1. 承平・天慶の乱
世界大百科事典
10世紀前半の,東国の平将門の乱,西国の藤原純友の乱を,ほぼ同時に起きた反乱であることから,その事件の起きた年号で並称したもの。→平将門の乱 →藤原純友の乱
2. 承平・天慶の乱
日本大百科全書
10世紀に東国と西国でほぼ時を同じくして起こった反乱。主謀者の名をとり、将門まさかど・純友すみともの乱とも称す。森田 悌将門の乱平将門の乱は939年(天慶2)を
3. じょうへい・てんぎょうのらん【承平・天慶の乱】
国史大辞典
平安時代の承平・天慶年間(九三一―四七)、関東・瀬戸内海でおこった平将門・藤原純友の反乱の総称。天慶の乱ともいう。 〔平将門の乱〕 関東地方では、九世紀中葉以
4. あさごごう【朝来郷】兵庫県:但馬国/朝来郡
日本歴史地名大系
)に侍したとみえる。「本朝世紀」天慶四年(九四一)一〇月二六日条には、朝来郷の賀茂貞行が承平・天慶の乱の首謀者藤原純友の一族藤原元文・文茂を討って、その頭を朝廷
5. あわのくに【安房国】千葉県地図
日本歴史地名大系
も配下に置き、相互に、あるいは国衙と対決し、紛争事件を引起すことが少なくなかったが、その最大のものは承平・天慶の乱を起こした下総国の住人平将門であろう。安房国と
6. あんごじ【安居寺】富山県:東礪波郡/福野町/安居村
日本歴史地名大系
安置したことにちなむという。往古は近辺の谷や田畑となっている辺りに支坊二四ヵ寺があったとされ、承平・天慶の乱の頃には当寺西方の奥山にあたる滝寺に兵火を避けたとい
7. いまかがみ【今鏡】
国史大辞典
文体も源氏式・栄花式に優雅で、問答体は巻頭・巻尾にあるだけで、他は申し訳程度である。また『大鏡』には承平・天慶の乱や刀伊の入寇や貴族の政権争いの劇的活写があるが
8. いわしみずはちまんぐう【石清水八幡宮】画像
国史大辞典
当宮領は神宮寺護国寺別当が管轄したので、宮寺領と呼ばれた。朱雀天皇天慶三年(九四〇)将門・純友の乱(承平・天慶の乱)平定報賽として二十五戸の封戸を寄進されたのを
9. いわしみずはちまんぐう【石清水八幡宮】京都府:八幡市
日本歴史地名大系
、多数の参詣者で賑わう。臨時祭は寛平四年に始まるという賀茂社の臨時祭に準拠し、天慶五年、承平・天慶の乱平定の報賽に宣命・神宝および歌舞を調進し勅使を遣わして行っ
10. いわしみず‐りんじのまつり[いはしみづ‥]【石清水臨時祭】
日本国語大辞典
ま)の日、または下の午の日に行なわれた祭礼。平安時代、朱雀天皇の代、天慶五年(九四二)に承平・天慶の乱平定の報賽(ほうさい)のため臨時に行なわれたのに起因し、や
11. えらびうま【択馬】
国史大辞典
中央から択馬使が派遣される。十世紀ごろ、中央で所要の馬は、諸国の官牧および勅旨牧の貢馬でまかなわれたが、承平・天慶の乱後、東国の勅旨牧の貢進がとどこおると、天慶
12. 延喜・天暦の治
世界大百科事典
った。また初の勅撰和歌集である《古今和歌集》の撰進など文運も盛んであった。〈天暦の治〉も承平・天慶の乱のあった朱雀天皇の治世に続き,表面上は目だった動乱がなく,
13. 大鏡 278ページ
日本古典文学全集
同族の私闘から地域の官人をまきこみ、下野上野の国府を襲った。二つの乱はほぼ同じころ起った。いわゆる承平・天慶の乱。京の貴族には「(純友は)平将門ト謀ヲ合セ心ヲ通
14. おおむらし【大村市】長崎県
日本歴史地名大系
一帯にも約一六の坪数が確認され、大上戸川条里という。大村氏は藤原純友の孫にあたる直澄が、承平・天慶の乱のあと勅勘を許されて肥前国の彼杵郡・高来郡・藤津郡を与えら
15. おかだぐん【岡田郡】
国史大辞典
て、鬼怒川と飯沼にはさまれた南北に狭小の地域が岡田郡であったことが知られる。平将門の乱(承平・天慶の乱)の舞台となり、旧岡田郡川口村(結城郡八千代町水の口)は将
16. 伽婢子 2 358ページ
東洋文庫
としても著名。 ラ 行離宮明神(十ノ2) 山城国宇治郡(京都府宇治市) にあった社。祭主は承平・天慶の乱(九三五-九
17. かごしまじんぐう【鹿児島神宮】
国史大辞典
れる。『延喜式』には鹿児島神社とし、大社(一座)とある。当初の祭神は彦穂々出見尊だけで、承平・天慶の乱(九三五―四一)のころに八幡神が配され、五社別宮の一つにな
18. からさわやまじんじゃ【唐沢山神社】
国史大辞典
唐沢山は藤原秀郷の旧城址、秀郷は世に田原(俵)藤太といわれ、近江国三上山のむかで退治をした伝説の主、承平・天慶の乱には平貞盛と力をあわせ平将門を誅伐した。明治維
19. きびつじんじゃ【吉備津神社】岡山県:岡山市/旧賀陽郡地区/宮内村
日本歴史地名大系
。貞観元年(八五九)に二品にすすみ(三代実録)、延喜式の制定にあたっては名神大社に列し、承平・天慶の乱の鎮定にあたっての神威の功によって天慶三年(九四〇)一品に
20. ぐんじせいど【軍事制度】
国史大辞典
追捕使は十世紀中葉の承平・天慶の乱に際して臨時に置かれ、のち常置の官となり諸国にも置かれた。押領使は平安時代初期には兵員の輸送を任としたが、次第に軍事との関係が
21. ぐんせいのれきしてきてんかい【軍制の歴史的展開】 : 軍事制度
国史大辞典
軍制の歴史的展開 十世紀の承平・天慶の乱は国家軍制に大きな変革をもたらした。すなわち貴族の私兵である「諸家兵士」と諸国の堪武勇の士による「諸国兵士」を国家の
22. けいか【経過】 : 摂関政治
国史大辞典
〇)に即位した朱雀天皇はなお八歳の幼帝であったから、外伯父の左大臣藤原忠平が摂政となって承平・天慶の乱を切り抜け、やがて関白太政大臣となった。天皇幼少の時は摂政
23. けいざい【経済】 : 中世
国史大辞典
質したことは疑いなく、この社会変動を背景に富豪浪人が活躍し、その群党蜂起の総決算としての承平・天慶の乱を迎える。この乱に際して、国家は地方に育ってきた「兵(つわ
24. こじまのかいぞく【児島の海賊】
国史大辞典
元慶七年(八八三)には備前国に命じて海上の勇敢な者二百数十人を要害の地に置いて警備に充てしめた。承平・天慶の乱にもこの海域の動揺ははなはだしかった。源平の争乱(
25. こだい【古代】 : 軍事制度
国史大辞典
追捕使は十世紀中葉の承平・天慶の乱に際して臨時に置かれ、のち常置の官となり諸国にも置かれた。押領使は平安時代初期には兵員の輸送を任としたが、次第に軍事との関係が
26. こだい【古代】画像
国史大辞典
を主宰していて、摂関政治という政治形態が確立したのはこの時期だとされており、また地方では承平・天慶の乱、すなわち東国における平将門の反乱と西国における藤原純友の
27. さいぎょう【西行】画像
国史大辞典
のとみられる消息には「円位」と自署し、『千載和歌集』にもこの名で十八首採られている。家は承平・天慶の乱に武功をたて下野守に任じられた藤原秀郷の嫡流で、代々左衛門
28. さしまぐん【猿島郡】
国史大辞典
本郡は平将門の活動の中心地となった。天慶二年(九三九)将門は常陸に兵を進め国府を焼いた。いわゆる承平・天慶の乱で、将門は坂東大乱の主人公にのしあがった。将門によ
29. しせい【四姓】
国史大辞典
(中略)嵯峨天皇の御代に、皇后の御ゆかりに、尊みそめたりしならひにやあらむ」と説き、また藤原純友の乱(承平・天慶の乱)に功のあった橘遠保の子孫が諸国に武士として
30. しもうさのくに【下総国】画像
国史大辞典
北拓植の基地としての役割を演じた。貞観十七年(八七五)には下総で俘囚の反乱が起っている。承平・天慶の乱の時、平将門は新皇と自称して猿島郡石井郷に王城を営んだとい
31. しゃりょう【社領】 : 石清水八幡宮
国史大辞典
当宮領は神宮寺護国寺別当が管轄したので、宮寺領と呼ばれた。朱雀天皇天慶三年(九四〇)将門・純友の乱(承平・天慶の乱)平定報賽として二十五戸の封戸を寄進されたのを
32. しゅうこんごうじん【執金剛神】画像
国史大辞典
観音像と背中合せの厨子に秘仏として伝えられ、毎年十二月十六日のみ開扉される。平将門の乱(承平・天慶の乱)のときこの執金剛神が蜂になったことを絵巻にした『執金剛神
33. しょうもんき【将門記】
国史大辞典
平安時代、承平・天慶の乱における平将門の行動について記した漢文体の書。作者・成立年時未詳。一巻。「まさかどき」ともいい、「将門合戦状」「将門合戦章」などともよ
34. 将門記[文献解題]茨城県
日本歴史地名大系
「まさかどき」とも。末尾に「天慶三年六月中記文」とあり、天慶三年成立説が有力。平将門を中心に東国における承平・天慶の乱の顛末を記す。古代末の常陸・下総をはじめ東
35. すざく‐てんのう[‥テンワウ]【朱雀天皇】
日本国語大辞典
。治世中、政情は不安定で、承平六年(九三六)以後、平将門、藤原純友が東西で乱を起こし、(承平・天慶の乱)、天慶四年(九四一)、ようやく鎮定。同九年村上天皇に譲位
36. すざくてんのう【朱雀天皇】
国史大辞典
皇子の出生をみず、皇太子には同母弟成明親王(村上天皇)を立てた。在世中天災や疫疾がしばしばおこり、承平・天慶の乱が出来し、治安が乱れた。天慶九年(九四六)四月二
37. すみともついとうき【純友追討記】
国史大辞典
襲った話、筑前国博多津での決戦のもようなど、これによって乱の経緯を具体的に知り得ることが多い。→承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん) (笹山 晴生)
38. せいとうぐん【征討軍】
国史大辞典
それはおのずから律令国家の版図拡大の様相を示しているが、その後しばらく将軍の任命はなく、承平・天慶の乱に至って征東大将軍・征西大将軍が任命されているが、その下の
39. せきもとじんじゃ【関本神社】茨城県:真壁郡/関城町/関本村
日本歴史地名大系
荷を勧請し沖里(現在地不明)に建立されたが、鬼怒川の水害を避けてこの地に移されたといい、承平・天慶の乱の時、藤原秀郷・平貞盛らが平将門追討の戦勝を祈願し、社頭に
40. せっかんせいじ【摂関政治】画像
国史大辞典
〇)に即位した朱雀天皇はなお八歳の幼帝であったから、外伯父の左大臣藤原忠平が摂政となって承平・天慶の乱を切り抜け、やがて関白太政大臣となった。天皇幼少の時は摂政
41. せっかんせいじといんせい【摂関政治と院政】 : 古代
国史大辞典
を主宰していて、摂関政治という政治形態が確立したのはこの時期だとされており、また地方では承平・天慶の乱、すなわち東国における平将門の反乱と西国における藤原純友の
42. 太平記 415ページ
日本古典文学全集
諸本になし。醍醐天皇第十一皇子。諱は寛明。在位、延長八年(九三〇)~天慶九年(九四六)。在位中、承平・天慶の乱が起った。桓武平氏、良持息。下総国豊田郡・猿島郡(
43. たいらのさだもり【平貞盛】
国史大辞典
らしい。平清盛につながる伊勢平氏や鎌倉時代の北条氏などもその子孫として系譜づけている。→承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん) [参考文献]『将門記』、
44. たいらのまさかど【平将門】
国史大辞典
『日本思想大系』八、『東洋文庫』二八〇・二九一、『(新撰)日本古典文庫』などに収められている。→承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん),→将門記(しょう
45. 平将門[文献目録]
日本人物文献目録
像 平将門 将門記』加美宏『下総国岩井附近に散在する平新皇の遺趾に関する伝説』稲葉賢介『承平・天慶の乱の歴史的意義』上横手雅敬『平将門』内山正居『平将門』田口卯
46. 平将門の乱
世界大百科事典
10世紀に関東で起きた反乱事件。同時に西海で起こった藤原純友の反乱とともに〈承平・天慶の乱〉,あるいは〈天慶の乱〉ともいう。下総北部を地盤としていた将門は,93
47. たいらのよしかね【平良兼】
国史大辞典
天慶二年(九三九)六月に死去。子に公雅・公連があり、将門の反乱平定に名をあげるが、女には将門の妻がある。→承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん) [参考
48. ちゅうせい【中世】
国史大辞典
質したことは疑いなく、この社会変動を背景に富豪浪人が活躍し、その群党蜂起の総決算としての承平・天慶の乱を迎える。この乱に際して、国家は地方に育ってきた「兵(つわ
49. ちょくしまき【勅旨牧】画像
国史大辞典
興、秩父牧(石田牧・阿久原牧よりなる)の別当は藤原惟条で、ともに武蔵国の在庁官人であり、承平・天慶の乱直前に検非違使に任命されている。『延喜式』によると、勅旨牧
50. ちよだく【千代田区】東京都地図
日本歴史地名大系
境に北部が豊島郡、南部が荏原郡に所属したと考えられ、「和名抄」所載の荏原郡桜田郷が区域内に比定される。承平・天慶の乱を起こし朝廷に反乱した平将門に関し、各地に伝