1. せいい-たいしゃうぐん【征夷大将軍】
全文全訳古語辞典
〔名詞〕 ❶律令制で、蝦夷を征伐するために総大将として派遣された臨時の職。「征夷将軍」「征夷使」「征東使」とも。 ❷源頼朝が任じられて以来、幕府の首長で、武家政
2. 征夷大将軍画像
日本大百科全書
、この征夷大将軍の職名が復活し、新しい政治的意義を帯びるに至った。まず1184年(元暦1)に平家を破って入京した源(木曽きそ)義仲よしなかが征夷大将軍に任命され
3. 征夷大将軍
世界大百科事典
没後,頼朝は征夷大将軍に任じられた。鎌倉幕府では御家人の主人である鎌倉殿が,朝廷によって征夷大将軍に任じられ,征夷大将軍は武家の棟梁を意味するようになるが,当初
4. せいい‐たいしょうぐん[‥タイシャウグン]【征夷大将軍】
日本国語大辞典
*日本紀略‐延暦一三年〔794〕正月一日「賜
征夷大将軍大伴弟麿節刀
」*日本後紀‐弘
5. せいいたいしょうぐん【征夷大将軍】
国史大辞典
研究選書』)、喜田貞吉「征夷大将軍の名義に就いて」(『民族と歴史』七ノ五)、高橋富雄「鎌倉幕府と征夷大将軍」(『史学雑誌』五七ノ四)、杉橋隆夫「鎌倉右大将家と征
6. 征夷大將軍(せいいたいしょうぐん)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 10ページ
7. 征夷大将軍
日本史年表
797年〈延暦16 丁丑〉 11・5 坂上田村麻呂を 征夷大将軍 とする(紀略)。 804年〈延暦23 甲申〉 1・28 坂上田村麻呂を再び 征夷大将軍 とする
8. 【征夷大将(將)軍】せいい たいしょう(しゃう)ぐん
新選漢和辞典Web版
《国》 ①平安時代、えぞを征伐するためにつかわされた将軍。 ②鎌倉(かまくら)時代以後、幕府の主で天下の政権を握った者の職。
9. 征夷大將軍除目 (見出し語:征夷大將軍)
古事類苑
政治部 洋巻 第1巻 727ページ
10. 德川氏爲二征夷大將軍一 (見出し語:征夷大將軍)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1ページ
11. 源氏爲二征夷大將軍一 (見出し語:征夷大將軍)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 649ページ
12. 足利氏爲二征夷大將軍一 (見出し語:征夷大將軍)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 1051ページ
13. 征夷大将軍右近衛大将従一位学西院別当源氏長者綱吉公(著作ID:1323508)
新日本古典籍データベース
せいいたいしょうぐんうこんえのたいしょうじゅいちいがくさいいんべっとうげんじのちょうじゃつなよしこう 伝記
14. 征夷大将軍二拾首和歌(著作ID:1323519)
新日本古典籍データベース
せいいたいしょうぐんにじっしゅわか 足利 義政(あしかが よしまさ)
15. 新宮成後手書賜征夷大将軍詩(著作ID:1281147)
新日本古典籍データベース
しんきゅうなるののちしゅしょしてせいいたいしょうぐんにたまうし 光格 天皇(こうかく てんのう) 漢詩 寛政二
16. 足利義政爲二征夷大將軍一 (見出し語:足利義政)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 1055ページ
17. 足利尊氏爲二征夷大將軍一 (見出し語:足利尊氏)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 1057ページ
18. 足利義
爲
二征夷大將軍
一 (見出し語:足利義)古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 1055ページ
19. 足利義滿爲二征夷大將軍一 (見出し語:足利義滿)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 1059ページ
20. 親王任二征夷大將軍一 (見出し語:親王)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 663ページ
21. 德川家綱爲二征夷大將軍一 (見出し語:德川家綱)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 5ページ
22. 德川家宣爲二征夷大將軍一 (見出し語:德川家宣)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 8ページ
23. 德川家治爲二征夷大將軍一 (見出し語:德川家治)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 24ページ
24. 德川家光爲二征夷大將軍一 (見出し語:德川家光)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 19ページ
25. 德川家茂爲二征夷大將軍一 (見出し語:德川家茂)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 28ページ
26. 德川家康爲二征夷大將軍一 (見出し語:德川家康)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1ページ
27. 德川綱吉爲二征夷大將軍一 (見出し語:德川綱吉)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 20ページ
28. 德川秀忠爲二征夷大將軍一 (見出し語:德川秀忠)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 16ページ
29. 德川吉宗爲二征夷大將軍一 (見出し語:德川吉宗)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 22ページ
30. 成良親王爲二征夷大將軍一 (見出し語:成良親王)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 667ページ
31. 源實朝爲二征夷大將軍一 (見出し語:源實朝)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 658ページ
32. 源賴家爲二征夷大將軍一 (見出し語:源賴家)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 657ページ
33. 源賴朝爲二征夷大將軍一 (見出し語:源賴朝)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 652ページ
34. あいざわはら【藍沢原】静岡県:駿東郡
日本歴史地名大系
は三月・四月に下野那須野・信濃三原野において、翌五月には当地や富士野で狩を行っている。前年征夷大将軍となった頼朝の示威だけではなく、関東の入口・関門にあたる地に
35. あくろおう【悪路王】
日本人名大辞典
手県)田谷窟(達谷窟)(たつこくのいわや)を拠点とする。延暦(えんりゃく)20年(801)征夷大将軍坂上田村麻呂とたたかい,敗れたという。阿弖流為(あてるい)が
36. あさくさ【浅草】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
あったため、鎌倉防衛の最前線として位置付けられた。観応三年(一三五二)閏二月には宗良親王を征夷大将軍に奉じる新田義宗の軍勢に圧された足利尊氏が石浜に陣を布き、地
37. 足利氏画像
日本大百科全書
献し、ついで新政が行き詰まると後醍醐ごだいご天皇を吉野に追い、1338年(延元3・暦応1)征夷大将軍せいいたいしょうぐんとなって室町幕府を開いた。初期の幕府は尊
38. あしかがし【足利市】栃木県
日本歴史地名大系
元弘三年(一三三三)足利尊氏は後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を滅ぼし、暦応元年(一三三八)には征夷大将軍となって室町幕府を開設した。尊氏の誕生地は鎌倉説が有力である
39. 足利尊氏画像
日本大百科全書
賞揚した。尊氏は、武蔵むさしなど3か国の国務と守護職、さらに30か所に及ぶ所領を与えられたものの、征夷大将軍に任命されなかったことを不満とし、建武けんむ政権のい
40. 足利尊氏
世界大百科事典
戦死し,ついで後醍醐天皇が没すると,しだいに振るわなくなった。尊氏はこの間38年に北朝より征夷大将軍に任命され,内乱は終息の方向にむかうかにみえたが,やがて幕府
41. あしかが‐たかうじ【足利尊氏】
日本国語大辞典
攻め落として建武の新政に貢献するが、のち背いて持明院統の光明天皇を立てて建武五年(一三三八)八月征夷大将軍となり、室町幕府を興した。のち、南北両朝に分かれて国内
42. あしかがたかうじ【足利尊氏】画像
国史大辞典
、確証はない。しかし尊氏の本心は北条氏を打倒してみずからその地位に代わることであったから、征夷大将軍に補任されることを最大の目標とし、公家の中心人物であった護良
43. あしかが-たかうじ【足利尊氏】
日本人名大辞典
)をやぶって京にはいり,光明天皇(北朝)を擁立。建武式目を制定,室町幕府をひらいた。2年後征夷大将軍。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)で弟の足利直義(ただよ
44. あしかがたかうじ【足利尊氏】
日本架空伝承人名事典
戦死し、ついで後醍醐天皇が没すると、しだいに振るわなくなった。尊氏はこの間三八年に北朝より征夷大将軍に任命され、内乱は終息の方向にむかうかにみえたが、やがて幕府
45. 足利高氏・足利尊氏
日本史年表
1338年〈【北朝】暦応元(8・28)・【南朝】延元3 戊寅⑦〉 8・11 北朝, 足利尊氏 を征夷大将軍とする(公卿補任)。 1351年〈【北朝】観応2・【南
46. 足利義昭画像
日本大百科全書
本願寺は敗退。信長の死後は、羽柴はしば(豊臣とよとみ)秀吉に帰京を要請。秀吉は義昭の養子となり、征夷大将軍を望むが拒否される。1588年(天正16)すでに帰京し
47. 足利義昭
世界大百科事典
,北条氏政,毛利元就らに上洛援助を依頼していた義昭は同年織田信長に奉ぜられて入洛を果たし,征夷大将軍に任ぜられたが,政治の実権は信長の手中にあったため,70年(
48. あしかがよしあき【足利義昭】画像
国史大辞典
し、義昭と改名。七月織田信長の要請をいれて美濃岐阜に赴き、九月信長とともに入京、十月十八日征夷大将軍、従四位下参議、左近衛権中将に叙任されて、幕府を再興し、翌年
49. 足利義詮
世界大百科事典
討つやこれと決別,直義の養子直冬や南朝と京都の争奪戦を繰り返した。58年(正平13・延文3)尊氏が没し義詮が征夷大将軍となると,仁木義長や細川清氏が離反したが,
50. あしかがよしあきら【足利義詮】画像
国史大辞典
尊氏もついで帰洛。同四年直冬の党の京都占領をも退けた。延文三年(一三五八)四月三十日尊氏死去、その後をつぎ征夷大将軍となり、翌年武蔵守を兼ね、細川清氏を執事とし