1. じょうきゅう の 乱(らん・みだれ)
日本国語大辞典
公家方の没収所領への地頭を配置するなど、幕府の絶対的優位が確立した。*文机談〔1283頃〕三「承久の乱といふこといできにける後は」ジョーキューノラン
2. 承久の乱画像
日本大百科全書
後鳥羽上皇ごとばじょうこうが鎌倉幕府を討とうとして挙兵し、敗れた内乱。上横手雅敬原因1202年(建仁2)朝廷で権力を振るっていた源通親みなもとのみちちかが没し、
3. 承久の乱
世界大百科事典
1221年(承久3)後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げ,逆に幕府軍に大敗,鎮圧された事件。 前史 幕府成立の当初に厳しい対立・抗争を展開した公家・
4. じょうきゅうのらん【承久の乱】画像
国史大辞典
この課題にはじめて本格的考察を加えた上横手雅敬は、承久の乱は幕府の立場からいえば「新な専制支配をうちたてた一種のテルミドール」だと規定した(「承久の乱の歴史的評
5. じょうきゅうのらん【承久の乱】 : 墨俣川の戦/(二)
国史大辞典
(二)承久の乱 承久三年(一二二一)五月、後鳥羽上皇は、城南宮の流鏑馬に託して近畿の兵を集め、京都守護の伊賀光季を討って執権北条義時討伐の院宣を下した。これ
6. 承久の乱
日本史年表
1221年〈承久3 辛巳⑩〉 5・15 上皇 ,京都守護伊賀光季を討ち,北条義時追討の宣旨を下す( 承久の乱 )(吾)。
7. 承久の乱[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
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8. 承久の乱後の新地頭補任地一覧1[図版]画像
国史大辞典
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9. 承久の乱後の新地頭補任地一覧2[図版]画像
国史大辞典
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10. 承久の乱後の没官守護職[図版]画像
国史大辞典
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11. 承久の乱両軍勢力地図[図版]画像
国史大辞典
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12. あいおいし【相生市】兵庫県
日本歴史地名大系
那波野・佐方野・莇野・雨内野のそれぞれにおいて拠点(住)が設けられ開発が進められていた結果を示すものとされる。承久の乱後は相模国出身の海老名氏(別名の下司、例名
13. あいざわはら【藍沢原】静岡県:駿東郡
日本歴史地名大系
仁治二年(一二四一)九月一四日には北条経時が「藍沢」で熊・猪・鹿を射ている。承久三年(一二二一)の承久の乱後、幕府によって首謀者として捕らえられ、鎌倉に送られた
14. あいずみちょう【藍住町】徳島県:板野郡
日本歴史地名大系
その西側現富吉地区から現板野町川端にわたる地域に富吉庄、西端の東中富一帯に光富保が成立したと考えられる。承久の乱の結果、承久三年(一二二一)土御門上皇は土佐国に
15. 愛知[県]画像
世界大百科事典
った。中世には,木曾川をはさんでこの地はしばしば東西勢力の接触する場となり,源平の墨俣合戦,承久の乱の木曾川の戦などがおこった。その後の地域発展の歴史的基盤をな
16. あいちぐん【愛知郡】愛知県
日本歴史地名大系
南部方面に建立された。〔中世〕鎌倉時代の初め、大屋安資が源頼朝から尾張の治安維持を命じられ、承久の乱が起きると、山田庄の実力者山田重忠はじめ尾張源氏の大部分が京
17. あいばじょうあと【相羽城跡】岐阜県:揖斐郡/大野町/相羽村
日本歴史地名大系
遺物が発掘されている。「尊卑分脈」によれば、土岐氏の一族光俊が饗庭氏を名乗っているが、当城は承久の乱で戦死したという光俊の築城とされる(新撰美濃志)。その孫の国
18. あえばのしょう【饗庭庄】岐阜県:揖斐郡/大野町/相羽村
日本歴史地名大系
子に相続されたと思われるが、広綱など四人の子は承久の乱で京方に味方したため処刑された。土岐光行は後鳥羽院の西面の武士であったが、おそらく承久の乱では関東方につい
19. 青砥藤綱
世界大百科事典
鎌倉中期の武士。生没年不詳。青砥氏は伊豆国住人大場十郎近郷が承久の乱の功による恩賞として賜った上総国青砥荘を本貫とする。藤綱は28歳のとき北条時頼に仕え,以後評
20. あおとふじつな【青砥藤綱】
国史大辞典
生没年不詳 鎌倉時代の武土。左衛門尉。『弘長記』によれば、青砥氏はその祖伊豆国の住人大場十郎近郷が承久の乱の功によって賜わった上総国青砥荘を相伝していたが、父藤
21. あおとふじつな【青砥藤綱】
日本架空伝承人名事典
鎌倉中期の武士。生没年不詳。青砥氏は伊豆国住人大場十郎近郷が承久の乱の功による恩賞として賜った上総国青砥荘を本貫とする。藤綱は二八歳のとき北条時頼に仕え、以後評
22. あかぎ【赤木・赤城】
日本国語大辞典
その三男親忠が同郡内の赤木郷に住して、赤木を名のったとされる。鎌倉期には、その親忠の子忠長が承久の乱での功によって、備中国川上郡穴田郷の地頭職を得て、同地に遷り
23. あかなのしょう【赤穴庄】島根県:飯石郡/赤来町
日本歴史地名大系
また嘉暦元年(一三二六)八月一二日の赤穴八幡宮神像胎内銘札には紀季実の名がみえ、この一族が源平争乱や承久の乱の影響を受けることなく赤穴庄を支配したことがわかる。
24. あかなべのしょう【茜部庄】岐阜県:岐阜市/旧厚見郡地区
日本歴史地名大系
目録に「黒田・茜部等沙汰文書 武士押妨事」とあるのみである。当庄により大きな変動を与えたのは承久の乱である。美濃国の源氏をはじめとする多くの武士は京方に付き、乱
25. 茜部荘
世界大百科事典
であった。平安末までには年貢収取のために名編成がなされたと考えられる。鎌倉期になると,下司が承久の乱に京方にくみしたことによって下司職が没収され,代わって地頭職
26. あきづきのしょう【秋月庄】徳島県:阿波郡
日本歴史地名大系
た御願寺である法金剛院の所領は待賢門院の死後、その娘上西門院統子内親王から宣陽門院に譲られ、承久の乱後幕府に一度没収されるものの、のち還付されて宣陽門院の養女鷹
27. 安芸国
世界大百科事典
為忠の壬生荘地頭職を取り上げ小代行平に与えた事例とともに,幕府の西国武士抑圧策の一環である。承久の乱(1221)にあたり,宗孝親をはじめ厳島神主佐伯氏,葉山氏な
28. あきのくに【安芸国】画像
国史大辞典
平家納経以下の宝物類に国風文化の粋が集められたことはいうまでもない。鎌倉時代には関東御家人が守護に任ぜられ、承久の乱後は甲斐の武田信光が任命された。ついで周防前
29. あきのくに【安芸国】広島県
日本歴史地名大系
いた周防国守護職の代りに安芸国守護に任ぜられた。親実はそれ以前の承久の乱後に厳島神社神主に任ぜられていた。これはおそらく承久の乱で厳島神主が京方に味方する動きが
30. あきるのし【あきる野市】東京都地図
日本歴史地名大系
・小宮氏らが台頭した。彼らは鎌倉幕府の設立に尽力し、御家人として幕府の統制下に入った。次いで承久の乱にも功績をあげ、小川氏は薩摩国の甑島(現鹿児島県薩摩郡)、小
31. あさいむら【浅井村】愛知県:稲沢市
日本歴史地名大系
分の浅井堀内がみられる。中島氏は奈良時代以来中島郡司を勤め(尾張正税帳)、中島左衛門尉宣長は承久の乱で朝廷方についた(吾妻鏡)。天正三年(一五七五)織田信長が代
32. あさくらじょうあと【朝倉城跡】兵庫県:養父郡/八鹿町/朝倉村
日本歴史地名大系
代わって青木勘兵衛が在番している(武功夜話)。「朝倉の城」が朝倉城と朝倉向山城のどちらなのか不明。朝倉氏は承久の乱で朝倉八郎信高が後鳥羽上皇方に与同して(承久記
33. あさくらのしょう【朝倉庄】兵庫県:養父郡/八鹿町
日本歴史地名大系
守頼重(法名実円)である。当庄は日下部一族でのち越前の大名となる朝倉氏の本貫地と思われるが、承久の乱に朝倉八郎(信高)が京方につき(承久記)、所領を没収されたた
34. あさくらまち【朝倉町】福岡県:朝倉郡
日本歴史地名大系
庄が成立していた。鎌倉時代には六勝寺の一つ尊勝寺(現京都市左京区)領長淵庄が成立していたが、承久の乱後に没収され、文永・弘安の役の恩賞地となり、深堀氏(肥前)、
35. あさごぐん【朝来郡】兵庫県
日本歴史地名大系
れたあと頼盛に返却されているが(「吾妻鏡」寿永三年四月六日条)、関東御領の前身も平家没官領や承久の乱後の没官領であろう。正治元年(一一九九)伊由庄は旱魃のあと大
36. あさのむら【浅野村】岐阜県:土岐市
日本歴史地名大系
)から浅野の里に館を構え移ったと記す。光行は鎌倉幕府御家人でありまた後鳥羽院の西面の武士で、承久の乱では朝廷方について大井戸渡(現可児市)で鎌倉幕府軍と戦ってい
37. 朝日氏
世界大百科事典
本領とする清和源氏大野氏の一族。八条院判官代頼清が〈朝日判官代〉と称したのにはじまる。頼清とその子頼重は,承久の乱で京方として木曾川の渡しを防衛していたが討たれ
38. あさひまち【朝日町】富山県:下新川郡
日本歴史地名大系
永正年間(一五〇四―二一)には境の関の存在が知られ、古来幾度となく国外勢力との紛争の場となった。源平の争乱・承久の乱では当地の武士団宮崎党の活躍が知られる。源平
39. 足利義氏
世界大百科事典
義兼の三男で正嫡。母は北条時政女。室は北条泰時女。1213年(建保1)和田氏の乱で武名をあげ,承久の乱では東海道軍の将として活躍した。三河の守護となり,おそらく
40. あしかがよしうじ【足利義氏】画像
国史大辞典
建保元年(一二一三)和田義盛の乱に際しては、若年ながら義盛の子で剛勇の朝比奈義秀と渡り合い武名をあげた。承久の乱には北条泰時に従って東海道を上り、乱後恩賞として
41. あしかがよしうじ【足利義氏】 : 足利義氏/(一)
国史大辞典
建保元年(一二一三)和田義盛の乱に際しては、若年ながら義盛の子で剛勇の朝比奈義秀と渡り合い武名をあげた。承久の乱には北条泰時に従って東海道を上り、乱後恩賞として
42. あしがらのせき【足柄関】
国史大辞典
れる。しかし、足柄関の名は後世まで歌に読まれ、また、ここが関東を守る要害とされていたことは、承久の乱に足柄・箱根の関を固めようとする意見があったことによってもわ
43. あしがらのせき【足柄関】神奈川県:南足柄市/矢倉沢村地図
日本歴史地名大系
けん跡たにもなし」と詠じており(明日香井集)、この頃には関も廃絶していたらしい。しかし同年の承久の乱では、五月に北条義時追討の宣旨が出ると幕府内に「所詮固
44. あじきのしょう【安食庄】愛知県:名古屋市
日本歴史地名大系
地頭設置の年代は不詳だが、承久四年(一二二二)正月の醍醐寺解案(醍醐寺文書)に「去年合戦以後地頭改補」とみえ、承久の乱後改補された。新補地頭は早くもこの時荘務押
45. 安食荘
世界大百科事典
在家70宇。東は柏井荘,西は味鏡(あじま)郷・高田保と隣接。美絹町別1疋,菓子,酒等を負担。承久の乱後改補された地頭の押妨に対し,1281年(弘安4)開発相伝領
46. あじきのしょう【安食荘】
国史大辞典
後期に入ると銭納が一般的となった。光弘五郎丸名主毛受氏は開発領主を称し、弘安以降預所として年貢を請け負う。承久の乱後、改補された地頭の押領も顕著となり、両者の所
47. あじょうさんしょじんじゃ【阿上三所神社】京都府:船井郡/和知町/坂原村
日本歴史地名大系
祭神国常立尊・伊弉諾尊・伊弉冊尊。旧村社。江戸時代には「阿上大明神」と称した(寺社類集)。創立は、承久の乱後武蔵国片山郷から来住した新補地頭片山氏の後裔三郎左衛
48. あせりむら【安栖里村】京都府:船井郡/和知町
日本歴史地名大系
西の稲次村への道が通る。南は質美村(現瑞穂町)、北は由良川を越えて坂原・角の諸村。園部藩領。承久の乱後、武蔵片山郷(現埼玉県新座市)から和智庄の新補地頭として来
49. あだちかげもり【安達景盛】
国史大辞典
大蓮房覚智(地)と号し、やがて高野山に入って、実朝菩提のために金剛三昧院を建立し、高野入道と称された。承久の乱では北条時房に属して戦い、京方の軍兵を栂尾に追った
50. あだちし【足立氏】画像
国史大辞典
一族であろう。 (二)丹波国の足立氏 氷上郡の足立氏は遠元の孫遠政に始まると称する。遠政が承久の乱の恩賞として同郡佐治郷を与えられて来住したという。以来この郡