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  11. 承平・天慶の乱

承平・天慶の乱

ジャパンナレッジで閲覧できる『承平・天慶の乱』の国史大辞典・日本大百科全書のサンプルページ

国史大辞典

承平・天慶の乱
じょうへい・てんぎょうのらん
平安時代の承平・天慶年間(九三一―四七)、関東・瀬戸内海でおこった平将門・藤原純友の反乱の総称。天慶の乱ともいう。

〔平将門の乱〕

関東地方では、九世紀中葉以降、国司として下向した中央貴族が、在地の郡司などの豪族と婚姻関係を結び、土着して勢力をふるう傾向が著しく、彼ら相互の抗争や、国司に対する反抗などの動きがおこっていた。将門は、桓武天皇の曾孫で平姓を賜わって上総国に下向した高望王の子の平良持(良将とする説もある)を父とし、父の遺領を受け継いで下総国の猿島郡・豊田郡・相馬郡などを基盤として、伯父の平国香(常陸)・良兼(上総)・良正(下総)らと対峙していたが、良兼と紛争をおこしたのをきっかけに、承平五年には、常陸国の国香や、姻戚関係にあった源護らを攻め、国香を殺し、伯父良正の軍をも常陸国新治郡川曲(かわわ)村に破った。翌年、良兼・良正・貞盛(国香の子)らは連合して将門を攻めたが、将門は屈せず、敗走する良兼らの軍を下野国府にまで追って帰還した。これより先、源護の訴により、源護・平将門らを召喚すべきむねの太政官符が発せられたが、将門は護に先立って上京し、朝廷に自己の立場を陳弁し、承平七年大赦にあって帰国した。同年、将門は、常陸・下総の堺の子飼(こかい)の渡の戦で良兼に敗れ、豊田郡常羽御厩(いくはのみうまや)などの本拠を蹂躙される打撃を受けたものの、反撃して良兼を常陸国真壁郡に破り、さらに猿島郡石井(いわい)の営所に対する夜襲をも撃退した。天慶元年、将門の追跡をのがれて上京した貞盛は、将門を召喚すべきむねの官符を受けて帰国したものの、翌二年良兼が死去し、貞盛は将門に活動を封じられた。こうして将門は、一族との間で激しい抗争を続けたが、一族の多くが下総介・常陸大掾など国衙の官人であったこと、また国衙と対立する関東の土豪で将門の武勇を頼む者が現われてきたことから、その抗争は次第に一族の内紛の域を離れ、国衙への反抗、ひいては国家に対する反乱へと発展した。天慶元年、将門は武蔵国司と足立郡司武蔵武芝との争いに介入し、翌二年十一月には、常陸国の住人藤原玄明(はるあき)の訴えをいれ、兵を率いて常陸国府を攻略し、国司から印鎰を奪い、府内を略奪した。将門は進んで関東全域の支配をくわだて、下野・上野・武蔵・相模の国府を相ついで陥れ、国司を追放し、印鎰を奪って下総に帰還した。『将門記』によると、将門は上野国府においてみずから新皇と称し、王城を下総国に建て、諸国の国司を任じ、左右大臣以下の官を置くことを定めたといわれる。朝廷は将門反乱の報を受けて、天慶三年正月、東海・東山両道の追捕使を補し、ついで藤原忠文を征東大将軍に任じる一方、東海・東山両道に官符をくだし、将門を殺した者を賞するとして土豪らの奮起をはかった。下野国押領使の藤原秀郷は将門追討を決意し、征討軍の東下を待たず、平貞盛・藤原秀郷は連合して将門を急襲、二月十四日、将門は下総国猿島郡の戦いで矢にあたって戦死し、残党も相ついで討伐された。

〔藤原純友の乱〕

瀬戸内海沿岸の地域は、古来海上交通が盛んであり、西国の物資を都に輸送する交通の動脈であった。九世紀後半に入ると、西国では、租税や力役の負担をのがれる農民が、富豪を中心に党をつくって船を襲い、物資を掠奪する動きを示し始め、朝廷はこれらの海賊の追捕に腐心した。藤原純友は、北家長良の孫良範の子で、伊予掾として赴任したまま土着し、伊予の日振島(ひぶりしま)を根拠地とし、船千余艘を率いて各地で掠奪を行なっていた。承平六年、伊予守紀淑人は、宥和政策をとって一時その活動を静めたが、天慶二年、将門の常陸国府襲撃の報が京に達するころから、純友はこれに呼応するように再び活動を始め、同年十二月、摂津国須岐駅で備前介藤原子高を襲撃した。『扶桑略記』に引く『純友追討記』によれば、純友は京への進攻を企図し、その士卒を京中に放ち、連夜放火させて人心の動揺をはかったといい、子高はそれを知って報告のため上京するところを、純友に襲われたのであるという。東西兵乱の報に接した朝廷は、諸社に奉幣し、諸寺に読経・修法を行わせて賊徒の平定を祈るとともに、京の警衛を強化した。翌天慶三年、朝廷は小野好古を山陽道追捕使に補する一方、純友に従五位下の官位を与えて懐柔の政策をとった。その後海賊の跳梁はいよいよ激しく、淡路・讃岐・伊予・備前・備後・阿波・備中・紀伊・大宰府・周防・土佐の各地がつぎつぎに被害を受けた。しかし、将門の敗死によって東方への顧慮を必要としなくなった朝廷は、小野好古を追捕山陽南海両道凶賊使の長官とし、播磨・讃岐の二国に船を造らせるなどの征討の準備を行い、天慶四年二月、帰服した純友の次将藤原恒利の誘導を得た宮道忠用が、兵を率いて伊予の純友の本拠地を攻撃した。純友は大敗して海上にのがれ、五月、大宰府の守備軍を撃破して府内に放火、掠奪した。朝廷は急遽藤原忠文を征西大将軍に任じたが、追捕凶賊使小野好古らは陸海から大宰府に向かい、五月二十日、博多津の決戦で純友の軍は船八百余艘を奪われ、死傷者数百人を出す大敗を喫した。純友は小舟に乗って伊予に逃げ帰ったところを、六月二十日、警固使橘遠保のために討たれ、九月から十月にかけて残党は相ついで捕殺され、乱は鎮圧された。

〔武力の性格〕

『将門記』によると、平将門は、石井など領内の各所に「営所」をもっていた。「営所」は兵具や馬を備えた軍事的拠点で、官牧や厩とも関係が深く、馬の生産・調教やそれに付随する鉄の生産にも係わっていたとみられる。将門はここを拠点に、伴類とよばれる一党を率い、その下に多くの田夫(農民)を隷属させて農業経営にあたる私営田領主であって、このような農業経営のありかたが同時に将門の武力組織でもあった。これは他の土豪の場合も同じであり、戦いがおこると、相手方の伴類・田夫の家を焼き、稲穀の蓄積を失わせることが、その戦力を打ちくだくことにもなった。このような農業経営と武力組織との未分離な状況は、彼らの武力の弱点であって、播種・収穫などの農事のため、兵士を常に戦場にとどめておくことができず、ために緊急のおりに兵士が集まらず、思いのほかの敗北をまねくことがあった。その兵力は数千人にも達したが、主従的結合は弱く、平時の武芸の訓練も十分ではなかったとみられる。緊密な主従関係の上に立つ専門的な武力集団が形成されるのは、十一世紀以降のことであった。他方藤原純友のもとに結集したのは、国衙に対する反抗を軸とする、富豪を中心とした農民・漁民の小集団であったとみられ、将門の武力にくらべると小規模かつ分散的で、機動性には富むものの、武力組織としてはより脆弱であった。しかし、都に近い瀬戸内海でおこった反乱で、京の経済に与える影響も大きかったことから、京の貴族や庶民にはより強烈な衝撃を与えたと考えられる。

〔乱の影響〕

将門・純友の乱は、古代末期における京都の貴族政権に対する反乱のさきがけをなすものであり、画期的な意味をもっている。将門・純友は、京都の政権に対して独立した政治権力を組織するだけの力をもたず、意識の上でも京都の政権を克服できなかったが、乱の鎮圧の主力となった在地土豪は、その後、押領使などの地位を通じて国衙の武力を形成し、さらに京都の政権に武士として奉仕することにより次第にその地歩を固め、源頼朝による武家政権を関東に成立せしめる母胎となった。乱が京都の貴族や庶民に与えた影響も大きく、乱後天慶五年、朝廷が報賽のために行なった石清水臨時祭はのち恒例の行事となり、賀茂行幸もこの年に始まった。天慶八年に京都周辺を風靡した志多羅神信仰や、空也による念仏の盛行も、乱が京都の人々に与えた不安・動揺を背景にしたものとみられよう。将門をめぐっては、十一世紀以降、怨霊思想や地蔵信仰などと結びついた諸種の伝説が形成され、神田明神など、関東地方を中心に、その御霊に対する信仰が後世まで伝えられた。
→平将門(たいらのまさかど),→藤原純友(ふじわらのすみとも)
[参考文献]
『大日本史料』一ノ六・七、大森金五郎『武家時代之研究』一、林陸朗編『論集平将門研究』、北山茂夫『平将門』(『朝日評伝選』三)、林陸朗『古代末期の反乱―草賊と海賊―』(『歴史新書』三)、福田豊彦『平将門の乱』(『岩波新書』黄一六八)、梶原正昭・矢代和夫『将門伝説』、佐伯有清他『研究史将門の乱』
(笹山 晴生)


日本大百科全書(ニッポニカ)

承平・天慶の乱
じょうへいてんぎょうのらん

10世紀に東国と西国でほぼ時を同じくして起こった反乱。主謀者の名をとり、将門 (まさかど)・純友 (すみとも)の乱とも称す。

[森田 悌]

将門の乱

平将門の乱は939年(天慶2)を境に2段階に分かれ、前段階では東国開発領主間の私闘という性格が強かったが、第二段階になると朝廷に対する公然たる反逆となった。東国に土着した鎮守府将軍良将 (よしまさ)の子である平将門は、少年時代上京して藤原忠平 (ただひら)に仕えたのち帰郷して父の後を継ぎ、下総国 (しもうさのくに)猿島 (さしま)郡岩井(茨城県坂東 (ばんどう)市)を本拠とした。その勢力範囲とする下総北西部一帯では伯父 (おじ)国香 (くにか)をはじめとする一族のものも勢力の発展を図っており、相互の関係は円満でなく、931年(承平1)に将門は叔父の良兼 (よしかね)と女性問題や遺領のことで争い、ついで良兼に連なる前常陸大掾 (さきのひたちだいじょう)源護 (まもる)と戦いその子供らを攻め殺し、護を助けた伯父の国香も攻め殺した。当時在京していた国香の子貞盛 (さだもり)は父の死により急いで帰郷し、良兼らと力をあわせ将門に対峙 (たいじ)したが、大敗した。しかし朝廷の喚問を受けた将門の不在中に、良兼は勢力を回復し、帰郷した将門を破り、その妻子を捕らえた。これに対し将門は常陸国(茨城県)へ出かけた良兼を急襲して破り、ふたたび東国に威を振るうようになった。ここまでが第一段階で、当時勢力拡大にしのぎを削っていた私営田領主の争いの域を出ず、中央政府のほうもあまり関心を示さず、ただ治安を乱すということで、追捕 (ついぶ)の官符を出す程度で済ませていた。

 ところが939年2月、武蔵権守 (むさしごんのかみ)興世 (おきよ)王と介 (すけ)源経基 (つねもと)が足立郡司 (あだちぐんじ)武蔵武芝 (たけしば)と争い、それを調停するために将門が武蔵国府に赴き和解に持ち込んだのであるが、手違いで経基の営所を武芝の軍が囲み、驚いた経基は将門が興世王らと謀り自分を殺そうとしていると思い込み、急ぎ上京して興世王と将門を謀反として訴えた。続いて将門は常陸国で国司に反抗し追われて逃げてきた藤原玄明 (はるあき)を庇護 (ひご)し、これが原因して常陸介藤原維幾 (これちか)との間に戦端が開かれ、将門は国府を焼き払い維幾を捕らえ国印 (こくいん)と鎰 (やく)(鍵)を奪ったので、中央政府からみて明らかに反乱となってしまった。このような状況下で反乱を勧める興世王の教唆にのり将門は関八州の制圧に乗り出し、その掠領 (りゃくりょう)に成功し、「新皇 (しんのう)」と称し小律令 (りつりょう)国家の成立を目ざした。朝廷では征東大将軍藤原忠文 (ただふみ)を派遣したが、その東国到着以前に東国の豪族下野 (しもつけ)(栃木県)押領使 (おうりょうし)藤原秀郷 (ひでさと)と平貞盛の連合軍が、将門が農時のため軍を解散したところを襲い、将門を誅殺 (ちゅうさつ)した。

[森田 悌]

純友の乱

藤原純友は権中納言 (ごんちゅうなごん)藤原長良 (ながら)の曽孫 (そうそん)で、伊予掾 (いよのじょう)として赴任し、そのまま任地に土着し、日振島 (ひぶりしま)(愛媛県宇和島市の西方)を根拠に威を振るい、海賊を働いていた。ただし936年(承平6)3月、南海諸国海賊平定の議が持ち上がったときには純友に海賊追討の宣旨が出されているから、この段階の純友は海賊行為をなす一方で政府に協力もするという、微妙な位置にあったらしい。しかるに939年に入ると純友は公然たる反乱に踏み切り、純友の行動を政府に報告しようとした備前介 (びぜんのすけ)藤原子高を襲撃し、子高を捕らえその子を殺した。政府は最初、純友懐柔策に出たが失敗した。純友は讃岐 (さぬき)国府(香川県坂出 (さかいで)市府中町)を襲い、放火、略奪を行った。これに対し政府は小野好古 (よしふる)を長官とする追捕使を派遣したが、完全に撃破することができず、941年には大宰府 (だざいふ)を焼き払われるなどしたので、参議藤原忠文を征西大将軍に任命して鎮圧にあたらせた。この年5月22日、激戦のすえに純友軍を破り、小舟に乗って伊予に逃げ帰った純友を射殺することができた。

 当時人々は将門と純友が通謀して反乱を起こしたと考え恐慌に陥ったが、その事実はなく、将門の公然たる反乱を知った純友が、政府の混乱に乗じ事を起こしたということは考えられるものの確実ではない。この二つの反乱事件は地方政治の紊乱 (びんらん)を露呈し、中央政府に衝撃を与えたが、意外に簡単に鎮圧することができたので、中央貴族に安易感を与えた側面があった。鎮圧軍の組織のあり方から10世紀軍制のあり方を知ることができ、将門軍に組織された従類 (じゅうるい)、伴類 (ばんるい)の分析を通じ、当時の兵士の社会構成史的あり方を追究することができる。

[森田 悌]

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1. 承平・天慶の乱
世界大百科事典
10世紀前半の,東国の平将門の乱,西国の藤原純友の乱を,ほぼ同時に起きた反乱であることから,その事件の起きた年号で並称したもの。→平将門の乱 →藤原純友の乱
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6. あんごじ【安居寺】富山県:東礪波郡/福野町/安居村
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安置したことにちなむという。往古は近辺の谷や田畑となっている辺りに支坊二四ヵ寺があったとされ、承平・天慶の乱の頃には当寺西方の奥山にあたる滝寺に兵火を避けたとい
7. いまかがみ【今鏡】
国史大辞典
文体も源氏式・栄花式に優雅で、問答体は巻頭・巻尾にあるだけで、他は申し訳程度である。また『大鏡』には承平・天慶の乱や刀伊の入寇や貴族の政権争いの劇的活写があるが
8. いわしみずはちまんぐう【石清水八幡宮】画像
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当宮領は神宮寺護国寺別当が管轄したので、宮寺領と呼ばれた。朱雀天皇天慶三年(九四〇)将門・純友の乱(承平・天慶の乱)平定報賽として二十五戸の封戸を寄進されたのを
9. いわしみずはちまんぐう【石清水八幡宮】京都府:八幡市
日本歴史地名大系
、多数の参詣者で賑わう。臨時祭は寛平四年に始まるという賀茂社の臨時祭に準拠し、天慶五年、承平・天慶の乱平定の報賽に宣命・神宝および歌舞を調進し勅使を遣わして行っ
10. いわしみず‐りんじのまつり[いはしみづ‥]【石清水臨時祭】
日本国語大辞典
ま)の日、または下の午の日に行なわれた祭礼。平安時代、朱雀天皇の代、天慶五年(九四二)に承平・天慶の乱平定の報賽(ほうさい)のため臨時に行なわれたのに起因し、や
11. えらびうま【択馬】
国史大辞典
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12. 延喜・天暦の治
世界大百科事典
った。また初の勅撰和歌集である《古今和歌集》の撰進など文運も盛んであった。〈天暦の治〉も承平・天慶の乱のあった朱雀天皇の治世に続き,表面上は目だった動乱がなく,
13. 大鏡 278ページ
日本古典文学全集
同族の私闘から地域の官人をまきこみ、下野上野の国府を襲った。二つの乱はほぼ同じころ起った。いわゆる承平・天慶の乱。京の貴族には「(純友は)平将門ト謀ヲ合セ心ヲ通
14. おおむらし【大村市】長崎県
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15. おかだぐん【岡田郡】
国史大辞典
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16. 伽婢子 2 358ページ
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としても著名。 ラ 行離宮明神(十ノ2) 山城国宇治郡(京都府宇治市) にあった社。祭主は承平・天慶の乱(九三五-九
17. かごしまじんぐう【鹿児島神宮】
国史大辞典
れる。『延喜式』には鹿児島神社とし、大社(一座)とある。当初の祭神は彦穂々出見尊だけで、承平・天慶の乱(九三五―四一)のころに八幡神が配され、五社別宮の一つにな
18. からさわやまじんじゃ【唐沢山神社】
国史大辞典
唐沢山は藤原秀郷の旧城址、秀郷は世に田原(俵)藤太といわれ、近江国三上山のむかで退治をした伝説の主、承平・天慶の乱には平貞盛と力をあわせ平将門を誅伐した。明治維
19. きびつじんじゃ【吉備津神社】岡山県:岡山市/旧賀陽郡地区/宮内村
日本歴史地名大系
。貞観元年(八五九)に二品にすすみ(三代実録)、延喜式の制定にあたっては名神大社に列し、承平・天慶の乱の鎮定にあたっての神威の功によって天慶三年(九四〇)一品に
20. ぐんじせいど【軍事制度】
国史大辞典
追捕使は十世紀中葉の承平・天慶の乱に際して臨時に置かれ、のち常置の官となり諸国にも置かれた。押領使は平安時代初期には兵員の輸送を任としたが、次第に軍事との関係が
21. ぐんせいのれきしてきてんかい【軍制の歴史的展開】 : 軍事制度
国史大辞典
軍制の歴史的展開  十世紀の承平・天慶の乱は国家軍制に大きな変革をもたらした。すなわち貴族の私兵である「諸家兵士」と諸国の堪武勇の士による「諸国兵士」を国家の
22. けいか【経過】 : 摂関政治
国史大辞典
〇)に即位した朱雀天皇はなお八歳の幼帝であったから、外伯父の左大臣藤原忠平が摂政となって承平・天慶の乱を切り抜け、やがて関白太政大臣となった。天皇幼少の時は摂政
23. けいざい【経済】 : 中世
国史大辞典
質したことは疑いなく、この社会変動を背景に富豪浪人が活躍し、その群党蜂起の総決算としての承平・天慶の乱を迎える。この乱に際して、国家は地方に育ってきた「兵(つわ
24. こじまのかいぞく【児島の海賊】
国史大辞典
元慶七年(八八三)には備前国に命じて海上の勇敢な者二百数十人を要害の地に置いて警備に充てしめた。承平・天慶の乱にもこの海域の動揺ははなはだしかった。源平の争乱(
25. こだい【古代】 : 軍事制度
国史大辞典
追捕使は十世紀中葉の承平・天慶の乱に際して臨時に置かれ、のち常置の官となり諸国にも置かれた。押領使は平安時代初期には兵員の輸送を任としたが、次第に軍事との関係が
26. こだい【古代】画像
国史大辞典
を主宰していて、摂関政治という政治形態が確立したのはこの時期だとされており、また地方では承平・天慶の乱、すなわち東国における平将門の反乱と西国における藤原純友の
27. さいぎょう【西行】画像
国史大辞典
のとみられる消息には「円位」と自署し、『千載和歌集』にもこの名で十八首採られている。家は承平・天慶の乱に武功をたて下野守に任じられた藤原秀郷の嫡流で、代々左衛門
28. さしまぐん【猿島郡】
国史大辞典
本郡は平将門の活動の中心地となった。天慶二年(九三九)将門は常陸に兵を進め国府を焼いた。いわゆる承平・天慶の乱で、将門は坂東大乱の主人公にのしあがった。将門によ
29. しせい【四姓】
国史大辞典
(中略)嵯峨天皇の御代に、皇后の御ゆかりに、尊みそめたりしならひにやあらむ」と説き、また藤原純友の乱(承平・天慶の乱)に功のあった橘遠保の子孫が諸国に武士として
30. しもうさのくに【下総国】画像
国史大辞典
北拓植の基地としての役割を演じた。貞観十七年(八七五)には下総で俘囚の反乱が起っている。承平・天慶の乱の時、平将門は新皇と自称して猿島郡石井郷に王城を営んだとい
31. しゃりょう【社領】 : 石清水八幡宮
国史大辞典
当宮領は神宮寺護国寺別当が管轄したので、宮寺領と呼ばれた。朱雀天皇天慶三年(九四〇)将門・純友の乱(承平・天慶の乱)平定報賽として二十五戸の封戸を寄進されたのを
32. しゅうこんごうじん【執金剛神】画像
国史大辞典
観音像と背中合せの厨子に秘仏として伝えられ、毎年十二月十六日のみ開扉される。平将門の乱(承平・天慶の乱)のときこの執金剛神が蜂になったことを絵巻にした『執金剛神
33. しょうもんき【将門記】
国史大辞典
平安時代、承平・天慶の乱における平将門の行動について記した漢文体の書。作者・成立年時未詳。一巻。「まさかどき」ともいい、「将門合戦状」「将門合戦章」などともよ
34. 将門記[文献解題]茨城県
日本歴史地名大系
「まさかどき」とも。末尾に「天慶三年六月中記文」とあり、天慶三年成立説が有力。平将門を中心に東国における承平・天慶の乱の顛末を記す。古代末の常陸・下総をはじめ東
35. すざく‐てんのう[‥テンワウ]【朱雀天皇】
日本国語大辞典
。治世中、政情は不安定で、承平六年(九三六)以後、平将門、藤原純友が東西で乱を起こし、(承平・天慶の乱)、天慶四年(九四一)、ようやく鎮定。同九年村上天皇に譲位
36. すざくてんのう【朱雀天皇】
国史大辞典
皇子の出生をみず、皇太子には同母弟成明親王(村上天皇)を立てた。在世中天災や疫疾がしばしばおこり、承平・天慶の乱が出来し、治安が乱れた。天慶九年(九四六)四月二
37. すみともついとうき【純友追討記】
国史大辞典
襲った話、筑前国博多津での決戦のもようなど、これによって乱の経緯を具体的に知り得ることが多い。→承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん) (笹山 晴生)
38. せいとうぐん【征討軍】
国史大辞典
それはおのずから律令国家の版図拡大の様相を示しているが、その後しばらく将軍の任命はなく、承平・天慶の乱に至って征東大将軍・征西大将軍が任命されているが、その下の
39. せきもとじんじゃ【関本神社】茨城県:真壁郡/関城町/関本村
日本歴史地名大系
荷を勧請し沖里(現在地不明)に建立されたが、鬼怒川の水害を避けてこの地に移されたといい、承平・天慶の乱の時、藤原秀郷・平貞盛らが平将門追討の戦勝を祈願し、社頭に
40. せっかんせいじ【摂関政治】画像
国史大辞典
〇)に即位した朱雀天皇はなお八歳の幼帝であったから、外伯父の左大臣藤原忠平が摂政となって承平・天慶の乱を切り抜け、やがて関白太政大臣となった。天皇幼少の時は摂政
41. せっかんせいじといんせい【摂関政治と院政】 : 古代
国史大辞典
を主宰していて、摂関政治という政治形態が確立したのはこの時期だとされており、また地方では承平・天慶の乱、すなわち東国における平将門の反乱と西国における藤原純友の
42. 太平記 415ページ
日本古典文学全集
諸本になし。醍醐天皇第十一皇子。諱は寛明。在位、延長八年(九三〇)~天慶九年(九四六)。在位中、承平・天慶の乱が起った。桓武平氏、良持息。下総国豊田郡・猿島郡(
43. たいらのさだもり【平貞盛】
国史大辞典
らしい。平清盛につながる伊勢平氏や鎌倉時代の北条氏などもその子孫として系譜づけている。→承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん) [参考文献]『将門記』、
44. たいらのまさかど【平将門】
国史大辞典
『日本思想大系』八、『東洋文庫』二八〇・二九一、『(新撰)日本古典文庫』などに収められている。→承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん),→将門記(しょう
45. 平将門[文献目録]
日本人物文献目録
像 平将門 将門記』加美宏『下総国岩井附近に散在する平新皇の遺趾に関する伝説』稲葉賢介『承平・天慶の乱の歴史的意義』上横手雅敬『平将門』内山正居『平将門』田口卯
46. 平将門の乱
世界大百科事典
10世紀に関東で起きた反乱事件。同時に西海で起こった藤原純友の反乱とともに〈承平・天慶の乱〉,あるいは〈天慶の乱〉ともいう。下総北部を地盤としていた将門は,93
47. たいらのよしかね【平良兼】
国史大辞典
天慶二年(九三九)六月に死去。子に公雅・公連があり、将門の反乱平定に名をあげるが、女には将門の妻がある。→承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん) [参考
48. ちゅうせい【中世】
国史大辞典
質したことは疑いなく、この社会変動を背景に富豪浪人が活躍し、その群党蜂起の総決算としての承平・天慶の乱を迎える。この乱に際して、国家は地方に育ってきた「兵(つわ
49. ちょくしまき【勅旨牧】画像
国史大辞典
興、秩父牧(石田牧・阿久原牧よりなる)の別当は藤原惟条で、ともに武蔵国の在庁官人であり、承平・天慶の乱直前に検非違使に任命されている。『延喜式』によると、勅旨牧
50. ちよだく【千代田区】東京都地図
日本歴史地名大系
境に北部が豊島郡、南部が荏原郡に所属したと考えられ、「和名抄」所載の荏原郡桜田郷が区域内に比定される。承平・天慶の乱を起こし朝廷に反乱した平将門に関し、各地に伝
「承平・天慶の乱」の情報だけではなく、「承平・天慶の乱」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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シャクシャインの戦い(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
1669年(寛文9)、東蝦夷地(ひがしえぞち)シブチャリ(北海道新ひだか町)に拠点をもつアイヌの首長シャクシャインが起こした蜂起(ほうき)。この蜂起は東西蝦夷地の各地に波及し、鷹待(たかまち)(鷹匠)や商船の船頭など日本人390人余(『津軽一統志(つ
禁門の変(蛤御門の変)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
元治元年(一八六四)七月、京都での尊攘派の勢力挽回を策した長州軍と京都を守る会津・薩摩藩を中心とする公武合体派軍との軍事衝突。元治甲子の変または蛤御門の変ともいう。文久三年(一八六三)八月十八日の政変は、それまで京摂間で猛威を
天狗党の乱(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末期水戸藩尊攘激派(天狗党)による筑波山挙兵とそれを契機に起った争乱。天狗の呼称は水戸藩藩主徳川斉昭が天保度の藩政改革を実施した際、改革を喜ばない門閥派が改革派藩士を批難したところから発したもので、改革派には軽格武士が多かったから
大塩平八郎の乱(日本大百科全書・国史大辞典)
江戸後期、大坂で大塩平八郎らが救民のため挙兵した反乱。1828年(文政11)の九州大洪水より、断続的に天災による諸国異作が続き、36年(天保7)は未曽有の大飢饉であった。この打ち続く凶作・飢饉により米価高騰し、大坂市中には飢餓による死者が続出する。
生田万の乱(国史大辞典・日本大百科全書)
天保八年(一八三七)六月一日の明け方、平田篤胤の元塾頭生田万らが桑名藩領柏崎陣屋(新潟県柏崎市)に乱入した事件。柏崎騒動ともいう。柏崎陣屋は桑名藩の越後領四郡六万石の総支配所で、大役所・預役所・刈羽会所の三役所があり、郡代以下五十数名で領政を担当していた。
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長篠の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
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