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大和国

ジャパンナレッジで閲覧できる『大和国』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

大和国
やまとのくに

五畿内 (きない)の一部。近畿地方の中央やや南寄り、現在の奈良県全体を含む地域の旧名。古代には奈良盆地内のみを意味し、吉野、宇智 (うち)、宇陀 (うだ)、東山中 (ひがしさんちゅう)は、その後に繰り込まれたが、この地が大和政権発生の本源地であることから、日本全体を意味することばともなっている。

 日本の統一政権である大和政権は、4~5世紀のころ、盆地の南東部、磯城 (しき)、磐余 (いわれ)、飛鳥 (あすか)の地を中心として発展したが、朝鮮半島を経て中国の文化や仏教を受容(538)して以来、その基礎を固め、飛鳥文化を現出し、飛鳥寺、法隆寺など多くの寺院も建造された。その後、中国の都城制を採用して藤原京(694)をつくり、さらに北部の奈良の地に平城京(710)を築き、唐文化に倣って華麗な天平 (てんぴょう)文化を開花させ、東大寺、興福寺など南都七大寺の文化が栄えた。784年(延暦3)都が長岡京、ついで平安京に移ると、奈良は南都とよばれ、皇室や藤原氏の故地として、伝統的文化を色濃く伝え、南都六宗を奉ずる仏教王国として特異な存在を続けた。なかでも興福寺は春日 (かすが)神社の神威を借り、衆徒・国民などの兵力を養って他の寺社を圧迫し、国司を追放し、多数の荘園 (しょうえん)を擁するに至った。かくて南都は平安末期に平家と争い、その焼打ちにより大打撃を受けたが、皇室、藤原氏、源頼朝 (よりとも)らの援助によって立ち直り、やがて国内にも寺社の庇護 (ひご)によって多くの地元産業を発生させた。一方吉野山には平安中期以来、修験 (しゅげん)宗が興隆し、熊野地方と結ぶ宗教上の聖地となった。南北朝時代、京都の武家方に対する南朝の半世紀にわたる対峙 (たいじ)は、この宗教的・経済的背景があったからである。

 室町時代に入ると、旧来大寺院の制肘 (せいちゅう)下にあった各所の郷村には、地侍 (じざむらい)を中心とする民衆勢力が台頭し、幕府や寺院の統制力が失われるに乗じてしだいに成長を遂げ、徒党を結び相互に争うに至った。筒井 (つつい)、古市 (ふるいち)、十市 (といち)、越智 (おち)、箸尾 (はしお)などはもっとも有力なものである。やがて国内へも他の諸宗教宗派が浸潤し、中央政界の雄たる細川、畠山 (はたけやま)氏、さらに下って三好 (みよし)三人衆や松永久秀 (ひさひで)の侵入があり、対内対外の抗争動乱の時代が続いた。しかし1568年(永禄11)織田信長が京都に進駐すると、筒井順慶 (じゅんけい)は巧みにこれと提携し、松永久秀を討滅し、国内諸党をも圧服し、信長の大和代官となった。織田氏が滅ぶと大和一国は豊臣 (とよとみ)政権の直轄領となり、秀吉の実弟秀長 (ひでなが)が郡山 (こおりやま)城に入り、河内 (かわち)、和泉 (いずみ)をもあわせて100万石を治めた。ついで、文禄 (ぶんろく)検地では大和一国は44万石と査定された。

 関ヶ原の戦いが終わり江戸時代を迎えると、初期の大名の改易・断絶・国替を経て、国中は七大名のほか直轄領、旗本・御家人 (ごけにん)の知行所 (ちぎょうしょ)、寺社の朱印料など100近い給地に細分されるという複雑な支配様相となっている。しかし長い平和な時代のなかで、街道は大坂への諸道をはじめ、京街道、伊勢 (いせ)街道、阿保 (あお)街道、また吉野川沿いの道も整備され、それにつれて都市も、奈良、郡山、今井をはじめ八木、桜井、三輪 (みわ)、丹波市 (たんばいち)、田原本 (たわらもと)、竜田 (たつた)、高田、御所 (ごせ)、新庄 (しんじょう)、五條 (ごじょう)、下市 (しもいち)、上市 (かみいち)、吉野、松山など地方の大集落も発展した。地元の産業は中期ごろからしだいに活気を呈し、米、種油、奈良晒 (さらし)、木綿、材木、茶、薬種、酒、素麺 (そうめん)、煙草 (たばこ)、紙、葛粉 (くずこ)などが生駒 (いこま)、金剛 (こんごう)の山脈を越え、大和川の川舟を利用して大坂その他の地方へ輸出された。奈良、吉野、長谷 (はせ)寺、當麻 (たいま)寺などへの観光旅行が盛行したのも中期ごろからである。後期になるとやや沈滞ぎみとなるが、伊勢参宮への数度のお陰参りも暴発的に起こっている。

 1863年(文久3)夏には天誅 (てんちゅう)組が蜂起 (ほうき)して、平和な国中を震撼 (しんかん)させたが、概して平穏に明治維新を迎えた。1871年(明治4)まず幕府直轄領が新政府に収められ、各藩もついで廃され、一括して奈良県となった。その後76年に至り堺 (さかい)県に合併され、さらに81年大阪府下に入ったが、多大の不便を生じたため、地元では独立の運動が起こり、87年奈良県の再設置が認められた。

[平井良朋]



歌川広重『六十余州名所図会 大和 立田山竜田川』[百科マルチメディア]
歌川広重『六十余州名所図会 大和 立田山竜田川』[百科マルチメディア]

1853年(嘉永6)国立国会図書館所蔵


世界大百科事典

大和国
やまとのくに

旧国名。和州。現在の奈良県。

古代

畿内に属する大国(《延喜式》)。添上(そふのかみ),添下,平群(へぐり),広瀬,葛上(かつらぎのかみ),葛下,忍海(おしうみ)/(おしみ),宇智(うち),吉野,宇陀(うだ),城上(しきのかみ),城下,高市(たけち),十市(とおち),山辺(やまのべ)の15郡に分かれていた。大和国を地形的にみると,奈良盆地(国中),大和高原(東山中),宇陀,吉野の4地域に分かれる。奈良盆地には13郡が設置され,添上郡と山辺郡の東半部が大和高原に及んでいた。宇陀には宇陀郡,吉野には吉野郡が置かれた。吉野とは,元来,中央構造線の走る吉野川右岸(北側)の野や山を指し,吉野宮(吉野離宮)が置かれていたが,奈良時代の724-732年(神亀1-天平4)には吉野監が設置されている。山岳信仰の高まりとともに大峰山付近までを吉野と称するようになるが,それでも,さらに奥の吉野の地域が,古代において大和国として把握されていたか疑問が残る。

 大和国は倭国,大倭国,大養徳国,山門国,日本国,大日本国などと表記されるほか,《万葉集》には,山常,山跡,和,大和などともみえている。藤原宮跡出土の木簡に〈倭国所布評〉と記すものがあり,707年(慶雲4)11月の威名大村骨蔵器銘文には,〈大倭国葛木下郡山君里〉の表記がみえている。一方,《続日本紀》では,大倭国,大養徳国,大和国などの表記がみえ,737年12月27日に,大倭国を改めて大養徳国としたが,747年3月16日に再び大倭国としたという。以上の史料からみると,大宝律令の施行とともに倭国から大倭国の表記に改められたと考えられる。

 ヤマト(大和/倭)とはもともと奈良盆地東南部をさす地名であったが,後に大和国全体を,さらには日本全土を指すようにもなった。ヤマトの範囲は初瀬川の流域で,三輪山と香具山を結んでできるデルタ地帯(第一次ヤマト)である。シキ(磯城)やイハレ(磐余(いわれ))地域が第一次ヤマトに相当する。香久山は代々の大王の国見儀礼の舞台であるとともに,その土が呪力あるものとされ,神聖視されていた。また三輪山は《日本書紀》の記事から推測すると,古くは大王みずからがまつる山であり,大王即位の儀礼も行われたらしい。後にヤマトの範囲は拡大し,オホヤマト(大和)やイソノカミ(石上)の地域をも含むようになる(第二次ヤマト)。ヤマトの地名が何に由来するか不明であるが,あるいは三輪山の麓を意味しているかもしれない。4世紀初頭,奈良盆地東南部の三輪山山麓に,大和王権が成立した。それは,この地域に箸墓古墳,渋谷向山古墳(現在の景行天皇陵古墳),西殿塚古墳など,巨大な前方後円墳が突如として出現したことで知られる。4~6世紀代には,シキ,イハレ,イソノカミの地域に歴代の宮がほぼ連続して営まれた。文字どおり,ヤマトは古代王権の膝下の地であったといえよう。

 7世紀代に入ると,飛鳥とその周辺に宮が営まれるようになり,持統朝には大和三山の間に藤原京が造営される。710年(和銅3),奈良盆地北部に営まれた平城京に都は移り,784年(延暦3)の長岡遷都まで続く。文字どおりこの時点まで,大和は一貫して日本古代国家の中枢であり続けた。

 大和が国家の中心であったため,逆に大和の国府や国分寺については不明なことが多い。国府の所在地は,7世紀後半には葛上の地にあったらしく(葛上旧国府),平城遷都とともに藤原京の西南隅(軽の街(衢)(ちまた)と呼ばれた場所である)に移ったらしい。ほぼ12世紀末まで大和の国府はこの地にあり,高市国府(軽国府とも)と称された。管見の範囲では,13世紀以降の記録に今国府(現,大和郡山市今国府町)の地名が見えてくるので,鎌倉時代には大和の国府は今国府に移転したものと考えられる。国分寺と国分尼寺についても不明なところが多い。総国分寺である東大寺が大和の国分寺を,総国分尼寺である法華寺が大和の国分尼寺を兼ねていたとする考え方が存在する一方,それぞれ両者は別個であるとする説がある。後者の説では,大和の国分寺は下ッ道と横大路が交差する西南隅(現在,橿原市八木町2丁目に国分寺が所在している)に,大和の国分尼寺は橿原市法花寺町に想定している。

 平安時代に入って藤原氏の勢力が増大するにつれ,興福寺と春日社は藤原氏の氏寺・氏社として尊信を受けるに至った。神仏習合思想の高揚とともに興福寺は春日社(春日大社)との一体化をはかり,1136年(保延2)ころには春日社を支配下に置くようになる。相次ぐ所領寄進を受けた興福寺では,雑役免田を大和一円に設定した。こうした興福寺荘園の増大とともに,大和国は藤原氏の知行国となっていく。
[和田 萃]

中世

社寺王国

中世の社寺王国大和を知るには,まず平安時代にさかのぼる必要がある。784年山背(城)国長岡京遷都によって平城京が廃されると,南大和の飛鳥地方に国府を設けていた大和国司が1国15郡を支配した。そのころ十五大寺が定まるが,これは南都七大寺(東大,興福,元興,西大,薬師,大安,法隆)に奈良の唐招提寺,新薬師寺,飛鳥の本元興寺,弘福寺(ぐふくじ)(川原(かわら)寺),京都の東寺,西寺,摂津の四天王寺,近江の崇福寺を加えたものであり(《延喜式》),これに飛鳥の両寺が加えられたのは飛鳥の復権を示している。しかし,奈良の社寺はその境内地を拡充して社寺の都の南都を出現させ,さらに社寺領荘園の設定に努めたため,国司との対立が激化した。おりから,摂関政治をはじめた藤原氏北家(摂関家)は大和国をその知行国とし,氏社春日社の祭祀を振興した。大和国の春日神領国化の始まりだが,神仏習合思想を利用して春日社との一体化を進めていた興福寺は大和国の支配を主張,1135年春日若宮社を創建,翌年から若宮祭を大和一国の大祭として興福寺境内で執行,神国大和を称して国中の社寺の末社・末寺化や社寺をまつる在地領主の土豪らの従属を強いた。土豪らを衆徒(末寺坊主),国民(末社神主)に列して在地代官とし,僧兵として武力に起用した。この末社末寺制と衆徒国民制とによって興福寺は大和国の支配組織を完成,摂関家代官の大和国司を有名無実たらしめた。

 この興福寺の攻勢は,平清盛政権が大和国を知行したり,1180年(治承4)には南都焼討ちを敢行するなどの災禍をこうむって頓挫したが,間もなく源頼朝の鎌倉幕府が成立,南都復興を援助し,武家の進駐を停めたため,興福寺は大和国司および守護職の実権を掌握した。ここで春日社興福寺を盟主とする大小社寺の領主連合組織が完成,治外法権の社寺王国(宗教王国)大和が出現した。興福寺の独走には東大寺や多武峰(とうのみね)(天台宗延暦寺末寺)が不満であり,やがて新興地侍らが将軍家御家人(地頭)あるいは悪党として反体制活動を始めたり,興福寺の一乗院,大乗院両門跡の対立抗争が生ずるにいたった。しかし,社寺王国化にともない,南都仏教が復興,社寺の修造や復旧が進んだ。古代寺院が現在まで厳存するいわれである。王朝貴族の長谷寺・金峰(きんぷ)詣や南都巡礼などにあやかって民衆の社寺詣などが漸次さかんになったためでもある。

南北大和の対立

1331年(元弘1)討幕を目ざした後醍醐天皇の南都遷幸によって元弘の乱が始まり,南都に隣接する山城国笠置山(かさぎやま)落城や大塔宮護良(もりよし)親王の吉野山挙兵などが知られる。翌々33年天皇は討幕に成功し建武新政を始めたが,足利尊氏の反乱に遭い,36年(延元1・建武3)吉野山に遷幸した。吉野山金峯山寺検校を兼ねる一乗院門跡がこれを迎え,南大和の土豪らが参仕し,足利尊氏も追撃を止めたため,吉野,宇陀,宇智の3郡のほか飛鳥奥地や大和高原など大和平野(奈良盆地)の周縁部は吉野方となり,南都領を侵略横領した。南都社寺は中立をとなえ,とくに律宗の唐招提寺,西大寺の長老は公武の和解に尽力したが,社寺領奪回や悪党らの制圧を将軍家に要請するなど武家方に同調するにいたった。こうして大和では南北朝動乱が南北地域抗争として展開する。47年(正平2・貞和3)足利尊氏の執事高師直(こうのもろなお)は河内の楠木正行(くすのきまさつら)を討ち,さらに葛城山を越えて大和に入り,飛鳥を経て吉野山を攻撃し皇居を焼掠した。後村上天皇は西吉野に逃れて賀名生(あのう)に行在所(あんざいしよ)を設け,なお奮起して河内に進んだため,吉野山皇居は廃絶し,大和の南朝勢力は山地にひっそくした。

 当代,衆徒・国民らは実力を増進して武士化を強めた。とくに春日若宮の祭礼に願主人(施主)の制を設け,祭祀に参与した(宮座といえる)のが注目される。衆徒・国民らは地域武士団として六党(筒井氏の戌亥脇,十市(とおち)氏の長谷川,箸尾(はしお)氏の長川,平田荘荘官らの平田,楢原(ならはら)氏の南,越智(おち)氏の散在党)を組成,毎年その2党ずつが若宮祭礼に参仕,党首が願主人となるしくみである。願主人らは金春(こんぱる),金剛,観世,宝生(ほうしよう)の大和猿楽四座をそろって参仕させ,薪猿楽も興福寺南大門に移して盛大に執行されるにいたった。やがて3代将軍足利義満が武威をあげ,西吉野地方に封じこんだ南朝を収束して動乱が終わるが,義満は神国大和を是認,興福寺両門跡を大和守護職に任じ,衆徒・国民らには忠誠を誓わせるなど,社寺の保護に努めた。なお,南朝制圧のため武家が占拠した宇陀・宇智両郡を春日社に寄進返付,宇陀郡は大乗院,宇智郡は一乗院の両門跡に支配させた。室町幕府の確立で社会経済および文化が発達し,南都は京都と並んでその中心となり,八木や竜田は宿場町として発展する。

 1428年(正長1)の正長の土一揆は酒屋土蔵を対象とする徳政一揆の始まりで,近傍の宿場から馬借らが南都に迫った。徳政一揆は京都と南都に頻発する。正長の土一揆は還俗(げんぞく)将軍足利義教の就任や南朝残党の伊勢国司北畠満雅の反乱がきっかけであるが,民衆台頭の下剋上の世の到来を示している。このおり,大和中部の衆徒・国民の葛藤が拡大,幕府の討伐軍に筒井氏が加わると,飛鳥の越智氏が南朝残党らと一味して対抗したため,南北大和の10年戦争が展開し(永享大和合戦),筒井,越智らは中央政界に結ばれて大名化を進める。この合戦を契機として後南朝が吉野奥地で勢いづき,大和南北両党が幕府管領家の細川・畠山両家の抗争に巻きこまれ,河内の畠山両家合戦に参じて激突したのが応仁の大乱に移行する。大和では永享大和合戦以降は戦国乱世に突入したといえる。北大和の筒井氏,古市氏,南大和の十市氏,越智氏が四強といわれ,衆徒・国民らが国衆(くにしゆう)として大小名化を競ったが,平和要望の郷村にその活動は制約され,いぜん社寺の領主的権威にすがって保身をはかったため,強力な戦国大名は出現しない。

 当代,奥地の吉野郡の僻地化,伊勢北畠氏の勢力の及んだ宇陀郡,紀伊(河内)畠山氏が支配した宇智郡には,それぞれの人文に伊勢・紀伊色が強まり,大和の歴史的舞台は大和平野部に縮まった感もある。しかも,この大和平野部(国中(くんなか))は従来の南北両分がさらに南和(飛鳥),中和(十市),北和(奈良)に3分されるし,北和にはなお東山中,西山中が生ずるなど,地域的分立が進んだ。大和は平地・山地を擁して地勢は複雑であり,先進・後進および僻地を網羅し全国の縮図の観を呈する。とくに平野部では大小溜池の濫立や環濠集落で知られるように,群小村落がひしめいていた。なお,地域的分裂に乗じて曹洞宗や一向宗が吉野郡にはじまって南大和に流布する。

 やがて16世紀半ばには,筒井氏は古市,十市,越智氏の衰退に乗じて独走勢力となったが,おりから細川氏の家老三好長慶が台頭,その家臣の堺代官松永久秀が大和をねらって信貴山(しぎさん)城を築き,1559年(永禄2)久秀は大和守護職を称して乱入,幼児の筒井藤勝(順慶)ら国衆を追って奈良に進出し,翌年にはその北郊に多聞山城を築いて居城とした。近世城郭の第1号といわれる雄壮な構築であり,4階だての多聞櫓がそびえた。大和は初めて他国武士に長期占領され,社寺王国も閉幕することになるが,京都や堺の町人らとさかんに交流した奈良町人や国衆の一部は,むしろ久秀に迎合している。

社寺王国の解体

主家を奪い将軍足利義輝を殺した松永久秀に対して,三好三人衆が蹶起し,成人して興福寺衆徒となり陽舜房順慶と称した筒井藤勝の反撃に協力した。67年多聞山城に追いこまれた久秀は追撃する三好三人衆が陣営をとる東大寺大仏殿を夜襲し,その火矢で大仏殿は炎上した。久秀の没落は必至となったが,翌68年織田信長が足利義昭を奉じて上洛するのを迎え,これに降参して大和の切取りを許されて危地を脱した。しかし義昭と信長との不和に乗じて信長に反乱,73年(天正1)には義昭を蹶起させたが,ともに敗れ,久秀は多聞山城を信長に渡して信貴山城に閉居した。信長に起用されていた筒井順慶は76年大和守護に任ぜられ,信長の石山本願寺攻めに参加,大和では高市郡の今井や吉野郡の上市,下市の本願寺御坊を攻略,なお郡山を居城(郡山城)に定め,80年に天守閣をあげてこれを完成した。同年,信長は検地を実施して社寺や国衆らにその所領を注進させ,国衆の社寺従属(僧兵)を禁じたり,社寺領の横領を糾明したが,処分は未了のまま82年本能寺で倒れた。明智光秀と羽柴(豊臣)秀吉の山崎合戦に順慶は光秀の招きには答えず,郡山城で戦局を観望,勝利した秀吉のもとに参じて保身した。出世の恩人の光秀を憤死させた打算的行動が,後日痛罵されて〈洞ヶ峠(ほらがとうげ)の順慶〉と評されるが洞ヶ峠に出陣したというのは虚飾である。

 秀吉は近畿随一の大名の順慶を利用するため大和をしばらく順慶に与えたが,85年,政権安定化工作の一環として弟の秀長を郡山城主として大和,和泉,紀伊の3国を支配させた。順慶の養嗣子の定次は伊賀上野城に国替えとなり,また社寺領を削減し,国衆らはすべて国外に去るか帰農するかの択一を厳命した。兵農分離や政教分離を強行し,武家封建支配の徹底をはかったものである。入国した秀長は郡山城とその城下町を拡充,奈良の商業や在郷の酒造などを禁止したり,僧兵跋扈の多武峰を城北の地(現,大和郡山市の大職冠の地)に移遷するなどして,城下町郡山の振興をはかった。社寺の商工業や武力を禁止,武家によるそれの掌握を示したものである。なお,秀吉は直臣の本多俊武を飛鳥の越智氏旧跡の高取城,伊藤掃部を宇陀郡に入れて秀長に与力させたが,大和の国情に対応する大名配置を考案したといえる。

 95年(文禄4)の太閤検地(文禄検地)の実施で大和国惣高は15郡45万石とされ,奈良惣町と城下町郡山が町を称したほか,約1500の多数におよぶ村落が確立,大小名や社寺に朱印領が給される。たまたま,郡山城の豊臣氏が絶えて秀吉の奉行の増田(ました)長盛が入城(20万石),大和はむしろ秀吉の直領化した。なお朱印領の交付によって社寺は蘇生した。筒井順慶の郡山築城前後から大和は兵火を免れ,秀吉兄弟の神仏崇信によって社寺も救われ,大和にはいち早く平和が到来したといえよう。

近世

1600年(慶長5)関ヶ原の戦で西軍に属した増田長盛を追放して大和を接収した徳川家康は,足利将軍家や豊臣秀吉らと同じく南都社寺や大和を厚遇し,大大名は入部させないで,直領化をはかった。

 徳川氏はまず国奉行を入れたが,13年奈良町や朱印社寺を所管する奈良奉行が置かれ,その他の直領には代官を入部させた(1664年南都代官所を新設して直領を統括,これは1795年に五条に移される)。ちなみに大名配置を15年(元和1)の豊臣氏滅亡後にみると,郡山城水野勝成(6万石,間もなく松平忠明12万石),高取城本多正武(2万5000石)のほか,竜田に片桐孝利(4万石,叔父の貞隆は小泉1万5000石),宇陀松山に織田信雄(のぶかつ)(3万石),式上(しきのかみ)/(しきじよう)郡に織田長益(2万石,柳本・芝村両藩祖),葛上郡に桑山元晴(御所2万石),桑山一晴(新庄1万6000石)であり,間もなく竜田片桐氏や桑山両氏は廃絶,松山織田氏は転封,その跡は直領となった。大和では郡山・高取に城郭がそびえるが,その他の大名は1万石の小身者などで陣屋を構えるに過ぎない。ちなみに幕末に大名は郡山柳沢氏(15万石),高取植村氏(2万5000石)のほかは柳生氏,小泉片桐氏,柳本・芝村織田氏,新庄永井氏,田原本平野氏(各1万石)があげられる。なお,伊賀藤堂氏が大和高原や東部大和で4万石を知行し,奈良近郊の古市村に代官所を設けた。

社会情勢

大名領は惣国高(45万石)の半ばをかぞえるが,郡山藩を除いては旗本知行所とほぼ同類であり,これと天領(幕府直領,旗本知行所)や社寺領が交錯したため,いぜん村落の分立などの旧態はつづき,大名の誅求などは制約された。封建支配はもちろん徹底するが,天下泰平がもたらされ,なお伝統の保存が許されたので住民生活には急変はない。気候上やや水不足ではあるが,耕地は肥沃な地味に恵まれ,とくに北大和では麻織物(奈良晒),南大和では綿作,山地では林産などがさかんになったため村民や町民らが確立し,村や町が発達した。元禄時代前後から農村には大和棟を載せる白壁の農家が群がり,町場では堅固な町屋建築が並んだ。やがて,地主や町人らの土地集積などもはじまったが,むしろ中堅村民が確立し,“静かで豊かな大和の農村”が出現した。また古社寺が復興して賽者を呼び,南都八景や花の吉野山をはじめ南北大和の名所をさぐる奈良見物や大和めぐりがさかんに行われるようになった。東大寺の大仏修理や大仏殿復興(1708)の供養法会は数十万の参拝客を誘い,奈良見物の圧巻となった。ちなみに,近世寺院制度によって,浄土宗,浄土真宗,融通念仏宗,日〓宗などの各宗も大和に流布した。なお,天台宗や臨済宗は振るわず,曹洞宗は南大和でさかんなのが特異だし,いぜん郷村鎮守を支配する真言宗が栄えた。

 近世後期,百姓一揆が起きたが,村落分立や住民の保守気質がこれの大挙を阻んだ。1753年(宝暦3)芝村藩預り支配の十市郡葛本村ほか8村が協議して年貢減免と預り替えを京都所司代に箱訴(はこそ)し,翌年には同藩領の村もこれに加わったため,庄屋年寄衆をはじめ村民200余人が一味徒党の罪で処断されたのが大騒動だが,これは天領が大名預所となり,過重課税となったので是正をもとめたものである(芝村騒動)。また1818年(文政1)幕府直領の吉野郡では旗本中坊氏の知行する竜門郷(中坊氏知行は15村)で領下14村(1村は不参)の百姓数百人が結集,代官浜島清兵衛の誅求の非を強訴し,浜島を殺害するにいたった。これは直領の吉野郡が山地のせいで殊遇されたのにくらべ,竜門郷のみは苛政に泣くという不満が爆発したものである(竜門騒動)。両一揆はいずれも幕府直領なみを望んだものであり,徳川将軍家の大和優遇がうかがえる。なお,年貢減免要求や豪農豪商宅を襲撃する打毀(うちこわし)などもおこったが,百姓一揆ともども大騒動というほどのものでもない。

 1863年(文久3)神武陵に攘夷祈願のため,孝明天皇の大和行幸の計画が発表されたが,これに関連して公卿中山忠光を擁した勤王志士が隊伍を組んで五条代官所を襲撃,代官鈴木源内を斬って挙兵した。天誅組の蹶起だが,政変で大和行幸は中止され,天誅組は討伐をこうむることとなった。十津川郷士が将軍家の恩顧をあえて破棄して勤王に郷論を統一し,天誅組にいったんは呼応したが,これが違勅行動となるというので天誅組と決別した。政局混乱の所産だが,この天誅組の蹶起は明治維新の暁鐘となる。
[永島 福太郎]

[索引語]
和州 吉野町(奈良) 倭国 大倭国 大養徳国 大和∥倭(地名) 磯城 磐余 東大寺 興福寺 春日社 十五大寺 南都 衆徒 国民(春日神人) 一乗院(奈良) 大乗院 吉野山 高師直 永享大和合戦 筒井氏 古市氏 十市氏 越智氏(大和) 国衆 松永久秀 筒井藤勝 筒井順慶 洞ヶ峠 豊臣秀長 郡山(奈良) 芝村騒動 竜門騒動


国史大辞典

大和国
やまとのくに
畿内の一国で、現在の奈良県にあたる。北は畿内の山城国(京都府)、西は畿内の河内国(大阪府)、東は東海道の伊賀・伊勢両国(ともに三重県)、南は南海道の紀伊国(和歌山県)に接する。近畿地方として日本国の中央部に位置している。地勢は、東方、伊勢国との国境の台高山脈から発して西流し、紀伊国に入る吉野川(紀ノ川)が大和国を南北に折半、南半部は山岳重畳の吉野山地(吉野郡)として紀伊半島の躯幹となり(大峰山脈を挾んで北山川・十津川が南流、合して熊野川(新宮川)となり、太平洋に注ぐ)、北半部はその西半分が奈良盆地(大和平野)、東半分を大和高原(笠置山地)や宇陀山地(宇陀高原)が占める。奈良盆地は四周を山地丘陵で囲まれ、「青垣四方に回れる国」という美称も知られる。この西壁となった生駒・金剛山脈の接点に屹立する二上山の北麓を大和川が河内平野に抜けるが、大和川水系の分流が縦横に出現し、これの流域が大和の歴史舞台の中心となる。旧石器時代の遺跡は二上山周辺に集中分布し、縄文草創期の桐山・北野や大川遺跡などは東大和の大和高原の木津川水源地帯に分布するが、やがて大和川水系を利用する奈良盆地の周縁部の台地に出現した。橿原(橿原市)・纒向(桜井市)・布留(天理市)・窪之庄(奈良市)・葛城鴨都波(御所市)や、吉野川流域の宮滝遺跡などが縄文・弥生時代の遺跡として知られ、奈良盆地中央の水田地帯にも唐古・鍵遺跡が出現している。やがて、奈良盆地の東南端の橿原・三輪地方に起った「ムラ国」の一つが発展、巨大古墳の前方後円墳などを築いてその勢威を輝かし、近隣の「ムラ国」を握る土豪らを従えて大和朝廷(大和政権)を樹立した。「ヤマト」は三輪山西麓の地名である。三世紀半ばの『魏志』倭人伝に記される邪馬台国(倭国)の所在に関しては、北九州説と大和説の両論が展開されているが、結論はともかく、大和は弥生時代から古墳時代への過渡期にあり、大和朝廷の成立が示される。およそ四世紀から六世紀にかけて、全国支配の古代国家大和が成熟する。宮居は南大和だが、奈良盆地に首都圏畿内の中心として大和国が成立した。朝廷は氏姓制を設けて豪族に臣属化を強い、また朝廷料地として県(あがた)を設置、県主を任じて御県神社を祭らせ、地方行政の拠点とした。大和には六御県(むつのみあがた、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曾布)が知られ、なお春日・宇陀・猛田の三県が指摘される。ついで、七世紀(飛鳥・藤原京時代)には聖徳太子の執政や孝徳天皇の大化改新によって、古代律令国家「日本」が始まる。国号表記には日本(雅称は大和)が主として用いられ、大和は国郡制の国名に固定した。このおり、大和の諸郡は前代の六県などの名称を踏襲している。なお、公地公民制や班田収授の実施に伴い、条里や官道の整備が行われた。大和国は吉野・宇陀の山地(ともに表・奥に分かれる)や大和高原(東山内、都介野や柳生地方)を包括して十五郡(当初は未詳)を管轄、大国に列せられる。奈良盆地南部には、難波や伊勢に通ずる東西行の横大路が幹線道路としてまず開かれ、横大路をそれぞれ起点として、南北行の下ツ道(のち中津道)・中ツ道(のち小中津道)・上ツ道の三幹線が漸次出現した。奈良盆地には、条里制が横大路を起点として施行された。八世紀に北大和の平城に遷都し律令国家が成熟するが、飛鳥には大和国府が遺された。国名は佳字で飾るというので、大和を養徳(大養徳)と表記することになったがなじまず、優雅な大和の文字が長く通用される。天平年間(七二九―四九)には吉野郡を国に準じて芳野監を置いたが少時にして廃止され、大和国の所管に復し、十五郡管轄の大和国が確立した。ちなみに、条里制は平城京を基点、下ツ道(中街道)を基幹として奈良盆地を東西諸郡に分かち施行することに修正され、美しい村落景観を呈する。ただし、盆地周縁部や山地の随所に若干の郷戸(在家・垣内)から成る村邑が出現した。これらに地方諸国名を冠する地名が見られるのは、国都大和たるいわれであろう。八世紀近くに平安遷都が断行され、大和は畿内だが諸国の一つとなり、国府は飛鳥に存続した。平城京東に残存した東大・興福・元興の諸大寺は荘園領主化を競い、境内地(門前郷)の拡充に邁進した。なお、藤原氏(北家・摂関家)がふるさと大和の領有を期して春日社の神威を高揚、大和国司も駆使した。大和は摂関家領国、特に北大和には国司権力不入の寺社の都(南都)が出現するが、大和支配の野望を発した興福寺は、摂関家に春日社の祭祀参与を要請し、鎮守化をはかった。神仏習合思想が幸いして社頭読経が許され、春日神人を手なずけて神木動座の強訴などを決行、ついに保延二年(一一三六)春日若宮を興福寺境内の御旅所に迎え、大和一国の大祭として若宮祭を始行した。念願の春日社祭祀を達成、春日社・興福寺の一体化が成就した。これより、興福寺は諸大寺や大社に末寺・末社化を強い、これを祭祀する土豪らを従属させて独走勢力を樹立、国司の排除をはかった。当時、金峯山寺が宇智・葛上、多武峯が宇陀・東吉野に進出している。やがて武家政権から大和守護職を付与され、「大和は乃ち春日社の爵邑、而して興福その治を司り、東大これに左右す」(達磨寺中興記幢、原漢文)といわれる寺社王国を実現した。興福寺では「被〓〓附大和一国於当寺〓者延久二年(一〇七〇)」(延応元年(一二三九)修理小目代義信申状)といい、室町将軍家では「大和洲者、承保之明時、御〓寄-附一国之吏務於興福寺〓、元暦之往代、重被〓〓守護職〓畢」(応永二十一年(一四一四)京都御事書案)と、これを公認している。延久二年大和国寄進というのは、同年の『興福寺雑役免帳』の残存したのを根拠としたもので、荘園整理断行の後三条天皇の公許という主張である。白河上皇の承保年間(一〇七四―七七)の寄進というのにも、ほぼ該当する。保元三年(一一五八)に「大和国併春日御社・興福寺等負所(雑役免)、寺僧領知、無〓一歩公田〓」(『兵範記』同年七月十七日条)との慨嘆が聞かれ、興福寺の独走勢力がわかる。『興福寺雑役免帳』はその成立に疑問も感ずるが、大和国十五郡の田畠二千三百五十七町九段三十五歩(うち公田畠は千二百六十町五段余)という記事は貴重資料といえる。保元三年の記事は、保元の乱における南都の不逞活動の処罰のため平清盛が大和国を拝領し、その初任検注を実施した際のものである。この賜国や清盛の検注に南都は不満で、清盛政権を憎悪したため、治承四年(一一八〇)の平氏の南都焼討ちを馴致した。源頼朝は特に東大寺の復興を援助、興福寺に大和守護職を委ねた。これが南都復興を促進するし、武家歴代の南都保護を決定づけた。大和国司および守護職の権能を付与された興福寺は守護権行使のため、有力名主を衆徒(末寺坊主)・国民(末社神主)に起用し、郡別に定使がこれを統制した。なお、衆徒代表二十名を官符衆徒(衆中)として常勤させ、奈良市中の雑務検断(司法行政)にあたらせた。南大和の国衙領平田荘(二千三百町歩)が一乗院門跡領となり、また山地にも興福寺勢力が光被するが、これに対し、反南都勢力が成長し、反体制分子の悪党らの蜂起が始まった。これに幕府が介入するが、興福寺は神国大和を主張してこれを拒んだ。おりから興福寺の一乗院(近衛流)・大乗院(九条流)両門跡の指導権争いが生じ、坊人(衆徒・国民)らを擁して武力衝突に及んだ。これに後醍醐天皇の討幕活動が絡みあい、大和は元弘の乱や南北朝動乱の中心舞台となる。吉野山挙兵の護良親王を鎌倉幕府軍は進撃したが、建武三年(一三三六)末に吉野山に遷幸した後醍醐天皇の追撃を足利尊氏は敢行しなかったので、戦災は免れた。上ツ道の興福寺領大仏供荘(上之荘)を扼して吉野前衛軍となった戒重西阿に討伐軍を下したが、善戦に遭うと軍を還した。貞和二年(一三四六)春日造替料段米を興福寺に催徴させたが、宇陀・吉野・宇智三郡は宮方に占領されて除外、葛上・忍海・高市・平群・式上・山辺諸郡の山間部は多くが宮方進納と称して未進である(葛下・広瀬・十市・式下・式上・山辺・添上・添下八郡支配の納所唐院の済否注文により推定)。奈良盆地(国中)、同周辺山間部(東山中・西山中、吉野は南山)、奥地(宇智郡・宇陀郡)の地勢が、武家(北朝)・宮方(南朝)両勢力の対抗に関係するし、地域差や人文差を助長するのがわかる。ちなみに、興福寺領は寺門(別当)・両門跡に三分され、守護権力も分裂する。貞和三年、河内で楠木正行を撃破した高師直は、長駆して吉野山皇居を侵した。後村上天皇は同郡賀名生に逃れるが、この暴挙は将軍家の内訌である観応擾乱を生み、宮方の奮起を促した。「正平一統の世」も出現、その瓦解で北朝・南朝の対立がはっきりした。観応二年(一三五一)、興福寺一乗院門跡に宮方が迎えられて大乗院門跡との対立が激化し、武力衝突が再燃した。南北両党に分裂した坊人らも馳せ参じ、数年間にわたり抗争した。「興福寺滅亡の初」といわれる。幕府は内訌で制止もできず、南朝は河内・摂津に遷幸、そこで衆徒・国民らの勢力争いが激化した。しかし、村民らの村づくりや郷村連合が進展し、かれらの土地兼併を阻んだ。郷村連合の祭祀組織である宮座をまね、衆徒・国民らが地縁集団の「党」を春日若宮祭祀組織に切り換えて六党とし、大和総国鎮守春日大明神の神威を負って郷村に臨み、なお地侍らの発生を抑えた。将軍足利義満は南大和の国民十市遠康の武力討伐の不首尾に懲り、春日社を祭祀して大和国主の権威をかざし、両門跡や衆徒・国民に従順を強い、なお宇陀・宇智両郷を直領として南朝勢圏を分断した。明徳三年(一三九二)に西吉野から後亀山天皇が上洛して南北両朝が合体、足利義満の強力政権が出現する。宇智・宇陀両郡は春日社に返付、両門跡の大和東西諸郡の分担支配が定まった。将軍家は南都復興を助長し、衆徒・国民らの私闘を禁じ、守護興福寺(両門跡)への忠誠を強いた。寺社王国大和を是認したものだが、南党の潜居する奥地や武家支配の強化を喜ばない南大和で反乱が生ずる。義満没後、後亀山上皇の西吉野入りや伊勢国司北畠満雅の反乱が起るが、北畠討伐軍の背後を宇陀の土一揆が攪乱している。正長元年(一四二八)、北畠満雅が南朝王子を奉じて再反乱、これが「正長の土一揆」を誘発したが、南都進撃の土一揆に宇陀郡の土一揆も参加する。当時、宇陀国人衆は北畠氏の被官となったし、河内・紀伊守護の管領家畠山氏は宇智郡を占領するし、北大和の衆徒筒井氏を被官化している。将軍足利義教は両門跡および衆徒筒井氏に、宇陀衆の沢・秋山氏らの討伐を命じた。筒井某は将軍家扶持人となり、興福寺官符衆徒団(衆中)の棟梁に任ぜられ(奈良代官兼大和守護代)、興福寺僧兵隊長となる。この興福寺の頭越しの筒井起用は衆徒・国民らの動搖を招き、永享二年(一四三〇)から越智(一乗院方国民)、筒井(一乗院方衆徒)を首領とする南北党争を惹起し、十年戦争を展開する。内訌、私闘色が強いので、幕府の越智討伐は活発化しない。おりから衆徒・国民らは寺社領を蚕食し、なお郷村を支配して大小名化を競った。越智郷・筒井郷などという当時の「郷」はその支配圏を示し、両郡に跨がるものも生じた。越智方に南朝余党が合力、多武峯に拠ったため、南朝討伐軍が大挙下向し、越智を追放、吉野山地に進撃して南北合戦は終った。しかし、嘉吉の乱で将軍義教が横死、義教に処罰された畠山持国が細川持之と管領職を争い、細川方の筒井順永追放のため越智家栄を引き立てた。なお、南朝余党が禁裏に乱入して神璽を奪い、これを北山郷にもたらして後南朝を樹立した。南北合戦の再現である。大乗院経覚が筒井に対抗のため近郊の衆徒古市胤仙(大乗院方)を起用、このため奈良市街戦も始まった。管領細川勝元が畠山制圧のため、同家相続争いを仕くみ、筒井らの大和衆を河内に送った。大和の南北合戦が河内に展開する。畠山政長・義就の京都上御霊社決戦が応仁の乱の口火となるが、細川勝元・政長の東軍では筒井一族が勇戦、山名宗全・畠山義就の西軍には越智・古市が参じた。京都に精鋭な諸国大名軍が到来すると、大和衆は引退、休養と領地固めに移った。長期対戦の筒井・越智の消耗に漁夫の利を得、古市澄胤は念願の官符職を筒井から奪った。越智に大和を委ね、南都領充満の山城上三郡に進出、京都街道の物資運輸権を握って巨富を獲得し、細川政元の門も叩いた。戦後の小康時代が幸いしている。明応二年(一四九三)に細川政元が僚友の畠山政長を河内で討ち、将軍の廃立を行なった。同六年に筒井一族が帰国して古市・越智を追うし、河内では政元の遺児が帰国して両畠山合戦が再開した。戦国乱世である。同八年、河内出陣中の筒井・越智ら大和国衆二十余人は和談し、出兵の愚を避け、現状維持で平和安泰をはかろうと盟約したといわれる。これに外れた古市澄胤が、細川政元軍の宇治槇島代官の沢蔵軒宗益(赤沢朝経)の大和乱入を案内した。奈良を占領、国中から軍費を徴収したが、その乱暴や長期駐留に堪えかね、興福寺は神木を動座して強訴、国衆は盟約して退去を要求した。しかし、宗益・長経二代の大和支配は十年に及び、前将軍足利義材の復活で終る。両細川・両畠山家の分裂抗争が続くが、国衆はこれの敬遠に努めた。さきの神木動座や国衆の盟約が神国大和観を高揚したのだが、これで国衆らは郷村や輩出する地侍らを抑えた。筒井順賢らは官符職を獲得し、順興・順昭と続き、天文年中(一五三二―五五)に南大和にも進出して統一勢力になるが、春日社興福寺に忠誠している。ちなみに、その勢力は奈良盆地が舞台で、飛鳥には及ばない。天文末年、三好長慶の堺代官松永久秀は河内国境の信貴山城に入った。堺経済圏の大和を狙ったもので、筒井順慶は幼児である。永禄二年(一五五九)に久秀は大和守護を称し、筒井藤勝丸(順慶)を追って奈良に上り、翌年、多聞山に居城した。同十一年、将軍足利義昭に降参して大和の切取りを許されたが、天正元年(一五七三)に織田信長に反抗、多聞山城を献じて許され、信貴山城に隠居した。多聞山城には城番が下向し、筒井順慶ら国衆を指揮したが、同三年に塙直政が大和守護に任ぜられ、翌四年に筒井順慶が代わった。同八年、信長は滝川一益・明智光秀を上使として一国指出(検地)を徴し(宇陀・宇智両郡を除く)、順慶に守護職を安堵、一国一城として郡山城を授けた。この指出は寺社や国衆らに忠誠を誓わせ、順慶に従順させるものだが、同十年の摂津山崎の戦に順慶は国衆らの去就をはかりかね、出陣をためらった(「洞ヶ峠の順慶」)。同十三年、羽柴秀吉は順慶の後嗣の定次を伊賀上野に移し、異父弟の羽柴秀長に郡山城を与え、これを大増築させて大坂城の護りとしたが、大小国衆らには国外に退去か帰農を命じた。土着勢力や武力を一掃し、寺社王国大和の解体を期したのである。ただちに指出を徴したが、これは郷村に及び、宇陀・宇智両郡を含め、吉野郡奥地の十津川郷(のち北山郷)には検地を実施している。信長指出と相違のものは糾弾是正した。同十九年、新国主の羽柴秀保も指出を徴したため、ほぼ正確となり、文禄四年(一五九五)の太閤検地は新城主増田長盛の時代だが、総国十五郡九百余村で、村高集計約四十四万九千石という(吉野郡二百六十四村、山辺郡百二村など、村落が多数なのは地勢のためである)。この文禄検地の村高に準拠して、豊臣政権に代わる徳川政権も大小名配置を行なった。関ヶ原の戦後、徳川家康は代官頭大久保長安に大和の天領を代官支配させ、国奉行小堀正次らとともに施政させた。奈良代官は廃したが、長安の手代が配置された。郡山城は長安が預かり、宇陀郡松山城(福島高晴)・高取城(本多俊政)は東軍に属したのでもとのままで、新たに平群郡内に片桐且元(竜田)・同貞隆(小泉)、葛上郡内に桑山一晴(御所)・同元晴(布施)が見える。松山の福島氏が三万石余で最高、一万石級が主であり、新大名には城郭はない。なお、一万石以上の知行主に織田有楽(長益)ら三人が見えるが本領ではなく、給人は千石以上四十九、千石以下二十一人をかぞえる。幕府直領は大久保長安支配の六万石(吉野郡四万石を含む)、ほかに寺社領三万五千石などがある。土地細分化の伝統や、南北大和および山地の複雑な地勢・人文が然らしめたといえる。慶長十八年(一六一三)に奈良奉行所が開かれ(吉野郡下市に手代が常駐)、大坂の陣後、大小名配置も変更されたが、さほど変化はない。明治二年(一八六九)現在の諸藩は、郡山柳沢藩(十五万石)、高取植村藩(二万五千石)、柳本・芝村の織田両藩、小泉片桐藩、柳生藩、田原本平野藩(各一万石)の七藩である。ほかに、伊賀国隣接の添上・山辺の山地は藤堂藩領になった。大和の幕府直領も奈良奉行が支配したが、寛文四年(一六六四)に新設の奈良代官所に委譲された。元文二年(一七三七)に大名預け地制を採り、これを廃止したが、復活のかたちで寛政七年(一七九五)五条代官所が設置され、南大和を管掌した(北大和は奈良奉行)。五条代官所が文久三年(一八六三)天誅組に襲撃されたのが有名。明治新政で奈良府や藩県が国内に成立したが、同四年に一国を所管する奈良県が成立した。大和国は、地勢・人文ともに多彩で、全国の縮図の観がある(国名を称する村落が多かったのも一例である)。おのずから人国記も複雑となる(『大和人国記』は表郡と奥郡に分けた。南・北大和、あるいは南・中・北和の地域区分も時代によって異なる)。それが国都時代に始まり、近代に至るまで温存されていたのも特異である。→飛鳥(あすか),→奈良(なら),→平城京(へいぜいきょう)
[参考文献]
『奈良県史』、奈良県編『大和志料』、同編『大和人物志』、永島福太郎『奈良文化の伝流』、同『奈良県の歴史』(『県史シリーズ』二九)
(永島 福太郎)
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検索コンテンツ
1. 大和国画像
日本大百科全書
五畿内きないの一部。近畿地方の中央やや南寄り、現在の奈良県全体を含む地域の旧名。古代には奈良盆地内のみを意味し、吉野、宇智うち、宇陀うだ、東山中ひがしさんちゅう
2. 大和国
世界大百科事典
はじめた藤原氏北家(摂関家)は大和国をその知行国とし,氏社春日社の祭祀を振興した。大和国の春日神領国化の始まりだが,神仏習合思想を利用して春日社との一体化を進め
3. やまとのくに【大和国】画像
国史大辞典
天平年間(七二九―四九)には吉野郡を国に準じて芳野監を置いたが少時にして廃止され、大和国の所管に復し、十五郡管轄の大和国が確立した。ちなみに、条里制は平城京を基
4. やまとのくに【大和国】奈良県
日本歴史地名大系
で執拗に続いた。大和国衆も関係を余儀なくされたが、国衆相互の和睦の動きは明応八年以来進み、永正二年(一五〇六)春日社頭で盟約が成立した(大乗院雑事記)。この時期
5. 大和國(やまとのくに)【篇】
古事類苑
地部 洋巻 第1巻 267ページ
6. 大和國吉野國栖 (見出し語:大和國【篇】)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 743ページ
7. 大和國土蜘蛛 (見出し語:大和國【篇】)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 739ページ
8. 大和國夙 (見出し語:大和國【篇】)
古事類苑
政治部 洋巻 第3巻 914ページ
9. 大和國方言 (見出し語:大和國【篇】)
古事類苑
人部 洋巻 第1巻 833ページ
10. 大和國牛 (見出し語:大和國【篇】)
古事類苑
動物部 洋巻 第1巻 48ページ
11. 大和國中拂(やまとくにじゅうばらい)
古事類苑
法律部 洋巻 第2巻 359ページ
12. やまと-くにのすけ【大和国之助】
日本人名大辞典
1835−1865* 幕末の武士。天保(てんぽう)6年11月3日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。久坂玄瑞(げんずい)らと横浜外国人居留地焼き討ち
13. 大和国家画像
日本大百科全書
考慮に入れて考察すれば、初期の大和政権の基盤は、後の大和国磯城しき、十市とおち郡を中心に、山辺やまのべ、高市たけち郡の一部を含めた地域であり、大和国規模の政治的
14. やまと‐こっか[‥コクカ]【大和国家】
日本国語大辞典
〔名〕現天皇家の系譜上の祖先を君主とし、少なくとも四世紀以降、古代日本の大和地方に成立していた国家。大和時代の国家。
15. やまとこっかのしはい【大和国家の支配】 : 古代
国史大辞典
大和国家の支配〕 大和国家の支配の実態とその推移は、記紀以下の不確かな史料がわずかに存在するだけで、詳細は必ずしも明確ではないが、その支配体制は私地私民制と
16. 大和国郡郷一覧1[図版]画像
国史大辞典
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17. 大和国郡郷一覧2[図版]画像
国史大辞典
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18. やまとのくにこいずみはんしゅ【大和国小泉藩主】 : 片桐氏/(二)
国史大辞典
(二)大和国小泉藩主  貞隆は関ヶ原の戦ののち、徳川家康から一万石を与えられて大名となり、大和小泉に住す。元和元年(一六一五)一万六千四百石に加増。子の貞昌(
19. やまとのくにこおりやまはんしゅ【大和国郡山藩主】 : 柳沢氏/(一)
国史大辞典
(一)大和国郡山藩主  甲斐国武田氏の武川衆(むかわしゅう)の出という。主家の没落後、微禄で徳川氏に仕えた。吉保は五代将軍徳川綱吉のもとで破格の昇進をし、元禄
20. やまとのくにこおりやまはんりょうほかてんめいしちねんうちこわし【大和国郡山藩領他天明七年打毀】
国史大辞典
連年の凶作で米価の高騰がつづいていたところ、天明七年(一七八七)四月中は雨天つづき、大風雨や降雹もあって世情きわめて不穏なものがあった。五月十二日大坂で打ちこ
21. やまとのくにしばむらはんあずかりちほうりゃくさんねんいっき【大和国芝村藩預地宝暦三年一揆】
国史大辞典
宝暦三年(一七五三)十一月、芝村藩預所十市・式下・葛下三郡三十数ヵ村による京都奉行所への強訴。芝村藩の「御預所」で起ったので芝村騒動と呼ばれるが、十市郡の九ヵ
22. やまとのくにしばむらはんしゅ【大和国芝村藩主】 : 織田氏/(三)
国史大辞典
(三)大和国芝村藩主  信長の弟の長益(有楽)は関ヶ原の戦後、功によって大和で三万石の所領を与えられたが、大坂の陣のあと致仕し、第四子長政に戒重一万石、第五子
23. やまとのくにしんじょうはんしゅ【大和国新庄藩主】 : 永井氏/(一)
国史大辞典
(一)大和国新庄藩主  桓武平氏の長田氏流。長田親政の子孫直勝は徳川家康に仕えたが、長田は源義朝を討った家号のため、家康の命により大江氏の永井流に改めたという
24. やまとのくにたかとりはんしゅ【大和国高取藩主】 : 植村氏/(一)
国史大辞典
(一)大和国高取藩主  家祖は美濃の清和源氏土岐氏の出で、遠江国上村に移り植村氏をおこしたという。三河松平氏(徳川氏)の譜代の家臣となり、家存(いえさだ)・家
25. やまとのくにたつたはんしゅ【大和国竜田藩主】 : 片桐氏/(一)
国史大辞典
(一)大和国竜田藩主  且元は文禄四年(一五九五)大名となり、大坂の陣後四万石。大和竜田に住す。寛永十五年(一六三八)且元の子の孝利に子がなかったので、弟の為
26. やまとのくにはたもとすなみしちぎょうしょほかけいおうにねんいっき【大和国旗本角南氏知行所他慶応二年一揆】
国史大辞典
慶応二年(一八六六)五月十一日夜、旗本角南氏の知行所、添下郡藤ノ木村と中村を中心に起った一揆。米価の高騰に苦しむ両村の貧農三十九人に、近くの霊山寺領脇寺村・郡
27. やまとのくにはたもとなかのぼうしちぎょうしょぶんせいがんねんいっき【大和国旗本中坊氏知行所文政元年一揆】
国史大辞典
文政元年(一八一八)冬、中坊氏の知行所竜門郷十五ヵ村の百姓が起した一揆(ただし矢治村のみ不参加)。竜門騒動とよばれる。竜門郷十五ヵ村は、元和三年(一六一七)当
28. やまとのくにやなぎもとはんしゅ【大和国柳本藩主】 : 織田氏/(四)
国史大辞典
(四)大和国柳本藩主  長益の第五子尚長が柳本一万石を領して以後、子孫が継承。柳間詰。明治十七年(一八八四)信及のとき子爵を授けられる。
29. 大和国略図[図版]画像
国史大辞典
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30. 大和国/荒陵墓幽考袖控(著作ID:4409725)
新日本古典籍データベース
やまとのくに/こうりょうぼゆうこうそでひかえ 陵墓 
31. 大和国/長谷寺縁起(著作ID:521722)
新日本古典籍データベース
やまとのくに/はせでらえんぎ 豊山神楽院長谷寺略縁起 豊山長谷寺略縁起 実阿(じつあ) 寺院 享和元奥書
32. 大和国茜染(著作ID:1024971)
新日本古典籍データベース
やまとのくにあかねぞめ 浄瑠璃/宮古路 
33. 大和国井手下紐(著作ID:1776654)
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やまとのくにいでのしたひも 並木正三一世(なみきしょうざ1せい) 脚本 寛延二初演
34. 大和国金石文(著作ID:4372524)
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やまとのくにきんせきぶん 金石文 
35. 大和国郡山綴錦(著作ID:3143337)
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やまとのくにこおりやまつづれのにしき 
36. 大和国細見図(著作ID:305340)
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やまとのくにさいけんず 嘉永増補改正/大和国細見図 中村敢耳斎(なかむらかんじさい) 著 佐々木西里(ささきせいり) 長谷雨蕉(はせうしょう) 校 地図 
37. 大和国細見図(著作ID:1086506)
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やまとのくにさいけんず 大和国細見絵図 中村敢耳斎(なかむらかんじさい) 著 高木貞武(たかぎさだたけ) 画 榕山戈春堂(ようざんかしゅんどう) 校 地図 
38. 大和国信貴山奥之院米尾山多聞院略絵図(著作ID:4366822)
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やまとのくにしぎさんおくのいんよねおさんたもんいんりゃくえず 絵図 
39. 大和国信貴山略縁起(著作ID:4367045)
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やまとのくにしぎさんりゃくえんぎ 縁起 
40. 大和国諸郡図(著作ID:580030)
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やまとのくにしょぐんず 大和諸郡図 地図 
41. 大和国中ひとりあんない(著作ID:580938)
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やまとのくにじゅうひとりあんない 地誌 
42. 大和国全図(著作ID:4361692)
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やまとのくにぜんず 地図 
43. 大和国添上郡大安寺伽藍絵図(著作ID:4366817)
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やまとのくにそえかみぐんだいあんじがらんえず 絵図 明治
44. 大和国橘寺南無仏太子刷物(著作ID:4381838)
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やまとのくにたちばなでらなむぶつたいしすりもの 寺院 
45. 大和国筒井清水(著作ID:1776767)
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やまとのくにつついしみず 絵本筒井清水 浜松歌国(はままつうたくに) 作 浅山蘆国(あさやまあしくに) 画 読本 文化一四刊
46. 大和国十市郡/多太明神社記(著作ID:2346498)
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やまとのくにとおちぐん/おおのだいみょうじんしゃき 多大明神社記 植田重治(うえだしげはる) 神社 元文二
47. 大和国十市高市両郡古迹考(著作ID:521711)
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やまとのくにとおちたけちりょうぐんこせきこう 大和国十市高市古迹 地誌 
48. 大和国道中記(著作ID:1776789)
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やまとのくにどうちゅうき 紀行 
49. 大和国初瀬里天満宮略縁起(著作ID:4387478)
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やまとのくにはせのさとてんまんぐうりゃくえんぎ 寺院 
50. 大和国日吉の神祇(著作ID:444166)
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やまとのくにひえのじんぎ 烏亭焉馬二世(うていえんば2せい) 
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徳政令(国史大辞典)
すでに締結されている売買・貸借・寄進などの契約について、無条件で、もしくは条件を付して、契約関係の継続、もしくは破棄を宣言する法令。一般には契約関係の破棄宣言のみを意味すると理解されやすいが、当代のさまざまな契約形態に対応して除外規定も少なくない。また、契約の破棄を
遠江国(改訂新版・世界大百科事典)
旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。東海道に属する上国(《延喜式》)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。7世紀の中葉,遠淡海,久努,素賀の3国造の支配領域を併せて成立したものと思われる。国郡制に先行する
王政復古(日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
江戸幕府の崩壊から明治政府の成立過程における一つの政治理念で、最終的には、1868年1月3日(慶応3年12月9日)の「王政復古の大号令」の発表による新政府成立を示す。江戸時代には、全国統治の実権は将軍=徳川氏と幕府に握られ、天皇や公卿で構成される朝廷は、儀礼的な存在に形骸
朝幕関係(国史大辞典)
〔鎌倉時代―建武政権〕治承四年(一一八〇)八月、伊豆に挙兵した源頼朝は、以仁王の令旨によって、東国における荘園・公領の沙汰を認められたと主張している。その令旨は、壬申の乱における天武天皇に倣って、高倉上皇・安徳天皇・平清盛によって構成される現王朝を
異国渡海御朱印帳(日本大百科全書)
江戸初期に幕府が海外渡航の貿易船に与えた許可証の控え。金地院崇伝 (こんちいんすうでん)(以心 (いしん)崇伝)の自筆、1冊。京都市南禅寺金地院所蔵(国指定重要文化財、京都国立博物館保管)。崇伝が、前任の豊光寺承兌 (ぶこうじしょうだ/
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平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
日米和親条約(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸幕府がアメリカ使節ペリーと結んだもので、鎖国を破った最初の条約。神奈川条約ともいう。列強のアジア政策の焦点は、一八四〇年代前半中国と条約上の通商を開始して、極東の鎖国日本の開国へと絞られた。その先導的役割を果たしたアメリカ政府の対日使節派遣計画は
天保の改革(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸時代後期の天保年間(一八三〇―四四)に、幕府や諸藩で行われた政治改革の総称。幕府の天保の改革に関する研究は、明治二十年(一八八七)―三十年代から始まる。それは明治二十八年・二十九年に出版された福地桜痴『水野閣老』そのほかに代表されるが、改革を担当
シーボルト事件(日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸後期、ドイツ人医師シーボルトの国外追放事件。1828年(文政11)9月、オランダ商館付医官シーボルトが任期を終えて帰国しようとした際に、たまたま起こった暴風雨のために乗船が難破し、積み荷が調べられた。そのオランダへ持ち帰る荷物のうちに、伊能忠敬
寛政の改革(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸時代後期の幕政改革。老中松平定信の主導により天明七年(一七八七)から寛政五年(一七九三)まで、六年間にわたり断行された。享保・天保の改革と並び三大改革の一つに挙げられる。寛政の改革の前代は、老中田沼意次による政治が展開した。しかし田沼政治も末期を
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