1. シーボルト事件
日本大百科全書
江戸後期、ドイツ人医師シーボルトの国外追放事件。1828年(文政11)9月、オランダ商館付医官シーボルトが任期を終えて帰国しようとした際に、たまたま起こった暴風
2. シーボルト事件
世界大百科事典
1828年(文政11)に起こった洋学者弾圧事件。オランダ商館付医員シーボルトは,1826年にオランダ商館長の江戸参府に随行し,江戸の洋学者と交流した。幕府天文方
3. シーボルト‐じけん【─事件】
日本国語大辞典
文政一一年(一八二八)に起きた蘭学者処罰事件。シーボルト〔二〕が帰国の際、国禁の日本沿海実測図などの持出しが発覚、シーボルトは国外追放、門人をはじめ関係する蘭学
4. シーボルトじけん【シーボルト事件】
国史大辞典
シーボルトが日本に滞在すること約五年、その離日帰国の時期が近付いた文政十一年(一八二八)十月以降、日本官憲の疑惑を受けて抑留され、審問の結果、結局国外追放処分
5. 伊東玄朴
日本大百科全書
のまたでんじえもんに、蘭方医学をシーボルトに学んだ。1826年江戸本所に開業、1828年シーボルト事件に一時連座した。1829年玄朴と改名、医書翻訳や蘭書教授を
6. 江戸参府紀行 34ページ
東洋文庫
ともにしてくれたし、また役目がら私に親切であった。だから私は、私の日本滞在中のあの悲しい最後の一年間〔シーボルト事件をいう〕に、彼を真の友情を示した勇気ある人々
7. 江戸参府紀行 259ページ
東洋文庫
厳格に過ぎてその目的を達成することができなかった。一八二六(文政九)年の末にバタヴィアに帰る。のちシーボルト事件がおこりその処分が決定されると、彼に対しても日本
8. 江戸参府紀行 261ページ
東洋文庫
呉秀三博士は「川崎源蔵」の文字を当てられた。同博士の『シーボルト先生』(乙篇一〇四頁)の「シーボルト事件に関する申渡書」第:八号によると、文政:二年寅三月二六日
9. 江戸参府紀行 262ページ
東洋文庫
一八一九(文政二)年長崎に赴き、蘭学を学び、ジーボルトの来日とともにこれについて西洋医学を修め信任された。シーボルト事件に連座して下獄したが後に赦されて郷里に帰
10. 江戸参府紀行 270ページ
東洋文庫
伊能忠敬・間宮林蔵らの実測した地図類を贈り彼の日本研究に協力した。林蔵の密告がもとで二八年「シーボルト事件」がおこると、その責四任によって捕えられ獄中で死去した
11. 江戸参府紀行 274ページ
東洋文庫
長英のオランダ語について、筆勢の雄健なことと文章が自由で簡明にして要を得ていることを挙げておられる。二八年シーボルト事件が起こって門人たちに災いが及んだが、彼は
12. 江戸参府紀行 276ページ
東洋文庫
めた。茂土岐次郎 生没年未詳。伝之進〔前出〕の子。一八一七(文化一四)年に小通詞となり、シーボルト事件のころには大通詞末席となっていた。名村三次郎 没年一八四六
13. 江戸参府紀行 286ページ
東洋文庫
をとった。二六年天文方を退いて長崎に帰り、ジーボルトのもとで日本の著作の翻訳を手伝った。シーボルト事件がおこると、召し捕られて永禁を申し渡されて、米沢の上杉佐渡
14. 江戸参府紀行 288ページ
東洋文庫
うけたことは前記の通り。シーボルト事件で下座、四三(天保一四)年刑がゆるめられ、家族との面会も許されるに至った。その養子玄昌(一七九七-一八六五)も西の丸奥医師
15. 江戸参府紀行 293ページ
東洋文庫
発見を示す地図を見せられた時、思わずも、「日本人は我を征服せり」と嘆じたという。彼は後年シーボルト事件の密告者とみられていたし、ジーボルト自身もそう言っている。
16. 江戸参府紀行 310ページ
東洋文庫
禁じられていた品々-葵紋付きの帷子・日本国地図などが、他のシーボルトの持物の中から発見されて、いわゆる「シーボルト事件」となったのである。 この事件についてジー
17. 江戸参府紀行 326ページ
東洋文庫
いるものとして、桂川甫賢・高野長英・高良斎の三人が挙げられている。 さきにも述べた例の「シーボルト事件」によってジーボルトは国外に追放されることになり、幕府は禁
18. 江戸参府紀行 339ページ
東洋文庫
・仏、アルジェリア侵略を始める。・英、ムガール帝国に従属を要求。9月17日(八月九日)、シーボルト事件起こる。一〇月一〇日、高橋景保捕えられ、一一月一〇日ジーボ
19. 江戸参府紀行 343ページ
東洋文庫
また門人・友人一一四名の略伝を付してい る。乙編には、瀬脇家文書・高家文書・中山家文書・ シーボルト事件に関する申渡書・東大シーボルト文書 ・出島瓜畦蘭語
20. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
を指令1827(文政10)2月 関東全域取締、改革組合村結成1828(文政11)12月 シーボルト事件1831(天保2)7~11月 長州天保大一揆起こる1832
21. おおつきばんけい【大槻磐渓】画像
国史大辞典
内を歴遊、父の死にあいいったん帰府したが、同十一年七月蘭学修業のため長崎に赴いた。しかしシーボルト事件がおこったため、翌年十一月志をとげずに江戸に戻った。天保三
22. おんみつ【隠密】
国史大辞典
身で、仙石騒動は彼の究明したところという。また樺太探険で名高い間宮林蔵は晩年隠密となり、シーボルト事件の発覚はその密告によったといわれている。 [参考文献]旧事
23. 風画像
日本大百科全書
通過した台風であるが、この台風でオランダ商船コルネリス・ハウトマン号が転覆したのがきっかけでシーボルト事件が起きたところから、シーボルト台風とよばれている。 局
24. 川原慶賀画像
日本大百科全書
民族博物館に所蔵され、なかにはシーボルト著『ニッポン』の挿絵となったものもある。28年のシーボルト事件に連座し、のち作品が国禁に触れ長崎から追放されたこともある
25. 川原慶賀
世界大百科事典
多量の写生図はシーボルトにより持ち帰られ,今日オランダのライデン国立民族学博物館に伝わる。28年,シーボルト事件のとき,慶賀も連座し,また42年(天保13)にそ
26. かわはらけいが【川原慶賀】
国史大辞典
師シーボルトに見出され、その日本研究のための写生画を制作する助手として活躍した。同十一年シーボルト事件が起り、関係の深かった慶賀も獄に繋がれた。翌々年許されたが
27. かわはら-けいが【川原慶賀】
日本人名大辞典
文政6年(1823)来日した医師シーボルトの日本研究を手つだい,洋風手法による写生画をえがく。11年シーボルト事件に連座。天保(てんぽう)13年にも作品が国禁に
28. くすもと-たき【楠本たき】
日本人名大辞典
遊女名は其扇(そのぎ)。文政6年出島行きの遊女としてシーボルトと知りあい,10年いねを生む。12年シーボルト事件でシーボルトが国外退去,のち俵屋時治郎と結婚した
29. 厚生新編画像
日本大百科全書
も加わったが、2年後に馬場が松前に派遣され、玄沢は27年(文政10)に死亡、景保は29年シーボルト事件に連座して没するなど、この事業は種々の事件によって翻訳者が
30. 小梅日記 3 幕末・明治を紀州に生きる 277ページ
東洋文庫
ノフ、長崎に来航の年、紀州藩、松坂に学問所を設けるこ2月幕府、異国船の打払いを指令10月シーボルト事件
31. 高良斎
日本大百科全書
来日を聞き、長崎に再遊、語学力を買われ助手として活躍し、江戸参府にも随行した。1828年シーボルト事件に連座して入獄、赦免後、徳島で開業、1836年(天保7)大
32. こう‐りょうさい[カウリャウサイ]【高良斎】
日本国語大辞典
江戸後期の蘭医。名は淡。徳島の人。眼科医高錦国の養子となり、長崎でシーボルトに師事。シーボルト事件に連座して禁固の刑を受けたが六か月で許され、のち明石藩に仕える
33. こうりょうさい【高良斎】
国史大辞典
シーボルトの江戸参府に随行する。同十一年シーボルトより学術免許状を得たが、その翌年発覚したシーボルト事件に連坐して一時投獄された。天保二年(一八三一)、帰国して
34. 暦画像
日本大百科全書
翌年41歳で没した。至時の長子景保かげやすは20歳の若さで父の後を継いで天文方に任ぜられたが、シーボルト事件で獄死した。弟の渋川景佑かげすけが兄の後を受け継ぎ、
35. シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)
世界大百科事典
天文方高橋景保,幕医土生玄碩(はぶげんせき)はじめ蘭学者と交際を深めた。28年,いわゆるシーボルト事件が起こって,翌年国外追放を受けた。オランダに戻り,研究成果
36. シーボルト【Philipp Franz von Siebold】
国史大辞典
高橋作左衛門(景保)・最上徳内・土生玄碩らと面会す。同十年娘いね生まれる。十一年いわゆるシーボルト事件発生し、翌十二年日本御構を申し渡され、同年十二月日本より追
37. シーボルト
日本人名大辞典
おしえ,日本の洋学発展につくす。11年国禁の地図の海外持ち出しが発覚し,国外追放となる(シーボルト事件)。帰国後「日本」「日本植物誌」などをあらわす。安政6年再
38. シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)画像
日本大百科全書
難破、修理のため積み荷を陸揚げしたとき、シーボルトの荷から、国外持ち出し禁制の品が出て、シーボルト事件が起こった。友人、弟子、通詞つうじのなかに処罰される者が出
39. シーボルト先生 1 その生涯及び功業 11ページ
東洋文庫
奉行所のシーボルト事件に関する公文書は帝国図書館に蔵せられ、文政年間長崎通訳たりし中山作三郎自筆のシーボルト先生事件に関する公文書は長崎なる中山家にて披閲せられ
40. シーボルト先生 1 その生涯及び功業 132ページ
東洋文庫
シーボルト先生もその例を襲ひたり。此度の一行に加はる給人即ち 御番所衆は川崎源蔵と云ひて(シーボルト事件の判決書によれば此一行に附添検使なりし
41. シーボルト先生 1 その生涯及び功業 139ページ
東洋文庫
太と亜細亜大陸との間には陸地の連絡なきを知り得たるが、それにも増して顕著なるは後に所レ謂シーボルト事件を惹起したる高橋よりして高橋・伊能等によりて作られたる日本
42. シーボルト先生 1 その生涯及び功業 159ページ
東洋文庫
りて次第に広くなりたり。吉雄権之助(下稲部市五郎石橋助左衛 文シーボルト事件及び本人伝記参照)・稲部市五郎(後文シーボルト事件及び本人伝記参門楢林鉄之助 照
43. シーボルト先生 1 その生涯及び功業 188ページ
東洋文庫
グロビウスと云ふ幕府天文方高橋作左衛門(→加計訂ω一留ざ昼ΦヨOP頃○{霧茸08日90ぼ傷)(後文シーボルト事件及び本人伝記参照)来訪す。同く和蘭人及び欧羅巴学
44. シーボルト先生 1 その生涯及び功業 190ページ
東洋文庫
将軍家侍医諸氏の訪問を受く。其中に眼科医(眼科医とは土生玄碩のこと莫砦の試験 なるべし。後文シーボルト事件及び本人伝記参照。)あり。余は眼科書及びその器械を示栗
45. シーボルト先生 1 その生涯及び功業 213ページ
東洋文庫
どして、一時に喧かりし裁判事件を惹起したり。是れ世に所レ謂シーボルト事件なり。シーボルト事件は如何にして発覚したりしや、シーボルト事件の真相は如何なりしや、又之
46. シーボルト先生 1 その生涯及び功業 214ページ
東洋文庫
今此に少しく その顛末につきて多少繁現に亙るをも厭はず記載せんと欲す。 シーボルト事件に関する輸出禁制品の内、当時の政府よりして最も厳重に取
47. シーボルト先生 1 その生涯及び功業 229ページ
東洋文庫
其頃其後にシーボルト先生と高橋作左衛門との間に度々の贈答ボルト先生と高橋作左 ありしことは「シーボルト事件訊問書」(中山家文書第六・七号)を見て之を窺ひ知るべ
48. シーボルト先生 1 その生涯及び功業 231ページ
東洋文庫
、三人とも後に永牢に処せられたれば、此三氏は右仲介者 中の主要なるものなりしなり。所レ謂シーボルト事件に於て厳重に取調べられたるは此等日本の地図に関してなり。か
49. シーボルト先生 1 その生涯及び功業 232ページ
東洋文庫
集材料ありて、その中にも輸出禁制品の少なからざりしに於 てをや。士生玄碩が シーボルト事件につきて第二に喧しく世上に伝はりたるは江戸幕府の奥医師眼科
50. シーボルト先生 1 その生涯及び功業 237ページ
東洋文庫
二十三 シーボルト事件二。外人よりの小荷物 シーボルト事件発覚の経過は如何。此事件は文政十一年十一月に発覚したるが、其端緒は