(画院寄人)・世古恪太郎(処士)らは所払に処せられるなど、連坐する者百余人に達した。なお日下部伊三次・梅田雲浜は獄中病死し、梁川星巌は逮捕寸前に病死した。諸侯で処罰された者は、徳川斉昭が国許永蟄居、同慶篤が差控、一橋慶喜が隠居・慎、山内豊信が慎を命ぜられた。有司では前老中の太田資始が慎、堀田正睦・松平忠固が隠居、前若年寄の本郷泰固が減禄・隠居・急度慎、間部詮勝が老中罷免に処せられたほか、作事奉行岩瀬忠震・軍艦奉行永井尚志は職禄を奪われたうえ差控、大番頭土岐頼旨・西丸留守居川路聖謨・駿府町奉行鵜殿長鋭は免職・隠居・差控、前側衆石河政平は減禄・隠居・慎を命ぜられ、免職・左遷された者も少なくなかった。その範囲の広く、処罰の厳重なことは古今未曾有と称せられた。かくして直弼は反対派を一掃し、幕威を示したようであったが、実は多数の有為の有司を排斥して幕府自体を弱体化させたのみでなく、万延元年(一八六〇)三月三日、桜田門外の変を招いて横死し、幕威を失墜して衰亡を早める結果となった。なお幕府は文久二年(一八六二)十一月二十日、直弼の失政を断じて封十万石を削り、ついで二十八日、朝旨を奉じて大赦令を布告し、大獄連坐者を赦免したのである。→公武合体運動(こうぶがったいうんどう)1858年(安政5)から翌59年にかけて,大老井伊直弼(なおすけ)が井伊の政治に批判的であった公卿,大名,幕臣,志士などに対しておこなった弾圧である。多数の逮捕者と処刑者が出た。
大獄の原因となったのは,将軍継嗣問題と条約勅許問題とをめぐる領主階級内部の政争である。1853年(嘉永6)に13代将軍となった徳川家定は,このときすでに30歳であったが1人の子女もなく,また政務をとる能力に欠けていた。57年,諸外国との通商開始が避けられないことが明らかとなり,外交折衝についての幕府の指揮や責任が,ますます重要視されはじめると,家定の後見として政務をとりうる将軍継嗣を,速やかに定めるべきであるとの声が高まった。このとき,継嗣候補者と目されていた人物は2人あった。1人は家定の従兄にあたる紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))である。慶福を中心になって推したのは紀州藩付家老水野忠央と彦根藩主井伊直弼であり,幕閣を構成する譜代大名の多くが,これを支持した。この勢力を南紀派という。もう1人は前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の第7子で,一橋家を相続していた一橋慶喜(よしのぶ)であった。慶喜を推したのは,斉昭のほか福井藩主松平慶永,薩摩藩主島津斉彬,阿波藩主蜂須賀斉裕,宇和島藩主伊達宗城,土佐藩主山内豊信ら雄藩の大名と,幕府の海防掛であった大目付土岐頼旨,勘定奉行川路聖謨,目付永井尚志,同岩瀬忠震,同鵜殿長鋭,田安家家老水野忠徳らであった。この勢力は一橋派とよばれた。南紀派と一橋派は,自派の候補者を将軍継嗣として幕政の主導権を握ろうと激しく争った。
58年の初頭,幕府は,前年の末にアメリカ総領事ハリスとの談判で議了した日米修好通商条約調印の勅許を得ようとして,老中堀田正睦(まさよし)を上京させた。斉昭をはじめとする一橋派は,幕府が条約勅許を得ることに成功すれば,将軍継嗣についての朝廷の意向も徳川慶福に定まってしまうであろうとの判断に立ち,勅許をおこなわないよう朝廷に働きかけた。このため,堀田は目的を達することができずに江戸へ帰った。一橋派のこのような動きを封じ,条約勅許と将軍継嗣の二つの問題を一挙に解決しようとして,58年4月,南紀派の巨頭であった井伊直弼が大老に就任した。井伊は,川路,土岐,鵜殿など一橋派の役人を左遷したのち,6月19日,勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印し,同月25日には,徳川慶福を将軍継嗣と定める旨を公表した。継嗣問題に敗れた一橋派は,井伊の条約調印を違勅であると激しく攻撃し,井伊の失脚をはかった。朝廷と尊王攘夷派の志士や公卿が,これに同調し,以後,京都を中心に井伊非難の声が高まった。8月8日,幕府が勅許を得ないで条約に調印したのは遺憾である,という内容の勅諚が出た(戊午(ぼご)の密勅)。この勅諚は,武家伝奏万里小路正房からひそかに水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門の子幸吉に渡され,幸吉はこれを江戸の水戸藩邸に届けた。しかも勅諚に添えられた文書には,水戸藩が,この勅諚を諸藩に伝達するようにと記してあった。井伊は,勅諚が幕府を通さずに直接,諸藩に伝えられることが前例になると,最高の領主権力としての幕府の地位が有名無実となるおそれがあると考え,反対派の勢力に徹底した弾圧をおこなうことを決意した。
58年9月から,京都と江戸とで,尊王攘夷派の志士,公卿の家臣,一橋派の大名の家臣などの逮捕,投獄がはじまった。梅田雲浜,頼三樹三郎,小林良典,池内大学,橋本左内など,この年の逮捕者は数十人に達した。吉田松陰は長州藩が投獄し,江戸へ送られた。59年になると,幕府は,前年8月8日の降勅の画策に荷担し,また一橋慶喜の将軍継嗣擁立のために運動した公卿の処罰にふみきった。2月,幕府の圧力によって,孝明天皇は,青
院宮尊融入道親王,二条斉敬,広橋光成,万里小路正房,正親町三条実愛に謹慎を命じた。ついで4月,鷹司政通,同輔煕,近衛忠煕,三条実万も謹慎・落飾を命じられた。公卿の処罰に続いたのは,水戸藩関係者に対する弾圧である。8月,徳川斉昭は永蟄居,藩主徳川慶篤は差控,一橋慶喜は隠居・慎を命じられ,家老安島帯刀は切腹,藩士の茅根伊予之介,鵜飼吉左衛門は死罪,鵜飼幸吉は獄門に処せられた。また一橋派の幕臣である岩瀬忠震,永井尚志,川路聖謨も隠居・慎となった。最後は志士の処刑であった。10月,飯泉喜内,橋本左内,頼三樹三郎,吉田松陰が死罪となった。死罪になると目されていた梅田雲浜はこれに先立って9月,獄中で死亡した。このほか,逮捕者のすべてが処罰をうけた。翌60年3月,井伊が江戸城桜田門外で殺害されたのは(桜田門外の変),安政の大獄での水戸藩に対する強い弾圧と,水戸藩に勅諚返上を命じたことが,水戸浪士らの反感をかったためであった。
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