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征夷大将軍

ジャパンナレッジで閲覧できる『征夷大将軍』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

征夷大将軍
せいいたいしょうぐん
もとは陸奥の蝦夷(これを「夷」といい、日本海側のそれを「狄」と称した)征討のために、朝廷が臨時に派遣する軍隊の総指揮官を意味したが、のちには幕府首長の職名となった。唐名に因んで大樹あるいは大樹将軍とも称す。古代の征夷大将軍は同大使ともいわれ、おおむね四位の者が任用された。また『養老令』軍防令では、一軍の出征に将軍を任じ、三軍を編成するときは、うち一人の将軍を大将軍と称するとされた。したがって征夷使の場合も、征夷将軍は同大将軍の別称また略称と解されるものの、なお確然としないところもある。早くは養老四年(七二〇)・五年に多治比県守(あがたもり)、神亀二年(七二五)に藤原宇合(うまかい)が征夷将軍と呼ばれたが、その後は征東使が征夷の任にあたった。ついで奈良・平安時代の交、大伴弟麻呂は延暦十年(七九一)征夷大使に任ぜられたとあるものの、翌年には征東大使とみえる。しかるに同十二年二月「改〓征東使〓〓征夷使〓」(『日本紀略』)と決定、翌年以降弟麻呂は征夷(大)将軍として所見する。延暦十六年には坂上田村麻呂が征夷大将軍に、弘仁二年(八一一)には文室(ふんや)綿麻呂が征夷将軍に任ぜられ、特に田村麻呂の武勲と名声はこの職の栄称的性格を強めたと思われる。かくして蝦夷経略が一段落すると本職への任命は絶たれ、爾後の蝦夷の反乱に際しては、奥羽の国守や鎮守(府)将軍をもって事にあたらせた。この間、平将門の乱鎮圧に起用された藤原忠文は、後世一般に征夷大将軍に任ぜられたものと信じられたが、当時正しくは征東大将軍と呼ばれた。永らく中絶していた征夷大将軍の称が復活したのは、平安時代末期、源平争乱の最中である。平氏を破って入京した木曾義仲は、やがて後白河院政を停止、源義経・範頼率いる西上軍との決戦を前に、元暦元年(一一八四)正月みずからこの職に任じた。もちろんこれは蝦夷征討を目的としたものではなく、東国を本拠とする源頼朝の勢力と対抗するためである。その意味で忠文の征東大将軍に通ずる性格が認められ、実際、九条兼実の日記『玉葉』同年正月十五日条には、義仲が「征東大将軍」に任ぜられたという伝聞を載せている(これをそのまま事実と解する説もある)。かかる風聞や忠文の任ぜられた職についての混同からも窺えるように、両職の先例が遠い過去のものとなり、蝦夷も「帰化」して久しい今となっては、征東将軍・征夷将軍ともに「東夷」を征する職と認識され、対象地域の差に基づく厳密な弁別が意識されたわけではないと思われる。征東にしろ征夷にしろ、節刀授与という象徴行為により、天皇大権の一部を直接仮賜され、太政官を介することなく天皇に直結する大将軍の地位を義仲が喚起し、またそれゆえに、義仲を討滅した頼朝がただちにこれへの補任を望んだことは、征夷大将軍職の政治的重要性をにわかに高め、東国における軍事支配権を象徴する官職としての性格を強める結果を招いた。しかし後白河法皇は頼朝の希望を抑え、実際に頼朝がこの職に任ぜられたのは、法皇没後の建久三年(一一九二)七月である。こののち頼朝は二度にわたって征夷大将軍の辞状を京へ送ったが、朝廷には承認されなかった。上表三度の慣行に鑑みるとき、頼朝が三度目の辞表を提出しなかった事実に注意しなければならない。朝廷の慰留を引き出した頼朝は、本来臨時の官職として、早晩辞任すべきだった征夷大将軍の職に長くとどまる名目を獲得したのだと評しうる。ついで源頼家に実際に将軍職が宣下されたのは、頼家が鎌倉殿の地位を継いでから三年半後だが、父頼朝の死の直後、すでに将軍宣下があったという巷説が流れ、頼朝の遺跡継承を認める宣旨にも「続〓前征夷将軍源朝臣(頼朝)遺跡〓」(『吾妻鏡』正治元年(一一九九)二月六日条)と表現されたことは、幕府の首長たる地位の継承を象徴的に表わすのが征夷大将軍職への任命だと、当時考えられ始めていた事実を示唆する。そして建仁三年(一二〇三)源実朝が鎌倉殿の地位につくと同時に征夷大将軍に任ぜられ、かかる観念が確立する。以後摂家将軍や宮将軍がこの例を踏襲し、後年、足利尊氏や徳川家康が征夷大将軍への補任を強く望み、幕府開設の名目を備えんとしたのは、これによって覇権の正当性を示そうとしたからにほかならない。かくして幕府の首長=征夷大将軍として江戸幕府末に至ったが、攘夷の課題とかかわって両者は再び分裂のきざしを見せる。すなわち十五代将軍徳川慶喜は、宗家を相続したものの将軍宣下を回避すること半年に及んだ。征夷=攘夷を幕府の使命と切り離そうとしたのであろう。慶応三年(一八六七)王政復古の大号令により、将軍(幕府)は廃止となった。なお、将軍宣下に際して、古代では、将軍(大将軍)に節刀が授与され、その下に副将軍・軍監・軍曹ほかを置いた。源頼朝の場合も、「賜〓節刀〓〓〓軍監軍曹〓之時」(『吾妻鏡』元暦元年四月十日条)という理由でこの職への補任が抑留されたが、実際の宣下にあたってかかる処置がとられた証左は見出せない。また頼朝に対しては勅使が征夷大将軍の除書を鎌倉に持参したとあるが、以後の鎌倉将軍のうち久明親王は京で宣下を受けたのち東下したものの、他の将軍については勅使東下の証跡なく、単に宣旨・除書を伝達するにとどまった。室町将軍はもとより、徳川将軍も三代家光までは上洛して拝任したが、家綱は幼少であったため西上が叶わず、江戸城において勅使の下向を受け、以後それが慣例となった。将軍宣下のおりには、頼朝の嘉例に従うと称し、宣旨を収めた箱(蓋)に砂金を入れて使者に与えるなどしたが、そうした故実は室町時代に整えられたもののようである。また足利義満以降、将軍は源氏長者、奨学院・淳和院別当、馬寮御監を兼ねるのがしきたりとなった。→蝦夷(えぞ),→江戸幕府(えどばくふ),→鎌倉幕府(かまくらばくふ),→征夷使(せいいし),→幕府(ばくふ),→室町幕府(むろまちばくふ)
[参考文献]
『武家名目抄』職名部一下・称呼部二・儀式部四・同五(『(新訂増補)故実叢書』一一・一三・一六)、『古事類苑』官位部二・三、東北大学東北文化研究会編『蝦夷史料』、石井良助『大化改新と鎌倉幕府の成立増補版』、野田嶺志『律令国家の軍事制』(『古代史研究選書』)、喜田貞吉「征夷大将軍の名義に就いて」(『民族と歴史』七ノ五)、高橋富雄「鎌倉幕府と征夷大将軍」(『史学雑誌』五七ノ四)、杉橋隆夫「鎌倉右大将家と征夷大将軍」(『立命館史学』四)、藤本元啓「源頼朝の征夷大将軍補任に関する問題」(『軍事史学』七八)
(杉橋 隆夫)


日本大百科全書(ニッポニカ)

征夷大将軍
せいいたいしょうぐん

一般的には源頼朝 (よりとも)に始まる武家政権(幕府)の首長をさすが、本来は蝦夷 (えぞ)征討のため朝廷から臨時に任ぜられた総指揮官のことをいった。律令 (りつりょう)政府は、蝦夷征討軍をしばしば派遣したが、721年(養老5)に多治比県守 (たじひのあがたもり)を責任者に任命し「征夷将軍」と称した。しかし、その後、奈良時代には蝦夷征討軍の主将を征夷将軍の名でよぶことはなかった。ところが、794年(延暦13)に大伴弟麻呂 (おおとものおとまろ)を征夷大将軍に任じたのを最初とし、以後、9世紀初頭までに数回の征夷大将軍の任命がなされた。そのなかでも坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ)が有名で武名をはせたが、813年(弘仁4)に文屋綿麻呂 (ふんやのわたまろ)が任命されたのを最後に廃絶した。その理由は、このころには蝦夷鎮圧がいちおう完了したためとみられている。

 ところが、12世紀末に武家政権が成立するとともに、この征夷大将軍の職名が復活し、新しい政治的意義を帯びるに至った。まず1184年(元暦1)に平家を破って入京した源(木曽 (きそ))義仲 (よしなか)が征夷大将軍に任命された。しかし、この征夷大将軍はもはや蝦夷征討とは無関係で、義仲が自らの覇権を権威づけるために武門の棟梁 (とうりょう)にふさわしい官名としてこれを望んだためであった。ついで源頼朝もこの地位に任ぜられることを熱望したが、後白河 (ごしらかわ)法皇の反対にあい、法皇の死後1192年(建久3)に至ってようやく実現した。頼朝のあと鎌倉幕府の歴代の首長がこの地位についたので、征夷大将軍の名号は天下の武力をつかさどる武家政治の首長の地位を意味するようになった。足利尊氏 (あしかがたかうじ)も室町幕府の成立にあたってこの職につき、室町幕府の歴代の首長もこの地位に任ぜられた。それは江戸幕府にも継承され、1603年(慶長8)に徳川家康が任命されてのち代々世襲して、1867年(慶応3)に王政復古で廃止されるまで続いた。なお、武家政権を幕府と称するのは、将軍の邸宅を中国風に幕府とよんだことに由来する。

[田中文英]



世界大百科事典

征夷大将軍
せいいたいしょうぐん

元来は陸奥における蝦夷征討のため,朝廷から任命された総指揮官。蝦夷征討のための臨時の職に征夷使があり,大将軍の下に副将軍,軍監,軍曹を置いた。征夷使を征東使と呼んだ時期もあり,大将軍,副将軍は大使,副使とも呼ばれたから,征夷大使,征東大使は実質的には征夷大将軍と同じであり,奈良時代に藤原宇合(うまかい),藤原麻呂,藤原継縄,藤原小黒麻呂,大伴家持,紀古佐美らがこれに任命された。しかし彼らは征夷大将軍とは呼ばれておらず,征夷(大)将軍の称の初見は,720年(養老4)に任命された多治比県守(たじひのあがたもり)である。8世紀末には791年(延暦10)大伴弟麻呂が征東大使に任じられたが,793年征東使が征夷使と改称され,翌794年には征夷大将軍となっている。797年には坂上田村麻呂が征夷大将軍に,811年(弘仁2)には文室綿麻呂が征夷将軍に任命されたが,とくに田村麻呂は鎮守府を多賀城から胆沢城に移すなど,経略を進めて武名をあげ,そのため征夷大将軍の栄称としての性格も強まった。このように征夷大将軍の称はとくに平安初期の桓武・嵯峨朝に行われたが,この時期の重要な政治的課題であった蝦夷経略が一段落すると,その称も廃されるに至った。征夷将軍と征東将軍も別個のものとなり,940年(天慶3)平将門の乱を鎮定するため,藤原忠文を征東大将軍に任じたが,これなどまったく蝦夷征討とは無関係である。

 平安末期には,源平争乱の中で征夷大将軍の称が復活し,しかも従来とは違った意味をもつようになった。平氏を破って上洛した源義仲は後白河法皇と対立,法皇を幽閉し,その院政を停めて政治を独裁したが,その中で1184年(元暦1)征夷大将軍に任じられた。これは義仲が源頼朝と対立し,頼朝を討つため東国における追討権を得たもので,蝦夷征討とは関係なく,むしろ忠文の征東大将軍に通ずる性格をもっている(このとき義仲は征夷大将軍でなく,征東大将軍に任じられたとする説もある)。ここに征夷大将軍は東国支配の性格をもつ職となり,義仲を滅ぼした頼朝もこの職を望んだが,法皇はこれを許さず,92年(建久3)法皇の没後,頼朝は征夷大将軍に任じられた。鎌倉幕府では御家人の主人である鎌倉殿が,朝廷によって征夷大将軍に任じられ,征夷大将軍は武家の棟梁を意味するようになるが,当初は鎌倉殿と征夷大将軍とは必ずしも不可分に結びついてはいない。頼朝は94年に征夷大将軍を辞任したし(朝廷は辞任を認めなかったが),源頼家が征夷大将軍に任じられたのは,頼朝のあとをついで鎌倉殿となって3年後である。鎌倉殿と征夷大将軍とが不可分となり,征夷大将軍が幕府(武家政権)の首長,武門の棟梁を意味するようになるのは,1203年(建仁3)源実朝が頼家にかわって鎌倉殿の地位につくと同時に,征夷大将軍に任じられて以後である。実朝が殺され,源氏の将軍が絶えて後は,摂関家や皇族出身の摂家将軍,親王将軍が登場したが,その地位は名目化し,実権をもたなかった。

 1333年(元弘3)鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は,幕府を否定し,征夷大将軍を廃止する意向をもっていたが,幕府打倒に功績のあった皇子の護良親王は征夷大将軍を自称し,天皇もその本意に反してこれを追認せざるをえなかった。親王の将軍就任は,鎌倉幕府の親王将軍の例に倣ったものであろう。やがて天皇は親王から将軍の職を奪ったが,足利直義が天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に下ったのは,実質的には鎌倉将軍の復活であった。35年(建武2)北条氏の残党が鎌倉幕府再興を図って鎌倉を攻略したとき,鎮圧に赴いた足利尊氏は征夷大将軍を望んだが,天皇はこれを許さず,代りに征東将軍に任命し,逆に成良親王を一時的に征夷大将軍に任じて,尊氏の希望を抑えた。鎌倉を奪回した尊氏は鎌倉にとどまり,若宮小路の鎌倉将軍家の旧跡に御所を作り,幕府再興の態度を示した。このとき征夷大将軍を自称したとの説もある(《鎌倉大日記》)。38年(延元3・暦応1)尊氏は北朝の光明天皇によって正式に征夷大将軍に任命され,この後,足利氏は歴代征夷大将軍に就任し,1573年(天正1)将軍足利義昭が織田信長に追放されるまで,足利氏の将軍が続いた。織田・豊臣両氏は征夷大将軍にならなかったが,1603年(慶長8)徳川家康が征夷大将軍に任じられて以来,徳川氏がこの職を世襲し,1867年(慶応3)に至り,王政復古の大号令によって幕府(将軍)が廃絶された。

 征夷大将軍は幕府と同義と考えられており,征夷大将軍とならなかった織田・豊臣両氏は幕府を開かなかったとされる。形式的にいえば,確かに征夷大将軍に就任することと幕府を開くこととは同義と見られるが,その反面,幕府の実質的成立を考える場合には,征夷大将軍の問題とは区別される。1185年(文治1)の守護・地頭設置,1336年(延元1・建武3)の後醍醐天皇から光明天皇への神器授受,建武式目の制定,1600年(慶長5)の関ヶ原の戦等は,征夷大将軍就任とは別に,鎌倉・室町・江戸幕府の実質的な成立時期とされているのである。
→幕府
[上横手 雅敬]

[索引語]
征夷使 坂上田村麻呂 征東大将軍 源義仲 源頼朝 鎌倉殿 武家の棟梁 幕府(日本)
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検索コンテンツ
1. せいい-たいしゃうぐん【征夷大将軍】
全文全訳古語辞典
〔名詞〕 ❶律令制で、蝦夷を征伐するために総大将として派遣された臨時の職。「征夷将軍」「征夷使」「征東使」とも。 ❷源頼朝が任じられて以来、幕府の首長で、武家政
2. 征夷大将軍画像
日本大百科全書
、この征夷大将軍の職名が復活し、新しい政治的意義を帯びるに至った。まず1184年(元暦1)に平家を破って入京した源(木曽きそ)義仲よしなかが征夷大将軍に任命され
3. 征夷大将軍
世界大百科事典
没後,頼朝は征夷大将軍に任じられた。鎌倉幕府では御家人の主人である鎌倉殿が,朝廷によって征夷大将軍に任じられ,征夷大将軍は武家の棟梁を意味するようになるが,当初
4. せいい‐たいしょうぐん[‥タイシャウグン]【征夷大将軍】
日本国語大辞典
*日本紀略‐延暦一三年〔794〕正月一日「賜〓征夷大将軍大伴弟麿節刀〓」*日本後紀‐弘
5. せいいたいしょうぐん【征夷大将軍】
国史大辞典
研究選書』)、喜田貞吉「征夷大将軍の名義に就いて」(『民族と歴史』七ノ五)、高橋富雄「鎌倉幕府と征夷大将軍」(『史学雑誌』五七ノ四)、杉橋隆夫「鎌倉右大将家と征
6. 征夷大將軍(せいいたいしょうぐん)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 10ページ
7. 征夷大将軍
日本史年表
797年〈延暦16 丁丑〉 11・5 坂上田村麻呂を 征夷大将軍 とする(紀略)。 804年〈延暦23 甲申〉 1・28 坂上田村麻呂を再び 征夷大将軍 とする
8. 【征夷大将(將)軍】せいい たいしょう(しゃう)ぐん
新選漢和辞典Web版
《国》 ①平安時代、えぞを征伐するためにつかわされた将軍。 ②鎌倉(かまくら)時代以後、幕府の主で天下の政権を握った者の職。
9. 征夷大將軍除目 (見出し語:征夷大將軍)
古事類苑
政治部 洋巻 第1巻 727ページ
10. 德川氏爲征夷大將軍 (見出し語:征夷大將軍)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1ページ
11. 源氏爲征夷大將軍 (見出し語:征夷大將軍)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 649ページ
12. 足利氏爲征夷大將軍 (見出し語:征夷大將軍)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 1051ページ
13. 征夷大将軍右近衛大将従一位学西院別当源氏長者綱吉公(著作ID:1323508)
新日本古典籍データベース
せいいたいしょうぐんうこんえのたいしょうじゅいちいがくさいいんべっとうげんじのちょうじゃつなよしこう 伝記 
14. 征夷大将軍二拾首和歌(著作ID:1323519)
新日本古典籍データベース
せいいたいしょうぐんにじっしゅわか 足利 義政(あしかが よしまさ) 
15. 新宮成後手書賜征夷大将軍詩(著作ID:1281147)
新日本古典籍データベース
しんきゅうなるののちしゅしょしてせいいたいしょうぐんにたまうし 光格 天皇(こうかく てんのう) 漢詩 寛政二
16. 足利義政爲征夷大將軍 (見出し語:足利義政)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 1055ページ
17. 足利尊氏爲征夷大將軍 (見出し語:足利尊氏)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 1057ページ
18. 足利義〓征夷大將軍 (見出し語:足利義〓
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 1055ページ
19. 足利義滿爲征夷大將軍 (見出し語:足利義滿)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 1059ページ
20. 親王任征夷大將軍 (見出し語:親王)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 663ページ
21. 德川家綱爲征夷大將軍 (見出し語:德川家綱)
古事類苑
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22. 德川家宣爲征夷大將軍 (見出し語:德川家宣)
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23. 德川家治爲征夷大將軍 (見出し語:德川家治)
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24. 德川家光爲征夷大將軍 (見出し語:德川家光)
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25. 德川家茂爲征夷大將軍 (見出し語:德川家茂)
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26. 德川家康爲征夷大將軍 (見出し語:德川家康)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 1ページ
27. 德川綱吉爲征夷大將軍 (見出し語:德川綱吉)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 20ページ
28. 德川秀忠爲征夷大將軍 (見出し語:德川秀忠)
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官位部 洋巻 第3巻 16ページ
29. 德川吉宗爲征夷大將軍 (見出し語:德川吉宗)
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30. 成良親王爲征夷大將軍 (見出し語:成良親王)
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31. 源實朝爲征夷大將軍 (見出し語:源實朝)
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32. 源賴家爲征夷大將軍 (見出し語:源賴家)
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官位部 洋巻 第2巻 657ページ
33. 源賴朝爲征夷大將軍 (見出し語:源賴朝)
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34. あいざわはら【藍沢原】静岡県:駿東郡
日本歴史地名大系
は三月・四月に下野那須野・信濃三原野において、翌五月には当地や富士野で狩を行っている。前年征夷大将軍となった頼朝の示威だけではなく、関東の入口・関門にあたる地に
35. あくろおう【悪路王】
日本人名大辞典
手県)田谷窟(達谷窟)(たつこくのいわや)を拠点とする。延暦(えんりゃく)20年(801)征夷大将軍坂上田村麻呂とたたかい,敗れたという。阿弖流為(あてるい)が
36. あさくさ【浅草】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
あったため、鎌倉防衛の最前線として位置付けられた。観応三年(一三五二)閏二月には宗良親王を征夷大将軍に奉じる新田義宗の軍勢に圧された足利尊氏が石浜に陣を布き、地
37. 足利氏画像
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献し、ついで新政が行き詰まると後醍醐ごだいご天皇を吉野に追い、1338年(延元3・暦応1)征夷大将軍せいいたいしょうぐんとなって室町幕府を開いた。初期の幕府は尊
38. あしかがし【足利市】栃木県
日本歴史地名大系
元弘三年(一三三三)足利尊氏は後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を滅ぼし、暦応元年(一三三八)には征夷大将軍となって室町幕府を開設した。尊氏の誕生地は鎌倉説が有力である
39. 足利尊氏画像
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賞揚した。尊氏は、武蔵むさしなど3か国の国務と守護職、さらに30か所に及ぶ所領を与えられたものの、征夷大将軍に任命されなかったことを不満とし、建武けんむ政権のい
40. 足利尊氏
世界大百科事典
戦死し,ついで後醍醐天皇が没すると,しだいに振るわなくなった。尊氏はこの間38年に北朝より征夷大将軍に任命され,内乱は終息の方向にむかうかにみえたが,やがて幕府
41. あしかが‐たかうじ【足利尊氏】
日本国語大辞典
攻め落として建武の新政に貢献するが、のち背いて持明院統の光明天皇を立てて建武五年(一三三八)八月征夷大将軍となり、室町幕府を興した。のち、南北両朝に分かれて国内
42. あしかがたかうじ【足利尊氏】画像
国史大辞典
、確証はない。しかし尊氏の本心は北条氏を打倒してみずからその地位に代わることであったから、征夷大将軍に補任されることを最大の目標とし、公家の中心人物であった護良
43. あしかが-たかうじ【足利尊氏】
日本人名大辞典
)をやぶって京にはいり,光明天皇(北朝)を擁立。建武式目を制定,室町幕府をひらいた。2年後征夷大将軍。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)で弟の足利直義(ただよ
44. あしかがたかうじ【足利尊氏】
日本架空伝承人名事典
戦死し、ついで後醍醐天皇が没すると、しだいに振るわなくなった。尊氏はこの間三八年に北朝より征夷大将軍に任命され、内乱は終息の方向にむかうかにみえたが、やがて幕府
45. 足利高氏・足利尊氏
日本史年表
1338年〈【北朝】暦応元(8・28)・【南朝】延元3 戊寅⑦〉 8・11 北朝, 足利尊氏 を征夷大将軍とする(公卿補任)。 1351年〈【北朝】観応2・【南
46. 足利義昭画像
日本大百科全書
本願寺は敗退。信長の死後は、羽柴はしば(豊臣とよとみ)秀吉に帰京を要請。秀吉は義昭の養子となり、征夷大将軍を望むが拒否される。1588年(天正16)すでに帰京し
47. 足利義昭
世界大百科事典
,北条氏政,毛利元就らに上洛援助を依頼していた義昭は同年織田信長に奉ぜられて入洛を果たし,征夷大将軍に任ぜられたが,政治の実権は信長の手中にあったため,70年(
48. あしかがよしあき【足利義昭】画像
国史大辞典
し、義昭と改名。七月織田信長の要請をいれて美濃岐阜に赴き、九月信長とともに入京、十月十八日征夷大将軍、従四位下参議、左近衛権中将に叙任されて、幕府を再興し、翌年
49. 足利義詮
世界大百科事典
討つやこれと決別,直義の養子直冬や南朝と京都の争奪戦を繰り返した。58年(正平13・延文3)尊氏が没し義詮が征夷大将軍となると,仁木義長や細川清氏が離反したが,
50. あしかがよしあきら【足利義詮】画像
国史大辞典
尊氏もついで帰洛。同四年直冬の党の京都占領をも退けた。延文三年(一三五八)四月三十日尊氏死去、その後をつぎ征夷大将軍となり、翌年武蔵守を兼ね、細川清氏を執事とし
「征夷大将軍」の情報だけではなく、「征夷大将軍」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。東海道に属する上国(《延喜式》)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。7世紀の中葉,遠淡海,久努,素賀の3国造の支配領域を併せて成立したものと思われる。国郡制に先行する
王政復古(日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
江戸幕府の崩壊から明治政府の成立過程における一つの政治理念で、最終的には、1868年1月3日(慶応3年12月9日)の「王政復古の大号令」の発表による新政府成立を示す。江戸時代には、全国統治の実権は将軍=徳川氏と幕府に握られ、天皇や公卿で構成される朝廷は、儀礼的な存在に形骸
朝幕関係(国史大辞典)
〔鎌倉時代―建武政権〕治承四年(一一八〇)八月、伊豆に挙兵した源頼朝は、以仁王の令旨によって、東国における荘園・公領の沙汰を認められたと主張している。その令旨は、壬申の乱における天武天皇に倣って、高倉上皇・安徳天皇・平清盛によって構成される現王朝を
異国渡海御朱印帳(日本大百科全書)
江戸初期に幕府が海外渡航の貿易船に与えた許可証の控え。金地院崇伝 (こんちいんすうでん)(以心 (いしん)崇伝)の自筆、1冊。京都市南禅寺金地院所蔵(国指定重要文化財、京都国立博物館保管)。崇伝が、前任の豊光寺承兌 (ぶこうじしょうだ/
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平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
日米和親条約(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸幕府がアメリカ使節ペリーと結んだもので、鎖国を破った最初の条約。神奈川条約ともいう。列強のアジア政策の焦点は、一八四〇年代前半中国と条約上の通商を開始して、極東の鎖国日本の開国へと絞られた。その先導的役割を果たしたアメリカ政府の対日使節派遣計画は
天保の改革(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸時代後期の天保年間(一八三〇―四四)に、幕府や諸藩で行われた政治改革の総称。幕府の天保の改革に関する研究は、明治二十年(一八八七)―三十年代から始まる。それは明治二十八年・二十九年に出版された福地桜痴『水野閣老』そのほかに代表されるが、改革を担当
シーボルト事件(日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸後期、ドイツ人医師シーボルトの国外追放事件。1828年(文政11)9月、オランダ商館付医官シーボルトが任期を終えて帰国しようとした際に、たまたま起こった暴風雨のために乗船が難破し、積み荷が調べられた。そのオランダへ持ち帰る荷物のうちに、伊能忠敬
寛政の改革(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸時代後期の幕政改革。老中松平定信の主導により天明七年(一七八七)から寛政五年(一七九三)まで、六年間にわたり断行された。享保・天保の改革と並び三大改革の一つに挙げられる。寛政の改革の前代は、老中田沼意次による政治が展開した。しかし田沼政治も末期を
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