野讃良(うののさらら)皇女を妃としており、天智との関係は緊密で、大海人が天智の後継であることは確実と思われた。ところが天智天皇七年(六六八)、天智が正式に即位するころから情勢に変化が生じた。天智の皇子に伊賀の豪族出身の采女宅子娘(やかこのいらつめ)の生んだ大友皇子があり、天智天皇七年には二十一歳になる。天智は次第にこの皇子への愛情と期待が高まり、同十年正月に太政大臣に任じた。太政大臣は天皇を補佐して政治を総攬する職で、当時では太政大臣就任は立太子と同様の意味があった。大友が皇太子となると、大海人の宮廷における地位ははなはだ不安となる。彼は天智の処置を恨んだと思われるが、危険を避けるために同年十月大津の宮を出、妃
野皇女や若干の舎人・女孺らを従え、吉野に入って機会を待ち、同年十二月の天智の死後約半年して挙兵、皇位を大友皇子から奪回し、天武天皇となる。これが壬申の乱の大筋であるが、乱がこのようにして起り、大海人の勝利に終るには、なお多くの事情や理由があった。基本的には、大化以来の新政の進行によって、従来の特権を失った地方豪族層の近江朝廷への不満があったと思われる。特に斉明天皇末年から天智天皇初年へかけての朝鮮出兵とその敗北後の防衛のための山城築城や近江遷都による負担の増大は、彼らの不平をいっそう高めたであろう。これに対し畿内有力豪族の多くは、中央集権の強化により朝廷に官職を得て、特権的地位を保持した。しかし、大化以前の有力豪族のすべてが高級官人となることはできない。なかには地位を失って近江朝廷に反感を持つ氏族もあった。たとえば、天智天皇十年正月の新官制によって任命された左・右大臣と御史大夫三人の計五人の政府首脳の人事に洩れた大伴氏などがそれである。ながく都のあった大和をはなれて近江に遷都したことに反感をもつ畿内豪族もあったであろう。また皇族層には、天智が多年の慣例を破って地方豪族出自の女を母とする大友を後継者としたことを不満とし、大海人の再起を期待するものが多かったと思われる。大海人は吉野に隠棲することによって、かえって当時の皇族・貴族・官人層の同情を集めた。彼が大津宮を去ったのを、ある人が虎に翼をつけて放ったのと同じだといったと『日本書紀』は記している。こうした情勢を天智は当然知っていたはずだが、この年九月以来重病の床にあり、適切な対策を講ずるいとまもなく、同年十二月に没した。大友はそのあとを継ぎ、近江朝廷にあって政治をとった。正式に即位したかどうかは疑問で、『日本書紀』をはじめ、七、八世紀の文献には大友の即位を示す記録はない。しかし天智の死後、事実上大友が天皇の地位を継いだことは疑うに及ばない。平安時代中期以降、大友の即位を記した史料があらわれ、江戸時代に『大日本史』が大友即位を主張し、明治三年(一八七〇)七月に弘文天皇の諡号がおくられた。『日本書紀』は大海人の挙兵が皇位強奪とならないように、大友の即位の事実をかくしたのだとする説もある。いずれにせよ、政治は近江朝廷によって行われたが、吉野の大海人の存在は天智の死後重みを増した。時期は不明だが、前記の大伴氏の中心人物である馬来田(まくだ)・吹負(ふけい)の兄弟は、将来皇位につくのは大海人であろうと考え、近江朝廷を去って大和の家に帰った。近江朝廷は大海人に対する警戒を強め、大津京より飛鳥古京に至る間に候(うかみ)を置くなど監視体制を強化した。こうした処置は大海人側を刺激し、両者の関係は緊張の度を強めたと思われる。壬申年(六七二)五月、近江朝廷は天智の陵を造る名目で美濃・尾張の国司に命じて人夫を集め、これに武器を執らしているが、吉野を攻める準備であろう、という情報が吉野にもたらされた。これが大海人が挙兵を決意する直接の原因であろう。一方、国際情勢をみると、唐は新羅と連合し、百済を六六三年、高句麗を六六八年に滅ぼして朝鮮半島を制圧したが、天智天皇九年ごろより唐に対する新羅の反撃が始まり、高句麗遺臣の反乱も起った。こうして朝鮮はまたも戦乱の地となり、近江朝廷は唐・新羅の両方から援兵を求められ、国際的緊張も高まっていた。この困難な時局に対応するには、若くて経験未熟、しかも母の出身から貴族層の衆望の得にくい大友より、この時四十二歳(推定)、豊かな経験と人望をもつ大海人が天皇として適任と考える人々も、朝廷の内外に多かったであろう。六月二十二日、ついに大海人は行動を起す。まず舎人の村国男依らに、大海人の所領である美濃国安八磨郡の湯沐邑(ゆのむら)に急行して募兵し、さらに美濃国司にも兵を集めさせて不破の道を塞ぐことを命じて先発させ、大海人自身は二日後の二十四日、
野皇女と草壁・忍壁両皇子、舎人・女嬬ら三十余人を率いて吉野を出発、強行軍して夜に伊賀国を南から北へ通過し、二十五日の朝、積殖(つむえ)の山口(三重県阿山郡伊賀町)で大津京から駆けつけた大海人の長子高市皇子と合流、伊勢国にはいって国司の出迎えを受け、一隊を派遣して鈴鹿の山道をふさぎ、さらに翌二十六日には伊勢の朝明郡(三重県三重郡)で美濃国の募兵の成功の報を聞く。大海人は高市皇子を不破に遣して前線を指揮させるとともに、東海・東山両道に募兵の使者を出す。二十七日には尾張国司が二万の兵を率いて、不破に至った大海人に帰参した。このように大海人側の戦備が順調に整ったのに対し、近江側は不意をつかれたうえに、大海人の挙兵を聞いたとき、近江朝廷の群臣はことごとく愕き、山沢に逃れようとする者もあったと『日本書紀』に記すように、朝廷内部の不統一が表面化し、対応がたちおくれた。兵力の動員も、東国への使者は不破を通過できず、吉備・筑紫での募兵も、吉備国守・筑紫大宰が大海人に好意を持っていたため、成功しなかった。大和では、形勢を伺っていた大伴馬来田は大海人に従って東国に入り、吹負は二十九日に挙兵して飛鳥古京を占拠し、大和の豪族を味方につけ、大津京攻撃の姿勢を示した。事態はここでも大海人側に有利に進展した。それでも政権を持つ近江朝廷側は、畿内とその周辺から集めたと思われる大軍を動かして攻勢に出、大和・伊賀では一時大海人側を破ったが、大海人側はやがて反撃して、次第に近江軍を圧倒し、湖東の平野を進んだ主力軍は七月二十三日に大津京を陥れ、大友皇子は自殺した。勝利を手にした大海人皇子は、右大臣中臣金を死刑、左大臣蘇我赤兄を流刑にするなど戦後の処置をすまし、同年九月に大和に帰って飛鳥浄御原宮を営み、翌二年即位した。天武天皇である。以上が乱の原因・背景・経過であるが、反乱を起し実力で皇位についたため、天武の権力はきわめて強く、前代以来の貴豪族の勢力を抑え、律令制をとりいれた中央集権の政治を大きく推進することができた。これが壬申の乱のもっとも大きな歴史的意義といえよう。なお乱の原因に、額田女王の愛をめぐる天智と大海人の争いがあるとする説や、百済系渡来人と新羅系渡来人の対立があるとする説などがあるが、疑問である。また大海人は挙兵に際し、大友を秦の二世皇帝に、自分を漢の高祖に比したとする説もある。→大友皇子(おおとものおうじ),→天武天皇(てんむてんのう)直木孝次郎『壬申の乱』(『塙選書』一三)、北山茂夫『壬申の内乱』(『岩波新書』黄五六)、亀田隆之『壬申の乱』(『日本歴史新書』)、星野良作『研究史壬申の乱』、井上光貞「壬申の乱―とくに地方豪族の動向について―」(『日本古代国家の研究』所収)
![壬申の乱の経過[百科マルチメディア]](https://japanknowledge.com/image/intro/jinshinnoran1.jpg)
鉤は天武天皇元年の
萩野(現上