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安政の大獄

ジャパンナレッジで閲覧できる『安政の大獄』の国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書のサンプルページ

国史大辞典
安政の大獄
あんせいのたいごく
安政五戊午年(一八五八)から翌年にかけて、大老井伊直弼が将軍継嗣・条約調印の二問題に反対した尊攘派に下した弾圧。戊午の大獄ともいう。十三代将軍徳川家定は凡庸なうえに継嗣がなかったので、早く継嗣を定めて将軍を補佐させ、幕府の基礎を強固にしようとする論があった。福井藩主松平慶永は当時英明の聞えが高い一橋慶喜(前水戸藩主徳川斉昭の七男)をその候補者に挙げ、老中阿部正弘・鹿児島藩主島津斉彬・宇和島藩主伊達宗城・高知藩主山内豊信らの賛同を得、幕府有司の中にも慶喜を推す者が多かった。しかし慶喜の擁立には斉昭に反感を抱く大奥が反対であり、和歌山藩付家老の新宮藩主水野忠央は幼主徳川慶福(家定と従兄弟)を推して大奥に勢力を張った。また溜間詰筆頭の彦根藩主井伊直弼も政敵斉昭の子息の擁立には反対で、血統論を唱えて慶福を推し、南紀派の重鎮として勢力があった。五年二月、老中堀田正睦が条約調印の勅許を請いに上京すると、直弼は家臣長野義言を京都に派遣し、廷臣間に運動させ、関白九条尚忠を幕府支持に立たせた。一方慶永も家臣橋本左内を上京させ、青蓮院宮尊融入道親王(のち朝彦親王)・左大臣近衛忠煕・内大臣三条実万らを説いて、内勅によって慶喜を継嗣にするよう運動させ、さらに前関白鷹司政通・右大臣同輔煕父子をも一橋派に引き入れた。しかし、この運動は義言が九条関白に入説して、慶喜の継嗣たることを示す内勅の英明・人望・年長の三条件の語を独断で削らせたので、阻止することを得た。他方、条約調印の勅許は廷臣の強硬な反対にあって九条関白もどうすることもできず、三月二十日、三家以下諸大名の意見を徴して再び勅裁を請うべき旨の勅諚が下った。正睦がむなしく帰府した三日後の四月二十三日、直弼は南紀派の老中松平忠固の策動によって大老職に就任すると、直ちに一橋派の有司を左遷し、六月一日、将軍の継嗣は血統の内から定めることを三家以下溜間詰諸侯に告げ、同月十九日、ハリスの要求に従って、勅許を得ないまま日米修好通商条約の調印を断行した。同月二十四日、斉昭は子息の水戸藩主徳川慶篤・名古屋藩主徳川慶恕とともに押掛け登城して直弼の無断調印を責め、一橋慶喜・松平慶永もこれにならった。しかし、翌二十五日には紀州慶福を将軍の継嗣とする旨の公表があり、直弼によって条約調印・将軍継嗣の二大問題は処理されると、七月五日、押掛け登城の斉昭に急度慎、慶篤と慶喜に登城停止、慶恕と慶永に隠居・急度慎を命じた。孝明天皇は幕府の無断調印に激怒し、三家・大老のうち一人を上京させよと命じたが、直弼はこれを辞し、老中間部詮勝に条約調印について奏上させることになり、その後将軍家定の死去で詮勝の上京が延引している間に、京都の形勢は幕府にすこぶる不利となっていった。水戸・福井・鹿児島諸藩の有志は鹿児島藩士日下部伊三次を上京させ、青蓮院宮・近衛忠煕・三条実万らに入説して勅諚が水戸藩に降下するように運動させた。この前後、鹿児島藩士西郷吉兵衛(隆盛)も入京し、これと呼応して京都在住の梁川星巌・梅田雲浜・頼三樹三郎らの志士も必死の活動をつづけた。この結果、八月八日、幕府の無断調印と尾水越三家の処罰とを責め、大老・老中らは三家・三卿・家門・列藩と群議評定して徳川家を扶助し、内を整えて外夷の侮りを受けぬようにせよとの勅諚(戊午の密勅)が水戸藩に下った。当時廷臣間に入説中の長野義言もこれを事前に探知することができず、ようやくその主謀者を梅田雲浜と断じたが、九月四日、九条関白が廷臣から排斥されて内覧を辞し、関白の地位すら不安になるという事態になった。義言は九条家家臣島田左近の言を信じ、近衛忠煕らを天皇を悪道に引き入れるものと江戸に通報した。水戸藩降勅以来わだかまっていた直弼の疑心は、水府陰謀説を信じ、間部詮勝を促して反対派の弾圧を決意した。すでに志士の逮捕は、九月五日近藤茂左衛門が京都町奉行所に、七日には梅田雲浜が義言に促された新任の所司代酒井忠義に捕えられたのに始まり、翌六年正月初旬にかけて、逮捕者の総数は、青蓮院・有栖川両宮家や鷹司・近衛・三条・一条・久我など廷臣の家臣で三十余人、これに水戸藩士・処士らの志士を加えると四十余人に達した。大獄は京都にとどまらず、五年九月十七日、江戸で元三条家家臣飯泉喜内が逮捕されたのに始まり、日下部伊三次・橋本左内らが捕えられ、東西呼応して断行された。またその余波は地方にも及んで、幕吏に追われた京都清水寺成就院の僧月照は西郷吉兵衛と鹿児島湾に入水して死し、萩藩では吉田松陰が間部詮勝の要撃を計画して幽閉された。朝廷は幕府の強圧に屈し、六年二月十七日青蓮院宮尊融入道親王・内大臣一条忠香らを慎に処し、三月二十八日、左大臣近衛忠煕・右大臣鷹司輔煕に辞官を命じ、四月二十二日、近衛・鷹司の二公と前関白鷹司政通・前内大臣三条実万の合わせて四公を落飾・慎に処した。幕府は京都で逮捕した者を五年十二月から翌六年三月にかけ三回に分けて江戸に檻送し、四月には萩藩に吉田松陰の江戸檻送を命じ、五手掛(ごてがかり)を任命して志士を糺問した。断罪は八月二十七日・十月七日・同月二十七日の三回に分けて行われ、鵜飼幸吉(水戸藩士)は獄門、茅根伊予之介(水戸藩士)・鵜飼吉左衛門(水戸藩士)・橋本左内・頼三樹三郎・飯泉喜内・吉田松陰は死罪、安島帯刀(水戸藩士)は切腹の極刑に処せられ、鮎沢伊太夫(水戸藩士)・小林良典(鷹司家諸大夫)・六物空万(大覚寺門跡家士)は遠島、吉見長左衛門(宇和島藩士)は重追放、池内大学(儒者)・伊丹蔵人(青蓮院宮家士)・丹羽正庸(三条家諸大夫)・森寺常邦(同)・三国大学(鷹司家侍講)・入江則賢(一条家諸大夫)・藤森弘庵(儒者)・黒沢登幾(農黒沢新助妻)は中追放、森寺常安(三条家諸大夫)・春日潜庵(久我家諸大夫)らは永押込、津崎矩子(近衛家老女)・山田時章(青蓮院宮家士)・飯田忠彦(有栖川宮家士)らは押込、宇喜多一〓(画院寄人)・世古恪太郎(処士)らは所払に処せられるなど、連坐する者百余人に達した。なお日下部伊三次・梅田雲浜は獄中病死し、梁川星巌は逮捕寸前に病死した。諸侯で処罰された者は、徳川斉昭が国許永蟄居、同慶篤が差控、一橋慶喜が隠居・慎、山内豊信が慎を命ぜられた。有司では前老中の太田資始が慎、堀田正睦・松平忠固が隠居、前若年寄の本郷泰固が減禄・隠居・急度慎、間部詮勝が老中罷免に処せられたほか、作事奉行岩瀬忠震・軍艦奉行永井尚志は職禄を奪われたうえ差控、大番頭土岐頼旨・西丸留守居川路聖謨・駿府町奉行鵜殿長鋭は免職・隠居・差控、前側衆石河政平は減禄・隠居・慎を命ぜられ、免職・左遷された者も少なくなかった。その範囲の広く、処罰の厳重なことは古今未曾有と称せられた。かくして直弼は反対派を一掃し、幕威を示したようであったが、実は多数の有為の有司を排斥して幕府自体を弱体化させたのみでなく、万延元年(一八六〇)三月三日、桜田門外の変を招いて横死し、幕威を失墜して衰亡を早める結果となった。なお幕府は文久二年(一八六二)十一月二十日、直弼の失政を断じて封十万石を削り、ついで二十八日、朝旨を奉じて大赦令を布告し、大獄連坐者を赦免したのである。→公武合体運動(こうぶがったいうんどう)
[参考文献]
宮内省編『孝明天皇紀』二・三、『井伊家秘書集録』、『公用方秘録』、『井伊家史料』(『大日本維新史料』類纂之部)、井伊大老史実研究会編『井伊大老の研究』一、『水戸藩史料』上坤、中根雪江『昨夢紀事』(『日本史籍協会叢書』)、『彦根市史』中、島田三郎『開国始末井伊掃部頭直弼伝』、岩崎重英『(維新前史)桜田義挙録』、吉田常吉『井伊直弼』(『人物叢書』一一三)
(吉田 常吉)


改訂新版 世界大百科事典
安政の大獄
あんせいのたいごく

1858年(安政5)から翌59年にかけて,大老井伊直弼(なおすけ)が井伊の政治に批判的であった公卿,大名,幕臣,志士などに対しておこなった弾圧である。多数の逮捕者と処刑者が出た。

原因

大獄の原因となったのは,将軍継嗣問題と条約勅許問題とをめぐる領主階級内部の政争である。1853年(嘉永6)に13代将軍となった徳川家定は,このときすでに30歳であったが1人の子女もなく,また政務をとる能力に欠けていた。57年,諸外国との通商開始が避けられないことが明らかとなり,外交折衝についての幕府の指揮や責任が,ますます重要視されはじめると,家定の後見として政務をとりうる将軍継嗣を,速やかに定めるべきであるとの声が高まった。このとき,継嗣候補者と目されていた人物は2人あった。1人は家定の従兄にあたる紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))である。慶福を中心になって推したのは紀州藩付家老水野忠央と彦根藩主井伊直弼であり,幕閣を構成する譜代大名の多くが,これを支持した。この勢力を南紀派という。もう1人は前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の第7子で,一橋家を相続していた一橋慶喜(よしのぶ)であった。慶喜を推したのは,斉昭のほか福井藩主松平慶永,薩摩藩主島津斉彬,阿波藩主蜂須賀斉裕,宇和島藩主伊達宗城,土佐藩主山内豊信ら雄藩の大名と,幕府の海防掛であった大目付土岐頼旨,勘定奉行川路聖謨,目付永井尚志,同岩瀬忠震,同鵜殿長鋭,田安家家老水野忠徳らであった。この勢力は一橋派とよばれた。南紀派と一橋派は,自派の候補者を将軍継嗣として幕政の主導権を握ろうと激しく争った。

 58年の初頭,幕府は,前年の末にアメリカ総領事ハリスとの談判で議了した日米修好通商条約調印の勅許を得ようとして,老中堀田正睦(まさよし)を上京させた。斉昭をはじめとする一橋派は,幕府が条約勅許を得ることに成功すれば,将軍継嗣についての朝廷の意向も徳川慶福に定まってしまうであろうとの判断に立ち,勅許をおこなわないよう朝廷に働きかけた。このため,堀田は目的を達することができずに江戸へ帰った。一橋派のこのような動きを封じ,条約勅許と将軍継嗣の二つの問題を一挙に解決しようとして,58年4月,南紀派の巨頭であった井伊直弼が大老に就任した。井伊は,川路,土岐,鵜殿など一橋派の役人を左遷したのち,6月19日,勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印し,同月25日には,徳川慶福を将軍継嗣と定める旨を公表した。継嗣問題に敗れた一橋派は,井伊の条約調印を違勅であると激しく攻撃し,井伊の失脚をはかった。朝廷と尊王攘夷派の志士や公卿が,これに同調し,以後,京都を中心に井伊非難の声が高まった。8月8日,幕府が勅許を得ないで条約に調印したのは遺憾である,という内容の勅諚が出た(戊午(ぼご)の密勅)。この勅諚は,武家伝奏万里小路正房からひそかに水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門の子幸吉に渡され,幸吉はこれを江戸の水戸藩邸に届けた。しかも勅諚に添えられた文書には,水戸藩が,この勅諚を諸藩に伝達するようにと記してあった。井伊は,勅諚が幕府を通さずに直接,諸藩に伝えられることが前例になると,最高の領主権力としての幕府の地位が有名無実となるおそれがあると考え,反対派の勢力に徹底した弾圧をおこなうことを決意した。

大獄の実施

58年9月から,京都と江戸とで,尊王攘夷派の志士,公卿の家臣,一橋派の大名の家臣などの逮捕,投獄がはじまった。梅田雲浜,頼三樹三郎,小林良典,池内大学,橋本左内など,この年の逮捕者は数十人に達した。吉田松陰は長州藩が投獄し,江戸へ送られた。59年になると,幕府は,前年8月8日の降勅の画策に荷担し,また一橋慶喜の将軍継嗣擁立のために運動した公卿の処罰にふみきった。2月,幕府の圧力によって,孝明天皇は,青〓院宮尊融入道親王,二条斉敬,広橋光成,万里小路正房,正親町三条実愛に謹慎を命じた。ついで4月,鷹司政通,同輔煕,近衛忠煕,三条実万も謹慎・落飾を命じられた。公卿の処罰に続いたのは,水戸藩関係者に対する弾圧である。8月,徳川斉昭は永蟄居,藩主徳川慶篤は差控,一橋慶喜は隠居・慎を命じられ,家老安島帯刀は切腹,藩士の茅根伊予之介,鵜飼吉左衛門は死罪,鵜飼幸吉は獄門に処せられた。また一橋派の幕臣である岩瀬忠震,永井尚志,川路聖謨も隠居・慎となった。最後は志士の処刑であった。10月,飯泉喜内,橋本左内,頼三樹三郎,吉田松陰が死罪となった。死罪になると目されていた梅田雲浜はこれに先立って9月,獄中で死亡した。このほか,逮捕者のすべてが処罰をうけた。翌60年3月,井伊が江戸城桜田門外で殺害されたのは(桜田門外の変),安政の大獄での水戸藩に対する強い弾圧と,水戸藩に勅諚返上を命じたことが,水戸浪士らの反感をかったためであった。
[小野 正雄]

[索引語]
井伊直弼 将軍継嗣問題 条約勅許問題 徳川慶福 南紀派 徳川斉昭 一橋慶喜 一橋派 堀田正睦 戊午(ぼご)の密勅 孝明天皇


日本大百科全書(ニッポニカ)
安政の大獄
あんせいのたいごく

1858年(安政5)江戸幕府の大老井伊直弼 (いいなおすけ)による尊攘運動 (そんじょううんどう)への弾圧事件。幕末の尊攘運動に一時期を画した政治的事件である。1857年6月の老中阿部正弘 (あべまさひろ)の死去のあと、幕閣の実権は老中堀田正睦 (ほったまさよし)(佐倉藩主)に移り、彼は開国政策を支持した。その背後には溜間詰 (たまりのまづめ)の譜代大名 (ふだいだいみょう)がおり、その指導権は彦根藩主井伊直弼が握っていた。ここにペリー来航以来攘夷主義を主張していた徳川斉昭 (とくがわなりあき)以下、松平慶永 (まつだいらよしなが)(松平春嶽 (しゅんがく))、島津斉彬 (しまづなりあきら)らに代表される大廊下詰 (おおろうかづめ)家門大名、大広間詰外様大名 (とざまだいみょう)の一派と溜間詰譜代大名との対立がクローズアップされた。ところが、病弱であった第13代将軍徳川家定 (いえさだ)の継嗣 (けいし)問題を契機にこの2派の対立は一段と激化し、政争の焦点はしだいに対外問題へと移った。つまり、幕閣の独裁を抑え、雄藩合議制を主張する家門・外様大名の一派は一橋慶喜 (ひとつばしよしのぶ)(斉昭の第7子。のちに徳川慶喜)を将軍継嗣にしようとし(一橋派)、他方、幕閣独裁をとろうとした譜代大名の派は紀州藩主徳川慶福 (よしとみ)(のち家茂 (いえもち))を擁立した(南紀派)。両派とも朝廷工作を進め、その暗闘のなかで南紀派の策謀が功を奏し、井伊が大老に就任し、彼は独断専行、南紀派の推す慶福を将軍継嗣に決定するとともに、威嚇と督促を重ねるハリスに対しては、勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印した(1858年6月)。継嗣問題に敗れた一橋派は、この違勅調印を理由に一斉に井伊攻撃に立ち上がった。儒教的名分としての「尊王」と「攘夷」は、ここに「尊攘」論として結合し、反幕スローガンとなったのである。徳川斉昭・慶喜父子、徳川慶恕 (よしくみ)(尾張 (おわり))、松平慶永らが不時登城して井伊を詰問すれば、梁川星巌 (やながわせいがん)、梅田雲浜 (うめだうんぴん)、頼三樹三郎 (らいみきさぶろう)、池内大学 (いけうちだいがく)らの志士は京都に参集して反幕的機運を盛り上げた。孝明天皇 (こうめいてんのう)も激怒して、譲位の意向を示し、1858年8月には、条約調印に不満を示す勅諚 (ちょくじょう)、いわゆる「戊午 (ぼご)の密勅」を水戸藩に下した。朝廷内部にも上級佐幕派公卿 (くぎょう)と下級尊攘派公卿とが対立し、後者は「列参」=集団行動をとった。

 こうした事態に幕府の危機をみてとった井伊は、徹底的な弾圧政策をとり、反対派の公卿、大名を隠退させ、幕吏を罷免し、志士を検挙処断した。公家 (くげ)では、右大臣鷹司輔煕 (たかつかさすけひろ)、左大臣近衛忠煕 (このえただひろ)を辞官落飾 (らくしょく)、前関白鷹司政通 (まさみち)、前内大臣三条実万 (さねつむ)を落飾させ、青蓮院宮 (しょうれんいんのみや)(朝彦親王 (あさひこしんのう))、内大臣一条忠香 (いちじょうただか)、二条斉敬 (にじょうなりゆき)、近衛忠房、久我建通 (こがたけみち)、中山忠能 (なかやまただやす)、正親町三条実愛 (おおぎまちさんじょうさねなる)らを慎 (つつしみ)に処し、大名では、斉昭を急度慎 (きっとつつしみ)、慶恕、慶永に隠居、急度慎を命じ、幕吏中の俊秀大目付土岐頼旨 (ときよりむね)、勘定奉行 (かんじょうぶぎょう)川路聖謨 (かわじとしあきら)、目付鵜殿長鋭 (うどのながとし)、京都町奉行浅野長祚 (あさのながよし)らを一橋派として左遷し、さらに作事奉行岩瀬忠震 (いわせただなり)、軍艦奉行永井尚志 (ながいなおゆき)(「なおむね」とも読む)および川路には隠居・慎を命じ、その他処罰された者は十数名に及んだ。志士以下の処罰者は75名に達したが、そのなかには水戸藩家老安島帯刀 (あじまたてわき)(切腹)、同右筆頭取 (ゆうひつとうどり)茅根伊予之介 (ちのねいよのすけ)、同京都留守居鵜飼吉左衛門 (うかいきちざえもん)、越前 (えちぜん)藩士橋本左内 (はしもとさない)、儒者頼三樹三郎、長州藩士吉田松陰 (よしだしょういん)(以上死罪)、水戸藩士鵜飼幸吉 (こうきち)(獄門)、鷹司家諸大夫小林良典 (こばやしよしすけ)(遠島)、儒者池内大学、鷹司家家来三国大学 (みくにだいがく)、青蓮院宮家来伊丹蔵人 (いたみくろうど)(以上中追放)らがいる。

 この安政の大獄を断行した井伊は、政治は朝廷から幕府が委任されているのだから、外圧の危機に際して「臨機の権道」をとるのは当然であり、勅許を待たない重罪は甘んじて自分一人が負うという論理のうえにたっていた。大老の職に自らの政治生命を賭 (か)けたのである。それだけにその政治行動は迅速果敢、強烈な政治意志の発現として断行された。しかし、その政治意志が幕藩体制の保守的伝統的維持に根ざしている以上、客観的にはそれはかえって矛盾の深化、拡大をもたらすものであった。そして、井伊は安政の大獄の返り血を浴びる形で、1860年(万延1)3月、桜田門外に暗殺された。

[田中 彰]

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収集して京都におくる。安政5年別件で逮捕され,押収された書類から大量の捕縛者をだし,これが安政の大獄の引き金となった。安政6年10月7日橋本左内らとともに処刑さ
25. いいたいろう【井伊大老】
歌舞伎事典
長野主膳=島田正吾で初演、三年後に歌舞伎俳優によっても上演され、以後両者で重演されている。安政の大獄で攘夷派を弾圧した井伊大老は、勤皇派に命をねらわれ、不忠不義
26. いいだただひこ【飯田忠彦】
国史大辞典
天保五年(一八三四)に大坂に帰り、有栖川宮家、中宮寺宮家に仕えた。このころから時事を論じ、安政の大獄起るや幕府の譴責を受けて江戸の獄に下った。のち赦されて京都深
27. いいだ-ただひこ【飯田忠彦】
日本人名大辞典
嘉永(かえい)5年「野史(やし)」291巻を完成する。また有栖川宮(ありすがわのみや)家につかえ,安政の大獄に連座し謹慎処分となる。桜田門外の変に関与した嫌疑を
28. 井伊直弼画像
日本大百科全書
火がついた。幕府の危機をみてとった直弼は徹底した弾圧策をとり、翌1859年にかけていわゆる安政の大獄を引き起こした。直弼の論理は大政委任を受けた幕府が「臨機の権
29. 井伊直弼
世界大百科事典
画策した反対派の勢力に,徹底した弾圧を加えることを決意した。この弾圧が58年9月から59年10月にわたった〈安政の大獄〉である。公卿とその家臣,大名とその家臣,
30. いい‐なおすけ【井伊直弼】
日本国語大辞典
さらに徳川第一三代将軍家定の後継者に慶福(よしとみ=家茂)を立て、反対派の諸大名、公卿、武士たちを弾圧して安政の大獄を起こす。のち水戸・薩摩の浪士らに江戸城桜田
31. いいなおすけ【井伊直弼】
国史大辞典
報道に惑わされ、反対派の運動を水戸藩の陰謀と信じ、九月近藤茂左衛門・梅田雲浜の逮捕を契機に安政の大獄を断行、翌六年にかけて反対派の諸侯・有司・志士を厳罰したほか
32. いい-なおすけ【井伊直弼】
日本人名大辞典
))にきめた。一橋慶喜(ひとつばし-よしのぶ)を推して反対する斉昭ら一橋派や尊攘派を弾圧(安政の大獄)したため,桜田門外で安政7年3月3日水戸・薩摩の浪士らに暗
33. いいなおすけ【井伊直弼】
日本架空伝承人名事典
画策した反対派の勢力に、徹底した弾圧を加えることを決意した。この弾圧が五八年九月から五九年一〇月にわたった「安政の大獄」である。公卿とその家臣、大名とその家臣、
34. 井伊直弼[文献目録]
日本人物文献目録
末の青年首相井伊直弼』今堀文一郎『柳王余光』井伊大老史実研究会(編)『井伊直弼』吉田常吉『安政の大獄 井伊直弼と吉田松陰』永江新三『安政七年三月井伊侯殺害当時の
35. 池内大学
世界大百科事典
将軍継嗣問題では一橋慶喜の擁立を図り,戊午(ぼご)の密勅にも関与して〈悪謀の四天王〉の一人と目され,安政の大獄が起こると一時難を伊勢に避けたが,やがて自首。中追
36. いけうち-だいがく【池内大学】
日本人名大辞典
主張し,三条実万(さねつむ)と水戸藩とを仲介。将軍継嗣問題では一橋慶喜(よしのぶ)を支持する。安政の大獄で自首し,これを裏切りとみた尊攘派に文久3年1月23日暗
37. いけがみ-はやのすけ【池上隼之助】
日本人名大辞典
日向(ひゅうが)(宮崎県)佐土原(さどはら)藩士。上原立斎,梅田雲浜(うんぴん)にまなぶ。安政の大獄の際に徳川斉昭(なりあき)に面会をもとめて失敗,幽閉される。
38. いけだもちまさ【池田茂政】
国史大辞典
生まれ、嘉永元年(一八四八)八月忍藩主松平忠国の養子となり、民部大輔忠矩といったが、斉昭が安政の大獄に連坐したため、安政六年(一八五九)十一月幕府より離籍を命ぜ
39. いさ-たのも【伊佐頼母】
日本人名大辞典
郡(つづきぐん)上津屋(こうづや)村の庄屋役となる。茶業を振興し,公共事業にも力をそそぐ。安政の大獄に連座した実万をかくまい,のち出家した実万につかえた。明治1
40. いたくらかつきよ【板倉勝静】
国史大辞典
奉行を兼ね、安政の大獄の五手掛となったが、寛大な処分を主張して同六年二月罷免された。文久元年(一八六一)二月奏者番兼寺社奉行に復し、翌二年三月老中に進み、生麦事
41. いたくら-かつきよ【板倉勝静】
日本人名大辞典
板倉勝職(かつつね)の養子。嘉永(かえい)2年備中(びっちゅう)(岡山県)松山藩主板倉家7代となる。安政の大獄で井伊直弼(なおすけ)に反対して寺社奉行を罷免され
42. いちじょうただか【一条忠香】
国史大辞典
老中間部詮勝が入京して圧力をかけると、十月には九条関白の辞職を朝議によってとどめた。翌六年二月安政の大獄に連坐、十日の慎に処せられたが、三月近衛忠煕辞職のあとを
43. いのう-ゆうおう【伊能友鴎】
日本人名大辞典
安政3年伊予(いよ)(愛媛県)宇和島藩若年寄となり,一橋派の藩主伊達宗城(むねなり)の活動を補佐。安政の大獄で重追放処分をうけた。隠居を命ぜられた宗城から「伊達
44. いまづまち【今津町】兵庫県:高砂市/高砂町
日本歴史地名大系
天保一三年には禄一〇〇石を給された(高砂誌)。子狷介(白華)は松塢を継ぎ、同一一年から江戸昌平黌に学び、安政の大獄で捕らえられたが、出獄後には藩校好古堂(現姫路
45. いまむら-ぶんご【今村文吾】
日本人名大辞典
。京都で医術を山脇東洋の孫の東海に,儒学を岩垣東園にまなぶ。のち自宅に私塾晩翠堂をひらく。安政の大獄で追われた人々をかくまい,天誅(てんちゅう)組に軍資金を提供
46. うえまつしげおか【植松茂岳】
国史大辞典
のち藩主の侍講となり、『尾張志』の撰述、『古事記』・六国史の校合、熱田文庫の建設、真福寺本の調査にあたる。安政の大獄に連坐、文久二年(一八六二)職禄を復し、明治
47. うえまつ-しげおか【植松茂岳】
日本人名大辞典
天保(てんぽう)6年から尾張(おわり)名古屋藩の藩校明倫堂でおしえ,安政2年藩主徳川慶勝の侍講となる。安政の大獄で幽閉。文久2年ゆるされ,のち明倫堂国学教授。明
48. うがい‐きちざえもん【鵜飼吉左衛門】
日本国語大辞典
幕末の水戸藩士。尊攘運動に奔走し、幕府刷新を求める戊午(ぼご)の密勅を得る。安政の大獄で、子、幸吉とともに刑死。寛政一〇~安政六年(一七九八~一八五九)
49. うがい-きちざえもん【鵜飼吉左衛門】
日本人名大辞典
常陸(ひたち)水戸藩の京都留守居役。藩にくだされた戊午(ぼご)の密勅にかかわる中心人物のひとり。この密勅が安政の大獄のきっかけとなり,幕府に捕らえられて安政6年
50. うがい-こうきち【鵜飼幸吉】
日本人名大辞典
として父をたすける。安政5年藩にくだされた戊午(ぼご)の密勅を江戸小石川の藩邸にとどけた。安政の大獄で幕府に捕らえられ,6年8月27日処刑された。32歳。名は知
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