し貢米を得、是を平均免六ツを以除し、当高と号し候、全ク貢米之当り高」と説明している。天和三年(一六八三)の平鹿郡今泉村黒印御定書写(糸井家文書)に記載された第一条に「六ツ成高百石ニ付物成六拾石宛」とあり、高に免を掛け、それに六分の一〇を掛けたものが当高である。免が六ツであれば高と当高は同じで、免が六ツ以上であれば当高は高より大きくなる。

天和三年の平鹿郡今泉村黒印御定書写について今泉村の当高・物成をみると、

 免六ツ五歩成高弐百八拾九石三斗七升六合本田
 免六ツ五歩成同弐拾六石三斗壱升壱合新田
 免五ツ五歩成同百七石三斗九升五合新田
当高〆四百四拾石三斗九升五合
 此物成弐百六拾四石弐斗三升七合

右当高〆高は各件当高の合計、物成はそれを六分の一〇で除して算出したもの。すなわち当高計算がしてあれば、貢租量が簡単に把握されるし、それを基準に諸役負担を課する場合でも単純であり、また便宜がある。

この当高制は中竿段階に事実上成立したともいわれるが、中竿直後の慶長二〇年雄勝郡の飯沢村黒印御定書には当高記載はない。享保一四年の郷村御調覚書所収の寛文四年五月一三日付の出羽国之内

秋田
仙北
郡村高帳に「但当高目録有とアリ」と付記があり、幕府提出の郡村高帳のほかに当高目録あるいは当高帳が作製されていたことがわかり、後竿後には当高が実施されていたことが確認できる。当高は明治六年一月二〇日廃止された。

〔黒印御定書〕

検地完了後、藩は黒印御定書を村に交付した。先竿検地後の慶長一〇年、馬場目村黒印御定書には

馬場ノ目諸役相定条々
一高七百弐拾壱石四升 六ツ五分成
納四百六拾八石□斗七升六合
一人足仕之事、物成百石ニ付年中百人まてふちかた(扶持方)五合宛にて可召仕、其上の人遣壱人一日ニ付壱升五合つゝ禰んく(年貢)可引合事
一伝馬之事、高百石ニ付一年ニ卅疋、此扶持方一日壱人ニ付米弐升、但口付共年貢可引合事
一わら草之事、高百石ニ付十月より三月まて六月ニ廿四表百姓可出之事
一ぬかの事、高百石ニ付一年ニ三十俵、但五斗入ニて百姓可出之事
一詰め夫之事、高千石ニ壱人宛、ふち方壱人一日ニ付壱升つゝ、禰んく可引合事
一升之事、公儀より下候はんの升ニて可斗、但とかき之上、給人少も非分於有之ハ可致訴訟事
一口米之事、物成壱石ニ付弐升つゝ可出事
一礼銭之事、百姓可為思寄次第事、もしさいそく候共不思寄所出間敷事
一小物成川山野役右(ママ)如相定公儀へ可差上事
一肝煎諸役不可有之
一肝煎人仕一年壱人ニ付四日宛の事
慶長拾年八月廿日 (黒印)

とある。黒印御定書は貢納すべき物成・諸役を記し、領主の黒印を押して公的な文書としたもので、総検地のたびごとに交付された。最終的な下付は天和三年で、藩の村落支配の形態がほぼ確立された。

〔年貢・諸役〕

黒印御定書で最も重要なのは、農民から地代として徴収する田畑の米納物成である。必要に応じて一部を雑穀・油類で代納させる小物成があり、また別に物成六〇石につき一石二斗の口米も徴収された。

諸役とは、糠・藁・薪・萱などの現物納と、諸種の夫役・伝馬役などが含まれる。諸役は慶安四年以降銀納に改められて小役銀というが、給人側の必要に応じ現物納もあったようである(天和三年「在々諸役御定写」県立秋田図書館蔵)。また元禄一四年には夫役の一部を労役奉仕にかえ、高一〇石につき五斗の米納とした。これを五斗米といい、明治五年の「五斗米免除之義再伺」(秋田県史)に「当県雑税五斗米之義は、別紙の通正租外に取立来候処、右は元禄年間佐竹氏江戸参勤往来の人足・荷馬等農民より差出候様相定候より起候次第、旧記有〓之、就は夫米たる事明瞭訳に付、当壬申より免除被仰付度」とみえ、五斗米は元禄期の創始で、夫役代米の雑税であった。ほかに山林・原野・河川の用益に課税する山川野役もあった。

天和三年の段階で年貢収納の村請はほぼ確立され、欠落者などがあれば、蔵入・給郷ともに「当物成小役共ニ壱郷ニて償、皆納可仕」「跡田地作人有是迄壱郷之者仕付、荒申間敷事」(延宝三年「黒印御定書」)として村の連帯責任を強化した。そのほか黒印御定書で農民の生活・諸行事なども規制したが、年貢徴収の確保と無関係ではない。

〔郷村制〕

郷村支配の単位は黒印御定書を下付した村である。村の代表者が肝煎で、由利諸藩の村の庄屋と対応する。肝煎には本百姓が選ばれ領主が任命する形をとるが、一般に過去の土豪の系譜を引く者が多く、世襲の場合があった。年貢・諸役の収納はもちろん、村民の生活全般にわたる規制を負わされていた。

灌漑用水の開削・管理や農耕・生活に伴う山野の入会などで村を越えた地域連帯の必要があり、とくに初期の新田開発はその傾向を助長した。藩も村落支配の方法を考え、延宝二年(一六七四)平鹿ひらか郡村々から頭村肝煎の設置を請願したのをきっかけに、翌三年から頭村肝煎が制度化された。頭村はのちに親郷と改められたようである(「親郷迷惑願」佐藤文書)。親郷肝煎は藩と村々の中間に立ち、上意伝達・趣旨の徹底を図り、年貢上納を総括し、村相互間の係争の調停・処理にあたるなどの職掌を持った。この親郷と組み合う村々を寄郷といい、通常寄郷一〇ヵ村余をとりまとめて親郷が設けられた。由利諸藩では、親郷肝煎に対し大庄屋制をとった。

当初の藩の村落支配は、とくに蔵入地については大身に分割して代官支配にゆだねた。寛文一二年に郡奉行が設けられても、その形は維持されたようで、天和三年の郡奉行廃止で初めて大身の蔵入郷代官に代わり蔵入高郷代官が任命された。この代官の権限はしだいに拡張されたようで、寛政七年(一七九五)の郡奉行の再設置に伴い、蔵入地・給分地の区別なく、その支配下に入れられた。同年の村方への被仰渡覚書(旧「秋田県史」)に「村々最寄之地所へ御役屋被建置候故、公事訴訟は元より、諸事願筋、早速御役屋へ可被申立候」とあり、役屋を通して郷村を把握する体制が確立された。役屋は四―五親郷ごとに設けられ、親郷肝煎たちは交代で役屋へ詰めた。

〔藩政の推移〕

寛文期になると貨幣商品経済の浸透や生活の向上などが、米に基礎を置いた藩財政をおびやかし始め、木材収入や鉱山収益も衰えて赤字財政が現れてきた。そこで延宝期には農民に免の増徴を実施し、以後恒常的になる家臣の知行借上げなどで補充した。元禄期には五斗米制を打ち出し、沖口出入役銀や酒役銀の増徴や阿仁あに銅山の繁栄に支えられて好転したかにみえたが、赤字財政はしだいに慢性化していった。阿仁銅山は正徳三年(一七一三)の新令で長崎貿易の銀代替として長崎御用銅を割り当てられ、その廻銅定額は当初一七〇万斤、以来一八世紀を通じ御用銅額の約三八パーセント前後に及んだ。御用銅の買上値は地売値よりはるかに低く、再生産費にも不足して山の荒廃をきたした。

元文二年(一七三七)より寛保二年(一七四二)にわたる秋田鋳銭、宝暦四年より七年までの銀札発行は赤字財政の克服にあったが、前者は大坂市場の銭相場の低落に関係して禁止され、後者は不換紙幣を濫発した結果と、宝暦五年の大飢饉と重なり市場の混乱・物価騰貴を招き、銀札発行当事者らの疑獄をもって終焉した。その最も暗い時期が佐竹義敦の明和―安永期(一七六四―八一)であるが、この時期には小田野直武を中心とし、直武に学んだ藩主義敦や角館所預佐竹義躬などの秋田蘭画が知られる。直武は安永二年に領内銅山振興のため来秋した平賀源内に学び、次いで江戸に上り、洋画の方法をとり入れた。また江戸の明和―安永期の文化の影響をうけ、秋田の文化興隆のさきがけとなった。

他方農村では一七世紀末以来の赤字財政のため、過重な負担にあえいだ。その上貨幣商品経済の浸透・米価の変動・多発する凶作飢饉などのため、農民の階層分化が進んだ。その反面、質地地主の成立、村方地主から豪農・商人地主が成立して土地を集積した。藩は年貢収納の不足を地主の調達金・上納金などに求め、褒賞・賞賜を与えるなどして優遇した。

天明五年(一七八五)に就封した佐竹義和は藩学明道めいどう(のちに明徳館)を開いて人材の養成に努め、銅山・林業改革を行い、六郡開発令を発し、商品流通の統制と支配、殖産興業政策を立て、農村支配のために設けた郡奉行に担当させるなど、いわゆる寛政の改革を行った。しかし商品流通の統制も、農民の市場参加を除き年貢負担力の増強を目指すもので、商品生産の助長による利潤の吸収ではなかった。殖産興業政策も、藩資本の窮乏、商品作物の未発達などで成果はあがらなかった。かえって寛政四年と享和二年(一八〇二)の幕府の公役、文化三年(一八〇六)の江戸三屋敷の焼失、同四年のロシアの北辺侵入に伴う松前出兵などで藩財政はいっそう窮乏した。

〔飢饉〕

積雪寒冷で冷害による凶作が多く、飢歳懐覚録に「五十年に大飢 三十年に一度は小饉」とある。先御代々御財用向御指繰次第覚に「延宝三卯年より同八申年迄六ケ年之間差不作無之と相見得、御蔵入毛引百石ニ付壱石内外之引高に候処、其内辰年六石八斗六升五合、未年七石壱斗六升に候故、是等之引高にては御回米不足に候歟」とみえ、延宝期には蔵入毛引高(稲の作柄に応じた年貢減免高)一〇〇石につき一石は平作で、六―七石以上は不作であった。それからまもない貞享三年は「作毛之不熟以前にも無之儀ニ、御蔵入平均毛引高百石に付拾三石八斗に相当り、左迄之引高ニ無之候へとも、此節飢民夥敷有之」(同文書)と毛引高一〇石以上で、この時を貞享飢饉といった。元禄期は不作・飢饉が連続し、同八年「不作平均毛引三拾弐石七斗、貞享飢饉に不相替飢民多」、翌九年「去秋不作ニ付諸人〓命ニ及申躰ニ被成」(同文書)とあり、ために久保田城下外町とまち総中で沖口出米指留を訴訟している(大町三丁目記録 永代帳)。先御代々御財用向御指繰次第覚によれば、同一一年平均一〇石一升、一二年二二石二斗三升、一四年一二石七斗三升、一五年二六石二斗の毛引高で、翌一六年沖口出米を差し止めている。「上肴町記録」には寛延元年(一七四八)の久保田城下の悲惨な様子が記される。

在々より乞食・非人夥く久保田に出来り、道の片原にたをれふし、御施行小屋より非人余り、其外居処なき乞食共、鱗勝院前より大悲寺、誓願寺前迄、寺町通り両側透間もなく休し居候を見るに身の毛もよだつ事に候、其節御施行小屋、其外所々にてうい(飢)死致候人々片付処も無之、仍て矢橋獄門場に大き成る穴三つ掘、凡穴壱つ壱丈五尺四方に材木に畳上け、夫れ何人共投込々々申所、穴壱つに凡四、五千人宛入申様に相聞得候、右穴三つ共ふさかり申候はあわれとも、いたわ敷共可申様無是

最大の飢饉として宝暦五年、天明三年、天保四年(一八三三)が挙げられる。宝暦の飢饉は仙北郡南楢岡みなみならおか村(現南外なんがい村)の相馬文書所収「日記」に

宝暦五亥年春ヨリ殊之外さひく、六月土用之内もかたひら着シ申事無是、五月廿日頃迄ハ雨もふらづくもり、五月廿四日大洪水(中略)雨ふらさる日も曇り晴天無是殊の外田畑大不作、七月廿六日二百十日、八月十五日日かんに候得共、稲実入不申三ケ二ハかゝミ不申、無残青立ひい立ニ、諸人なけき不少候

とある。北部でも、七日市なのかいち村(現北秋田郡鷹巣たかのす町)の住人長崎七左衛門の記した天明五年の「老農置土産」には、宝暦三年は早雪、翌四年は虫害、五年は「五月廿四日大洪水にて田畑とも押流され、或ハ埃に埋られ、水損なき処は稲虫に附し、偏に皆無の不作に逢」とみえる。

消費者は米不足による米の高値で苦しんだが、それに加えて藩の銀札価格が濫発で大暴落し、宝暦六年一二月「米直段正銀遣之節より弐拾増倍余も高直」(「憲自御家老勤中日記抄」国典類抄)となった。藩は対策として米の専売統制、沖出米の禁止などで飯米確保を図るとともに定例上せ米を停止、米麦六万八千四八七石(代銀五千一五六貫)を買い上げて救済にあてたが、それだけ財政的打撃をうけた。

天明三年は卯年飢渇うどしのけかちといわれる。「上肴町記録」九月八日に「米高直ニ付既ニ餓死ニ相及候故、丁内より高田屋申掛候けん(玄)米七拾俵相調丁内家毎ニ壱人ニ付五合宛配分致候、尤白米壱升ニ付四拾文宛売渡候、其節三斗入壱俵ニ付右米壱〆八百三、四十文位致候」とみえ、上肴町は町内経費で米を買い、一人に五合を配給した。その時には玄米一俵一貫四〇〇―一貫五〇〇文であったが、「秋藩紀年」は「十二月、凶作ニ付谷橋(八橋)御施行小屋出来、飢人七、八百人一日三合宛被下、但玄米三斗ニ付直段弐貫文余」と米価の値上り、飢人七〇〇―八〇〇人などを伝えている。翌四年には「正月、白米三斗ニ付三貫文」と、凶作の影響がさらに深刻である。同書によれば藩では米座を設け、米の流通を統制した。凶作は下筋(現秋田郡・山本郡)ほど激甚で、津軽から飢民の流入も多かった。橘南谿は「東遊記」に「饑人の来る事数万、秋田の地亦凶年の事なれば救ひ足る事あたはず、其饑人溢れて又鶴岡に来る」と記した。天明初年の人口三二万人、同六年の人口二七万七〇〇人(秋田市史)とみえるが、五万の減少の中に卯年飢渇の餓死者が含まれていることは間違いない。

天保四年の巳年飢渇には資料が多いが、稲成育期の日照りによる水不足、成熟期の長雨を原因としている(老農見聞録、八丁夜話、飢歳懐覚録)。七月頃から動揺が起こり、八月の土崎湊の打こわし(秋田市の→土崎湊町、翌五年一月、二月の仙北郡前北浦・奥北浦の二つの一揆(→仙北郡などがある。久保田城下でも「根本左司馬日記」(大館市立図書館蔵)に「去秋凶作ニ付内町・外町共ニ殊之外騒〓敷、其向〓厳重ニ回番相増候」とみえ、所預のいる湯沢町でも騒立てのあったことが南家日記、湯沢町小川家の万日記(湯沢市立図書館蔵)などにみえる。

その被害数は天保五年の藩の死亡人御届書(伊頭園茶話)に次のようにある。

私領分出羽国秋田郡外五郡当四月中より疫癘致流行、死亡人夥敷有之候ニ付、為取調候所、四月中より十一月十五日まで六郡ニ五万二千四百六十四人有之候段申越候、稀成儀ニ付此段致御届候

疫癘による死亡とあるが、飢死・栄養失調などに伴う疫病死の合算であり、また四月以前の死亡も当然あったはずである。藩の被害としては、領内救済のため藩が入手した大坂買下米八万六千石、湊買入米三万七千石、他地買入米一万五千石の約一四万石、そのための借財大坂・江戸計六五万二千―六五万三千両、領内借財約一〇万両の総計七五万二千―七五万三千両余と、膨大なものであった。

〔地震〕

寛永二一年九月一八日の本荘地方の地震は、「大地震ニテ本荘城廓大破シ、屋倒レ人死ス、市街モ亦多ク焼失セリ」(本荘町志)とある。

元禄七年の能代大地震(「理科年表」の推定はマグニチュード七)は、久保田でも「上肴町記録」に「五月廿七日朝五ツ前に殊外大地震仕候て、諸人迷惑申、其ゆへ蔵大方土はしり申候」とあり、「閏五月五日迄地震致候」と余震がつづき「谷橋山王にて御祈祷久保田中にて仕候」と記される。宝永元年の能代地震(推定マグニチュード六・九)は元禄地震とともに「代邑聞見録」に詳細である。久保田城下では「上肴町記録」に「四月廿四日昼過少廻り大地震、大かた土蔵はしり申候、それより度々少つゝ地震致候、町々にて商売相止、寺町・八橋村・上野なとへかり木屋をかけ、諸道具はこひ、騒動おひたたし」とある。

文化元年の由利郡象潟きさかた地震(推定マグニチュード七・一)は久保田城下では「上肴町記録」に六月五日「昨夜四ツ半時大地震、誠に以本家・長屋・借家に至るまで、翌五日朝迄表におゐて戸平を敷、壱夜を明候、丁内土蔵不残損し候」「明七日より九日まて於山王神前に地震除き祈祷二夜三日勤行有之候」と記される。同七年にも「八月二七日午ノ刻地大ニ震フ、男鹿島殊ニ甚シク、寒風山崩レ、大石転動、其響轟、恰モ雷ノ如ク、四辺民屋潰壊、タメニ圧死者百数十人」といい、藩主佐竹義和は在府中これを聞き、寒風山の南半途に地震塚を築き、死者の霊を祀ったという(秋田沿革史大成)。「理科年表」には全壊一千一八、半壊四〇〇とある。

なお明治二九年の陸羽地震はマグニチュード七・五で仙北・平鹿二郡が被害を受け、昭和一四年(一九三九)の男鹿地震はマグニチュード七で、住家全壊八五八戸、非住家全壊一〇六戸であった(理科年表)

羽後国

明治元年(一八六八)一二月七日の布告で出羽国が南北に二分され(東京城日誌)、北半部の飽海あくみ(高二三万四千三〇二石三斗五升六合一勺四才)、秋田郡(八万四千七一九石九斗六升)、河辺郡(二万二千八三石一斗五升四合)、仙北郡(九万三千六一一石七斗九升四合)、雄勝郡(五万四千八三六石七斗六合)、山本郡(二万八千四五三石六升三合)、平鹿郡(五万九千九五〇石二斗九升二合)、由利郡(七万二千六七〇石三斗八升六合三勺)の八郡が羽後国となった。同四年の廃藩置県で羽後国は廃され、その後、飽海郡は酒田県を経て山形県に分属し、他七郡に陸中国鹿角郡(現鹿角市・鹿角郡)を併せて秋田県となる。

羽後国は、南は羽前国(現山形県)、東は陸前国(現宮城県)、陸中国(現岩手県)、北は陸奥国(現青森県)に境し、西は日本海にのぞむ。



地図・資料
旧郡界図(PDF)
自然地名と道筋(PDF)


国史大辞典
出羽国
でわのくに
東山道の一国。現在の山形県全域と、秋田県の鹿角市と鹿角郡とを除いた部分。古代には、はじめ「いでは」と訓まれた。氏姓時代の国造は定められなかった。東は那須火山帯と重なる奥羽山脈を堺に陸奥国(岩手県・宮城県)に、北も陸奥国津軽(青森県)に、南の東半も陸奥国信達地方(福島県)と会津(同)に接し、わずかに南西部が越後国(新潟県)に接し、西は日本海に面する。北から米代・雄物・子吉・最上の諸河川が、鳥海火山帯と重なる出羽山地を分断して日本海に注いでおり、流域に大館・横手・新庄・山形・米沢などの各盆地と、能代・秋田・本荘・庄内の各平野を形成している。弥生時代以後の歴史は、この各平地を舞台に展開したが、広大な山林高地の地域には縄文時代以来の狩猟・採取にかかわる生活文化が営まれてきた。令制出羽国の建置は和銅五年(七一二)九月で、その時の国域と定められた越後国出羽郡は和銅元年九月に設けられ、また同五年十月出羽国に合せられた陸奥国置賜・最上の二郡は大化の陸奥国制定の際の建郡と認められる。最上郡は平城宮跡出土の奈良時代初期の木簡に「裳上郡」と書かれ、置賜郡は『日本書紀』持統天皇三年(六八九)正月条に「優〓曇郡」と書かれている。国名ともなった出羽郡は、越後国の北方に突き出した出端(いでは)郡の意と解しうる。出羽の文字により、允恭朝に土産の鳥の羽根を貢上したことによるとの旧来の説もあるが、妥当性はないと考えられる。北方の鷲や鷹の羽が東北の出羽から産出したことは確かであろうし、書紀の斉明天皇六年(六六〇)阿倍比羅夫北航に際しての粛慎人との接触の記事にもみえるように、外来の鳥の羽が出羽で中継交易されたこともあろう。北方対外交流で出羽の港津が古くから重要な意味を持っていたことは、比羅夫の段階ですでに齶田(秋田)・渟代(能代)などの名が史上に表われることや、最初の来航以来たびたび渤海使が出羽に来着したことで明らかである。縄文晩期の亀ヶ岡式土器文化が特に出羽北部に顕著であったことにみられるように、縄文文化が発達していたが、稲作が伝わると弥生文化もその適地には定着していく。古代に最上・置賜から庄内地方に古墳が築営されるようになると、水田開発は一層進み、六世紀から七世紀の農村遺跡である山形県天童市の西沼田遺跡は、最上郡域になれば令制郡として十分対応しうる充実性を示すようになる。このような中で出羽国が置かれ、中心施設出羽柵が設けられると、柵戸が関東・信越から尾張までの国々から徴集されて配置され、一層、出羽開拓が進む。北から野代営(秋田県能代市)・秋田城(秋田市)・由理柵(秋田県本荘市)・雄勝城(同雄勝郡羽後町)・払田柵(同仙北郡仙北町)・城輪柵(山形県酒田市)などを中心として、令制経営が展開する。国府は最初庄内の最上川以南に、その後秋田城に置かれ、奈良時代末にまた庄内の最上川以北に遷った。やがて十一世紀には大在地勢力清原氏が成長してくる。国分寺は城輪柵近くにあったと認められるが、秋田城にも四天王寺があった。平安時代の『延喜式』の段階には、最上・村山・置賜・雄勝・平鹿・山本・飽海・河辺・田川・出羽・秋田の十一郡で、上国の遠国に位置づけられ、その公式駅路は、日本で唯一という最上・雄物川沿いの水駅路であった。式内名神大社の大物忌神社が一宮で、二宮は城輪神社、三宮は大物忌の対偶神の小(袁)物忌神社である。月山神も名神大社で、国魂神の伊〓波(出羽)神社はのち羽黒派修験の中心になる。『和名類聚抄』によると田数二万六千百九町余。荘園は南部内陸の屋代荘・寒河江荘、庄内の大泉荘・遊佐荘などが有名である。平安時代から、山寺の立石寺、寒河江の慈恩寺、象潟の蚶満寺などが名寺院であった。平泉藤原氏の郎従と『吾妻鏡』に記される河田・大河・秋田・由利・田河などの諸豪族の支配を経て、鎌倉幕府御家人の大江・安達・武藤・小野寺・松葉・中原・大井(小笠原)・橘・浅利などの地頭が入部し、安達氏は秋田城介になるが、国内は北条氏の直轄地化するところが増える。建武新政期には葉室光顕が国守となり、楠木氏も国内に地頭職を持った。南北朝時代に北畠顕信の活躍もあったが、やがて斯波兼頼が羽州探題として山形に入り、米沢には伊達氏が進出し、北羽では安倍安藤(安東)氏の勢力が南下し、山北には陸奥から戸沢氏が西漸してきた。戦国時代を経て大閤検地で伊達氏は陸奥に移され、小野寺氏が改易される。江戸幕府によって進められた転封策の結果、最上氏が元和八年(一六二二)一万石に減封、近江に移され、最上氏の所領の一部由利五万石に減封して移された本多正純がそれを拒否するなどのことがあったのち、上杉(米沢)・松平(上山)・鳥居(山形)・酒井(鶴岡)・戸沢(新庄)・佐竹(久保田)・六郷(本庄)・岩城(亀田)・仁賀保(象潟のち平沢)の諸氏が所領を与えられ、遅れて織田(高畠のち天童)・米津(長瀞)・酒井(松山)・生駒(矢島)の各氏も所領を得る。正保の『出羽国一国絵図』(『正保国絵図』)によると、置賜郡十八万石・村山郡三十三万七千六百十石四斗・最上郡三万六千百五十八石七斗・田川郡二万六千八百八十二石・櫛引郡六万八千八百二十九石一斗・遊佐郡四万六千二百四十三石九斗・由利領五万三千四百十七石九斗・雄勝郡三万三千百五十石五斗・平苅郡二万六千七百七十八石・山本郡六万六千五百七十一石五斗・豊島郡一万千九百九十石六斗・秋田郡四万九千百七十六石五斗・檜山郡一万四千七百十三石九斗、総高合九十五万千五百二十三石四斗である。特産は米沢の絹織、最上の紅花・青苧、庄内の米、秋田の米・杉・銀・銅などで、量に消長があるが、酒田・土崎・能代などの港から公営・民営によって、西廻りまたは東廻りの海運で上方や江戸に移出された。そして各河口港からは、移入された文物が河川の水運で内陸にもたらされ、中には陸奥に及ぶものもあった。封建支配体制の動揺でいわゆる藩政改革は各領で試みられるが、明和・天明期の上杉治憲(鷹山)、天明・文化期の佐竹義和らが成功した中興の名君といわれ、酒田の大地主豪商本間光丘は、町人にして、安永・天明期の酒井氏の財政改革において業績を挙げた。中期以後、各領にいわゆる藩校が設けられ、折衷学の米沢興譲館、古文辞学の鶴岡致道館、朱子学から折衷学の久保田明道(明徳)館などをはじめとして、地方文教の中心となった。また『おくのほそ道』にみられる蕉風俳諧の進展、阿仁銀山(秋田県北秋田郡阿仁町)への技術指導に関連して安永二年(一七七三)平賀源内が伝えた秋田蘭画の発達、天明初年に出羽に入り十数年後再来して秋田に骨を埋めた菅江真澄の考証紀行の記録、北羽の風土性を反映する安藤昌益・佐藤信淵・平田篤胤ら思想家の輩出も、出羽近世史に特筆すべきことである。幕末段階での諸領域は、米沢藩十八万石・上山藩三万石・山形藩五万石・天童藩二万石・新庄藩六万八千二百石・庄内(鶴岡)藩十四万石・松山(松嶺)藩二万五千石・本庄藩二万石・矢島藩一万五千石・亀田藩二万石・久保田(秋田)藩二十万五千石・秋田新田藩二万石であった。戊辰戦争には佐竹・酒井両軍を核に、勤王と佐幕の激戦があり、明治元年(一八六八)十二月地域区分としての羽前・羽後二国となった。戊辰戦争の戦後処置や廃藩置県の結果、米沢藩→米沢県→置賜県、上山藩→上山県、山形藩・長瀞藩→山形県、天童藩→天童県、新庄藩→新庄県、庄内藩→大泉藩→大泉県→酒田県→鶴岡県、松嶺藩→松嶺県→酒田県→鶴岡県などの段階を経て、明治九年八月山形県に、久保田藩→秋田藩→秋田県、岩崎藩→岩崎県、本庄藩→本庄県、矢島藩→矢島県、亀田藩→亀田県の段階を経て、明治四年十一月秋田県に統合された。
[参考文献]
『秋田県史』、『山形県史』、今村義孝『秋田県の歴史』(『県史シリーズ』五)、誉田慶恩・横山昭男『山形県の歴史』(同六)、新野直吉『出羽の国』(『古代の国々』三)、同『秋田の歴史』
(新野 直吉)


改訂新版 世界大百科事典
出羽国
でわのくに

旧国名。羽州。現在の山形,秋田両県。

古代

東山道に属する上国(《延喜式》)。北から東,南東部まで陸奥国に接し,陸奥国とともに奥羽(おうう)と総称され両国の一体関係は強かった。政治的には721年(養老5)以来陸奥按察使(むつのあぜち)の統轄下に属し,軍制上も陸奥多賀(たが)城のちには胆沢(いさわ)城に置かれた鎮守府の指揮下にあった。この地方が史上最初にあらわれるのは,658年(斉明4)越(こし)の国守阿倍比羅夫(あべのひらふ)の北航に際し齶田(あきた)/(あいた),渟代(ぬしろ)に郡(評)(こおり)を置いたという《日本書紀》の記事である。以来越の管轄下にあったらしく,708年(和銅1)に越後国は出羽郡を建てた。これが出羽(伊氐波(いでは))の地名の初見であり,越後国の北部に突出した出端郡の意と解される。〈出羽〉の文字によって允恭朝に鳥の羽を土地の産物として献上したことに由来を求める地名説話もあるが,史料的には根拠がない。当初現在の庄内地方を主たる郡域としたが,北方秋田方面までその延長上とされていたから,遠くかつ広くて掌握しにくかったらしく,712年9月に地域安定を理由に独立した出羽国が建置された。そして1郡1国である同国に10月陸奥国置賜(おきたま),最上(もがみ)2郡が割き加えられ,北陸道ではなく東山道に属した。国府はまず,現鶴岡市の旧藤島町辺に置かれ,733年(天平5)に秋田村高清水(たかしみず)岡(現,秋田市)に進出した出羽柵に移された。出羽柵は秋田城になるが,国府は奈良朝末の政情不安によって現在の酒田市北郊城輪柵(きのわのさく)遺跡の地に南遷した。この庄内の国府と秋田城,雄勝(おがち)城(横手盆地南部)は〈一府二城〉と称し古代出羽国経営の中心となった。国分寺は庄内にあり,秋田城には四天王寺があった。

 政治的にも軍事的にも陸奥の多賀城から指令を受けることが多かったので,759年(天平宝字3)雄勝城が築かれ雄勝,平鹿(ひらか)2郡が分割整備されると,陸奥国加美(かみ)から奥羽山脈を越え玉野(たまの)(尾花沢市)-避翼(さるはね)(舟形町)-平戈(ひらほこ)(金山町)-横河(湯沢市の旧雄勝町)-雄勝(羽後町)-助河(すけかわ)(横手市の旧増田町)と通ずる出羽山道駅路が開設された。道は究極的には秋田城を目ざすものであったが,平安時代になると水道駅路として完成された。《延喜式》によると最上(山形市)-村山(東根市)-野後(のじり)(大石田町)-避翼-佐芸(鮭川村)-飽海(あくみ)(酒田市の旧平田町)-遊佐(ゆざ)(遊佐町)-蚶方(きさかた)(にかほ市の旧象潟町)-由理(ゆり)(由利本荘市の旧本荘市)-白谷(しらや)(秋田市の旧雄和町)-秋田の駅順で,野後,避翼,佐芸,白谷は他国に類のない馬船兼備の水駅であった。《延喜式》によると郡は置賜,最上,村山,雄勝,平鹿,山本,田川,出羽,飽海,河辺,秋田の11郡で,出羽国府から京都まで調庸運送の公式日数は陸路で上り47日,空荷の下り24日,海路は52日である。878年(元慶2),939年(天慶2)に俘囚(ふしゆう)の乱もあったが,前九年の役で山北の俘囚主清原氏が強大になり,後三年の役で滅びると奥州藤原氏が出羽にも強い影響力を持った。やがて由利郡も置かれ源頼朝の奥入りを迎えた。
[新野 直吉]

中世

鎌倉期にも奥羽両国は同様の政治状況下におかれ,鎌倉幕府が国衙機構の実権を完全に掌握する。貴族が出羽守に任命されることがあっても,田数調査や寺社興行など出羽国の国家的行事は幕府が出羽国留守所に命じて取りしきった。同時に郡,荘園,保すべてに総地頭が任命され,各地における行政一般や軍事・警察・裁判上の重要な職権を与えられた。奥羽両国が守護不設置なのは,この官職的性格の強い総地頭が守護職権をも包摂していたためである。これらの職は関東御家人により独占され,出羽留守職の菅原氏については未詳であるが,例外的存在は由利維久ぐらいである。それ以外の初期の総地頭は,米沢盆地の3荘1郡や寒河江(さがえ)荘の地頭に大江広元,仙北郡に中原親能が任命されたのをはじめ,秋田郡・小鹿島(おがしま)の橘公業,平鹿郡の松葉助宗,大泉荘・海辺荘の武藤資頼,小田島荘の中条兼綱,大曾禰荘の安達盛長,成生(なりう)荘の二階堂氏等々,いずれも幕府の官僚系武士であった。彼ら自身またはその弟や次男は,ただちに地頭職を名字の地として,出羽国御家人の地位と新武士団を築いた。長井,大泉,小鹿島,小田島,平賀,大曾禰の各氏を代表とする。とくに1218年(建保6)安達景盛は秋田城介に任命され,名字とした。蝦夷に接する奥羽両国は新たに蝦夷島管轄の拠点とされたが,秋田城介はこの任務を出羽側で担当したとみられる。このような地頭の配置と支配機構の強化は,奥羽特殊地域観を助長し,基本税も依然として馬,砂金,布などが田率ごとに賦課された。莫大な実益を伴う地頭職は幕府の政変ごとに持主を交替し,鎌倉末期には幕府で専制権を握った北条氏に大半が集積される。奥羽両国は幕府支配組織のモデルと評価されるほど,鎌倉政権の重要基盤だったのである。先進文化が積極的に移入され,一宮鳥海・月山の両所や小鹿島赤神山の神祇崇拝,および山寺立石寺,羽黒山,秋田城古四天王寺の将軍家御願所指定などを通じて,出羽民衆の精神生活まで幕府支配は浸透したが,一方では蝦夷蜂起の動きも絶えなかった。

 鎌倉幕府滅亡後,建武政府は貴族の葉室光顕を出羽守兼秋田城介に任命し出羽国を掌握しようとしたが,光顕は横死した。かわって陸奥守兼鎮守府将軍北畠顕家,ついで同北畠顕信に奥羽併管を命じ,多少の効果をあげた。しかし南北両朝の対立によって,北朝足利方も奥羽併管の特設軍政官を派遣し,出羽でも南北両党はめまぐるしく激突した。足利方の担当官は奥州総大将斯波家長,石塔義房をへて,1345年(興国6・貞和1)奥州管領制に切り換えられる。南北両朝ともに,奥羽両国をひとつの広域行政区として支配しようとしたのである。だが観応の擾乱(じようらん)以後の政変により奥州管領は分裂し,56年(正平11・延文1)出羽一国を管轄対象とする羽州管領も成立したと伝えられる。初代管領は斯波兼頼で,やがて職制は羽州探題に切り換えられた。しかし羽州管領と羽州探題の存在を否定する説もある。91年(元中8・明徳2)暮に鎌倉府が奥羽を併管し,1399-1440年(応永6-永享12)稲村御所,篠川御所の管轄下におかれた。この内乱期から室町幕府支配の下で,郷村を名字とする数多くの土豪層,国人層が台頭し,守護大名的領主も出現する。庄内の大宝寺氏,仙北の小野寺氏,米沢・伊達の伊達氏,秋田・津軽の安東氏は,京都扶持衆にもなった。十刹諸山に指定された光明寺,勝因寺,崇禅寺,金剛寺,資福寺は彼らの勢力範囲に照応する。

 伊達氏,安東氏の勢力は奥羽両国にまたがっていたが,戦国期の争乱の中で各勢力の角逐はいっそう激化する。出羽北辺では,津軽から米代川河口の檜山(ひやま)に本拠を移した安東氏が,日之本(ひのもと)将軍を称して蝦夷島を管轄し,陸奥国比内,鹿角にも勢力を広げ,秋田湊安東氏を統合して,戦国大名秋田氏となる。出羽南辺では,米沢城に本拠を移した伊達晴宗が奥州探題にも任命され,羽州探題を自認する最上氏と戦国大名の覇を競った。庄内には越後上杉氏の勢力が侵入する。仙北では雄勝から平鹿に本拠を移した小野寺氏が戸沢氏,六郷氏らと抗争をくりかえし,由利には十二頭と称される国人勢力があった。彼らは中央政界の動向にも敏感であり,織田信長の天下統一時,秋田,戸沢,大宝寺,寒河江,伊達などの各氏はいち早く信長に鷹を献上している。1590年(天正18)豊臣秀吉の奥羽仕置では,87年関東奥羽惣無事令以後も法令違反の合戦を続けたにもかかわらず,出羽諸氏は陸奥諸氏ほど大幅な改易をうけなかった。最上,伊達両氏は領国内仕置権ともいうべき特別権限まで保証される。それ以外の諸氏も,領地の3分の1を太閤蔵入地に設定されながらも,仕置当時の勢力をほぼ承認され朱印状を交付された。秋田氏の管轄する蝦夷島が蠣崎氏管轄下に切り換えられ,浅利領陸奥国比内郡が秋田領出羽国秋田郡に正式に編入されたのも,このときである。豊臣政権下で,出羽国にも近世的秩序が形成されはじめることになる。
[遠藤 巌]

近世

大名配置

豊臣秀吉は1590年6月,奥羽の諸将に小田原参陣を命じ,8月10日,会津黒川城で奥羽検地の厳命を発した。検地奉行木村常陸介重〓(しげこれ),大谷刑部少輔吉継による〈出羽国御検地条々〉も同日付けでだされている。これによれば,検地は指出しの方法をとり,一定の換算率によって苅高を永楽銭の貫高にあらため,納入させるものであった。出羽地方に現在まで天正検地帳は残っていないが,その実施が現地の土豪たちに厳しいものであったことは検地反対一揆によって知ることができる。この一揆は庄内と仙北郡に起こった。庄内の検地は大谷吉継と上杉景勝によって行われたが,検地に反対する一揆勢は一時庄内の諸城を占領し,尾浦城も包囲される勢いであった。一揆の中核は武藤氏に仕えた地侍であったが,やがて上杉方に鎮圧されて庄内の武藤氏は滅び,庄内は上杉氏の所領となった。仙北一揆は同年10月,検地役人の大谷氏の配下を殺したことを口火として,小野寺領内の増田,山田,川連(かわつら)などの城主を中心として起こっている。この一揆勢も,やがて上杉軍によって制圧された。検地をもとに91年正月,石高による知行宛行(ちぎようあてがい)朱印状が出羽諸将に交付された。奥羽唯一の太閤蔵入地が秋田氏を代官として設置されたほか,南部の置賜は伊達氏より没収して蒲生氏に与えられ,村山,最上と仙北の一部は最上氏領,庄内は上杉領となり,また北部では秋田氏,戸沢氏,小野寺氏などがおもな大名であった。

 1600年(慶長5)の関ヶ原の戦は徳川家康の上杉討伐で始まったが,出羽では徳川方の最上軍と豊臣方の上杉軍との戦いとなって戦況は長びき,徳川大勝の関ヶ原の戦報によって終結した。関ヶ原の戦後,家康は上杉景勝の領地を120万石から30万石として,城下を米沢に移し,最上氏は村山,最上のほかに庄内と由利郡も手にした。

 さらに,上杉氏に味方した小野寺義道の領地を没収し,秋田,戸沢,六郷などの諸氏を常陸に移して常陸の佐竹義宣(よしのぶ)を出羽に国替させた。幕藩制下の新しい大名配置はかくして定まったのである。近世出羽の成立期でもっとも大きな事件は,22年(元和8)一族の内紛によって最上氏(57万石余)が改易となり,そのあとに諸大名が入部したことである。鳥居忠政(山形22万石),酒井忠勝(鶴岡14万石)をはじめ,戸沢氏(新庄),松平氏(上山)などであり,以後近世期の藩として山形,上山以外はそれぞれ幕末まで定着した。したがってこの地域のその後のおもな都市のほとんどは,近世初期の城下町として形成されている。国替のもっとも多かった山形藩は,最上氏以後元禄年間までに9回,その後幕末までに4回を数えた。

 近世初期には各藩とも開発が著しく進んだ。17世紀初頭に各藩とも総検地を実施して,実際の村高を把握したが,藩の実高は幕府の朱印高に対して大幅の増加をみている。例えば表高30万石の米沢藩の実高は51万石余,秋田藩(20万石)は実高30万石余を打ちだした。1647年(正保4)の出羽国絵図によれば,置賜,村山,最上,田川,櫛引,遊佐,油利,雄勝,平刈(平鹿),山本,豊嶋,秋田,檜山の13郡があり,石高の合計は95万石余で,その領域は佐竹(秋田),上杉(米沢),松平(山形),酒井(鶴岡)などのほか幕府代官領(11万石余),寺社領(1万7000石余)など14に色分けしているが,その石高合計は幕府への届高と同じである。

産業と交通

北部(現,秋田県)では米代(よねしろ)川流域の杉材が著名であり,院内銀山を中心に金銀山の開発が佐竹氏の入部以後急速に進んだ。米は出羽の産物の第一であるが,とくに庄内米が知られ,また羽州南部では最上紅花,青苧(あおそ),蠟,漆などが有名である。秋田杉はすでに豊臣期に軍用板として用いられ,出羽の産物のほとんどは北国海運あるいは西廻海運によって,上方・瀬戸内方面と結びついていた。米や大豆ははじめ敦賀,小浜に入港し,京都や大坂に入ったが,河村瑞賢による西廻海運の整備以後は下関を回って大坂,江戸に行くものが多くなった。最上紅花は京都西陣織の染料として,置賜や最上の青苧は奈良晒(さらし)や北陸の縮織の原料として移出された。出羽の特産物の多くは上方に移出されたが,その帰り荷として塩,古手,木綿,瀬戸物などの商品が移入され,西廻海運によって出羽の産業と上方の経済は密接な関係にあった。山形や秋田など城下町の有力商人に,堺や近江出身のものが多いのもそのためである。

 陸上の主要な街道は羽州街道で,諸大名の参勤交代にはすべてこれが使われた。この街道は奥州街道(仙台-松前道)から桑折(こおり)で分かれ,陸奥の七ヶ宿街道から金山峠を越えて出羽に入り,上山,山形,新庄,横手,秋田,大館を結んでいる。南下するほどこの街道を利用する大名は多くなるが,近世初頭,とくに佐竹氏が整備したところも多い。日本海に面する出羽地方から太平洋側に出るには,奥羽山脈を越えなければならないが,脇道として山形-仙台の笹谷峠越え,天童-仙台の関山峠越え,新庄-古口への堺田峠越え,角館-盛岡の仙岩峠越えなど,多くの横断道がある。日本海側にはほぼ南北に,奥羽三関の一つとされる念珠ヶ関(ねずがせき)から大山,酒田,秋田と結ぶ北国街道があるが,巡見使街道ともいわれ,危険なところも多いため利用する人は少なかった。

藩政改革

中期以後,各地に商品生産や流通が発達する一方で,藩財政の窮乏が深まり農村の荒廃も進んだ。これに対して,18世紀中ごろ以降に行われた米沢藩,秋田藩,庄内藩などの藩政改革は有名である。

 米沢藩では宝暦末年,郡代森平右衛門が財政の再建と農村の復興のために支配機構の改革などを試みたが,藩政内部の対立で失敗した。そのあとに断行した明和・安永の改革は,新藩主に15歳の治憲(鷹山)を迎え竹俣当綱(まさつな)を中心とする改革派グループによって進められた。その内容は大倹約令にはじまり,これまでの御用商人との縁を切ること,農村をはじめ領内各地に漆,楮(こうぞ),桑をそれぞれ100万本植えること,また縮織の技術を導入し,藩校興譲館を創設したことなどである。しかしこの第1次の改革は,天明の飢饉に遭遇したこともあって暗礁にのりあげた。その後天明の中断期をはさみ,いわゆる寛政の改革が実施された。治憲は隠退したが強力な後見者となり,執政は先に小姓頭で失職した中老莅戸(のぞぎ)善政が中心であった。改革は農村支配の整備のために代官制度を改革し,国産物の奨励を広くまた積極的に行い,とくに養蚕業の振興を図った。この改革は,農村の復興と財政の再建に多くの成果をあげたことから,この時期の改革の典型とも目されている。

 秋田藩でも1789年(寛政1)以後改革を開始した。まず藩制の刷新のため,新たに評定・財用の両奉行を置き,全体を統括する総奉行を設けた。また1781年(天明1)以後藩財政の再建のため国産物の増産をはかり,山林木山方,薪方を置き,銅山方を設けている。そこでのちの秋田杉の植林が行われ,大坂の銅商人大坂屋に経営を請け負わせる銅山改革が実施された。勧農政策としては,郡奉行を設置し,農村の復興のために諸産物を奨励したり,また荒廃田を再興し,新田開発を目的とする六郡開発令を出している。特産物の奨励には産物方支配人があたり,とくに養蚕業の発達を背景とした秋田畝織(うねおり)が知られる。その他この時期に著しい発達をみた産物に,川連漆器,能代春慶塗などがある。藩校の創設が企てられたのは1789年であるが,93年江戸の折衷学派山本北山を迎えて機構を整え,明道館(のち明徳館)ができた。

 庄内藩でも1767年(明和4)財政窮乏打開のため財政改革に着手した。豪農商の本間光丘(みつおか)が登用され,まず家中の会計整理をはじめ,安永および天明年間に〈御地盤組立〉という財政再建計画をだしている。しかしこの財政整理は農村の荒廃を救うことにならなかった。95年にはじまる改革は,改革御用掛竹内八郎右衛門,白井矢太夫を中心に行われ,その大綱は困窮農民の救済策や農業振興策など,農村の復興をはかる農政改革を重要課題とした。庄内藩の藩校致道館が開設されたのは1805年(文化2)で,祭司は寛政改革の執政白井であった。秋田藩の総奉行中山青峨が明道館初代祭酒であったが,そのことからも改革における藩校の位置が理解されよう。

幕末・維新

近世後期から幕末期の出羽諸藩は,北羽(現,秋田県)ではその変化が少ないが,南羽(現,山形県)ではかなりの変動をみている。とくに最上川中流部における幕領の増減と山形藩主の移動によるものである。村山郡の幕領は天明年間に約20万石となり,1798年(寛政10)に長瀞藩(1万1000石),1830年(天保1)に天童藩(2万石)ができ,山形には1767年(明和4)に秋元氏が入部し,1845年(弘化2)には水野忠精(5万石)に代わるなど,幕領諸藩領の錯綜がいっそう進んだ。幕末の出羽諸藩にはとくに目だった藩政改革はないが,小藩でも新庄藩の吉高勘解由(かげゆ)の改革,上山藩の金子清邦の改革などが注目される。また近世中後期の出羽出身の人物に北羽では佐藤信淵,平田篤胤などの日本的学者があらわれ,南羽では幕末に清川八郎や雲井竜雄など維新の志士を生んだ。戊辰戦争は,結局西南雄藩の政府軍と会津・庄内を中心とする奥羽越列藩同盟の戦いとなったが,出羽諸藩の中でも北羽の秋田藩は官軍につき,庄内藩軍との間に激しい戦いを交えた。しかし米沢藩,山形藩をはじめ,出羽諸藩の大部分は同盟軍となったが,政府軍の洋式軍備のもとに次々と降伏して,約6ヵ月の戦いは終結した。

 新政府は奥羽支配のために新たな国郡制を設け,1868年12月出羽国を羽前国,羽後国の2国とした。また戦争の論功行賞として,秋田,本荘などには賞典禄を与える一方,米沢,山形,庄内などの朝敵諸藩には領地没収,首謀者の斬罪などの処分を行った。また旧幕領と没収地に民政局を設置し,69年7月には酒田県を設置した。以後,全国的な廃藩置県をまたずに70年9月には山形県ができたが,71年7月の廃藩置県の断行により,羽前は8県,羽後は5県となり,まもなく統合して同年11月には,秋田県,置賜県,山形県,酒田県の4県となっている。現在の秋田県は同年に成立したが,現在の山形県が行政的に一つになるのは,3県が統合した76年であった。
[横山 昭男]

[索引語]
羽州 奥羽 多賀(たが)城 奥州管領 羽州管領 羽州探題 伊達氏 安東氏 最上氏 奥羽検地 検地反対一揆 大谷吉継 上杉景勝 仙北一揆 米沢藩 秋田藩 出羽国絵図 羽州街道 北国街道 森平右衛門 竹俣当綱 莅戸(のぞぎ)善政 本間光丘 致道館(庄内藩) 戊辰戦争 羽前国 羽後国 酒田県
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出羽国の関連キーワードで検索すると・・・
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検索コンテンツ
1. 出羽國(いでわのくに)
古事類苑
地部 洋巻 第2巻 169ページ
2. 出羽国画像
日本大百科全書
力がこの地に及んでいきつつあった。こうして712年出羽国が設置された。このとき、陸奥むつ国の最上もがみ・置賜おいたみの2郡(現山形県)を出羽国に編入し、先に設け
3. 出羽国
世界大百科事典
を完全に掌握する。貴族が出羽守に任命されることがあっても,田数調査や寺社興行など出羽国の国家的行事は幕府が出羽国留守所に命じて取りしきった。同時に郡,荘園,保す
4. でわのくに【出羽国】画像
国史大辞典
かわる生活文化が営まれてきた。令制出羽国の建置は和銅五年(七一二)九月で、その時の国域と定められた越後国出羽郡は和銅元年九月に設けられ、また同五年十月出羽国に合
5. でわのくに【出羽国】山形県
日本歴史地名大系
近世までの出羽国はほぼ現在の山形県と鹿角市・鹿角郡を除く秋田県を併せた地域にあたり、北・東は陸奥国、南は同国および越後国に接し、西は日本海に面していた。明治元年
6. 出羽国
日本史年表
712年〈和銅5 壬子〉 9・23 越後国出羽郡を割き、 出羽国 を置く(続紀)。 712年〈和銅5 壬子〉 10・1 陸奥国最上・置賜両郡を 出羽国 に編入(
7. 出羽國(でわのくに)【篇】
古事類苑
地部 洋巻 第2巻 169ページ
8. 出羽國俘囚反亂 (見出し語:出羽國【篇】)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 750ページ
9. 出羽國司任限 (見出し語:出羽國【篇】)
古事類苑
政治部 洋巻 第1巻 1291ページ
10. 出羽國國産 (見出し語:出羽國【篇】)
古事類苑
地部 洋巻 第2巻 197ページ
11. 出羽國夷俘反亂 (見出し語:出羽國【篇】)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 763ページ
12. 出羽國方言 (見出し語:出羽國【篇】)
古事類苑
人部 洋巻 第1巻 834ページ
13. 出羽國檢地 (見出し語:出羽國【篇】)
古事類苑
政治部 洋巻 第4巻 31ページ
14. 出羽國海運 (見出し語:出羽國【篇】)
古事類苑
政治部 洋巻 第4巻 1393ページ
15. 出羽國石代直段 (見出し語:出羽國【篇】)
古事類苑
政治部 洋巻 第4巻 288ページ
16. 出羽國軍糧 (見出し語:出羽國【篇】)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 975ページ
17. 出羽國鎭兵 (見出し語:出羽國【篇】)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 275ページ
18. 出羽國陰陽師 (見出し語:出羽國【篇】)
古事類苑
方技部 洋巻 第1巻 11ページ
19. 出羽國馬 (見出し語:出羽國【篇】)
古事類苑
動物部 洋巻 第1巻 113ページ
20. 出羽蝦夷 (見出し語:出羽國【篇】)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 711ページ
21. 配流出羽國 (見出し語:出羽國【篇】)
古事類苑
法律部 洋巻 第1巻 795ページ
22. 配流出羽國 (見出し語:出羽國【篇】)
古事類苑
法律部 洋巻 第2巻 292ページ
23. 陸奥出羽按察使 (見出し語:出羽國【篇】)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 51ページ
24. いではのくに【出羽国】
国史大辞典
⇒でわのくに
25. でわのくに(うごのくに)【出羽国(羽後国)】秋田県
日本歴史地名大系
出羽国〓焉」とあり、直ちに最上・置賜二郡(現山形県)をも出羽国に編入し、一国としての形を整えた。以来近世末までの出羽国は、現
26. でわのくにあきたはんりょうけいちょうはちねんいっき【出羽国秋田藩領慶長八年一揆】
国史大辞典
慶長八年(一六〇三)八月から十月にかけて秋田藩領秋田郡の大阿仁(秋田県北秋田郡)・比内(同)地方におこった一揆と、同年十月仙北郡六郷におこった一揆をいう。関東
27. でわのくにあきたはんりょうてんぽうごねんいっき【出羽国秋田藩領天保五年一揆】
国史大辞典
出羽国仙北郡前北浦地方で天保五年(一八三四)正月におこった一揆と、翌二月、隣接する奥北浦地方におこった一揆の二つの総称。前年の天保四年は大凶作で、そのきざしは
28. 出羽国一府二城兵員表(元慶3年)[図版]画像
国史大辞典
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29. でわのくにかみのやまはんしゅ【出羽国上山藩主】 : 藤井氏/(1)
国史大辞典
(1)出羽国上山藩主  利長の子信一は関ヶ原の戦の功により、常陸国土浦三万五千石を与えられる。三代信吉の母は徳川家康の異父妹で、信吉は上野国高崎、ついで丹波国
30. でわのくにかみのやまはんりょうえんきょうよねんかみのやまいっき【出羽国上山藩領延享四年上山一揆】
国史大辞典
延享四年(一七四七)五月出羽国村山郡上山藩領で、城下の町民と領内農民が同時に起した騒動。上山藩松平氏三万石は、元禄十年(一六九七)入部当時から財政難であったが
31. でわのくにかんえいじゅうねんしらいわごういっき【出羽国寛永十年白岩郷一揆】
国史大辞典
寛永十年(一六三三)十月、出羽国村山郡白岩郷(山形県寒河江(さがえ)市)の百姓が領主酒井長門守忠重の苛政を江戸幕府に越訴し、その結果、忠重は所領を改易され、越
32. 出羽国郡郷一覧1[図版]画像
国史大辞典
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33. 出羽国郡郷一覧2[図版]画像
国史大辞典
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34. 出羽国水駅関係図[図版]画像
国史大辞典
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35. でわのくにつるおかはんしゅ【出羽国鶴岡藩主】 : 酒井氏/(1)
国史大辞典
(1)出羽国鶴岡藩主  左衛門尉酒井氏。忠次の嫡子家次が天正十八年(一五九〇)家康の関東移封に際し下総国碓井(臼井)三万石を領し、ついで上野国高崎五万石を経て
36. でわのくにつるおかはんりょうかんえいくねんいっき【出羽国鶴岡藩領寛永九年一揆】
国史大辞典
寛永九年(一六三二)十月(一説には二月)、出羽国庄内平野北部の遊佐郷・荒瀬郷(山形県飽海郡遊佐町・八幡町、同酒田市)の農民たち二百八十余人が大挙して隣領の出羽国
37. でわのくにつるおかはんりょうてんながんねんいっき【出羽国鶴岡藩領天和元年一揆】
国史大辞典
天和元年(一六八一)五月、鶴岡藩領庄内平野中央部に位置する四ッ興屋村・京田村・沼口村三ヵ村の代表半兵衛が、江戸幕府巡見使に、藩の郡代高力忠兵衛の苛政を越訴した
38. でわのくにつるおかはんりょうてんぽうじゅういちねんてんぽうはんたいいっき【出羽国鶴岡藩領天保十一年転封反対一揆】
国史大辞典
天保十一年(一八四〇)十二月、江戸幕府の転封令に反対して、出羽国庄内の鶴岡藩領民がおこした一揆。転封反対一揆の代表例。天保十一年十一月一日、幕府は出羽国鶴岡藩主
39. でわのくにてんどうはんしゅ【出羽国天童藩主】 : 織田氏/(一)
国史大辞典
(一)出羽国天童藩主  信長の第二子信雄は、信長の死後清洲城を与えられて、尾張・伊賀・南伊勢五郡を領したが、天正十八年(一五九〇)小田原征伐のあと、秀吉から三
40. でわのくにてんりょうきょうほうはちねんしっちそうどう【出羽国天領享保八年質地騒動】
国史大辞典
享保八年(一七二三)、出羽国村山郡天領漆山代官所管轄の長瀞村(山形県東根市)の村民が、幕府が享保の改革の際出した質地の流地禁止令を盾にとって田畑の取り戻しを要
41. でわのくにてんりょうてんぽうはちねんむらやまそうどう【出羽国天領天保八年村山騒動】
国史大辞典
天保八年(一八三七)出羽国村山郡内の天領柴橋代官所管轄の白岩山内で起った騒動。出羽国村山地方は天保の初年より米穀不足のため各地でしばしば打ちこわしが発生してき
42. でわのくにてんりょうてんめいがんねんむらやまうちこわし【出羽国天領天明元年村山打毀】
国史大辞典
天明元年(一七八一)出羽国村山郡寒河江(さがえ)で起った打ちこわし。天明元年の気候は平年並であったが、夏に入り大雨が続き洪水に見舞われたため米不足が心配される
43. でわのくにてんりょうほかけいおうにねんうちこわし【出羽国天領他慶応二年打毀】
国史大辞典
慶応二年(一八六六)出羽国村山郡の天領・藩領の入り組支配地で起った打ちこわし。兵蔵騒動といわれる。慶応二年長州戦争のために諸物価が暴騰し不穏な状況が生じている
44. でわのくにてんりょう・やまがたはんりょうきょうわがんねんいっき【出羽国天領・山形藩領享和元年一揆】
国史大辞典
享和元年(一八〇一)六月末から七月初旬にかけて出羽国村山郡内の天領および天童・山形藩領で起った一揆。享和元年村山一揆ともいう。前年秋郡内が不作で米価が高騰(前
45. でわのくにはたもといこましちぎょうしょえんぽうしちねんいっき【出羽国旗本生駒氏知行所延宝七年一揆】
国史大辞典
出羽国由利郡矢島(秋田県由利郡矢島町)の生駒氏領で延宝五年(一六七七)から八年にかけておこった訴願行動も含めた同七年の一揆をいう。この事件については当時の確実
46. でわのくにまつやまはんしゅ【出羽国松山藩主】 : 酒井氏/(2)
国史大辞典
(2)出羽国松山藩主  出羽国鶴岡藩主酒井氏の支封。忠勝の死後、正保四年(一六四七)第三子忠恒が墾田二万石を分給されたのに始まる。忠恒の孫忠休が若年寄を長くつ
47. でわのくにやまがたはんしゅ【出羽国山形藩主】 : 水野氏/(四)
国史大辞典
(四)出羽国山形藩主  忠政の男忠守を初代とする。忠守は、はじめ織田信長に属し、のち徳川家康に仕え、二代忠元は秀忠に仕え三万五千石。三代忠善は、寛永十二年(一
48. でわのくにやまがたはんりょうほうりゃくごねんうちこわし【出羽国山形藩領宝暦五年打毀】
国史大辞典
宝暦五年(一七五五)出羽国村山郡山形藩の城下山形町などで、凶作で米価が暴騰したため起った打ちこわし。宝暦五年出羽国村山地方は、五月以降大雨による洪水と冷害のた
49. でわのくによねざわはんあずかりちぶんきゅうさんねんいっき【出羽国米沢藩預地文久三年一揆】
国史大辞典
文久三年(一八六三)十月、米沢藩が預かっていた置賜郡屋代郷(山形県東置賜郡高畠町)で私領編入反対をめぐっておこった一揆。屋代郷は近世初期から米沢藩領であったが
50. 出羽国略図[図版]画像
国史大辞典
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すでに締結されている売買・貸借・寄進などの契約について、無条件で、もしくは条件を付して、契約関係の継続、もしくは破棄を宣言する法令。一般には契約関係の破棄宣言のみを意味すると理解されやすいが、当代のさまざまな契約形態に対応して除外規定も少なくない。また、契約の破棄を
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