松平定信『宇下人言』、渋沢栄一『楽翁公伝』、津田秀夫「寛政改革」(『(岩波講座)日本歴史』一二所収)、竹内誠「寛政改革」(『(岩波講座)日本歴史』一二所収)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
江戸後期、老中松平定信 (さだのぶ)(在職1787~93)が主導した幕府の政治改革。享保 (きょうほう)の改革、天保 (てんぽう)の改革とともに、幕政の三大改革といわれる。
寛政の改革の前代は、老中田沼意次 (おきつぐ)が政権を握っていた、いわゆる田沼時代である。田沼は、年貢増徴が頭打ちとなったので、重商主義的な政策を導入し、幕府の新たな財源を米穀生産以外の商品生産に求めた。たとえば、株仲間の特権を認めるとともに、運上・冥加金 (みょうがきん)を徴収した。そのため、利権をめぐって役人と商人との癒着が顕著となり、賄賂 (わいろ)が社会的風潮とさえなった。一方、農政の不在により農村の荒廃が進行し、没落貧農は次々に村を離れて都市の下層社会に流入、都市の社会秩序も大きく動揺した。田沼末期に発生した天明 (てんめい)の大飢饉 (ききん)は、こうした傾向にいっそうの拍車をかけ、改革前夜には、幕府財政の窮乏は深刻となり、百姓一揆 (いっき)・都市打毀 (うちこわし)は前代未聞の高揚をみせた。
白河藩主松平定信は、この難局を打開するため、御三家 (ごさんけ)や11代将軍徳川家斉 (いえなり)の実父一橋治済 (ひとつばしはるさだ)の強力な推薦を受け、1787年(天明7)6月老中に就任、幕政の改革を開始した。定信は8代将軍吉宗 (よしむね)の孫であり、新参 (しんざん)成り上がりの田沼の政治に対し不満をもつ大名グループの指導者であった。彼は老中に就任するや、これら同志の大名を次々に幕府の要職に登用し、改革推進の体制固めを行った。老中松平信明 (のぶあきら)・本多忠籌 (ただかず)は、その中心メンバーであった。定信はけっして独裁せず、改革の重要政策は彼らと十分協議し、さらに御三家および一橋治済の意見を聞いたうえで実施された。定信は率先して倹約を励行し、華美な風俗を取り締まり、綱紀を粛正した。田沼の賄賂政治に飽いた人々は、満28歳のこの青年宰相の登場に大きな期待をかけた。
定信は田沼政治を批判し、まず農政に重点を置いた。財政の基礎は、なんといっても年貢米にあったからである。荒廃した農村の復興を図り、農業人口の増加と荒れ地の復旧に努めた。農具代・種籾 (たねもみ)代の恩貸令、その返済猶予令、他国出稼 (でかせぎ)制限令、旧里帰農奨励令などはその具体策であった。また飢饉に備え、各地に籾蔵 (もみぐら)を設けた。さらに年貢徴収役人である代官の不正を厳しく取り締まった。改革政治は、農村政策とともに都市政策にも力を注いだ。とくに将軍の膝元 (ひざもと)の江戸では、改革直前の1787年(天明7)5月に、数日間にわたる打毀騒動があり、その再発防止が緊要の課題であった。無宿者を収容する石川島人足寄場 (にんそくよせば)の設置や、窮民救済のための七分積金 (しちぶつみきん)令と町会所の設置は、明らかに貧民蜂起 (ほうき)の予防策であった。江戸へ流入した農民で故郷へ帰農を願い出た者には、旅費や農具代を与えるという旧里帰農奨励令は、打毀の主体となる都市貧民を少なくし、あわせて農村人口を増加させようという、一石二鳥の政策であった。流通市場の統制にもみるべきものがあった。物価の引下げや米価の調節に熱心に取り組み、また上方 (かみがた)経済圏に対し関東経済圏の相対的地位の引上げに努めた。江戸の豪商10名を勘定所御用達 (ごようたし)に登用したり、上方からの下り酒に対抗して、関東上酒の試造を豪農に命じたりしたのもそのためである。金融市場の統制にはとくに積極的であった。公金の低利貸付を盛んに行い、民間金融市場の利子率の引下げを促した。旗本・御家人 (ごけにん)の困窮財政を救うため、札差棄捐 (ふださしきえん)令を発したのは有名であるが、金融業者札差の受けた損害は実に118万両余にも上った。このほか情報・思想統制にも力を入れ、出版の取締りを強化するとともに、異学の禁を出して、朱子学のいっそうの振興を図った。なお異学の禁は、幕府に忠実な封建官僚育成の意図をも有していた。
このような徹底した統制政策や行政改革の実施により、幕府財政は赤字から黒字に転じ、若干の備金さえ生じた。また石川島人足寄場や町会所、あるいは勘定所御用達の制度など、寛政の改革で創設されたもので幕末期まで存続している例が多い。これらは寛政の改革の大きな成果といえよう。しかし1793年(寛政5)7月、定信は突然老中を解任された。ロシアの使節ラクスマンの来航に端を発する外交や沿岸防備の問題に重大な決意をもって臨んでいた最中であり、不本意な解任であった。その背景として、光格 (こうかく)天皇が生父閑院宮典仁 (かんいんのみやすけひと)親王に太上 (だいじょう)天皇の称号を贈ろうとし、定信がこれに反対した尊号一件、将軍家斉が実父一橋治済を江戸城西の丸に迎えて大御所 (おおごしょ)と崇 (あが)めようとしたのを定信がいさめた大御所問題などにより、家斉・治済らと定信との対立が深刻化したことが指摘できよう。しかし定信退場の最大の理由は、当時の落首に「白河の清きに魚もすみかねて元の濁りの田沼恋しき」とあるように、そのあまりに厳しい緊縮政治に士庶の不満が集中したためであった。
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江戸後期の幕政改革。享保,寛政,天保の三大改革の一つ。1787年(天明7)より93年(寛政5)までの6年間,老中松平定信が中心となって断行した幕政全般にわたる改革をいう。
寛政改革直前の社会状況は,老中田沼意次による重商主義的な政策の破綻により,農村,都市ともに深刻な危機に見舞われた。農村では農業人口が減少し,耕地の荒廃が進み,重い年貢や小作料の収奪に苦しむ農民たちによる百姓一揆が激化した。1783-86年に続発した天災,飢饉(天明の飢饉)は,農村の荒廃にいっそうの拍車をかけ,都市に流入する離村農民が顕著にみられた。農村は領主財政の基盤であったため,年貢収入の激減により幕府財政は極度に窮迫した。都市の社会秩序もまた,この時期に大きく動揺した。田沼の重商主義的な政策に便乗した商人の物価つり上げに苦しむ生活困窮者や,都市に流れ込む没落貧農の増加により,都市下層貧民層が急速に増大した。彼らは,米穀買占めなどの不正が行われたり,飢饉により米価が極端に高騰したりすると,たちまち都市打毀(うちこわし)の主体勢力となった。天明期は,百姓一揆とともに,都市打毀の前代未聞の激発期でもあった。田沼時代の末期には,領主階級の内部もさまざまな矛盾を露呈した。賄賂による役人の出世が横行したため,出世からはずれた無役や下級の幕臣たちの中には,為政者としての自覚を喪失する者が多くなった。いわゆる士風の退廃である。また伝統的な重農政策を幕政の基本とすべきことを主張する門閥譜代大名層と,新参成り上がりの田沼意次を支持する大名層との対立も顕在化し,幕府の権威は著しく低下した。
寛政改革は,以上のような幕藩体制の全構造的危機を打開するために要請されたのである。本百姓体制の再建,都市社会秩序の再編,大名・旗本の統制強化の実現を通じて,幕府権威の回復と階級闘争の鎮静化をはかり,究極的には幕府財政を再建することが改革の課題であった。白河藩主松平定信は,御三卿の田安宗武の子つまり8代将軍徳川吉宗の孫という毛並みのよさと,天明大飢饉をみごとに乗り切った白河藩政の実績をかわれ,1787年6月に老中首座に就任,改革政治に着手した。定信は翌88年3月,若年の11代将軍家斉の補佐役をも兼ねることになり,改革遂行の実権を完全に掌握した。まず人事の刷新を行い,田沼期以来の老中を解任し,かわって松平信明(のぶあきら),松平乗完(のりさだ),本多忠籌(ただかず),戸田氏教ら定信と志を同じくする大名を次々に老中に登用した。不正役人を厳罰に処したり,うずもれた人材を抜擢するなど,旗本の人事も大幅に刷新し,諸役人の綱紀を粛正した。また改革政治の実務を担う諸役人が,経済的に困窮していては,再び不正を生む余地が生じるので,彼らの札差からの借金を棒引きにする札差棄捐(きえん)令を発し,旗本の困窮財政の救済をはかった。
大名・旗本に対する幕府の権威回復も,改革の主要な課題であった。そのため,彼らに先祖書の提出を命じ,各家の歴代将軍に対する忠誠度を改めて確認させた。なおこの先祖書の提出は,大名・旗本の系図集である《寛政重修諸家譜》の編纂事業の契機となった。改革政治は,松平定信の強力な指導のもとに推進されたが,政策の決定にあたって定信は,かならず御三家の尾張,紀伊,水戸と御三卿の一橋に対して意見をもとめている。このような御三家,御三卿の幕政への参加も,幕府権威の回復にきわめて有効に作用したと思われる。
寛政改革の農村政策は,まず天明の飢饉により荒廃した農村を復興し,本百姓体制を再建することであった。具体的には,農業人口の回復増加と耕地面積の復旧拡大を目ざした。そのため,夫食(ぶじき),農具代の恩貸とその返済猶予令,他国への出稼ぎ制限令,江戸に流入した農民に対する旧里帰農奨励令などを発した。また飢饉対策として備荒貯穀を奨励し,村々に籾蔵を設置した。さらに〈荒地起返幷小児養育御手当御貸付金〉という名目の公金貸付けを実施している。これは諸国代官を通じて豪農層に利子1割前後で貸し付けられ,その年々の利金が耕地の復旧(荒地起返)や,農業人口の増加(小児養育)のための資金に活用された。このほか助郷村々助成手当とか用水普請助成手当などの名目の公金貸付けをさかんに行うなど,幕府は農政のなかに金融政策を積極的に導入した。この公金貸付政策の特色は,公金を借り幕府にその利金を年々納める豪農層の存在を前提にしている点である。このように寛政改革の農村政策は,推進の基盤を豪農層が担っていた。
次に商業・金融政策であるが,米価をはじめとする諸物価の平準化をはかるため,米穀や貨幣の相場操作の実権を,商人の手から幕府の側に取り戻すことを改革の基本方針とした。しかし相場を操作するためには,それ相当の資金を必要としたが,当時の幕府にそうした財政的余裕はなかった。そこで幕府は,江戸一流の豪商のなかから10名を選んで勘定所御用達に任命し,必要に応じて彼らの大きな資本とすぐれた商業手腕を利用することとした。事実,寛政改革の米価調節策は,この勘定所御用達と結託して推進された。1789年には低落した米価を引き上げるため,91年には高騰した米価を引き下げるため,それぞれ勘定所御用達に出金,買米を命じている。幕府は銭相場の引上げ策など貨幣政策についても,勘定所御用達に意見を徴しており,その財力のみならず,すぐれた商業知識にも依存することが多かった。また札差棄捐令により,118万両余にものぼる債権棄捐という大打撃をうけた札差を救済するため,幕府は猿屋町会所を設置し,この会所から札差に融資をすることとした。この会所資金の大半は,勘定所御用達の出資金によって賄われ,しかも貸付事務など会所の運営までもが,勘定所御用達に任された。田沼政治の特色の一つは,商業資本との結託にあり,寛政改革は逆に商業資本を抑圧したというのが通説である。しかし,寛政改革も勘定所御用達=商業資本と密接に結託しており,田沼の経済政策路線を継承する面が多かった。田沼期の政策と際だった違いをみせたのが,都市政策や思想・情報統制策であった。
寛政改革の都市政策は,とくに将軍の膝元である江戸の社会秩序の維持に腐心している。具体的には,天明年間に高揚した都市打毀(うちこわし)の再発防止であり,打毀の主体勢力の温床となっている江戸下層社会への対策である。旧里帰農奨励令,物価引下げ令,石川島人足寄場の設置,七分積金令などは,その代表的な政策であった。しかも旧里帰農奨励令にみられるごとく,この期の都市政策は農村政策と密接に関係していた。没落貧農の大量の江戸流入により,江戸下層社会が質的に変化したことを,幕府は危険視したのである。なお七分積金令は,江戸の町入用の節減高の70%を町会所に毎年積金し,その積金を窮民救済や低利融資にあてることを目的とするものであった。幕府は,この町会所積金の貸付事務も先述の勘定所御用達にゆだねており,さらに町会所籾蔵の備蓄米の買上げ,売払いは,勘定所御用達とは別に登用した米方御用達に担当させた。このように都市政策においても,寛政改革は豪商を政策推進の基盤とした。
また寛政改革は,思想,情報の統制にも熱心であった。1790年に幕府は林大学頭信敬に対し,朱子学を振興するため朱子学以外の儒学を禁じ,人材を取りたてるよう達した。いわゆる寛政異学の禁である。これは学問,思想の統制を通して,幕府に忠実な役人の育成と風俗矯正を意図するものであった。これと同時に出版統制令を発し,風俗をみだす好色本類や,政治批判を内容とする出版物を禁じた。事実,洒落本作家の山東京伝と版元の蔦屋重三郎は,この出版統制令違反で処罰された。寛政期は対外緊張が高まった時期でもある。外国船がしきりに日本の近海に出没し,とくにカムチャツカ半島を経て南下してきたロシアは,蝦夷地に住む日本人としばしば衝突した。1792年には通商を求めてロシアのラクスマンが根室に来航した。北方問題にはやくから重大な関心を寄せた幕府は,蝦夷地の地勢調査をするなど海防の緊要性を痛感していた。にもかかわらず,《三国通覧図説》《海国兵談》を著し海防の必要性を力説した林子平を処罰したのは,外交権や対外情報を独占している幕府の権威を侵すものと考えたからである。
以上のような寛政改革により,財政的にはわずかながら黒字に転じ,改革直前の深刻な財政危機を一応回避することができた。しかし物価引下げ令や旧里帰農奨励令などは,ほとんど成果を上げることができず,また倹約令を中心とする景気の極端な抑制策や,隠密を駆使しての徹底した教戒政治は,庶民のみならず武士階級内部からも強い反感をかい,1793年7月,ついに松平定信は将軍補佐役ならびに老中を解任された。当時の落首にも〈白河の清きに魚も住みかねて元の濁りの田沼恋しき〉とある。とくに解任直前には,定信は他の老中の意見をほとんど聞かず,幕閣から浮きあがっていたようである。定信解任の理由としてこのほかに,光格天皇が生父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとし,定信がこれに反対した〈尊号一件〉,さらに将軍家斉が実父の一橋治済を大御所として江戸城に迎え入れようとしたのを,定信がいさめたいわゆる大御所問題により,家斉・治済と定信との対立が深刻化したことが挙げられる。しかし寛政改革を定信とともに推進してきた老中松平信明らは,定信解任後も幕閣にとどまっており,これら〈寛政の遺老〉により,文化末年ごろまで寛政改革路線は継承されている面が多い。なお幕政改革と並んでこのころ,米沢藩,会津藩などにおいても藩政改革が行われた。
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