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二・二六事件

ジャパンナレッジで閲覧できる『二・二六事件』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

二・二六事件
ににろくじけん

陸軍皇道派青年将校によるクーデター事件。1936年(昭和11)2月26日早暁、歩兵第一・第三連隊、近衛 (このえ)歩兵第三連隊など約1500人の在京部隊が、首相・蔵相官邸、警視庁はじめ、政府首脳や重臣の官・私邸、朝日新聞社などを襲撃した。指揮にあたったのは栗原安秀 (くりはらやすひで)中尉、安藤輝三 (てるぞう)大尉、野中四郎大尉、免官となっていた村中孝次 (こうじ)、磯部浅一 (いそべあさいち)ら皇道派青年将校であった。このとき岡田啓介 (けいすけ)首相と誤認された義弟で秘書であった松尾伝蔵海軍大佐が射殺されたのをはじめ、高橋是清 (これきよ)蔵相、斎藤実 (まこと)内大臣、渡辺錠太郎 (じょうたろう)教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負った。また神奈川県湯河原滞在中の前内大臣牧野伸顕 (まきののぶあき)も襲われたが、危うく難を逃れた。

[粟屋憲太郎]

原因と経過

決起部隊には、青年将校の「昭和維新」の思想に共鳴する下士官もいたが、兵士の多くは初年兵で、「上官の命令」で事件に動員された。事件の原因には、前年以来、深刻さを増していた皇道派と統制派の陸軍内抗争があった。両派の対立は1934年11月の士官学校事件、1935年7月の林銑十郎 (せんじゅうろう)陸相による皇道派の真崎甚三郎 (まざきじんざぶろう)教育総監の更迭、同年8月、その更迭の推進者と目された永田鉄山 (てつざん)軍務局長が相沢三郎中佐に白昼斬殺 (ざんさつ)された相沢事件など、エスカレートの一途をたどっていた。そこに皇道派青年将校の牙城 (がじょう)である第一師団の満州派遣が決定されたため、青年将校たちは武力蜂起 (ほうき)を早めたのである。蜂起部隊は首相官邸はじめ陸軍省、警視庁などを占拠し、川島義之 (よしゆき)陸相に「蹶起 (けっき)趣意書」を突きつけ、国家改造の断行を要求した。しかしその内容は、三月事件(1931)に関与した陸軍首脳の検束と統制派将校の追放、真崎大将の推戴 (すいたい)、荒木貞夫 (さだお)大将の関東軍司令官就任というまったく派閥的なものであった。「股肱 (ここう)の重臣」を殺傷された天皇は激怒し、当初から蜂起部隊の鎮圧を求め、3人の大将(斎藤、鈴木、誤認の岡田)を殺傷されたと聞いた海軍は自ら鎮圧の態勢を整えた。しかし蜂起部隊に同情的な陸軍首脳の工作で事態の処理は混乱した。27日、枢密院の審査を経て戒厳令が公布されたが、戒厳司令官には皇道派系の香椎浩平 (かしいこうへい)が任命され、反乱部隊も「麹町 (こうじまち)地区警備隊」として戒厳部隊に組み入れられた。しかし戒厳令の施行を推進した参謀本部作戦課長の石原莞爾 (かんじ)大佐は青年将校の蜂起を逆利用して、軍事独裁体制の樹立を図ろうとし、また陸軍省、参謀本部の幕僚層にも皇道派への反感があったため、陸軍中央もついに鎮圧の方針に踏み切った。28日、反乱鎮定の奉勅命令が香椎戒厳司令官に発せられ、蜂起部隊は占拠撤収を求められた。このとき反乱将校の方針は、帰順と抵抗の間を二転、三転し、一時は自刃の意思を表明したが、結局、抵抗の方針に決まり、「皇軍相撃」が予想される事態となった。29日、戒厳司令部は約2万4000人の兵力で反乱軍を包囲して戦闘態勢をとった。そしてラジオ放送や飛行機からのビラ、アドバルーンなどで「今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ」「抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル」などと、下士官・兵に帰順を呼びかけた。このため大部分の下士官・兵は帰順し、青年将校も野中大尉が自決したほかは、憲兵隊に検挙された。

[粟屋憲太郎]

結果とその影響

こうして4日間の反乱は鎮圧されたが、鎮圧後、陸軍首脳は、反乱軍に一時期同調したことを闇 (やみ)に葬るため、関係者の処分を急いだ。すなわち、3月4日の緊急勅令により、4月28日から一審制、非公開、弁護人なしの東京陸軍軍法会議が特設され、わずか約2か月の審理で7月5日、主謀者の青年将校ら17名に死刑が言い渡され、北一輝 (いっき)、西田税 (みつぎ)、真崎らの裁判の証人として1週間後に出廷する磯部、村中を除く15名が同月12日処刑された。また青年将校に大きな思想的影響力を与えた民間人の北・西田を検挙、軍法会議にかけ、事件を、北ら民間人に主導された少数の矯激な青年将校の反乱として印象づけるため、北・西田を、磯部・村中とともに翌年8月19日処刑した。青年将校に同調した真崎大将も起訴されたが、証拠不十分で無罪となった。

 他方、事件後、陸軍の政治干与を批判する世論が高まり、事件で殉職した警察官に弔慰金が集中し、また戒厳令下で召集された第69特別議会では、民政党の斎藤隆夫 (たかお)が軍部批判の「粛軍演説」を行い、大反響をよんだ。さらに反乱に動員された兵士が「上官の命令」によるものであったため、在郷軍人や地方指導者の間に兵役義務に対する動揺がみられた。しかし陸軍首脳は、この「粛軍」世論を逆手にとり、「粛軍」人事の名のもとに、皇道派将校などを予備役に編入し、陸軍中枢は寺内寿一 (ひさいち)、梅津美治郎 (よしじろう)、杉山元 (はじめ)、東条英機 (ひでき)らの「新統制派」で固められた。また1936年5月、予備役となった皇道派将軍の陸相就任を防ぐという名目で、軍部大臣現役武官制を復活し、軍部は内閣の生殺与奪の権を握ることになった。さらに陸軍は、部内の統制を図るには政治の姿勢を正すことが必要であるとして、事件後の広田弘毅 (こうき)内閣の組閣に露骨に介入、「庶政一新」と「軍備充実」を強く要求した。陸軍中央は事件以後、クーデター路線を排して、軍中央が軍の全組織を動員して国家改造を実現する方針を推進し、帝国在郷軍人会を勅令団体として中央集権化するとともに、民間ファシズム運動も軍の統制下に置いた。また財界首脳は、以後、統制経済による総力戦体制の構築が不可避であることを認識し、部内の急進分子を抑圧した陸軍中央と積極的に結合、「軍財抱合」体制がもたらされることになった。

[粟屋憲太郎]



世界大百科事典

二・二六事件
ににろくじけん

1936年2月26日に起こった皇道派青年将校によるクーデタ。満州事変開始前後から対英米協調・現状維持的勢力と,ワシントン体制の打破をめざし国家の改造ないし革新をはかる勢力との抗争が発展し,さらに後者の最大の担い手である陸軍内部に,国家改造にあたって官僚・財界とも提携しようとする幕僚層中心の統制派と,天皇に直結する〈昭和維新〉を遂行しようとする隊付青年将校中心の皇道派との対立が進行した。1934年士官学校事件による皇道派の村中孝次(たかじ)・磯部浅一の免官,35年7月皇道派の総帥真崎甚三郎教育総監の罷免,8月相沢三郎中佐による統制派のリーダー永田鉄山軍務局長の暗殺などで,両派の対立は激化の一途をたどった。皇道派青年将校は,拠点である第1師団の満州派遣が決定されると,現状維持派の政府・宮廷の要人および統制派の将領を打倒する〈昭和維新〉の決行につきすすんだ。

 36年2月26日早暁,皇道派青年将校は歩兵第1・第3連隊,近衛歩兵第3連隊など1473名の兵力を率い(ほかに民間人9名が参加),おりからの降雪をついて,要人を官邸または私邸に襲撃した。栗原安秀中尉の部隊は首相官邸で首相秘書の松尾伝蔵予備役陸軍大佐を殺害,これを岡田啓介首相と誤認した(岡田は女中部屋の押入れに隠れ,翌日弔問客にまぎれて脱出した)。坂井直(なおし)中尉の部隊は斎藤実内大臣と渡辺錠太郎教育総監を,中橋基明中尉の部隊は高橋是清蔵相をいずれも殺害し,安藤輝三大尉の部隊は鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。また野中四郎大尉の部隊は警視庁を,丹生誠忠(にゆうよしただ)中尉の部隊は陸相官邸付近をそれぞれ占拠し,襲撃を終えた他の部隊とともに麴町区南西部の政治・軍事の中枢を制圧した。さらに栗原らは反軍的とみなした東京朝日新聞社を襲って,活字ケースをひっくり返した。このほか河野寿(こうのひさし)大尉らの別働隊が湯河原滞在の牧野伸顕元内大臣を襲撃したが失敗し,牧野は脱出した。村中,磯部らは川島義之陸相に面会を強要し,国家改造の断行を迫った。真崎,荒木貞夫大将,香椎浩平(かしいこうへい)東京警備司令官らは決起に同情的態度をとり,決起を容認するかのような文言の陸相告示が出され,クーデタ部隊は〈警備部隊〉に編入,さらに27日午前3時東京市を区域とする戒厳令の施行によって〈麴町地区警備隊〉となり,兵站給養をうけた。しかし青年将校らは軍首脳部の〈善処〉をあてにして,蜂起後の計画を明確に立てておらず形勢の逆転を許した。天皇は重臣殺傷に激怒し,海軍も激しく反発,杉山元(はじめ)陸軍次官,石原莞爾(かんじ)作戦課長らの陸軍主流はカウンター・クーデタの方向に結集した。27日〈占拠部隊〉撤収の奉勅命令が下され,28日〈反乱部隊〉武力鎮圧の命令の下達により,29日約2万4000の大軍が反乱軍を包囲し,戦闘態勢をとるとともに,ラジオ放送や飛行機のビラなどで帰順を勧告した。青年将校らは奉勅命令に動揺し,目的をよく知らされないまま連れ出された下士官・兵士は〈兵に告ぐ〉の呼びかけをうけて続々と帰順,青年将校らは逮捕された。また皇道派の理論的指導者北一輝および西田税(みつぎ)らも逮捕され,クーデタは失敗した。

 陸軍首脳部は当初反乱を容認するかのような措置をとった失態を隠し,事件に対する非難をそらすため,青年将校らを極刑に処す方針をとり,一審制・非公開・弁護人なしの特設軍法会議で,7月5日17名に死刑の判決を下し,12日うち15名を処刑,翌37年8月19日北,西田,村中,磯部を死刑に処した。この間〈粛軍〉人事により皇道派系分子は一掃され,寺内寿一(ひさいち)陸相ら新統制派が陸軍主流として実権を掌握し,事件の威圧効果を利用して広田弘毅内閣の組閣に干渉,軍部大臣現役武官制復活など軍部の政治的発言力の著しい強化をもたらした。結局,統制派的勢力は,皇道派のクーデタを利用したカウンター・クーデタにより,皇道派を屠(ほふ)るとともに対英米協調的勢力を屈伏させ,圧倒的優位を築いたのである。
[江口 圭一]

[索引語]
皇道派 統制派 昭和維新


国史大辞典

二・二六事件
に・にろくじけん
昭和十一年(一九三六)二月二十六日の払暁、東京市に起きた陸軍の反乱事件。陸軍第一師団管下の歩兵第一連隊(歩一)・歩兵第三連隊(歩三)の尉官級(大尉・中尉・少尉)将校を主力に、同師団管下の野戦重砲兵第七連隊(野重砲七)、近衛師団管下の近衛歩兵第三連隊(近歩三)の一部が加わって決行した。将校二十名、もと将校二名、准士官一名、下士官八十八名、兵千三百五十七名が、総理大臣岡田啓介、内大臣斎藤実らを襲撃、また別動隊は、神奈川県足柄下郡湯河原町で前内大臣牧野伸顕を襲撃した。西南戦争以来、最大の国内事件であり、クーデターとも称される。その状況は別表のとおりである。
 襲撃後、部隊はその兵力・装備をもって、首相官邸や陸軍省・参謀本部などがある日本の政治・軍事の中枢地、麹町区永田町および三宅坂一帯を占拠した。このため、陸軍省と参謀本部は九段にある軍人会館や偕行社を臨時に使用した。事件が勃発すると、陸軍大臣川島義之大将は、官邸で香田清貞大尉らから国家改造・昭和維新の断行を説得されたのち、宮中に入った。そして、宮中に参内した軍事参議官(皇族二名を含む)と事件の収拾方策を協議、「陸軍大臣告示」を作成して、午後三時三十分、決起部隊に下達した。「告示」の第二項には「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」と記されていた。同時に午後七時二十分に出た第一師団の戦時警備令第二号で、決起部隊を「行動シアル部隊」として歩三連隊長の指揮下に編入し、占拠地帯の警備を命じた。また、原隊から食糧が決起部隊に運ばれた。「告示」「命令」で、二十六日の情勢は決起部隊に有利に展開したようにみえた。しかし、天皇は事件の勃発、斎藤実らの殺害を報告されると激怒し、行動部隊を叛乱部隊とし、みずから近衛師団を率い、討伐するとさえいった(『本庄日記』)。この天皇の断固たる意志が、叛乱軍と妥協を求めていた陸軍首脳に決定的衝撃を与えた。二十七日午前八時五十分、東京市に戒厳令が施行され、二十八日午前五時八分に、叛乱軍は原隊に帰れと命ずる奉勅命令(天皇みずから下す統帥命令)が下された。事態は、杉山元参謀次長・石原莞爾作戦課長の統帥(参謀本部)の首脳が指導権を握り、討伐・鎮圧へとなる。奉勅命令は下されたが、叛乱軍に下達する任にあった歩一連隊長は下達していなかった。これは、香椎浩平戒厳司令官、小藤恵歩一連隊長が叛乱軍に同調的であったこと、さらに小藤には、奉勅命令を叛乱軍に下達したとき、この天皇が直接に下す命令に服さない将校が出るかもしれないという危惧のあったこと、そうなれば、建軍以来の一大不祥事を現出すると考えたからである。事件は、陸軍の根基をゆるがす大事件であったことが、この一事からもわかる。この三日間、陸軍当局と叛乱軍側とが、妥協あるいは鎮圧、かたや帰順あるいは徹底抗戦と、互いに二転、三転して混迷におちいったのは、陸軍当局にも叛乱軍にも真の統率者(リーダー)がいなかったことにも原因がある。名実ともに唯一の統率者は天皇であった。陸軍三長官は、教育総監渡辺錠太郎は即死、陸軍大臣は当事者能力を失い、参謀総長閑院宮載仁親王は神奈川県小田原の別邸に引き籠って上京しなかった。叛乱軍も、村中孝次・磯部浅一は才幹・実行力でリーダーの資質があったが、なんといっても陸軍を追放された民間人で、発言力は弱かった。しかし、杉山ら統帥部は鎮圧のため、原隊に残留した歩一・歩三の兵力と、歩兵第五七連隊(千葉県佐倉)など地方の連隊を上京させ、戦車を先頭に叛乱軍を包囲し、攻撃を断行しようとした。時の言葉でいう「皇軍相撃」の破局が迫った。これを回避するため、ビラで帰順をすすめ、また「下士官、兵に告ぐ」というラジオ放送で、将校と下士官・兵との分断を策しつつ、陸軍省軍事調査委員長の山下奉文少将らが叛乱軍将校に自決の強要を中心に交渉。ついに二十九日午後、叛乱軍は帰順した。将校は逮捕され、渋谷区宇田川町にある陸軍衛戍刑務所に収監された。野中四郎大尉は陸相官邸の一室において拳銃で自決、安藤輝三大尉も赤坂の料亭幸楽で自決をはかったが軽傷だった。
 香田大尉以下の将校が事件を起した背景には、次のようなことがあった。第一次世界大戦後の平和的風潮、デモクラシーの流れ、左翼運動の勃興と進展は、国民の間に、軍部に対して蔑視感さえ生じていた。また政界・官界の疑獄(汚職)事件の頻発、都市労働者の困窮、特に東北地方の農村にみられる構造的不況などにより、陸軍部内に、政党政治の打倒、資本家の横暴の抑圧を中心とする、国家改造運動を志向する一群の人々が輩出した。明治維新以降、日本が近代化し、資本主義を達成して「富国」を実現していくには、事物や人が合理的操作を受け入れ、世俗化していかねばならない。官僚・経済人などとともに軍人も軍官僚として(軍事予算は議会の議決を得なければならない)、その一翼を担う。この軍人たちは、(一)陸軍大学校(陸大)出身の幕僚とよばれた人たちである(統制派)。他方、(二)「強兵」の軍隊を創建し、持続していくには、死ぬことがわかっている命令にも絶対服従する非合理的世界の極致が根基となる。それは絶対者(天皇)に帰依し、自己をそれに吸収し、一人一人が自己と絶対者との同一性の信仰により成り立つ(皇道派)。日本の軍隊は、この二面性が絶対的要請として固く結ばれていた。同じ軍人が地位・職責の異同に応じて、(一)と(二)の間を往復し、時にどちらかに重点をおく。そして、大将・中将という軍部の高官になるほど、この二面性の矛盾が露呈していく。(一)の中心であった永田鉄山少将らは、合法的に権力の掌握を目的とした「高度国防国家」「国家総動員体制」を実現しようとし、大尉・中尉・少尉という、日夜兵に接する(二)の尉官(青年将校)たちは、兵の供給源である農村の悲惨な状況は軍隊の基礎をゆるがす危機とし、これの救済を中心とする、いわゆる「昭和維新」の実現を期し、運動を続けていた。「蹶起趣意書」に、「元老、重臣、軍閥、政党」は「万民生成化育を阻碍して塗炭の痛苦に呻吟せしめ」ているから、これら「奸賊を芟除する」として蹶起した。現に権力を握り、国政を司る人たちを「君側の奸」として一掃し、天皇と国民が直結する天皇親政の政治形態、絶対者と自己との完全な同一の実現、つまり「昭和維新」断行のため事件を起したのである。だがこの蹶起は、天皇の断固反対・討伐の意志により敗北する。天皇は「君側の奸」とされた人たちを最も信頼し、国家の運営を託していたからである。(一)と(二)の対立は、昭和九年十一月二十日の統制派将校による村中大尉・磯部一等主計の逮捕事件(十一月事件・士官学校事件)や、国体明徴問題(天皇機関説問題)、真崎甚三郎大将を(一)から追放した真崎教育総監更迭問題(昭和十年七月)、相沢三郎中佐による永田軍務局長斬殺事件(同年八月)と激化し、つづく相沢公判、第一師団の満洲移駐決定により、師団在京中にやらねばならぬと、青年将校は事件を決行したのである。
 昭和十一年三月四日、緊急勅令により特設陸軍軍法会議が設置された。それは「一審制、上告なし、非公開、弁護人なし」であった。侍従武官長本庄繁大将の三月四日の日記(『本庄日記』)にみられるように、叛乱軍将校は宸禁を悩まし、軍人勅諭に背き、国体を汚し、その明徴を傷つけたと、天皇に断定された。また、内地および朝鮮・満洲からも逮捕された将校たちが衛戍刑務所に送られ、この法廷で裁判された。叛乱軍将校の第一回裁判は同年四月二十八日、判決は七月五日、処刑(銃殺)は七月十二日である。七月十八日に戒厳令が解除された。この第一次判決での死刑は十七名であるが、村中・磯部は真崎の裁判の証人として刑を執行されず、翌十二年八月十九日、北一輝・西田税とともに処刑された。なお、河野寿大尉は襲撃のとき負傷し、静岡県熱海の陸軍衛戍病院に収容中、十一年三月六日自決している。法廷では、被告たちの陳述の時間は、一人半日か、一日のみと少なく、その心情や動機などは裁判官・検察官に採り上げられず、一方的に断罪された。裁判を貫く方針は、短時日に事件を処理して、国民の軍部への不信感や危惧を一掃すること、青年将校は純粋に国を憂えて行動を起したが、北・西田らの「その思想根柢において絶対に我が国体と相容れざる」(判決文より)思想に毒され、「不知不識の間、正邪の弁別を誤り、国法を蔑視するに至れり」として、陸軍の外部が極悪で、その影響で事件が起きたとしたことである。また、兵(上等兵・一等兵・二等兵)は徴兵制度の維持のため、原則として全員無罪とされた。ただし、殺傷に直接加わった兵は除外とし、三名が執行猶予付きの刑に処せられた。下士官は、兵が満期除隊のとき志願してなるので、将校に準ずる刑を受けた。最高、禁錮十五年を筆頭に、執行猶予付きの刑まで四十四名が有罪となった。その主たる内容は別表のとおりである。
 事件後、寺内寿一陸軍大臣は粛軍と称して、いわゆる皇道派系の軍人を予備役編入や左遷にした。代わって、梅津美治郎陸軍次官を主流とする(一)である軍官僚が陸軍の実権を握り、流血の二・二六事件、粛軍人事を尊い犠牲と称し、事件のもつ武力への恐怖を利用して広田内閣の組閣に干渉した。さらに軍部大臣現役武官制復活(十一年五月)など、政治発言を極度に強め、日中戦争の勃発(十二年七月)と拡大、国家総動員法の公布(十三年四月)となった。この事件は昭和二十年八月の敗戦まで、日本の政治・軍事に測り知れない影響を与えたのである。
[参考文献]
河野司編『二・二六事件―獄中手記・遺書―』、林茂他編『二・二六事件秘録』、松本清張・藤井康栄編『二・二六事件研究資料』、埼玉県編『二・二六事件と郷土兵』(『新編埼玉県史』別冊一)、同編『雪未だ降りやまず―続二・二六事件と郷土兵―』(同二)、香椎研一編『香椎戒厳司令官―秘録二・二六事件―』、池田俊彦『生きている「二・二六」』、新井勲『日本を震撼させた四日間』(『文春文庫』)、末松太平『私の昭和史』、福本理本『罰は刑にあらず―ある下士官の二・二六事件―』、伊藤隆他編『真崎甚三郎日記』昭和十一年七月―昭和十三年十二月(『近代日本史料選書』一ノ三)、松本清張『二・二六事件』、高橋正衛『二・二六事件―「昭和維新」の思想と行動―』(『中公新書』七六)
(高橋 正衛)
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1. ににろく‐じけん【二・二六事件】
日本国語大辞典
昭和一一年(一九三六)二月二六日早朝、武力による国内改革を企図した皇道派青年将校らが起こした事件。首相官邸・警視庁などを襲い、内大臣斎藤実・大蔵大臣高橋是清・教
2. 二・二六事件
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3. に・にろくじけん【二・二六事件】画像
国史大辞典
与えたのである。 [参考文献]河野司編『二・二六事件―獄中手記・遺書―』、林茂他編『二・二六事件秘録』、松本清張・藤井康栄編『二・二六事件研究資料』、埼玉県編『
4. 二・二六事件
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1936年2月26日に起こった皇道派青年将校によるクーデタ。満州事変開始前後から対英米協調・現状維持的勢力と,ワシントン体制の打破をめざし国家の改造ないし革新を
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6. 二・二六事件主要襲撃事項一覧[図版]画像
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7. 二・二六事件主要受刑者一覧1[図版]画像
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8. 二・二六事件主要受刑者一覧2[図版]画像
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9. 二・二六事件/蹶起趣意書
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 謹んで惟おもんみるに我が神洲たる所以ゆえんは万世一系たる 天皇陛下御統帥とうすいの下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇はっこういちうを完まっとうするの国体に
10. 相沢事件
日本大百科全書
日、陸軍中佐相沢三郎が陸軍省で執務中の軍務局長永田鉄山てつざん少将を斬殺ざんさつした事件。二・二六事件の伏線となったもので永田事件ともいう。相沢はかねてから村中
11. 相沢事件
世界大百科事典
から,裁判の公開が禁止されて頓挫した。その後,皇道派青年将校グループは,二・二六事件の決起計画へ直進する。二・二六事件鎮圧後,寺内寿一陸相のもとでの〈粛軍人事〉
12. あいざわ‐じけん[あひざは‥]【相沢事件】
日本国語大辞典
陸軍中佐相沢三郎が陸軍省軍務局長永田鉄山少将を刺殺した事件。軍部内の統制派に対する皇道派の抵抗で、翌年の二・二六事件への伏線となった。永田事件。
13. 朝日新聞
日本大百科全書
軍縮運動、普通選挙運動に力を注ぐが、昭和期に入るとその反権力的姿勢が軍部、右翼からにらまれ、二・二六事件(1936)のときは、反乱軍の襲撃を受けた。しかし、この
14. 朝日新聞
世界大百科事典
の報道は,概して対外強硬論をとることが多かったが,国内問題ではしばしば政府や軍部を批判し,二・二六事件では《東朝》が襲撃を受けたり,広田弘毅内閣への入閣が内定し
15. あさひしんぶん【朝日新聞】
国史大辞典
〇〇号を迎えたが、このころから次第に軍部の圧力が加わり、またしばしば右翼の暴力沙汰もあり、二・二六事件ではついに、東京朝日新聞社も襲撃を受け、やがて満洲事変から
16. あざぶいつぽんまつちよう【麻布一本松町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
肥前佐賀藩士で国学者の古川松根、洋画界の先達久米桂一郎、明治から昭和時代の歴史学者である久米邦武、二・二六事件の刑死者の墓がある。浄土宗長伝寺は寛延元年(一七四
17. アドバルーン
日本大百科全書
ヒットソング『ああそれなのに』(1936)のなかで歌われる直前の1934年ごろと思われる。1936年の二・二六事件では反乱軍将兵に対して「勅命下る 軍旗に手向ふ
18. アナウンサー
日本大百科全書
援放送をした河西三省かさいさんせい、名調子の野球放送で知られた松内則三のりぞう、島浦精二、二・二六事件(1936)で「兵に告ぐ」の放送をした中村茂らである。第二
19. あべさだ【阿部定】
日本架空伝承人名事典
し」いとの言葉や、逮捕時の微笑を浮かべたような写真に、人々は強烈な印象を受けた。とともに、二・二六事件の直後、軍国主義が進む息苦しさの中で、この事件は一瞬ではあ
20. 阿部定事件
世界大百科事典
件としてジャーナリズムが大きく報道した。右翼青年将校が重臣顕官などを暗殺したクーデタである二・二六事件のあとなので,阿部定事件は国民の気分転換に役立てられたので
21. 阿部信行画像
日本大百科全書
相の代理を務めたが、宇垣退役後は中間的立場をとった。1933年(昭和8)大将。1936年の二・二六事件では軍事参議官として決起将校寄りの態度をみせた。同年3月予
22. 阿部信行
世界大百科事典
経て,ロンドン条約問題当時陸軍次官で,宇垣一成陸相の病気のため陸相臨時代理となった。次いで大将となったが,二・二六事件で予備役。1939年8月平沼騏一郎内閣総辞
23. あべのぶゆき【阿部信行】
国史大辞典
その後第四師団長を経て台湾軍司令官在任中の昭和八年六月陸軍大将に進級、軍事参議官に移ったが、二・二六事件後の粛軍人事で陸軍長老としての責任を負って辞職し、十一年
24. あまの-たけすけ【天野武輔】
日本人名大辞典
大正-昭和時代前期の軍人。明治28年11月22日生まれ。昭和10年歩兵少佐。麻布第三連隊付となる。11年の二・二六事件の際,反乱部隊の将校に翻意をうながす命をう
25. 荒木貞夫画像
日本大百科全書
を推進した。1933年に陸軍大将、1934年軍事参議官となり、1935年男爵。1936年の二・二六事件では決起将校に同調し、事件後予備役となる。第一次近衛文麿こ
26. 荒木貞夫
世界大百科事典
領として勢威をふるう。斎藤実内閣に留任,大将に進んだが,5相会議などで成果をあげえず辞任。二・二六事件では反乱軍に同情的態度をとり,予備役に編入された。第1次近
27. あらきさだお【荒木貞夫】
国史大辞典
経て昭和六年(一九三一)十二月から九年一月まで犬養・斎藤内閣の陸相となる。ついで軍事参議官・男爵となる。二・二六事件により十一年三月予備役に編入。十三年五月から
28. ありたはちろう【有田八郎】
国史大辞典
ルギー大使に任命され、十一年二月初め駐華大使となる。日中国交調整の使命をもって赴任するが、二・二六事件後成立した広田内閣の広田兼任外相よりの帰朝命令に接す。帰途
29. 暗殺
日本大百科全書
ときには戦争の引き金となる(例、第一次世界大戦)。また宮廷革命やクーデターと密接に関係する(例、二・二六事件)。加藤哲郎
30. あんどうてるぞう【安藤輝三】
国史大辞典
一九〇五―三六 昭和時代前期の陸軍軍人、二・二六事件の指導者。明治三十八年(一九〇五)二月二十五日に生まれる。陸軍士官学校卒。歩兵第三連隊付となり、陸軍大尉に昇
31. あんどう-てるぞう【安藤輝三】
日本人名大辞典
歩兵第三連隊付となり,昭和9年陸軍大尉,10年第三連隊第六中隊長。皇道派青年将校の中心的人物で,11年の二・二六事件では首謀者のひとりとして部隊をひきいて侍従長
32. いけだしげあき【池田成彬】
国史大辞典
設けみずからも勇退した。彼の直接の引退の動機は、表面は重役の停年制を設けたことにあったが、二・二六事件の前、右翼方面の情報を得るため北一輝に年二万円程度の金を与
33. いしだ-かおる【石田馨】
日本人名大辞典
明治18年5月4日生まれ。内務省にはいり,宮崎県,千葉県,神奈川県の知事を歴任。昭和11年二・二六事件のあと,広田内閣の警視総監をつとめる。戦後,公職追放ののち
34. いしはらかんじ【石原莞爾】
国史大辞典
。八年八月一日歩兵第四(仙台)連隊長。十年八月一日、参謀本部作戦課長の要職に就く。十一年、二・二六事件の勃発にあたっては、戒厳参謀(作戦主任)を兼勤して、事態収
35. いしはらこういちろう【石原広一郎】
国史大辞典
一方、彼には陸軍軍人および右翼との交際が生じ、五・一五事件の前には大川周明に資金を与え、また二・二六事件の際には斎藤瀏を通じて栗原安秀に千円を与えたが、「証憑十
36. 石原莞爾画像
日本大百科全書
「満州国」創設、日本の国際連盟からの脱退などを推進した。1935年参謀本部作戦課長となり、翌1936年の二・二六事件の鎮圧にあたる。「帝国軍需工業拡充計画」など
37. い‐しん[ヰ‥]【維新・惟新】
日本国語大辞典
皇道派青年将校が現状打破、国家改造を目ざして提唱した理念に「昭和維新」があり、同一一年(一九三六)の二・二六事件ではこの語がスローガンであったが、その事件を境に
38. 磯部浅一
世界大百科事典
1905-37(明治38-昭和12) 陸軍軍人,二・二六事件の主謀者。山口県出身。陸軍士官学校卒業(38期)。1934年の士官学校事件に関連して村中孝次とともに
39. いそべあさいち【磯部浅一】
国史大辞典
配布して免官。二・二六事件の首魁として十二年八月十九日銃殺される。三十三歳。判決より死刑執行までに獄中で書いた手記は、軍ファシズム運動研究にとり貴重な文書である
40. いそべ-あさいち【磯部浅一】
日本人名大辞典
10年停職となる。同年「粛軍に関する意見書」をかいて統制派を批判し,免官。11年栗原安秀らと二・二六事件を指導し,12年8月19日銃殺された。33歳。山口県出身
41. 一木喜徳郎
世界大百科事典
内相を経て,34年枢密院議長。しかし,天皇機関説問題で右翼の攻撃の矢面に立たされ,36年の二・二六事件後,すべての官職を辞退した。なお,実兄岡田良平の没後,大日
42. いなだ-しゅういち【稲田周一】
日本人名大辞典
内閣書記官などをつとめ,犬養(いぬかい)内閣から小磯内閣まで歴代の内閣につくした。在任中,二・二六事件に遭遇,また米英への開戦詔書をまとめた。昭和20年滋賀県知
43. いのうえしげよし【井上成美】
国史大辞典
同年十一月比叡艦長。同十年十一月少将に進み、横須賀鎮守府参謀長(司令長官米内光政)となる。二・二六事件に際し、万一に備えて、天皇の御召艦比叡を芝浦に回航させた。
44. いわたふみお【岩田富美夫】
国史大辞典
この大化会時代に大杉栄遺骨奪還、前橋水平社などの諸事件を起し、また野田醤油争議で争議団と抗争した。昭和になり二・二六事件の被告磯部浅一の獄中手記の秘匿問題を起す
45. いわむらみちよ【岩村通世】
国史大辞典
施設の充実に力をそそぎ、後々までこの方面の事業に尽力した。昭和十年(一九三五)司法省刑事局長となり、二・二六事件の処理にあたり、同十二年大審院検事次長となり、神
46. うしおしげのすけ【潮恵之輔】
国史大辞典
翌七年斎藤内閣が成立すると再び内務次官となり、官吏身分保障に尽力、また選挙粛正運動にも寄与した。同十一年、二・二六事件後に成立した広田内閣の内務大臣兼文部大臣に
47. うしろく-じゅん【後宮淳】
日本人名大辞典
1884−1973 明治-昭和時代前期の軍人。明治17年9月28日生まれ。昭和12年陸軍省軍務局長となり,二・二六事件後の粛軍人事をすすめる。17年陸軍大将。1
48. 梅津美治郎
日本大百科全書
うきん協定を中国に強要し、中国本土への侵入の契機をつくった。1936年3月陸軍次官となり、二・二六事件後の粛軍を推進し、1937年宇垣一成うがきかずしげ内閣の成
49. 梅津美治郎
世界大百科事典
1935年支那駐屯軍司令官として日本の華北進出のてことなった梅津・何応欽協定を締結,翌36年の二・二六事件直後には陸軍次官に就任して粛軍と軍部の政治的進出を推し
50. うめづよしじろう【梅津美治郎】
国史大辞典
日)を結び、一躍その名を知られた。きわめて緻密・冷静な事務家型軍事官僚の一典型であったが、二・二六事件勃発当初、動揺した幹部が多かった中で第二師団長としていち早
「二・二六事件」の情報だけではなく、「二・二六事件」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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