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元寇

ジャパンナレッジで閲覧できる『元寇』の日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

元寇
げんこう

鎌倉時代のなかば、1274年(文永11)と1281年(弘安4)の2回にわたり行われた蒙古 (もうこ)(元)の日本侵略。文永の役 (ぶんえいのえき)・弘安の役 (こうあんのえき)、蒙古襲来ともいい、当時は蒙古合戦、異国合戦と称し、元寇の語は近世以後定着した。

[上田純一]

交渉の経過

13世紀中期、朝鮮半島の高麗 (こうらい)を服属させた蒙古のフビライ・ハンは、日本に対しても朝貢させ国交を結ぼうとして、高麗を仲介とし日本に使者を派遣した。これは、蒙古が最大の目標とした南宋 (なんそう)攻略の一環であったと考えられるが、そのほか、1227年(安貞1)と1263年(弘長3)に、日本の武士の来寇禁止を求める高麗の使者が来日したことがあり、そのことなどもフビライの日本への使者派遣の理由の一つといわれている。1266年(文永3)、蒙古使者黒的 (こくてき)・殷弘 (いんこう)、高麗使者宋君斐 (そうくんひ)・金賛 (きんさん)らがともに巨済島 (きょさいとう)まで至るが、風濤 (ふうとう)の険阻を理由に引き揚げたのを第1回とし、1273年趙良弼 (ちょうりょうひつ)の再度の来日に至るまで、前後6回にわたる使者が派遣された。1268年の第2回には、高麗使潘阜 (はんぷ)一行が蒙古の国書をもたらしたが、日本はこれを侵略の先触れとして受け取り、異国降伏の祈祷 (きとう)を寺社に命ずる一方、西国とくに九州の防備体制を固めるなど、国内はにわかに緊張に包まれた。

[上田純一]

文永の役

1274年(文永11)10月3日、蒙古・高麗の兵約2万8000よりなる征日本軍は、忻都 (きんと)、洪茶丘 (こうちゃきゅう)らに率いられて合浦 (がっぽ)(慶尚南道馬山 (ばさん))を出発。10月5日、対馬 (つしま)に上陸。このとき、対馬守護代 (しゅごだい)の宗助国 (そうすけくに)以下が防戦のすえ戦死した。10月14日、壱岐 (いき)が襲われ、守護代平景隆 (たいらのかげたか)以下が戦死。対馬・壱岐2島の百姓らは、男はあるいは殺されあるいは捕らえられ、女は1か所に集められ、数珠 (じゅず)つなぎにして舷側 (げんそく)に結び付けられるなどの残虐な行為を受けたという。10月20日、元軍は、博多湾 (はかたわん)西部の今津 (いまづ)―百道原 (ももじばる)などに上陸し、麁原 (そはら)、鳥飼 (とりかい)、別府 (べふ)、赤坂(いずれも福岡市内)と激戦が展開された。日本軍は少弐経資 (しょうにつねすけ)、大友頼泰 (おおともよりやす)の指揮のもとに、経資の弟景資 (かげすけ)が前線の指揮をとり応戦したが、石火矢 (いしびや)を使う蒙古の集団戦法に大いに苦戦した。最終的な勝敗が決せぬまま、同夜、蒙古軍は撤退を開始したが、さいわいにもいわゆる「神風」なる大暴風雨が吹き荒れ、蒙古の兵船は壊滅的打撃を受けた。未帰還者1万3500余人といわれている。

[上田純一]

防備体制の強化

日本遠征の失敗のあと、フビライは、高麗の再征中止の勧めにもかかわらず、南宋への最終的攻撃を進めるとともに、日本再征の準備を整えていった。1275年(建治1)4月、蒙古使者杜世忠 (とせいちゅう)・何文著 (かぶんちょ)が長門 (ながと)室津 (むろつ)に到着。使者一行は鎌倉へ送られ竜口 (たつのくち)にて斬首 (ざんしゅ)された。1279年(弘安2)6月にも、再度蒙古よりの使節一行が博多に到着したが、今回は鎌倉に上らすこともなく博多において斬 (き)らせるなど、幕府は厳しい態度を示した。同年、蒙古は南宋を完全に滅ぼし中国全土の支配者となり、日本再征は日程の問題となった。一方、日本では、文永の役が終わると、幕府は同役の論功行賞を行い、蒙古の再襲に備えて防備体制(異国警固番役 (いこくけいごばんやく))を強化した。博多湾沿岸の防備は、九州内各国がそれぞれ分担して順次番役を勤めるという制規が定められ、金沢実政 (かねさわさねまさ)が防衛の指揮をとるため幕府より差し遣わされた。また長門の警備も強化され、これには長門、周防 (すおう)、安芸 (あき)(のち備後 (びんご)も加わる)の勢をもって防衛すべき旨が定められた。また積極的に日本から元の遠征基地である高麗へ征戦する「異国征伐 (せいばつ)」も企てられ、そのための船舶、水主 (かこ)などの動員も行われたが、実現には至らなかった。1276年(建治2)3月よりは、博多湾沿岸の香椎 (かしい)から今津に至る20キロメートルの地帯に石築地 (いしついじ)(元寇防塁 (ぼうるい))を築くことなども始められた。これは御家人 (ごけにん)だけでなく、所領の広さに応じて一般荘園 (しょうえん)公領にも賦課されたものである。

[上田純一]

弘安の役

元の第2回の日本遠征軍は、金方慶 (きんほうけい)、忻都、洪茶丘の率いる蒙・漢・麗合同軍4万の東路軍と、范文虎 (はんぶんこ)の率いる旧南宋軍10万の江南軍とからなっていた。1281年(弘安4)5月3日、東路軍は合浦を出発。対馬・壱岐を経て、一部は長門を侵攻。主力は6月6日、志賀島 (しかのしま)(福岡市)に来襲し、同海上および陸上の一部で交戦。肥後の竹崎季長 (たけざきすえなが)、伊予 (いよ)の河野通有 (こうのみちあり)らが小舟に乗り、元の大船に切り込みをかけ武名をあげたのもこのときである。このように東路軍が九州本土への上陸拠点とした志賀島も、日本軍の猛攻にあい上陸侵攻を阻まれ、壱岐から肥前の鷹島 (たかしま)へと退いた。一方、江南軍は主将の更迭などで発船が遅れ、6月18日に慶元(寧波 (ニンポー))を出発。平戸島 (ひらどしま)付近で東路軍と合流し、一挙に博多湾に押し入るべく、7月27日鷹島に移動した。これを探知した日本軍は、大挙して鷹島の敵船に猛攻を開始した。ところが7月30日夜から暴風が吹き荒れ、翌閏 (うるう)7月1日、蒙古軍はほぼ壊滅した。主将范文虎は士卒10余万を捨てて帰還し、残された士卒らは日本軍によりことごとく殺害、捕虜とされたという。元軍の帰らざる者は約10万、高麗軍の帰らざる者7000余人と高麗の記録は伝えている。

[上田純一]

戦後の状況

フビライは以後も日本遠征を断念せず準備を進めた。中国南方やベトナムの反乱があったにもかかわらず、出兵計画を具体化していったが、1294年(永仁2)彼の死とともにその計画は立ち消えとなり、フビライの後を継いだ成宗が、1299年(正安1)禅僧一山一寧 (いっさんいちねい)を日本へ派遣して交渉を試みたのを最後に、元は日本との交渉を完全に断念した。一方日本では、異国警固番役は依然継続され、漸次弛緩 (しかん)してはいったものの、防備体制は幕府倒壊までともかくも維持された。九州の御家人たちは、蒙古襲来以前は、訴訟のとき鎌倉や京都六波羅 (ろくはら)に参訴していたが、訴訟のため所領を離れて番役をおろそかにすることを案じた幕府は、九州独自の裁判機関を設けた。1284年(弘安7)の特殊合議制訴訟機関、1286年鎮西談議所 (ちんぜいだんぎしょ)を経て、いわゆる鎮西探題が成立した。また蒙古襲来を機に、九州各国守護職の北条氏一門への集中化が図られ、その九州支配は強化された。また異国警固番役の勤仕を通じて、庶子 (しょし)が惣領 (そうりょう)の統制を離れて別個に番役を勤仕する傾向が強くなり、庶子の独立化が進んだ。これは、幕府の存立基盤である惣領制の解体を促進する一因となった。戦後の恩賞配分も十分でなく参戦者の要求を満たすことができず、加えて、継続的な防衛のための経済的諸負担は御家人の窮乏に拍車をかける結果となった。九州の御家人たちを異国警固に専心させる目的で設置された鎮西探題は、北条氏の専制的九州支配の機関としての性質をあらわにして、九州御家人たちの支持を失い、鎌倉北条氏と運命をともにして、1333年(元弘3・正慶2)5月、滅亡した。鎌倉幕府体制の有していた諸矛盾は、蒙古襲来を契機として顕在化し、悪党 (あくとう)とよばれる人々の出現に象徴される御家人体制の動揺のなかで、ついには幕府の倒壊をみるに至ったのである。なお、蒙古襲来を契機に大社寺は一斉に戦勝祈願に専念し、幕府が戦後これに対する報賽 (ほうさい)の意味で寺社保護政策を推し進めたことと、いわゆる「神風」が直接的に戦勝に導いたことなどから、以後神国思想が広範に流布していった。

[上田純一]



国史大辞典

文永・弘安の役
ぶんえい・こうあんのえき
文永十一年(一二七四)と弘安四年(一二八一)の二回にわたるモンゴル(元)の日本来攻。通例元寇といっているが、この時代には蒙古(異国・異賊)襲来、異国(異賊)蜂起、異国来征、蒙古(異国)合戦、さらには文永十一年蒙古合戦、弘安四年蒙古合戦などと呼ばれていた。モンゴルの日本来攻の原因は、その対南宋・高麗関係のなかに求められる。十三世紀の半ばごろ、モンゴルはアジア・ヨーロッパ両大陸にまたがる領土を収め、世界史上それまでにない新しい政治的局面を展開させた。第四代皇帝モンケ(憲宗)の治世が実現して、モンゴル帝国の支配者がオゴタイ系からトゥルイ系に移るに及んで、モンゴル帝国は分裂の傾向を強め、モンケの弟フビライ(世祖)が大汗位についたとき、この事態は決定的となった。モンケの死後、フビライはモンゴル本土中心主義を標榜する弟のアリクブカと大汗位を争い、お手盛の大集合(クリルタイ)を開いて即位を宣言した。こうしてフビライは形式的にはモンゴル帝国の支配者となったが、実際には中国農耕地帯を政治的基地とする権力―元朝政権をつくり出していかねばならなかった。フビライはアリクブカと争っているときは、それまでの約三十年にわたるモンゴルの高麗侵略の態度を改め寛大な対応を示したが、支配者としての地位が確立すると対応を一変し、結局、高麗を日本遠征の基地とする。フビライは即位すると直ちに使者を南宋に派遣して和議の正式成立を求めたが、南宋では国使を監禁し、さらには山東の李〓の反乱をそそのかした。フビライは南宋討伐の軍をおこすに至る。日本はその南宋と海上を通じて貿易を行い、南宋の経済に不断の活力を与え続けていた。フビライは高麗を介して日本を南宋から切り離し自己の側につけようとした。高麗の元宗はフビライの力を背景にして、それまで国政を左右していた武人を押さえ元首として威力を増していた。フビライはこれを踏まえながら対日交渉を介しつつ高麗に対する支配を急速に強めていく。高麗出身の趙彜(ちょうい)が対日交渉を献言したのは、アリクブカがフビライの軍門に降った翌年(一二六五年)のことである。至元三年(文永三、一二六六)八月、フビライは黒的・殷弘を国信使に任命し、高麗を介して日本に派遣するが、高麗側の工作もあり国信使は渡日しなかった。フビライは高麗の態度を叱責し、高麗王はやむなく潘阜(はんぷ)を使者として日本へ派遣した。第二回目の遣使である。フビライが対日交渉を試みたのは、対高麗政策を媒介とする南宋攻略の一環としてであった。したがってフビライはこの段階で確定的に日本遠征を考えていたのではない。それは日本との交渉の経過のなかで固まっていった。モンゴル国書は、まずモンゴルの威勢を説き、ついで高麗に平和を回復してやったことを述べ、モンゴルと高麗の間は君臣・父子の関係にあり、高麗はモンゴルの東藩である、日本は高麗に近く、開国以来、折々に中国に来ているのに、自分(フビライ)の代になってからは、まだ和好を通ずるということがない、貴国は上のような事情をよくは知らないからであろう、と述べて、問を通じ好みを結びたい、と記している。辞句は一応丁重で露骨に日本の服属を求めたものではないが、やむをえなければ兵を用いることもある、と結んでいる。漢族国家における帝王詔諭文と軌を一にするもので、モンゴル至上主義に中国的な徳化観念を相乗させ、中国の伝統的な外交形式を踏襲したものである。モンゴル・高麗の国書は大宰少弐武藤資能から幕府を経て朝廷に廻され、返書はしないこととなった。国書が到来すると朝廷や幕府などでは早速神仏への祈願を行い、幕府は実際の防備を整えていった。これらの対応の根底には来牒を侵略の先触れとする考えがあった。このように理解し、返書を拒絶したのは、国際関係についての情報が北方民族―モンゴルに圧迫されつづけモンゴルを侵略者とみる来日宋僧などを介して主として南宋側から得られたものであり、彼らの提供する情報によって対外政策を進めていた北条時宗が対モンゴル政策の事実上の最高指導者であったからである。その指揮下に国家の守護に任ずる御家人たちは戦闘を属性とする戦士であった。時宗の父の時頼以来北条氏家督の専制化は深まっており、外圧はそれを正当化し一段と強化させ、時宗を中心に返書の拒絶が決定され、朝廷もその意向を尊重したのである。文永六年三月、第三回目のモンゴル使者黒的ら、同年九月第四回目の高麗の金有成らもともに目的を果たさず、翌年、高麗では江華島守備軍の三別抄が反乱をおこして珍島に拠り、モンゴルと高麗政府の誅求に苦しむ農民たちの反乱が続発した。しかしフビライは高麗に対して造船・徴兵の強行を命じ、日本遠征を主な目的とする屯田経略司を置いた。翌八年五月、珍島は陥落し、三別抄は耽羅島(済州島)に移って抗戦を続け同年九月日本に食糧・援兵を請うたが、日本は事情を理解することができなかった。同月日本国信使趙良弼は来日して折衝を重ねたが成功せず(第五回目)、同十年再び来日して折衝するが招諭を果たせなかった(第六回目)。この間の文永八年十一月、フビライは新しく国号をたてて「大元」と称した。同十年三月、南宋の襄陽が落とされ、南宋の命運が尽きるのも目前のこととなり、翌月、三年間にわたる抗戦を続けた三別抄が平定され、元の日本遠征を妨げていた条件が除かれた。同十一年正月、元は高麗に九百艘の造船命令をくだし、突貫工事で造船を急がせた。日本遠征に用いられた兵数は、池内宏によると、モンゴル人・女真人および金の治下にあった漢人合わせて二万人で都元帥は忻都、右副元帥は洪茶丘、左副元帥は劉復亨、高麗の助征軍は約六千で金方慶が指揮、そのほか数多くの梢工・水手がいた。十月三日、元・高麗の連合軍は合浦(慶尚南道馬山)を出発した。十月五日、対馬に上陸、応戦した守護代宗助国以下が戦死。続いて十月十四日壱岐を襲い、十月二十日、博多湾西部(福岡市)の今津―百道原(ももちばる)に上陸し、麁原(そはら)・鳥飼・別府・赤坂と激戦が展開された。日本軍は押され気味であったが、最終的な勝負がつかないまま元・高麗軍は船に撤退し、翌二十一日、博多湾内から元・高麗軍船艦は姿を消していた。高麗へ向けての撤退途上、いわゆる「神風」に遭ったようである。元の第一次日本遠征が不成功に終ったのは、遠征達成の目途が必ずしも明確でなく、混成軍で指揮者間に確執があり、士気も低く、劣悪な造船条件で、元の将士が渡洋遠征に不慣れであったことなどによる。やはり海の介在は文永・弘安両度の遠征失敗の主要因である。日本側の武士がどの範囲、どの程度に動員されたのか実態は両度とも不明で、恩賞関係などの史料からある程度のことが知られるぐらいである。文永度は守護・御家人の間に不一致のこともあり、元側の新兵器・集団戦に悩まされたが、建治年間(一二七五―七八)に入ると、急速に防備態勢が強化された。建治元年二月、一年の四季各三ヵ月を九州の各国がそれぞれ分担して順次警固番役をつとめる制規が定められた。同年四月、元使杜世忠らが来日、同年九月竜ノ口(たつのくち)で斬られた。元の再襲は必至である。日本側では元の日本遠征の基地である高麗を攻めようという異国征伐の計画が、いわゆる元寇防塁の築造計画と合わせて試みられた。しかし異国征伐は実行されなかった。博多湾の防塁(石築地)築造は建治二年三月に開始され同年八月ごろには一応形が整った。九州各国が博多湾沿岸一帯を地域別に石築地を築いたのである。また前述の四季各国順次分担の制規は改まり、防備の勤務は九州各国がその防塁築造分担の場所でつとめるようになった。建治元年末異国警固を背景に十一ヵ国の守護が交替された。そのうち北条氏一門が新たに得た守護国は八ヵ国である。同じころ六波羅探題が補強され、交通関係も臨戦的に整備されていった。弘安二年南宋は滅び元の日本再征は日程の問題となった。フビライは日本の元使抑留を遠征理由の第一にあげ、日本の土地・人民の略取を揚言し、同四年日本遠征出発の命令を下した。遠征軍は二つに分けられた。忻都・洪茶丘が指揮をとるモンゴル・漢三万、金方慶を指揮者とする高麗一万、計四万(別に梢工・水手がいる)の東路軍と、南宋の降兵を主体とし阿塔海(アタハイ)・范文虎を将とする十万、三千五百艘の江南軍である。同四年五月三日、東路軍は高麗で建造した九百艘に分乗し、高麗の合浦から進撃を開始した。一方江南軍は慶元(寧波(ニンポー))や舟山島付近で装備を整え、同年六月中旬ごろから順次発船していった。当初、東路・江南両軍は壱岐の海上で会合する予定であったが、のちに平戸島に変更している。東路軍は五月二十一日対馬を襲い、壱岐を経て六月六日博多湾頭に進んだ。この間、一部は長門に進んでいる。東路軍は志賀島に足掛りを作って、彼我の攻防戦が行われた。東路軍はその後壱岐に退き、六月二十九日・七月二日と日本軍の攻撃を受けている。東路軍は七月に入ると平戸島や五島列島に達した江南軍と合流し、一挙に博多湾に進入すべく鷹島(長崎県北松浦郡鷹島町)付近に集結したが、閏七月一日、台風に遭い壊滅的打撃を受けた。元の第二次日本遠征は、兵員からいえば降宋兵からなる江南軍が主力であるが、東路軍にせよ江南軍にせよ、おおむね被征服民で戦意は低く、江南軍など、親南宋の日本に対しては戦意はさらに低下したろう。諸将の不和と元軍の海戦不慣れは文永度の場合と同様である。弘安度では特に東路・江南両軍の連絡が悪く、作戦の拙劣さが目立つ。旧南宋軍からなる江南軍の編制・派遣には、信頼のおけない旧南宋軍に対する元朝の裁兵感覚が伏在しており、勝利を得ればよし、敗北して海の藻屑となろうとも、おのずから厖大な職業軍人の処理がつくというものであった。元朝はモンゴル帝国特有の分裂抗争に悩まされ、占城(チャンパ)・安南・倶藍(クーラン)国への遠征など勢力は分散しており、日本遠征への集中度・持続度は決して高くはなかった。海上輸送に関する劣悪な条件は文永度以上であり、補給の継続的計画をもたない屯田方式が成功するはずもなかった。日本側は建治年間に急速に防備態勢を整えており、防塁を築き、得宗権力のもと、守護―管内武士の応戦体制は、文永度とは見違えるばかりに再編強化されていた。直接、得宗被官が戦場に派遣されて日本軍の督戦にあたり、元の集団戦に対する一応の研究もなされ、水際で喰い止める作戦が練られていた。かりに上陸を許したとして、十四万の軍少なしとしないが、継続的補給計画のない一回限りに近い、戦意・統制不十分の軍隊では、辿る運命はおのずから明らかである。「神風」はそれを早めに一挙に実現したといえる。元朝では、国内の分裂抗争に加うるに、被征服地の民族的抵抗戦が相つぎ、日本をはじめ各地への遠征の人民の負担は絶大であり、インフレーションの進行によって経済は混乱した。これ以後、元朝は何度も日本招諭を試みるが、三度目の日本遠征は事実上不可能であった。蒙古合戦の恩賞地配分は、文永初度の分として、『蒙古襲来絵巻』詞書八によれば百二十余人に下文が下されたとあり、有浦・山代・曾根崎の各家文書でその実施例が知られる。弘安再度の分は、弘安八年以前から年次の分かるものとして徳治二年(一三〇七)まで配分がなされている。対象地は筑前・肥前を中心に豊前・豊後・肥後・薩摩で陸奥の例も知られる。配分は正応元年(一二八八)・同二年・同三年は武藤経資・大友頼泰が、嘉元三年(一三〇五)・徳治二年は鎮西探題北条政顕が孔子(鬮)で行なっている。蒙古襲来の日本への影響のあらかたを政治と思想・文化の面に即してみておこう。公家側において外圧が後深草と亀山・後宇多の皇統対立に影響を与えているが、幕府側が元の侵攻に備えて御家人のみならず非御家人をも含む、いわば分を超えた防御態勢の維持に精力をとられている間に、のちの倒幕に至る潜勢力を蓄えたといえる。防御を実際に担った幕府側への影響としては、北条氏得宗、特に泰時・時頼の実績を背景に、両度の合戦を中心として得宗時宗への権力の集中は画期的なものがあった。それだけに得宗権力を直接に支えている得宗被官の専権が幕政を左右するようになり、御内政治の腐敗が幕府倒壊の主要因の一つになる。蒙古襲来の影響をもっとも強く受けたのは九州である。直接防戦をし、幕府倒壊まで異国警固番役を負担した。蒙古襲来を機とする北条氏による守護職占取があらわな形で現われ、特にそれまで幕府の九州支配に優位を保っていた武藤氏の守護管国は減少した。九州の武士を異国警固に専心させるため、弘安の役後、幕府は九州の裁判は九州で専決させる方針をとり、鎮西談議所を経て鎮西探題の成立となる。探題は歴代北条氏一門で、所領関係の裁判を主につかさどり、神社・外交事務などを扱った。異国防御を軸にした任務である。北条氏得宗による族的支配の一環で、次第に北条氏得宗の専制支配の出先機関としての性格をあらわにし九州の御家人たちの支持を失ってゆく。思想・文化の面で注目されるのは、異国降伏の祈祷が全国の一宮・国分寺をはじめ各主要寺社で官制的、継続的に行われたことで、それらの寺社は異国降伏にまつわる寺伝・社伝を再生・再編ないし新生させてその歴史と効験を強調し、広く民衆の間にそれを内在化させていった。一方、モンゴルとの交渉の開始以後、元に対して対等の立場を確保する必要上、天照大神以来その神孫が皇位を継承するとの神孫君臨の神国思想が強まった。こうして寺社・朝廷・貴族などによって再編・喧伝された神国思想は、結果的には武家に対する抵抗の宗教的観念形態となった。幕府自身、異国降伏への報賽として鎮西五社を対象に正和元年(一三一二)末、神領興行法を発するが、これは神社への徳政令で、幕府はみずからの基盤である御家人たちの神領にかかわる既得権益を奪ったのである。鎌倉仏教の展開は蒙古襲来を大きな画期としている。鎌倉仏教の蒙古襲来に対する対応の仕方は、異国降伏の祈祷をめぐって二つに分けられる。一つは主として顕密仏教にみられる型で、真正面から異国降伏の祈祷に専念するものである。特に西大寺流律宗はこれを通じて全国的な展開をみせる。鎌倉幕府の対モンゴル政策の頭脳となった臨済禅もこれに準じてよかろう。禅と律は国政の障りになるといわれるほどの隆盛をみせるようになる。今一つは日蓮にみられる宗教至上主義からの対応で、同時代の鎌倉仏教全体の動きからいえば例外的である。日蓮はモンゴル問題を軸にして自己の教説を社会化していったのであるが、その核心は、蒙古襲来は謗法日本治罰のための宗教的天譴とするところにあった。→異国警固番役(いこくけいごばんやく),→異国征伐計画(いこくせいばつけいかく),→石築地(いしついじ),→石築地役(いしついじやく),→元(げん),→江南軍(こうなんぐん),→鎮西談議所(ちんぜいだんぎしょ),→鎮西探題(ちんぜいたんだい),→東路軍(とうろぐん),→長門警固番(ながとけいごばん)
[参考文献]
山田安栄編『伏敵編』、池内宏『元寇の新研究』、相田二郎『蒙古襲来の研究増補版』、旗田巍『元寇』(『中公新書』八〇)、黒田俊雄『蒙古襲来』(中央公論社『日本の歴史』八)、網野善彦『蒙古襲来』(小学館『日本の歴史』一〇)、山口修『蒙古襲来』、瀬野精一郎『鎮西御家人の研究』、川添昭二『注解元寇防塁編年史料―異国警固番役史料の研究―』、同『蒙古襲来研究史論』(『中世史選書』一)、同『中世九州の政治と文化』、阿部征寛『蒙古襲来』(『歴史新書』五九)、川添昭二「覆勘状について」(『日本古文書学論集』六所収)、村井章介「蒙古襲来と鎮西探題の成立」(『アジアのなかの中世日本』所収)、同「高麗・三別抄の叛乱と蒙古襲来前夜の日本」(同所収)
(川添 昭二)


世界大百科事典

モンゴル襲来
モンゴルしゅうらい

1274年(文永11)と81年(弘安4)の2度にわたって行われたモンゴル(元)軍の日本来襲。蒙古襲来,蒙古合戦,元寇,また文永・弘安の役ともいう。

日蒙交渉

1266年8月,モンゴルのフビライ・ハーンは日本と通好するために日本招諭の国書を草した。これは68年1月に日本へもたらされ,鎌倉幕府を経て朝廷へまわされた。朝廷ではこれを侵略のさきぶれととり,返書を拒絶した。このあと朝廷や幕府は多くの神社で異国降伏の祈禱を行い,幕府はまた国内の防備を固めていった。翌69年に対馬にいたったモンゴルの使者は島民2人を連れ去った。同年12月には高麗使が大宰府に到着したが,幕府は返書を拒んだ。70年11月,フビライは日本遠征を目的とした屯田経略司を高麗に設置することを命じた。12月には趙良弼を日本招諭の使者に任命し,同時にモンゴル軍を高麗に駐屯させることにしたが,高麗では〈三別抄の反乱〉が起こり,モンゴル軍はその鎮圧に向けられた。趙良弼一行は71年9月に筑前今津に到着したが目的をはたさず,翌72年にも来日したが,日本招諭に成功しなかった。

文永の役

フビライは71年国号を大元と定めたのち,73年日本遠征を正式に決定し,翌74年に高麗に命じて艦船を建造させた。同年10月3日,元・高麗の大軍は高麗の合浦を出発し,10月5日に対馬,同14日に壱岐を侵したのち,平戸,鷹島などの島々を襲った。19日には博多湾に侵入し,翌20日に博多湾西部の海岸から上陸し,博多,箱崎は戦火につつまれた。博多湾沿岸の防備を固めていた日本軍は元軍におされて大宰府の水城(みずき)まで退却した。優勢な元軍も日本軍の手痛い反撃にあい,作戦会議を開いた結果,撤兵を決定し,10月20日夜,博多湾から姿を消し,第1次日本遠征は失敗に終わった。

異国警固

翌75年(建治1)フビライは日本招諭の使者杜世忠らを日本に派遣した。一行は4月15日長門室津に着き,鎌倉へ送られたが,竜口(たつのくち)で首を斬られた。同年12月幕府は元の日本遠征の基地となっていた高麗を日本から攻める〈異国征伐〉の計画をたてたが,途中で中止された。幕府はまた,元の再襲に備えて中国や九州の防備を強化した。同年2月すでに異国警固番役(いこくけいごばんやく)の制度が整備され,1年のうち3ヵ月ずつを九州の各国が分担して博多を守ることになった。翌76年3月ごろから博多湾沿岸に石築地(いしついじ)の築造が開始された。その負担は地域別に九州の領主たちに課され,8月ごろに完成した。

弘安の役

79年2月に南宋を滅ぼした元は,南宋の旧領と高麗に日本遠征のための艦船の建造を命じた。同年6月には日本招諭のための使者が派遣されたが,博多で斬首された。81年1月,フビライは日本遠征の命令を下し,5月3日モンゴル人,高麗人,漢人からなる東路軍が高麗の合浦を出発し,対馬,壱岐を侵して博多へ向かい,一部は長門を襲った。6月6日博多湾にいたり,志賀島(しかのしま),能古島(のこのしま)に上陸した。日本軍との間で激しい戦闘が続いたのち,東路軍は壱岐に退き,日本軍はこれを追撃した。いっぽう,旧南宋人で構成された江南軍は,予定より遅れて6月18日に慶元を出発し,7月に平戸や五島列島に到着し,東路軍と合流した。その後博多,大宰府を攻略すべく7月下旬に肥前鷹島に移ったところ,7月30日夜,大風が吹いて元軍は壊滅的打撃をうけた。日本ではこれを神風と呼んだ。こうして元の第2次遠征も失敗に終わった。

戦後の状況と襲来の影響

2度の日本遠征に失敗したフビライは,日本の招諭と遠征をあきらめず,再び日本遠征の準備を進めたが,中国人の反抗や周囲の反対にあって,中止した。84年には日本招諭の使者を派遣したが,これも失敗に終わり,94年のフビライの死後,99年(正安1)禅僧一山一寧を日本に派遣したのを最後に,元は日本招諭を断念した。日本では,弘安の役後,勲功者に対する恩賞が数次にわたって行われたが,十分なものではなく,武士や寺社は不満をつのらせた。元の第3次来襲に備えて異国警固の義務を負った九州の御家人たちは,その負担にたえきれず,所領を質入れしたり売却したりする者が多くあらわれた。幕府では徳政令(永仁の徳政)を出してこれを救済しようとした。また,九州の御家人が訴訟のため京都,鎌倉へ行くことを抑止するために,最終的な判決権をもつ鎮西探題が博多に設置された。さらにモンゴル襲来を契機として,鎌倉幕府権力が強化され,西国の国衙領や本所一円地にも及ぶようになったが,幕府政治においては得宗専制の傾向が顕著になり,御内人(みうちびと)と呼ばれる北条氏嫡流家の家臣が幕政に関与するようになった。こうして幕府はしだいに御家人たちの支持を失い,1333年(元弘3)ついに滅亡した。
[佐伯 弘次]

[索引語]
元(王朝) 蒙古合戦 フビライ 文永の役 異国警固番役 石築地 弘安の役 東路軍 江南軍 神風
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検索コンテンツ
1. 元寇画像
日本大百科全書
文永の役ぶんえいのえき・弘安の役こうあんのえき、蒙古襲来ともいい、当時は蒙古合戦、異国合戦と称し、元寇の語は近世以後定着した。上田純一交渉の経過13世紀中期、朝
2. 元寇
世界大百科事典
→モンゴル襲来
3. げん‐こう【元寇】
日本国語大辞典
3〕〈文部省〉六・四「この北条氏の、時宗といふ人の時に、元といふ国から、わが国に、せめてきた。元寇(ゲンコー)といって、名高いのは、このことをいふのである」ゲン
4. 【元寇】げんこう
新選漢和辞典Web版
《国》元の忽必烈(フビライ)の兵が、文永十一年(一二七四)、弘安四年(一二八一)の二回、わが国に攻めて来たこと。
5. げんこう【元寇】
国史大辞典
⇒文永・弘安の役(ぶんえい・こうあんのえき)
6. げんこうしりょうしゅう【元寇史料集】
国史大辞典
蒙古襲来関係史料三種の複製本二巻とその解説。昭和十年(一九三五)三月、国民精神文化研究所より『国民精神文化文献』二として刊行。第一巻には熱烈な異国降伏の祈願で
7. 『元寇史料集』
日本史年表
1935年〈昭和10 乙亥〉 3・‐ 国民精神文化研究所 『元寇史料集』 刊。
8. 元寇防塁跡[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
後方は生之松原いきのまつばら。国指定史跡 福岡県福岡市©福岡市
9. 元寇記略(著作ID:24895)
新日本古典籍データベース
げんこうきりゃく 大橋訥庵(おおはしとつあん) 雑史 嘉永六刊
10. 元寇始末(著作ID:170547)
新日本古典籍データベース
げんこうしまつ 小宮山楓軒(こみやまふうけん) 雑史 天明七
11. 元寇年表(著作ID:170627)
新日本古典籍データベース
げんこうねんぴょう 大橋訥庵(おおはしとつあん) 年表 嘉永六刊
12. 元寇對馬國 (見出し語:對馬國【篇】)
古事類苑
外交部 洋巻 第1巻 907ページ
13. げんこうぼうるいあと【元寇防塁跡】
国史大辞典
⇒石築地(いしついじ)
14. 史跡元寇防塁指定地略図[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
15. 北條時宗郤元寇 (見出し語:北條時宗)
古事類苑
外交部 洋巻 第1巻 894ページ
16. あおうむら【阿翁村】長崎県:北松浦郡/鷹島町
日本歴史地名大系
北部に宮地岳、西手に阿翁浦がある。阿翁浦の地獄谷・西浦・首崎などはモンゴル襲来の激戦地の一つで、元寇記念之碑(大正四年建立)が建つ。また弘安の役の戦闘指揮所の跡
17. あおきむら【青木村】福岡県:福岡市/西区
日本歴史地名大系
「小右記」同年六月二九日条)。蒙古合戦後には豊前国の御家人役として「青木横浜石築地」、すなわち元寇防塁が築かれた(正安二年閏七月一日「直兼書下案」末久文書/鎌倉
18. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 176ページ
東洋文庫
支那は国土こそ大きいが我武力は支那に対して決して相下らず、却て彼れを攻むるに足ることから、其侵略を撃退したる元寇の事やら、豊太閤の朝鮮征伐をも語って大いに気を吐
19. あきのくに【安芸国】画像
国史大辞典
神主兼守護となり、子孫は神主家として戦国時代まで命脈を保ったが、武田氏も代々安芸と関係をもち、元寇のときには幕命を受けて下向するなどのことがあった。南北朝時代に
20. あこうぐん【赤穂郡】兵庫県
日本歴史地名大系
通の接点に集落と庄園が発達した。この山陽道は揖保郡の筑紫大道の遺構(現太子町)発掘などからも、元寇を機に再整備されたと推定されている。郡内には前掲石塩生庄、有年
21. 足利義満画像
日本大百科全書
ここに北山文化を花開かせた。 外交に関して義満は、貿易の利と、国家主権者の表徴たる外交権を手中に収めるため、元寇げんこう以来中断していた中国との国交を1401年
22. あしかがよしみつ【足利義満】画像
国史大辞典
同六年十二月には山陽の大守護大内義弘を堺に討って(応永の乱)西国支配を強め、同八年五月肥富某らを明に遣わして、元寇以来絶えていた国交を開いた。これより明との通商
23. あしきたぐん【葦北郡】
国史大辞典
また『延喜式』によると、朽網・佐職(色)・水俣・仁主(王)の四駅があった。鎌倉時代に相良頼俊が元寇の役の功績で本郡を領したが、戦国時代には南から島津氏が侵入しこ
24. 芦辺画像
日本大百科全書
利用したミカン園がある。1976年(昭和51)梅ノ木ダムが完成、野菜団地の形成が進んだ。谷江たにえ川の河畔には元寇げんこう千人塚や、少弐資時しょうにすけときを祀
25. あそじんじゃ【阿蘇神社】熊本県:阿蘇郡/一の宮町/宮地村
日本歴史地名大系
余儀なくされた。阿蘇本社領をはじめ、健軍・甲佐・郡浦各社の地頭職を得たのは北条得宗家であったが、同家は元寇以降その地位を時定・随時・定宗ら近親に預けた。時定は阿
26. あらお【荒尾】
国史大辞典
佐の弥勒寺喜多院領として初見。宝治元年(一二四七)武蔵国御家人小代氏が同荘の新補地頭となるが、元寇ごろには土着したらしく、のち北朝方に属し、天正末期加藤清正の入
27. あらたむら【荒田村】福島県:北会津郡/北会津村
日本歴史地名大系
門司親胤申状案(門司氏文書)によれば「会津内上荒田村田畠在家等」は、正応年中(一二八八―九三)元寇時の働きにより、豊後大友氏支族の門司氏に与えられている。門司親
28. 有明海画像
日本大百科全書
達や米の生産調整によって計画は頓挫とんざした。川崎 茂五十嵐勉干拓の歴史有明海の干潟の干拓は、元寇げんこう後の鎌倉時代末期ごろから始まり、江戸時代の新田開発で土
29. 壱岐画像
日本大百科全書
神功じんぐう皇后ゆかりの聖母しょうも宮、鬼ノ窟古墳おにのいわやこふん(国指定史跡、横穴式古墳)、元寇千人塚げんこうせんにんづかなどがある。自然景観にも恵まれ赤瀬
30. 壱岐
世界大百科事典
(特史),カラカミ遺跡,鬼の窟をはじめとする多くの古墳,神功皇后をまつる聖母(しようも)神社,元寇千人塚などの史跡もある。勝本町北東岸の入江にはイルカパークがあ
31. 壱岐水道
日本大百科全書
、古来朝鮮、大陸方面との交通の要衝をなした。加部島の田島神社や、松浦佐用姫まつらさよひめ伝説、元寇げんこうや松浦党水軍などそれを物語るものが多く、豊臣秀吉とよと
32. 息栖神社
日本大百科全書
正六位於岐都説おきつす神従じゅ五位下を授く」とみえるのが当社にあたるという。弘安こうあんの役(元寇げんこう、1281)には、勅旨を奉じ国家安泰の祈願が行われた。
33. 壱岐対馬国定公園画像
日本大百科全書
かれ、防人さきもりが置かれて、竜良たてら山など8か所に烽とぶひが設けられた。また壱岐、対馬には元寇げんこうの史跡も多い。対馬の北端は韓国との距離わずかに50キロ
34. いきのまつばら【生の松原】福岡県:福岡市/西区/下山門村
日本歴史地名大系
れる歌枕となり、多くの歌に詠まれている。文永の役後、当松原にはモンゴルの再襲来に備えて石築地(元寇防塁)が築かれた。「蒙古襲来絵詞」には弘安の役の際肥後国の御家
35. 生之松原画像
日本大百科全書
国指定天然記念物の含紅雲母ペグマタイト岩脈がんこううんもぺぐまたいとがんみゃくや、国指定史跡の元寇防塁げんこうぼうるい跡などがあり、夏は海水浴、釣りなどの行楽客
36. 池内宏
日本大百科全書
研究面でも大きく貢献した。主要著書に『満鮮史研究』全6冊、『文禄慶長ぶんろくけいちょうの役』『元寇げんこうの新研究』全2冊、『日本上代史の一研究』などがある。村
37. 池内宏
世界大百科事典
徹底的に批判する点に特色があった。著書に《文禄慶長の役》正編第1(1914)・別編第1(1936),《元寇の新研究》(1931),《通溝》(1938),《日本上
38. いけうち‐ひろし【池内宏】
日本国語大辞典
文学博士。東京出身。東京帝国大学卒業、のち、同校教授。東北アジアの古代、中世史を研究。著に、「元寇の新研究」「満鮮史研究」。明治一一~昭和二七年(一八七八~一九
39. いけうちひろし【池内宏】
国史大辞典
著書は『満鮮史研究』上世編(二冊)・中世編(三冊)・近世編(一冊)、『文禄慶長の役』正篇・別篇、『元寇の新研究』二巻、『(朝鮮平安北道義州郡の西部に於ける)高麗
40. いししむら【石志村】佐賀県:唐津市
日本歴史地名大系
石志氏の本貫地となった。石志氏は南北朝期まで上松浦党の雄として活躍し、鎌倉の御家人石志二郎潔、元寇の時の石志兼・石志四郎、南北朝期の石志源三郎満・石志五郎良覚・
41. 石築地
世界大百科事典
命令により博多湾沿岸一帯に築造された防塁。当石築地と称されたが,1913年中山平次郎によって〈元寇防塁(げんこうぼうるい)〉と名付けられてからはこの名称が一般に
42. いしついじ【石築地】画像
国史大辞典
[参考文献]史蹟現地講演会編『元寇史蹟の新研究』、川上市太郎『元寇史蹟』地之巻(『福岡県史蹟名勝天然紀念物調査報告書』一四)、相田二郎『蒙古襲来の研究』、福岡市
43. いしついじやく【石築地役】
国史大辞典
石築地いわゆる元寇防塁の築造・修理およびそれに付属して備え付ける武具類などに関する課役。石築地築造の当初は、異国征伐に向かう者は除外されていたが、同計画は中止
44. いじゅういん【伊集院】鹿児島県:日置郡/伊集院町
日本歴史地名大系
長久は伊集院地頭職を同年一二月一九日に鎌倉幕府から安堵されている(「関東下知状」町田氏正統系譜)。長久は元寇に出陣し、薩摩国に入部したとされる。こののち当院地頭
45. いずはらはちまんぐう【厳原八幡宮】
国史大辞典
祀り、白鳳六年(六七七)創立、爾来朝廷・領主・藩主特に宗氏の厚い崇敬をうけ社殿の改築が行われ、元寇に神異を現わしたという。厳原町の総鎮守で大正五年(一九一六)県
46. いせじんぐう【伊勢神宮】三重県:伊勢市
日本歴史地名大系
(中略)官社ニツラ也テ早ク宮号ニアズカリ、官幣ヲ頒テ神威ヲマサレ」(太神宮参詣記)と記している。元寇に際しての風社の霊威が顕伝され、正応六年三月宮号宣下された。
47. いちのみやぬきさき‐じんじゃ【一之宮貫前神社】
日本国語大辞典
群馬県富岡市一ノ宮にある神社。旧国幣中社。祭神は経津主(ふつぬし)神、姫大神。元冦の時の勅願をはじめ、歴代武門の崇敬を集める。上野国一の宮。抜鉾(ぬきさき)大明
48. 厳原(いづはら)
日本大百科全書
現在付近はカドミウム汚染対策地域、カドミウム汚染要観察地域に指定されている。西海岸の小茂田こもだは元寇げんこうの古戦場として知られ、町の南部の内山盆地は花崗かこ
49. 糸島半島画像
日本大百科全書
稲作のほか、イチゴ、ミカン、花卉かき、スイカなどの栽培で名高い。志登しと支石墓(ドルメン)群、元寇げんこう防塁跡や、小富士(筑紫富士つくしふじ)の名がある可也山
50. 糸島半島
世界大百科事典
芥屋大門(けやのおおと)(天)はじめ,桜井二見ヶ浦,小富士(筑紫富士)の名もある可也(かや)山,今津元寇防塁跡(史)と志登の支石墓群(史),国宝の《誓願寺盂蘭盆
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