治承・寿永の乱
ちしょう・じゅえいのらん
治承四年(一一八〇)に始まり、約十年間にわたり全国的に展開された戦乱。平清盛を中心とする平家一門の武断的独裁政治に対する旧貴族・寺院・地方武士など諸勢力の反撥をきっかけに勃発し、源頼朝の武力による戦乱の終熄に至るという経過をたどったため、表面上は源平両氏の相剋、すなわち源氏・平氏という武家棟梁の覇権争いという形姿をとって進行した内乱であった。その内乱の歴史的位置づけについては諸論があり、いまだ見解の統一は見られないが、この戦乱が中世の開幕をつげる内乱であり、いわゆる武家政権を生み出す胎動の時期であったという歴史事実は否定されない。そしてこの内乱の歴史的意義についての有力な見解は、この戦乱を源平両氏の相剋や、単なる古代的貴族階級と新興武士階級との闘争として見るのではなく、この時期を全国的に広汎な人民各層をまきこんだ社会変革の時期と規定し、各階層がそれぞれの利害にもとづいて行動し、それまでに蓄積されてきた政治的、経済的、社会的な矛盾と対立をあらわにすることによって生じた反体制・反秩序の戦闘、すなわち全国的内乱であるとする見解である。たしかに、巨視的に見れば、この内乱は古代的支配体制の下における諸矛盾の激化により支配の破綻が生じて来た時期に、これを克服して新しい体制を生み出さんとする歴史的苦悩のための動乱期とみることができる。またその意味では、この内乱期は十二世紀後半の約半世紀にわたる戦乱と激動の歴史の一部であり、その最終段階とみることもできる。
〔内乱の導火線〕
一一七〇年代に入って平清盛の権勢は急激に高まったが、その専権のために、かつて一度は平氏と手を結び、その廟堂内での進出をたすけた中央の貴族層も次第に反平氏の姿勢をとり始め、また平氏が貴族性を強めていったが故に、武士の棟梁として平氏に期待をよせていた地方武士階層も平氏から離反していった。さらに清盛と提携していた寺院勢力とくに叡山の衆徒たちの内部で学侶方(学生)と堂衆(行人)との対立が激化し、両者の間での武力抗争にまで進んだが、平氏と結んでいた学侶方の力が弱体化するに伴って、平氏と叡山との関係も悪化した。こうした中で、反平氏の動きの中心になったのが後白河法皇であり、法皇の近臣たちが企てた平氏打倒の陰謀事件(治承元年六月の鹿ヶ谷事件)などによって法皇と平清盛との対立が次第に尖鋭化した。やがて反平氏の気運の高まりの中で、清盛は治承三年十一月、武力を用いて法皇を鳥羽殿に幽閉、院政を停止するとともに、法皇の近臣三十九名の官職を剥奪するなどの強圧手段をとり、独裁的な平氏政権を樹立する。しかし平氏の専権的な武断政策は、新旧両勢力とくに寺院勢力の強い反撥を招き、平氏政権に対する武力抵抗が、寺院勢力を糾合しての以仁(もちひと)王・源頼政の挙兵によって開始された。すなわち治承四年四月、頼政は後白河法皇の皇子以仁王を奉じて平氏打倒の兵を挙げ、同時に諸国の源氏一族に対して以仁王の令旨(りょうじ)を伝え、その決起を促した。またこの挙兵に園城寺や興福寺が呼応し兵を集めた。しかしこの頼政の蜂起はたちまちに鎮圧され、寺院勢力も一旦は平氏の圧力のもとに服して、平氏打倒には失敗したが、その寺院勢力の動きはやがて平氏を福原遷都に追い込むという効果を見せた。
〔内乱の拡大〕
頼政の挙兵は失敗に終ったものの、以仁王の令旨の効果はたちまちにあらわれ、諸国において反平氏の在地武士たちの蜂起が始まり、内乱は全国的に拡大し始めた。中でも平治の乱後、伊豆で流謫の生活を送っていた源頼朝は治承四年八月十七日に平氏打倒の兵を挙げ、ついで信濃に雌伏していた源(木曾)義仲も九月七日に挙兵した。そして平氏側が最も脅威を感じたのは源氏の嫡流たる源頼朝の動きであった。その頼朝は伊豆の在地武士北条時政、相模の土肥実平、三浦義明・義澄父子らの後援を得て、まず平氏方の伊豆国目代山木兼隆を討つことに成功したが、その後、石橋山の戦で大庭景親以下の軍に敗れ、海路安房国に渡った。ここで再起をはかった頼朝は、安西景益・千葉介常胤・上総介広常ら、安房・上総・下総の大武士団の協力を得て武蔵国に入り、そこでは江戸重長・畠山重忠らの有力武士を糾合することに成功し、その勢いは強大となり、十月六日には父祖以来源家ゆかりの地であった鎌倉に入り、ここを本拠と定めて、まず関東地方の経略をすすめることとした。頼朝の挙兵後間もなく、甲斐源氏の武田信義とその一族が、信濃源氏と連合して独自に挙兵し、駿河国に勢力を伸ばし始めていたが、頼朝はこの甲斐源氏の協力を強く求めていた。一方、京都では頼朝の挙兵に対して追討軍を派遣することとなり、平維盛・忠度らを将とする大軍は九月末に都を発し、十月中旬に駿河国に進んだ。これを邀え撃つため頼朝は駿河国賀島(かじま)にまで兵を進め、甲斐源氏との提携を果たし、富士川をはさんで平氏の東征軍と対陣したが、平氏軍では投降・逃亡が続出したため、劣勢を認めた維盛以下は戦わずに敗走した(富士川の戦)。頼朝は、武田信義を駿河に、安田義定を遠江に配して西からの攻撃を甲斐源氏に委ねるとともに、みずからは鎌倉に軍をかえし、直ちに常陸源氏の佐竹氏を攻略するなど、もっぱら関東地域の支配の強化に努力した。上野の新田義重が頼朝に来属したのもこの時期である。京都の平氏側では、征東軍の敗走を知り、また山門の蜂起も伝えられたので、清盛は十一月に還都し、また法皇に親裁を奏請し、みずからは軍事的弾圧の強化をすすめ園城寺を攻撃、南都焼打ちを敢行した。そして翌養和元年(一一八一)正月には平宗盛が五畿内・近江・伊勢・丹波など諸国の総管に任じ、二月には平盛俊を丹波国諸荘園総下司に補するなどして、畿内近国を支配領域とする軍事的体制の強化をはかった。その年の閏二月に清盛が病死するが、これら一連の軍事的強化策が実り、反撃に転じた平氏軍は三月の墨俣川の戦で、源行家に率いられた美濃・尾張の源氏軍を大敗させた。なお、さきに挙兵した木曾義仲は信濃から亡父義賢の故地の上野国に兵をすすめたが、頼朝の勢力との衝突をさけて信濃に戻り、もっぱら北陸地方への勢力拡大に努めていた。またこの治承四年九月から養和元年にかけて、近江源氏の山本義経や美濃源氏らも立ち上がり、反平氏の園城寺などの寺院勢力と結んで京都を脅かす態勢を示し、さらに摂津・河内源氏をはじめ播磨や若狭の在地勢力、紀伊の熊野別当湛増、伊予の河野一族、土佐の源希義、そして肥後の菊池隆直をはじめとする九州諸国の各地での反平氏勢力の蜂起がつづき、内乱の全国的な拡大が見られた。しかし、墨俣川の戦以後の東海道方面では軍事的均衡状態が維持され、また養和元年から翌寿永元年(一一八二)にかけて凶作が続いたための「養和の飢饉」となり、兵粮米の不足から大規模な軍事行動を起すことができなかったため、内乱は一時の小康状態を保った。
〔内乱終熄への経過〕
約二年間にわたる内乱の一時的沈静期に頼朝は東国の掌握をすすめ、東国を地盤とする政権の基礎固めに努力していた。また内乱を全般的に見るならば、この小康状態の時期は内乱の主役が先進地を中心とする各地の中小武士たちから、彼らを統合して大武士団を形成し、地方的政治権力を作り出そうとする頼朝・義仲など有力な武士の棟梁に転換した時期ともいえる。義仲は寿永元年九月北陸道における平氏方の有力な戦力であった越後の城氏を滅ぼし、北国一帯をほぼ掌中にし、また頼朝は翌二年二月に常陸国に勢力を張り上野・下野の武士たちを糾合して頼朝に強く反抗していた叔父の志田義広を討つことにより、関東一帯の支配力をさらに強化していった。寿永二年五月、それまでの大局的小康状態は終り、戦局は北陸道方面から動き始めた。義仲は北陸道方面に派遣された大規模な平氏軍を越前国礪波山に破り(倶利伽羅峠の戦)、さらにこれを急追して、平氏を京都から駆逐し、七月末に入京した。京都を放棄した平氏は安徳天皇を伴って備前国に逃れ、西国方面の勢力圏の確保に努めることとなった。こうして内乱の一大転機を迎えたが、ここに山陽・南海・西海諸道の平氏、畿内および北陸・山陰諸道の義仲、そして東海・東山両道の頼朝という三勢力が鼎立するという状態が生まれ、その中で後白河法皇の政治的画策が積極化する。この時期に頼朝の政治的手腕も効果的に発揮され、まず寿永二年十月宣旨によって頼朝の東国沙汰権が公認された。ついで法皇と対立した義仲が十一月にクーデターを起すと、法皇は頼朝に義仲討伐を命じ、頼朝は弟の範頼・義経に大軍を以て上洛させ、翌年正月に至り義仲を討滅した。この源氏の二勢力の抗争の間に、平氏は摂津国一谷まで進出し前進陣地を構えたが、範頼・義経の軍は二月七日にこれを攻撃し(一谷の戦)、平氏方は一族の武将の多くを失って讃岐の屋島に敗退した。平氏は瀬戸内海一帯を勢力圏とし、東はこの屋島を、西は下関の彦島を根拠地として態勢を再建せんとしたが、源氏側は範頼が追討使となって山陽道から九州を攻略し、文治元年(一一八五)正月には豊後国に渡り、平氏の背後を扼す態勢をつくり、一方では義経がその年の二月に屋島を奇襲して平氏を海上に追い落とした(屋島の戦)。そして西走して彦島に拠る平氏軍に対し、義経は熊野・伊予の水軍の参加を得て急追し、三月下旬長門壇ノ浦の海戦で安徳天皇とともに平氏一門を族滅させた。ここに五年間に及ぶ治承・寿永の内乱は一応の終焉を見た。事実上の「天下兵馬の権」を掌中にした頼朝は、やがて起った義経謀叛事件をきっかけにいわゆる「守護地頭補任」勅許を得てその軍事的支配権の公的性格を確立するが、それは頼朝がこの内乱を通じてかち得た最大の収穫であった。しかし、この戦乱の最終的結末すなわち頼朝の武力による全国平定の実現は、建久元年(一一九〇)の頼朝による奥州藤原氏の討滅まで待たねばならなかった。
→石橋山の戦(いしばしやまのたたかい),→一谷の戦(いちのたにのたたかい),→倶利伽羅峠の戦(くりからとうげのたたかい),→寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ),→墨俣川の戦(すのまたがわのたたかい),→壇ノ浦の戦(だんのうらのたたかい),→富士川の戦(ふじがわのたたかい),→屋島の戦(やしまのたたかい)
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