征東使
為
征夷使
」(『日本紀略』)と決定、翌年以降弟麻呂は征夷(大)将軍として所見する。延暦十六年には坂上田村麻呂が征夷大将軍に、弘仁二年(八一一)には文室(ふんや)綿麻呂が征夷将軍に任ぜられ、特に田村麻呂の武勲と名声はこの職の栄称的性格を強めたと思われる。かくして蝦夷経略が一段落すると本職への任命は絶たれ、爾後の蝦夷の反乱に際しては、奥羽の国守や鎮守(府)将軍をもって事にあたらせた。この間、平将門の乱鎮圧に起用された藤原忠文は、後世一般に征夷大将軍に任ぜられたものと信じられたが、当時正しくは征東大将軍と呼ばれた。永らく中絶していた征夷大将軍の称が復活したのは、平安時代末期、源平争乱の最中である。平氏を破って入京した木曾義仲は、やがて後白河院政を停止、源義経・範頼率いる西上軍との決戦を前に、元暦元年(一一八四)正月みずからこの職に任じた。もちろんこれは蝦夷征討を目的としたものではなく、東国を本拠とする源頼朝の勢力と対抗するためである。その意味で忠文の征東大将軍に通ずる性格が認められ、実際、九条兼実の日記『玉葉』同年正月十五日条には、義仲が「征東大将軍」に任ぜられたという伝聞を載せている(これをそのまま事実と解する説もある)。かかる風聞や忠文の任ぜられた職についての混同からも窺えるように、両職の先例が遠い過去のものとなり、蝦夷も「帰化」して久しい今となっては、征東将軍・征夷将軍ともに「東夷」を征する職と認識され、対象地域の差に基づく厳密な弁別が意識されたわけではないと思われる。征東にしろ征夷にしろ、節刀授与という象徴行為により、天皇大権の一部を直接仮賜され、太政官を介することなく天皇に直結する大将軍の地位を義仲が喚起し、またそれゆえに、義仲を討滅した頼朝がただちにこれへの補任を望んだことは、征夷大将軍職の政治的重要性をにわかに高め、東国における軍事支配権を象徴する官職としての性格を強める結果を招いた。しかし後白河法皇は頼朝の希望を抑え、実際に頼朝がこの職に任ぜられたのは、法皇没後の建久三年(一一九二)七月である。こののち頼朝は二度にわたって征夷大将軍の辞状を京へ送ったが、朝廷には承認されなかった。上表三度の慣行に鑑みるとき、頼朝が三度目の辞表を提出しなかった事実に注意しなければならない。朝廷の慰留を引き出した頼朝は、本来臨時の官職として、早晩辞任すべきだった征夷大将軍の職に長くとどまる名目を獲得したのだと評しうる。ついで源頼家に実際に将軍職が宣下されたのは、頼家が鎌倉殿の地位を継いでから三年半後だが、父頼朝の死の直後、すでに将軍宣下があったという巷説が流れ、頼朝の遺跡継承を認める宣旨にも「続
前征夷将軍源朝臣(頼朝)遺跡
」(『吾妻鏡』正治元年(一一九九)二月六日条)と表現されたことは、幕府の首長たる地位の継承を象徴的に表わすのが征夷大将軍職への任命だと、当時考えられ始めていた事実を示唆する。そして建仁三年(一二〇三)源実朝が鎌倉殿の地位につくと同時に征夷大将軍に任ぜられ、かかる観念が確立する。以後摂家将軍や宮将軍がこの例を踏襲し、後年、足利尊氏や徳川家康が征夷大将軍への補任を強く望み、幕府開設の名目を備えんとしたのは、これによって覇権の正当性を示そうとしたからにほかならない。かくして幕府の首長=征夷大将軍として江戸幕府末に至ったが、攘夷の課題とかかわって両者は再び分裂のきざしを見せる。すなわち十五代将軍徳川慶喜は、宗家を相続したものの将軍宣下を回避すること半年に及んだ。征夷=攘夷を幕府の使命と切り離そうとしたのであろう。慶応三年(一八六七)王政復古の大号令により、将軍(幕府)は廃止となった。なお、将軍宣下に際して、古代では、将軍(大将軍)に節刀が授与され、その下に副将軍・軍監・軍曹ほかを置いた。源頼朝の場合も、「賜
節刀
被
任
軍監軍曹
之時」(『吾妻鏡』元暦元年四月十日条)という理由でこの職への補任が抑留されたが、実際の宣下にあたってかかる処置がとられた証左は見出せない。また頼朝に対しては勅使が征夷大将軍の除書を鎌倉に持参したとあるが、以後の鎌倉将軍のうち久明親王は京で宣下を受けたのち東下したものの、他の将軍については勅使東下の証跡なく、単に宣旨・除書を伝達するにとどまった。室町将軍はもとより、徳川将軍も三代家光までは上洛して拝任したが、家綱は幼少であったため西上が叶わず、江戸城において勅使の下向を受け、以後それが慣例となった。将軍宣下のおりには、頼朝の嘉例に従うと称し、宣旨を収めた箱(蓋)に砂金を入れて使者に与えるなどしたが、そうした故実は室町時代に整えられたもののようである。また足利義満以降、将軍は源氏長者、奨学院・淳和院別当、馬寮御監を兼ねるのがしきたりとなった。→蝦夷(えぞ),→江戸幕府(えどばくふ),→鎌倉幕府(かまくらばくふ),→征夷使(せいいし),→幕府(ばくふ),→室町幕府(むろまちばくふ)『武家名目抄』職名部一下・称呼部二・儀式部四・同五(『(新訂増補)故実叢書』一一・一三・一六)、『古事類苑』官位部二・三、東北大学東北文化研究会編『蝦夷史料』、石井良助『大化改新と鎌倉幕府の成立増補版』、野田嶺志『律令国家の軍事制』(『古代史研究選書』)、喜田貞吉「征夷大将軍の名義に就いて」(『民族と歴史』七ノ五)、高橋富雄「鎌倉幕府と征夷大将軍」(『史学雑誌』五七ノ四)、杉橋隆夫「鎌倉右大将家と征夷大将軍」(『立命館史学』四)、藤本元啓「源頼朝の征夷大将軍補任に関する問題」(『軍事史学』七八)

」*日本後紀‐弘