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  11. 長屋王の変

ジャパンナレッジで閲覧できる『長屋王の変』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書

国史大辞典
長屋王の変
ながやおうのへん
奈良時代の藤原氏による皇親大官排斥事件。聖武天皇は神亀元年(七二四)二月即位し、長屋王を正二位左大臣に任じ、勅して夫人藤原宮子に大夫人の尊称をたてまつった。三月長屋王は宮子の尊称について意見を奏した。すなわち、『公式令』に皇太夫人(天皇の母で夫人の者が后位に登る場合の称号)の名が定められているのに照らせば、宮子に大夫人の尊称をたてまつった勅に従うと令制に反することになり、令制に従って宮子に皇太夫人の称をたてまつると、大夫人の称をたてまつった勅に反し、どうすればよいか示してほしい、と述べた。王は藤原氏の栄進を好まなかったので、宮子の尊称について文句を述べたのであろう。天皇は二月の勅を回収し、文では令制どおりに皇太夫人と記し、語では大御祖(おおみおや)とよぶことにした。王が宮子の尊称に文句をつけた事件は、王が藤原氏から好ましくない人物とみられる一因となった。安宿媛(あすかべひめ)は神亀四年閏九月に基皇子を生み、皇子は生後わずか二ヵ月で皇太子に立てられ、天皇と藤原氏(武智麻呂・房前・宇合・麻呂ら)はその成長を期待したが、翌五年九月皇太子は夭折し、周囲は落胆した。しかも同年天皇の夫人県犬養広刀自は安積親王を生んだ。安宿媛に阿倍皇女がいるが、内親王であり、もし安積親王が将来皇太子になるならば、県犬養氏が繁栄し、藤原氏は悲惨なものとなる。そこで藤原氏は宮廷における地位を高める手段として安宿媛を皇后に立てることを計画した。皇后には即位する資格がある。といっても令制では皇族でなければ皇后になることはできないし、安宿媛を立后させることに対し皇族と貴族の反対が予想され、特に強く反対するのは長屋王であることは、王が政界で最高の地位にあり、宮子の尊称に文句をつけた一件などから察せられ、藤原氏は王を倒す策をとった。翌神亀六年二月、漆部造君足と中臣宮処連東人は、王が左道を学び国家を傾ける謀反をいだいていると密告した。東人は『続日本紀』の天平十年(七三八)七月丙子(十日)条に「長屋王のことを誣ひ告げたるの人なり」(原漢文)と記される。天皇は前年に基皇子を失い、心情がめいっていたらしく、容易に密告を信じ、藤原宇合らをして六衛府の兵を率い王の佐保宅を囲ませ、舎人親王や新田部親王らは王を窮問し、王は自尽し、その室吉備内親王(草壁皇子の娘)と男子膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王らも自経した。不比等の娘長娥子が王の側室として生んだ安宿王・黄文王・山背王・女教勝らは罪されずに禄を受けたのは、王の滅亡が藤原氏の露骨な自家発展策であったことを物語る。やがて八月五日に天平と改元され、大赦・叙位・〓綿下賜などで人心をひきつけておき、同月十日に安宿夫人(光明子)を皇后に立て(光明皇后)、その立后の宣命では違例な非皇族の女子立后について弁解が述べられている。王の滅亡よりわずか六ヵ月後に強引に立后を実現させた点からも、王が光明立后に反対する人物と見なされていたことが知られる。王は和銅五年(七一二)に文武天皇のため『大般若経』六百巻を書写したが、数年まえに崩御した文武天皇のため何故に写経したのか、その解明が望まれる。王が神亀五年にも両親や聖武天皇・歴代天皇のため『大般若経』六百巻を書写したのは、王の地位が不安定で、そのため聖武天皇の好意を求める意図から行なったのであろうか。王が誣告されたとき「左道」を学んでいたといわれ、左道は道教をさすとの説がみられ、それは妥当かについても検討が必要である。
[参考文献]
直木孝次郎「長屋王の変について」(『奈良時代史の諸問題』所収)、岸俊男「光明立后の史的意義」(『日本古代政治史研究』所収)、井上薫「長屋王の変と光明立后」(『日本古代の政治と宗教』所収)
(井上 薫)


改訂新版 世界大百科事典
長屋王の変
ながやおうのへん

729年(天平1),藤原氏によって長屋王を打倒するためにしくまれた政治的陰謀事件。727年(神亀4)閏9月,聖武天皇と夫人藤原光明子との間に某王(基王とも)が誕生した。この王は次の天皇たるべく翌々月に立太子したが,翌728年9月夭折した。ところがそのころ,聖武天皇のもう一人の夫人県犬養広刀自が安積(あさか)親王を出産し,藤原氏に衝撃を与えた。聖武唯一の皇子である安積親王はやがて立太子し即位する公算が大きく,そうなると藤原氏は将来権力の座を追われかねない。安積親王を暗殺して光明子が次の皇子を出産するのを待つことも考えられるが,いかにも強行手段である上に皇子が生まれるかどうかわからず,生まれても夭折しない保証はないという不安があった。そこで藤原氏は,光明立后の道をえらんだ。日本古来の伝統的な皇后の地位からすると,安積親王が皇太子になっても十分対抗しうるし,場合によっては次の女帝となることも可能であったからである。しかし,それには問題があった。皇后には伝統的に皇族出身者がなるため,光明子の立后には当然反対が出ると予想される点である。その反対の中心人物と目されたのが,当時左大臣として廟堂の首班であった長屋王である。そこで藤原氏によって,長屋王の打倒が計画された。729年2月10日,左京人の漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)と中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまんど)の2人が,長屋王はひそかに左道を学び,国家を傾けんとしていると密告した。その夜ただちに長屋王の宅が包囲され,翌日訊問が行われ,2月12日には早くも自尽が命ぜられた。弟の鈴鹿王はじめ大部分はゆるされた。事件の動揺がおさまった6月,藤原麻呂が大夫(長官)である左京職から,背中に〈天王貴平知百年〉という瑞字のある亀が献上され,これを機に8月に天平と改元され,つづいて光明子の立后が実行された。ここに藤原氏は目的を達したのである。以後,藤原氏は光明皇后とその4兄弟を中心に政界を領導していった。
[栄原 永遠男]

[索引語]
藤原氏 長屋王 安積(あさか)親王 光明皇后


日本大百科全書(ニッポニカ)
長屋王の変
ながやおうのへん

729年(天平1)2月に起こった政変。左大臣長屋王が謀反を計画しているとの告発を受け、兵が王邸を包囲し訊問の結果、王は自殺。妻の吉備内親王 (きびないしんのう)、子の膳夫王 (かしわでおう)、桑田王、葛木王 (かずらきおう)、鉤取王 (かぎとりおう)らも後を追い、夫妻は生馬(生駒)山 (いこまやま)に葬られた。縁坐した者も少数はいたが、まもなく王の兄弟姉妹、妻子をはじめ関係者は許され、事件は急速に集結した。これは聖武天皇と夫人 (ぶにん)藤原光明子 (ふじわらのこうみょうし)(のちの光明皇后)との間に生まれた皇太子基王 (もといおう)(某王との説も)が前年に死去する一方、別の夫人県犬養広刀自 (あがたいぬかいのひろとじ)が安積親王 (あさかしんのう)を生んだ状況下で、安積立太子を阻むとともに第2子誕生を期待して、光明子立后 (りっこう)をめざす藤原氏が、反対派と目される長屋王を排除するために起こした事件とみられる。同年8月、神亀 (じんき)から天平に改元したのち光明子は皇后となった。なお長屋王邸は平城京左京3条2坊にあり、事件後それは国家に没収され、立后に伴って光明皇后の宮になったことが、出土木簡 (もっかん)によって判明している。

[舘野和己]

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1. 長屋王の変
日本大百科全書
729年(天平1)2月に起こった政変。左大臣長屋王が謀反を計画しているとの告発を受け、兵が王邸を包囲し訊問の結果、王は自殺。妻の吉備内親王きびないしんのう、子の
2. 長屋王の変
世界大百科事典
729年(天平1),藤原氏によって長屋王を打倒するためにしくまれた政治的陰謀事件。727年(神亀4)閏9月,聖武天皇と夫人藤原光明子との間に某王(基王とも)が誕
3. ながやおうのへん【長屋王の変】
国史大辞典
る。 [参考文献]直木孝次郎「長屋王の変について」(『奈良時代史の諸問題』所収)、岸俊男「光明立后の史的意義」(『日本古代政治史研究』所収)、井上薫「長屋王の変
4. あすかべおう【安宿王】
国史大辞典
生没年不詳 奈良時代の皇族。長屋王の子。母は藤原不比等の女。そのため長屋王の変で、罪を免れた。天平九年(七三七)従五位下。玄蕃頭・治部卿・中務大輔・播磨守兼迎
5. あすかべおう【安宿王】
日本人名大辞典
?−? 奈良時代,長屋王の子。母は藤原不比等(ふひと)の娘。長屋王の変の際は母の縁で罪をまぬかれ,玄蕃頭(げんばのかみ),治部卿,播磨守(はりまのかみ),讃岐(
6. いしかわのいわたり【石川石足】
国史大辞典
の子。和銅元年(七〇八)に正五位下で河内守となり、以後諸官を歴任。天平元年(七二九)二月、長屋王の変に際して多治比県守・大伴道足らとともにかりに参議となった。時
7. いしかわの-いわたり【石川石足】
日本人名大辞典
(とよなり)の父。河内守(かわちのかみ),大宰大弐(だざいのだいに)をへて,左大弁に再任。長屋王の変のとき権(ごんの)参議となり,鈴鹿王(すずかおう)の宅に派遣
8. かぎとりおう【鉤取王】
日本人名大辞典
月12日父が国家転覆をはかっていると密告されて自刃(じじん)したとき,母とともに自殺した(長屋王の変)。
9. かしわでのおう【膳王】
日本人名大辞典
長屋王の王子。母は吉備(きびの)内親王。神亀(じんき)元年(724)従四位下をさずけられる。長屋王の変に連座して,母とともに神亀6年2月12日自殺した。「万葉集
10. きの-さいもち【紀雑物】
日本人名大辞典
。紀伊保(いほ)・益女(ますめ)の父。神亀(じんき)5年(728)外従五位下となる。6年の長屋王の変では,藤原宇合(うまかい)の指揮下で右衛士佐(うえじのすけ)
11. 吉備内親王
日本大百科全書
その子女はみな皇孫の列に加えられた。724年(神亀1)二品にほんに昇叙。729年(天平1)長屋王の変に連座し、王とともに子の膳夫かしわで王、桑田王、葛木かずらき
12. 吉備内親王
世界大百科事典
皇孫の待遇をうけることとなり,724年(神亀1)には三品から二品に進んだが,729年2月の長屋王の変に捕らえられて処刑され,夫の長屋王や子息の膳夫王,桑田王,葛
13. きびのないしんのう【吉備内親王】
日本人名大辞典
−729 奈良時代,長屋王の妃。父は草壁皇子。母は元明天皇。神亀(じんき)6年2月12日夫が長屋王の変で死罪となったとき,子の膳(かしわで)王,鉤取(かぎとり)
14. きぶみおう【黄文王】
国史大辞典
?―七五七 奈良時代の皇族、長屋王の子、安宿王の弟。母は藤原不比等の女であったため、長屋王の変でも特に不死を賜わった。天平十一年(七三九)正月従四位下、同十二
15. きぶみおう【黄文王】
日本人名大辞典
?−757 奈良時代,長屋王の王子。母が藤原不比等(ふひと)の娘だったため,長屋王の変では助命され,従四位上,散位頭(かみ)にすすむ。のち橘(たちばなの)奈良麻
16. きょうしょう【教勝】
日本人名大辞典
大臣であった父は藤原氏の密告で聖武(しょうむ)天皇から謀反をうたがわれ自刃(じじん)した(長屋王の変)。教勝ら4人兄妹は,母が藤原不比等(ふひと)の娘であったた
17. 光明皇后
日本大百科全書
り、724年(神亀1)首親王が即位して聖武天皇となるとともに夫人となり、729年(天平1)長屋王の変の後まもなく臣下の女としては異例の皇后となったが、当時皇后は
18. 光明皇后
世界大百科事典
であったことに着目し,安宿媛の立后を画策した。そのため反対派の長屋王を誣告によって排除し(長屋王の変),三千代の出身地河内国古市郡から瑞亀を献上させて天平と改元
19. こうみょうこうごう【光明皇后】画像
国史大辞典
彼女は夫人となった。同四年皇子が生まれ直ちに立太子したが、期待を裏切って翌年夭折した。ついで長屋王の変のあと、天平元年(七二九)八月それまでの慣習を破って臣下と
20. こうみょうこうごう【光明皇后】
日本架空伝承人名事典
であったことに着目し、安宿媛の立后を画策した。そのため反対派の長屋王を誣告によって排除し(長屋王の変)、三千代の出身地河内国古市郡から瑞亀を献上させて天平と改元
21. 巨勢宿奈麻呂
世界大百科事典
奈良時代前期の貴族。生没年不詳。少麻呂とも表記。728年(神亀5)外従五位下。729年(天平1)長屋王の変に際して窮問使となる。時に少納言。733年(天平5)従
22. こせの-すくなまろ【巨勢宿奈麻呂】
日本人名大辞典
?−? 奈良時代の官吏。少納言在任中の神亀(じんき)6年(729)長屋王の変がおきたとき,舎人(とねり)親王らとともに王のもとに派遣され,尋問にあたる。のち左少
23. こだい【古代】画像
国史大辞典
しく、天平元年(七二九)ついに藤原氏の策動によって逆謀のかどで滅ぼされることになった。この長屋王の変以後は、藤原武智麻呂(むちまろ)ら四子弟の時代、その後天平末
24. ごんかん【権官】
国史大辞典
令の官制に規定された以外の官の一つ。権とはカリ(仮)の意味で、天平元年(七二九)二月、長屋王の変にあたって、多治比県守・石川石足(いわたり)・大伴道足が「権(
25. さみの-むしまろ【佐味虫麻呂】
日本人名大辞典
もたらされた甘子(かんし)(ミカンの一種)の種子をうえて結実させたことにより従五位下。6年長屋王の変のとき,六衛(りくえ)府の兵をひきい,王の邸宅をかこむ。のち
26. 聖武天皇
世界大百科事典
皇后にしようとした。そして,これに強硬に反対すると予想される長屋王を陰謀によって729年2月に葬り(長屋王の変),同年8月に光明立后を強行した。 天皇の母の宮子
27. しょうむてんのう【聖武天皇】
国史大辞典
安積皇子の出生と重なって、宮中の空気は微妙に動かざるをえなかった。天平元年(七二九)二月の長屋王の変、同八月の光明子の立后という風に事態は進んでゆくが、天皇につ
28. しょうむてんのう【聖武天皇】
日本人名大辞典
母は藤原不比等(ふひと)の娘宮子。元正(げんしょう)天皇の譲位をうけ即位。蝦夷(えみし)の反乱,長屋王の変,天然痘の大流行,藤原広嗣(ひろつぐ)の乱など,政情・
29. 続日本紀 1 321ページ
東洋文庫
用いる規定がある(喪葬令8葬 送具条)。三 子・孫 天平宝字七年十月十七日条の藤原弟 貞(山背王)の発伝に、長屋王の変に当たり、 安宿王・黄文王・山背王と娘の教
30. 続日本紀 2 5ページ
東洋文庫
むさまを示す史料が明示されているのである。 政治に関しては、たとえば天平元年二月におこった長屋王の変の後日談として、つぎの記事が九年後の天平十年七月十日の条(本
31. 続日本紀 2 59ページ
東洋文庫
売官の一種である。そのため の費用を続労銭という。曼 黄文王 長屋王の子。母は藤原不比等の娘。 長屋王の変に際し、母の縁で死をまねがれた。 天平十一年正月十三日
32. 続日本紀 2 100ページ
東洋文庫
事情に応じて罪名を定 めて〔罰せよ〕。 また采女は、今後郡ごとに一人を貢進ぜよ。 六月丁丑(四日) 〔長屋王の変に連坐して位を奪われていた〕上毛野朝臣宿奈麻呂を
33. 鈴鹿王
世界大百科事典
84年の誕生で,ほぼ計算に合う。726年(神亀3)従四位上,728年ころ大蔵卿,729年兄長屋王の変に座したが,特赦された。730年正四位上,731年参議兼大蔵
34. すずかおう【鈴鹿王】
国史大辞典
神亀三年(七二六)従四位上に進み、五年ころ大蔵卿とある(『家伝』下)。天平元年(七二九)二月兄長屋王の変に坐したが、赦免され、三月正四位上にのぼった。三年諸司の
35. すずかおう【鈴鹿王】
日本人名大辞典
奈良時代の公卿(くぎょう)。天武(てんむ)天皇の孫。高市(たけちの)皇子の第2王子。神亀(じんき)6年兄の長屋王の変に連座したがゆるされ,天平(てんぴょう)3年
36. そうかん【惣管】
国史大辞典
かれ、参議がその任にあたった。惣管・鎮撫使の設置は当時の政情不安や治安問題と関係があるが、長屋王の変や光明子立后がその背景にあったとみるべきであろう。惣管は帯剣
37. 多治比県守
世界大百科事典
節征夷将軍に任ぜられた。721年帰京し,中務卿。729年(天平1)大宰大弐の任にあるとき,長屋王の変によって,権(かり)に参議となり,さらに民部卿となった。73
38. たじひのあがたもり【多治比県守】
国史大辞典
て節刀を賜わり渡唐、翌二年帰朝。武蔵守・按察使・持節征夷将軍・中務卿などを歴任し、天平元年長屋王の変に際し、権に参議となる。このころ大宰大弐より民部卿に遷り、変
39. たじひのいけもり【多治比池守】
国史大辞典
杖を賜わる。この時七十歳とすれば、生年は斉明天皇二年(六五六)となる。天平元年(七二九)の長屋王の変には、長屋王窮問の使者となる。翌天平二年九月に没した。 (直
40. たじひの-いけもり【多治比池守】
日本人名大辞典
大宰帥(だざいのそち)などをへて大納言となり神亀(じんき)4年(727)従二位にすすむ。6年の長屋王の変では長屋王の窮問使をつとめた。天平(てんぴょう)2年9月
41. 舎人親王
日本大百科全書
系図一巻を撰上せんじょうした。不比等亡きあと知太政官事に任ぜられ、やがて729年(天平1)に起きた長屋王の変には王の罪を糾明し、ついで光明こうみょう皇后の冊立さ
42. 舎人親王
世界大百科事典
政官事となる。724年(神亀1)聖武天皇の即位に封500戸を増し,729年(天平1)左大臣長屋王の変では王の窮問にあたり,さらに光明子立后の宣命を宣した。735
43. ないようととくしつ【内容と特質】 : 奈良時代
国史大辞典
治体制における私的原理の増大と相まって、天平初年以降絶えず政局に波瀾を捲き起す結果となり、長屋王の変、藤原広嗣の乱、橘奈良麻呂の乱、恵美押勝(えみのおしかつ)の
44. ながやおう【長屋王】
日本架空伝承人名事典
朝廷の実力者。聖武天皇即位とともに正二位左大臣となり、大きな政治力をもった。しかし、藤原氏の陰謀による長屋王の変によって自害させられた。一九八六年(昭和六一)か
45. 長屋王[文献目録]
日本人物文献目録
本達雄『長屋王 日本古代政治史のための断章』北山茂夫『長屋王時代 万葉集の周辺』川崎庸之『長屋王の変について』直木孝次郎
46. ながやおうのはか・きびないしんのうのはか【長屋王墓・吉備内親王墓】奈良県:生駒郡/平群町/梨本村
日本歴史地名大系
一二日、王は妻や王子らとともに自害した。「左道を学んで国家を傾ける者」との罪を糾問されたためで、長屋王の変といわれる。翌日、王夫妻の屍は「生馬山」に葬られた。長
47. 奈良時代画像
日本大百科全書
朝廷は藤原宇合うまかい(不比等三男)に兵を率いて長屋王の邸を囲ませ、王は家族とともに自殺した。長屋王の変という。半年後の同年8月に藤原氏出身の安宿媛が皇后となり
48. 奈良時代
世界大百科事典
まず排除する必要があると考え,無実の罪をきせて王とその妃吉備内親王らを自殺させた。729年の長屋王の変である。やがて事件が落着すると,瑞亀の献上によって天平と改
49. ならじだい【奈良時代】
国史大辞典
治体制における私的原理の増大と相まって、天平初年以降絶えず政局に波瀾を捲き起す結果となり、長屋王の変、藤原広嗣の乱、橘奈良麻呂の乱、恵美押勝(えみのおしかつ)の
50. 奈良時代(年表)
日本大百科全書
神亀5〔天皇〕聖武)8月 中衛府を置く。9月 皇太子没す729(天平1〔天皇〕聖武)2月 長屋王の変。8月 藤原光明子皇后となる。11月 京畿内班田司任命730
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