1. ちょうばくかんけい【朝幕関係】
国史大辞典
さて義経は逃れて奥州藤原氏を頼ったが、文治五年、藤原泰衡が義経を討ち、頼朝がその泰衡を滅ぼすに及び、朝幕関係を緊張させていた義経問題は解決した。頼朝は陸奥・出羽
2. いしんすうでん【以心崇伝】画像
国史大辞典
一方また、家康の意をうけて、古書の蒐集・謄写などの文芸方面にも活躍し、さらに朝廷にもしばしば出入し、朝幕関係の交渉にも重要な役割を果たした。寛永十年正月二十日江
3. いたくらしげのり【板倉重矩】
国史大辞典
増された。ついで寛文五年(一六六五)老中に起用され、二万石加増。同八年京都所司代に補せられ、朝幕関係の融和に努力をはらった。同十年江戸に帰り、老中に再任された。
4. 板倉重宗
日本大百科全書
1619年(元和5)父勝重かつしげの後を継ぎ、父の声名を上回る名所司代となる。在任中は幕藩体制確立期にあたり、朝幕関係において幕府の威信を高めつつ平和的維持に努
5. 一絲[文献目録]
日本人物文献目録
『沢庵和尚と一絲国師』松田奉行(著刊)『一絲和尚』徳富蘇峰『一絲和尚』徳富蘇峰『一絲和尚と朝幕関係』辻善之助『一絲和尚と朝幕関係』辻善之助『一絲と白隠』肥後和男
6. えど・とうきよう【江戸・東京】東京都
日本歴史地名大系
これも天保改革後に絵師たちが描いた流行神錦絵の延長線上に位置付けられるものである。以後も対外関係や朝幕関係にかかわる風刺画などが出版されている。二百数十年間にわ
7. 王政復古(日本)画像
日本大百科全書
外国に対応する日本の国家的統一、つまり、支配者は朝廷(天皇)なのか幕府(将軍)なのか、さらには、朝幕関係のあり方、幕府政権の立て直しなどの具体的な政治課題が登場
8. 王道
日本大百科全書
わが国では江戸時代の朱子学者にも受け入れられ、山崎闇斎あんさいは尊王斥覇そんのうせきはを唱えた。朝幕関係については、初めは新井白石あらいはくせきのように幕府の立
9. 大江広元
世界大百科事典
90年(建久1)に頼朝に従って上洛すると,そのまま京にとどまり,明法博士,検非違使となって,朝幕関係の安定化に努めた。頼朝の死後は,政子の信任を得て,北条氏を中
10. 和宮
世界大百科事典
熾仁(たるひと)親王と婚約したが,日米修好通商条約の勅許問題や,将軍継嗣問題によって悪化した朝幕関係を融和するために,60年(万延1)徳川家茂へ降嫁するように幕
11. 和宮降嫁
日本大百科全書
日米修好通商条約の調印と、紀伊家の徳川慶福よしとみ(のちの家茂)の将軍継嗣けいし決定などにより生じた朝幕関係の悪化を修復するため、大老井伊直弼いいなおすけの側近
12. かっしざつろく【甲子雑録】
国史大辞典
その他風聞書・張紙などを編年体に編集したもので、編者が論評を加えている記録もあって、京坂の世相を中心としての朝幕関係や庶民生活を見る上で貴重な記録である。巻十四
13. 甲子夜話
日本大百科全書
20年間書き続けたが未完成に終わった。巻ごとに述斎の校閲を受けたという。述斎からの聞き書きも多い。内容は宮廷、朝幕関係をはじめ、信長、秀吉、家康以下の徳川将軍、
14. 兼宣公記
世界大百科事典
兼宣は後円融天皇の外戚にあたり,武家伝奏の役も務めて朝廷と幕府の連絡にもあたったので,当該時期における朝幕関係を知ることができるよい史料である。東洋文庫に自筆本
15. かまくらじだいけんむせいけん【鎌倉時代―建武政権】 : 朝幕関係
国史大辞典
さて義経は逃れて奥州藤原氏を頼ったが、文治五年、藤原泰衡が義経を討ち、頼朝がその泰衡を滅ぼすに及び、朝幕関係を緊張させていた義経問題は解決した。頼朝は陸奥・出羽
16. 管見記
日本大百科全書
全巻コロタイプ複製された。ほかに諸伝本が各所に伝わっている。平安末期より室町時代に及ぶ有職故実ゆうそくこじつ、朝幕関係等の貴重資料である。名和 修
17. 京都守護職始末 1 旧会津藩老臣の手記 256ページ
東洋文庫
しれない。 本書の史眼は、朝廷と幕府との関係に限られている。諸藩や志士の動向をあつかっても、朝幕関係の関連からとりあげられ、したがって藩の内部の変動や、下級藩士
18. 清原宣賢(きよはらのぶかた)
日本大百科全書
道りとうしんちしんとうを完成し、家康に登庸とうようされて、官学家を創め、幕藩体制の指導倫理と朝幕関係のために貢献した。天文てんぶん19年、越前一乗谷に76歳で死
19. 光格天皇
日本大百科全書
ょう天皇の尊号を贈ろうとして幕府に承認を求めたが拒否され、ついに実現せず(尊号一件)、一時、朝幕関係が緊張した。陵墓は京都市東山区後月輪のちのつきのわ陵。竹内
20. こうぶがったいうんどう【公武合体運動】
国史大辞典
を果たしていた。ところが、嘉永六年(一八五三)のペリー来航以来の対外問題の発生は、このような朝幕関係を変化させた。幕閣は、前例をやぶって事態を朝廷に報告したが、
21. 公武合体論
日本大百科全書
あった。ところが大老井伊直弼いいなおすけの専断調印後の権力政治、安政あんせいの大獄などにより朝幕関係は険悪化したが、井伊時代に緊張緩和の礎石として画策された和宮
22. 孝明天皇[文献目録]
日本人物文献目録
天皇勅詠を島津斉興公父子に賜はりし事実』市来四郎『孝明天皇と山陵の復活』雨宮義人『孝明天皇と朝幕関係の変転』久保田収『孝明天皇に関する御事蹟』大原重朝『孝明天皇
23. 後鳥羽天皇
世界大百科事典
討幕のためではなく,武者の世には帝王にも武芸のたしなみや軍事力が必要だと考えたためである。 朝幕関係は最初は円滑であったが,実朝は実権を持たず,執権北条氏は上皇
24. ごほういっき【護法一揆】
国史大辞典
五右衛門である。信越土寇蜂起(新潟県分水騒動)は廃仏問題と新政府による人民課税の重圧、さらに朝幕関係が加わり、五年発生した。首謀者は安正寺住職月岡帯刀、会津藩士
25. ごみずのおてんのう【後水尾天皇】
国史大辞典
陵は京都泉涌寺山内にあって、月輪陵と称する。天皇の在位時は、徳川幕府の創業期にあたり、時に新しい朝幕関係の確立を目指した徳川幕府は、元和元年七月『禁中并公家諸法
26. ごみずのおてんのう【後水尾天皇】
日本架空伝承人名事典
法名は円浄。八〇年八月一九日、八五歳にて没。天皇の在位時は徳川幕府の創業期にあたり、幕府は新しい朝幕関係の制度化を図るため、一六一五年(元和一)に「禁中并公家中
27. さかいただかつ【酒井忠勝】
国史大辞典
漢の書を編纂させる一方、天海の大蔵経開版や隠元の黄檗山の造立を援助した。大名間の信望あつく、朝幕関係の円滑化にも努力した。家光の信頼も深く、「恩賜もまた数多なり
28. さよのしょう【佐用庄】兵庫県:佐用郡
日本歴史地名大系
佐用庄を九条家に与えている。当時鎌倉幕府将軍であった藤原(九条)頼経の実父道家に敬意を表し、朝幕関係の修復を図ろうとしたものと考えられる。建長二年(一二五〇)一
29. 渋柿
世界大百科事典
容も信頼すべき貴重なものである。ことに(3)は《吾妻鏡》の逸文である。編者の意図は京・鎌倉の朝幕関係の中で生まれた治政の要道となるものを収録したのであろう。万治
30. しぶがき【渋柿】
国史大辞典
ことに(三)は日次記部分をも含めて『吾妻鏡』の逸文であることが確かである。編者の意図は京・鎌倉の朝幕関係の中で生まれた治政の要道となるものを収録することにあった
31. じょうやくちょっきょもんだい【条約勅許問題】
国史大辞典
天皇が和親条約の調印を認めたのは、老中首座阿部正弘が炎上した内裏の新造営に朝旨を奉じて尽力し、朝幕関係は近年になく融和していたことが挙げられる。翌二年九月幕府が
32. すけかつきょうき【資勝
記】
国史大辞典
幕府との関係を窺わせる記事も多い。とりわけ寛永七年から同十六年まで九年間武家伝奏を務めたため、朝幕関係に関する興味深い記事が豊富である。欠逸年月が多いことは残念
33. せきやどはん【関宿藩】
国史大辞典
もって老中にむかえられ、安藤信睦(信正)とともに公武合体説を唱え和宮降嫁を実現させた。広周らはこれにより朝幕関係を円満ならしめようとしたが事実はこれに反し、文久
34. そんごう‐じけん[ソンガウ‥]【尊号事件】
日本国語大辞典
重んじる立場から強く反対し、同四年(一七九二)天皇もこれを断念し、幕府批判の公卿が処罰された。これらは朝幕関係にひびを入れる原因となり、幕府側では松平定信の老中
35. 太平記 115ページ
日本古典文学全集
康仁親王立坊に際し東宮大夫となる。内大臣実衡息。元徳二年(一三三〇)権大納言。父没後、関東申次として朝幕関係を処理。幕府滅亡後、西園寺家の権威は失墜し、その頽勢
36. 太平記 529ページ
日本古典文学全集
ったことから、幕府の信任を得た一門。幕府の権威を背景に代々太政大臣を輩出し、関東申次を務め、朝幕関係の調整にあたった。公宗のとき、幕府が滅亡して建武新政が始まり
37. 沢庵
世界大百科事典
年間,権勢の喧噪を避けて,郷里出石の宗鏡寺に隠棲し,読書三昧に入った。だが,27年(寛永4)朝幕関係が一時に緊張した紫衣(しえ)事件が起こり,大徳寺が幕府によっ
38. たけのうちしきぶ【竹内式部】
国史大辞典
武家政権の成立を合理化し敬幕論を随伴するものであったのに対して、式部のそれは、斥覇論を伴うものであった点で朝幕関係認識の一つの新しい段階を象徴するものとみること
39. ただかこうき【忠香公記】
国史大辞典
あって、いずれも両巻すべてが機密の記事であることを示している。忠香が内大臣に任じられたのは、朝幕関係が切迫しようとする安政五年三月で、翌六年三月左大臣に転ずるが
40. つちみかどけきろく【土御門家記録】画像
国史大辞典
知る基本資料であり、また近世公家社会の生活・文化をみるうえでも記事にとみ、特に『泰重卿記』は、江戸幕府創業期の朝幕関係を伝える好資料である。これをさかのぼる安倍
41. 天明の大火
世界大百科事典
(寛政12)ごろという。また禁裏の〈御造営(復旧)〉問題をめぐって〈朝廷復古〉の声が高まり,朝幕関係が一時緊張した。町々では〈京焼け手まり唄〉が歌われ,周辺に流
42. 東福門院
世界大百科事典
2代将軍徳川秀忠の五女,和子(まさこ)。母は浅井長政の三女江与(崇源院)。江戸幕府初期の不安定な朝幕関係の中で,徳川氏の婚姻政策により後水尾天皇の女御として入内
43. とくがわいえみつ【徳川家光】画像
国史大辞典
率いて京都にのぼり、朝廷を威圧するとともに、御料地の増進をはじめ、公家・住民に椀飯振舞をして、これで朝幕関係は安定状態に入った。幕藩関係においても、秀忠死去の年
44. 徳川慶喜公伝 3 366ページ
東洋文庫
其言に曰く、「薩藩の大勢力を幕府より離陣せしむるは、ゆ瓦しき大事なり、今日の世態、調和を要すべきは朝幕関係にあらずして、寧ろ幕薩の関係なり」と。然れども幕薩は到
45. 徳川慶喜公伝 1 154ページ
東洋文庫
朝幕関係の沿革 公家諸法度 の規定国民の覚醒孝明天皇の勅諭第五章亜米利加条約調印と公の登城停止元和の初、徳川家康・秀忠の二公、禁中及公家諸法度十七条を立て、公家
46. 徳川慶喜公伝 2 82ページ
東洋文庫
百余年来の大典を挙げんとす、其難事たるは勿論なれども、久世大和守等は、将軍家の御上洛によりて朝幕関係を円満ならしむるを得ば、巨万の費用-も惜むに足らずとて、松平
47. なかみかどてんのう【中御門天皇】画像
国史大辞典
江戸幕府の六代将軍徳川家宣から八代将軍吉宗に及ぶ年代に相当するが、閑院宮の創立その他に見られるように朝幕関係はすこぶる良好であった。天皇は修徳のため近衛家煕をし
48. なかやまただみつ【中山忠光】
国史大辞典
翌五年侍従に任じられ、万延元年(一八六〇)儲君(睦仁親王、のちの明治天皇)祗候を命ぜられた。生来奔放な性格で、朝幕関係が緊張を深めるに従い、父忠能の許に出入りす
49. 永井氏
世界大百科事典
を領し(加納藩),その間2人が若年寄に就任した。直勝の次男直清は3代将軍家光の近臣で,とくに朝幕関係の政事に関与,摂津国高槻3万6000石を領した(高槻藩)。3
50. にかいどうさだふじ【二階堂貞藤】画像
国史大辞典
出家し、法名は道蘊(どううん)。討幕の機運が高まる中で、幕府側に立って朝廷との交渉にあたり、朝幕関係の調停を計った。正中元年(一三二四)討幕計画が発覚し(正中の