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  11. 治承・寿永の乱

治承・寿永の乱

ジャパンナレッジで閲覧できる『治承・寿永の乱』の国史大辞典のサンプルページ

国史大辞典

治承・寿永の乱
ちしょう・じゅえいのらん
治承四年(一一八〇)に始まり、約十年間にわたり全国的に展開された戦乱。平清盛を中心とする平家一門の武断的独裁政治に対する旧貴族・寺院・地方武士など諸勢力の反撥をきっかけに勃発し、源頼朝の武力による戦乱の終熄に至るという経過をたどったため、表面上は源平両氏の相剋、すなわち源氏・平氏という武家棟梁の覇権争いという形姿をとって進行した内乱であった。その内乱の歴史的位置づけについては諸論があり、いまだ見解の統一は見られないが、この戦乱が中世の開幕をつげる内乱であり、いわゆる武家政権を生み出す胎動の時期であったという歴史事実は否定されない。そしてこの内乱の歴史的意義についての有力な見解は、この戦乱を源平両氏の相剋や、単なる古代的貴族階級と新興武士階級との闘争として見るのではなく、この時期を全国的に広汎な人民各層をまきこんだ社会変革の時期と規定し、各階層がそれぞれの利害にもとづいて行動し、それまでに蓄積されてきた政治的、経済的、社会的な矛盾と対立をあらわにすることによって生じた反体制・反秩序の戦闘、すなわち全国的内乱であるとする見解である。たしかに、巨視的に見れば、この内乱は古代的支配体制の下における諸矛盾の激化により支配の破綻が生じて来た時期に、これを克服して新しい体制を生み出さんとする歴史的苦悩のための動乱期とみることができる。またその意味では、この内乱期は十二世紀後半の約半世紀にわたる戦乱と激動の歴史の一部であり、その最終段階とみることもできる。

〔内乱の導火線〕

一一七〇年代に入って平清盛の権勢は急激に高まったが、その専権のために、かつて一度は平氏と手を結び、その廟堂内での進出をたすけた中央の貴族層も次第に反平氏の姿勢をとり始め、また平氏が貴族性を強めていったが故に、武士の棟梁として平氏に期待をよせていた地方武士階層も平氏から離反していった。さらに清盛と提携していた寺院勢力とくに叡山の衆徒たちの内部で学侶方(学生)と堂衆(行人)との対立が激化し、両者の間での武力抗争にまで進んだが、平氏と結んでいた学侶方の力が弱体化するに伴って、平氏と叡山との関係も悪化した。こうした中で、反平氏の動きの中心になったのが後白河法皇であり、法皇の近臣たちが企てた平氏打倒の陰謀事件(治承元年六月の鹿ヶ谷事件)などによって法皇と平清盛との対立が次第に尖鋭化した。やがて反平氏の気運の高まりの中で、清盛は治承三年十一月、武力を用いて法皇を鳥羽殿に幽閉、院政を停止するとともに、法皇の近臣三十九名の官職を剥奪するなどの強圧手段をとり、独裁的な平氏政権を樹立する。しかし平氏の専権的な武断政策は、新旧両勢力とくに寺院勢力の強い反撥を招き、平氏政権に対する武力抵抗が、寺院勢力を糾合しての以仁(もちひと)王・源頼政の挙兵によって開始された。すなわち治承四年四月、頼政は後白河法皇の皇子以仁王を奉じて平氏打倒の兵を挙げ、同時に諸国の源氏一族に対して以仁王の令旨(りょうじ)を伝え、その決起を促した。またこの挙兵に園城寺や興福寺が呼応し兵を集めた。しかしこの頼政の蜂起はたちまちに鎮圧され、寺院勢力も一旦は平氏の圧力のもとに服して、平氏打倒には失敗したが、その寺院勢力の動きはやがて平氏を福原遷都に追い込むという効果を見せた。

〔内乱の拡大〕

頼政の挙兵は失敗に終ったものの、以仁王の令旨の効果はたちまちにあらわれ、諸国において反平氏の在地武士たちの蜂起が始まり、内乱は全国的に拡大し始めた。中でも平治の乱後、伊豆で流謫の生活を送っていた源頼朝は治承四年八月十七日に平氏打倒の兵を挙げ、ついで信濃に雌伏していた源(木曾)義仲も九月七日に挙兵した。そして平氏側が最も脅威を感じたのは源氏の嫡流たる源頼朝の動きであった。その頼朝は伊豆の在地武士北条時政、相模の土肥実平、三浦義明・義澄父子らの後援を得て、まず平氏方の伊豆国目代山木兼隆を討つことに成功したが、その後、石橋山の戦で大庭景親以下の軍に敗れ、海路安房国に渡った。ここで再起をはかった頼朝は、安西景益・千葉介常胤・上総介広常ら、安房・上総・下総の大武士団の協力を得て武蔵国に入り、そこでは江戸重長・畠山重忠らの有力武士を糾合することに成功し、その勢いは強大となり、十月六日には父祖以来源家ゆかりの地であった鎌倉に入り、ここを本拠と定めて、まず関東地方の経略をすすめることとした。頼朝の挙兵後間もなく、甲斐源氏の武田信義とその一族が、信濃源氏と連合して独自に挙兵し、駿河国に勢力を伸ばし始めていたが、頼朝はこの甲斐源氏の協力を強く求めていた。一方、京都では頼朝の挙兵に対して追討軍を派遣することとなり、平維盛・忠度らを将とする大軍は九月末に都を発し、十月中旬に駿河国に進んだ。これを邀え撃つため頼朝は駿河国賀島(かじま)にまで兵を進め、甲斐源氏との提携を果たし、富士川をはさんで平氏の東征軍と対陣したが、平氏軍では投降・逃亡が続出したため、劣勢を認めた維盛以下は戦わずに敗走した(富士川の戦)。頼朝は、武田信義を駿河に、安田義定を遠江に配して西からの攻撃を甲斐源氏に委ねるとともに、みずからは鎌倉に軍をかえし、直ちに常陸源氏の佐竹氏を攻略するなど、もっぱら関東地域の支配の強化に努力した。上野の新田義重が頼朝に来属したのもこの時期である。京都の平氏側では、征東軍の敗走を知り、また山門の蜂起も伝えられたので、清盛は十一月に還都し、また法皇に親裁を奏請し、みずからは軍事的弾圧の強化をすすめ園城寺を攻撃、南都焼打ちを敢行した。そして翌養和元年(一一八一)正月には平宗盛が五畿内・近江・伊勢・丹波など諸国の総管に任じ、二月には平盛俊を丹波国諸荘園総下司に補するなどして、畿内近国を支配領域とする軍事的体制の強化をはかった。その年の閏二月に清盛が病死するが、これら一連の軍事的強化策が実り、反撃に転じた平氏軍は三月の墨俣川の戦で、源行家に率いられた美濃・尾張の源氏軍を大敗させた。なお、さきに挙兵した木曾義仲は信濃から亡父義賢の故地の上野国に兵をすすめたが、頼朝の勢力との衝突をさけて信濃に戻り、もっぱら北陸地方への勢力拡大に努めていた。またこの治承四年九月から養和元年にかけて、近江源氏の山本義経や美濃源氏らも立ち上がり、反平氏の園城寺などの寺院勢力と結んで京都を脅かす態勢を示し、さらに摂津・河内源氏をはじめ播磨や若狭の在地勢力、紀伊の熊野別当湛増、伊予の河野一族、土佐の源希義、そして肥後の菊池隆直をはじめとする九州諸国の各地での反平氏勢力の蜂起がつづき、内乱の全国的な拡大が見られた。しかし、墨俣川の戦以後の東海道方面では軍事的均衡状態が維持され、また養和元年から翌寿永元年(一一八二)にかけて凶作が続いたための「養和の飢饉」となり、兵粮米の不足から大規模な軍事行動を起すことができなかったため、内乱は一時の小康状態を保った。

〔内乱終熄への経過〕

約二年間にわたる内乱の一時的沈静期に頼朝は東国の掌握をすすめ、東国を地盤とする政権の基礎固めに努力していた。また内乱を全般的に見るならば、この小康状態の時期は内乱の主役が先進地を中心とする各地の中小武士たちから、彼らを統合して大武士団を形成し、地方的政治権力を作り出そうとする頼朝・義仲など有力な武士の棟梁に転換した時期ともいえる。義仲は寿永元年九月北陸道における平氏方の有力な戦力であった越後の城氏を滅ぼし、北国一帯をほぼ掌中にし、また頼朝は翌二年二月に常陸国に勢力を張り上野・下野の武士たちを糾合して頼朝に強く反抗していた叔父の志田義広を討つことにより、関東一帯の支配力をさらに強化していった。寿永二年五月、それまでの大局的小康状態は終り、戦局は北陸道方面から動き始めた。義仲は北陸道方面に派遣された大規模な平氏軍を越前国礪波山に破り(倶利伽羅峠の戦)、さらにこれを急追して、平氏を京都から駆逐し、七月末に入京した。京都を放棄した平氏は安徳天皇を伴って備前国に逃れ、西国方面の勢力圏の確保に努めることとなった。こうして内乱の一大転機を迎えたが、ここに山陽・南海・西海諸道の平氏、畿内および北陸・山陰諸道の義仲、そして東海・東山両道の頼朝という三勢力が鼎立するという状態が生まれ、その中で後白河法皇の政治的画策が積極化する。この時期に頼朝の政治的手腕も効果的に発揮され、まず寿永二年十月宣旨によって頼朝の東国沙汰権が公認された。ついで法皇と対立した義仲が十一月にクーデターを起すと、法皇は頼朝に義仲討伐を命じ、頼朝は弟の範頼・義経に大軍を以て上洛させ、翌年正月に至り義仲を討滅した。この源氏の二勢力の抗争の間に、平氏は摂津国一谷まで進出し前進陣地を構えたが、範頼・義経の軍は二月七日にこれを攻撃し(一谷の戦)、平氏方は一族の武将の多くを失って讃岐の屋島に敗退した。平氏は瀬戸内海一帯を勢力圏とし、東はこの屋島を、西は下関の彦島を根拠地として態勢を再建せんとしたが、源氏側は範頼が追討使となって山陽道から九州を攻略し、文治元年(一一八五)正月には豊後国に渡り、平氏の背後を扼す態勢をつくり、一方では義経がその年の二月に屋島を奇襲して平氏を海上に追い落とした(屋島の戦)。そして西走して彦島に拠る平氏軍に対し、義経は熊野・伊予の水軍の参加を得て急追し、三月下旬長門壇ノ浦の海戦で安徳天皇とともに平氏一門を族滅させた。ここに五年間に及ぶ治承・寿永の内乱は一応の終焉を見た。事実上の「天下兵馬の権」を掌中にした頼朝は、やがて起った義経謀叛事件をきっかけにいわゆる「守護地頭補任」勅許を得てその軍事的支配権の公的性格を確立するが、それは頼朝がこの内乱を通じてかち得た最大の収穫であった。しかし、この戦乱の最終的結末すなわち頼朝の武力による全国平定の実現は、建久元年(一一九〇)の頼朝による奥州藤原氏の討滅まで待たねばならなかった。
→石橋山の戦(いしばしやまのたたかい),→一谷の戦(いちのたにのたたかい),→倶利伽羅峠の戦(くりからとうげのたたかい),→寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ),→墨俣川の戦(すのまたがわのたたかい),→壇ノ浦の戦(だんのうらのたたかい),→富士川の戦(ふじがわのたたかい),→屋島の戦(やしまのたたかい)
(安田 元久)
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1. ちしょう・じゅえいのらん【治承・寿永の乱】
国史大辞典
治承四年(一一八〇)に始まり、約十年間にわたり全国的に展開された戦乱。平清盛を中心とする平家一門の武断的独裁政治に対する旧貴族・寺院・地方武士など諸勢力の反撥
2. あさぐん【厚狭郡】
国史大辞典
代わって厚東(こうとう)・厚狭・吉田の三郡に分割された。厚東地区を基盤に厚東郡司を名乗ったのが厚東氏で、治承・寿永の乱、元弘の乱を通じて在地領主としての地位を固
3. いとのしよう【怡土庄】福岡県:前原市
日本歴史地名大系
〇年八月日「仁和寺領文書目録」仁和寺文書/筑前怡土荘史料(九州荘園史料叢書))。地頭職は治承・寿永の乱に際し置かれたが、文治四年(一一八八)三月、当庄を伝領して
4. うけしょ【請所】
国史大辞典
請口・請料といった。平安時代末期、在庁官人が荘官に代わって荘園年貢を徴収して領家に送進したり、源平合戦(治承・寿永の乱)の混乱期に地方武士が下地の管理を委任され
5. 雨月物語 280ページ
日本古典文学全集
源義朝らが戦い、内裏も戦場と化した。清盛の専横に発し、諸国から源氏が挙兵し、ついに平氏の滅亡に至った治承・寿永の乱をさす。覇道(武力による国政)に対し、徳をもっ
6. うすき【臼杵】
国史大辞典
臼杵は海部郡丹生郷に属し、同郷がのち丹生荘と臼杵荘とに分かれた。臼杵荘には豊後大神系の臼杵氏が居り、治承・寿永の乱に臼杵惟隆が活躍した。臼杵磨崖仏は藤原時代の磨
7. うすきのしょう【臼杵荘】
国史大辞典
どは不明。領家は九条家、のち一条家。臼杵戸次荘ともあるが一般に別荘とする。面積二百町歩。治承・寿永の乱に臼杵惟隆が活躍。のち北条氏・大友氏が地頭職となる。永享七
8. うたひめごえ【歌姫越】
国史大辞典
雀大路から大内裏域を抜けて山城へ行く道として重要視された。またこの道は奈良坂とも称され、治承・寿永の乱に南都を攻めた平重衡はここを通って東大寺・興福寺に至った。
9. 越前国
世界大百科事典
麻呂が乱を起こし倒れるまで,同国は彼の勢力基盤の一つとなった。館野 和己 中世 平安末の治承・寿永の乱では,北陸道の関門にあたる越前は,木曾から越中,加賀を経て
10. えちぜんのくに【越前国】福井県
日本歴史地名大系
子見庄(現坂井郡坂井町)などの東大寺領が知られる。中世〔鎌倉時代〕北陸の入口にあたる越前は、治承・寿永の乱で京都から派遣される平氏軍と源義仲軍との交戦の場となっ
11. おおかわどのみくりや【大河土御厨】埼玉県:北葛飾郡
日本歴史地名大系
)によれば、当御厨はもとは源氏の相伝家領であったが、これまで平家に押領されていた。しかし治承・寿永の乱に際し、年来の祈祷師である権禰宜度会光親神主に天下泰平を祈
12. おおしまぐん【大島郡】
国史大辞典
大島鳴門と呼ばれて、『万葉集』にもよまれた。また海をへだてて安芸国・伊予国に対する位置にあって、治承・寿永の乱には、一ノ谷を追われ大島の島末に城を築いた平知盛を
13. おおしまぐん【大島郡】 : 大島郡/(一)
国史大辞典
大島鳴門と呼ばれて、『万葉集』にもよまれた。また海をへだてて安芸国・伊予国に対する位置にあって、治承・寿永の乱には、一ノ谷を追われ大島の島末に城を築いた平知盛を
14. おおたのしょう【太田荘】
国史大辞典
徴発して直営田を経営し、荘民との間に生ずる軋轢(あつれき)を「私武威」によって弾圧した。治承・寿永の乱で、平家が滅び当荘は没官領とされたが、橘氏は入部した土肥実
15. おおたのしょう【太田荘】 : 太田荘/(一)
国史大辞典
徴発して直営田を経営し、荘民との間に生ずる軋轢(あつれき)を「私武威」によって弾圧した。治承・寿永の乱で、平家が滅び当荘は没官領とされたが、橘氏は入部した土肥実
16. おおばのみくりや【大庭御厨】
国史大辞典
景政の子孫が代々本御厨の御厨司・下司職を世襲し、特に景政の孫景忠のときより大庭氏を名乗った。十二世紀末治承・寿永の乱に際し、石橋山の戦で平氏に与同し源頼朝に敵対
17. おおべのしょう【大部荘】
国史大辞典
その後当荘の所属をめぐって国衙との相論が起ったが、応保二年(一一六二)寺領として確認された。源平合戦(治承・寿永の乱)の後、東大寺復興のため建久元年(一一九〇)
18. 伽婢子 2 323ページ
東洋文庫
幡宮などの社寺・貴族の荘園が複雑に入り組み、 中世においては京都防壁の軍事上の要衝地として、 治承・寿永の乱をはじめ幾度か合戦が行われてい る(『平家物語』巻四
19. おばまし【小浜市】福井県
日本歴史地名大系
乱を起こし源氏に荷担した。〔中世〕中世の小浜は、若狭における政治・商業の中心地であった。治承・寿永の乱後は平家没官の地として源氏にくみした稲庭時定ら国人に安堵さ
20. かいたけだし【甲斐武田氏】 : 武田氏/(一)
国史大辞典
次男信義は甲斐国巨摩郡甘利荘地域に進出し、武田氏を称して甲斐源氏の嫡流を継承、十二世紀末の治承・寿永の乱では、源頼朝を助けて平家追討の戦功をあげた。信義は鎌倉幕
21. かいたのしよう【粥田庄】福岡県:鞍手郡
日本歴史地名大系
ていたという(文明一一年正月日「粥田庄庄務頼順注進状案」高二)。ただし経遠の子山鹿秀遠は治承・寿永の乱で平家方に付いていることから、おそらく家長も平家方に加わり
22. かんのう【勧農】
国史大辞典
支出するために設けられたものであった。中世で勧農にかかわったのは荘園領主ばかりでなく、源平の内乱(治承・寿永の乱)の最中には、寿永二年(一一八三)に安芸国で平氏
23. かんもんかいきよう【関門海峡】福岡県:北九州市(旧豊前域)
日本歴史地名大系
早鞆の瀬戸では、その東側の海釜で水深四七メートルに達し、広義の関門海峡のなかで最も深くなっている。治承・寿永の乱に際しては、関門海峡の長門国「壇ノ浦」は最後の戦
24. くじょうかねざね【九条兼実】画像
国史大辞典
仁安元年から同三年にわたっては東宮傅を兼ねた。治承元年(一一七七)橘氏是定。この後しばらく官職に異動なく、治承・寿永の乱が落着し鎌倉幕府の覇権が確立する文治元年
25. くずはらのまき・おおつきごう【葛原牧・大槻郷】千葉県:佐原市
日本歴史地名大系
治承年中(一一七七―八一)に知房が平清盛の強縁により神主に補任され、助重は雌伏を余儀なくされたが、治承・寿永の乱後、源頼朝に訴えて神主に復帰した。助重の子助康は
26. くらてぐん【鞍手郡】福岡県
日本歴史地名大系
、南東部には粥田庄が成立した。同庄を開発した大宰府府官の藤原姓粥田氏の一流山鹿秀遠らは、治承・寿永の乱で平家方についてその所領を朝廷に没収され、朝廷から源頼朝に
27. けいざい【経済】 : 中世
国史大辞典
も行われた関東は大開墾時代を迎え、地名を姓とする多くの武士・武士団が生まれた。源平争乱(治承・寿永の乱)はこの荘園公領制の成立を前提として戦われたのであり、そこ
28. 源威集 45ページ
東洋文庫
神奈川県中郡国府村にある現六所神社。景行天皇四一年創立と伝える式外社。相模国   内の社の総称という。のち治承・寿永の乱に際し、平惟盛軍が駿河国手越に到着したこ
29. げんぺいのかっせん【源平合戦】
国史大辞典
治承・寿永の乱(ちしょう・じゅえいのらん)
30. こくぶし【国分氏】画像
国史大辞典
流。千葉常胤の五男国分五郎胤通(胤道)より起る。いわゆる千葉六党の一つ。胤通は父とともに治承・寿永の乱、奥州征伐に従って功をたて、畠山重忠誅伐戦にも北条義時のも
31. こじまのかいぞく【児島の海賊】
国史大辞典
要害の地に置いて警備に充てしめた。承平・天慶の乱にもこの海域の動揺ははなはだしかった。源平の争乱(治承・寿永の乱)には寿永二年(一一八三)閏十月児島西方の水島合
32. こだまぐん【児玉郡】埼玉県
日本歴史地名大系
が(「吾妻鏡」寿永三年二月五日条)、同書や「平家物語」には児玉郡出身の武士の名が散見し、治承・寿永の乱や承久の乱における活躍ぶりがうかがえる。比定地は不詳である
33. こだまし【児玉氏】画像
国史大辞典
児玉氏(党)本流は、藤原姓に改称している。 (二) 毛利家臣児玉氏。経行・惟親系の二つの児玉氏の流れは、治承・寿永の乱あるいは承久の乱後に西遷し、武蔵国児玉郡池
34. こだまし【児玉氏】 : 児玉氏/(二)
国史大辞典
(二) 毛利家臣児玉氏。経行・惟親系の二つの児玉氏の流れは、治承・寿永の乱あるいは承久の乱後に西遷し、武蔵国児玉郡池屋の本領とともに、安芸国賀茂郡高屋荘、同国
35. こだまとう【児玉党】画像
国史大辞典
ったから、その子孫は平姓秩父氏にも属し、他の藤原姓(有道姓)とは異なっていた。児玉党は、治承・寿永の乱の平氏討伐の遠征に参加した。『愚管抄』には建保元年(一二一
36. こっけん【国検】
国史大辞典
な一国惣検注にもとづく田文が、「図田注文」などの名で保管されていたが、日向・薩摩のように治承・寿永の乱の渦中で失われた国もみられる。鎌倉幕府は各国守護を通じ国衙
37. 昆陽野
世界大百科事典
)野,昆陽池は歌枕として知られ,平清盛の福原遷都のさい,一時昆陽野に造都の案も出された。治承・寿永の乱,元弘の乱,南北朝内乱のときには,たびたび軍勢が通過,宿営
38. しど【志度】
国史大辞典
香川県大川郡にある町。志度浦の名は謡曲「海士」とともに世に知られ、また平安時代末期の治承・寿永の乱では屋島とともに合戦場となった。『吾妻鏡』文治元年(一一八五
39. しもつけのくに【下野国】画像
国史大辞典
藤姓足利家綱と争って勝訴、源姓足利氏の基をひらき、義国の長子義重は上野国新田荘に住んで新田氏を称した。治承・寿永の乱に家綱の孫忠綱は志田先生義広に与して滅ぼされ
40. しょうにし【少弐氏】画像
国史大辞典
九州に下向して以来、代々大宰少弐を世襲し、少弐氏と呼ばれるようになった。資頼は平氏の家人として源平合戦(治承・寿永の乱)に参加したが、のちに鎌倉幕府の御家人とな
41. 新制
世界大百科事典
権の観念的掌握とその武家権門への委任を意図したものであった。この時期は,保元の乱勃発から治承・寿永の乱終結に至る時期であった。平氏政権の興亡から鎌倉幕府の樹立と
42. じょうし【城氏】画像
国史大辞典
拡大していたと考えられる。嫡流は、永基の後は九郎資国(助国)、その子太郎資永(助永)と続いて、源平争乱(治承・寿永の乱)期を迎えた。このとき城氏は平家方に属して
43. じょうし【城氏】 : 城氏/(一)
国史大辞典
拡大していたと考えられる。嫡流は、永基の後は九郎資国(助国)、その子太郎資永(助永)と続いて、源平争乱(治承・寿永の乱)期を迎えた。このとき城氏は平家方に属して
44. すいたのしょう【吹田庄】大阪府:吹田市/吹田村
日本歴史地名大系
また雑役負担分が多く、本所の祭礼行事の雑役を順次納入する典型的な近郊庄園であったともいえる。しかし、治承・寿永の乱を機に武士の侵略や西園寺家・奈良興福寺などの進
45. すいたのしょう【吹田荘】
国史大辞典
水を淀川をさかのぼって宇治五箇荘まで運んでいる。こうした負担増が荘民の反発を招いたのか、治承・寿永の乱を機にその支配は衰退し、清住寺別当職就任者に吹田荘役が伝え
46. すおうのくに【周防国】画像
国史大辞典
皇室領の秋穂二島荘・束荷(つかり)荘・楊井(やない)荘、摂関家領の屋代荘などが平安時代に知られる。治承・寿永の乱の際、源義経は大島津(大島郡大島町)に結集したの
47. せっかんけりょう【摂関家領】画像
国史大辞典
定化とともに三持仏堂の準氏寺化が進んで、全体として間接長者領的な側面が強まり、保元の乱、治承・寿永の乱時に同領の帰属が朝廷・幕府の介入する問題となったのを通して
48. 曾我物語 311ページ
日本古典文学全集
二の腕。また、肩から手首までをいう場合もある。豊後国海部郡臼杵荘(大分県臼杵市)の武士。治承・寿永の乱で活躍した臼杵惟隆が知られる。大神氏。ただし、惟隆以降は活
49. 武田氏画像
世界大百科事典
の子義清が甲斐国巨摩郡武田荘へ荘官として赴任したところから武田姓を名のる。義清の孫信義は治承・寿永の乱で,源頼朝方として戦功をたて,鎌倉幕府成立後には,甲斐の有
50. たけだし【武田氏】画像
国史大辞典
次男信義は甲斐国巨摩郡甘利荘地域に進出し、武田氏を称して甲斐源氏の嫡流を継承、十二世紀末の治承・寿永の乱では、源頼朝を助けて平家追討の戦功をあげた。信義は鎌倉幕
「治承・寿永の乱」の情報だけではなく、「治承・寿永の乱」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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幕末期水戸藩尊攘激派(天狗党)による筑波山挙兵とそれを契機に起った争乱。天狗の呼称は水戸藩藩主徳川斉昭が天保度の藩政改革を実施した際、改革を喜ばない門閥派が改革派藩士を批難したところから発したもので、改革派には軽格武士が多かったから
大塩平八郎の乱(日本大百科全書・国史大辞典)
江戸後期、大坂で大塩平八郎らが救民のため挙兵した反乱。1828年(文政11)の九州大洪水より、断続的に天災による諸国異作が続き、36年(天保7)は未曽有の大飢饉であった。この打ち続く凶作・飢饉により米価高騰し、大坂市中には飢餓による死者が続出する。
生田万の乱(国史大辞典・日本大百科全書)
天保八年(一八三七)六月一日の明け方、平田篤胤の元塾頭生田万らが桑名藩領柏崎陣屋(新潟県柏崎市)に乱入した事件。柏崎騒動ともいう。柏崎陣屋は桑名藩の越後領四郡六万石の総支配所で、大役所・預役所・刈羽会所の三役所があり、郡代以下五十数名で領政を担当していた。
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五・一五事件(日本大百科全書・世界大百科事典)
1932年(昭和7)に起きた海軍青年将校を中心としたクーデター事件で、血盟団事件の第二陣として計画されたもの。1931年の十月事件失敗後、海軍青年将校は井上日召(にっしょう)らと結んでクーデター計画を進めてきた。32年の血盟団事件で団員が検挙されると
元寇(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典)
鎌倉時代のなかば、1274年(文永11)と1281年(弘安4)の2回にわたり行われた蒙古(もうこ)(元)の日本侵略。文永の役(ぶんえいのえき)・弘安の役(こうあんのえき)、蒙古襲来ともいい、当時は蒙古合戦、異国合戦と称し、元寇の語は近世以後定着した。
承久の乱(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
承久三年(一二二一)後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府を討滅せんとして挙兵、逆に大敗、鎮圧された事件。大義名分論、順逆論の立場からは「承久の変」ともいい、第二次世界大戦中はほとんど「変」に統一されたが、中世以来、乱・合戦などと称する方がむしろ一般的で
治承・寿永の乱(国史大辞典)
治承四年(一一八〇)に始まり、約十年間にわたり全国的に展開された戦乱。平清盛を中心とする平家一門の武断的独裁政治に対する旧貴族・寺院・地方武士など諸勢力の反撥をきっかけに勃発し、源頼朝の武力による戦乱の終熄に至るという経過をたどったため、表面上は源平
平治の乱(世界大百科事典・日本国語大辞典)
1159年(平治1)に起こった内乱。保元の乱に勝った後白河天皇は1158年(保元3)に退位して院政をはじめるが,その間に院近臣や武士のあいだに権力争いがはげしくなっていた。院権臣の信西(藤原通憲)と藤原信頼とは互いに権勢を競って対抗し,とくに信西が信
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