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  11. 五・一五事件

五・一五事件

ジャパンナレッジで閲覧できる『五・一五事件』の日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

五・一五事件
ごいちごじけん

1932年(昭和7)に起きた海軍青年将校を中心としたクーデター事件で、血盟団事件の第二陣として計画されたもの。1931年の十月事件失敗後、海軍青年将校は井上日召 (にっしょう)らと結んでクーデター計画を進めてきた。32年の血盟団事件で団員が検挙されると、海軍側は上海 (シャンハイ)事変で戦死した藤井斉 (ひとし)にかわって、海軍中尉古賀清志 (こがきよし)、三上卓 (みかみたかし)らが中心となって計画を進めた。当初、陸軍側青年将校と協同して決行するつもりであったが、陸軍側は陸相荒木貞夫 (さだお)による合法的国家改造に期待して動かず、結局、海軍側が中心となって決行することになった。32年3月末に第一次実行計画をたてたのち、チャップリン歓迎会場襲撃計画など計画はしばしば変更されたが、5月13日の第五次計画を実行に移すことになった。右翼の大川周明 (しゅうめい)(神武会 (じんむかい))、本間憲一郎 (ほんまけんいちろう)(紫山塾 (しざんじゅく))、頭山秀三 (とうやましゅうぞう)(天行会 (てんこうかい))らが資金や武器の援助を与えた。5月15日午後5時ごろから古賀ら海軍士官6名、後藤映範 (えいはん)ら陸軍士官候補生11名、それに元士官候補生や血盟団残党を加えた総勢19名は、4組に分かれて、首相官邸をはじめ内大臣邸、三菱 (みつびし)銀行、日本銀行、政友会本部、警視庁などを襲撃し、犬養毅 (いぬかいつよし)首相や警備巡査を射殺、巡査ら数名に傷を負わせた。他方、農本主義者橘孝三郎 (たちばなこうざぶろう)が主宰する愛郷 (あいきょう)塾の塾生を中心に編成された別働隊は、東京市内6か所の変電所を襲ったが、機械や建物の一部を破壊しただけで首都を暗黒化するという所期の目的は達せられなかった。また、同日血盟団の残党川崎長光は、陸軍側の決起を妨げた裏切り者として西田税 (みつぎ)を襲い重傷を負わせた。彼らのねらいは、一連の暗殺と破壊によって既成支配層に威圧を加え、同時に市中を混乱に陥れて戒厳令を施行させ、軍部中心の内閣をつくって国家改造の端緒を開くことにあり、彼ら自身の具体的政策、方針はなかった。

 戒厳令施行は実現されなかったが、この事件は次の点で日本のファッショ化に大きな影響を与えた。(1)政党政治の時代に終止符を打ったこと、(2)軍部の発言権を増大させたこと、(3)右翼団体の続出、(4)出版界の右傾化、(5)急進的国家改造運動に対する国民の共感、などである。犯行後、海軍士官や陸軍士官候補生らは東京憲兵隊に自首したが、民間側も11月5日までには全員検挙された。公判は、33年7月24日の海軍側を皮切りに開始され、控訴、上告を行った大川、本間、頭山を除いて、34年2月3日までには刑が確定した。一般に民間側に比べて軍人側、とくに陸軍側の刑が軽いのが目だつし、また、この間、100万を超える減刑嘆願書が寄せられたことが前記(5)との関連で注目される。

[安部博純]



世界大百科事典

五・一五事件
ごいちごじけん

海軍急進派青年将校を中心とする1932年のクーデタ事件。1931年十月事件が不発に終わったのち,橋本欣五郎中佐ら幕僚将校は地方や外国に転勤させられ,幕僚将校に反感をもった隊付青年将校らは,荒木貞夫陸相のもとで国家改造が実現できるものと期待し,直接行動から離れていった。これに対して井上日召一派と藤井斉中尉ら海軍急進派青年将校は国家改造のための決起に固執し,はじめは32年2月11日の紀元節を期して政財界の要人を暗殺することを計画した。しかし上海事変が発生し藤井らが出征したため,まず井上一派が第1陣として〈一人一殺〉の要人暗殺を引き受け,血盟団事件をおこした。第2陣の海軍側は,藤井が戦死したため,古賀清志中尉,中村義雄中尉らが中心となって準備をすすめた。古賀らは愛郷塾の橘孝三郎に働きかけ,橘は塾生7名による農民決死隊を編成した。橘らは農本主義の立場から,農業恐慌下の農村困窮の元凶を資本主義に見いだし,その代表である財閥や政党の打倒を目ざす国家改造運動に連なっていた。また古賀らは陸軍青年将校にも決起を求めたが,陸軍側は応じなかった。しかし陸軍士官候補生11名が参加し,血盟団の残党4名も加わった。武器は海軍側が用意したほか,大川周明らが協力し,資金とともに提供した。決起の最終計画は5月13日に決定された。

 計画にしたがって,5月15日午後5時半ごろ三上卓中尉ら海軍将校4名,士官候補生5名の第1組が首相官邸に自動車で乗りつけ,日曜日の休養をとっていた犬養毅首相を襲った。犬養は〈話せばわかる〉と制したが,山岸宏中尉が〈問答無用,撃て〉と叫び,黒岩勇予備役少尉と三上がピストルで犬養を撃ち,犬養は午後11時26分絶命した。第1組はこのほか官邸の巡査2名を殺傷し,警視庁のガラス戸を破壊したり,日本銀行に手榴弾を投げつけたりしたのち,東京憲兵隊に自首した。古賀中尉らの第2組,中村中尉らの第3組はそれぞれ内大臣官邸,政友会本部に手榴弾を投げつけ,ついで檄文をまいたりしたのち,憲兵隊に自首した。血盟団残党の奥田秀夫は三菱銀行へ手榴弾を投げ込み,川崎長光は決起を妨害したとみなした陸軍青年将校の指導者西田税に重傷を負わせた。また農民決死隊員は変電所6ヵ所を襲撃し,帝都を暗黒とし戒厳令施行を導こうとしたが,いずれもほとんど損害を与えることができなかった。民間グループは24日までに逮捕され,橘は7月24日自首した。

 結局,決起は犬養首相1人を倒しただけで,国家改造のクーデタとしては失敗であったが,その及ぼした衝撃は絶大であった。陸軍側は事件を利用して政党内閣の排斥を迫り,斎藤実を首班とする挙国一致内閣が成立し,戦前の政党内閣制は終止符をうった。血盟団や農民決死隊の存在は農村窮乏の重大性をきわだたせた。〈非常時〉が叫ばれ,農村救済を中心とする〈時局匡救〉が政治の大きな課題となった。翌年軍法会議で古賀,三上に禁錮15年などの判決が下ったが,減刑運動が全国に展開され,ファッショ的風潮をかきたてた。
[江口 圭一]

[索引語]
井上日召 藤井斉 血盟団 古賀清志 中村義雄 橘孝三郎 三上卓 犬養毅 山岸宏
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1. ごいちご‐じけん【五・一五事件】
日本国語大辞典
昭和七年(一九三二)五月一五日、海軍の急進派青年将校が中心となり、クーデターを起こそうとした事件。大川周明らの資金援助と陸軍士官候補生などの参加によって、首相官
2. 五・一五事件
日本大百科全書
1932年(昭和7)に起きた海軍青年将校を中心としたクーデター事件で、血盟団事件の第二陣として計画されたもの。1931年の十月事件失敗後、海軍青年将校は井上日召
3. ご・いちごじけん【五・一五事件】画像
国史大辞典
あげられず、市民の多くは翌朝の新聞で事件を知るという程度の散発的効果に終った。このように、五・一五事件はクーデター技術の点では幼稚きわまるものであったが、社会の
4. 五・一五事件
世界大百科事典
海軍急進派青年将校を中心とする1932年のクーデタ事件。1931年十月事件が不発に終わったのち,橋本欣五郎中佐ら幕僚将校は地方や外国に転勤させられ,幕僚将校に反
5. 五・一五事件受刑者一覧[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
6. 愛郷塾
日本大百科全書
通じて直接行動による国家改造運動に関心を抱き始め、海軍士官らによるクーデター計画に参画する。そして、五・一五事件には塾生数名が「農民決死隊」を組織して東京市内の
7. 愛郷塾
世界大百科事典
に接近,橘の強い影響下にあった塾生は32年5月,〈農民決死隊〉を組織し,変電所襲撃を行い,五・一五事件に参加。これにより愛郷会・愛郷塾は世間の注目をひいたが,他
8. あいきょう‐じゅく[アイキャウ‥]【愛郷塾】
日本国語大辞典
展開していた橘が、子弟教育のために昭和六年(一九三一)に開いた。その後右翼的国家革新運動に傾き、五・一五事件(一九三二)には塾生を参加させた。正式名は自営的農村
9. あいきょうじゅく【愛郷塾】
国史大辞典
少々)と農場収益によって賄われた(一部、風見章・穴沢清次郎・斎藤茂一郎の援助があった)。→五・一五事件(ご・いちごじけん),→橘孝三郎(たちばなこうざぶろう)
10. あそうひさし【麻生久】
国史大辞典
昭和七年(一九三二)七月、社会民衆党と合同して社会大衆党を組織し書記長となった。この間、満洲事変、五・一五事件以後、軍部・ファシズムに接近し、八年には「転換期日
11. あまみ【奄美】鹿児島県:総論
日本歴史地名大系
大正一二年四月、名瀬町が提供した敷地にカトリック教会が私立大島高等女学校を設立したが、満州事変、五・一五事件を経て軍部の専制支配が奄美にも浸透してくるに伴い、カ
12. 荒木貞夫画像
日本大百科全書
十月事件では首相候補に擬せられた。1931年(昭和6)犬養毅いぬかいつよし内閣の陸相、翌1932年五・一五事件後の斎藤実さいとうまこと内閣にも留任。この間、皇道
13. いさわたきお【伊沢多喜男】
国史大辞典
同四年浜口内閣の成立に際して入閣を予想されていたが入閣せず、外からこの内閣を強く支持した。五・一五事件後斎藤内閣の成立に尽力し、この内閣に伊沢系の官僚が進出し、
14. いしはらこういちろう【石原広一郎】
国史大辞典
び、内地にも二、三の鉱山を所有するに至った。一方、彼には陸軍軍人および右翼との交際が生じ、五・一五事件の前には大川周明に資金を与え、また二・二六事件の際には斎藤
15. 石橋湛山画像
日本大百科全書
東洋経済新報社は自由主義を編集の基本に据えていたため、社説を担当していた石橋もその立場から満州事変や五・一五事件を厳しく批判し、政府の軍国主義政策に反対した。第
16. い‐しん[ヰ‥]【維新・惟新】
日本国語大辞典
釈されていたが、やがて、専ら(2)の意で使われるようになった。(2)昭和七年(一九三二)の五・一五事件の際、皇道派青年将校が現状打破、国家改造を目ざして提唱した
17. いぬかいたける【犬養健】
国史大辞典
を発表して注目されたが、同五年二月総選挙で東京より立候補(政友会)して当選し政界に入った。五・一五事件で父が暗殺されて以後は、父の地盤だった岡山に選挙区を移した
18. 犬養毅画像
日本大百科全書
化をもたらした。昭和7年5月15日、軍部政権樹立をねらう海軍青年将校らによって暗殺された(五・一五事件)。芳井研一岡山市にある犬養毅の生家は19世紀の建築として
19. 犬養毅
世界大百科事典
つつも満州事変の収拾をはかったが成功せず,議会政治擁護の主張が軍部急進派の攻撃の的となり,五・一五事件で射殺された。犬養内閣は第2次大戦前最後の政党内閣であった
20. いぬかい‐つよし【犬養毅】
日本国語大辞典
結成。のち、政友会総裁。その間、文相、逓相を歴任。昭和六年(一九三一)首相となったが、翌年五・一五事件で暗殺された。安政二~昭和七年(一八五五~一九三二)
21. いぬかいつよし【犬養毅】
国史大辞典
下し内閣を組織した。翌七年五月十五日、首相官邸において海軍青年将校らに襲撃され殺害された(五・一五事件)。七十八歳。墓は東京都港区の青山墓地にある。犬養は一貫し
22. いぬかい-つよし【犬養毅】画像
日本人名大辞典
6年首相となり,戦前最後の政党内閣を組織したが,昭和7年5月15日海軍青年将校らに暗殺された(五・一五事件)。78歳。備中(びっちゅう)(岡山県)出身。慶応義塾
23. 犬養毅内閣画像
日本大百科全書
ドされ、上海事変の拡大、「満州国」建設の承認など、次々に軍部の独走を追認していった。同年の五・一五事件で犬養首相が暗殺され、内閣は崩壊し、斎藤実さいとうまこと内
24. いぬかいないかく【犬養内閣】画像
国史大辞典
ついで起り、そして、五月十五日、それとも関連をもつ海軍急進派青年将校を中心とする一団による五・一五事件が犬養の命を奪い、翌日内閣は総辞職した。これより前、二月に
25. 井上日召
世界大百科事典
井らと独自に軍部のクーデタを誘発する目的で要人暗殺を計画した。これが翌32年の血盟団事件と五・一五事件を生んだ。血盟団事件で無期懲役の判決を受けたが,40年減刑
26. いのうえにっしょう【井上日召】
国史大辞典
同五年十月までの護国堂時代にのちに血盟団事件を起す農村の青年を門下とした。同時に海軍の藤井斉大尉以下の五・一五事件を起す将校と相識り修行。同年十月以後東京に出て
27. 茨城(県)画像
日本大百科全書
これより半世紀を経た昭和初期は、世界的な経済恐慌の下にあった。昭和維新の気が生じて、血盟団事件や五・一五事件が起こり、農本主義の愛郷塾あいきょうじゅくなど本県民
28. いまむら-りきさぶろう【今村力三郎】
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明治-昭和時代の弁護士。慶応2年5月2日生まれ。足尾鉱毒事件,大逆事件,森戸事件,帝人事件,五・一五事件などの弁護を担当。被告の人権擁護につくした。昭和21年専
29. うざわ-ふさあき【鵜沢総明】画像
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1872−1955 明治-昭和時代の弁護士,政治家。明治5年8月2日生まれ。大逆事件,血盟団事件,五・一五事件など,おおくの大事件を担当。戦後東京裁判の日本側弁
30. 右翼
日本大百科全書
特徴は、民間の右翼と軍部勢力とくに青年将校との結び付きの強化や、テロリズム――血盟団事件、五・一五事件(1932)、神兵隊事件(1933)、永田事件(相沢事件、
31. うよくうんどう【右翼運動】画像
国史大辞典
結成(昭和六年六月)し、橘孝三郎は愛郷会を創立(同四年、同六年愛郷塾と改称)する。昭和七年には血盟団事件、五・一五事件が起り、翌年には未発に終ったが神兵隊事件が
32. 右翼系統図 1(全体図)[別刷図版]画像
国史大辞典
浅沼稲次郎暗殺事件 G9 愛宕山集団自決事件 C7 阿部守太郎刺殺事件 C2 か 血盟団事件 F5 五・一五事件 F5 国家総動員体制 D6 さ 三月事件 E5
33. 江面弘也
情報・知識 imidas
『活字競馬に挑んだ二人の男』(05年、ミデアム出版社)、『「青年日本の歌」をうたう者 - 五・一五事件、三上卓海軍中尉の生涯』(2012年、中央公論新社)などが
34. えど・とうきよう【江戸・東京】東京都
日本歴史地名大系
政治発言力が増し、彼らによるテロやクーデタへの動きが高まってくる。首都東京を舞台に発生した五・一五事件や二・二六事件などはその後本格化する軍国主義路線の先駆けと
35. 大川周明
日本大百科全書
月事件、十月事件に関与した。32年には大衆運動による国家改造を目ざして神武会を組織したが、五・一五事件の首謀者に拳銃けんじゅうと資金を提供したため逮捕され、下獄
36. 大川周明
世界大百科事典
月事件に関与。翌32年2月,神武会を組織し,軍部と結びついた大衆的ファシズム運動を目ざす。五・一五事件に連座して反乱罪により禁錮5年に処せらる。37年10月,仮
37. おおかわ‐しゅうめい【大川周明】
日本国語大辞典
日本ファシズム運動の理論的指導者。山形県出身。軍部に接近し、三月事件、五・一五事件などに関係。第二次大戦後、A級戦犯の容疑を受けたが精神異常の理由で釈放。著「日
38. おおかわしゅうめい【大川周明】
国史大辞典
背景に合法的維新を目指す国民運動を目論んで、神武会を創った(石原広一郎・菊池武夫・河本大作ら)。五・一五事件に際しては、古賀清志を通じてこれに資金を供与した(六
39. おおかわ-しゅうめい【大川周明】画像
日本人名大辞典
者として猶存社を結成。のち行地社,神武会を結成。軍部にちかづき三月事件,十月事件に関与し,五・一五事件で検挙される。戦後,A級戦犯として逮捕されたが精神障害で釈
40. おおすみみねお【大角岑生】
国史大辞典
昭和六年(一九三一)海軍大将に進級し、同年十二月犬養内閣の海軍大臣として入閣した。翌年五月、五・一五事件の責任を負って辞職したが、八年一月再び海軍大臣となり、十
41. おかだないかく【岡田内閣】画像
国史大辞典
を首班として、昭和九年(一九三四)七月八日から同十一年三月九日までの間政局を担当した内閣。五・一五事件以来の非常時局を担当した斎藤実内閣は帝人事件によって総辞職
42. 尾崎秀実時評集 日中戦争期の東アジア 334ページ
東洋文庫
満洲事変以来擡頭し来つた軍部は独特の視角からの鋭い政治的批判を有つ青年将校を基礎とした勢力なのである。 かの五・一五事件、二・二六事件等は最も鋭い形に於いて彼等
43. かいぐんぐんしゅくもんだい【海軍軍縮問題】
国史大辞典
東京駅頭で狙撃されて重傷を負い、陸軍の少壮将校の間には桜会が結成され、三月事件、十月事件、五・一五事件などが頻発した。八年三月日本は連盟脱退を通告し、以来一九三
44. かわむら-たけじ【川村竹治】
日本人名大辞典
へて大正11年内務次官に就任。同年貴族院議員,満鉄社長。昭和7年犬養内閣の法相となったが,五・一五事件で辞任。戦後は妻の文子が創立した川村女学院(現川村学園)を
45. かんたいは【艦隊派】
国史大辞典
平八郎元帥らに支持され、陸軍の皇道派や革新派青年将校とも連繋して活動を開始し、昭和七年には五・一五事件をひき起した。しかし翌八年軍令部条例の改正をめぐって、条約
46. 関東大震災画像
日本大百科全書
達成したが、治安維持法の成立によって政治的自由の実現を阻止されて敗北し、やがて政党政治も満州事変と五・一五事件によって没落させられるに至るのである。このような後
47. 官吏
世界大百科事典
後の文官分限令の弾力的運用に基づく大量の官吏の休職処分とにより,政党優位に帰着する。しかし五・一五事件(1932)による政党内閣の崩壊後,新官僚・革新官僚と呼ば
48. 菊竹淳
日本大百科全書
『福岡日日新聞』(現、西日本新聞)に入社。編集長、副社長、主筆を務める。1932年(昭和7)の五・一五事件に際し「敢あえて国民の覚悟を促す」の社説で軍部を攻撃、
49. きくたけ-すなお【菊竹淳】
日本人名大辞典
明治13年1月25日生まれ。36年福岡日日新聞社(西日本新聞社の前身)に入社。昭和4年編集局長。7年五・一五事件に際し,一連の論説をかいて議会政治を擁護し,軍部
50. 菊竹六鼓
世界大百科事典
展開,このほか地域暴力追放や廃娼運動など社会的正義の実現や満蒙権益の擁護にも深い関心を寄せた。1932年の五・一五事件の際には〈首相兇手に斃る〉〈敢て国民の覚悟
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