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朝幕関係

ジャパンナレッジで閲覧できる『朝幕関係』の国史大辞典のサンプルページ

国史大辞典
朝幕関係
ちょうばくかんけい

〔鎌倉時代―建武政権〕

治承四年(一一八〇)八月、伊豆に挙兵した源頼朝は、以仁王の令旨によって、東国における荘園・公領の沙汰を認められたと主張している。その令旨は、壬申の乱における天武天皇に倣って、高倉上皇・安徳天皇・平清盛によって構成される現王朝を倒し、みずから即位して新朝廷を樹立しようというものであった。このような令旨を正当性の根拠とする頼朝の政権は、京都朝廷との妥協の余地を持たず、東国における独立国家の形成を志向していた。鎌倉を本拠とした頼朝は、同年十二月、東国武士たちによって「鎌倉の主」に推戴され、ここに東国独立国家が成立した。しかし頼朝は一方では挙兵に先立って、後白河法皇(平氏に院政を停止され、その監視下に置かれていた)から平氏追討を命ずる院宣を密かに与えられていた。そして養和元年(一一八一)には源氏・平氏が朝廷に並び仕える案を法皇に密奏するなど、法皇との接触を保っていた。これより先、高倉上皇・清盛はすでに没し、寿永二年(一一八三)七月、平氏が安徳天皇を奉じて都落ちするに及び、頼朝が現王朝打倒を主張した以仁王の令旨を掲げることは無意味となった。平氏都落ちの直後に朝廷では、頼朝を勲功第一と評価し、法皇は使者を鎌倉に派遣した。十月には寿永二年十月宣旨によって、頼朝の東国支配は朝廷に公認されるとともに、東国独立国家は消滅した。頼朝は朝廷に対する謀叛人の立場から解放され、朝廷のもとに編成され、朝命によって平氏を追討した。文治元年(一一八五)平氏の滅亡後は、頼朝・義経兄弟の対立が激化したが、義経の要請を容れた法皇が、頼朝追討の宣旨を出した結果、頼朝は朝廷に強硬な要求を行うことになった。すなわち一つは義経追捕と反乱防止のための、いわゆる守護・地頭の設置であり、今一つは右大臣九条兼実を内覧(のち摂政)に推薦し、議奏公卿を推薦するなどの政治改革によって、後白河院政を制肘しようとしたことであるが、後者はほとんど効果をあらわさず、法皇の独裁は継続した。さて義経は逃れて奥州藤原氏を頼ったが、文治五年、藤原泰衡が義経を討ち、頼朝がその泰衡を滅ぼすに及び、朝幕関係を緊張させていた義経問題は解決した。頼朝は陸奥・出羽両国の地下管領を行い、奥羽を幕府の直轄下に編入した。翌建久元年(一一九〇)頼朝は上洛して法皇と対面し、日本国総追捕使として諸国守護の権限を確認された。ここに朝廷(院政)のもとで、頼朝やその後継者が、御家人を率いて国家の軍事・警察を担当する体制が確立したのである。建久三年に法皇が没してのちは、関白九条兼実・内大臣源通親が一時的に朝政の実権を握ったが、建仁二年(一二〇二)通親が没すると、政権は後鳥羽上皇に移った。鎌倉幕府では頼朝のあとを継いで鎌倉殿となった源頼家の地位は不安定で、建仁三年、北条時政は頼家を退けてその弟実朝を擁立し、みずから執権として幕政の実権を握った。後鳥羽上皇は実朝を交渉の対象として朝幕の融和を図り、叔父であり近臣である坊門信清の娘を実朝の妻として鎌倉に下した。このようにして実朝を近臣化し、実朝を介して地頭の個別的停止など、公家側の要求を幕府に認めさせようとしたのである。しかし幕府の実権を握っている北条氏らは、御家人の権益を擁護して上皇の意向に従わなかったため、朝幕関係は次第に円滑を欠くようになった。承久元年(一二一九)朝幕の仲介に重要な役割を果たして来た実朝が殺されると、上皇は討幕を決意し、承久三年には承久の乱を起こしたが敗北した。幕府は後鳥羽上皇ら三上皇を流し、仲恭天皇を退け後堀河天皇を立て、その父後高倉法皇に院政をとらせた。このように承久の乱後も院政は続いたが、その機能は衰え、院政が果たして来た国家的機能の一部は、幕府が掌握するようになった。たとえば僧兵対策では、本来は朝廷が収拾案を出し、幕府は朝命を受けて防御のために武士を派遣するのが通例であったが、嘉禎元年(一二三五)には収拾案までも幕府が用意し、解決に成功した。皇位に対する幕府の干渉についていえば、承久の乱後、幕府は天皇の廃立を行なっているが、これは合戦による緊急措置であり、幕府が皇位選定権を掌握したことを意味しない。仁治三年(一二四二)四条天皇の没後、土御門上皇の皇子邦仁と順徳上皇の皇子忠成が皇嗣の候補者となり、前摂政九条道家の推す忠成の方が有力であった。しかし幕府は承久の乱の際に討幕に積極的であった順徳上皇の皇子の即位を嫌い、強引に邦仁(後嵯峨天皇)を即位させた。これに対して貴族間に強い反発が見られたのは、なお幕府が皇位選定権を握っていなかったことを示している。順徳上皇の外戚であった道家は、後嵯峨天皇即位問題で幕府の不信を買い、寛元四年(一二四六)北条時頼が執権に就任した際、道家の子で前将軍であった九条頼経が、時頼排斥の陰謀に関与していたのを理由に、鎌倉を追われると、道家もこれに坐して、朝幕の仲介にあたる関東申次の職を奪われて失脚した。幕府の信頼のあつい西園寺実氏が代わって関東申次となり、以後は西園寺氏がこれを独占した。これを契機に幕府は朝政への発言を強め、摂関の交代にも干渉した。幕府の要求で院評定衆が設置されたが、それは治天の君に対する独立性が強く、かつ人選には幕府の承認が必要であった。後嵯峨上皇の治世下に、皇子の後深草・亀山両天皇が相ついで即位したが、後嵯峨上皇はその没後の治天の君の選定について、自己の意志を示さず、幕府に一任する旨の勅書を幕府に遣した。この結果、幕府は治天の君や天皇の選定権を掌握するに至ったが、選定には関東申次の意向が重要な意味を持った。こうして後深草天皇系の持明院統と、亀山天皇系の大覚寺統との対立が始まった。朝廷の伝統的な権限の一つに外交権があるが、外交の窓口である大宰府は、鎌倉時代初期以来御家人武藤氏が抑えており、実質的には幕府が外交を主導していた。それでも文永五年(一二六八)以来の蒙古との交渉では、蒙古の国書は幕府を通じて朝廷にもたらされ、朝廷ではそれに対する対応を議している。しかし幕府は蒙古に対する朝廷の返書を握りつぶしたり、ついには朝廷に無断で蒙古の使者を斬ったりして、朝廷の外交権を奪取した。本所一円地の住人に対する動員、本所一円地への兵粮米賦課など、従来の幕府の本所領不介入の原則を破棄する政策をも、朝廷は無条件で承認しているのである。しかし幕府による皇位選定を不満とした後醍醐天皇は、元弘三年(一三三三)鎌倉幕府を滅ぼし、建武新政を実現させた。新政は公家一統の政治とはいうものの、足利尊氏を中心として武家政治が復活する可能性を内蔵していた。すなわち六波羅探題を攻略した尊氏は、その跡に奉行所を設けて武士の勲功申請を受け付け、降伏する武士を受け容れるなど、武士たちとの間に主従関係を形成しつつあった。鎌倉幕府攻めには、尊氏の子で四歳の義詮が参加しただけであったが、さらに細川和氏を送ってこれを補佐させ、鎌倉攻略の真の功労者である新田義貞を追い出し、その上、弟直義は相模守として後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に下った。それは鎌倉幕府の親王将軍と執権に似ており、鎌倉では旧幕府の体制が残存し、東国武士は直義に帰服し、建武政府の権力は及ばなかった。雑訴決断所では旧幕府の職員が実務を担当していたし、国司と並んで守護が置かれるなど、鎌倉幕府の体制が温存されていた。このような状況の中で、建武二年(一三三五)中先代(なかせんだい)の乱を機に、尊氏が鎌倉で朝廷に反旗をひるがえすことになったのである。
 以上は鎌倉時代から建武政権に至る朝幕関係の概観であるが、次にこれらを通じての問題点の若干をとり上げよう。寿永二年十月宣旨については、この宣旨によって頼朝が朝廷から東国行政権(国衙在庁指揮権)を与えられ、ここに東国政権としての鎌倉幕府が成立したとする佐藤進一の見解がある。また承久の乱について、豊田武・石井進・田中稔は、武士階級、特に東国御家人の進出、武家政権の発展として評価している。これに対して上横手雅敬は、十月宣旨については、治承四年に東国独立国家を樹立した頼朝が、寿永二年に朝廷から東国支配権を認められるようになったのは東国独立国家の消滅であり、権力としてはむしろ後退と見る。承久の乱についても、上横手は貴族・社寺と荘園体制の安泰、幕府の相対的保守化を指摘し、東国御家人の進出は武士階級の進出とさえいえるかどうか、と疑問を述べている。建久元年の頼朝上洛の評価についても、同様の見解の差違が見られる。頼朝が権大納言・右大将に任じられ、ほどなく辞退したのは、永原慶二によれば「王朝の侍大将となる道」を拒否し、「武家政権の首長としての在り方」を明示したことになるが、上横手にとってこの時点は、まさしく頼朝が日本国総追捕使という王朝の侍大将の地位を得、院政支配下の日本国の体制に完全に編入された時期なのである。概して佐藤らの幕府と武士に対する積極的評価に対して、上横手は消極的、懐疑的で、日本国の体制に編成される武家政権という見方が顕著である。それは上横手が朝廷のもとでの幕府という立場をとり、朝廷と幕府を合わせた日本国を強調するからである。ただし上横手は、佐藤が寿永二年十月宣旨を東国政権としての鎌倉幕府成立の画期とするとともに、頼朝がはじめて朝廷から公権を与えられた時期ともしている点を重視し、東国(幕府)の独自性を主張する立場と、日本国の統一性を主張する立場とは二者択一ではなく、総合的把握が必要だと述べている。なお北条時頼の時期について、上横手は幕府側から朝廷への干渉強化、権力の多元的分裂から一元化への最初の段階と見るのに対し、佐藤は逆に王朝への不干与、公武相互の自立としている。しかし佐藤も次の北条時宗の時期については王朝権力吸収の志向、統一権力の追求と見ており、両時期の関係は明らかでない。
[参考文献]
三浦周行『日本史の研究』一・新輯一、竜粛『鎌倉時代』下、佐藤進一『日本の中世国家』(岩波書店『日本歴史叢書』)、森茂暁『南北朝期公武関係史の研究』、同『鎌倉時代の朝幕関係』、上横手雅敬『日本中世政治史研究』、同『鎌倉時代政治史研究』、同「鎌倉・室町幕府と朝廷」(『日本の社会史』三所収)
(上横手 雅敬)

〔室町時代―戦国時代〕

室町・戦国時代の朝幕関係は、政治情勢や社会情勢の変化に伴い次の(一)―(五)のように変動している。(一)足利義満の北山殿期。明徳三年(一三九二)の南北朝合一の前後から、足利義満を頂点とする幕府権力は朝廷(従来の北朝)に対して一層優越するようになる。翌四年親政を開始した後小松天皇の綸旨は、大炊寮供御人の諸役納入を督促したような皇室領関係の事例を残すだけで、天皇の権限に属していた権門・寺社に対する人事権・安堵権などはすべて義満の掌握に帰した。明徳三年ころから寺社本所領に対する安堵が院宣・綸旨に代わって義満の御判御教書で発給されるようになったことはその表れである。また同四年幕府が有名な土倉・酒屋役徴収の法令を発して従来権門・寺社に属した土倉・酒屋への課税権を接収したのも、朝廷の権限に対する幕府の優越性を示すものであった。このような優越性は、伝奏の活動の変化にも表われている。義満は応永元年(一三九四)将軍職を嫡子義持に譲って太政大臣となり、翌年辞官・出家、応永四年北山第に移るが、これと並行して、本来院政を行う上皇または親政期の天皇に近侍して奏聞・伝宣にあたる公卿の職であった伝奏が、もっぱら義満に仕えて、その仰せを奉じた伝奏奉書を発するようになった。さらに廷臣の叙位・任官の内定が義満自筆の小折紙で示され、後小松天皇は関与しない場合もあった。ここに義満の権力は実質上公武の頂点に位し、その権門・寺社などへの命令がそのまま最終決定を意味することとなる。もっとも、このような事態は義満の権勢に依存して立身や所領保全を図る廷臣たちによって助長された傾きがある。かくて義満は法皇を模した儀礼を行うとともに、恒例・臨時の国家的祈祷に伝奏奉書を発して祈祷の主催権を掌握する。かつ周知のように日明貿易を開始して外交の主導権を掌握し、明国皇帝の冊封を承けて「日本国王」と称する。さらに彼は応永十四年夫人日野康子を後小松天皇の准母として「北山院」の女院号宣下を受け、翌年子息義嗣を親王にならって内裏で元服させた。まもなく義満は急死したが、晩年の行動などから推して、彼には皇位を奪う意図があったという説が行われている。(二)足利義持期。将軍義持は宿老斯波義将の建議で、朝廷から義満に贈った太上法皇の尊号を辞退した。一方義持は将軍の推挙した武士の叙位・任官の口宣案に袖判を据えたが、朝廷の政務には父義満ほどには干渉せず、後小松天皇の綸旨が皇室領の廷臣への安堵をはじめ、寺院修造・寺領安堵・御祈願寺設定などに出された。応永十九年称光天皇への譲位とともに、皇室領関係や顕密寺院などには後小松上皇の院宣による安堵・裁定がしばしば行われた。ただし義持の意向を受けた伝奏の活動が継続し、また応永二十一年、称光天皇即位式の内弁が義持の推挙により急遽変更されたように、室町殿の意志が朝儀に影響する場合もあった。応永三十二年天皇と上皇との間に疎隔を生じたとき、義持が上皇の意を受けて和解を斡旋しており、幕政の安定は、室町殿に朝廷内部の問題の調停者としての役割をももたらした。(三)足利義教期。正長元年(一四二八)正月、義持が没し、弟義円が還俗し義宣(のち義教)と名乗り将軍家を嗣ぐが、後小松上皇は義持の葬儀に参会した公卿の院参を止め、義宣の推挙した僧職や代始改元の申請に難色を示すなど、朝廷の存在を誇示しようとした。しかし義宣は同年七月称光天皇の崩ずる直前に伏見宮彦仁王を皇嗣に擁立し、上皇の猶子として皇位を嗣がせるなど、幕府の主導権強化に努め、廷臣も義宣の意を迎えるようになった。永享五年(一四三三)八月義教の執奏により『新続古今和歌集』の勅撰が命じられたように、朝廷の行事にも義教の意向が反映し、後小松上皇はもはや院宣をほとんど発しないまま、同年十月世を去った。義教期に院宣・綸旨が乏しいのは、所領を武士に蚕食される権門・寺社が室町殿義教の権力に依頼したためでもあった。ところが義教は恐怖政治による専権維持を図り、廷臣にも容赦ない弾圧を加え、永享六年六月までに義教の咎めを受けた廷臣は前関白近衛良嗣以下五十八名といわれる。また同九年義教の従兄弟聖芳を皇室の菩提所泉涌寺の住持職に推挙したように、義教は皇室の専決人事にも介入した。ただし永享の乱に際し足利持氏治罰の綸旨を申し請けたことは、次代以後の治罰の綸旨の先駆けとなった。(四)足利義勝・義政期。嘉吉の変後、幼将軍が二代続き、管領が幕政を代行するが、この時期には、将軍家御判御教書の代行というべき綸旨が大量に発行される。治罰の綸旨は、赤松満祐追討以下、嘉吉三年(一四四三)大和の筒井順永ら討伐、宝徳元年(一四四九)出雲国人沢氏追討などに及び、かつ文安四年(一四四七)上杉憲実の関東管領辞職の慰留のような室町政権の人事にまで綸旨が発せられた。また権門・寺社領の安堵や押領停止などにも綸旨が頻発された。これらの綸旨は主として幕府側の要請によるとはいえ、幕府がその威信低下を朝廷の権威によって補強しようとしたことは掩いがたい。長禄二年(一四五八)成人した将軍義政が御判御教書を発すると、権門・寺社領安堵などの綸旨は一旦見られなくなるが、応仁の乱勃発後、忠節と祈祷を促す院宣が興福寺に出され、さらに文明九年(一四七七)畠山義就追討、同十九年(長享元、一四八七)多武峰衆徒追討などに綸旨が発せられた。さらに公家領・寺社領安堵にも後花園上皇院宣、ついで後土御門天皇綸旨が出されて、将軍家御判御教書や幕府奉行人奉書と並行するようになる。これらの院宣・綸旨には「任〓武家下知〓」として幕命を追認したものを含むが、それにしてもこれは義教期までには見られなかった事象である。寺社への祈祷要請も、もっぱら伝奏奉書によった義満期・義教期と異なって朝廷の祈祷は綸旨・院宣で行われ、朝廷の祈祷の主催権はかなり回復した。さらに有力寺院の造営・勧進・住持職勅許、地方寺院の勅願寺指定などにも綸旨がしばしば発行された。伝奏が後土御門天皇の内意を奉じて、禁裏御料所の未納年貢を義政に督促した例や、鴨社禰宜改替の件につき義政の口入を排した例などもあり、伝奏の活動も、主に室町殿に奉仕した義教期までと異なり、上皇・天皇と室町殿との双方に奉仕し、両者間の折衝を取り次ぐ役割となった。(五)戦国期。この時期にも朝廷からは幕府の裁決を追認した綸旨や、有力寺社の造営・再興を命じる綸旨なども発行されているが、大いに目立つのは女房奉書の頻発であり、なかでも天皇が女房奉書を伝奏に宛てて下し、幕府に対する要求を伝達させることが多くなった。その内容は即位要脚・酒麹役朝要分などの督促や、禁裏御料所・公家領・寺社領の押領停止要求を主とし、幕府の支配力低下による幕府財政の逼迫や、武士の荘園侵略の激しさを如実に反映している。したがって幕府が叡慮を奉じて守護に違乱停止を命じた例なども見られるが、その実効性はおぼつかなかった。また幕府の節会要脚進献が多年滞ったため永正十四年(一五一七)正月、十四年ぶりに節会が行われたことや、大永元年(一五二一)三月、後柏原天皇が践祚後二十二年にしてようやく即位式を挙行できたことは、単に皇室の財政困難のためだけでなく、細川政権に支えられて畿内を支配するにすぎなくなった将軍家および幕府の弱体化の結果であった。享禄・天文年間(一五二八―五五)には、将軍義晴の近江滞在や三好政権の成立などがあり、幕府の動揺はますます増大するが、朝廷では天文五年(一五三六)大内義隆の即位料献納により後奈良天皇の即位式が行われ、同十二年の織田信秀の禁裏修理料献上など、諸大名その他よりの献納により皇室財政はある程度挽回した。さらに永禄三年(一五六〇)には毛利元就・隆元父子の即位料進献により、正親町天皇の即位式が行われている。なおこの時代も諸大名の叙位・任官は将軍の執奏による慣例がほぼ踏襲されているが、大内義隆と毛利父子の即位料献上の賞としての任官はいずれも直接交渉により行われ、形式的に幕府に図ったにすぎない。また永禄改元は伝奏の無沙汰により幕府に三ヵ月以上も通達されなかった。このような事例は、室町幕府の実権喪失と朝廷の権威上昇の結果にほかならない。
[参考文献]
臼井信義『足利義満』(『人物叢書』三八)、奥野高広『皇室御経済史の研究』、小川信『足利一門守護発展史の研究』、二木謙一『中世武家儀礼の研究』、今谷明『室町の王権』(『中公新書』九七八)、伊藤喜良『日本中世の王権と権威』、上島有「室町幕府文書」(『日本古文書学講座』四所収)、佐藤進一「足利義教嗣立期の幕府政治」(『日本中世史論集』所収)、富田正弘「室町時代における祈祷と公武統一政権」(日本史研究会史料研究部会編『中世日本の歴史像』所収)、同「嘉吉の変以後の院宣・綸旨」(小川信編『中世古文書の世界』所収)、同「室町殿と天皇」(『日本史研究』三一九)、脇田晴子「戦国期における天皇権威の浮上」(同三四〇・三四一)
(小川 信)

〔安土桃山時代〕

織田信長にとって朝廷との最初の大きな関係は、永禄十年(一五六七)十一月九日付の正親町天皇綸旨を受けたことであろう。その綸旨で天皇は、信長に対して美濃での戦勝を褒め讃えた上で、禁裏御料所(美濃・尾張両国分)の回復と皇子誠仁(さねひと)親王の元服や禁裏御所修復の費用の献上を命じた。信長は翌年九月、足利義昭を第十五代将軍に奉じることと、前年の正親町天皇綸旨の内容を実現することを名目に上京した。上京後、天下統一を進めつつあった信長は、敵対する大名に加担して権力を振るおうとした将軍足利義昭を天正元年(一五七三)に追放した。信長は、将軍義昭を追い出したあと、残された権威である天皇・朝廷との関係を整理し始める。天正三年十一月、信長は公卿・門跡や寺社に新地を寄進したが、これは荘園制が崩壊していく中で、公家たちが所領を喪失し、窮乏して地方に下向することも多く見られた状況下で実に効果的であった。この新知行充行は、公家側には主従制的な奉公を、門跡や寺社には国家安全の祈祷を信長の側から要求する意味合いともなった。また、禁裏御料の回復や御所の造営、誠仁親王の元服、元旦の節会などの朝儀の復興を、信長はつぎつぎに実施していった。このような信長の朝廷策に対し、朝廷は最大の武器である官位叙任によって信長に応えた。確実なところでは、天正三年十一月、信長による新地充行のあったその月、朝廷は権大納言・右近衛大将に任じた。さらに翌天正四年十一月には、正三位・内大臣に任じた。毛利氏のもとに下った室町将軍足利義昭の官位は従三位・権大納言であったから、信長は官・位ともに将軍を上回ったことになった。そして天正五年十一月には、従二位・右大臣になり、さらに同六年正月、正二位に昇ったが、なんとその四月に信長は右大臣・右大将を辞官した。信長の辞官は何故であろうか。信長とすれば、かつて戴いた権威の一つ足利将軍より以上の官位をすでに獲得し、みずから将軍以上の権威を身にまとえば、さらに官位に固執する必要はなく、次には官位制度の枠組みから飛び出して、自由な立場から権力を形成していくことを目指したのであろう。右大臣を辞める際、信長は「万国安寧、四海平均」を目指すと書いている(『兼見卿記』)。この構想を進め、天下統一の過程で、天正十年六月、信長は本能寺の変に倒れる。
 後継者争いに勝利を収めた羽柴秀吉は、天正十年十月大徳寺での信長の葬儀を主催したが、その翌年、参議・従四位下平秀吉の名が『公卿補任』に見出せる。平信長の後継者を意識したのである。さらに天正十三年三月九日に内大臣に任官したが、この段階まで平姓を称した。この内大臣任官にあたっては、これまで関白左大臣の地位にあった二条昭実が左大臣を辞して、内大臣近衛信輔(信尹)を左大臣に任じ、内大臣の官を空け、これに秀吉を任じたのである。近衛信輔は関白をも望んだため、二条昭実と争うことになった。この裁定は秀吉に持ち込まれ、秀吉は二条昭実を辞めさせ、みずから関白になることで調停した。しかし、藤原氏以外の関白の任官例は一切ないので、秀吉は近衛信輔の父前久の猶子となって、七月十一日藤原姓となり関白の地位についた。関白になった秀吉はさらに翌天正十四年に極官である太政大臣となり、天下人にふさわしい氏姓を創始し、豊臣秀吉となる。太政大臣の任官例は少なく、江戸時代二百六十余年間を通して、五摂家の当主のべ五十六人中で七例にとどまっている。以上のように秀吉は、積極的に官位上昇を求めた。その理由の第一は、秀吉が尾張の百姓出身でさしたる家系を持たなかったため、武力で勝るほかに、有力な諸大名の中で一段高い格式を、古代以来の律令官位制という伝統的な制度の中で確立させる必要があったことである。この官位制度の序列の中に、足利氏・織田氏というかつての武家の権力者を従え、現在の豊臣政権を補強する徳川・宇喜多・上杉・毛利の有力大名を従え、五摂家を含めたすべての身分の最上位に関白・太政大臣豊臣秀吉が位置したのである。しかも天正十六年、京都に新築した秀吉の荘厳な居所聚楽第に、みずから擁立した後陽成天皇を迎え、徳川家康以下の諸大名に忠誠を誓わせた。これは、豊臣政権確立の儀式に天皇を立ち会わせたと見ることができよう。秀吉が関白・太政大臣の地位についた二つ目の目的は、伝統的に国家の中で機能した関白・太政大臣の権能に関わることであった。個々の領主(大名や国人など)が各地域で農民を支配している、その支配領域を超越して、村・郡・国の単位で全国的な統治を、秀吉は関白・太政大臣の官職を通して行おうとしたのである。卓抜した武力や経済力を前提に、諸大名と主従関係を結んでいっただけではなく、秀吉は、関白・太政大臣の地位に立って、国家の命令として諸政策を推進することが、天下統一には有効であると考えたのである。国家単位で進めた政策として、郡絵図・御前帳の提出、人掃令、惣無事令を念頭に置くことができよう。以上のように、豊臣政権は天皇・朝廷や律令制的な官位制度の中に積極的に入り込み、その極官を占めることで身分序列の頂点に立ち、かつ国家的機能を利用する方式をとったことに特徴を見出すことができる。

〔江戸時代〕

これに対し、徳川政権は朝廷や官位制度から一定の距離を置き、朝廷を統制・編成して国家権力の一部に含み込ませた。この場合の朝廷とは、天皇や公家、門跡寺院や大神社、さらには律令制的な制度も含めた広い意味を持つ。幕府が国家支配の上で朝廷に担わせた役割とは、(一)将軍や東照権現の権威化を果たすこと、(二)官位叙任を通じ諸身分編成に機能すること、(三)元号制定や宮号宣下をし、また国家安全や将軍の病気平癒のために仏教・神道・陰陽道を駆使して祈願を行う宗教的機能を果たすこと、(四)神社支配の吉田家・白川家や陰陽道支配の土御門家など、家職をもつ公家たちが本所として、身分統制の機能を果たすこと、(五)親王や摂家出身の門跡は、天台・真言・浄土・修験の諸宗寺院編成をし、また祈祷にあたること、であった。これらおよそ五つの役割を、幕藩制国家の中で果たすべく、朝廷は存続のための経済力を幕府から与えられたが、軍事力・行政力はなかった。
 慶長十八年(一六一三)六月、幕府によって出された『公家衆法度』五条や元和元年(一六一五)の『禁中并公家諸法度』十七条は、幕末期まで続く、幕府による朝廷統制の根本原則になった。ところで朝廷からは、天皇の勅許・綸旨・宣旨あるいは太政官符などが、前代より引き続き発給されてきた。時には、天皇の綸旨が主体的に発せられ、しかもある程度の効力をもっていたことを示した例もある。寛永四年(一六二七)七月、幕府は大徳寺や妙心寺の入院出世がみだりになっていることを咎め、これに抵抗した沢庵宗彭らを処罰し、元和元年以来、幕府の許可なく着した紫衣(しえ)を剥奪した(紫衣事件)。この処置は、幕府が大徳寺・妙心寺両派を統制する目的のほかに、幕府法度(『禁中并公家諸法度』)と天皇綸旨とが抵触している状態を打開し、幕府法度の上位・優先を明確に示す目的があった。このように幕府法度上位が徹底された上で、しかし勅許や太政官符は依然発給され続けた。たとえば元号が改められる際、形式的には五畿内諸国にあてて改元の宣旨が朝廷内で調えられるが、それで新元号が全国に知らされるのではなく、まず改元が幕府に届けられ、その上で幕府から全国に周知徹底されるのである。このように行政力のない朝廷の発した太政官符や宣旨は、実効力をもたなかったが、太政官符によって東照社に東照宮の宮号が与えられたように、幕府にとって意味のある時に限り、効力をもたされたのである。この法制面での押えは幕末まで続き、幕府による朝廷統制の基本的枠組の主要な一つとなる。
 幕府の朝廷統制の基本的枠組をなす二つ目のものとして、統制機構について述べる。幕府の役職である京都所司代・京都町奉行・禁裏付武家とその輩下の者たちが、武力を背景にして朝廷を取り巻く暴力装置や財政管理機構として機能していた。武家による機構と連動しながら、朝廷内で機能したのが関白(摂政)・三大臣と武家伝奏(てんそう)・議奏であった。関白(摂政)は五摂家からのみ、また三大臣も圧倒的に摂家から選任された。いわば摂家の偏重と呼ばれる状態で、たとえば摂家に準じる家格の清華(せいが)家九家(歴代当主は近世期間でのべ百六人)から近世期に左大臣になった例を『公卿補任』で求めると、わずか十例のみで、しかも一~二年の短期間の任官でしかなかった。このような摂家の偏重は『禁中并公家諸法度』を通して幕府が意図したものであった。しかしながら、寛永六年、武家伝奏中院(なかのいん)通村のほかは摂家をはじめ堂上の誰もが知らされない形で後水尾天皇が突然譲位したことは、幕府に朝廷統制機構の引締めを必要とさせた。寛永七年七月十三日、明正天皇即位に伴い、わずか八歳の女帝を支える朝廷の要として、摂家に対して朝廷のまつりごとの沙汰を正しく、厳しく行うべきことを明示した。のみならず九月には、幕府は武家伝奏中院通村を罷免させた上で、摂家たちを摂政一条昭良邸に呼び寄せて、幕府の上意を伝えた。上意の内容は、遠国にある幕府から禁中向きの統制は無案内になる、したがって摂家が天皇・上皇に異見を上申し、これまでのまつりごとが退転しないよう、ならびに公家衆家々の学問や法度支配が相違なく行われるようにと命じ、もし無沙汰ならば摂家の越度(おちど)になる、というもので、大御所秀忠・将軍家光の命として伝えられた。幕府の朝廷統制に反発して行われた寛永六年の後水尾天皇の突然の譲位こそが、逆にこれを契機に、幕府をして摂家重視の朝廷統制機構を確立させたのである。この摂家による統制を補完したのが二名の武家伝奏である。『禁中并公家諸法度』第十一条に、関白と並んで武家伝奏の命に従わざるものを流罪に処すとあるように、幕府は武家伝奏の権限保証をしている。京都所司代の邸に赴き、毎日のように連絡を取りながら、幕府の指示を受けつつ、堂上公家や地下(じげ)の者たちを管理・統制する役割を担わされていた武家伝奏が、たとえば後水尾天皇譲位の際の中院通村のような行動をとることは、幕府には決して容認されるものではなかった。武家伝奏は慶長期から存在したが、その後その任務には二つの及ばぬ点が生じ始めた。一つは、その任務があくまで朝廷の表向きのことがらに限定され、奥向きつまり天皇の「御前之儀」には届かなかった点。二つには、その役割があまりに繁多になった点である。この二点を解決するために設置されたのが議奏である。寛文三年(一六六三)十歳の霊元天皇即位に際して、養育係として幕府の指示で四人の年寄衆が置かれ、寛文十一年以降は、天皇や若い側近の行動を強く統制する役割を果たした。貞享三年(一六八六)に、年寄衆は議奏の名称に統一され、武家伝奏の繁多な職務を補佐するとともに、天皇側近の管理統制を担った。武家伝奏と議奏はともに幕府から役料を受け、議奏歴任者の中から後任武家伝奏を選任することが多かったように、相互補完して摂家(関白・三公)を支え、朝廷内にラインを形成して、京都所司代などの武家を背景に、朝廷統制機構として機能した。朝議には関白・三公・武家伝奏・議奏の十名余の公家のほかは、親王も百余家の堂上公家も参画できなかった。寛政三年(一七九一)の尊号事件で動揺した時を除いて、寛永七年以降幕末に至るまで、関白・三公・武家伝奏・議奏による幕府の朝廷統制のための機構は機能したと見てよかろう。このラインや押えの武士たちの存在は、天皇・上皇や公家たちの行動を大いに規制した。
 天皇の行幸は、天正十六年に後陽成天皇が豊臣秀吉の待つ聚楽第に行幸した例や、寛永三年に後水尾天皇が、上洛した将軍家光や大御所秀忠の待つ二条城に行幸した例がある。天皇の乗る鳳輦に向かい、跪き額突く武士や町人の姿が行幸図に見出されるように、天皇のもつ権威が、鳳輦とおごそかな公家の行列となって市中や社会の中に、広く示されることは、天皇の権威の一人歩き、自立につながる。幕府が国家支配の上で天皇に担わせた機能に限定するためにも、天皇の権威の自立・拡散を封じた。天皇の行幸は、後水尾天皇の二条城行幸のあと、小規模ながら二度は行われた模様である。すなわち、寛永十七年三月、明正女帝は父である後水尾上皇の仙洞御所に行幸し、五日間とどまった。これは、約一ヵ月前から武家伝奏を通して江戸に伺い、細々と行うという条件で容認された。その後、慶安四年(一六五一)二月に、後光明天皇が後水尾上皇に「朝覲の行幸」を行なった。これは内々にことが進められ、事前に幕府の許可を得ていなかった可能性がある。その後には、禁裏炎上などのやむを得ぬ時のほか、天皇の行幸は幕府によって事実上停止された。貞享四年、譲位した霊元上皇の強い要望で、東山天皇即位に伴う大嘗会(大嘗祭)再興が幕府によって容認された際、大嘗会を構成する重要儀式である禊行幸をとり行うこともあわせて要望したが、幕府はこれに反対した。禊行幸の不許可は、元文度以降の大嘗会でも貫かれた。行幸そのものが、幕府には決して容認できぬものとされたのであろう。行幸の禁止がその後も引き続いたことは、明和事件の際の山県大弐に対する死罪申し付けの理由の中にも見出せる。山県大弐が、現在の天皇は「禁裏行幸もこれ無く囚れ同前之由」と雑談したことも罪状とされ、大弐の尊王の立場からも、天皇行幸の不許可が語られていた。この行幸の禁止は、幕末まで続く。
 江戸幕府の朝廷統制の基本的枠組は、寛永期に確定してから幕末まで機能し続けたが、そのもとで、朝廷の存在は時代とともに徐々に変容を遂げていった。その変容の過程は、大きく二つの時期を画期として捉えることができる。第一の画期は、将軍でいえば四代家綱から五代綱吉にかけての時期、朝廷では霊元天皇の時期にあたる。そして尊号事件のあった寛政期、すなわち松平定信の時期を第二の画期として捉えることが可能である。
 第一の変容は、国内外の平和と安定という状況が前提になった。『武家諸法度』第一条が将軍綱吉によって「文武忠孝を励し、礼義を正すべき事」と改められた(天和三年(一六八三))のに象徴されるように、国内外の平和状況下、武士にまず第一に求められるものが、武道(弓馬の道)ではなく、忠孝や礼義となったのである。三代将軍までの軍事指揮権に頼った権力編成論理ではない、「平和」な時代に相応した論理により秩序維持を図り、よりいっそう将軍権威を高めるために、幕府は天皇や朝廷の近世国家にもつ儀礼上の存在意義を必要とした。朝廷側でも霊元天皇が朝廷儀礼や朝儀の復興に積極的であった。石清水放生会(延宝七年(一六七九))が二百十四年ぶりに再興されたほか、大嘗会(貞享四年、二百二十一年ぶり)・賀茂葵祭(元禄七年(一六九四)、百九十一年ぶり)などの再興が実現した。霊元天皇と側近の公家たちの間には「朝廷復古」という言葉に集約される気運の盛り上がりが存在し、それがこの時期の朝儀の復興につながったともみられる。このような霊元天皇らの動きに対して、左大臣近衛基煕は、当時の朝廷は関白の下知で決定することが稀になっており、その上、関白・三公など摂家の承諾なきことが、霊元天皇の叡慮であるからと治定され、あるいは武威を軽んずることにことよせて決定されることがしばしばであり、関白の官は形骸化している、と認識していた。幕府の朝廷統制機構とくに関白の権限を守ろうとする近衛基煕の動きもあって、霊元天皇や側近による「朝廷復古」は、幕府によって阻止された。貞享三年の霊元天皇譲位に際し、幕府は天皇の側近を退け、あらためて寛永期以来の幕府の朝廷統制機構、すなわち関白・武家伝奏・議奏によって「諸事相談」するように命じた。この後は、「朝廷之御為之事ハ勿論大樹様(将軍のこと)御為」を志向した近衛基煕・家煕らを中心にして、将軍権力に朝廷権威を協調させる体制が維持されていった。
 前述の第一の変容の時期以降、幕府と朝廷の協調体制の続く中、幕府による山陵修理(元禄十―十二年)や禁裏御料の増献(宝永二年(一七〇五))、あるいは閑院宮創設(宝永七年)や甲子革令に伴う上七社や宇佐宮・香椎宮への奉幣使再興(延享元年(一七四四))などがなされた。この間、公家の旧家復興や新家設立要求の結果、公家の絶対数が著しく増加した。寛延三年(一七五〇)の段階で、堂上の公家数は百三十三家を数えるが、新家はその半分を占める。すなわち、新家による公家の倍増である。新家の中には三十石三人扶持という少禄の公家も数多く含まれていた。宝暦年間(一七五一―六四)、武士と同様に年貢米収入を財源とした公家たちもまた財政窮乏に陥った。少禄の公家のみならず、摂家の九条家も、家領を返納して金二万両を拝借することを幕府に願ったほどである。また、公家たちの行動にも、公家の義務である禁裏小番を怠って街中を徘徊するような乱れが出、関白・武家伝奏らの統制していた秩序は弛緩した。宝暦事件は、徳大寺公城の家来竹内式部に学んだ天皇側近の公家たちが、桃園天皇に『日本書紀』などを進講したのに対し、式部門下の公家たちを関白・三公・武家伝奏らが処分した事件(宝暦七年)である。式部を尊王思想家として、この事件は尊王思想への弾圧であると第二次世界大戦前から評価されてきたが、それと同時に、関白・武家伝奏・議奏のラインを維持し、再確立しようとした摂家たちによる秩序回復のための処罰であったと見る必要もあろう。宝暦十二年七月十二日、桃園天皇の突然の死は、関白らごく一部の者を除いて秘密にされ、九日目の七月二十一日になってようやくその死が朝廷内に知らされた。その間、関白らは次の天皇を姉である後桜町女帝にすることについて、幕府に内慮を伺い、その返答(同意)を待っていたために秘喪となったのである。かつての後光明天皇の突然の死の時と同様に、依然、幕府の朝廷統制の根幹、天皇を誰にするかの内慮伺いは機能していた。
 しかし、前述した変容の第二の画期となる尊号事件では、朝廷の統制機構と内慮伺いの制度は危機に瀕した。安永八年(一七七九)の後桃園天皇の死後、二回目の秘喪によって後継者となった光格天皇は閑院宮典仁親王の実子であった。天皇は、実父でありながら三公より座位が低くなる(『禁中并公家諸法度』第二条「一、三公之下親王云々」)閑院宮典仁親王に対する太上天皇の尊号宣下を望み、幕府に内慮伺いをした。松平定信はこれを拒否して、関白鷹司輔平に伝え、関白は天皇や側近たちを抑えた。しかし、鷹司輔平が関白を辞任した寛政三年八月以降、新関白一条輝良や同年任じられた武家伝奏正親町公明、議奏中山愛親(なるちか)らは、尊号宣下要求を復活させ、参議以上の公卿の群議を背景にして幕府に圧力をかけ、またもや同意が得られないことを知ると、尊号宣下強行を企てた。幕府は、朝議に加わることのなかった多数の公家たちによる群議という方法が取られたこと、内慮伺い後に幕府の意志を無視しようとしたこと、あまつさえ公家たちを統制すべき武家伝奏・議奏が要求の首謀者になったことから、首謀者に閉門などの処罰を加えて、幕府の統制の基本的枠組の堅持を図った。このような力による処罰が行われたということは、第一の変容以降、幕府の主導のもとで将軍権力の補強のために朝廷の権威を協調させてきた体制の終焉を意味した。
 この第二の変容後、文化・文政期(十九世紀)以降、朝廷の権威は協調の枠から逸脱し、自立の途を歩み始める。吉田家や白川家など家職をめぐる争論が宝暦期の公家の財政窮乏の中で活発化し、その後も広く全国の中小神社神職の組織化を競い合い、その結果、朝廷の存在を広く社会に浸透させることとなった。公家の家業をめぐる活動や門跡の富突(とみつき)興行・名目金(みょうもくきん)貸付けなど、朝廷側の社会への働きかけがあったことと同時に、社会の側も、内憂外患と呼ばれる国家的な危機の切迫する状況の中で、権力機能の衰えだした幕府に代わる権威として天皇・朝廷を意識し、求め始めたことも考えなくてはなるまい。朝廷権威の自立と浮上は進み、幕末に至る。幕末の政治情勢の中で、幕府の朝廷統制の基本的枠組はこわれる。すなわち、法制面では、安政元年(一八五四)に幕府は、諸国寺院の梵鐘を銃砲に改鋳し海防強化を図るにあたって、朝廷に太政官符を発してもらい、諸国寺院に命じる形式を整えた上で、幕府から触が出された。その後、次第に勅許や宣旨が一定の政治的意味や効果を持ち始め、明治維新に向かった。朝廷統制機構については、安政五年に条約調印勅許をめぐり、公家の群参が生じて、二百数十年続いた朝議の慣行を動揺させた。ついで、文久二年(一八六二)十二月、朝廷に国事御用掛が設置され、朝議決定の中に青蓮院宮尊融入道親王(翌年還俗して中川宮朝彦親王)が加わり、はじめて朝議に親王の参画がなされた。さらに文久三年二月の国事参政・国事寄人の設置は、短期間とはいえ、より下級の公家たちの朝議参画の機構改変となった。天皇の行幸については、同じ文久三年三月と四月に、攘夷祈願のため、そして大政委任の象徴作りのために、賀茂社と石清水八幡宮への行幸が、ほかならぬ幕府の奏請によって行われ、孝明天皇の乗る鳳輦の後ろには将軍以下諸大名が供奉したのであった(石清水八幡宮行幸の際には将軍は不参)。同様に、内慮伺いの制度も、幕府と朝廷の政治的逆転の中でもはや意味を失った。かくして幕府の朝廷統制の基本的枠組が瓦解し、近世の国家権力は解体して王政復古という形の明治維新を迎える。
[参考文献]
『講座前近代の天皇』二、辻達也編『日本の近世』七、久保貴子「天和・貞享期の朝廷と幕府」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』別冊一四)、高埜利彦「江戸幕府の朝廷支配」(『日本史研究』三一九)、同「禁中並公家諸法度についての一考察」(『学習院大学史料館紀要』五)、田中暁竜「江戸時代議奏制の成立について」(『史海』三四)、平井誠二「江戸時代の公家の流罪について」(『大倉山論集』二九)、藤田覚「寛政期の朝廷と幕府」(『歴史学研究』五九九)、本田慧子「近世の禁裏小番について」(『書陵部紀要』四一)
(高埜 利彦)
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朝幕関係の関連キーワードで検索すると・・・
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1. ちょうばくかんけい【朝幕関係】
国史大辞典
さて義経は逃れて奥州藤原氏を頼ったが、文治五年、藤原泰衡が義経を討ち、頼朝がその泰衡を滅ぼすに及び、朝幕関係を緊張させていた義経問題は解決した。頼朝は陸奥・出羽
2. いしんすうでん【以心崇伝】画像
国史大辞典
一方また、家康の意をうけて、古書の蒐集・謄写などの文芸方面にも活躍し、さらに朝廷にもしばしば出入し、朝幕関係の交渉にも重要な役割を果たした。寛永十年正月二十日江
3. いたくらしげのり【板倉重矩】
国史大辞典
増された。ついで寛文五年(一六六五)老中に起用され、二万石加増。同八年京都所司代に補せられ、朝幕関係の融和に努力をはらった。同十年江戸に帰り、老中に再任された。
4. 板倉重宗
日本大百科全書
1619年(元和5)父勝重かつしげの後を継ぎ、父の声名を上回る名所司代となる。在任中は幕藩体制確立期にあたり、朝幕関係において幕府の威信を高めつつ平和的維持に努
5. 一絲[文献目録]
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『沢庵和尚と一絲国師』松田奉行(著刊)『一絲和尚』徳富蘇峰『一絲和尚』徳富蘇峰『一絲和尚と朝幕関係』辻善之助『一絲和尚と朝幕関係』辻善之助『一絲と白隠』肥後和男
6. えど・とうきよう【江戸・東京】東京都
日本歴史地名大系
これも天保改革後に絵師たちが描いた流行神錦絵の延長線上に位置付けられるものである。以後も対外関係や朝幕関係にかかわる風刺画などが出版されている。二百数十年間にわ
7. 王政復古(日本)画像
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外国に対応する日本の国家的統一、つまり、支配者は朝廷(天皇)なのか幕府(将軍)なのか、さらには、朝幕関係のあり方、幕府政権の立て直しなどの具体的な政治課題が登場
8. 王道
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わが国では江戸時代の朱子学者にも受け入れられ、山崎闇斎あんさいは尊王斥覇そんのうせきはを唱えた。朝幕関係については、初めは新井白石あらいはくせきのように幕府の立
9. 大江広元
世界大百科事典
90年(建久1)に頼朝に従って上洛すると,そのまま京にとどまり,明法博士,検非違使となって,朝幕関係の安定化に努めた。頼朝の死後は,政子の信任を得て,北条氏を中
10. 和宮
世界大百科事典
熾仁(たるひと)親王と婚約したが,日米修好通商条約の勅許問題や,将軍継嗣問題によって悪化した朝幕関係を融和するために,60年(万延1)徳川家茂へ降嫁するように幕
11. 和宮降嫁
日本大百科全書
日米修好通商条約の調印と、紀伊家の徳川慶福よしとみ(のちの家茂)の将軍継嗣けいし決定などにより生じた朝幕関係の悪化を修復するため、大老井伊直弼いいなおすけの側近
12. かっしざつろく【甲子雑録】
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その他風聞書・張紙などを編年体に編集したもので、編者が論評を加えている記録もあって、京坂の世相を中心としての朝幕関係や庶民生活を見る上で貴重な記録である。巻十四
13. 甲子夜話
日本大百科全書
20年間書き続けたが未完成に終わった。巻ごとに述斎の校閲を受けたという。述斎からの聞き書きも多い。内容は宮廷、朝幕関係をはじめ、信長、秀吉、家康以下の徳川将軍、
14. 兼宣公記
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兼宣は後円融天皇の外戚にあたり,武家伝奏の役も務めて朝廷と幕府の連絡にもあたったので,当該時期における朝幕関係を知ることができるよい史料である。東洋文庫に自筆本
15. かまくらじだいけんむせいけん【鎌倉時代―建武政権】 : 朝幕関係
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さて義経は逃れて奥州藤原氏を頼ったが、文治五年、藤原泰衡が義経を討ち、頼朝がその泰衡を滅ぼすに及び、朝幕関係を緊張させていた義経問題は解決した。頼朝は陸奥・出羽
16. 管見記
日本大百科全書
全巻コロタイプ複製された。ほかに諸伝本が各所に伝わっている。平安末期より室町時代に及ぶ有職故実ゆうそくこじつ、朝幕関係等の貴重資料である。名和 修
17. 京都守護職始末 1 旧会津藩老臣の手記 256ページ
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しれない。 本書の史眼は、朝廷と幕府との関係に限られている。諸藩や志士の動向をあつかっても、朝幕関係の関連からとりあげられ、したがって藩の内部の変動や、下級藩士
18. 清原宣賢(きよはらのぶかた)
日本大百科全書
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19. 光格天皇
日本大百科全書
ょう天皇の尊号を贈ろうとして幕府に承認を求めたが拒否され、ついに実現せず(尊号一件)、一時、朝幕関係が緊張した。陵墓は京都市東山区後月輪のちのつきのわ陵。竹内 
20. こうぶがったいうんどう【公武合体運動】
国史大辞典
を果たしていた。ところが、嘉永六年(一八五三)のペリー来航以来の対外問題の発生は、このような朝幕関係を変化させた。幕閣は、前例をやぶって事態を朝廷に報告したが、
21. 公武合体論
日本大百科全書
あった。ところが大老井伊直弼いいなおすけの専断調印後の権力政治、安政あんせいの大獄などにより朝幕関係は険悪化したが、井伊時代に緊張緩和の礎石として画策された和宮
22. 孝明天皇[文献目録]
日本人物文献目録
天皇勅詠を島津斉興公父子に賜はりし事実』市来四郎『孝明天皇と山陵の復活』雨宮義人『孝明天皇と朝幕関係の変転』久保田収『孝明天皇に関する御事蹟』大原重朝『孝明天皇
23. 後鳥羽天皇
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討幕のためではなく,武者の世には帝王にも武芸のたしなみや軍事力が必要だと考えたためである。 朝幕関係は最初は円滑であったが,実朝は実権を持たず,執権北条氏は上皇
24. ごほういっき【護法一揆】
国史大辞典
五右衛門である。信越土寇蜂起(新潟県分水騒動)は廃仏問題と新政府による人民課税の重圧、さらに朝幕関係が加わり、五年発生した。首謀者は安正寺住職月岡帯刀、会津藩士
25. ごみずのおてんのう【後水尾天皇】
国史大辞典
陵は京都泉涌寺山内にあって、月輪陵と称する。天皇の在位時は、徳川幕府の創業期にあたり、時に新しい朝幕関係の確立を目指した徳川幕府は、元和元年七月『禁中并公家諸法
26. ごみずのおてんのう【後水尾天皇】
日本架空伝承人名事典
法名は円浄。八〇年八月一九日、八五歳にて没。天皇の在位時は徳川幕府の創業期にあたり、幕府は新しい朝幕関係の制度化を図るため、一六一五年(元和一)に「禁中并公家中
27. さかいただかつ【酒井忠勝】
国史大辞典
漢の書を編纂させる一方、天海の大蔵経開版や隠元の黄檗山の造立を援助した。大名間の信望あつく、朝幕関係の円滑化にも努力した。家光の信頼も深く、「恩賜もまた数多なり
28. さよのしょう【佐用庄】兵庫県:佐用郡
日本歴史地名大系
佐用庄を九条家に与えている。当時鎌倉幕府将軍であった藤原(九条)頼経の実父道家に敬意を表し、朝幕関係の修復を図ろうとしたものと考えられる。建長二年(一二五〇)一
29. 渋柿
世界大百科事典
容も信頼すべき貴重なものである。ことに(3)は《吾妻鏡》の逸文である。編者の意図は京・鎌倉の朝幕関係の中で生まれた治政の要道となるものを収録したのであろう。万治
30. しぶがき【渋柿】
国史大辞典
ことに(三)は日次記部分をも含めて『吾妻鏡』の逸文であることが確かである。編者の意図は京・鎌倉の朝幕関係の中で生まれた治政の要道となるものを収録することにあった
31. じょうやくちょっきょもんだい【条約勅許問題】
国史大辞典
天皇が和親条約の調印を認めたのは、老中首座阿部正弘が炎上した内裏の新造営に朝旨を奉じて尽力し、朝幕関係は近年になく融和していたことが挙げられる。翌二年九月幕府が
32. すけかつきょうき【資勝〓記】
国史大辞典
幕府との関係を窺わせる記事も多い。とりわけ寛永七年から同十六年まで九年間武家伝奏を務めたため、朝幕関係に関する興味深い記事が豊富である。欠逸年月が多いことは残念
33. せきやどはん【関宿藩】
国史大辞典
もって老中にむかえられ、安藤信睦(信正)とともに公武合体説を唱え和宮降嫁を実現させた。広周らはこれにより朝幕関係を円満ならしめようとしたが事実はこれに反し、文久
34. そんごう‐じけん[ソンガウ‥]【尊号事件】
日本国語大辞典
重んじる立場から強く反対し、同四年(一七九二)天皇もこれを断念し、幕府批判の公卿が処罰された。これらは朝幕関係にひびを入れる原因となり、幕府側では松平定信の老中
35. 太平記 115ページ
日本古典文学全集
康仁親王立坊に際し東宮大夫となる。内大臣実衡息。元徳二年(一三三〇)権大納言。父没後、関東申次として朝幕関係を処理。幕府滅亡後、西園寺家の権威は失墜し、その頽勢
36. 太平記 529ページ
日本古典文学全集
ったことから、幕府の信任を得た一門。幕府の権威を背景に代々太政大臣を輩出し、関東申次を務め、朝幕関係の調整にあたった。公宗のとき、幕府が滅亡して建武新政が始まり
37. 沢庵
世界大百科事典
年間,権勢の喧噪を避けて,郷里出石の宗鏡寺に隠棲し,読書三昧に入った。だが,27年(寛永4)朝幕関係が一時に緊張した紫衣(しえ)事件が起こり,大徳寺が幕府によっ
38. たけのうちしきぶ【竹内式部】
国史大辞典
武家政権の成立を合理化し敬幕論を随伴するものであったのに対して、式部のそれは、斥覇論を伴うものであった点で朝幕関係認識の一つの新しい段階を象徴するものとみること
39. ただかこうき【忠香公記】
国史大辞典
あって、いずれも両巻すべてが機密の記事であることを示している。忠香が内大臣に任じられたのは、朝幕関係が切迫しようとする安政五年三月で、翌六年三月左大臣に転ずるが
40. つちみかどけきろく【土御門家記録】画像
国史大辞典
知る基本資料であり、また近世公家社会の生活・文化をみるうえでも記事にとみ、特に『泰重卿記』は、江戸幕府創業期の朝幕関係を伝える好資料である。これをさかのぼる安倍
41. 天明の大火
世界大百科事典
(寛政12)ごろという。また禁裏の〈御造営(復旧)〉問題をめぐって〈朝廷復古〉の声が高まり,朝幕関係が一時緊張した。町々では〈京焼け手まり唄〉が歌われ,周辺に流
42. 東福門院
世界大百科事典
2代将軍徳川秀忠の五女,和子(まさこ)。母は浅井長政の三女江与(崇源院)。江戸幕府初期の不安定な朝幕関係の中で,徳川氏の婚姻政策により後水尾天皇の女御として入内
43. とくがわいえみつ【徳川家光】画像
国史大辞典
率いて京都にのぼり、朝廷を威圧するとともに、御料地の増進をはじめ、公家・住民に椀飯振舞をして、これで朝幕関係は安定状態に入った。幕藩関係においても、秀忠死去の年
44. 徳川慶喜公伝 3 366ページ
東洋文庫
其言に曰く、「薩藩の大勢力を幕府より離陣せしむるは、ゆ瓦しき大事なり、今日の世態、調和を要すべきは朝幕関係にあらずして、寧ろ幕薩の関係なり」と。然れども幕薩は到
45. 徳川慶喜公伝 1 154ページ
東洋文庫
朝幕関係の沿革 公家諸法度 の規定国民の覚醒孝明天皇の勅諭第五章亜米利加条約調印と公の登城停止元和の初、徳川家康・秀忠の二公、禁中及公家諸法度十七条を立て、公家
46. 徳川慶喜公伝 2 82ページ
東洋文庫
百余年来の大典を挙げんとす、其難事たるは勿論なれども、久世大和守等は、将軍家の御上洛によりて朝幕関係を円満ならしむるを得ば、巨万の費用-も惜むに足らずとて、松平
47. なかみかどてんのう【中御門天皇】画像
国史大辞典
江戸幕府の六代将軍徳川家宣から八代将軍吉宗に及ぶ年代に相当するが、閑院宮の創立その他に見られるように朝幕関係はすこぶる良好であった。天皇は修徳のため近衛家煕をし
48. なかやまただみつ【中山忠光】
国史大辞典
翌五年侍従に任じられ、万延元年(一八六〇)儲君(睦仁親王、のちの明治天皇)祗候を命ぜられた。生来奔放な性格で、朝幕関係が緊張を深めるに従い、父忠能の許に出入りす
49. 永井氏
世界大百科事典
を領し(加納藩),その間2人が若年寄に就任した。直勝の次男直清は3代将軍家光の近臣で,とくに朝幕関係の政事に関与,摂津国高槻3万6000石を領した(高槻藩)。3
50. にかいどうさだふじ【二階堂貞藤】画像
国史大辞典
出家し、法名は道蘊(どううん)。討幕の機運が高まる中で、幕府側に立って朝廷との交渉にあたり、朝幕関係の調停を計った。正中元年(一三二四)討幕計画が発覚し(正中の
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すでに締結されている売買・貸借・寄進などの契約について、無条件で、もしくは条件を付して、契約関係の継続、もしくは破棄を宣言する法令。一般には契約関係の破棄宣言のみを意味すると理解されやすいが、当代のさまざまな契約形態に対応して除外規定も少なくない。また、契約の破棄を
遠江国(改訂新版・世界大百科事典)
旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。東海道に属する上国(《延喜式》)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。7世紀の中葉,遠淡海,久努,素賀の3国造の支配領域を併せて成立したものと思われる。国郡制に先行する
王政復古(日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
江戸幕府の崩壊から明治政府の成立過程における一つの政治理念で、最終的には、1868年1月3日(慶応3年12月9日)の「王政復古の大号令」の発表による新政府成立を示す。江戸時代には、全国統治の実権は将軍=徳川氏と幕府に握られ、天皇や公卿で構成される朝廷は、儀礼的な存在に形骸
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〔鎌倉時代―建武政権〕治承四年(一一八〇)八月、伊豆に挙兵した源頼朝は、以仁王の令旨によって、東国における荘園・公領の沙汰を認められたと主張している。その令旨は、壬申の乱における天武天皇に倣って、高倉上皇・安徳天皇・平清盛によって構成される現王朝を
出羽国(日本歴史地名大系・国史大辞典・世界大百科事典)
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