直木孝次郎『壬申の乱』(『塙選書』一三)、北山茂夫『壬申の内乱』(『岩波新書』黄五六)、亀田隆之『壬申の乱』(『日本歴史新書』)、星野良作『研究史壬申の乱』、井上光貞「壬申の乱―とくに地方豪族の動向について―」(『日本古代国家の研究』所収)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
672年(弘文天皇1)壬申の年6月、天智天皇 (てんじてんのう)の弟の大海人皇子 (おおあまのおうじ)(後の天武天皇)が、天智の子である大友皇子(弘文 (こうぶん)天皇)を首長とする近江 (おうみ)朝廷に対して起こした古代最大の内乱。
天智天皇は、初め大海人皇子を後継者とする意図をもっていたが、晩年には大友皇子を愛し、671年(天智天皇10)正月、新しく設けた政府の最高の地位である太政大臣 (だいじょうだいじん)に大友を任じて、自己の後継者とする意思を示し、また左右大臣などの高官には蘇我 (そが)・中臣 (なかとみ)などの有力豪族を用いて、大友の地位の安定を計った。このことは大海人と大友との対立を深めた。この年10月、重病にかかって不安を感じた天智は、病床に大海人を招いて皇位を譲る旨を伝えた。天智の真意を計りかねた大海人は、身の危険を感じ、その場で出家して、わずかの従者とともに吉野山へ入った。その後両者は互いに相手の動向を警戒していたが、天智はその年の12月に没し、翌672年6月に至り、大海人はついに行動を開始した。まず、美濃国 (みののくに)(岐阜県)に使を送って兵を集め、東国への交通の要所である不破関 (ふわのせき)(岐阜県不破郡関ヶ原町)を抑え、続いて自らも美濃に向かい、野上 (のがみ)(関ヶ原町)に行宮 (あんぐう)を置き、本拠とした。さらに、東海、東山 (とうさん)2道に使者を遣わし兵を集めさせた。大海人のこのような動きに対して、近江朝廷側も東国、筑紫 (つくし)(九州)、吉備 (きび)(岡山県、広島県東部)などの各地に使を遣わして兵を募るなど兵力の強化を図ったが、東国はひと足先に大海人側に抑えられ、筑紫では大宰 (おおみこともち)、吉備では国守の協力が得られず、計画どおりにははかどらなかった。
一方、先に近江朝廷を離れて大和 (やまと)に帰っていた大伴 (おおとも)氏は大海人側につき、大和における近江側の最大の拠点、飛鳥 (あすか)古京の守備に加わっていた東漢 (やまとのあや)氏らを味方に引き入れて、古京の占領に成功した。7月に入ると、大海人側は、伊賀、伊勢 (いせ)、尾張 (おわり)、美濃およびそれ以東の諸国から集めた兵により、大和、近江の2方面に各数万の軍団を配し、進攻を開始した。近江側も初めは兵の動員が順調にゆかなかったとはいえ、中央政府の権力を利用して大海人側に劣らぬ数の兵員を集めて対抗し、戦闘は大和、近江、河内 (かわち)など各所で激しく行われた。近江側は初め大和、河内などで一時優勢に戦いを進めたが、やがて大海人側の増援軍の到着により、形勢は逆転した。高市皇子 (たけちのおうじ)を総指揮者として湖東の平野を進撃した大海人皇子側の主力軍は、7月22日には瀬田川 (せたがわ)付近で近江側の主力軍と戦ってこれを破り、瀬田川を渡った。乱の勝敗はここに決し、翌23日、大友は退路を失い、山前 (やまさき)で自殺し、高官たちも捕らえられた。大津宮 (おおつのみや)も戦乱によって破壊炎上した。勝利を収めた大海人は同年8月、大和の飛鳥へ帰り、浄御原 (きよみはら)の新宮に入った。
古くは額田王 (ぬかたのおおきみ)をめぐる天智天皇と大海人皇子との争いに注目する説もあったが、現在では政治的な面が重視され、皇位継承の問題を直接の原因とし、大化改新以来の天智の政策に不満をもつものが多いことも原因の一つとするのが一般的である。大海人を支持した勢力には皇族、皇親氏族、近江朝廷から疎外された一流豪族や、かなりの数の二流豪族も認められるが、畿内 (きない)の下級豪族や東国の地方豪族の果たした役割はとくに大きい。勝利を得た大海人は天武天皇 (てんむてんのう)となり、この新王権のもとで、天皇を中心とする強力な中央集権国家が形づくられていった。大化改新で計画された天皇制律令国家 (りつりょうこっか)の成立に関し、この乱のもつ歴史的意義は大きい。
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672年(天武1,壬申の年)に生じた内乱。大友皇子と大海人皇子(のちの天武天皇)とで皇位継承をめぐって争われた。大友皇子の父,大海人皇子の兄であった天智天皇は,その末年に至って,その子大友皇子を後継者とする方針にかたむき671年(天智10)には太政大臣に任命して政権の中心にすえた。この政権は蘇我赤兄(あかえ)を左大臣,中臣金を右大臣に,蘇我果安(はたやす),巨勢人(こせのひと),紀大人(きのうし)を御史大夫とするもので,古くから大和朝廷を構成していた豪族に属している。一方大海人皇子は,朝廷の内部ではその実力によって天智の後継者とみなされていたが,政争をさけるためか671年10月,近江朝廷を去って吉野へしりぞいた。その年末天智天皇が没すると,翌672年大友,大海人両者は半年ちかくの対峙を経たのち,6月にはいって大海人皇子が挙兵し壬申の乱が勃発したのである。大海人皇子側についたのは大伴氏などをのぞけば朝廷内の大豪族は少なく,中小豪族と大海人に近侍した舎人(とねり)集団とがその勢力の中心になっていたらしい。この点では大和朝廷の旧大豪族に支えられた大友皇子と対照的である。
672年6月,吉野で挙兵した大海人皇子は,近侍する舎人とともに菟田(うだ)を通って伊賀国に入り,そこで近江から脱出した高市皇子と合流,さらに伊勢国に至って大津皇子の一行と合流した。行く先々で軍勢も多くなり,伊賀国では郡司級の豪族が数百の兵をひきいて味方に馳せ参じたといわれる。大海人皇子はさらに進んで美濃国に入り,不破・鈴鹿の二つの関をおさえて戦闘体制をととのえた。大海人方の兵力は美濃,尾張,三河等を中心に,遠くは甲斐あたりまでをふくむ東国地方からの出身者を中心に編成されていた。一方,近江の大津宮にあった大友皇子方は,東国,大和,筑紫,吉備に使者を派遣し全国的に兵力を結集して大海人の挙兵に対抗しようとした。しかし,この計画はつぎつぎに挫折する。まず大海人方がすばやく不破・鈴鹿の両関をおさえてしまったために,近江から東国へ出発した使者は両関を通過することができず,東国の軍隊を近江側へつけることができなかった。吉備に向かった使者の樟磐手(くすのいわて)は吉備国守が募兵に応じなかったため国守を殺しているが,国守が応じなかったところをみると募兵も順調にすすんだとはみえない。さらに筑紫に向かった使者は筑紫大宰栗隈王が対外防備を理由に募兵に応じなかった。こうして,近江朝廷が企図した全国からの軍勢の動員という計画は大きく狂ってしまった。また大和でも,大伴吹負(ふけい)が大海人皇子方について兵をあげ,留守司と近江方の軍隊が駐屯していた飛鳥古京(倭京)を襲撃し,これを占領して本拠とした。この報に接した大海人皇子は攻勢を開始し,第1隊を伊勢をこえて大和へ向かわせ,第2隊は高市皇子を将として近江へ直進させた。大和では大伴吹負が河内から攻撃してきた近江方の軍勢に手をさかれて近江方の大野果安に一時期,飛鳥付近まで攻めこまれることがあったが,河内方面の近江軍をくいとめるとともに陣営をたてなおし,また美濃からの援軍も到着するにおよんで,近江方の軍隊は大和でも勝機を得ることができなかった。近江大津宮へ進撃した高市皇子は,犬上川付近でまず近江軍を破り,さらに安河(野洲川)でも大友皇子方の軍隊をうち破って勝利を決定的なものとした。さらに琵琶湖の北を回った大海人皇子軍は大津の北方の三尾の城を陥落させ,東と北とから近江大津宮を包囲した。7月23日,大友皇子は大津宮を出て,山にはいって自縊して死んだ。
壬申の乱で勝利を得た大海人皇子は翌673年2月,飛鳥京の飛鳥浄御原宮において即位し,皇位についた。この天武天皇の政権は壬申の乱によって旧畿内大豪族である蘇我,中臣などが大きな打撃をうけたため天皇の権力が強化され,律令中央集権国家へ大きくきりひらく性格をもつこととなった。天武政権は,壬申の乱で支持基盤となった中央の中小豪族,地方豪族,および天皇に近侍する大伴氏や舎人集団を中核としており,天皇家がその権力を強化するのにふさわしい構造をもっていたのである。また,壬申の乱は大友皇子と大海人皇子との皇位継承の抗争によってひきおこされたものであるが,畿内はもちろん,全国的にも兵力が動員され大規模な内乱にまで発展したのは,それなりの社会的背景が考えられなくてはならない。その根底には天智朝に至るまでの政府の政策に対する民衆の抵抗が考えられるが,具体的な乱との相関関係はつまびらかでない。また乱に参加した豪族の中には,同族の中で分裂して大友,大海人それぞれの側について戦ったものも多くみとめられ,当時豪族内の結束がしだいに弱体化し分裂した傾向をみせはじめていたことが知られる。このことも壬申の乱の規模を拡大した一因になっていたかもしれない。
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