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平治の乱

ジャパンナレッジで閲覧できる『平治の乱』の世界大百科事典・日本国語大辞典のサンプルページ

世界大百科事典

平治の乱
へいじのらん

1159年(平治1)に起こった内乱。保元の乱に勝った後白河天皇は1158年(保元3)に退位して院政をはじめるが,その間に院近臣や武士のあいだに権力争いがはげしくなっていた。院権臣の信西(藤原通憲)と藤原信頼とは互いに権勢を競って対抗し,とくに信西が信頼の近衛大将の就任を阻止したことによってその抗争は深刻なものとなった。一方,武士の棟梁のなかでは,平清盛と源義朝が相互に競って中央政界への進出をはかったが,保元の乱で武勲第一の義朝が左馬頭にとどまり,清盛が播磨守・大宰大弐になったことは,義朝に大きな不満を抱かせ,その反目が鋭くなった。義朝ははじめ信西に接近しようとしたが,清盛が巧みに信西に近づいて権勢を高めてきたので,信頼と相結び,ここに信西・清盛と信頼・義朝の二つの政治勢力がはげしく対立する情勢が生じた。ついに59年12月,信頼・義朝は,清盛が熊野参詣にでかけた虚をついて挙兵し,後白河上皇・二条天皇を内裏に幽閉し,信西を殺した。信頼はかってに除目(じもく)をおこない,みずから近衛大将になり,義朝を播磨守に任じたりした。しかし急ぎ帰京した清盛の軍勢が盛んなのをみて寝返る者が多く,藤原経宗・惟方らは清盛に通じ,ひそかに天皇・中宮を清盛の六波羅邸に移し,後白河上皇もまた仁和寺へのがれたので,信頼・義朝方はたちまち孤立してしまった。清盛は,弟頼盛・長男重盛らの軍勢をもって信頼らの占拠する大内裏を攻撃した。義朝らはよく奮戦して平家の軍勢を退け六波羅まで進撃したが,源頼政の寝返りなどもあって大敗するにいたった。信頼は上皇に助命を求めたが許されず,六条河原で斬られ,義朝は東国へ逃れる途中尾張国で長田忠致に謀殺された。義朝の長男悪源太義平も捕らえられて斬られ,三男頼朝は伊豆に流罪となった。この乱の結果,源氏武士団の勢力が没落し,平清盛が中央政界における唯一の武門としての地位を確立した。
[田中 文英]

[索引語]
信西 藤原信頼 平清盛 源義朝


日本国語大辞典

親見出しへい‐じ[‥ヂ]【平治】
へいじ の 乱(らん)

保元の乱後、後白河上皇の寵臣藤原通憲と結んだ平清盛を打倒しようとして、源義朝が通憲の対立者藤原信頼と結んで平治元年(一一五九)に挙兵した内乱。後白河上皇を幽閉し、通憲を殺害したが清盛に敗れ、義朝・信頼は殺された。源氏の勢力は衰退し、平氏政権が出現した。

発音

〓ジノラン

〓[ヘ]


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検索コンテンツ
1. へいじ の 乱(らん)
日本国語大辞典
保元の乱後、後白河上皇の寵臣藤原通憲と結んだ平清盛を打倒しようとして、源義朝が通憲の対立者藤原信頼と結んで平治元年(一一五九)に挙兵した内乱。後白河上皇を幽閉し
2. 平治の乱
世界大百科事典
1159年(平治1)に起こった内乱。保元の乱に勝った後白河天皇は1158年(保元3)に退位して院政をはじめるが,その間に院近臣や武士のあいだに権力争いがはげしく
3. へいじのらん【平治の乱】
国史大辞典
義朝は東国に落ち行く途中で殺され、頼朝は捕えられて伊豆に流される。信頼は六条河原で斬首された。平治の乱により平氏の実力はいよいよ固まり、武者の世の到来を人々に実
4. 平治の乱
日本史年表
藤原信頼・源義朝,後白河上皇の三条烏丸御所を襲撃し放火,上皇を一本御書所に移し,天皇とともに内裏に幽閉( 平治の乱 )(百練抄)。
5. 平治の乱
日本大百科全書
→保元・平治の乱
6. 保元・平治の乱
日本大百科全書
まひテ後、日本国ノ乱逆ト云いふ事ハ起リテ後、武者ノ世ニナリニケルナリ」と評している。小山靖憲平治の乱保元の乱に勝利した後白河天皇は、新制七か条を発し、ついで記録
7. あおはか[あをはか]【青墓】
日本国語大辞典
岐阜県大垣市の地名。古くは東山道の宿駅で、遊女が多かったことで有名。源義朝が平治の乱後逃げ着いた。また源頼朝が平宗清に捕えられた地でもある。遊塚古墳、小糠山古墳
8. あおはかしゅく【青墓宿】岐阜県:大垣市/旧多藝郡・不破郡地区/青墓村
日本歴史地名大系
乙若・亀若・鶴若・天王丸の母は青墓宿の長者の女であった(「保元物語」、「吾妻鏡」建久元年一〇月二九日条)。平治の乱に敗れた源義朝は、青墓の長者大炊の女延寿との間
9. 青墓宿
世界大百科事典
王丸の母が青墓長者の女であったことが《保元物語》にみえる。また,《平治物語》によると源義朝は平治の乱に敗れ,青墓に逃れているが,青墓長者大炊の女延寿との間に夜叉
10. あきのくに【安芸国】広島県
日本歴史地名大系
押え始めたことにあった。正盛の子の忠盛も西国海上勢力の支配を大きく伸張させたが、忠盛の子の清盛は、保元・平治の乱に勝利する最大の功労者となり、乱後急速に中央政界
11. あだちぐん【足立郡】埼玉県:武蔵国
日本歴史地名大系
おり、その後何らかのつながりで足立遠兼が郡司職を保持したらしい。〔中世〕足立遠兼の子遠元は、平治の乱では源義朝に従って活躍したが(平治物語)、戦いに敗れた後は不
12. あだちぐん【足立郡】東京都:武蔵国
日本歴史地名大系
の武蔵国造武蔵宿禰の後裔らしい。〔中世〕足立郡司武蔵武芝の系譜を引くと推定される足立遠元は、平治の乱(平治元年)では源義朝のもと京都に従軍している(平治物語)。
13. あだちし【足立氏】画像
国史大辞典
(一)武蔵国の足立氏  源頼朝に仕えた足立遠元が著名である。遠元は足立郡の有力な領主で、平治の乱には源義朝に従っており、平安時代以来源氏の家人であった。この家
14. 阿野全成
世界大百科事典
-1203(仁平3?-建仁3) 鎌倉初期の武士。源義朝の子。母は常盤。義経の兄,頼朝の異母弟。幼名今若。平治の乱後,醍醐寺に入れられ悪禅師と号した。1180年(
15. あのぜんじょう【阿野全成】
国史大辞典
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16. あべの【阿倍野】大阪府:大阪市/阿倍野区地図
日本歴史地名大系
行っていると訴えており、鎌倉末期の安倍野は諸国から悪党やあぶれ者が流入して跳梁する不穏な様相を呈し始めていた。平治の乱が勃発し、熊野参詣途上の平清盛が帰京しよう
17. ありたのしょう【在田庄】兵庫県:加西市
日本歴史地名大系
を有する所領を没収して頼朝に与えていた。「吾妻鏡」同月六日条によれば、頼朝は頼盛の母池禅尼が平治の乱のあと頼朝を救ってくれた恩義に報いるため、その家領三四ヵ所を
18. あわのくに【安房国】千葉県地図
日本歴史地名大系
狭郡全域を所領とする武士団であったと考えられ、義朝に従軍しなかった点では独立した地位にあり、平治の乱で義朝が滅びた後は平氏から信頼され、より政治的地位を高めたと
19. あわのくにとくしまはんりょうげんなろくねんいややまいっき【阿波国徳島藩領元和六年祖谷山一揆】
国史大辞典
阿波国の辺境の地祖谷山の中世的土豪が起した刀狩反対の越訴。この地は保元・平治の乱以降落人の隠棲地という伝承があり、かつて三好氏や長宗我部氏に隷属したころ、すで
20. あんないじんじゃ【案内神社】徳島県:板野郡/吉野町/柿原村
日本歴史地名大系
当地には藤原師光の伝承があり、中世の柿原庄を本貫地とした柿原氏は、藤原師光の子孫とも伝える。平治の乱後師光は出家して西光と名乗り、治承元年(一一七七)鹿ヶ谷事件
21. あんにょうじ【安養寺】和歌山県:日高郡/南部町/芝村
日本歴史地名大系
宮を鎮守とし、天神山叶応院安養寺と号したのに始まるという。その後しだいに堂塔が建てられたが、平治の乱の兵火に残らず焼失、時の住職は本尊三仏を井戸に沈めて難を避け
22. あんらくじ【安楽寺】埼玉県:比企郡/吉見町/御所村地図
日本歴史地名大系
村麻呂。この開基伝承は別として、当寺僧観秀が著した吉見岩殿山略縁起(寺蔵)によれば、源範頼は平治の乱の後、当地に潜在したという。「尊卑分脈」には範頼の子頼円は吉
23. いおうじ【医王寺】埼玉県:入間郡/越生町/上野村地図
日本歴史地名大系
来像などを草堂に安置したのに始まるという。その後、日頃薬師如来を尊信していた児玉河内守家行が平治の乱に参陣して無事越生に帰着後、永暦元年(一一六〇)当寺を再建、
24. いけだしゅく【池田宿】静岡県:磐田郡/豊田町
日本歴史地名大系
翌朝天竜川を渡っている(「源平盛衰記」巻四五)。なお源頼朝の異母弟で蒲(現浜松市)生れの範頼は平治の乱で殺された源義朝と当宿の遊女との間に生れたという(尊卑分脈
25. いけ‐の‐ぜんに【池禅尼】
日本国語大辞典
平清盛の義母、平家盛、平頼盛の母。藤原宗兼の娘。「池の」という呼称は六波羅の池殿に住んだことによる。平治の乱の後、幼い源頼朝の助命を乞うた。池の尼。池殿。生没年
26. 池禅尼
世界大百科事典
王の乳母をつとめたが,保元の乱では上皇側の敗北を予見して頼盛に天皇方につくように助言し,また平治の乱では源頼朝の助命を清盛に申し入れて流罪にとどめるなど,忠盛な
27. いけのぜんに【池禅尼】
国史大辞典
たすけて内助の功があり、保元の乱の時は頼盛に後白河天皇側につくよう教えるなど政治的判断力もあった。平治の乱後、捕えられた源頼朝の命乞いをし、伊豆国への流罪ですま
28. いけのぜんに【池禅尼】
日本架空伝承人名事典
王の乳母をつとめたが、保元の乱では上皇側の敗北を予見して頼盛に天皇方につくように助言し、また平治の乱では源頼朝の助命を清盛に申し入れて流罪にとどめるなど、忠盛亡
29. いさわちょう【石和町】山梨県:東八代郡
日本歴史地名大系
れていた可能性がある。当町域を拠点とする井沢四郎宣景(信景)は平治元年(一一五九)に勃発した平治の乱の際、源義朝に従って参戦、敗れて井沢(石和)に逃帰った。彼の
30. いさわのみくりや【石和御厨】山梨県:東八代郡/石和町
日本歴史地名大系
文(神宮雑書)にはみえないが、当御厨地域を拠点とした在地武士と考えられる井沢宣景(信景)は、平治の乱の際には源義朝方として奮戦し、敗れて井沢に帰国しているから(
31. いしつくりのしょう【石作庄】兵庫県:宍粟郡/山崎町
日本歴史地名大系
六が安堵されており、そのうちの一つとして播磨石作庄は八条院領とみえる。「吾妻鏡」同日条には、平治の乱で捕らえられた源頼朝の助命をした頼盛の母池禅尼の恩義に報いる
32. いしばしやまのたたかい【石橋山の戦】
国史大辞典
伝える。頼朝は父祖以来源氏の家人だった関東地方の武士を味方にする必要があったが、この地方には平治の乱以後平家に随従する武士も多かった。戦闘は平家方が大勝し、翌日
33. 伊豆国
世界大百科事典
とう)山,箱根神社,三嶋大社の宗教的勢力が存在した。 保元の乱で源為朝が大島に流されたのち,平治の乱後には源頼朝が伊豆配流となり,平氏の監視下におかれることとな
34. いせへいし【伊勢平氏】 : 平氏
国史大辞典
子忠盛も鳥羽院に密着して地位を不動のものとし、院の執事別当(年預)を勤めた。その子清盛は、保元・平治の乱以後武力を背景に躍進し、はじめ後白河院と連携して国政を掌
35. いっしゅもの【一種物】
国史大辞典
平安時代の中ごろ中絶。崇徳天皇の末年頭中将藤原公能がこれを再興したが(『続古事談』一)、やがて保元・平治の乱があったのでその後行われたかは明らかでない。公能が再
36. いとうし【伊藤氏】画像
国史大辞典
基景は伊勢に住んで伊藤を称し、代々平氏の郎党として活躍した。一族中著名なものは平正盛の郎党基清、その甥で平治の乱に功をたて、伊勢守となった景綱、その子で源平合戦
37. いなづみじょうあと【稲積城跡】栃木県:那須郡/烏山町/下境村
日本歴史地名大系
となっている。城跡の北隅に稲積神社がある。那須系図説(滝田永世文書)・「那須記」などによると平治の乱に敗れた那須宗資は兄資房とともに甲斐稲積庄に隠れていたが、同
38. いのまたとう【猪俣党】画像
国史大辞典
孫であるともいわれているが明らかでない。ほぼ十世紀末の時資のころに土着したらしい。保元の乱・平治の乱に源義朝に従って戦い、鎌倉時代には一谷の戦・承久の乱などに幕
39. いますむら【今須村】岐阜県:不破郡/関ヶ原町
日本歴史地名大系
人家が幅一尺五寸の小溝を隔てて接するので両国の者が寝ながら壁越しに話合えるところからこの名が生じたという。平治の乱で敗走する源義朝を追って近江側の宿に泊まった常
40. いわむら【岩村】神奈川県:足柄下郡/真鶴町地図
日本歴史地名大系
)。特産は安山岩の小松石。南西の字専祖畑にある安政六年(一八五九)再建の石工先祖碑は、保元・平治の乱を避け京より下った土屋格衛を石材採掘の創始者と伝える。鎌倉極
41. 院政画像
日本大百科全書
いわゆる平氏時代と源氏将軍時代とに重なり、公武両政権の対立期といってよい。国政の主導権は、保元・平治の乱で実力を自覚した武士勢力の手にしだいに移っていったが、反
42. 院政画像
世界大百科事典
の成立期に当たり,公武両政権の対立期でもある。上皇政権の武力的支柱となった武士勢力は,保元・平治の乱で実力を自覚し,傭兵的地位から脱して政局の主導権を握る勢いを
43. いんせい【院政】画像
国史大辞典
豈詔勅に異ならんや」(原漢文)と『長寛勘文』にみられるように観念されるようになった。保元の乱、平治の乱、承久の乱、いずれも院の専制的性格に激発されたものであるが
44. いんせいかまくらじだい【院政・鎌倉時代】 : 中世
国史大辞典
院政と結んだ桓武平氏が政界に登場して来た。保元・平治の乱で武士は重要な役割を果たしたが、特に平治の乱で平清盛が源義朝を破ると、武力において平氏は他を圧倒するに至
45. いんせいじだい【院政時代】
国史大辞典
その領主化を急速に進めた。この鳥羽院政の反白河的方策は、宮廷・摂関家内部に分裂を招き、やがて保元・平治の乱となった。保元の乱後、短期間の後白河天皇親政があったが
46. ういじん【初陣】
国史大辞典
武士が生まれて初めて戦闘に参加すること。陣始(じんはじめ)ともいう(『総見記』)。源頼朝の初陣は十三歳の時で、平治の乱に参加した。建保元年(一二一三)和田氏の乱
47. 雨月物語 280ページ
日本古典文学全集
新院呵々と笑はせ給ひ、「汝しらず、近来の世の乱は朕なす事なり。生てありし日より魔道にこころざしをかたふけて、平治の乱を発さしめ、死て猶、朝家に祟をなす。見よみよ
48. 雨月物語 286ページ
日本古典文学全集
「果して」の意に用いる秋成の独特な語法。『保元物語』など、平治の乱を新院怨念のしわざとみる。藤原信頼。後白河帝の寵臣。近衛大将を望んで信西に妨げられ、「平治の乱
49. 雨月物語 289ページ
日本古典文学全集
ず。重盛が忠信ちかづきがたし。今より支干一周を待ば、重盛が命数、既に尽なん。他死せば一族の幸福此時に亡べし」。院、手を拍て怡ばせ給ひ、「かの讐敵ことごとく此の前
50. 雨月物語 290ページ
日本古典文学全集
したてまつり、山をくだりて庵に帰り、閑に終夜のことどもを思ひ出づるに、平治の乱よりはじめて、人々の消息、年月のたがひなければ、深く慎みて人にもかたり出でず。其の
「平治の乱」の情報だけではなく、「平治の乱」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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