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  11. 桜田門外の変

ジャパンナレッジで閲覧できる『桜田門外の変』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書

国史大辞典
桜田門外の変
さくらだもんがいのへん
万延元年(一八六〇)三月三日水戸・薩摩の十八士が江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺した事件。直弼は安政五年(一八五八)六月勅許を得ずに日米修好通商条約の調印を断行し、違勅問責のために押懸登城した水戸老侯徳川斉昭らの三家の諸侯を処罰したばかりでなく、将軍継嗣問題でも朝廷の期待する一橋慶喜を斥け、紀伊藩主徳川慶福(のち家茂)を継嗣に決定した。孝明天皇は幕府の条約調印に激怒して三家・大老の上京を命じたが、直弼は朝命を拒んで老中間部詮勝の上京を奏聞したので、同年八月ついに水戸藩への密勅の降下となった。直弼は勅諚の列藩への回達を禁ずるとともに、反対派の一掃に乗り出し、上京した詮勝を指揮して安政の大獄を起した。このような直弼の専断に対して、直弼を除いて時局を安定させようとする志士も少なくなかった。薩摩藩有志の中には亡き島津斉彬勤王の遺志を継承し、水戸・長州・越前などの諸藩と提携して除奸運動を企てた。同年九月在京中の西郷吉兵衛(隆盛)は詮勝の入京を目前にして、東西呼応して義兵を挙げ、詮勝を撃退し彦根城を攻略することを江戸の同志に説き、同藩の有馬新七は諸藩の有志と挙兵除奸の計画を進め、しばしば江戸・京都間を潜行したが、目的を達することができなかった。水戸藩では同年十月高橋多一郎・金子孫二郎が奉勅義挙の義盟を西南諸藩に求めることを計画し、住谷寅之介・大胡聿蔵・矢野長九郎・関鉄之介が諸藩を遊説して、翌六年正月から二月にかけて帰藩した。この遊説で水薩両藩の志士の提携が緊密化し、三月高崎猪太郎(五六)が水戸に潜行して高橋らに挙兵すべきことを説いたが、この時は水戸藩の自重論によって具体化しなかった。しかるに同年八月安政の大獄によって斉昭父子が処罰されたので、高橋・関らは薩藩の志士と結託して挙兵しようとした。時に薩藩では西郷の大島流謫後、大久保正助(利通)らが挙兵のために脱藩を計画していたが、十一月に藩主島津茂久が諭書を下して軽挙を戒めたので、志士の脱藩計画は挫折した。水戸藩では十二月に勅諚返納の幕命が下ったので、反幕感情は激化し、除奸計画は直弼要撃の計画へと進展した。翌万延元年正月高橋・金子の領袖は薩藩有志と交渉のために木村権之衛門を出府させた。高崎・堀仲左衛門(伊地知貞馨)はすでに帰藩したので、木村は有村雄助・次左衛門兄弟らに水藩有志の計画を告げて賛成を得た。それは水藩有志五十人を二手に分け、一手は直弼要撃にあたり、一手は横浜の外人商館焼打ちにあたり、薩藩有志は京都を守衛し、東西呼応して一挙に幕府の改造を断行しようとするものであった。薩藩の山口三斎・田中直之進(謙助)はこれを同志に告げるため帰藩した。ここに水薩両藩の盟約がほぼ内定したので、高橋・金子らは決行期日、京都の守衛、直弼首級の海路西送、同志出府の待合場所、同志間の合言葉、同志の潜伏所など二十数箇条の密約箇条を定め、木村はこれを有村と交渉するため、佐野竹之介・黒沢忠三郎を伴って同月再び出府した。時に水戸藩庁の探索が厳しく逮捕の手が延びたので、二月高橋・金子・関らが相ついで脱藩、高橋は薩藩兵の東上を待つため、子息の荘左衛門らと中山道を西上し、他は江戸に潜居して同志の到着を待った。金子らの出府が遅れたため、決行期日は二月十日が二十日前後となり、それも延期された。三月一日金子は木村・関・斎藤監物・稲田重蔵・佐藤鉄三郎および有村雄助と日本橋西河岸の山崎屋に会し、直弼要撃の期日を三日の上巳の節句とし、部署・方策を決定した。ついで二日同志は品川の妓楼相模屋に訣別の宴を開き、前日の金子を除く水戸藩五士に野村彝之介と要撃に参加する佐野・黒沢ら十三士、合わせて十九士が会し、総帥の金子と当日の先発隊の一士および有村兄弟は欠席した。三日早朝関・斎藤・佐野・黒沢・稲田・岡部三十郎・大関和七郎・蓮田市五郎・森五六郎・山口辰之介・広岡子之次郎・森山繁之介・杉山弥一郎・鯉淵要人・広木松之介・海後磋磯之介・増子金八の十七士と有村次左衛門は雪を冒して愛宕山に集合、桜田門外に赴いた。この日十七士は士籍・神職などの分による除籍願書を藩庁に提出した。十八士は登城する直弼の行列の供先を襲って混乱させ、短銃の音を合図に両側から一斉に駕籠に斬りかかり、有村が直弼の首級を挙げた。この要撃で稲田が闘死、山口・鯉淵・広岡・有村が重傷のため自刃、斎藤・佐野・黒沢・蓮田は老中脇坂安宅邸に、森・大関・森山・杉山は熊本細川斉護邸に自訴したが、佐野・斎藤・黒沢は傷のために死んだ。彦根藩側では即死、深手のため死んだもの八士を出した。関・岡部・広木・海後・増子と現場にいた野村・木村は逃れて行方を晦ました。金子は品川鮫洲の川崎屋で現場から駆けつけた佐藤から吉報を得て、ともに上国に向かったが、有村雄助を伴っていたため、同月九日伊勢四日市で薩藩捕吏に追捕され、伏見奉行に引き渡された後、江戸に檻送された。先に上国に向かった高橋父子は、待望の薩藩兵の東上もないまま、同月二十三日大坂四天王寺で捕吏に囲まれて自刃した。この日雄助は藩地で自刃を命ぜられた。幕府は文久元年(一八六一)二月江戸吉原で岡部を捕え、七月二十六日桜田事変の獄を断じ、金子・大関・蓮田・森山・杉山・森・岡部を死罪に、佐藤を中追放に処した。関は同年十月越後雲母温泉で水戸藩捕吏に捕えられ、江戸檻送後、翌二年五月十一日、死罪に処せられた。桜田事変三周年の同年三月三日、広木は相模鎌倉の上行寺で自刃した。要撃に参加した浪士で命を全うしたのは、海後と増子のみであった。義挙の目的は浪士が懐中した「斬奸趣意書」に「公辺之御政事正道に御復し、尊王攘夷正誼明道、天下万民をして富岳の安に処せしめ給はん事を希ふのみ」とあるので明らかで、また「公辺へ御敵対申上候儀には毛頭これ無く」とは三家家臣としての当然の発想であるが、大老の死は幕威を失墜させ、幕府衰亡の転機となり、また坂下門外の変を誘発する一因ともなった。
[参考文献]
『水戸藩史料』上坤、『水戸市史』中四、『彦根市史』中、『鹿児島県史』三、岩崎重英『(維新前史)桜田義挙録』、関鉄之介『西海転蓬日録』(『野史台維新史料叢書』九)、同『丁難日録』(同)、同『南遊遣悶集並日録』(同八)、同『庚申転蓬日録』(同)、同『万延転蓬日録』(同)、同『文久転蓬日録』(同)、『大久保利通日記』一(『日本史籍協会叢書』)、吉田常吉「桜田事変とその波紋」(『茨城県史料研究』九)
(吉田 常吉)


改訂新版 世界大百科事典
桜田門外の変
さくらだもんがいのへん

1860年(万延1)3月,尊王攘夷派の水戸浪士らが,大老井伊直弼を江戸城桜田門外に襲い,殺害した事件。1858年(安政5)6月,井伊は勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印した。これに対し朝廷は,同年8月,幕府の条約調印は遺憾である旨を記した勅諚を水戸藩へ下した(戊午(ぼご)の密勅)。この前例のない事態に直面し,幕藩権力の解体の危機を感じた井伊は,9月から,尊攘派の公卿や志士,水戸藩士などの反対勢力に徹底した弾圧をおこなった(安政の大獄)。これと並行して,井伊は,水戸藩から勅諚を返上させるように朝廷に圧力をかけ,この結果,59年12月に,勅諚返上の勅命が水戸藩へ下った。水戸藩内では,勅諚を返上すべきだとする鎮派と,これに反対する激派との間に,激しい政争がおこなわれたが,ついに鎮派の主張が通った。激派の水戸藩士金子孫二郎,高橋多一郎,関鉄之介らと,薩摩藩士有村次左衛門との間では,安政の大獄がはじまったころから,井伊の暗殺計画がねられていたが,水戸藩論が勅諚返上に傾くと,この計画は急速に具体化した。それによれば,水戸藩士50人は,井伊の襲撃と横浜の外国商館焼打ちとを実行し,同時に薩摩藩士3000人が京都の警衛にあたり,東西相応じて幕府の改造を断行するというものであった。しかし,最終段階では井伊の襲撃のみにしぼられ,関を総指揮とする水戸藩士17人と薩摩藩士の有村とは,いずれも脱藩して,ひそかに江戸へ集まった。彼らは,60年3月3日,井伊が上巳(じようし)の嘉節(桃の節句)の賀詞を述べるために登城してくるのを,桜田門外に待伏せし,その行列に斬りかかり,有村が井伊の首級をあげた。彼らの携えていた〈斬奸趣意書〉には,井伊の罪状として,条約違勅調印と安政の大獄での尊攘派への弾圧とがあげられていた。幕府は政局の動揺をおそれ,しばらく井伊の死を秘した。この事件ののち,幕府政治は公武合体の方向へ転換していった。
[小野 正雄]

[索引語]
井伊直弼 金子孫二郎 高橋多一郎 関鉄之介


日本大百科全書(ニッポニカ)
桜田門外の変
さくらだもんがいのへん

幕末期の1860年(安政7)3月3日、江戸幕府の大老井伊直弼 (なおすけ)が桜田門外で暗殺された事件。桜田門は江戸城内郭門 (うちぐるわもん)の一つ。将軍継嗣 (けいし)問題や安政 (あんせい)五か国条約(安政通商条約)の違勅調印などをめぐって大老井伊への反感は、尊攘 (そんじょう)派などに強くあったが、安政の大獄の進行で一段と強まった。58年後半ころから薩摩 (さつま)藩有志の間には、水戸・長州・越前 (えちぜん)・因州の諸藩と提携して幕府の「除奸 (じょかん)」計画が企てられていたが、翌59年になると、水戸藩と薩摩藩有志の交流が盛んとなり、水・薩提携が具体化していった。すなわち、水戸藩への「戊午 (ぼご)の密勅」をめぐる勅諚 (ちょくじょう)返還問題への幕府の圧力が強まるや、激派の反感は高まり、他方、薩摩藩でも激派の不満が鬱屈 (うっくつ)していた。60年1月以降、水・薩両藩有志の「義挙」の盟約が結ばれ、3月3日朝、18名が雪の桜田門外に井伊の行列を襲った。この18名は、関鉄之介を総指揮者とする水戸藩士17名(関のほか、岡部三十郎、斎藤監物 (けんもつ)、佐野竹之介、大関和七郎、広岡子之次郎 (ねのじろう)、稲田重蔵、森山繁之介、海後磋磯之介 (かいごさきのすけ)、黒沢忠三郎、山口辰之介、杉山弥一郎、増子金八、蓮田 (はすだ)市五郎、鯉淵要人 (こいぶちかなめ)、広木松之介、森五六郎)と薩藩士1名(有村次左衛門 (じざえもん))よりなる。彼らの「斬奸 (ざんかん)趣意書」では、井伊一派の斬戮 (ざんりく)による幕府の改革を企図したもので、倒幕を意図したものでないことがわかる。しかし、白昼大老が暗殺されたことで、幕府の衰退が公然となり、幕末期政局の一つの転機となった。

[田中 彰]

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検索コンテンツ
1. 桜田門外の変画像
日本大百科全書
幕末期の1860年(安政7)3月3日、江戸幕府の大老井伊直弼なおすけが桜田門外で暗殺された事件。桜田門は江戸城内郭門うちぐるわもんの一つ。将軍継嗣けいし問題や安
2. 桜田門外の変
世界大百科事典
1860年(万延1)3月,尊王攘夷派の水戸浪士らが,大老井伊直弼を江戸城桜田門外に襲い,殺害した事件。1858年(安政5)6月,井伊は勅許を得られないまま日米修
3. さくらだもんがい‐の‐へん[さくらだモングヮイ‥]【桜田門外変】
日本国語大辞典
安政七年(一八六〇)三月三日、江戸城桜田門外で、大老井伊直弼(なおすけ)が水戸・薩摩の浪士ら一八名によって殺害された事件。直弼が勅許を待たずに日米修好通商条約に
4. さくらだもんがいのへん【桜田門外の変】
国史大辞典
万延元年(一八六〇)三月三日水戸・薩摩の十八士が江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺した事件。直弼は安政五年(一八五八)六月勅許を得ずに日米修好通商条約の調印を
5. 桜田門外の変
日本史年表
庚申③〉 3・3( 3・24 ) 大老井伊直弼、桜田門外で水戸浪士などの襲撃を受け斬殺される( 桜田門外の変 .同年閏3月30日発喪)(水戸藩史料・維新史料綱要
6. 桜田門外の変(井伊直弼襲撃の図)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
1860年(安政7)3月3日朝、雪のなか登城する大老井伊直弼いいなおすけを18名の水戸・薩摩両藩士が江戸城桜田門外で襲った場面を描いたもの。月岡芳年つきおかよし
7. 桜田門外の変水戸浪士聞書(著作ID:583142)
新日本古典籍データベース
さくらだもんがいのへんみとろうしききがき 津金胤臣(つがねたねおみ) 編 記録 
8. 桜田門外の変/参加者一覧
日本大百科全書
*は別に本項目のあることを示す。関鉄之介せきてつのすけ* (1824―62) 長男。10石三人扶持ぶち。郡方与力こおりがたよりきを勤め、詩歌をよくした。安政あん
9. 青木周蔵自伝 358ページ
東洋文庫
慶応元(一八六五)  二(一八六六)  三(一八六七)一八一九二〇一二二二二一二二四・三月桜田門外の変五月、誠求堂で上等二級、塾長代理となる。橋本忠次郎に勤皇を
10. アメリカ彦蔵自伝 1 207ページ
東洋文庫
た。だが私は両替で自分の利益をすっかりなくしてしまった。                 桜田門外の変 一八六〇年三月二十五日。曇りで、はげしく雪が降っている。
11. アメリカ彦蔵自伝 1 208ページ
東洋文庫
多くの地元民が当時、偶然にも現場にいて、この事件を目撃していたのである。 注   この事件は「桜田門外の変」として、    日本人の間にはよく知られている。起こ
12. アメリカ彦蔵自伝 2 280ページ
東洋文庫
正使が新見豊前守、副使が村垣淡路守。しかしてブルック大尉は成臨丸の水先案内をつとめる。◇いわゆる桜田門外の変は、旧三月三日(三・二四)に起こった。本文の日付は誤
13. ありましんしち【有馬新七】
国史大辞典
謀ったが、藩主茂久自筆の挙藩勤王の慰諭書を下され他日を期することとなったため、有村兄弟のみが桜田門外の変に参加した。文久元年(一八六一)十一月藩校造士館訓導師に
14. 有村次左衛門
世界大百科事典
見届けて高橋とともに京都に走り兵を挙げようとしたが,捕らわれて国元で自刃を命ぜられた。原口 虎雄 桜田門外の変 有村雄助
15. ありむられん【有村連】
国史大辞典
として文化六年(一八〇九)六月十日(戸籍面)生まれる。同藩士有村仁左衛門に嫁す。有村兄弟の桜田門外の変における壮烈な働きは、連平素の訓育にありといわれ、また和歌
16. ありむら-れんじゅに【有村連寿尼】
日本人名大辞典
。薩摩(さつま)鹿児島藩士有村兼善の妻。海江田(かえだ)信義,有村雄助,有村次左衛門の母。桜田門外の変で死んだ雄助,次左衛門の性格形成におおきな影響をあたえた。
17. あんせい【安政】
日本国語大辞典
嘉永七年(一八五四)一一月二七日、異国船の渡来や内裏(だいり)炎上などのため改元。安政七年(一八六〇)桜田門外の変ののち、三月一八日万延元年となる。将軍は一三代
18. 安政五か国条約
日本大百科全書
朝廷と結び付いた尊王そんのう攘夷運動を刺激する結果となり、安政の大獄たいごく(1859)、井伊暗殺(桜田門外の変。1860)に始まる国内動乱のきっかけを招いた。
19. 安政の大獄
世界大百科事典
このほか,逮捕者のすべてが処罰をうけた。翌60年3月,井伊が江戸城桜田門外で殺害されたのは(桜田門外の変),安政の大獄での水戸藩に対する強い弾圧と,水戸藩に勅諚
20. あんせいのたいごく【安政の大獄】
国史大辞典
実は多数の有為の有司を排斥して幕府自体を弱体化させたのみでなく、万延元年(一八六〇)三月三日、桜田門外の変を招いて横死し、幕威を失墜して衰亡を早める結果となった
21. 飯田忠彦
日本大百科全書
の大獄に連座して謹慎処分を受け、期満ちてのち、京都に隠棲いんせい中の1860年(万延1)、桜田門外の変で取調べにあい、憂憤のあまり自殺した。高木俊輔
22. いいだ‐ただひこ【飯田忠彦】
日本国語大辞典
幕末の歴史家。勤王家。徳山藩士、のち、有栖川宮家(ありすがわのみやけ)に仕える。桜田門外の変で取り調べを受けたのを怒り自刃。主著「野史」二九一巻。寛政一〇~万延
23. いいだ-ただひこ【飯田忠彦】
日本人名大辞典
を完成する。また有栖川宮(ありすがわのみや)家につかえ,安政の大獄に連座し謹慎処分となる。桜田門外の変に関与した嫌疑をうけ,万延元年5月27日割腹した。62歳。
24. 井伊直弼画像
日本大百科全書
(公用方秘録)というにあった。しかし、直弼のこの弾圧政策は、1860年(万延1)3月3日の桜田門外の変として彼の横死を招いたのである。井伊直弼の評価は「不忠の臣
25. 井伊直弼
世界大百科事典
が強まり,60年3月3日,直弼は江戸城桜田門外で水戸浪士らに登城途中を襲撃され殺害された(桜田門外の変)。直弼は,国学,古学,兵学,居合,茶道,和歌などにも,す
26. いいなおすけ【井伊直弼】
国史大辞典
から安政五年以降の失政を追罰されて十万石削減された。→安政の大獄(あんせいのたいごく),→桜田門外の変(さくらだもんがいのへん),→将軍継嗣問題(しょうぐんけい
27. 井伊直弼
日本史年表
庚申③〉 3・3( 3・24 ) 大老井伊直弼、桜田門外で水戸浪士などの襲撃を受け斬殺される( 桜田門外の変 .同年閏3月30日発喪)(水戸藩史料・維新史料綱要
28. いい-なおすけ【井伊直弼】
日本人名大辞典
派を弾圧(安政の大獄)したため,桜田門外で安政7年3月3日水戸・薩摩の浪士らに暗殺された(桜田門外の変)。46歳。号は宗観(そうかん)。著作に「茶湯一会集」など
29. いいなおすけ【井伊直弼】
日本架空伝承人名事典
直弼への反感が強まり、六〇年三月三日、直弼は江戸城桜田門外で水戸浪士らに登城途中を襲撃され殺害された(桜田門外の変)。直弼は、国学、古学、兵学、居合、茶道、和歌
30. いい-なおのり【井伊直憲】
日本人名大辞典
桜田門外で暗殺された父のあと,万延元年近江(おうみ)(滋賀県)彦根藩主井伊家16代となる。桜田門外の変の追罰により10万石を減ぜられ,歴代の京都守護を罷免される
31. いわきたいらじょうあと【磐城平城跡】福島県:いわき市/旧平市地区/磐城平城下
日本歴史地名大系
。信正は幕府の寺社奉行・若年寄を経て、万延元年(一八六〇)老中となり、外国事務専掌となる。桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺された後、久世広周とともに幕末の幕政を
32. いわきたいらはん【磐城平藩】
国史大辞典
は老中にまですすんでいる。このおり、外国事務取扱を命ぜられて一万石を加増された。同年三月、桜田門外の変によって、大老井伊直弼が暗殺されたのち、老中筆頭となり、公
33. 岩倉具視画像
日本大百科全書
「神州萬歳堅策」を起草、内奏し、攘夷じょういのための武備充実を主張した。1860年(万延1)桜田門外の変で大老井伊直弼いいなおすけが殺害されたのち、幕府が公武合
34. うつきろくのじょう【宇津木六之丞】
国史大辞典
彼の書いた『公用方秘録』は政界の内面を衝き、大老の苦衷を伝える幕末史研究の貴重資料である。桜田門外の変後、文久二年(一八六二)政変により彦根に押送、八月禁錮を命
35. うらすむら【浦須村】茨城県:新治郡/八郷町
日本歴史地名大系
藤田東湖らの勤皇家と交わりをもった。同一四年に還俗し大坂へ出て和学を講じていたが、万延元年(一八六〇)桜田門外の変に参加した水戸浪士を隠匿した科で捕らえられ、江
36. えちぐん【愛知郡】画像
国史大辞典
藩領となり、わずかに若干の旗本領と金剛輪寺・百済寺・長命寺などの寺領があるだけであったが、桜田門外の変のあと文久二年(一八六二)に彦根藩領の一部分が幕府の直轄に
37. えちぐん【愛知郡】滋賀県
日本歴史地名大系
天保郷帳では村数一一七、高六万四千六六石余。旧高旧領取調帳では村数一一六、高六万四千八四五石余。桜田門外の変ののち、文久二年(一八六二)彦根藩領は一〇万石減知と
38. えちごのくにながおかはんりょうかんせいさんねんいっき【越後国長岡藩領寛政三年一揆】
国史大辞典
越後各地に同様の事件が「天料の私領渡阻止」運動となって発生するが、私領渡阻止が成功するのは、桜田門外の変以後である。主要関係史料として『公料私領村替之事』(『牧
39. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
外国奉行設置。9月 安政の大獄1859(安政6)5月 オールコック来日1860(万延1)3月 桜田門外の変1862(文久2)1月 坂下門外の変。8月 生麦事件1
40. 江戸城 18[別刷図版]画像
国史大辞典
大老井伊直弼の行列が登城のためこの門外にさしかかった時、水戸浪士らの襲撃をうけ殺害された事件は、桜田門外の変として有名である。 46 三宅坂を下った辺の濠端、井
41. おおたすけもと【太田資始】
国史大辞典
直弼から寛大に過ぎると批判され、同六年七月老中を辞任し、ついで慎を命ぜられた。翌万延元年(一八六〇)三月桜田門外の変がおこり、老中久世広周・安藤信正の執政が実現
42. おおはしとつあん【大橋訥庵】画像
国史大辞典
機に、一時江戸郊外の小梅村に隠栖したが、大老井伊直弼の条約違勅調印に憤激して再び国事に奔走、桜田門外の変以後は志士の間に隠然たる勢力をもつようになった。文久元年
43. おかべ-さんじゅうろう【岡部三十郎】
日本人名大辞典
1818−1861 幕末の武士。文政元年生まれ。常陸(ひたち)水戸藩士。桜田門外の変では見張り役をつとめる。のち捕らえられ文久元年7月26日斬罪に処された。44
44. 岡本黄石
日本大百科全書
多くの志士と交わって尊攘そんじょう思想の影響を受け、藩主井伊直弼なおすけに忌まれ、退けられていたが、桜田門外の変(1860)後、藩政に復帰して混乱を収め、62年
45. おかもとこうせき【岡本黄石】
国史大辞典
黄石の尊攘思想が直弼に忌まれて疎外された。万延元年(一八六〇)期満ちて帰藩しようとしたとき、たまたま桜田門外の変が起って藩士が動揺したが、とどまって藩士を鎮撫し
46. おかもと-こうせき【岡本黄石】
日本人名大辞典
大橋訥庵(とつあん)ら尊攘(そんじょう)派とまじわったため,藩主井伊直弼(なおすけ)にうとまれた。桜田門外の変に際して藩士の鎮静につとめ,藩政を主導。戊辰(ぼし
47. おちこちばし【遠近橋】
国史大辞典
記した書。高橋家は微禄であったが、多一郎と時斉昭に抜擢され、郡奉行・奥祐筆頭取などの要職についた。桜田門外の変の計画指導者として知られ、事変後自刃した。『遠近橋
48. おわりのくに【尾張国】愛知県
日本歴史地名大系
ともに大老井伊直弼の違勅調印と将軍継嗣問題を批判し、そのため隠居謹慎を命ぜられた。しかし、桜田門外の変ののちは許されて長州出兵には征長軍の総督に任命され、長州へ
49. 開国画像
日本大百科全書
は全国的に拡大するとともに急進化し、1860年(万延1)3月、水戸浪士らは井伊を暗殺した(桜田門外の変)。 本来、尊王攘夷思想は幕藩体制と対立するものではなかっ
50. かがわけいぞう【香川敬三】
国史大辞典
鯉沼伊織・小林彦次郎とも称す。天保十年(一八三九)十一月、蓮田孝定の三子として出生。安政六年(一八五九)、桜田門外の変を契機に同藩が幕府から圧迫されると、同志と
「桜田門外の変」の情報だけではなく、「桜田門外の変」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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大津事件(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
明治二十四年(一八九一)滋賀県大津で護衛巡査が来日中のロシア皇太子を負傷させた事件。湖南事件ともいう。シベリア鉄道起工式に参列する途中来日したロシア皇太子ニコラス=アレクサンドロビッチ(のちの皇帝ニコライ二世)は長崎・鹿児島を経て五月九日京都に入った
和宮降嫁(国史大辞典・日本大百科全書)
十四代将軍徳川家茂と孝明天皇異母妹(仁孝天皇第八皇女)和宮親子内親王との結婚をめぐり万延元年(一八六〇)から文久元年(一八六一)にかけて生じた政治問題。条約勅許問題や安政の大獄以来、江戸幕府と朝廷との関係が悪化したので、幕閣は公武関係融和をめざして
長屋王の変(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
奈良時代の藤原氏による皇親大官排斥事件。聖武天皇は神亀元年(七二四)二月即位し、長屋王を正二位左大臣に任じ、勅して夫人藤原宮子に大夫人の尊称をたてまつった。三月長屋王は宮子の尊称について意見を奏した。すなわち、『公式令』に皇太夫人(天皇の母で夫人の
安政の大獄(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
安政五戊午年(一八五八)から翌年にかけて、大老井伊直弼が将軍継嗣・条約調印の二問題に反対した尊攘派に下した弾圧。戊午の大獄ともいう。十三代将軍徳川家定は凡庸なうえに継嗣がなかったので、早く継嗣を定めて将軍を補佐させ、幕府の基礎を強固にしようとする論が
桜田門外の変(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
万延元年(一八六〇)三月三日水戸・薩摩の十八士が江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺した事件。直弼は安政五年(一八五八)六月勅許を得ずに日米修好通商条約の調印を断行し、違勅問責のために押懸登城した水戸老侯徳川斉昭らの三家の諸侯を処罰したばかりでなく
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「桜田門外の変」は日本の歴史に関連のある記事です。
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桜田門外の変(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
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安政の大獄(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
安政五戊午年(一八五八)から翌年にかけて、大老井伊直弼が将軍継嗣・条約調印の二問題に反対した尊攘派に下した弾圧。戊午の大獄ともいう。十三代将軍徳川家定は凡庸なうえに継嗣がなかったので、早く継嗣を定めて将軍を補佐させ、幕府の基礎を強固にしようとする論が
墾田永年私財法(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
古代の法令。墾田永世私財法・永世私財法・永世私有令などとも呼ばれる。天平十五年(七四三)五月二十七日に「勅」として出された。この勅は、(一)墾田を私財として永年収公しないことを宣言した部分、(二)品位階により墾田地の面積に制限を付し、郡司については
長屋王の変(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
奈良時代の藤原氏による皇親大官排斥事件。聖武天皇は神亀元年(七二四)二月即位し、長屋王を正二位左大臣に任じ、勅して夫人藤原宮子に大夫人の尊称をたてまつった。三月長屋王は宮子の尊称について意見を奏した。すなわち、『公式令』に皇太夫人(天皇の母で夫人の
出羽国(日本歴史地名大系・国史大辞典・世界大百科事典)
出羽の名は「続日本紀」和銅元年(七〇八)九月二八日条に「越後国言、新建出羽郡、許之」とみえるのが初見で、越後国の申請を受けて新たに越後国の北部に出羽郡を置いたと記す。同二年七月一日条には「令諸国運送兵器於出羽柵、為征蝦狄也」とあり、軍事基地として
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