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壬申の乱

ジャパンナレッジで閲覧できる『壬申の乱』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

壬申の乱
じんしんのらん
天智天皇の死の翌年の六七二年に起った皇位継承をめぐる大規模な内乱。壬申の年にあたるので壬申の乱という。なお、『日本書紀』は弘文天皇(大友皇子)の即位を認めず、この年を天武天皇元年とする。乱の直接の原因は皇位継承の争いである。天智天皇は、大化改新を断行して律令制集権国家の基礎を築き、大きな権力を握って近江大津宮で即位したが、後継者の決定がおくれた。その理由の一つは、天智の皇后倭姫王(舒明天皇の孫)や蘇我氏・阿倍氏など有力豪族出身の妃からは健康な皇子が生まれなかった(一人の皇子は夭逝)ことにある。当時の慣例では、皇族または畿内有力豪族出身の后妃所生の皇子でなければ、皇位を継ぐことは困難であった。また当時の慣例では、天皇に有力な兄弟のある場合、皇子よりも兄弟がさきに位を継ぐことが多い。天智には同じ母(斉明天皇)から生まれた弟の大海人皇子があった。慣例に従って大海人皇子ははじめ天智の有力な後継者とみなされたと推測される。大海人は斉明朝以降、天智を助けて政治に参与し、またこのころ天智の女の大田皇女・〓野讃良(うののさらら)皇女を妃としており、天智との関係は緊密で、大海人が天智の後継であることは確実と思われた。ところが天智天皇七年(六六八)、天智が正式に即位するころから情勢に変化が生じた。天智の皇子に伊賀の豪族出身の采女宅子娘(やかこのいらつめ)の生んだ大友皇子があり、天智天皇七年には二十一歳になる。天智は次第にこの皇子への愛情と期待が高まり、同十年正月に太政大臣に任じた。太政大臣は天皇を補佐して政治を総攬する職で、当時では太政大臣就任は立太子と同様の意味があった。大友が皇太子となると、大海人の宮廷における地位ははなはだ不安となる。彼は天智の処置を恨んだと思われるが、危険を避けるために同年十月大津の宮を出、妃〓野皇女や若干の舎人・女孺らを従え、吉野に入って機会を待ち、同年十二月の天智の死後約半年して挙兵、皇位を大友皇子から奪回し、天武天皇となる。これが壬申の乱の大筋であるが、乱がこのようにして起り、大海人の勝利に終るには、なお多くの事情や理由があった。基本的には、大化以来の新政の進行によって、従来の特権を失った地方豪族層の近江朝廷への不満があったと思われる。特に斉明天皇末年から天智天皇初年へかけての朝鮮出兵とその敗北後の防衛のための山城築城や近江遷都による負担の増大は、彼らの不平をいっそう高めたであろう。これに対し畿内有力豪族の多くは、中央集権の強化により朝廷に官職を得て、特権的地位を保持した。しかし、大化以前の有力豪族のすべてが高級官人となることはできない。なかには地位を失って近江朝廷に反感を持つ氏族もあった。たとえば、天智天皇十年正月の新官制によって任命された左・右大臣と御史大夫三人の計五人の政府首脳の人事に洩れた大伴氏などがそれである。ながく都のあった大和をはなれて近江に遷都したことに反感をもつ畿内豪族もあったであろう。また皇族層には、天智が多年の慣例を破って地方豪族出自の女を母とする大友を後継者としたことを不満とし、大海人の再起を期待するものが多かったと思われる。大海人は吉野に隠棲することによって、かえって当時の皇族・貴族・官人層の同情を集めた。彼が大津宮を去ったのを、ある人が虎に翼をつけて放ったのと同じだといったと『日本書紀』は記している。こうした情勢を天智は当然知っていたはずだが、この年九月以来重病の床にあり、適切な対策を講ずるいとまもなく、同年十二月に没した。大友はそのあとを継ぎ、近江朝廷にあって政治をとった。正式に即位したかどうかは疑問で、『日本書紀』をはじめ、七、八世紀の文献には大友の即位を示す記録はない。しかし天智の死後、事実上大友が天皇の地位を継いだことは疑うに及ばない。平安時代中期以降、大友の即位を記した史料があらわれ、江戸時代に『大日本史』が大友即位を主張し、明治三年(一八七〇)七月に弘文天皇の諡号がおくられた。『日本書紀』は大海人の挙兵が皇位強奪とならないように、大友の即位の事実をかくしたのだとする説もある。いずれにせよ、政治は近江朝廷によって行われたが、吉野の大海人の存在は天智の死後重みを増した。時期は不明だが、前記の大伴氏の中心人物である馬来田(まくだ)・吹負(ふけい)の兄弟は、将来皇位につくのは大海人であろうと考え、近江朝廷を去って大和の家に帰った。近江朝廷は大海人に対する警戒を強め、大津京より飛鳥古京に至る間に候(うかみ)を置くなど監視体制を強化した。こうした処置は大海人側を刺激し、両者の関係は緊張の度を強めたと思われる。壬申年(六七二)五月、近江朝廷は天智の陵を造る名目で美濃・尾張の国司に命じて人夫を集め、これに武器を執らしているが、吉野を攻める準備であろう、という情報が吉野にもたらされた。これが大海人が挙兵を決意する直接の原因であろう。一方、国際情勢をみると、唐は新羅と連合し、百済を六六三年、高句麗を六六八年に滅ぼして朝鮮半島を制圧したが、天智天皇九年ごろより唐に対する新羅の反撃が始まり、高句麗遺臣の反乱も起った。こうして朝鮮はまたも戦乱の地となり、近江朝廷は唐・新羅の両方から援兵を求められ、国際的緊張も高まっていた。この困難な時局に対応するには、若くて経験未熟、しかも母の出身から貴族層の衆望の得にくい大友より、この時四十二歳(推定)、豊かな経験と人望をもつ大海人が天皇として適任と考える人々も、朝廷の内外に多かったであろう。六月二十二日、ついに大海人は行動を起す。まず舎人の村国男依らに、大海人の所領である美濃国安八磨郡の湯沐邑(ゆのむら)に急行して募兵し、さらに美濃国司にも兵を集めさせて不破の道を塞ぐことを命じて先発させ、大海人自身は二日後の二十四日、〓野皇女と草壁・忍壁両皇子、舎人・女嬬ら三十余人を率いて吉野を出発、強行軍して夜に伊賀国を南から北へ通過し、二十五日の朝、積殖(つむえ)の山口(三重県阿山郡伊賀町)で大津京から駆けつけた大海人の長子高市皇子と合流、伊勢国にはいって国司の出迎えを受け、一隊を派遣して鈴鹿の山道をふさぎ、さらに翌二十六日には伊勢の朝明郡(三重県三重郡)で美濃国の募兵の成功の報を聞く。大海人は高市皇子を不破に遣して前線を指揮させるとともに、東海・東山両道に募兵の使者を出す。二十七日には尾張国司が二万の兵を率いて、不破に至った大海人に帰参した。このように大海人側の戦備が順調に整ったのに対し、近江側は不意をつかれたうえに、大海人の挙兵を聞いたとき、近江朝廷の群臣はことごとく愕き、山沢に逃れようとする者もあったと『日本書紀』に記すように、朝廷内部の不統一が表面化し、対応がたちおくれた。兵力の動員も、東国への使者は不破を通過できず、吉備・筑紫での募兵も、吉備国守・筑紫大宰が大海人に好意を持っていたため、成功しなかった。大和では、形勢を伺っていた大伴馬来田は大海人に従って東国に入り、吹負は二十九日に挙兵して飛鳥古京を占拠し、大和の豪族を味方につけ、大津京攻撃の姿勢を示した。事態はここでも大海人側に有利に進展した。それでも政権を持つ近江朝廷側は、畿内とその周辺から集めたと思われる大軍を動かして攻勢に出、大和・伊賀では一時大海人側を破ったが、大海人側はやがて反撃して、次第に近江軍を圧倒し、湖東の平野を進んだ主力軍は七月二十三日に大津京を陥れ、大友皇子は自殺した。勝利を手にした大海人皇子は、右大臣中臣金を死刑、左大臣蘇我赤兄を流刑にするなど戦後の処置をすまし、同年九月に大和に帰って飛鳥浄御原宮を営み、翌二年即位した。天武天皇である。以上が乱の原因・背景・経過であるが、反乱を起し実力で皇位についたため、天武の権力はきわめて強く、前代以来の貴豪族の勢力を抑え、律令制をとりいれた中央集権の政治を大きく推進することができた。これが壬申の乱のもっとも大きな歴史的意義といえよう。なお乱の原因に、額田女王の愛をめぐる天智と大海人の争いがあるとする説や、百済系渡来人と新羅系渡来人の対立があるとする説などがあるが、疑問である。また大海人は挙兵に際し、大友を秦の二世皇帝に、自分を漢の高祖に比したとする説もある。→大友皇子(おおとものおうじ),→天武天皇(てんむてんのう)
[参考文献]
直木孝次郎『壬申の乱』(『塙選書』一三)、北山茂夫『壬申の内乱』(『岩波新書』黄五六)、亀田隆之『壬申の乱』(『日本歴史新書』)、星野良作『研究史壬申の乱』、井上光貞「壬申の乱―とくに地方豪族の動向について―」(『日本古代国家の研究』所収)
(直木 孝次郎)


日本大百科全書(ニッポニカ)

壬申の乱
じんしんのらん

672年(弘文天皇1)壬申の年6月、天智天皇 (てんじてんのう)の弟の大海人皇子 (おおあまのおうじ)(後の天武天皇)が、天智の子である大友皇子(弘文 (こうぶん)天皇)を首長とする近江 (おうみ)朝廷に対して起こした古代最大の内乱。

[直木孝次郎]

戦乱の経過

天智天皇は、初め大海人皇子を後継者とする意図をもっていたが、晩年には大友皇子を愛し、671年(天智天皇10)正月、新しく設けた政府の最高の地位である太政大臣 (だいじょうだいじん)に大友を任じて、自己の後継者とする意思を示し、また左右大臣などの高官には蘇我 (そが)・中臣 (なかとみ)などの有力豪族を用いて、大友の地位の安定を計った。このことは大海人と大友との対立を深めた。この年10月、重病にかかって不安を感じた天智は、病床に大海人を招いて皇位を譲る旨を伝えた。天智の真意を計りかねた大海人は、身の危険を感じ、その場で出家して、わずかの従者とともに吉野山へ入った。その後両者は互いに相手の動向を警戒していたが、天智はその年の12月に没し、翌672年6月に至り、大海人はついに行動を開始した。まず、美濃国 (みののくに)(岐阜県)に使を送って兵を集め、東国への交通の要所である不破関 (ふわのせき)(岐阜県不破郡関ヶ原町)を抑え、続いて自らも美濃に向かい、野上 (のがみ)(関ヶ原町)に行宮 (あんぐう)を置き、本拠とした。さらに、東海、東山 (とうさん)2道に使者を遣わし兵を集めさせた。大海人のこのような動きに対して、近江朝廷側も東国、筑紫 (つくし)(九州)、吉備 (きび)(岡山県、広島県東部)などの各地に使を遣わして兵を募るなど兵力の強化を図ったが、東国はひと足先に大海人側に抑えられ、筑紫では大宰 (おおみこともち)、吉備では国守の協力が得られず、計画どおりにははかどらなかった。

 一方、先に近江朝廷を離れて大和 (やまと)に帰っていた大伴 (おおとも)氏は大海人側につき、大和における近江側の最大の拠点、飛鳥 (あすか)古京の守備に加わっていた東漢 (やまとのあや)氏らを味方に引き入れて、古京の占領に成功した。7月に入ると、大海人側は、伊賀、伊勢 (いせ)、尾張 (おわり)、美濃およびそれ以東の諸国から集めた兵により、大和、近江の2方面に各数万の軍団を配し、進攻を開始した。近江側も初めは兵の動員が順調にゆかなかったとはいえ、中央政府の権力を利用して大海人側に劣らぬ数の兵員を集めて対抗し、戦闘は大和、近江、河内 (かわち)など各所で激しく行われた。近江側は初め大和、河内などで一時優勢に戦いを進めたが、やがて大海人側の増援軍の到着により、形勢は逆転した。高市皇子 (たけちのおうじ)を総指揮者として湖東の平野を進撃した大海人皇子側の主力軍は、7月22日には瀬田川 (せたがわ)付近で近江側の主力軍と戦ってこれを破り、瀬田川を渡った。乱の勝敗はここに決し、翌23日、大友は退路を失い、山前 (やまさき)で自殺し、高官たちも捕らえられた。大津宮 (おおつのみや)も戦乱によって破壊炎上した。勝利を収めた大海人は同年8月、大和の飛鳥へ帰り、浄御原 (きよみはら)の新宮に入った。

[直木孝次郎]

乱の原因と意義

古くは額田王 (ぬかたのおおきみ)をめぐる天智天皇と大海人皇子との争いに注目する説もあったが、現在では政治的な面が重視され、皇位継承の問題を直接の原因とし、大化改新以来の天智の政策に不満をもつものが多いことも原因の一つとするのが一般的である。大海人を支持した勢力には皇族、皇親氏族、近江朝廷から疎外された一流豪族や、かなりの数の二流豪族も認められるが、畿内 (きない)の下級豪族や東国の地方豪族の果たした役割はとくに大きい。勝利を得た大海人は天武天皇 (てんむてんのう)となり、この新王権のもとで、天皇を中心とする強力な中央集権国家が形づくられていった。大化改新で計画された天皇制律令国家 (りつりょうこっか)の成立に関し、この乱のもつ歴史的意義は大きい。

[直木孝次郎]



壬申の乱の経過[百科マルチメディア]
壬申の乱の経過[百科マルチメディア]

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世界大百科事典

壬申の乱
じんしんのらん

672年(天武1,壬申の年)に生じた内乱。大友皇子と大海人皇子(のちの天武天皇)とで皇位継承をめぐって争われた。大友皇子の父,大海人皇子の兄であった天智天皇は,その末年に至って,その子大友皇子を後継者とする方針にかたむき671年(天智10)には太政大臣に任命して政権の中心にすえた。この政権は蘇我赤兄(あかえ)を左大臣,中臣金を右大臣に,蘇我果安(はたやす),巨勢人(こせのひと),紀大人(きのうし)を御史大夫とするもので,古くから大和朝廷を構成していた豪族に属している。一方大海人皇子は,朝廷の内部ではその実力によって天智の後継者とみなされていたが,政争をさけるためか671年10月,近江朝廷を去って吉野へしりぞいた。その年末天智天皇が没すると,翌672年大友,大海人両者は半年ちかくの対峙を経たのち,6月にはいって大海人皇子が挙兵し壬申の乱が勃発したのである。大海人皇子側についたのは大伴氏などをのぞけば朝廷内の大豪族は少なく,中小豪族と大海人に近侍した舎人(とねり)集団とがその勢力の中心になっていたらしい。この点では大和朝廷の旧大豪族に支えられた大友皇子と対照的である。

 672年6月,吉野で挙兵した大海人皇子は,近侍する舎人とともに菟田(うだ)を通って伊賀国に入り,そこで近江から脱出した高市皇子と合流,さらに伊勢国に至って大津皇子の一行と合流した。行く先々で軍勢も多くなり,伊賀国では郡司級の豪族が数百の兵をひきいて味方に馳せ参じたといわれる。大海人皇子はさらに進んで美濃国に入り,不破・鈴鹿の二つの関をおさえて戦闘体制をととのえた。大海人方の兵力は美濃,尾張,三河等を中心に,遠くは甲斐あたりまでをふくむ東国地方からの出身者を中心に編成されていた。一方,近江の大津宮にあった大友皇子方は,東国,大和,筑紫,吉備に使者を派遣し全国的に兵力を結集して大海人の挙兵に対抗しようとした。しかし,この計画はつぎつぎに挫折する。まず大海人方がすばやく不破・鈴鹿の両関をおさえてしまったために,近江から東国へ出発した使者は両関を通過することができず,東国の軍隊を近江側へつけることができなかった。吉備に向かった使者の樟磐手(くすのいわて)は吉備国守が募兵に応じなかったため国守を殺しているが,国守が応じなかったところをみると募兵も順調にすすんだとはみえない。さらに筑紫に向かった使者は筑紫大宰栗隈王が対外防備を理由に募兵に応じなかった。こうして,近江朝廷が企図した全国からの軍勢の動員という計画は大きく狂ってしまった。また大和でも,大伴吹負(ふけい)が大海人皇子方について兵をあげ,留守司と近江方の軍隊が駐屯していた飛鳥古京(倭京)を襲撃し,これを占領して本拠とした。この報に接した大海人皇子は攻勢を開始し,第1隊を伊勢をこえて大和へ向かわせ,第2隊は高市皇子を将として近江へ直進させた。大和では大伴吹負が河内から攻撃してきた近江方の軍勢に手をさかれて近江方の大野果安に一時期,飛鳥付近まで攻めこまれることがあったが,河内方面の近江軍をくいとめるとともに陣営をたてなおし,また美濃からの援軍も到着するにおよんで,近江方の軍隊は大和でも勝機を得ることができなかった。近江大津宮へ進撃した高市皇子は,犬上川付近でまず近江軍を破り,さらに安河(野洲川)でも大友皇子方の軍隊をうち破って勝利を決定的なものとした。さらに琵琶湖の北を回った大海人皇子軍は大津の北方の三尾の城を陥落させ,東と北とから近江大津宮を包囲した。7月23日,大友皇子は大津宮を出て,山にはいって自縊して死んだ。

 壬申の乱で勝利を得た大海人皇子は翌673年2月,飛鳥京の飛鳥浄御原宮において即位し,皇位についた。この天武天皇の政権は壬申の乱によって旧畿内大豪族である蘇我,中臣などが大きな打撃をうけたため天皇の権力が強化され,律令中央集権国家へ大きくきりひらく性格をもつこととなった。天武政権は,壬申の乱で支持基盤となった中央の中小豪族,地方豪族,および天皇に近侍する大伴氏や舎人集団を中核としており,天皇家がその権力を強化するのにふさわしい構造をもっていたのである。また,壬申の乱は大友皇子と大海人皇子との皇位継承の抗争によってひきおこされたものであるが,畿内はもちろん,全国的にも兵力が動員され大規模な内乱にまで発展したのは,それなりの社会的背景が考えられなくてはならない。その根底には天智朝に至るまでの政府の政策に対する民衆の抵抗が考えられるが,具体的な乱との相関関係はつまびらかでない。また乱に参加した豪族の中には,同族の中で分裂して大友,大海人それぞれの側について戦ったものも多くみとめられ,当時豪族内の結束がしだいに弱体化し分裂した傾向をみせはじめていたことが知られる。このことも壬申の乱の規模を拡大した一因になっていたかもしれない。
[鬼頭 清明]

[索引語]
大友皇子 大海人皇子 天武天皇 栗隈王 大伴吹負 大野果安
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1. じんしん の 乱(らん)
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壬申の年である六七二年、天智天皇の弟大海人皇子(おおあまのおうじ)と天皇の長子大友皇子が皇位継承をめぐって起こした、一か月に及ぶ内乱。大友皇子は敗北して自殺し、
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672年〈天武元 壬申〉 6・24 大海人皇子 、吉野を脱出し、東国に入る( 壬申の乱 開始)(紀)。
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7. 壬申の乱要図[図版]画像
国史大辞典
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8. あいちぐん【愛知郡】愛知県
日本歴史地名大系
保った。その後、藤原季範が大宮司を継ぎ、源義朝に女をめあわせてその間に頼朝が生れた。これより先、壬申の乱に尾張氏らは大海人皇子に属し、近江方の兵を山口(現東区)
9. 県犬養氏
世界大百科事典
神魂命(かむむすひのみこと)の後裔と称する神別氏族で,本姓は連(むらじ)であったが,672年の壬申の乱に一族の大伴が大海人皇子の舎人として功を立て,684年(天
10. 県主
世界大百科事典
なす行政区画と解されるなど一定せず,県主の理解もなお定まっていない。しかし高市県主許梅(こめ)が壬申の乱中に神託を下し,また県主神社,県神社が祭られたなど,県主
11. あがたのいぬかいうじ【県犬養氏】
国史大辞典
『新撰姓氏録』では神別に属し、神魂命八世孫阿居太都命の後裔としている。はじめ連姓であったが、壬申の乱で大伴・手繦らが活躍し、天武天皇十三年(六八四)宿禰姓を賜わ
12. あきし【安芸市】高知県
日本歴史地名大系
康の子といわれ、その城跡と伝える地が川北にある。中世を通じて安芸郡一帯に勢力をもつ安芸氏は、壬申の乱ののち土佐に流されたという左大臣蘇我赤兄を祖とし、平安時代に
13. あきし【安芸氏】画像
国史大辞典
「安喜五千貫」(『長元物語』)といわれ、土佐東部最大の国人で、郡司系の古い家系と伝えられるが、確証はない。壬申の乱で流された蘇我赤兄後裔説をはじめ、惟宗姓・藤原
14. あきじょうあと【安芸城跡】高知県:安芸市/土居村
日本歴史地名大系
集めた普請持場の割当がみえるが、この時安芸親氏の築いたか、あるいは修築した城が当城であったと思われる。安芸氏は壬申の乱で配流された蘇我赤兄の子孫(「安芸系図」安
15. 明(現)神
世界大百科事典
多く天皇に用いられる。〈あきつみかみ〉ともいう。天皇を神とたたえる風潮が強まるのは,7世紀の壬申の乱(672)以降で,天武,持統両朝には〈大君は神にしませば〉と
16. あきつみかみ【現御神】
国史大辞典
現身の神。明神・明津神・現神とも書く。七世紀後半、とりわけ壬申の乱以後、天皇を神であるとする意識がたかまって、『万葉集』にも天武・持統両天皇を「大君は神にしま
17. あさいじんじゃ【浅井神社】愛知県:稲沢市/浅井村
日本歴史地名大系
境内三一九坪。〓鉤は天武天皇元年の壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)方で活躍した尾張の国司。「延喜式」神名帳に「浅井神社」とみえるから
18. あさけぐん【朝明郡】三重県:伊勢国
日本歴史地名大系
「延喜式」(兵部省)によれば「朝明駅」が置かれ、駅馬一〇疋、伝馬五疋とある。同神名帳によれば二四社が鎮座。壬申の乱の際、大海人皇子は美濃への途中「旦に、朝明郡の
19. 飛鳥岡本宮
世界大百科事典
に,後飛鳥岡本宮を営んだ。斉明紀の記述では,同年,後飛鳥岡本宮に火災がおこっている。ただし,壬申の乱後,天武天皇は,後飛鳥岡本宮の南に,飛鳥浄御原宮(あすかきよ
20. あすかおかもとのみや・のちのあすかおかもとのみや【飛鳥岡本宮・後飛鳥岡本宮】奈良県:高市郡/明日香村/小山村
日本歴史地名大系
のち斉明天皇二年夫帝舒明の宮跡に後飛鳥岡本宮を造り移ったが、同年火災に遭っている。天武天皇元年の壬申の乱の後、大海人皇子は倭京にもどり嶋宮に住み、その後、岡本宮
21. あすかきょう【飛鳥京】
国史大辞典
それにもとづく道路が設置されていたことが、発掘調査の成果をてがかりとして明らかにされつつある。天武天皇元年の壬申の乱にさいして、近江朝廷側は飛鳥京に募兵の使者を
22. 飛鳥浄御原宮
世界大百科事典
7世紀末の皇居。672年(天武1),壬申の乱の終焉後,大海人皇子は,飛鳥岡本宮の南に宮室を営むことを命じ,その冬に移っている。これが飛鳥浄御原宮であり,翌年2月
23. あすかきよみはらのみや【飛鳥浄御原宮】奈良県:高市郡/明日香村/飛鳥村
日本歴史地名大系
天武天皇の皇居。壬申の乱に勝利した大海人皇子(天武天皇)は飛鳥に帰還し、嶋宮・岡本宮を仮皇居としたが、岡本宮の南に飛鳥浄御原宮を造営(「日本書紀」天武天皇元年条
24. 飛鳥浄御原宮
日本史年表
1985年〈昭和60 乙丑〉 10・29 奈良県明日香村の 伝飛鳥板蓋宮跡 付近から、大津皇子など壬申の乱関係の人名・地名が記された木簡1082点発見される(同
25. 飛鳥浄御原令
世界大百科事典
条文の復元も試みられているが,いまだ全容が明らかにされているとはいいがたい。ただ,たしかなことは,672年の壬申の乱を経て,権力をおのれに集中することに成功した
26. 飛鳥時代画像
日本大百科全書
』の序には近江おうみ朝における漢文学の興隆を記し、本文冒頭には大友皇子の作詩を載せているが、壬申の乱後、大宝律令に至り、ふたたび文運の復興が図られた。大学におい
27. 飛鳥時代
世界大百科事典
時期区分 645年(大化1)の蘇我氏滅亡,大化改新までを前期,以後を後期とする。ただし後期を壬申の乱以前と,天武朝以後にさらに区分し,またもし前期に6世紀中ごろ
28. あすかじだい【飛鳥時代】
国史大辞典
る蘇我氏打倒となり、律令的支配をめざす大化改新が始まる。都はその後一時難波と近江にうつるが、壬申の乱後飛鳥にもどり、天武・持統両天皇による『浄御原令』の編集・施
29. 飛鳥時代(年表)
日本大百科全書
大友皇子、太政大臣となる。近江令を施行。大海人皇子、吉野に入る。天智天皇没す672(天武1)壬申の乱。大海人即位(天武天皇)。浄御原宮遷都675(天武4)諸氏の
30. あすかのおかもとのみや【飛鳥岡本宮】
国史大辞典
飛鳥岡本に宮地を定め、後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)といい、川原宮より遷った。壬申の乱に勝利した天武天皇は、元年(六七二)九月癸卯嶋宮より岡本宮に
31. 飛鳥美術
世界大百科事典
変革によるのではなく,美術作品の様式的な変化にもとづくべきであるとして,671年(天智10)壬申の乱前年(小林剛),670年法隆寺焼亡(町田甲一),最近では66
32. あすかぶっきょう【飛鳥仏教】
国史大辞典
近江大津宮の近くに崇福寺を営んだ。天武天皇は、ひとたびは大津宮の内裏の仏殿の前で出家したが、壬申の乱に勝利をおさめ飛鳥に還ってのちは、大官大寺の造営を始めた。百
33. あずまびと【東人】
国史大辞典
と、神亀五年(七二八)に置かれた中衛府の中衛三百人を東舎人と呼ぶことなどもその伝統によった。壬申の乱にあたって東国の兵の掌握如何が戦の勝敗を左右する上に大きな意
34. あとのちとこのにっき【安斗智徳日記】
国史大辞典
四)宿禰姓。智徳は和銅元年(七〇八)従五位下。 [参考文献]亀田隆之『壬申の乱』(『日本歴史新書』)、直木孝次郎『壬申の乱』(『塙選書』一三) (北村 文治)
35. あなむしとうげ【穴虫峠】大阪府:南河内郡/太子町/春日村地図
日本歴史地名大系
が、この大坂を穴虫峠越とする説が有力である。「日本書紀」天武天皇元年(六七二)七月二三日条の壬申の乱の記事に、大和で挙兵した大伴吹負が河内からの近江朝廷軍に備え
36. あべぐん【阿拝郡】画像
国史大辞典
『和名類聚抄』では「安倍」とよみ、柘殖(植)・川合・印代・服部・三田・新居の六郷を載せている。壬申の乱に際し大海人皇子(天武天皇)は吉野を出て美濃に向かう途中、
37. あやまぐん【阿山郡】三重県
日本歴史地名大系
〔古代〕現大山田村の鳳凰寺廃寺は白鳳期の寺院跡で、大友皇子を産んだ伊賀采女宅子娘との関連が伝えられる。壬申の乱に大海人皇子一行が〓萩野(現上
38. あらきむら【荒木村】三重県:上野市
日本歴史地名大系
墳、その南の高塚山と西山麓にも古墳がある。石田に弥生期の石鏃散布地がある。その南方のダラは、壬申の乱で大海人皇子が伊賀の中山を経て、「日本書紀」天武天皇元年六月
39. あわづ【粟津】
国史大辞典
るのは粟津の栗栖をいう(催馬楽鷹の子)。また天武天皇元年(六七二)七月壬子条に粟津市がみえ、壬申の乱で大海人皇子の軍が粟津岡の下に陣をしいた。元暦元年(一一八四
40. あわづ【粟津】滋賀県:大津市/中部地域
日本歴史地名大系
称した可能性がある。滋賀県に属する粟津一帯は、瀬田川を挟んで栗太郡の勢多一帯と境する。古代より交通の結節点で、壬申の乱や藤原仲麻呂の乱からも知られるように政治・
41. あんぱちぐん【安八郡】
国史大辞典
ていたが、現在一部は海津郡域と大垣市域になっている。農耕生産力の高い西美濃の中心地域を占め、壬申の乱の経過を記した『日本書紀』天武天皇元年(六七二)条にはすでに
42. あんぱちぐん【安八郡】岐阜県
日本歴史地名大系
の四郷遺跡のみが著名。前掲の安八磨郡の「郡」は「評」を大宝律令によって修飾したものであろう。壬申の乱に際し、大海人皇子は村国男依らを通じて同評湯沐邑の湯沐令多臣
43. あんらくじ【安楽寺】岐阜県:大垣市/旧多藝郡・不破郡地区/赤坂村
日本歴史地名大系
る。浄土宗に属し、紫雲山永明院と号する。本尊は阿弥陀如来。推古天皇元年聖徳太子の創建という。壬申の乱の際、大海人皇子は当寺の住職生賢をして合戦の勝利を祈願、乱後
44. アーネスト・サトウ 神道論 32ページ
東洋文庫
しかしそれが招いたのは内乱だった。六七一年に天智天皇が崩御して間もなく、天皇の弟と息子の間に起こった争い[壬申の乱]は、六七二年息子の自殺により幕を閉じた。八世
45. いかぐん【伊香郡】滋賀県
日本歴史地名大系
残す。また安曇郷の所在から阿曇連による海人統制との関連も想定しうる。文献によって知られるのは、壬申の乱で大海人皇子軍に参加し胆香瓦臣安倍、また「近江国風土記」逸
46. 斑鳩[町]
世界大百科事典
塔の心礎が残っている。また,1982年秋の発掘調査で,若草伽藍の北限を囲む柵列が検出された。壬申の乱後,天武朝に入って,若草伽藍西側の丘陵を利用して,西院伽藍(
47. 伊賀[市]
世界大百科事典
植(つげ)川沿いの沖積低地と布引山地,鈴鹿山脈に属する山地からなる。古くからの交通の要衝で,壬申の乱(672)で吉野に挙兵した大海人皇子が当地を通って伊勢へ出た
48. いがぐん【伊賀郡】
国史大辞典
『和名類聚抄』では「以加」とよみ、阿保(あお)・阿我・神戸・猪田・大内・長田の六郷を載せている。天武天皇元年の壬申の乱に際し、大海人皇子(天武天皇)は吉野を出て
49. いがぐん【伊賀郡】三重県:伊賀国
日本歴史地名大系
記し、「以加」と読む。平城宮出土木簡に「伊賀国伊賀郡長田郷」、「日本書紀」天武天皇元年六月条壬申の乱に関して「急に行して伊賀郡に到りて、伊賀駅家を焚く」、持統天
50. いがのくに【伊賀国】画像
国史大辞典
址・講堂址の土壇がそれであるという。一宮は上野市の敢国(あえくに)神社である。天武天皇元年の壬申の乱に際しては、吉野を出発した大海人皇子は、大和の菟田(うだ)の
「壬申の乱」の情報だけではなく、「壬申の乱」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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