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  11. 和宮降嫁

和宮降嫁

ジャパンナレッジで閲覧できる『和宮降嫁』の国史大辞典・日本大百科全書のサンプルページ

国史大辞典
和宮降嫁問題
かずのみやこうかもんだい
十四代将軍徳川家茂と孝明天皇異母妹(仁孝天皇第八皇女)和宮親子内親王との結婚をめぐり万延元年(一八六〇)から文久元年(一八六一)にかけて生じた政治問題。条約勅許問題や安政の大獄以来、江戸幕府と朝廷との関係が悪化したので、幕閣は公武関係融和をめざして和宮を家茂の夫人に迎えようとはかった。万延元年三月の大老井伊直弼暗殺(桜田門外の変)後、幕閣は将軍家の権威回復のためにも降嫁をいっそう切望した。同年四月十二日、京都所司代酒井忠義は老中安藤信正・久世広周らの命をうけ関白九条尚忠と交渉を始めた。孝明天皇は和宮が有栖川宮熾仁親王と婚約していること、義理ある和宮を蛮夷来集の地関東に行かせるに忍びないこと、などを理由に断わったが、忠義は申請を繰り返した。これに対し侍従岩倉具視は降嫁とひきかえに条約破棄、重要政務の事前奏聞などを幕府に約束させれば朝廷の政治的地位が上昇すると主張した。天皇はこの意見を容れ、六月二十日、蛮夷拒絶を条件に申請に内諾を与えた。七月二十九日、幕閣は「七八ヶ年乃至十ヶ年」後の攘夷を約束した。その後、和宮説得に手間どり、またプロシア・スイス・ベルギーとの条約締結の奏請が天皇を怒らせるなどの紆余曲折があったが、十月十八日、降嫁は勅許され、翌文久元年十月二十日、和宮は京都発、同二年二月十一日、江戸城で婚儀が行われた。ところが、降嫁にかけた幕府の期待は裏切られた。幕府は、降嫁申請によって朝廷の政治的優位を公然と承認したとみなされ、また攘夷実行の約束によって外交主体としての職責をうたがわれ、その政治的地位を低下させた。さらに、同二年正月十五日、降嫁を強制したとして安藤老中は尊攘浪士に襲撃され(坂下門外の変)、また朝廷内では公武合体派廷臣久我建通・千種有文・岩倉具視・富小路敬直および今城重子・堀河紀子(いわゆる四奸二嬪)が追放され、代わって尊攘激派の勢力が台頭、幕府の立場は悪化した。→公武合体運動(こうぶがったいうんどう),→親子内親王(ちかこないしんのう)
[参考文献]
宮内省編『孝明天皇紀』三、同編『岩倉公実記』上、維新史料編纂会編『維新史』二
(毛利 敏彦)


日本大百科全書(ニッポニカ)
和宮降嫁
かずのみやこうか

1862年(文久2)2月に実現した、孝明 (こうめい)天皇妹和宮親子 (ちかこ)内親王と14代将軍徳川家茂 (いえもち)との結婚問題。1858年(安政5)6月の、日米修好通商条約の調印と、紀伊家の徳川慶福 (よしとみ)(のちの家茂)の将軍継嗣 (けいし)決定などにより生じた朝幕関係の悪化を修復するため、大老井伊直弼 (いいなおすけ)の側近長野義言 (よしとき)(主膳 (しゅぜん))らが、「公武合体」を目ざして、和宮の江戸降嫁を画策し始めた。幕府からの公式な申し入れは、井伊直弼暗殺(桜田門外の変)後の60年(万延1)4月、京都所司代酒井忠義 (ただよし)によって、関白九条尚忠 (ひさただ)に対して行われた。孝明天皇は、和宮がすでに6歳のときに有栖川宮熾仁 (ありすがわのみやたるひと)親王と婚約をしていることなどから反対したが、再三の要請を受け、いったん許可して取り消すなどの曲折を経たものの、その年末に降嫁決定となった。翌61年10月、和宮は京都をたち、江戸入り、62年2月11日、将軍家茂との婚儀が行われた。その実現に尽力した老中安藤信正 (のぶまさ)は、水戸浪士や宇都宮の志士らによって同年1月15日坂下門外に襲撃され、負傷して、まもなく辞職した。将軍家茂は、4年半後の66年(慶応2)7月、長州再征の途次、大坂城で病死、その12月には孝明天皇も急死、幕府も崩壊に向かい、「公武合体」のための降嫁は一時的な政略に終わった。和宮降嫁は、当初から、幕府の中枢部から朝廷への働きかけによるものであったため、天皇を動かして攘夷 (じょうい)の実現を迫る各地の激派の志士には、幕府の延命策と受け取られ、彼らの激しい反発を受け続けた。その後、文久 (ぶんきゅう)三年八月十八日の政変を経て、公武合体構想は、朝廷とも結びながら幕政改革を計ろうとした雄藩連合の参預会議によって動き出すが、63~64年(文久3~元治1)の一時的のものに終わった。

[河内八郎]

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検索ヒット数 97
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検索コンテンツ
1. 和宮降嫁
日本大百科全書
その12月には孝明天皇も急死、幕府も崩壊に向かい、「公武合体」のための降嫁は一時的な政略に終わった。和宮降嫁は、当初から、幕府の中枢部から朝廷への働きかけによる
2. かずのみやこうかもんだい【和宮降嫁問題】
国史大辞典
十四代将軍徳川家茂と孝明天皇異母妹(仁孝天皇第八皇女)和宮親子内親王との結婚をめぐり万延元年(一八六〇)から文久元年(一八六一)にかけて生じた政治問題。条約勅
3. あつみぐん【厚見郡】岐阜県:美濃国
日本歴史地名大系
一方加納町は城下町でもあったが、中山道の宿場町でもあり、人や物の往来が多かった。幕末には皇女和宮降嫁行列や赤報隊事件の舞台となった。〔近代〕明治五年(一八七二)
4. あねがこうじきんとも【姉小路公知】
国史大辞典
尊攘派公家として、次第に志士からも嘱目され、文久二年(一八六二)八月実美ら十二人と連署して、和宮降嫁に尽力した久我建通・岩倉具視らを弾劾した。九月には実美を正使
5. あねがこうじのつぼね【姉小路局】
国史大辞典
嘉永六年(一八五三)家慶の没後は落飾して勝光院を称し、毛利家の檜屋敷(赤坂九丁目)に隠居した。和宮降嫁を上洛して斡旋。のち本所の進家に養われる。明治十三年(一八
6. あねがこうじのつぼね【姉小路局】
日本人名大辞典
上臈(じょうろう),年寄となり権勢をふるう。家慶没後は,剃髪(ていはつ)して勝光院と称し,のち和宮降嫁の実現に奔走した。明治13年8月9日死去。86歳。京都出身
7. あらまち【新町】群馬県:高崎市/高崎城下
日本歴史地名大系
治維新まで新町より人夫を出して行われた。幕末近くになると度々の火災や、文久元年(一八六一)の和宮降嫁道中での負担などで困難を極め、同二年伝馬役助成のため芝居・見
8. あんどう-のぶまさ【安藤信正】画像
日本人名大辞典
安政7年老中となり,井伊直弼(いい-なおすけ)の死後は老中筆頭として,久世広周(くぜ-ひろちか)と和宮降嫁による公武合体策をすすめる。文久2年坂下門外の変で負傷
9. いまき-しげこ【今城重子】
日本人名大辞典
孝明天皇の側近として堀河紀子(もとこ),岩倉具視(ともみ),義兄の千種有文(ちぐさ-ありふみ)らと和宮降嫁につくす。尊攘(そんじょう)派に四奸二嬪(しかんにひん
10. 岩倉具視
世界大百科事典
日米修好通商条約の勅許に88人の公家の〈列参(集団行動)〉で反対し,また,公武合体をとなえて和宮降嫁を推進,尊攘派からは久我建通,千種有文,富小路敬直らとともに
11. いわくらともみ【岩倉具視】
国史大辞典
家八十八人の列参を画策して堀田を窮地に追いこんだ。このとき「神州万歳堅策」を内奏した。ついで和宮降嫁問題がおこると、公武合体による朝権回復の策として孝明天皇を動
12. うきた-いっけい【浮田一〓
日本人名大辞典
,ペリー来航のときには「神風夷艦を覆するの図」で攘夷(じょうい)論を鼓吹,「婚怪草紙絵巻」で和宮降嫁を風刺した。安政6年11月14日死去。65歳。京都出身。名は
13. 浮田一蕙
世界大百科事典
獄の際に捕らえられ,翌年釈放の後,京都で没。代表作《婚怪草紙》(1858)は公武合体策による和宮降嫁の策謀を風刺した作品として注目される。歴史画には《子日遊図屛
14. うごう-げんば【宇郷玄蕃】
日本人名大辞典
文政6年12月16日生まれ。主人の関白九条尚忠の意向をうけて,同僚の島田左近とともに佐幕派として安政の大獄や和宮降嫁問題などで活躍。そのため文久2年閏(うるう)
15. うとうざかむら【謡坂村】岐阜県:可児郡/御嵩町
日本歴史地名大系
謡坂集落の東、街道南側に唄清水がある。東へ坂を上った津橋との分水嶺、物見峠は御殿場跡ともよばれ、皇女和宮降嫁の際御殿が建てられた地。西方小原境の石畳に面した丘は
16. うめざわ【梅沢】神奈川県:中郡/二宮町/山西村地図
日本歴史地名大系
大名・諸家より寄付金を募っている(「御殿普請御目録奉加帳」同文書)。文久二年(一八六二)には和宮降嫁の際の休憩所と決定し、御用場所の新規の普請や破損個所の修理を
17. えしま【絵島】
日本人名大辞典
幕末-明治時代,和宮(かずのみや)の乳母(めのと)。文化6年4月生まれ。弘化(こうか)4年からつかえる。和宮降嫁では島田左近ら賛成派にくみし,反対派の橋本実麗(
18. 王政復古(日本)画像
日本大百科全書
武合体」が説かれるようになる。老中安藤信正あんどうのぶまさが実現させた1862年(文久2)の和宮降嫁かずのみやこうかは、天皇側からは幕府の専断にたがをはめ、攘夷
19. おおいしゅく【大井宿】岐阜県:恵那市/大井村
日本歴史地名大系
幕末維新期の中山道は皇女和宮の降嫁や水戸天狗党・赤報隊・官軍の通過などがあり、宿の負担は大きかった。和宮降嫁の際には、不当な助郷負担を怒り、野井村百姓代熊崎新三
20. おおつしゅく【大津宿】滋賀県:大津市/大津町
日本歴史地名大系
ったと思われる。諸大名の休泊も多く、その業務分担は手慣れたものであろうが、さすがに文久二年の和宮降嫁の際には宿割や掃除などの諸準備に多忙をきわめ、無事出立を完了
21. 大橋訥菴
世界大百科事典
た頼三樹三郎の死体を葬るなど有志としての行動があった。井伊暗殺には関係しなかったが,その後の和宮降嫁一件では反対運動に連なり,次いで老中安藤信正襲撃計画では中心
22. おおはしとつあん【大橋訥庵】画像
国史大辞典
、桜田門外の変以後は志士の間に隠然たる勢力をもつようになった。文久元年(一八六一)七月幕府の和宮降嫁奏請の報が伝えられると、公武合体に反対して王政復古の策論を密
23. おがさわら-せいむ【小笠原清務】
日本人名大辞典
幕末-明治時代の有職(ゆうそく)家。弘化(こうか)3年11月生まれ。小笠原流諸礼式家。文久2年和宮降嫁の礼式をつかさどる。明治12年アメリカ前大統領グラント来日
24. おばまし【小浜市】福井県
日本歴史地名大系
安政五年京都所司代となり京都で安政の大獄を指揮し、公武合体政策のなかで岩倉具視・千種有文らと和宮降嫁を成就させるなど活発に動いたが、文久二年(一八六二)六月所司
25. 小浜藩
世界大百科事典
分封したことによって,領地高は10万3500石となった。京都所司代として,公武融和政策のなかで和宮降嫁に奔走した13代忠義は,1862年(文久2)1万石を加増さ
26. かいのくに【甲斐国】山梨県
日本歴史地名大系
成候」と農民に受止められるまでになっていた(「源七郎雑記」岩間家文書)。文久元年(一八六一)和宮降嫁に際して中山道宿への当分助郷が村々に命じられ(「和宮下向ニ付
27. かすがせんあん【春日潜庵】
国史大辞典
以来洛北紫野雲林院村の別宅に幽居し、文久二年(一八六二)十一月大赦にあい許されたが、内大臣建通は和宮降嫁事件に連坐、すでに落飾・幽居していた。明治元年(一八六八
28. からぎぬ【唐衣】画像
国史大辞典
の唐衣を復活し、儀礼の行事の所用として、その様式を伝えている。近代調進の唐衣の代表的遺品は、和宮降嫁の料であり、明治時代以降の唐衣と袖付の仕立てを相違し、熊野の
29. かわはらがやむら【川原ヶ谷村】静岡県:三島市
日本歴史地名大系
れも高さ二尺)が修理された(「箱根山内石道破損修覆仕様帳」後藤家文書)。文久元年(一八六一)和宮降嫁の行列通過に備えて当村と谷田村に石道修造が申付けられている(
30. かわもと-もりたろう【河本杜太郎】
日本人名大辞典
天保(てんぽう)11年生まれ。芳野金陵に儒学をまなび,久坂玄瑞(くさか-げんずい)らとまじわる。和宮降嫁を画策したとして,文久2年1月15日水戸浪士平山兵介らと
31. きくすいほこちょう【菊水鉾町】京都市:中京区/明倫学区地図
日本歴史地名大系
幕末には金剛流能師野村直寛が住んだ。直寛は仙洞御所及禁裏御所御内々御能掛を務め、文久元年(一八六一)一〇月皇女和宮降嫁なごりの演能で蝉丸を演じた。現在の金剛宗家
32. 京都守護職始末 1 旧会津藩老臣の手記 19ページ
東洋文庫
幕府に廃帝の企てがあるとの風説に ついて詰問した。将軍はその企てがない との誓書を出した。また和宮降嫁の条件 である攘夷の期限と方略を質問したのに たいし、老中
33. 京都守護職始末 1 旧会津藩老臣の手記 69ページ
東洋文庫
公卿の中心人物と目され、尊攘派志士の 非難をうけていた。久我建通、岩倉具視、 千種有文、富小路敬直は、和宮降嫁の実 現に尽力した責任者として目されていた。 少将
34. 京都守護職始末 1 旧会津藩老臣の手記 6ページ
東洋文庫
長州藩保守派の手により暗殺された。 中山忠能 1809-88公卿。攘夷派の中心人物で,議奏,国事掛として和宮降嫁問題などに参画。維新後議定,神祇伯,宣教長官等を
35. 京都守護職始末 1 旧会津藩老臣の手記 5ページ
東洋文庫
薩摩藩士。姉小路公知殺害の嫌疑で逮捕され,自匁した。  ち 千種有文 1815-69公卿。歌人。和宮降嫁問題で尊攘派にねらわれ,文久2年退官。維新後宮内大丞等を
36. 京都守護職始末 1 旧会津藩老臣の手記 3ページ
東洋文庫
1819-64 関宿藩主。嘉永元年老中となる。安政の大獄で井伊大老と合わず,一時辞任したが,のち再任され,和宮降嫁を主唱。文久2年罷免された。 久遍宮朝彦→中川
37. 京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記 211ページ
東洋文庫
ある。岩倉具視朝臣は、一卿のなかで、智略と胆力に富んだ人であったが、らて関東の有司と相談して和宮降嫁を画策し、大た公武の一和を計ろうとして、時の不遇により遂四幽
38. 京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記 3ページ
東洋文庫
益田右衛門介らとともに自刃した。 こがたてみち 久我建通1811-1903公卿。文久2年内大臣となった。和宮降嫁問題で「四好」の1人とされ,罷免されたが,王政復
39. 京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記 1ページ
東洋文庫
大政奉還に際し,斡旋に尽力した。  まさとう 阿部正外 1838-87 白河藩主。嘉永6年禁裡付となり,和宮降嫁に努力,のち神奈川奉行,町奉行等をへて老中となっ
40. くじょう‐ひさただ【九条尚忠】
日本国語大辞典
江戸末期の公家。関白、左大臣。二条治孝の子。輔嗣の養子。法名円真。佐幕派として日米通商条約の勅許や、和宮降嫁の実現に努めたため、尊王攘夷派の怒りを買い、辞職、閉
41. くじょうひさただ【九条尚忠】
国史大辞典
朝幕の乖離を来たすや、尊攘派の指弾を受け、同年九月四日内覧を辞し、翌十月十九日幕府の後楯で内覧に復し、和宮降嫁問題を推進した。しかし爾後の政局はますます紛糾し、
42. くじょう-ひさただ【九条尚忠】
日本人名大辞典
九条輔嗣(すけつぐ)の養子。安政3年関白となり,孝明天皇を補佐する。日米通商修好条約の勅許,将軍継嗣,和宮降嫁などの問題で幕府側にたったため朝廷側の反感をかい,
43. くぜし【久世氏】画像
国史大辞典
再び老中となる。いわゆる安藤・久世のコンビで幕閣の中心となり公武合体運動に力をつくし、ついに和宮降嫁のことに成功した。しかし年来の課題であった幕府の産業統制計画
44. 久世広周
世界大百科事典
受ける。首席老中安藤信正とともに公武合体政策を推進し,62年(文久2)2月には将軍徳川家茂への和宮降嫁を実現させた。しかし,この政策に対する反対も強まり,同年6
45. くぜひろちか【久世広周】画像
国史大辞典
、同年七月露艦対馬占拠事件でのオールコックとの会談など、列強と高まる攘夷論の間に苦慮し、他方和宮降嫁による公武合体に尽力、万延元年十一月御縁組御用掛を命ぜられた
46. こうぶがったいうんどう【公武合体運動】
国史大辞典
の表現であった。公武合体運動は、その歴史的使命を終え、その精神は公議政体論にひき継がれた。→和宮降嫁問題(かずのみやこうかもんだい) [参考文献]毛利敏彦『明治
47. 公武合体論
日本大百科全書
安政あんせいの大獄などにより朝幕関係は険悪化したが、井伊時代に緊張緩和の礎石として画策された和宮降嫁は、桜田門外の変後、老中安藤信正のぶまさによって1862年(
48. こがけ【久我家】画像
国史大辞典
して王政復古を目ざしたが、若年で病没したため、宝暦事件の処分を免れた。また幕末には、建通が、和宮降嫁など公武合体に活躍しすぎたため、勅勘を受けた。久我の一流から
49. こが-たけみち【久我建通】
日本人名大辞典
。一条忠良の子。久我通明の養子。権(ごんの)大納言,議奏をへて,文久2年(1862)内大臣。和宮降嫁に尽力して「四奸」のひとりとみなされ,辞官,出家を命じられた
50. 坂下門外の変
日本大百科全書
受けることになり、水戸藩内では保守派が勢力を得て、攘夷じょうい激派は立場を失った。そこで水戸藩の激派は、和宮降嫁の実現によって幕府の立場を有利にした安藤信正を直
「和宮降嫁」の情報だけではなく、「和宮降嫁」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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