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寛政の改革

ジャパンナレッジで閲覧できる『寛政の改革』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

寛政の改革
かんせいのかいかく
江戸時代後期の幕政改革。老中松平定信の主導により天明七年(一七八七)から寛政五年(一七九三)まで、六年間にわたり断行された。享保・天保の改革と並び三大改革の一つに挙げられる。寛政の改革の前代は、老中田沼意次による政治が展開した。しかし田沼政治も末期を迎えると、その重商主義的な政策の矛盾がさまざまな分野で鋭く露呈した。領主財政の基盤である農村では、農業労働力の減少、荒地・手余り地の増加、農民闘争の激化等々により、本百姓体制は深刻な危機に見舞われた。天明期に相次いだ天災・飢饉も、農村の荒廃に一層の拍車をかけた。その結果、領主の年貢収入は激減し、幕府財政は極度に逼迫した。この時期には、都市の社会構造も変質した。物価高にあえぐ生活困窮者や、都市に流入する没落農民の増加により、都市下層貧民層が急速に増大したのである。かれらは、飢饉などで米穀払底・米価騰貴の現象が起きると、たちまち打毀しの行動に出るなど、反体制的な社会階層として都市の秩序を動揺させた。天明期は、百姓一揆の激発期であると同時に、前代無類の都市打毀しの昂揚期でもあった。さらに田沼政治の末期には、領主階級内部の矛盾も顕著になった。賄賂による役人の出世が横行し、無役や下級の幕臣の政治からの遊離が目立った。また尼崎藩の上知や大名領への幕府御用金の賦課などにみられるように、個別領主経済の自立性をおびやかす田沼政策は、幕府と藩との対立をも惹起した。寛政の改革は、以上のような幕藩制社会の全構造的な危機の克服をめざすものとして要請された。本百姓体制の再建、都市社会秩序の維持、大名・旗本の統制強化といった課題への対処を通して、階級闘争の鎮静と公儀権威の回復をはかり、窮極的には幕府財政の再建が期待されたのである。白河藩主松平定信は、そうした期待をになって天明七年六月老中首座となり、寛政の改革政治を開始した。かれは翌八年三月、将軍徳川家斉が若年のため将軍補佐役をも兼任し、強大な指導権を掌握した。これにより徹底した人事の刷新を断行した。田沼期以来の老中を解任し、松平信明・松平乗完・本多忠籌・戸田氏教ら定信と志を同じくする大名を次々に老中に登用した。諸役人に対しても綱紀の粛正をはかり、不正役人を大量に処罰した。たとえば天明八年から翌年にかけて、八名の代官が次々に遠島などの厳罰に処せられた。しかもこの大量処罰や人事の異動により、新しく代官に任命された者は、同期間のわずか一年半ほどの間に十九名にも達した。このような役人の新旧大量交代は、代官のみならずさまざまな役職にみられた。このほか幕府は大名・旗本に対して、それぞれ先祖書の提出を命じた。これは歴代将軍に対する忠節度を歴史的にあとづけることによって、改めて将軍を頂点とする大名・旗本の階層序列を明確化し、公儀権威の回復を意図したものであった。なおこの調査を契機として、のちに『寛政重修諸家譜』の編纂事業が開始された。改革政治の政策決定の在り方は、形式的には定信の独裁ではなく、幕閣合議制であった。しかし実態は定信の強力な指導・発議により、本多忠籌が主として政策立案の諮問にあずかり、松平信明がその政策を遂行する役割をになっており、他の老中はただ席を暖めているの感があった。松平定信政権にはもう一つ重要な性格があった。すなわち定信は、改革政治の政策決定に際し、御三家と将軍家斉の実父一橋治済にたえず相談している。このように「公儀之御備」である御三家・御三卿の幕政への参加は、公儀権威の回復に有効に作用した。こうして改革政治の権力主体を構成した定信は、農村政策・都市政策をはじめとする諸政策を強力に推進した。
 寛政の改革における農村政策の主眼は、農業人口の回復増加と耕地面積の復旧増大、すなわち本百姓経営の再創出をはかることにあった。夫食代・農具代の恩貸とその年賦返済猶予令、他国出稼制限令、および改革期間中三回も発令された旧里帰農奨励令(人返しの法)などは、いずれも本百姓体制再建のための具体策であった。さらに「荒地起返并小児養育御手当御貸附金」という名目の公金貸付政策を実施し、貸付高は寛政末年には約十五万両に達した。これは諸国代官を通じて豪農層に一割前後の利付貸をし、その年々の利金を活用することによって、耕地面積の復興(「荒地起返」)や農業労働力の増加(「小児養育」)を継続的にはかろうとするものであった。幕府はこのほか助郷村々助成手当とか用水普請助成手当等々の名目の公金貸付をも展開するなど、農政のなかに金融政策を積極的に導入した。この公金貸付政策の特色は、公金を借り、幕府に利金を納める豪農層の存在を必須とした点である。すなわち本百姓経営の再建・維持政策を実現するために、原則的にはそれと相反するような豪農層の成長を利用している。このように寛政の改革の農政推進の基盤を豪農層がになっていた点は十分注目してよい。また百姓一揆の一要因となる飢饉の対策として備荒貯穀を奨励し、村々に籾蔵を設置させた。次に商業・金融政策であるが、改革政治はその基本方針として「金穀之柄、上に帰し候事」をめざした。すなわち商業資本の掌中にある米穀・貨幣相場の操作の実権を、「上」=幕府の側に掌握することによって、米価をはじめとする物価の平準化をはかろうというのである。しかしその政策実現のためには、裏付けとしてのかなりの資金が必要であったが、当時の幕府にそうした財政的余裕はなかった。そこで幕府は江戸の豪商十名を勘定所御用達に登用し、商業・金融政策を遂行する際、必要に応じてかれらの大きな資本と、すぐれた商業知識を利用することとした。勘定所御用達の当初のメンバーは、頭取の三谷三九郎をはじめ、仙波太郎兵衛・鹿島清兵衛・堤弥三郎・松沢孫八・中井新右衛門・田村十右衛門・川村伝左衛門・森川五郎右衛門・竹原文右衛門の十名であり、その多くは両替商で大名貸などに活躍、江戸金融市場における実力者たちであった。寛政の改革の米価調節策は、この勘定所御用達と結託して推進された。寛政元年には低落した米価を引き上げるため、同三年には高値の米価を引き下げるため、それぞれ御用達に出金・買米を命じた。さらに旗本の困窮財政を救うため札差棄捐令を発し、札差の債権百十八万両余を棄捐にするという大弾圧を加えたが、幕府は札差への賠償的慰撫策として猿屋町貸金会所を設置し、この会所から札差に融資をすることとした。この会所資金の大半も、実は勘定所御用達の出資により賄われ、しかも貸付事務など、会所の運営も勘定所御用達に委ねられた。換言すれば、寛政の札差棄捐令は勘定所御用達の存在なくしては実現不可能だったのである。田沼政治と商業資本との結託が指摘されているが、寛政の改革もまた田沼のこうした経済政策路線を継承する面が多かった。田沼期に発行された南鐐二朱銀も、寛政の改革において増鋳は停止したが、通用を禁じたわけではなかった。むしろ改革の半ばからは、この南鐐二朱銀の流通促進を公金貸付政策とからめて積極的に打ち出しているほどであり、田沼の貨幣政策を色濃く継承している。寛政の改革は、それ以前の幕政に比し、都市政策、特に将軍膝下の江戸の社会秩序の維持に非常な力を入れた。具体的には都市打毀しの再発防止であり、打毀しの主体勢力の温床となっている江戸下層社会への対策である。旧里帰農奨励令、物価引下げ令、石川島人足寄場の設置、七分積金令はその代表的な政策であった。しかも旧里帰農奨励令にみられるごとく、この期の都市政策は、農村政策との関連において打ち出されているところに特徴があった。没落貧農の大量の江戸流入現象が、江戸下層社会の質的変化をもたらす一要因となっていることを、幕府がよく認識していたのである。なお七分積金令は、江戸の町入用の節減高の七〇%を町会所に毎年積金し、その積金を窮民救済や低利融資にあてることを目的とするものであった。幕府は、この町会所積金の運用事務も先述の勘定所御用達に委ねており、さらに町会所籾蔵の備蓄米の買上げ・売払いは、勘定所御用達とは別に登用した米方御用達に担当させた。このように都市政策においても、改革政治は江戸の特権的商業資本を大いに利用している。また寛政の改革は、思想・情報の統制にも力を注いだ。寛政二年五月、幕府は大学頭林信敬に対し、朱子学を振興するため、朱子学以外の儒学を禁じ、人材をとりたてるよう達した。いわゆる異学の禁である。これは学問・思想の統制を通して、幕府に忠実な役人の育成と風俗粛正を意図するものであった。これと同時に出版統制令を発し、風俗をみだす好色本の類や、政治批判・時事風刺を内容とする出版物を禁じた。風俗を匡正し、公儀権威の回復をはかるためには、単に学問・思想の統制のみならず、出版・情報の統制をも不可欠とする状況にあった。異学の禁と出版統制令が同年月に発せられたのは、単なる時間的偶然ではなかった。寛政期はまた、内憂・外患の初発的な危機を迎えた段階にあった。当時、外国船がしきりに日本の近海に出没し、特にカムチャツカ半島を経て南下してきたロシアは、蝦夷地に住む日本人としばしば紛争を起した。さらに寛政四年にはロシアのラクスマンが根室に来航した。北方問題にはやくから重大な関心を寄せた幕府は、蝦夷地の調査を実施するなど海防の緊要性を痛感していた。にもかかわらず、『三国通覧図説』『海国兵談』を著わし海防の必要を力説した林子平を、あえて処罰した背景には、対外問題に関するこのような処士横議が、田沼政治末期に昂揚した都市打毀しや百姓一揆にみられる民衆の反体制的エネルギーと結びつくとき、幕藩体制をささえる鎖国の祖法を維持することさえ困難になると考えたからである。寛政の改革は、長崎貿易の制限を強化するとともに、家斉の将軍就任の際、朝鮮通信使の来日を延期した。延期の理由は、接待の冗費を省こうとする財政的理由のほかに、外国人に日本の地理を知らせ、日本の危機的な社会状勢を見せるのは国家的にきわめて不利になるというのであった。思想・情報統制策は、内憂=国内的緊張と、外患=対外的緊張とを分断するための側面をも有していた。以上のような寛政の改革は、財政的には一定の剰余を生み、改革直前の深刻な財政危機を一応回避することができた。しかし物価引下げ令や旧里帰農奨励令などはほとんど成果をあげ得ず、倹約令を中心とする景気の極端な抑制策や、隠密を駆使しての徹底した緊縮政策は、庶民のみならず領主階級内部にも強い不満を生ぜしめ、寛政五年七月、松平定信は将軍補佐役ならびに老中を解任された。定信解任の背景には、上記の理由のほかに、光格天皇が生父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとし、定信がこれに反対した尊号一件、さらに将軍家斉がその実父一橋治済を大御所として江戸城に迎え入れようとしたのを定信が諫めたいわゆる大御所問題があり、その結果、家斉および治済と定信との対立が深刻化したことが挙げられる。しかし寛政の改革を定信とともに推進してきた老中松平信明をはじめ本多忠籌・戸田氏教らは、定信解任後も幕閣にとどまっており、これら「寛政の遺老」によって、およそ文化末年まで寛政の改革路線は継承・発展させられた面が多い。
[参考文献]
松平定信『宇下人言』、渋沢栄一『楽翁公伝』、津田秀夫「寛政改革」(『(岩波講座)日本歴史』一二所収)、竹内誠「寛政改革」(『(岩波講座)日本歴史』一二所収)
(竹内 誠)


日本大百科全書(ニッポニカ)

寛政の改革
かんせいのかいかく

江戸後期、老中松平定信 (さだのぶ)(在職1787~93)が主導した幕府の政治改革。享保 (きょうほう)の改革、天保 (てんぽう)の改革とともに、幕政の三大改革といわれる。

[竹内 誠]

改革の前夜

寛政の改革の前代は、老中田沼意次 (おきつぐ)が政権を握っていた、いわゆる田沼時代である。田沼は、年貢増徴が頭打ちとなったので、重商主義的な政策を導入し、幕府の新たな財源を米穀生産以外の商品生産に求めた。たとえば、株仲間の特権を認めるとともに、運上・冥加金 (みょうがきん)を徴収した。そのため、利権をめぐって役人と商人との癒着が顕著となり、賄賂 (わいろ)が社会的風潮とさえなった。一方、農政の不在により農村の荒廃が進行し、没落貧農は次々に村を離れて都市の下層社会に流入、都市の社会秩序も大きく動揺した。田沼末期に発生した天明 (てんめい)の大飢饉 (ききん)は、こうした傾向にいっそうの拍車をかけ、改革前夜には、幕府財政の窮乏は深刻となり、百姓一揆 (いっき)・都市打毀 (うちこわし)は前代未聞の高揚をみせた。

[竹内 誠]

松平定信の登場

白河藩主松平定信は、この難局を打開するため、御三家 (ごさんけ)や11代将軍徳川家斉 (いえなり)の実父一橋治済 (ひとつばしはるさだ)の強力な推薦を受け、1787年(天明7)6月老中に就任、幕政の改革を開始した。定信は8代将軍吉宗 (よしむね)の孫であり、新参 (しんざん)成り上がりの田沼の政治に対し不満をもつ大名グループの指導者であった。彼は老中に就任するや、これら同志の大名を次々に幕府の要職に登用し、改革推進の体制固めを行った。老中松平信明 (のぶあきら)・本多忠籌 (ただかず)は、その中心メンバーであった。定信はけっして独裁せず、改革の重要政策は彼らと十分協議し、さらに御三家および一橋治済の意見を聞いたうえで実施された。定信は率先して倹約を励行し、華美な風俗を取り締まり、綱紀を粛正した。田沼の賄賂政治に飽いた人々は、満28歳のこの青年宰相の登場に大きな期待をかけた。

[竹内 誠]

改革政治の展開

定信は田沼政治を批判し、まず農政に重点を置いた。財政の基礎は、なんといっても年貢米にあったからである。荒廃した農村の復興を図り、農業人口の増加と荒れ地の復旧に努めた。農具代・種籾 (たねもみ)代の恩貸令、その返済猶予令、他国出稼 (でかせぎ)制限令、旧里帰農奨励令などはその具体策であった。また飢饉に備え、各地に籾蔵 (もみぐら)を設けた。さらに年貢徴収役人である代官の不正を厳しく取り締まった。改革政治は、農村政策とともに都市政策にも力を注いだ。とくに将軍の膝元 (ひざもと)の江戸では、改革直前の1787年(天明7)5月に、数日間にわたる打毀騒動があり、その再発防止が緊要の課題であった。無宿者を収容する石川島人足寄場 (にんそくよせば)の設置や、窮民救済のための七分積金 (しちぶつみきん)令と町会所の設置は、明らかに貧民蜂起 (ほうき)の予防策であった。江戸へ流入した農民で故郷へ帰農を願い出た者には、旅費や農具代を与えるという旧里帰農奨励令は、打毀の主体となる都市貧民を少なくし、あわせて農村人口を増加させようという、一石二鳥の政策であった。流通市場の統制にもみるべきものがあった。物価の引下げや米価の調節に熱心に取り組み、また上方 (かみがた)経済圏に対し関東経済圏の相対的地位の引上げに努めた。江戸の豪商10名を勘定所御用達 (ごようたし)に登用したり、上方からの下り酒に対抗して、関東上酒の試造を豪農に命じたりしたのもそのためである。金融市場の統制にはとくに積極的であった。公金の低利貸付を盛んに行い、民間金融市場の利子率の引下げを促した。旗本・御家人 (ごけにん)の困窮財政を救うため、札差棄捐 (ふださしきえん)令を発したのは有名であるが、金融業者札差の受けた損害は実に118万両余にも上った。このほか情報・思想統制にも力を入れ、出版の取締りを強化するとともに、異学の禁を出して、朱子学のいっそうの振興を図った。なお異学の禁は、幕府に忠実な封建官僚育成の意図をも有していた。

[竹内 誠]

改革の評価

このような徹底した統制政策や行政改革の実施により、幕府財政は赤字から黒字に転じ、若干の備金さえ生じた。また石川島人足寄場や町会所、あるいは勘定所御用達の制度など、寛政の改革で創設されたもので幕末期まで存続している例が多い。これらは寛政の改革の大きな成果といえよう。しかし1793年(寛政5)7月、定信は突然老中を解任された。ロシアの使節ラクスマンの来航に端を発する外交や沿岸防備の問題に重大な決意をもって臨んでいた最中であり、不本意な解任であった。その背景として、光格 (こうかく)天皇が生父閑院宮典仁 (かんいんのみやすけひと)親王に太上 (だいじょう)天皇の称号を贈ろうとし、定信がこれに反対した尊号一件、将軍家斉が実父一橋治済を江戸城西の丸に迎えて大御所 (おおごしょ)と崇 (あが)めようとしたのを定信がいさめた大御所問題などにより、家斉・治済らと定信との対立が深刻化したことが指摘できよう。しかし定信退場の最大の理由は、当時の落首に「白河の清きに魚もすみかねて元の濁りの田沼恋しき」とあるように、そのあまりに厳しい緊縮政治に士庶の不満が集中したためであった。

[竹内 誠]



世界大百科事典

寛政改革
かんせいかいかく

江戸後期の幕政改革。享保,寛政,天保の三大改革の一つ。1787年(天明7)より93年(寛政5)までの6年間,老中松平定信が中心となって断行した幕政全般にわたる改革をいう。

背景

寛政改革直前の社会状況は,老中田沼意次による重商主義的な政策の破綻により,農村,都市ともに深刻な危機に見舞われた。農村では農業人口が減少し,耕地の荒廃が進み,重い年貢や小作料の収奪に苦しむ農民たちによる百姓一揆が激化した。1783-86年に続発した天災,飢饉(天明の飢饉)は,農村の荒廃にいっそうの拍車をかけ,都市に流入する離村農民が顕著にみられた。農村は領主財政の基盤であったため,年貢収入の激減により幕府財政は極度に窮迫した。都市の社会秩序もまた,この時期に大きく動揺した。田沼の重商主義的な政策に便乗した商人の物価つり上げに苦しむ生活困窮者や,都市に流れ込む没落貧農の増加により,都市下層貧民層が急速に増大した。彼らは,米穀買占めなどの不正が行われたり,飢饉により米価が極端に高騰したりすると,たちまち都市打毀(うちこわし)の主体勢力となった。天明期は,百姓一揆とともに,都市打毀の前代未聞の激発期でもあった。田沼時代の末期には,領主階級の内部もさまざまな矛盾を露呈した。賄賂による役人の出世が横行したため,出世からはずれた無役や下級の幕臣たちの中には,為政者としての自覚を喪失する者が多くなった。いわゆる士風の退廃である。また伝統的な重農政策を幕政の基本とすべきことを主張する門閥譜代大名層と,新参成り上がりの田沼意次を支持する大名層との対立も顕在化し,幕府の権威は著しく低下した。

改革の着手

寛政改革は,以上のような幕藩体制の全構造的危機を打開するために要請されたのである。本百姓体制の再建,都市社会秩序の再編,大名・旗本の統制強化の実現を通じて,幕府権威の回復と階級闘争の鎮静化をはかり,究極的には幕府財政を再建することが改革の課題であった。白河藩主松平定信は,御三卿の田安宗武の子つまり8代将軍徳川吉宗の孫という毛並みのよさと,天明大飢饉をみごとに乗り切った白河藩政の実績をかわれ,1787年6月に老中首座に就任,改革政治に着手した。定信は翌88年3月,若年の11代将軍家斉の補佐役をも兼ねることになり,改革遂行の実権を完全に掌握した。まず人事の刷新を行い,田沼期以来の老中を解任し,かわって松平信明(のぶあきら),松平乗完(のりさだ),本多忠籌(ただかず),戸田氏教ら定信と志を同じくする大名を次々に老中に登用した。不正役人を厳罰に処したり,うずもれた人材を抜擢するなど,旗本の人事も大幅に刷新し,諸役人の綱紀を粛正した。また改革政治の実務を担う諸役人が,経済的に困窮していては,再び不正を生む余地が生じるので,彼らの札差からの借金を棒引きにする札差棄捐(きえん)令を発し,旗本の困窮財政の救済をはかった。

 大名・旗本に対する幕府の権威回復も,改革の主要な課題であった。そのため,彼らに先祖書の提出を命じ,各家の歴代将軍に対する忠誠度を改めて確認させた。なおこの先祖書の提出は,大名・旗本の系図集である《寛政重修諸家譜》の編纂事業の契機となった。改革政治は,松平定信の強力な指導のもとに推進されたが,政策の決定にあたって定信は,かならず御三家の尾張,紀伊,水戸と御三卿の一橋に対して意見をもとめている。このような御三家,御三卿の幕政への参加も,幕府権威の回復にきわめて有効に作用したと思われる。

改革の内容

寛政改革の農村政策は,まず天明の飢饉により荒廃した農村を復興し,本百姓体制を再建することであった。具体的には,農業人口の回復増加と耕地面積の復旧拡大を目ざした。そのため,夫食(ぶじき),農具代の恩貸とその返済猶予令,他国への出稼ぎ制限令,江戸に流入した農民に対する旧里帰農奨励令などを発した。また飢饉対策として備荒貯穀を奨励し,村々に籾蔵を設置した。さらに〈荒地起返幷小児養育御手当御貸付金〉という名目の公金貸付けを実施している。これは諸国代官を通じて豪農層に利子1割前後で貸し付けられ,その年々の利金が耕地の復旧(荒地起返)や,農業人口の増加(小児養育)のための資金に活用された。このほか助郷村々助成手当とか用水普請助成手当などの名目の公金貸付けをさかんに行うなど,幕府は農政のなかに金融政策を積極的に導入した。この公金貸付政策の特色は,公金を借り幕府にその利金を年々納める豪農層の存在を前提にしている点である。このように寛政改革の農村政策は,推進の基盤を豪農層が担っていた。

 次に商業・金融政策であるが,米価をはじめとする諸物価の平準化をはかるため,米穀や貨幣の相場操作の実権を,商人の手から幕府の側に取り戻すことを改革の基本方針とした。しかし相場を操作するためには,それ相当の資金を必要としたが,当時の幕府にそうした財政的余裕はなかった。そこで幕府は,江戸一流の豪商のなかから10名を選んで勘定所御用達に任命し,必要に応じて彼らの大きな資本とすぐれた商業手腕を利用することとした。事実,寛政改革の米価調節策は,この勘定所御用達と結託して推進された。1789年には低落した米価を引き上げるため,91年には高騰した米価を引き下げるため,それぞれ勘定所御用達に出金,買米を命じている。幕府は銭相場の引上げ策など貨幣政策についても,勘定所御用達に意見を徴しており,その財力のみならず,すぐれた商業知識にも依存することが多かった。また札差棄捐令により,118万両余にものぼる債権棄捐という大打撃をうけた札差を救済するため,幕府は猿屋町会所を設置し,この会所から札差に融資をすることとした。この会所資金の大半は,勘定所御用達の出資金によって賄われ,しかも貸付事務など会所の運営までもが,勘定所御用達に任された。田沼政治の特色の一つは,商業資本との結託にあり,寛政改革は逆に商業資本を抑圧したというのが通説である。しかし,寛政改革も勘定所御用達=商業資本と密接に結託しており,田沼の経済政策路線を継承する面が多かった。田沼期の政策と際だった違いをみせたのが,都市政策や思想・情報統制策であった。

 寛政改革の都市政策は,とくに将軍の膝元である江戸の社会秩序の維持に腐心している。具体的には,天明年間に高揚した都市打毀(うちこわし)の再発防止であり,打毀の主体勢力の温床となっている江戸下層社会への対策である。旧里帰農奨励令,物価引下げ令,石川島人足寄場の設置,七分積金令などは,その代表的な政策であった。しかも旧里帰農奨励令にみられるごとく,この期の都市政策は農村政策と密接に関係していた。没落貧農の大量の江戸流入により,江戸下層社会が質的に変化したことを,幕府は危険視したのである。なお七分積金令は,江戸の町入用の節減高の70%を町会所に毎年積金し,その積金を窮民救済や低利融資にあてることを目的とするものであった。幕府は,この町会所積金の貸付事務も先述の勘定所御用達にゆだねており,さらに町会所籾蔵の備蓄米の買上げ,売払いは,勘定所御用達とは別に登用した米方御用達に担当させた。このように都市政策においても,寛政改革は豪商を政策推進の基盤とした。

 また寛政改革は,思想,情報の統制にも熱心であった。1790年に幕府は林大学頭信敬に対し,朱子学を振興するため朱子学以外の儒学を禁じ,人材を取りたてるよう達した。いわゆる寛政異学の禁である。これは学問,思想の統制を通して,幕府に忠実な役人の育成と風俗矯正を意図するものであった。これと同時に出版統制令を発し,風俗をみだす好色本類や,政治批判を内容とする出版物を禁じた。事実,洒落本作家の山東京伝と版元の蔦屋重三郎は,この出版統制令違反で処罰された。寛政期は対外緊張が高まった時期でもある。外国船がしきりに日本の近海に出没し,とくにカムチャツカ半島を経て南下してきたロシアは,蝦夷地に住む日本人としばしば衝突した。1792年には通商を求めてロシアのラクスマンが根室に来航した。北方問題にはやくから重大な関心を寄せた幕府は,蝦夷地の地勢調査をするなど海防の緊要性を痛感していた。にもかかわらず,《三国通覧図説》《海国兵談》を著し海防の必要性を力説した林子平を処罰したのは,外交権や対外情報を独占している幕府の権威を侵すものと考えたからである。

結果

以上のような寛政改革により,財政的にはわずかながら黒字に転じ,改革直前の深刻な財政危機を一応回避することができた。しかし物価引下げ令や旧里帰農奨励令などは,ほとんど成果を上げることができず,また倹約令を中心とする景気の極端な抑制策や,隠密を駆使しての徹底した教戒政治は,庶民のみならず武士階級内部からも強い反感をかい,1793年7月,ついに松平定信は将軍補佐役ならびに老中を解任された。当時の落首にも〈白河の清きに魚も住みかねて元の濁りの田沼恋しき〉とある。とくに解任直前には,定信は他の老中の意見をほとんど聞かず,幕閣から浮きあがっていたようである。定信解任の理由としてこのほかに,光格天皇が生父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとし,定信がこれに反対した〈尊号一件〉,さらに将軍家斉が実父の一橋治済を大御所として江戸城に迎え入れようとしたのを,定信がいさめたいわゆる大御所問題により,家斉・治済と定信との対立が深刻化したことが挙げられる。しかし寛政改革を定信とともに推進してきた老中松平信明らは,定信解任後も幕閣にとどまっており,これら〈寛政の遺老〉により,文化末年ごろまで寛政改革路線は継承されている面が多い。なお幕政改革と並んでこのころ,米沢藩,会津藩などにおいても藩政改革が行われた。
[竹内 誠]

[索引語]
松平定信 田沼意次 天明の飢饉 打毀 田沼時代 札差 棄捐(きえん)令 先祖書 寛政重修諸家譜 旧里帰農奨励令 荒地起返幷小児養育御手当御貸付金 貸付金 勘定所御用達 猿屋町会所 七分積金 山東京伝 蔦屋重三郎 林子平 尊号一件 大御所問題
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1. 寛政改革
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に任された。田沼政治の特色の一つは,商業資本との結託にあり,寛政改革は逆に商業資本を抑圧したというのが通説である。しかし,寛政改革も勘定所御用達=商業資本と密接
2. 朱楽菅江
世界大百科事典
で1780年から川柳の牛込蓬萊連グループに属して《川傍柳(かわぞいやなぎ)》編撰に参加した。寛政改革後は狂歌の作風を変えて《狂歌大体(だいたい)》を著し,和歌に
3. あさくささるやちよう【浅草猿屋町】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
草猿屋町続きの火除地のうち表間口二〇間・裏幅二〇間・東西裏行二五間の地所に建てられた。これは寛政改革の一環として寛政元年に発令された棄捐令の取扱のために設置され
4. 仇討物
世界大百科事典
その他の代表的な仇討物に,彦山の仇討,躄(いざり)の仇討,伊賀越の仇討,亀山の仇討などがある。文学では,寛政改革で当代風俗や時事問題からの取材を禁じられた黄表紙
5. あらまち【新町】青森県:弘前市/弘前城下
日本歴史地名大系
与えられた(国日記)。国日記正徳元年(一七一一)四月一二日条には、川原町が町内から独立したとあるが、寛政改革の藩士土着令により藩士が在方へ移住したため、寛政五年
6. あわのくに【阿波国】徳島県
日本歴史地名大系
宝暦改革は挫折した。重喜失脚後一一代藩主となった嫡子治昭はさらに厳しくなった藩の財政状況を打開するため、寛政改革を断行した(蜂須賀家記)。改革は家老長谷川近江の
7. 植崎九八郎
日本大百科全書
生没年不詳。江戸後期の下級幕臣。寛政改革を主導した老中首座松平定信には、武士から農民まで社会各層から上書じょうしょが提出された。なかでも、植崎が1787年(天明
8. 上杉治憲
世界大百科事典
の後も政務を指導した。天明年間は改革が中断したが,やがて莅戸善政は中老職に登用され,第2期の寛政改革が始まる。改革は善政の構想によって進められ,とくに上書箱の設
9. うえすぎようざん【上杉鷹山】
日本架空伝承人名事典
の後も政務を指導した。天明年間は改革が中断したが、やがて莅戸善政は中老職に登用され、第二期の寛政改革が始まる。改革は善政の構想によって進められ、とくに上書箱の設
10. うえだちょう【植田町】青森県:弘前市/弘前城下
日本歴史地名大系
津軽史)。明和元年(一七六四)の藩律によれば、城東の士街として、上田町と記され、戸数は五二。寛政改革の藩士土着令により藩士が在方へ移住したため、寛政五年(一七九
11. 宇下人言
世界大百科事典
寛政改革の中心人物松平定信の自叙伝。1巻。1758年(宝暦8)の誕生から93年(寛政5)の老中辞職に至るまでを記す。内容は,生い立ち,学芸,交友,白河藩政,寛政
12. うんすんかるた
世界大百科事典
版木による大衆向けもあるが,金箔手がきの高級品のほうが多く残されている。この公認かるたも結局は寛政改革の際,他のかるた類とともに禁止された。しかし熊本県人吉市に
13. 江戸時代
世界大百科事典
来の貨幣の改鋳,家臣からの借上(かりあげ),御用金の徴集などがしばしば行われたが,享保改革,寛政改革,天保改革の断行によって,倹約の強制,綱紀粛正,年貢増徴,農
14. えど・とうきよう【江戸・東京】東京都
日本歴史地名大系
で実力をもつ商人も少なくない。酒の安売りで有名な鎌倉河岸(現千代田区)の豊島屋もその代表で、寛政改革に際しては勘定所御用達一〇人の一人として幕府の財政金融政策に
15. 江戸幕府
世界大百科事典
社参費用,新田開発土木事業,飢饉災害救済など臨時出費が重なり,奥金蔵は130万両も激減した。寛政改革では倹約令の頻発にもかかわらず年貢収入は増えず,禁裏・日光・
16. 大田南畝
世界大百科事典
声を知る人たちから狂歌を望まれることが多く,やむなく蜀山(銅の異名)の仮号で狂歌を詠んだが,寛政改革の緊張も緩和されたので,以後狂歌を再開した。ただし次代の鹿津
17. おかちまち【徒町】青森県:弘前市/弘前城下
日本歴史地名大系
宝永(一七〇四―一一)の三の郭住宅移転では、同四年町内へ徒衆や郡奉行支配の徒衆など五軒が移住した(同日記)。寛政改革の藩士土着令により、町内の藩士が在方へ移住し
18. おかちまちかわばたちょう【徒町川端町】青森県:弘前市/弘前城下
日本歴史地名大系
屋敷と「ワラビ蔵」が一軒。明和元年(一七六四)の藩律には城東の士街として、武家屋敷が一三戸。寛政改革の藩士土着令により、町内の藩士が在方へ移住し、寛政五年(一七
19. お経様 民衆宗教の聖典・如来教 300ページ
東洋文庫
尾張独自の学芸を興した藩主として知られ、没後、「名公」と認されてたたえられた。しかし、天明の大ききんから寛政改革の前後にわたる宗睦の治世は、年間の藩の収入と負債
20. かさおかむら【笠岡村】岡山県:笠岡市
日本歴史地名大系
ったといわれ、また甘藷の試験栽培を行い、救荒食物としての普及を図っている。一方、早川の施策は寛政改革を範とした保守的なものであったが、村民による留任運動が幾度も
21. 貸付金
世界大百科事典
なっていた。このような公金貸付政策は,領主財政の再建や本百姓体制の維持などと密接に関連して,寛政改革以降とくに幕府の重要な金融政策となった。たとえば,寛政年間(
22. かすがちょう【春日町】青森県:弘前市/弘前城下
日本歴史地名大系
れ、延享二年(一七四五)に至って完成した(津軽歴代記類)。町名の由来は春日宮からと思われる。寛政改革の藩士土着令により在方へ藩士が移転したため、寛政五年(一七九
23. 加納久周
世界大百科事典
子となった。田沼政権下にあっては,松平定信を中心とした反田沼グループに参加,87年(天明7)寛政改革の開始と同時に御側となり,改革政治の推進勢力の一人として活躍
24. 株仲間
世界大百科事典
徹底させた。幕府はこの措置により,流通の円滑,拡大とそれにともなう諸物価の低下を図ったのである。寛政改革のときには問屋仲間を通じて物価引下げを強要したのに対し,
25. かみかわらけちょう【上瓦ケ町】青森県:弘前市/弘前城下
日本歴史地名大系
元禄一三年(一七〇〇)の弘前侍町屋敷割(津軽史)には、上瓦丁とあり二一軒、うち空家一の侍屋敷がある。寛政改革の藩士土着令により町内の藩士が在方へ移住したため、寛
26. 骨牌
世界大百科事典
はじめとして,あらゆる分野の江戸文学に登場している。なお,これらのかるた類が全面的に禁止された寛政改革後,代わって登場したのが〈花札〉である。花鳥風月を描いた純
27. 寛政異学の禁
世界大百科事典
寛政改革の一つとして行われた江戸幕府の教学振興策。1790年(寛政2)5月,聖堂預り林大学頭信敬に塾内での教育は朱子学専一にすべき旨を達した。当時,徂徠学派,仁
28. 棄捐令
世界大百科事典
江戸時代,幕府や諸藩が家臣団の財政窮乏を救うため,高利貸商人の札差に一方的に命じた借金帳消し・軽減令。寛政改革の一環として1789年(寛政1)9月に発布された。
29. きたかわらけちょう【北瓦ケ町】青森県:弘前市/弘前城下
日本歴史地名大系
ろう。元禄一三年(一七〇〇)の弘前侍町屋敷割(同書)には、一九軒、うち空家四の侍屋敷がある。寛政改革の藩士土着令により町内の藩士が在方へ移住したため、寛政五年(
30. きたやなぎちょう【北柳町】青森県:弘前市/弘前城下
日本歴史地名大系
同四年頃に成立したという。明和元年(一七六四)の藩律に柳町とあり、南北合せて武家屋敷が一九戸。寛政改革の藩士土着令により町内の藩士が在方へ移住したため、寛政五年
31. 黄表紙
世界大百科事典
て,天明年間(1781-89)には黄表紙全盛期を迎えたが,天明末の田沼政権の没落と松平定信の寛政改革に取材した,喜三二《文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどお
32. 黄表紙 114ページ
日本古典文学全集
く深川七場所の一)。土橋も深川七場所の一。仲町と並んで料理茶屋なども盛んで高級街であったが、寛政改革で取りつぶされる。中町は仲町。深川七場所随一の繁華街で、高級
33. 黄表紙 137ページ
日本古典文学全集
妖怪窟裏口から出る「丸」は元京都町奉行丸尾和泉守政良、「秋」は新小姓組頭秋元一学茂朝であろう。寛政改革で失脚する面々が多い。また、異版ではそのことごとくを変えて
34. 黄表紙 147ページ
日本古典文学全集
「おおきにお世話」。当時の流行語で、いらぬおせっかい、の意。大磯とあるが、実体は吉原での遊興の図。寛政改革で失脚する土山宗次郎と吉原の遊女誰袖との遊興など、幕府
35. 黄表紙 157ページ
日本古典文学全集
よい。四方の周囲のどこから見ても正面のように見える鞍。乗馬の教え。小栗流の秘伝。ここもまた、寛政改革の武術奨励による、とんだ乗馬の流行とこじつけている。鬼鹿毛で
36. 黄表紙 158ページ
日本古典文学全集
大坪流が創始した鞍の一つ。上壺と、さいころ博打のいかさま(壺の伏せ方をいんちきする)の上壺とを掛ける。寛政改革での博打の法度令を暗示する。〔五〕 鎮西八郎の部下
37. 黄表紙 160ページ
日本古典文学全集
脱字と思われるので補う。「以下」は公卿・殿上人より以下の者。ここは御目見得以下の御家人や諸藩の家臣。寛政改革の武道奨励によって足軽に弓矢を持たせた武士が江戸市中
38. 黄表紙 168ページ
日本古典文学全集
得て放てば九天へも達すべし」。中国周の文王の子。武王を助けて紂を滅ぼし、文武の業を修めて国家を治めととのえた。寛政改革に際して理想の人物とする。周公旦を反魂丹と
39. 黄表紙 170ページ
日本古典文学全集
面白ふ御ざります」〔一八〕 天下国家を治むるは、凧を上ぐ  〔一七〕 儒教の理想とする精神で、寛政改革でも理想として掲げる理念。醍醐帝の勅令で藤原時平らが編集し
40. 黄表紙 179ページ
日本古典文学全集
おゐらが住居をするやふな、不埒者のすけな  〔四〕 欠点を見られてやりこめられる。いたたまれなくなり。寛政改革による文教政策で心学などが流行したことをいう。心学
41. 近世社会
世界大百科事典
領での年貢徴収量は一揆の激発を機に減少していき,天明(1781-89)の大凶作時に底をつく。寛政改革といわれる松平定信老中時代には,幕府は年貢増徴政策を打ち出す
42. 近世の日本・日本近世史 249ページ
東洋文庫
克服しようとするものとの新しい観点から、この改革を捉えようとしたものには津田秀夫「寛政改革」(岩波講座日本歴史、近世4)、北島正元「寛政改革」(前掲『体系日本史
43. 均田制度
世界大百科事典
なかった。加地子地分給は明治期の加地子騒動の原因となった。このほか,均田令,均田の法は津藩の寛政改革,水戸藩の天保改革でも試みられたが,津藩では大規模な百姓一揆
44. 銀座
世界大百科事典
滞銀はじつに8396貫目,金に換算して13万9930両余に達した。 1800年(寛政12),寛政改革の一環として強行された銀座改正で,正規の座人は15人に減ぜら
45. くろいはんしろう【黒井半四郎】
国史大辞典
五十騎組の平番から抜擢されて安永元年(一七七二)、勘定頭となり、寛政元年(一七八九)に六老に列した。米沢藩寛政改革における財政経済担当の中心人物の一人。彼の大事
46. 戯作
世界大百科事典
代表的な作者には朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ),恋川春町,大田南畝,山東京伝などをあげうる。 そこへ寛政改革が始まり武士階級のあるべき姿が厳しく問い直され
47. 恋川春町
世界大百科事典
以後安永・天明にかけて活躍,20余部の作があり,89年の《鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)》は寛政改革を風刺して大当りをとったが,当局の忌諱(きい
48. 江漢西遊日記 236ページ
東洋文庫
文政元年(一八一八)。世に「越中にこされぬ山 が二つある。京で中山、備前岡山」とうたわれ、 老中松平定信の寛政改革にさからうことの多かっ た剛毅の大名で、その治
49. 孝義録
世界大百科事典
江戸時代の孝子,節婦,忠僕および奇特者の記録。50巻。1789年(寛政1),寛政改革の民衆教化策の一環として,幕府は江戸初期以来の全国の農民・町人の善行表彰者の
50. こうふじょうあと【甲府城跡】山梨県:甲府市/甲府城下
日本歴史地名大系
、鉄門などの屋根瓦の葺替えが行われた(甲府城総合調査報告書など)。寛政元年(一七八九)幕府の寛政改革の一環として行われた甲府勝手小普請の新設は、従来の甲府勤番の
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