1858年(安政5)から翌59年にかけて,大老井伊直弼(なおすけ)が井伊の政治に批判的であった公卿,大名,幕臣,志士などに対しておこなった弾圧である。多数の逮捕者と処刑者が出た。
大獄の原因となったのは,将軍継嗣問題と条約勅許問題とをめぐる領主階級内部の政争である。1853年(嘉永6)に13代将軍となった徳川家定は,このときすでに30歳であったが1人の子女もなく,また政務をとる能力に欠けていた。57年,諸外国との通商開始が避けられないことが明らかとなり,外交折衝についての幕府の指揮や責任が,ますます重要視されはじめると,家定の後見として政務をとりうる将軍継嗣を,速やかに定めるべきであるとの声が高まった。このとき,継嗣候補者と目されていた人物は2人あった。1人は家定の従兄にあたる紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))である。慶福を中心になって推したのは紀州藩付家老水野忠央と彦根藩主井伊直弼であり,幕閣を構成する譜代大名の多くが,これを支持した。この勢力を南紀派という。もう1人は前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の第7子で,一橋家を相続していた一橋慶喜(よしのぶ)であった。慶喜を推したのは,斉昭のほか福井藩主松平慶永,薩摩藩主島津斉彬,阿波藩主蜂須賀斉裕,宇和島藩主伊達宗城,土佐藩主山内豊信ら雄藩の大名と,幕府の海防掛であった大目付土岐頼旨,勘定奉行川路聖謨,目付永井尚志,同岩瀬忠震,同鵜殿長鋭,田安家家老水野忠徳らであった。この勢力は一橋派とよばれた。南紀派と一橋派は,自派の候補者を将軍継嗣として幕政の主導権を握ろうと激しく争った。
58年の初頭,幕府は,前年の末にアメリカ総領事ハリスとの談判で議了した日米修好通商条約調印の勅許を得ようとして,老中堀田正睦(まさよし)を上京させた。斉昭をはじめとする一橋派は,幕府が条約勅許を得ることに成功すれば,将軍継嗣についての朝廷の意向も徳川慶福に定まってしまうであろうとの判断に立ち,勅許をおこなわないよう朝廷に働きかけた。このため,堀田は目的を達することができずに江戸へ帰った。一橋派のこのような動きを封じ,条約勅許と将軍継嗣の二つの問題を一挙に解決しようとして,58年4月,南紀派の巨頭であった井伊直弼が大老に就任した。井伊は,川路,土岐,鵜殿など一橋派の役人を左遷したのち,6月19日,勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印し,同月25日には,徳川慶福を将軍継嗣と定める旨を公表した。継嗣問題に敗れた一橋派は,井伊の条約調印を違勅であると激しく攻撃し,井伊の失脚をはかった。朝廷と尊王攘夷派の志士や公卿が,これに同調し,以後,京都を中心に井伊非難の声が高まった。8月8日,幕府が勅許を得ないで条約に調印したのは遺憾である,という内容の勅諚が出た(戊午(ぼご)の密勅)。この勅諚は,武家伝奏万里小路正房からひそかに水戸藩京都留守居鵜飼吉左衛門の子幸吉に渡され,幸吉はこれを江戸の水戸藩邸に届けた。しかも勅諚に添えられた文書には,水戸藩が,この勅諚を諸藩に伝達するようにと記してあった。井伊は,勅諚が幕府を通さずに直接,諸藩に伝えられることが前例になると,最高の領主権力としての幕府の地位が有名無実となるおそれがあると考え,反対派の勢力に徹底した弾圧をおこなうことを決意した。
58年9月から,京都と江戸とで,尊王攘夷派の志士,公卿の家臣,一橋派の大名の家臣などの逮捕,投獄がはじまった。梅田雲浜,頼三樹三郎,小林良典,池内大学,橋本左内など,この年の逮捕者は数十人に達した。吉田松陰は長州藩が投獄し,江戸へ送られた。59年になると,幕府は,前年8月8日の降勅の画策に荷担し,また一橋慶喜の将軍継嗣擁立のために運動した公卿の処罰にふみきった。2月,幕府の圧力によって,孝明天皇は,青院宮尊融入道親王,二条斉敬,広橋光成,万里小路正房,正親町三条実愛に謹慎を命じた。ついで4月,鷹司政通,同輔煕,近衛忠煕,三条実万も謹慎・落飾を命じられた。公卿の処罰に続いたのは,水戸藩関係者に対する弾圧である。8月,徳川斉昭は永蟄居,藩主徳川慶篤は差控,一橋慶喜は隠居・慎を命じられ,家老安島帯刀は切腹,藩士の茅根伊予之介,鵜飼吉左衛門は死罪,鵜飼幸吉は獄門に処せられた。また一橋派の幕臣である岩瀬忠震,永井尚志,川路聖謨も隠居・慎となった。最後は志士の処刑であった。10月,飯泉喜内,橋本左内,頼三樹三郎,吉田松陰が死罪となった。死罪になると目されていた梅田雲浜はこれに先立って9月,獄中で死亡した。このほか,逮捕者のすべてが処罰をうけた。翌60年3月,井伊が江戸城桜田門外で殺害されたのは(桜田門外の変),安政の大獄での水戸藩に対する強い弾圧と,水戸藩に勅諚返上を命じたことが,水戸浪士らの反感をかったためであった。
1858年(安政5)江戸幕府の大老井伊直弼 (いいなおすけ)による尊攘運動 (そんじょううんどう)への弾圧事件。幕末の尊攘運動に一時期を画した政治的事件である。1857年6月の老中阿部正弘 (あべまさひろ)の死去のあと、幕閣の実権は老中堀田正睦 (ほったまさよし)(佐倉藩主)に移り、彼は開国政策を支持した。その背後には溜間詰 (たまりのまづめ)の譜代大名 (ふだいだいみょう)がおり、その指導権は彦根藩主井伊直弼が握っていた。ここにペリー来航以来攘夷主義を主張していた徳川斉昭 (とくがわなりあき)以下、松平慶永 (まつだいらよしなが)(松平春嶽 (しゅんがく))、島津斉彬 (しまづなりあきら)らに代表される大廊下詰 (おおろうかづめ)家門大名、大広間詰外様大名 (とざまだいみょう)の一派と溜間詰譜代大名との対立がクローズアップされた。ところが、病弱であった第13代将軍徳川家定 (いえさだ)の継嗣 (けいし)問題を契機にこの2派の対立は一段と激化し、政争の焦点はしだいに対外問題へと移った。つまり、幕閣の独裁を抑え、雄藩合議制を主張する家門・外様大名の一派は一橋慶喜 (ひとつばしよしのぶ)(斉昭の第7子。のちに徳川慶喜)を将軍継嗣にしようとし(一橋派)、他方、幕閣独裁をとろうとした譜代大名の派は紀州藩主徳川慶福 (よしとみ)(のち家茂 (いえもち))を擁立した(南紀派)。両派とも朝廷工作を進め、その暗闘のなかで南紀派の策謀が功を奏し、井伊が大老に就任し、彼は独断専行、南紀派の推す慶福を将軍継嗣に決定するとともに、威嚇と督促を重ねるハリスに対しては、勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印した(1858年6月)。継嗣問題に敗れた一橋派は、この違勅調印を理由に一斉に井伊攻撃に立ち上がった。儒教的名分としての「尊王」と「攘夷」は、ここに「尊攘」論として結合し、反幕スローガンとなったのである。徳川斉昭・慶喜父子、徳川慶恕 (よしくみ)(尾張 (おわり))、松平慶永らが不時登城して井伊を詰問すれば、梁川星巌 (やながわせいがん)、梅田雲浜 (うめだうんぴん)、頼三樹三郎 (らいみきさぶろう)、池内大学 (いけうちだいがく)らの志士は京都に参集して反幕的機運を盛り上げた。孝明天皇 (こうめいてんのう)も激怒して、譲位の意向を示し、1858年8月には、条約調印に不満を示す勅諚 (ちょくじょう)、いわゆる「戊午 (ぼご)の密勅」を水戸藩に下した。朝廷内部にも上級佐幕派公卿 (くぎょう)と下級尊攘派公卿とが対立し、後者は「列参」=集団行動をとった。
こうした事態に幕府の危機をみてとった井伊は、徹底的な弾圧政策をとり、反対派の公卿、大名を隠退させ、幕吏を罷免し、志士を検挙処断した。公家 (くげ)では、右大臣鷹司輔煕 (たかつかさすけひろ)、左大臣近衛忠煕 (このえただひろ)を辞官落飾 (らくしょく)、前関白鷹司政通 (まさみち)、前内大臣三条実万 (さねつむ)を落飾させ、青蓮院宮 (しょうれんいんのみや)(朝彦親王 (あさひこしんのう))、内大臣一条忠香 (いちじょうただか)、二条斉敬 (にじょうなりゆき)、近衛忠房、久我建通 (こがたけみち)、中山忠能 (なかやまただやす)、正親町三条実愛 (おおぎまちさんじょうさねなる)らを慎 (つつしみ)に処し、大名では、斉昭を急度慎 (きっとつつしみ)、慶恕、慶永に隠居、急度慎を命じ、幕吏中の俊秀大目付土岐頼旨 (ときよりむね)、勘定奉行 (かんじょうぶぎょう)川路聖謨 (かわじとしあきら)、目付鵜殿長鋭 (うどのながとし)、京都町奉行浅野長祚 (あさのながよし)らを一橋派として左遷し、さらに作事奉行岩瀬忠震 (いわせただなり)、軍艦奉行永井尚志 (ながいなおゆき)(「なおむね」とも読む)および川路には隠居・慎を命じ、その他処罰された者は十数名に及んだ。志士以下の処罰者は75名に達したが、そのなかには水戸藩家老安島帯刀 (あじまたてわき)(切腹)、同右筆頭取 (ゆうひつとうどり)茅根伊予之介 (ちのねいよのすけ)、同京都留守居鵜飼吉左衛門 (うかいきちざえもん)、越前 (えちぜん)藩士橋本左内 (はしもとさない)、儒者頼三樹三郎、長州藩士吉田松陰 (よしだしょういん)(以上死罪)、水戸藩士鵜飼幸吉 (こうきち)(獄門)、鷹司家諸大夫小林良典 (こばやしよしすけ)(遠島)、儒者池内大学、鷹司家家来三国大学 (みくにだいがく)、青蓮院宮家来伊丹蔵人 (いたみくろうど)(以上中追放)らがいる。
この安政の大獄を断行した井伊は、政治は朝廷から幕府が委任されているのだから、外圧の危機に際して「臨機の権道」をとるのは当然であり、勅許を待たない重罪は甘んじて自分一人が負うという論理のうえにたっていた。大老の職に自らの政治生命を賭 (か)けたのである。それだけにその政治行動は迅速果敢、強烈な政治意志の発現として断行された。しかし、その政治意志が幕藩体制の保守的伝統的維持に根ざしている以上、客観的にはそれはかえって矛盾の深化、拡大をもたらすものであった。そして、井伊は安政の大獄の返り血を浴びる形で、1860年(万延1)3月、桜田門外に暗殺された。
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