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承久の乱

ジャパンナレッジで閲覧できる『承久の乱』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

承久の乱
じょうきゅうのらん
承久三年(一二二一)後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府を討滅せんとして挙兵、逆に大敗、鎮圧された事件。大義名分論、順逆論の立場からは「承久の変」ともいい、第二次世界大戦中はほとんど「変」に統一されたが、中世以来、乱・合戦などと称する方がむしろ一般的である。

〔前史〕

幕府成立の当初、厳しい対立・抗争を展開した公家・武家両勢力も、その後、文治五年(一一八九)奥州藤原氏の滅亡と翌建久元年(一一九〇)源頼朝の初度上洛を契機として、融和・安定の関係へと転換した。ことに同三年後白河法皇没後の京都政界は、親幕派公卿の総帥関白九条兼実が首導するところとなったが、それもつかの間の同七年、兼実は政敵源通親のために失脚せしめられた(建久七年の政変)。通親は、さらに翌々年、幕府の反対を排して外孫土御門天皇の受禅を実現、後鳥羽院庁の別当を兼ねた。こうした情況を見た頼朝は、再々度上洛して兼実を扶け、朝政へ介入するつもりであったらしいが果たさず、正治元年(一一九九)正月に没した(『愚管抄』六)。頼朝の死による政情不安のなか、通親はむしろこれを利用して自意を達した。すなわち、頼朝の嗣子頼家には、直ちに父の遺跡継承を認める宣旨を発して幕府の存続を保障する一方(『吾妻鏡』同年二月六日条)、幕府の責任において通親に「敵対」する者を捕縛し、その関係者を朝廷から追放するよう協力させた。こうして、かつて頼朝とかかわりのあった人々は、まったく朝廷から締め出され、幕府の朝務介入ルートは完全に失われた。ただし通親の専恣は、後鳥羽院の成長につれ、徐々に抑制された。上皇の政治理念からすれば、通親と九条家の対立などはとるに足らぬことであり、廷臣はこぞって自分を補弼し、王道の実現に協力すべきものであった。鎌倉殿やその配下の武士にしたところで、国家守護の任にあたる「官人」であって、その例外ではない。正治二年、皇太弟の選任に際して幕府への通達は行われず、また佐々木経高は上皇の命により三ヵ国の守護職を罷免された。近江の柏原弥三郎が叛くと、上皇は追討の宣言を発し、在京の武士に直接命じてこれを「官軍」として派遣、幕府軍の到着以前にことを処理した(『吾妻鏡』正治二年十二月二十七日条)。一方、幕府側では、将軍頼家と御家人、有力御家人相互の対立抗争が表出した。結局、建仁三年(一二〇三)比企氏の乱の敗北によって頼家は退けられ、弟の千幡に替わった。この政変を演出した北条時政は、幕府政所の執権別当となり、ここに執権政治の制度的基点が設定されたのである。前年に源通親が死去して以後の朝廷政治は、ほとんど後鳥羽上皇の独裁といってよい状態であったが、上皇は千幡には好意的だった。直ちに将軍宣下を行い、彼に実朝という名を与えたのも上皇で、その妻に坊門信清の女を嫁さしめることにより自分の義甥かつ義弟となるよう計らった。片や実朝も勤王の志を有したが、すでに将軍は独裁者の地位になく、幕政の実権は北条氏に移行しつつあった。北条執権政治が御家人たちの支持をとりつけるために打ち出した在地領主保護の諸策は、皇権の回復を発揚をめざす上皇の政治理念と抵触し、また北条氏が政権を掌握する過程でつぎつぎと発生した幕府の内紛は、その不安定さと弱体化を示すものと上皇には解された。院の討幕意志は徐々に固められ、ついには実朝を「官打(かんうち)」にしようとしたという説(『承久記』上)も、無下に否定できない。新たに西面武士(さいめんのぶし)を置いて直轄軍の育成をはかるとともに僧兵勢力の組織化に力を注ぎ、武備に意を用いもした。おりしも承久元年正月実朝が頼家の遺児公暁(くぎょう)に殺害され、源氏将軍は途絶、公武の緩衝地帯は消滅した。かねての黙約に従って幕府が宮将軍の東下を要請してきたのを保留する一方で、上皇は寵姫伊賀局亀菊の所領摂津国長江・倉橋両荘地頭の更迭を命じ、相手の反応を窺った。しかし執権北条義時は、弟の時房に兵千騎を率いて上洛させ、幕府の根本方針に照らして地頭職改補要求には応じられない旨を伝えるとともに(慈光寺本『承久記』上によれば、両荘地頭は義時その人だったという)、将軍下向の件を再度折衝させた。結局、頼朝の遠い血筋にあたる幼少の三寅(みとら、九条道家の三男、のち元服して頼経)が鎌倉殿の後継者に決したが、公武は互いに相手の強硬姿勢を知り、不快の念を強めた。承久元年七月、大内守護源頼茂が上皇の命を受けた西面の武士に誅殺される事件が起ったころから、院の討幕計画は急速に具体化していったと思われる。承久三年に入って世情に不穏な空気が汪溢するなか、四月二十日、後鳥羽上皇は順徳天皇からその子仲恭天皇に譲位させ、万一に備えるとともに新院の協力を得て、いよいよ挙兵へ踏み出すこととした。

〔経過〕

承久三年五月十四日、上皇は鳥羽城南寺(せいなんじ)に「流鏑馬汰(そろ)へ」と称して、東は美濃、西は但馬に至る十四ヵ国の兵千七百余騎を集め、また京畿諸寺よりも僧兵を召した(『承久記』上ほか)。翌十五日には、義時を追討し、全国の守護・地頭(幕府御家人)を院庁の統制下に置く旨の宣旨・院宣を発するとともに(小松美一郎所蔵文書、慈光寺本『承久記』上)、召集に応じなかった京都守護伊賀光季を襲って挙兵の血祭りにあげ、幕府と親しい西園寺公経父子を幽閉した。生前の光季、公経の家司三善長衡が発した急使は、五月十九日鎌倉に到着、変報に接した幕府では、北条政子が獅子吼して御家人の結束を訴えつつ、大江広元の建策を容れ、直ちに西上軍を発遣することとし、信濃・遠江以東十五ヵ国の御家人に動員令を下した。幕府軍は、北条泰時・時房らを大将軍とする主力東海道軍十万余騎、東山道軍五万余騎、北陸道軍四万余騎、都合三軍、十九万余騎をもって編制され、統制にも優れたものがあった。対する上皇軍は二万数千、院の近習、北面・西面の武士、検非違使、院分国・院領の兵士、関東方の脱落者、僧兵の一部、そして西国守護(在京御家人)の多数が参集した。このうち兵員数としてもっとも期待されたのは西国守護の擁するそれであっただろうし、実際、九州を除く西国三十二ヵ国中十八ヵ国の守護が京方に身を投じたが(幕府方四、不明十ヵ国)、淡路などごく一部の例外を除き、管国の御家人を組織的に動員しえたわけではなかった。兵力に劣る混成軍であるうえ、これを統率・指揮する人材を欠いた京方軍の敗北は、戦わずして明らかであった。そもそも討幕の謀議からして上皇のごく近親者間だけで行われたのであって、公家政権全体の合意とはなっておらず、院司の一部にも強い異論があった。にもかかわらず、挙兵当初の軍議は楽観論が支配し、幕府の自滅を期待するのみで、有効な実戦的対応策はほとんど講ぜられなかった。幕府軍大挙西上の報に接してようやく誤算に気づき、急遽防戦のため美濃に派遣した藤原秀康・三浦胤義らの主力は、六月五日・六日幕府軍の一撃になす術もなく敗走、加賀での戦いもまた同様であった。上皇はみずから武装して比叡山に登り、僧兵の協力を求めたが失敗、最後の一戦を宇治・勢多に試みるも、六月十四日に防禦線を突破され、翌日京都は幕府軍の占領するところとなった。挙兵以来わずか一ヵ月、まことにあっけない乱の幕切れであった。

〔結果〕

敗戦が決定した日、上皇は義時追討の宣旨・院宣を取り消し、乱の責任は謀臣にあって自分にない旨を泰時に申し入れた。しかし院とその近親に対する幕府の処置は過酷を極めた。後鳥羽上皇を隠岐に、上皇の子土御門・順徳両上皇、六条・冷泉両宮を、それぞれ土佐・佐渡・但馬・備前に流し(ただし土御門上皇は謀議に与らず、みずからの希望による)、後鳥羽上皇の兄で皇位の経験もない行助入道親王を立てて後高倉院となし、院政をしかせ、また仲恭天皇を廃して行助入道親王の子茂仁王を即位させた(後堀河天皇)。乱の首謀者と目された藤原光親・宗行、一条信能、高倉範茂ら院近臣の公家はことごとく捕えられ、わずかに坊門忠信が実朝室の縁をもって助命されたものの、多くは関東に護送される途中で斬殺され、あるいは自殺せしめられた。また北面藤原秀康・二位法印尊長も逃亡ののち捕縛されて失命、後藤基清・五条有範・佐々木広綱らの在京御家人も梟首された。これら院方加担者の所領三千余ヵ所は幕府に没収され、おもに東国出身の御家人がその地の地頭に新補された。これら一連の処置によって幕府は、今まで支配力の弱かった西国にもより深く権力を浸透させることが可能になったし、また、二百数十ヵ所にのぼる厖大な後鳥羽院領は後高倉院に返還されたけれども、進止権は幕府に留保し、院政の経済的基盤を押えておくことを忘れなかった(『三宝院文書』、『武家年代記』承久三年裏書)。一方、京都に進軍した泰時・時房は、乱後もそのまま六波羅に駐留し、朝廷の監視や洛中警固、西国御家人の統制などに携わることとなった(六波羅探題の創設)。かくして幕府の勢力は朝廷をしのぎ、治天の君・皇位の継承、摂関をはじめとする廟堂の人事などに幕府の意向は決定的重みを有するようになった。乱の勝利は、幕府内部に執権北条氏による政治主導を確立せしめたが、多数の離反者を出した在京御家人の制度が乱後も継続したように、当時の軍事・政治・経済ほかの構造それ自体は、義時といえども容易に否定できなかった限界も認めざるをえない。それは、乱に中立を守った貴族・寺社一般に対する寛容・温微な政策にも表われている。彼らの荘園領主としての地位は、ほとんど打撃を被ることなく保障された。乱後の幕府は、むしろ在地領主(武士)・荘園領主(貴族・寺社)双方の調停者としての機能を強めた。義時の死後、帰東して執権の職を襲った泰時が、貞永元年(一二三二)に制定した『御成敗式目』は、評定衆の制度とともに執権政治の完成を示す徴憑とされるが、それはまた、乱後の訴訟・紛争解決のために必要な裁判基準を成文化するという、きわめて現実的な要請を踏まえた法典でもあったといえる。

〔評価〕

承久の乱は、当然のことながら、同時代の人々にとってまことに衝撃的な事件であった。乱の二年後、『海道記』の作者は、「さてもあさましや」とこれを回顧しているし、のち一部には「軍(いくさ)」と称すれば承久を意味するという認識さえ生んだ(『沙石集』八)。ところで、乱をもっとも詳しく具体的に描いた作品は『承久記』だが、同書の評価は後鳥羽上皇に批判的で、むしろ義時に好感を示している。また、慈円が『愚管抄』を著述した動機は、上皇の倒幕計画を諫止するためであったともいう。院の挙兵自体、摂関家の同意を得られぬどころか、ごく近親の間だけで謀られ、しかも惨敗を喫したのだから、武家側が自己の立場を正当とするのはもちろん(『吾妻鏡』の記述および『渋柿』における泰時の疎明参照。なお、『建武式目』には「承久義時朝臣并〓呑天下〓」と記す)、公家社会内部にあっても、後鳥羽上皇の挙を批判する論は当初より少なくなかったのである。やや降って南北朝時代、『増鏡』が承久の変事を「うたてし」「あさまし」「口惜し」などと評するのは(二・十三)、公家一般の偽らざる心情であろうが、北畠親房が義時の「人望ニソムカザリシ」を認め、これを追討せんとする行為は「上ノ御トガ」だと断じたのも、他方の事実である(『神皇正統記』仲恭天皇の項)。親房の承久の乱に関する行文は、後年、新井白石の『読史余論』に引用され、ついに「後鳥羽院、天下の君たらせ給ふべき器にあらず。ともに徳政を語るべからず」とまで論難される基となった。もっとも白石は、「本朝古今第一等の小人、義時にしくはなし」と、他所で述べてはいる(上・中)。さて近代史学の成立以降、特に天皇制に対するタブーの取り除かれた第二次世界大戦後において、この課題にはじめて本格的考察を加えた上横手雅敬は、承久の乱は幕府の立場からいえば「新な専制支配をうちたてた一種のテルミドール」だと規定した(「承久の乱の歴史的評価」(『史林』三九ノ一))。黒田俊雄も、乱は権門相互の争いであって、新体制の旧に対する勝利というほどの意味はもたぬと述べ、上横手に近い立場をとっている(『荘園制社会』(『体系・日本歴史』二))。これらに対し石井進は、武家政権の発展、東国の西国に対する勝利を強調、乱の意義を高く評価し(「鎌倉幕府論」(『(岩波講座)日本歴史』五所収)、『鎌倉幕府』(中央公論社『日本の歴史』七))、また乱後の新地頭補任地を克明に検出した田中稔は、その結果から、乱の成果を手中に収めたのは東国の御家人たちであったと明言している(「承久京方武士の一考察」(『史学雑誌』六五ノ四)、「承久の乱後の新地頭補任地〈拾遺〉」(同七九ノ一二))。しかし上横手自身によれば、叙上の見解は必ずしも矛盾対立するものではなく、むしろ強調点の差異に属するという(『日本中世政治史研究』)。ほかに貫達人は、乱を境に治天の君の権限が関東に移ったと述べ(「承久変論」(高柳光寿博士頌寿記念会編『戦乱と人物』所収)、「鎌倉幕府成立時期論」(『青山史学』一))、上横手がこれに修正意見を加える一方(「鎌倉幕府と公家政権」(『(岩波講座)日本歴史』五所収))、最近では網野善彦が、いわゆる東国・西国国家論の立場からこの乱を評するなど(『東と西の語る日本の歴史』(『そしえて文庫』七))、新しい動きがほの見えるかにも思えるが、総じて承久の乱に関する研究は、著名な事件の割に乏少だといわざるをえない。今後、なお基礎的、実証的な研究の蓄積が望まれるゆえんである。その場合、挙兵時後鳥羽上皇の政権構想が奈辺に存したかは、より深く追究されてよい課題の一つである。義時追討の宣旨・院宣にいうところは、要するに(一)執権政治の廃止、(二)幕府御家人を院庁の統制下に置くこと、の二点であって、幕府体制そのものの破壊をただちに意味しないし、院方が日本国惣追捕使への任命を餌に三浦義村を誘引せんとしたという『承久記』上の記述を許容する。乱に勝利を収めた幕府が院政や在京御家人の制を存続させたように、かりに上皇の挙兵が成功したとしても、はたして関東の府を廃絶し、一元的な統治を施行しようとまで企図していたかどうか、大いに検討の余地がある。当時の政治・社会・軍事などの構造を理解し、また建武新政の施策と比較考究するうえでも、解明が待たれるところである。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ一五・一六、三浦周行『鎌倉時代史』(『日本時代史』五)、大山喬平『鎌倉幕府』(小学館『日本の歴史』九)、松林靖明校註『承久記』(『新撰日本古典文庫』一)、竜粛「承久の乱」(日本歴史地理学会編『鎌倉時代史論』所収)、石井進「平氏・鎌倉両政権下の安芸国衙」(『歴史学研究』二五七)、上横手雅敬「承久の乱」(『(岩波講座)日本歴史』五所収)、安田元久「歴史事象の呼称について―「承久の乱」「承久の変」を中心に―」(『学習院大学文学部研究年報』三〇)、杉橋隆夫「公家政権と鎌倉幕府」(『歴史公論』一〇七)
(杉橋 隆夫)


日本大百科全書(ニッポニカ)

承久の乱
じょうきゅうのらん

後鳥羽上皇 (ごとばじょうこう)が鎌倉幕府を討とうとして挙兵し、敗れた内乱。

[上横手雅敬]

原因

1202年(建仁2)朝廷で権力を振るっていた源通親 (みなもとのみちちか)が没し、後鳥羽上皇が政治の実権を掌握した。幕府では将軍(鎌倉殿)源頼朝 (よりとも)の没後、頼家 (よりいえ)が将軍となっていたが、1203年、北条時政 (ほうじょうときまさ)らは頼家を退け、その弟千幡 (せんまん)を鎌倉殿にたて、時政は執権 (しっけん)に就任した。上皇は公武融和政策をとり、千幡を将軍に任命、実朝 (さねとも)と命名し、翌1204年(元久1)には近臣坊門信清 (ぼうもんのぶきよ)の娘を実朝の妻とするなど、公武関係の緊密化を進めた。しかし上皇が実朝を通じて幕府に地頭 (じとう)の個別的停止などを求めたのに対し、執権北条氏らは御家人 (ごけにん)保護の立場からこれを拒否したりしたため、上皇と実朝の関係までもしだいに円滑を欠くようになった。とくに1219年(承久1)実朝が殺されてのちは、上皇は幕府と友好関係を保つ意欲を失い、従来の公武融和の方針を捨て、討幕を決意した。幕府は上皇の皇子を鎌倉殿として迎えたいと上皇に要請したが、上皇は回答を保留し、寵愛 (ちょうあい)する白拍子 (しらびょうし)亀菊 (かめぎく)の所領、摂津国 (せっつのくに)長江 (ながえ)・倉橋 (くらはし)両荘 (しょう)地頭の解任を幕府に要求した。幕府は北条時房 (ときふさ)を上洛 (じょうらく)させて拒否を回答するとともに、さらに鎌倉殿の東下の実現を求めた。上皇は、皇子の東下には反対であるが、それ以外なら、たとえ摂関家 (せっかんけ)の子弟でも、鎌倉殿として東下させてもよいという態度をとった。その結果、左大臣九条道家 (くじょうみちいえ)の子で、当時2歳の頼経 (よりつね)が鎌倉に下ることになったが、これについては、頼経の外祖父である西園寺公経 (さいおんじきんつね)の奔走によるところが大きかった。上皇は頼経の東下を認めたものの、実は不満で、幕府の瓦解 (がかい)を望み討幕の準備を進めた。

[上横手雅敬]

経過

1221年(承久3)4月、順徳天皇 (じゅんとくてんのう)は皇子の仲恭天皇 (ちゅうきょうてんのう)に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力した。5月14日、上皇は畿内 (きない)近国の兵を集め、幕府を支持した西園寺公経を捕らえ、翌15日、京都守護伊賀光季 (いがみつすえ)を討ち、執権北条義時 (よしとき)追討の宣旨 (せんじ)を出した。幕府では、頼経が東下してのちも、実質的な鎌倉殿は頼朝の後家の北条政子 (まさこ)であり、義時に補佐されて政治を運営していた。幕府側は政子を中心に結束を固め、遠江 (とおとうみ)以東15か国の兵を集め、東海道は北条泰時 (やすとき)・時房、東山道は武田信光 (たけだのぶみつ)・小笠原長清 (おがさわらながきよ)、北陸道は北条朝時 (ともとき)・結城朝広 (ゆうきともひろ)らを大将軍として、三道から攻め上った。上皇方では宮崎定範 (みやざきさだのり)・糟屋有久 (かすやありひさ)らを北陸道に、大内惟信 (おおうちこれのぶ)・藤原秀康 (ふじわらのひでやす)らを東山道の美濃 (みの)に遣わし、尾張河 (おわりがわ)(木曽川 (きそがわ))沿岸で防戦した。上皇方が尾張河で幕府軍に敗れると、後鳥羽・土御門 (つちみかど)・順徳の3上皇、仲恭天皇は比叡山 (ひえいざん)に赴き、延暦寺衆徒 (えんりゃくじしゅうと)の協力を求めたが、拒まれて都に戻り、諸将を宇治 (うじ)・勢多 (せた)に遣わし、最後の防戦を試みた。しかし6月13、14日の戦いで幕府軍は勝ち、15日には京都に攻め入った。こうして後鳥羽上皇の挙兵後、約1か月で乱は上皇方の敗北で終わった。東国武士を動員した幕府方に対して、上皇方には九州を除く西国守護の大半が加わってはいるが、泰時・時房の下に守護を通じて国ごとに御家人を組織した幕府軍に対して、上皇方は指揮系統が確立せず、それぞれの国の御家人を十分に動員しえなかったうえに、寺院勢力の参加もほとんど得られなかったために敗北した。

[上横手雅敬]

結果・意義

乱に対する幕府の処置は峻厳 (しゅんげん)を極め、後藤基清 (ごとうもときよ)・佐々木広綱 (ささきひろつな)ら上皇方に加わった御家人、一条信能 (いちじょうのぶよし)・藤原光親 (みつちか)ら乱を首謀した上皇の近臣を斬罪 (ざんざい)に処した。また守貞親王 (もりさだしんのう)(後高倉法皇 (ごたかくらほうおう))に院政を行わせ、その皇子後堀河天皇 (ごほりかわてんのう)を即位させ、仲恭天皇を廃位した。さらに後鳥羽・順徳・土御門上皇を、隠岐 (おき)・佐渡 (さど)・土佐 (とさ)に流した。幕府軍を率いて上洛した北条泰時・時房は都にとどまり、六波羅探題 (ろくはらたんだい)として、朝廷との交渉、西国御家人の統率、京都と近辺の治安維持、西国の裁判などにあたることになった。上皇方の所領3000余か所は没収され、その地には新たに地頭が置かれたが、没収地は西国に多く、恩賞地を与えられた多数の東国武士が西国に移住したため、幕府の勢力は、これまで弱体であった西国でも強化されることになった。乱の結果、幕府は、荘園領主(貴族・寺社)と在地領主(武士)との対立を調停する権力として安定し、僧兵の強訴 (ごうそ)に対する収拾策などでは、従来院政が行っていた機能を吸収するに至った。上皇方の敗北が貴族に与えた衝撃は大きく、帝王にも徳が必要であり、無道の君は討つのもやむをえないという思想もおこった。この乱で、幕府は天皇や院政を行う治天 (ちてん)の君 (きみ)を廃立したが、これはこの乱後に限っての臨時措置であり、幕府が治天の君や天皇の選定権を掌握するようになるのは、後年の北条時頼 (ときより)の時代からである。

[上横手雅敬]



世界大百科事典

承久の乱
じょうきゅうのらん

1221年(承久3)後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げ,逆に幕府軍に大敗,鎮圧された事件。

前史

幕府成立の当初に厳しい対立・抗争を展開した公家・武家両勢力も,その後相対的には,融和・安定の関係へ向かいつつあるかに見えた。しかし,鎌倉殿源頼朝の晩年から頼家嗣立期には,源通親,丹後局の策謀によって親幕派勢力が京都政界から放逐される事件が起こり,幕府内部でも頼家と御家人,有力御家人相互間の対立・抗争が表面化した。時の朝廷政治を主宰する後鳥羽上皇は,3代将軍実朝の出現には好意的であり,実朝も勤王の志に富んでいたが,すでに将軍は独裁者の地位になく,幕政の実権は北条氏に移りつつあった。北条執権政治が御家人たちの支持を得るために打ち出した諸策は,本質的に上皇の政治理念と相入れず,また北条氏が政権を掌握・行使する過程で次々と発生した幕府の内紛は,その政治的弱体化を示すものと上皇には解せられた。上皇の討幕意志は徐々に固められ,ついには実朝を官打ちにしようとしたという説も,一概に否定できない。

 おりしも1219年1月,実朝が頼家の遺子公暁(くぎよう)に殺害され,源氏将軍は途絶,公武の緩衝地帯は消滅した。かねての密約に従って幕府が親王将軍の東下を要請してきたのを裁可しない一方で,上皇は寵姫亀菊の所領摂津国長江・倉橋両荘地頭職の改補を命じ,幕府側の反応をうかがった。しかし執権北条義時はこれを拒否し(《慈光寺本承久記》によれば両荘地頭は義時その人だったという),弟時房に兵1000騎を付けて上洛させ,その意志を伝えるとともに皇子迎立の件を再度折衝させた。結局,頼朝の遠い血筋に当たる幼少の三寅(みとら)(九条道家の三男,のちに元服して頼経)が鎌倉殿の後継者に決定したが,この間上皇の討幕計画は,いっそう具体的なものになっていった。21年に入って世情に不穏な空気が横溢するなか,4月20日後鳥羽上皇は順徳天皇から仲恭天皇に位を譲らせ,万一に備えるとともに,順徳上皇の協力を得て,いよいよ挙兵へ踏み出すこととした。

経過

5月14日上皇は鳥羽城南寺(せいなんじ)に流鏑馬(やぶさめ)ぞろえと称して畿内近国の兵1700余騎を集めた。翌日には,義時の身を追討し全国の守護・地頭(幕府御家人)を院庁の統制下に置く旨の宣旨・院宣を発する一方,召集に応じなかった京都守護伊賀光季を襲わせて挙兵の血祭にあげた。変報に接した鎌倉では,北条政子が御家人の結束を訴え,北条泰時・時房を大将軍とする東海道軍10万余騎のほか,東山道5万,北陸道4万,つごう19万と号する3軍を,信濃・遠江以東15ヵ国の武士をもって編制,直ちに西上させた。対する上皇軍は総数2万数千と称し,院の近習,西面・北面の武士,検非違使,関東方の脱落者,僧兵の一部,西国守護(在京御家人)の多数が参集したが,かかる混成軍全体を統率・指揮する人材を欠いた。実際の軍事力としてもっとも期待されたのは西国守護の擁する武力であったが,彼らがどの程度管国内御家人を上皇軍として組織しえたかは疑問である。そもそも,討幕の謀議からして後鳥羽のごく近親者間だけで行われたのであって,公家勢力全体の合意をとりつけるまでには至っていなかった。これらの事情に加えて,挙兵当初楽観論が軍議を支配したことも重なって,実戦面での院軍の対応はまことに劣弱・遅鈍であった。幕軍大挙西上の報に接してのち,大あわてで美濃に派遣された藤原秀康,三浦胤義ら主力部隊は,濃尾国境の尾張川(木曾川)沿岸に展開・防戦しようとしたが,6月5,6日幕軍の一撃になす術もなく敗走した。加賀に出張した院方軍もまた同様だった。上皇はみずから武装して比叡山に登り,僧兵の協力を求めたが失敗,最後の望みを託した宇治・勢多の防御線も6月14日に突破され,翌日京都は幕府軍の占領するところとなった。開戦以来わずか1ヵ月,まことにあっけない乱の幕切れだった。

結果

敗戦が決した日,上皇は義時追討の宣旨・院宣を取り消し,乱の責任は謀臣にあって自分にない旨を泰時に申し入れた。しかし,直接院方に参画した者に対する幕府の処置は過酷を極めた。後鳥羽,順徳,土御門の3上皇を,それぞれ隠岐,佐渡,土佐に配流(ただし土御門上皇はみずからの希望による),仲恭天皇を廃して後堀河天皇を立て,その父後高倉院の院政とした。乱の首謀者と目された藤原光親,高倉範茂,坊門忠信ら院近臣の公卿はことごとく捕らえられ,多くは関東に護送される途中で斬殺され,後藤基清,五条有範らの在京御家人は六波羅によって斬られた。乱の張本藤原秀康,二位法印尊長も,逃亡ののち捕縛され死亡した。そしてこれらの人々の所領3000余ヵ所は幕府に没収され,おもに東国出身の御家人がその地の地頭に新補された。これによって幕府は,今まで支配力の弱かった西国にもより深く権力を浸透させることが可能になった。また京都に進軍した泰時・時房はそのまま六波羅にとどまり,朝廷の監視や洛中警固,西国御家人の統制などに携わることになった(六波羅探題の創設)。

 総じて幕府の勢力は朝廷をしのぎ,内にあっては執権政治の確立を促したが,他面,貴族・社寺一般に対する幕府の政策は寛容・温微であり,彼らの荘園領主としての地位は,ほとんど打撃を被ることなく保障された。乱後の幕府は,むしろ在地領主,荘園領主双方の調停者としての機能を強めた。1232年(貞永1)の《御成敗式目》は,そうした時代背景の下に制定された武家法典だったといえる。
[杉橋 隆夫]

[索引語]
後鳥羽天皇(院,上皇) 九条三寅(みとら) 六波羅探題 御成敗式目
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1. じょうきゅう の 乱(らん・みだれ)
日本国語大辞典
公家方の没収所領への地頭を配置するなど、幕府の絶対的優位が確立した。*文机談〔1283頃〕三「承久の乱といふこといできにける後は」ジョーキューノラン
2. 承久の乱画像
日本大百科全書
後鳥羽上皇ごとばじょうこうが鎌倉幕府を討とうとして挙兵し、敗れた内乱。上横手雅敬原因1202年(建仁2)朝廷で権力を振るっていた源通親みなもとのみちちかが没し、
3. 承久の乱
世界大百科事典
1221年(承久3)後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げ,逆に幕府軍に大敗,鎮圧された事件。 前史 幕府成立の当初に厳しい対立・抗争を展開した公家・
4. じょうきゅうのらん【承久の乱】画像
国史大辞典
この課題にはじめて本格的考察を加えた上横手雅敬は、承久の乱は幕府の立場からいえば「新な専制支配をうちたてた一種のテルミドール」だと規定した(「承久の乱の歴史的評
5. じょうきゅうのらん【承久の乱】 : 墨俣川の戦/(二)
国史大辞典
(二)承久の乱  承久三年(一二二一)五月、後鳥羽上皇は、城南宮の流鏑馬に託して近畿の兵を集め、京都守護の伊賀光季を討って執権北条義時討伐の院宣を下した。これ
6. 承久の乱
日本史年表
1221年〈承久3 辛巳⑩〉 5・15 上皇 ,京都守護伊賀光季を討ち,北条義時追討の宣旨を下す( 承久の乱 )(吾)。
7. 承久の乱[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
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8. 承久の乱後の新地頭補任地一覧1[図版]画像
国史大辞典
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9. 承久の乱後の新地頭補任地一覧2[図版]画像
国史大辞典
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10. 承久の乱後の没官守護職[図版]画像
国史大辞典
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11. 承久の乱両軍勢力地図[図版]画像
国史大辞典
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12. あいおいし【相生市】兵庫県
日本歴史地名大系
那波野・佐方野・莇野・雨内野のそれぞれにおいて拠点(住)が設けられ開発が進められていた結果を示すものとされる。承久の乱後は相模国出身の海老名氏(別名の下司、例名
13. あいざわはら【藍沢原】静岡県:駿東郡
日本歴史地名大系
仁治二年(一二四一)九月一四日には北条経時が「藍沢」で熊・猪・鹿を射ている。承久三年(一二二一)の承久の乱後、幕府によって首謀者として捕らえられ、鎌倉に送られた
14. あいずみちょう【藍住町】徳島県:板野郡
日本歴史地名大系
その西側現富吉地区から現板野町川端にわたる地域に富吉庄、西端の東中富一帯に光富保が成立したと考えられる。承久の乱の結果、承久三年(一二二一)土御門上皇は土佐国に
15. 愛知[県]画像
世界大百科事典
った。中世には,木曾川をはさんでこの地はしばしば東西勢力の接触する場となり,源平の墨俣合戦,承久の乱の木曾川の戦などがおこった。その後の地域発展の歴史的基盤をな
16. あいちぐん【愛知郡】愛知県
日本歴史地名大系
南部方面に建立された。〔中世〕鎌倉時代の初め、大屋安資が源頼朝から尾張の治安維持を命じられ、承久の乱が起きると、山田庄の実力者山田重忠はじめ尾張源氏の大部分が京
17. あいばじょうあと【相羽城跡】岐阜県:揖斐郡/大野町/相羽村
日本歴史地名大系
遺物が発掘されている。「尊卑分脈」によれば、土岐氏の一族光俊が饗庭氏を名乗っているが、当城は承久の乱で戦死したという光俊の築城とされる(新撰美濃志)。その孫の国
18. あえばのしょう【饗庭庄】岐阜県:揖斐郡/大野町/相羽村
日本歴史地名大系
子に相続されたと思われるが、広綱など四人の子は承久の乱で京方に味方したため処刑された。土岐光行は後鳥羽院の西面の武士であったが、おそらく承久の乱では関東方につい
19. 青砥藤綱
世界大百科事典
鎌倉中期の武士。生没年不詳。青砥氏は伊豆国住人大場十郎近郷が承久の乱の功による恩賞として賜った上総国青砥荘を本貫とする。藤綱は28歳のとき北条時頼に仕え,以後評
20. あおとふじつな【青砥藤綱】
国史大辞典
生没年不詳 鎌倉時代の武土。左衛門尉。『弘長記』によれば、青砥氏はその祖伊豆国の住人大場十郎近郷が承久の乱の功によって賜わった上総国青砥荘を相伝していたが、父藤
21. あおとふじつな【青砥藤綱】
日本架空伝承人名事典
鎌倉中期の武士。生没年不詳。青砥氏は伊豆国住人大場十郎近郷が承久の乱の功による恩賞として賜った上総国青砥荘を本貫とする。藤綱は二八歳のとき北条時頼に仕え、以後評
22. あかぎ【赤木・赤城】
日本国語大辞典
その三男親忠が同郡内の赤木郷に住して、赤木を名のったとされる。鎌倉期には、その親忠の子忠長が承久の乱での功によって、備中国川上郡穴田郷の地頭職を得て、同地に遷り
23. あかなのしょう【赤穴庄】島根県:飯石郡/赤来町
日本歴史地名大系
また嘉暦元年(一三二六)八月一二日の赤穴八幡宮神像胎内銘札には紀季実の名がみえ、この一族が源平争乱や承久の乱の影響を受けることなく赤穴庄を支配したことがわかる。
24. あかなべのしょう【茜部庄】岐阜県:岐阜市/旧厚見郡地区
日本歴史地名大系
目録に「黒田・茜部等沙汰文書 武士押妨事」とあるのみである。当庄により大きな変動を与えたのは承久の乱である。美濃国の源氏をはじめとする多くの武士は京方に付き、乱
25. 茜部荘
世界大百科事典
であった。平安末までには年貢収取のために名編成がなされたと考えられる。鎌倉期になると,下司が承久の乱に京方にくみしたことによって下司職が没収され,代わって地頭職
26. あきづきのしょう【秋月庄】徳島県:阿波郡
日本歴史地名大系
た御願寺である法金剛院の所領は待賢門院の死後、その娘上西門院統子内親王から宣陽門院に譲られ、承久の乱後幕府に一度没収されるものの、のち還付されて宣陽門院の養女鷹
27. 安芸国
世界大百科事典
為忠の壬生荘地頭職を取り上げ小代行平に与えた事例とともに,幕府の西国武士抑圧策の一環である。承久の乱(1221)にあたり,宗孝親をはじめ厳島神主佐伯氏,葉山氏な
28. あきのくに【安芸国】画像
国史大辞典
平家納経以下の宝物類に国風文化の粋が集められたことはいうまでもない。鎌倉時代には関東御家人が守護に任ぜられ、承久の乱後は甲斐の武田信光が任命された。ついで周防前
29. あきのくに【安芸国】広島県
日本歴史地名大系
いた周防国守護職の代りに安芸国守護に任ぜられた。親実はそれ以前の承久の乱後に厳島神社神主に任ぜられていた。これはおそらく承久の乱で厳島神主が京方に味方する動きが
30. あきるのし【あきる野市】東京都地図
日本歴史地名大系
・小宮氏らが台頭した。彼らは鎌倉幕府の設立に尽力し、御家人として幕府の統制下に入った。次いで承久の乱にも功績をあげ、小川氏は薩摩国の甑島(現鹿児島県薩摩郡)、小
31. あさいむら【浅井村】愛知県:稲沢市
日本歴史地名大系
分の浅井堀内がみられる。中島氏は奈良時代以来中島郡司を勤め(尾張正税帳)、中島左衛門尉宣長は承久の乱で朝廷方についた(吾妻鏡)。天正三年(一五七五)織田信長が代
32. あさくらじょうあと【朝倉城跡】兵庫県:養父郡/八鹿町/朝倉村
日本歴史地名大系
代わって青木勘兵衛が在番している(武功夜話)。「朝倉の城」が朝倉城と朝倉向山城のどちらなのか不明。朝倉氏は承久の乱で朝倉八郎信高が後鳥羽上皇方に与同して(承久記
33. あさくらのしょう【朝倉庄】兵庫県:養父郡/八鹿町
日本歴史地名大系
守頼重(法名実円)である。当庄は日下部一族でのち越前の大名となる朝倉氏の本貫地と思われるが、承久の乱に朝倉八郎(信高)が京方につき(承久記)、所領を没収されたた
34. あさくらまち【朝倉町】福岡県:朝倉郡
日本歴史地名大系
庄が成立していた。鎌倉時代には六勝寺の一つ尊勝寺(現京都市左京区)領長淵庄が成立していたが、承久の乱後に没収され、文永・弘安の役の恩賞地となり、深堀氏(肥前)、
35. あさごぐん【朝来郡】兵庫県
日本歴史地名大系
れたあと頼盛に返却されているが(「吾妻鏡」寿永三年四月六日条)、関東御領の前身も平家没官領や承久の乱後の没官領であろう。正治元年(一一九九)伊由庄は旱魃のあと大
36. あさのむら【浅野村】岐阜県:土岐市
日本歴史地名大系
)から浅野の里に館を構え移ったと記す。光行は鎌倉幕府御家人でありまた後鳥羽院の西面の武士で、承久の乱では朝廷方について大井戸渡(現可児市)で鎌倉幕府軍と戦ってい
37. 朝日氏
世界大百科事典
本領とする清和源氏大野氏の一族。八条院判官代頼清が〈朝日判官代〉と称したのにはじまる。頼清とその子頼重は,承久の乱で京方として木曾川の渡しを防衛していたが討たれ
38. あさひまち【朝日町】富山県:下新川郡
日本歴史地名大系
永正年間(一五〇四―二一)には境の関の存在が知られ、古来幾度となく国外勢力との紛争の場となった。源平の争乱・承久の乱では当地の武士団宮崎党の活躍が知られる。源平
39. 足利義氏
世界大百科事典
義兼の三男で正嫡。母は北条時政女。室は北条泰時女。1213年(建保1)和田氏の乱で武名をあげ,承久の乱では東海道軍の将として活躍した。三河の守護となり,おそらく
40. あしかがよしうじ【足利義氏】画像
国史大辞典
建保元年(一二一三)和田義盛の乱に際しては、若年ながら義盛の子で剛勇の朝比奈義秀と渡り合い武名をあげた。承久の乱には北条泰時に従って東海道を上り、乱後恩賞として
41. あしかがよしうじ【足利義氏】 : 足利義氏/(一)
国史大辞典
建保元年(一二一三)和田義盛の乱に際しては、若年ながら義盛の子で剛勇の朝比奈義秀と渡り合い武名をあげた。承久の乱には北条泰時に従って東海道を上り、乱後恩賞として
42. あしがらのせき【足柄関】
国史大辞典
れる。しかし、足柄関の名は後世まで歌に読まれ、また、ここが関東を守る要害とされていたことは、承久の乱に足柄・箱根の関を固めようとする意見があったことによってもわ
43. あしがらのせき【足柄関】神奈川県:南足柄市/矢倉沢村地図
日本歴史地名大系
けん跡たにもなし」と詠じており(明日香井集)、この頃には関も廃絶していたらしい。しかし同年の承久の乱では、五月に北条義時追討の宣旨が出ると幕府内に「所詮固
44. あじきのしょう【安食庄】愛知県:名古屋市
日本歴史地名大系
地頭設置の年代は不詳だが、承久四年(一二二二)正月の醍醐寺解案(醍醐寺文書)に「去年合戦以後地頭改補」とみえ、承久の乱後改補された。新補地頭は早くもこの時荘務押
45. 安食荘
世界大百科事典
在家70宇。東は柏井荘,西は味鏡(あじま)郷・高田保と隣接。美絹町別1疋,菓子,酒等を負担。承久の乱後改補された地頭の押妨に対し,1281年(弘安4)開発相伝領
46. あじきのしょう【安食荘】
国史大辞典
後期に入ると銭納が一般的となった。光弘五郎丸名主毛受氏は開発領主を称し、弘安以降預所として年貢を請け負う。承久の乱後、改補された地頭の押領も顕著となり、両者の所
47. あじょうさんしょじんじゃ【阿上三所神社】京都府:船井郡/和知町/坂原村
日本歴史地名大系
祭神国常立尊・伊弉諾尊・伊弉冊尊。旧村社。江戸時代には「阿上大明神」と称した(寺社類集)。創立は、承久の乱後武蔵国片山郷から来住した新補地頭片山氏の後裔三郎左衛
48. あせりむら【安栖里村】京都府:船井郡/和知町
日本歴史地名大系
西の稲次村への道が通る。南は質美村(現瑞穂町)、北は由良川を越えて坂原・角の諸村。園部藩領。承久の乱後、武蔵片山郷(現埼玉県新座市)から和智庄の新補地頭として来
49. あだちかげもり【安達景盛】
国史大辞典
大蓮房覚智(地)と号し、やがて高野山に入って、実朝菩提のために金剛三昧院を建立し、高野入道と称された。承久の乱では北条時房に属して戦い、京方の軍兵を栂尾に追った
50. あだちし【足立氏】画像
国史大辞典
一族であろう。 (二)丹波国の足立氏  氷上郡の足立氏は遠元の孫遠政に始まると称する。遠政が承久の乱の恩賞として同郡佐治郷を与えられて来住したという。以来この郡
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1669年(寛文9)6月,北海道日高のシブチャリ(現新ひだか町,旧静内町)を拠点に松前藩の収奪に抵抗して起きた近世最大のアイヌ民族の蜂起。近世初頭以来日高沿岸部のシブチャリ地方のアイヌ(メナシクル(東の人の意)の一部)とハエ(現日高町,旧門別町)地方
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元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
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延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
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