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江戸幕府

ジャパンナレッジで閲覧できる『江戸幕府』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

江戸幕府
えどばくふ
徳川氏の全国統治の覇府で、慶長八年(一六〇三)家康の征夷大将軍補任に始まり、慶応三年(一八六七)慶喜の大政奉還に至るまで二百六十五年間続き、この間将軍の歴世十五代を数えた。武家政治史上、最も高度に組織された強大な統一政権である。

〔成立〕

家康の覇権掌握は慶長五年関ヶ原の戦の勝利によるもので、戦後諸大名の賞罰移封で全国が家康の権力下に統一されたから、幕府の実質はこの時に成立したと見なすことができる。しかし鎌倉幕府以来の武家政治の伝統に従って、家康が征夷大将軍に任ぜられた時、名実ともにその覇権が私的権力から公的権力に上昇したのであるから、武家政権としての江戸幕府の成立を慶長八年とする説が一般に用いられている。ただし、この時に、江戸を覇府の地と定め、諸組織を設け、幕府の成立を宣言したのではないから、俗に慶長八年江戸幕府開創という類の表現で、全国支配がこの時に開始されたというように考えてはならない。これより先、豊臣秀吉は統一政権を打ち立てたけれども将軍職拝任の機会を得ず、朝廷の最高の地位である関白太政大臣に任ぜられ、朝旨を奉じて天下を統治するという名分を以て諸大名を支配したから、その政権は武家政治の伝統から外れるものであった。それに対して家康は終始、鎌倉・室町両幕府の後を継承する方針を採り、武家政治の復興を志して、実権を握ったのち、源氏の嫡流という系譜を作り、朝廷に策動して将軍の栄爵を下賜されて名分を整えたのである。しかし両政権の成立の基盤は全く同質である。それは大領主が土地・人民を一元的に支配する大名領知制(大名領主制・大名知行制・封建領主制)に基づくもので、諸国の大小種々の大名たちを服属させるとともに、自己の麾下の諸氏を多く大名に取り立てて諸国に配置し、これら諸大名の領地はすべて恩賜として軍役その他忠誠を尽くさせ、その体制の上に覇権の基礎を堅め、諸国の土地・人民の支配を強固にした。武士はすべて主君に仕えて家臣団に編成され、土地・人民は検地と兵農分離により、領主の権力下に強く支配されて武家経済を負担した。このような体制の推進の中に豊臣政権が成立したのであり、さらに徳川政権すなわち江戸幕府は巧妙で緻密な治術と長期の政策により、一段と支配体制を整備確立した。その確立期は、慶長から元和を経て寛永にわたる約五十年である。豊臣政権と徳川政権との相違につき、検地帳の記載例の違いなどを根拠として、前者の急進性にくらべ後者の妥協性を論ずる説も出たことがあるが、それは根拠薄弱として反対説も多く、論証が進んでいない。関東地方の初期の検地の方針では、地域の実情に応じて多少の手加減があったとしても、本質的な相違はなく、むしろ領地支配が以前よりも厳密の度を増したのである。

〔実勢力〕

制覇直前の徳川氏の領国は武蔵・相模・伊豆・上総・下総および上野の大部分で、石高二百四十万石余、他に上洛中の費用に当てるため近江・伊勢・遠江・駿河などで約十万石を秀吉から与えられた。関東地方の所領は蔵入地以外の地が勲功ある家臣諸将に分賜され、万石以上の者四十二人、石高合計百十四万石余、これらの諸氏はそれぞれ城主として領地を支配した。この関東大名時代の領国体制を以て、のちの統一政権の原型がすでに成立したとする説もあるが、このような領国体制は豊臣政権下の他の有力大名にも見受けられるから、原型説は結果論にすぎない。むしろ関ヶ原の戦の賞罰、諸大名の改易移封、豊臣氏の滅亡、一門および家臣の大名取立てなどにより、幕府の領地が中部・東海・近畿・西国・奥羽地方にも拡大し、諸国の要地に一門・譜代大名が分封されるとともに、重要な都市・鉱山が直轄下に入った事実、および外様大名の所領といえども徳川氏の天下統治権下に含まれ、その意向次第で与奪された事実を重視しなければならない。このように領国体制の量的拡大だけでなく、質的発展であった点に、画期的意義が認められる。この形勢の中で、幕府の領地は次第に増加し、元禄時代に大概定まったが、享保の調査では六百八十万石、このうち蔵入地(すなわち御料所または天領)約四百二十万石(六二%)、旗本知行所約二百六十万石(三八%)、明治元年(一八六八)の調査では、約七百六万石、このうち蔵入地約四百万石(五七%)、旗本知行所約三百六万石(四三%)である。全国の石高約三千五十五万石に対して二三%にあたる。このほか、一門二十三家の石高約三百四十万石を加えると、徳川氏一族の領地総高は一千万石を越える。蔵入地の分布は時代により多少の移動があるが、天保では関東地方で百万石、奥羽・越後・佐渡で九十万石、駿河・遠江・三河・伊豆・甲斐・信濃六ヵ国で六十万石、近畿諸国で六十万石、九州で二十万石、中国地方で十八万石、その他中部・北陸・四国などに散在していた。蔵入地のなかった国は、おおむね大藩の領国となった国々二十一ヵ国である。蔵入地が比較的東日本に多いのが特徴である。旗本知行所も時代により移動があり、関東地方で約百万石と推定され、その他奥羽・北陸・中部・近畿・中国方面にも散在したが、蔵入地の分布と同様な傾向を示している。以上のほか幕府領構成の特徴は、ただ土地だけでなく諸国の重要な都市と鉱山の直支配である。都市には、日本の都で文化の中心地である京都、諸国の物資の集散地である大坂、鎖国制下唯一の外国貿易の港である長崎をはじめ、伏見・奈良・大津・堺・山田・兵庫・駿府・日光・浦賀・下田・新潟などがあり、鉱山には佐渡・石見・但馬・摂津・甲斐・駿河・伊豆などの金銀山がある。これらの直支配が幕府の勢威を高め、経済的基礎を堅固にした。これとともに、幕府は貨幣の統一を行い、前から流通していた私貨幣や中国渡来の銭の使用を禁止し、金銀銭三貨の制度を公定してその鋳造発行の権を独占した。これにより幕府成立の経済的基礎が土地経済から貨幣経済に拡大して財源が豊かになり、元禄時代から赤字財政をたびたびの貨幣改鋳の利益で凌ぐこともできた。さらに諸国の藩領経済を、幕府が貨幣権を握る全国的な貨幣経済に繰り込んだので、藩の割拠性を弱め、幕府の中央集権を促進した意義も大きい。以上の所領と経済力に拠る幕府の軍事力は、多数の家臣団によって編成された。徳川氏の家臣は直参(じきさん)と呼ばれ、その中には旗本と御家人の差別があった。通例、旗本は将軍に御目見(おめみえ、謁見)の資格を持つ上級の士、御家人はその資格のない下級の士とされている。ただし、これは慣習としてできた身分で時代により除外例もあった。直参の総数は、宝永二年(一七〇五)旗本五千三百三十一人、御家人一万七千二百十三人、合計二万二千五百四十四人、享保七年(一七二二)では旗本五千二百五人、御家人一万七千三百九十九人、合計二万二千六百四人であった。これに足軽・同心など士分以下の者を加えると、士卒総数は少なく見積っても二万五、六千人ほどになるだろう。さらに旗本の家来分を入れれば三万数千人と推測されよう。幕府の軍役制度では、十万石大名で士卒二千百五十五人の人数を出す定めであるから、幕府の士卒人数は七百万石の領地としては比較的少ない。この人数の中から編成される兵力では諸国に散在する所領と直轄都市を守ることはできず、有力な外様大名を独力で遠征することも容易でなかった。一門・譜代および親近の外様大名などの忠誠と従軍があってこそ、全国を制圧する兵力を整えることができたのである。諸国に散在する領地は郡代・代官などによって支配され、佐渡その他諸都市には奉行が派遣されたが、これらは旗本から任命された民政官で、みずから支配地を守る武力を常備しなかった。中期以後、諸国の幕領が最寄りの大名の預地(あずかりち)とされた所も多くなり、そこでは幕府は年貢を受け取るだけで、行政も軍事もすべて大名に委任された。ここに統一政権として広大な領地と強大な経済力にもかかわらず、内部の弱点があり、それが幕末の政争に現われて滅亡を早くした。

〔組織〕

幕府の主要な役職は、老中・若年寄・側用人・側衆・奏者番・留守居・高家・寺社奉行・町奉行・勘定奉行・勘定吟味役・大目付・目付・作事奉行・普請奉行・道中奉行などである。このほか、老中の上座に列して将軍を輔佐する大老があるが、これは常置の職でなく、譜代大名中から大老に任ぜられた者は、わずか十人で、おおむね名誉職であった。ただし幕末の危局では、大老井伊直弼が幕政を総理した。通常幕政の主脳は老中で、五、六名の複数制を取り、城主の譜代大名から選ばれた。政務全般を司り、諸大名を支配し、軍事を総督するたてまえであった。若年寄は老中を輔佐して諸番組・諸役職を支配し、直参の統制にあたり、三名ないし五名の複数制で、無城の譜代大名から選任された。老中・若年寄は江戸城内の御用部屋に参集して政務を見たが、月番交代の合議制が定式とされた。側用人は将軍に近侍して政務を取り次ぎ、諮問にあずかる役で譜代大名から一人選ばれ、側衆は五名ないし八名で、将軍側近の庶務を処理する旗本役。奏者番は城中の儀礼、大名・旗本の謁見などを司り、譜代大名の複数制である。留守居は城中留守の任で大奥の取締り、武具類保管の諸奉行などの支配にもあたり、旗本の複数制。高家は朝廷との儀礼を司り、大名と旗本との中間の高い格式を持ち、室町時代以来の旧族名門が世襲した。寺社奉行は寺社・僧侶・神職・連歌師・楽人などを支配し、譜代大名の任で、四名前後。町奉行は江戸府内の町政と警察事務を司り、定員二名、役所の位置により南町奉行・北町奉行と呼ばれ、月番交代。勘定奉行は勝手方と公事方に分かれ各二名。勝手方は財務を司り、公事方は幕府領と関東八州の訴訟(のちには民政も)を司った。勘定吟味役は四人役で、監査にあたり、二人ずつ公事方と勝手方に分かれる。大目付は老中に属して大名の監察、布令の伝達などを行い、四、五名。目付は若年寄に属して旗本の監察、布令の伝達を行い、十名内外。作事奉行は殿館の築造を司り、二、三名。普請奉行は築城、江戸の上水、屋敷などの事を司り、定員二名。道中奉行は五街道の交通の事を司り、大目付と勘定奉行から一名ずつ兼帯した。以上はすべて上級の旗本から任命され、格式高い要職である。なお、江戸城西ノ丸付(将軍の世子に付属)の老中を別に置き、西ノ丸老中と呼んだが、これは本丸の老中のように政治には参与しなかった。また寺社・町・勘定の三奉行は評定所に会合して大目付らとともに、重要な裁判の執行にあたったが、のちには政務の得失につき老中の諮問に答えたので、評定所一座の意見が重きをなした。地方行政では、主要な直轄都市などに奉行を置き(総称して遠国奉行という)、関東・美濃・飛騨・西国(九州)などに郡代、その他に代官を置き、特に京都を重視して所司代を置いて、朝廷・公卿・門跡などの庶務および畿内・近国の訴訟を取り扱わさせ、大坂と駿府には城代を置き、京都二条城と甲府城は勤番の士を派遣して守らせた。京都所司代と大坂城代は譜代大名から任ぜられ、老中同格の重職であった。司法制度は行政と分掌せず、寺社・町・勘定の三奉行が三手掛りで評定所で裁判を行うほか、軽い事件は各奉行所一手で取り扱う場合もあった。はじめ法典も編纂されず、慣例先例で裁判が行われたが、享保の改革の時制定された『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』がその後長く用いられ、さらにこれを受けて『寛政刑典』『科条類典』が編纂された。軍事・警備・将軍守衛制度としては、旗本諸士で編成された大番組・書院番組・小性組・新番組等があり、それ以下では先手組・留守居番・徒士(かち)組・百人組・小十人組、弓・鉄砲・槍の諸組などがあり、これらの諸番組の士卒は番頭・組頭の指揮下に服属したので、平常でも番組編成は家臣団統制のため重要な組織とされた。これら番組を番方(または表役)、行政諸職を役方(または内役)と呼ぶが、相互に人事交流があり、職制上、身分上の区分ではなく、二本立職制と考えるのは誤解である。以上の組織の上に将軍の独裁が行われるのが幕政の基本形態であった。その原型は大名松平氏時代の家政で、要するに主人の指図の下で、物馴れた家宰が諸用務を執り行う形態が、徳川氏の勢力拡大につれ必要に応じて複雑となったものである。御三家などは将軍の継嗣を定める場合、その他非常時に意見を具申するほか、平常は幕政に参与せず、また外様大名は全然幕政には関与しなかった。したがって鎌倉・室町両幕府のように、将軍家の親族または有力な豪族が幕府内部で重要な地位を占めて、危機の原因となることはなかった。また老中・若年寄を主脳とする吏僚組織は各役とも複数の合議制で、月番交代制であったから、一人に責任が集中し、権力が独占される危険は少なかった。しかし他方では責任体制が成立せず、老中も中小大名で、実力は外様や親藩の大大名に遠く及ばなかったから、難局に際し、勇断を以て大事を処理することができない弱点があり、また将軍近侍の側用人が実権を握り、大奥の婦人の勢力が政治に影響を及ぼす場合もあった。なお、幕末の開港後には、外交上ならびに軍事上の必要に伴って、外国奉行(安政五年)・軍艦奉行(同六年)・講武所奉行(万延元年)などの新しい役職が設置され、さらに文久二年(一八六二)には、軍制の改革により洋式が採用された結果として、陸軍総歳・陸軍奉行・騎兵奉行・歩兵奉行以下の役職が設けられた。そのほか幕末期には京都守護職など各種の役職が、政治情勢の変化に対応するために新規に設けられるに至った。

〔統治権の性質〕

幕府の全国統治の権は、競争相手の諸大名の打倒、あるいは屈服の上に成立した覇権であるから、その権力の強化保持のため最も重要な政策は、大名統制であった。関ヶ原の戦以来寛永期に至る成立期に、外様大名の改易、全国的な諸大名の配置替、『武家諸法度』の制定、参勤交代制の実施、領地の石高基準の軍役制の公定などがこれである。特に参勤交代制で大名の妻子の江戸定住は、人質と同様な意味を持つものであった。また親藩大名・外様大名も譜代大名のように幕府に対する忠誠の義務が同質化し、将軍の肉親でも怠慢があった場合は改易された。幕府の法令は諸大名の領内にも施行され、大名自身の藩法は幕府法の下に従属した。大名領地と領民はたとえ戦国以来自力で戦い取った私家領であっても、すべて将軍の恩賜により領有を公許されるたてまえとなり、十万石以上は将軍の花押を記した判物(はんもつ)、それ以下は朱印を捺印した朱印状が、領内郡村を記した領地目録を添えて交付された。そして将軍の代替りごとに、この証状(領知朱印状)が新たに発給され、また大名の家督相続の時も、幕府から本領安堵の朱印状を下賜されてはじめて領有権の継承を許された。これは全国の土地・人民がすべて将軍の統治権の下にあり、諸大名の領地領民は将軍の統治権の一部を分賜されたもので、私有の土地・人民ではないという支配体制の原則を表わした制度である。したがって大名は各自の藩政の良否につき、幕府に対して責任を負い、悪政を行なった場合、没収・家名断絶の処罰を受けねばならなかった。『武家諸法度』の中に、大名の藩政について規定があり、幕府は寛永から巡見使制度を実施して、諸国の大名領の状況、民政の良否を査察させた。毛利氏が関ヶ原の戦後の財政難に耐えかねて、領地の返納を老中に内申し、細川氏が肥後の大領地を幼主が支配しかねる時には、返納すべきことを上申した実例があり、その他大名の家訓や藩法に、領地領民は将軍から「御預け」を受けたものという政治思想が見受けられるなど、いずれも幕府の統治権の絶対性を示すものである。これはすでに覇権の相対性から一段と上昇した統治権であり、その点に諸大名の上に君臨する将軍の封建君主的権威を見ることができる。この権威が名実ともに成立したのは、五代綱吉の時と見られる。次代家宣の時、新井白石の意見に従い、朝鮮との外交文書に、「日本国王源家宣」の称号を用いたのは、「天子より下ること一等にして諸侯の上に君臨する」将軍の地位にふさわしい称号と考えたからであった。このように将軍の君主的権威が高まり、統治権が絶対性を増した江戸幕府の性格を、西洋諸国の封建王制に比較する説もある。彼我歴史の相違があるから、単純に同一視するのは不当であるが、将軍の統治権に王権的性質を見て取ることは可能であろう。
[参考文献]
栗田元次『江戸時代』上(『綜合日本史大系』九)、藤野保『新訂幕藩体制史の研究』、北島正元『江戸幕府の権力構造』、伊東多三郎「幕藩体制」(『新日本史講座』所収)、同「殊号問題と将軍の権威」(『日本歴史』六七)
(伊東 多三郎)

財政

 江戸幕府の財政的基盤は、まず第一に徳川氏が最大の封建領主として他大名に卓越した直轄領(御料・天領)を保持したところにあったといえよう。そこからの貢租収入が中核であることはいうまでもない。豊臣氏の蔵入地が慶長三年(一五九八)に畿内・近国・北九州を中心に二百二十二万石余であったのに対して、江戸幕府の場合その初期は二百三、四十万石、以後大名の改易・減知による収公と新田開発に伴って元禄ごろに四百万石に達し、延享元年(一七四四)の四百六十三万石余を最大として以後減少するが、幕末まで四百十万石以上の規模を保った。その分布は全国六十八ヵ国中四十七ヵ国に散在し、旗本知行所を加えると総石高の四分の一にあたる。その中心は関東や畿内近国など政治・経済・軍事上の重要地域であり、幕府は勘定奉行管轄下これを数十人の郡代・代官・遠国奉行に分割支配させ、一部は最寄り大名に預所として委託した。第二は江戸はもちろん、京都・大坂・奈良・長崎など旧来の政治・商工業の中心地や港湾都市を直轄して商業・貿易・運輸の要点を押え、都市商工業者を掌握したこと。第三にキリスト教禁圧に乗じ鎖国体制を完成させ、糸割符仲間を通じて生糸を主とする貿易独占を達したこと。第四に貨幣鋳造権独占と、貨幣材料の金銀、主要輸出品にもなった銅の主要鉱山を掌握したこと。第五に城郭や都市建設材産地である木曾・飛騨・赤石山系などの原始林を直轄したことである。以上は豊臣秀吉の政策を継承発展させたもので、統一権力者幕府の強大な財政的基盤としての特質を示すものであった。また直轄領の全国的分散性は、その支配のための官僚制的組織を必然化させ、精緻な行政・財務機構や会計帳簿組織を発達させたし、収納貢租を江戸・大坂などへ運送する体系、とくに沿岸航路の発達を促すとともに、その掌握をも必要とさせたのである。こうして江戸幕府の財政は領主的経済体制の中核を占める条件を手中に収め、他大名を圧する強大なものとして成立した。諸大名の所領は安堵と引きかえに軍役や普請役を課し、年貢は賦課しないのが幕府の収奪体系の基本であったが、享保七年(一七二二)の上米の制採用は、諸大名からの米・貨幣上納を恒常化する点で、同五年開始の関東・畿内主要河川普請に対する国役金制度が私領農村から賦課金を幕府勘定所へ徴収する途を開いたこととともに、幕藩関係の年貢搾取の原理に修正を加えたが、上米の制は同十六年に廃止し、国役金も部分的にとどまった。直轄領の年貢は主たる米・貨幣のほか少量の荏・大豆・菜種・麦など雑穀・漆・蝋・塩の形態で各代官所に集め、現地の行政支出を除き大部分が江戸・大坂などの蔵・金蔵に回送された。また佐渡・石見・生野など鉱山の焼金・筋金・延金・砂金や灰吹銀は、そのままかあるいは貨幣に鋳造して金蔵に、都市株仲間の運上・冥加、長崎会所運上も金蔵に送付された。このうち年貢収入は翌年の支出に宛て、諸向納と呼ぶ他の収入は当年支出に宛てた。勘定所は代官より検見後取箇帳を徴して米立年貢である取箇と石代値段を決定し、年貢皆済前大積明細帳によって概略の予算を立て、皆済後勘定帳を提出させて厳重な決算を行うなど財政の事務と機構の整備を図った。決定した取箇の総計が『誠斎雑記』収載の享保―天保期連年の「御取箇辻書付」であり、また地方勘定帳ほか各勘定帳の総計が同じく「御年貢米・金其外諸向納渡書付」の数字とみられる。次に幕府の財政状態についてみると、その初期は金銀山の採掘が盛んで貿易の伸張もありきわめて潤沢であり、慶長九年一個五十貫余の銀分銅八十個を鋳造して非常用に備えた。同十二年家康は駿府退隠の際、秀忠に金三万枚・銀一万三千貫を与えている。元和二年(一六一六)家康死去の遺金・遺物は『久能御蔵金銀請取帳』『駿府御分物御道具帳』に詳記されているように、大判を含む金が九十三、四万両、銀五万貫余と金銀だけで百九十万両余にのぼり、尾張・紀伊両家に三十万両ずつ、水戸家へ十五万両を配分、残りを久納の蔵に納めたが、家康の蓄財は豊臣氏の遺金も併せて尨大な額に達していた。寛永九年(一六三二)秀忠の死後家光への遺金は金三十万枚など三百三十万両余、大名・旗本らに三十二万両余を分配しても家光に二百六十七万両余が残った。家光は十一回の日光社参、寛永十一年の上洛とその際の京都・駿府・江戸町人への計銀一万貫・米一万五千石の施与、島原の乱の鎮圧、金五十六万八千両・銀百貫を費やした日光東照宮の大造営など多額の出費にもかかわらず、彼の死にも一族に金銀五十二万両を分与しうるほど財政は豊富であった。しかし家綱の代明暦三年(一六五七)の大火で江戸城も焼け、天守奥金蔵の非常用金銀が熔流した。これを翌万治元年(一六五八)から吹き分け、二年には金分銅二十・銀分銅二百六を鋳た。これを含めて寛文元年(一六六一)の天守金銀は三百八十四万両余にのぼった。大火復興には本丸再建に九十三万両余・米六万七千石を要したほか、万治元年の大火も含め大名拝借金・旗本恩賜金や銀一万三千貫の江戸町人給与銀があったが、駿府より銀一万貫、大坂より銀五万貫など百三万両余を江戸に回送してこれに宛て、天守金銀には手を触れないで済んだ。けれども寛文五年甲府綱重七万両、七年館林綱吉七万両、八年尾張家十万両の拝借金があり、延宝六年(一六七八)・七年にも甲府・館林への金米の下賜があるなど収支が償わなくなり、延宝四年には二十万両余の財政不足を生じたので、同年金分銅七、翌年銀分銅四十を潰して貨幣とし、奥金蔵にも手を付け始めたのである。原因は寛永以後技術的限界により金銀採掘量が激減し、貿易も不振であるのに、旗本子弟の新規召し抱えや寛文五年・六年の役料創設などによる支出増にあった。綱吉は前将軍遺金の分配を廃止し、延宝八年堀田正俊を農政・国用専管の老中として村方支配機構の改正に努め、天和二年(一六八二)勘定吟味役を創置して代官の不正を糺し五十一名を死罪または免職にした。また新田開発の成果を吸収するため総検地を実施して直轄領石高を増加した。一方、同元年金分銅十・銀分銅六十六を鋳潰し、大坂の陣の時の貸付金を諸大名より返上させ、元禄二年(一六八九)小普請金を創設して直接の収入増を図った。しかし綱吉扈従の館林家臣団の幕臣編入、元禄二年からの役料復活、大名邸への綱吉の頻繁な御成と多額な恩賜品、護国寺・護持院・寛永寺根本中堂造営と日光東照宮大修復など財政支出が膨張したので、荻原重秀は元禄八年より慶長金銀を改悪し、五百万両の利益を収めたという。同十年都市酒造業者から年間六千両の酒運上を徴収し、同年から翌十一年にかけて長崎会所を設け、銅代物替貿易利潤のうち年数万両を収公する長崎運上金制度を十二年に設定して、年貢外金収入増加に努めた。けれども同十二年・十三年の凶作、十六年の関東大地震と大火、宝永四年(一七〇七)の富士山噴火、翌年の京都大火と禁裏・院御所の焼失など災害の復旧、貨幣経済発展による物価上昇などによって貨幣改悪益金も霧消した。そして宝永の灰除金四十八万八千両も灰除に十六万両かけたのみで残りは財政に繰り入れ、同六年には銀分銅九十五も鋳潰した。前年の歳出百四十万両、収入七十六、七万両は財政危機を示すものである。新井白石らの正徳の政治は、元禄十二年廃止された勘定吟味役を正徳二年(一七一二)に再置し、代官の不正を糾弾、大庄屋制度を廃止するなど収奪組織の整備、主穀生産の奨励を行なった。また荻原重秀を罷免して貨幣改悪を停止し、幣制を古制に戻して正徳金銀を鋳造し、金銀の海外流出を防ぐため正徳五年長崎貿易の年額を制限した。これらの政策が多少の好結果を与えはしたものの、元禄以来の財政窮乏は享保の改革まで持ち越された。吉宗は享保七年老中水野忠之を勝手掛に任じて財政改革を行うとともに、上米の制を設け、直轄領に年貢定免制を施行した。これは、奥金蔵金銀が十三万六千六百両余と財政が急迫して、切米支給や商人への支払いが停滞しているのを解消しようとしたものである。また不正代官を斥け、同十年代官所経費を別途支給して口米を収公し、新田開発を奨励するなど年貢増徴に努めた結果、同十四年には奥金蔵金銀も百万両に回復したが、米価低落を招きその調節に苦しみ、米価対策費の支出のために享保末年には二十一万両に減少した。元文二年(一七三七)勝手掛老中松平乗邑のもと神尾春央が勘定奉行に就任すると、有毛検見取法への転換による露骨な収奪強化によって年貢総量・賦課率とも飛躍的に増大し、延享元年の取箇は享保以後最大となり、宝暦初年まで高度収奪が続く。この時期から大名御手伝金・御用金借上げを主体とする年貢外金納収入が増加してくる。享保八年足高の制を定めるなど支出抑制策はあったが、頻発する江戸大火の際の諸大名・町人への拝借金貸付、類焼家屋再建時の瓦葺強制と塗屋・蠣殻葺奨励のための貸付、新田開発奨励に伴う治水工事費用などかえって支出増大がみられた。しかし年貢増徴は財政収支を安定させ、寛保二年(一七四二)百万両に回復した。奥金蔵金銀は宝暦三年(一七五三)、ついで明和七年(一七七〇)と増加し、除金を加えた貯蓄金銀は三百万両に達した。宝暦九年以降は取箇も漸減傾向を示し、田沼時代には財政収入の重点を年貢外収入に移していった。すなわち五匁銀・南鐐二朱判など定位貨幣を新鋳し、明和三年大坂に銅座を設けて産銅を独占し、棹銅・海産物輪出を増やし、朝鮮人参・明礬・竜脳などの専売政策を用い、株仲間に運上・冥加を課した。さらに印旛沼・手賀沼干拓、蝦夷地開発を企てたが、天明の飢饉による年貢収入の減少と、収奪強化で再生産が困難になった農民の一揆による抵抗、将軍家葬祭・社参費用、新田開発土木事業、飢饉・災害救済など臨時出費の増加により、奥金蔵金銀は天明八年(一七八八)までに百三十万両も激減した。なお宝永元年初発の幕府諸役所・奥向経費節減令は、寛延三年(一七五〇)・宝暦五年と定額が示されたが、この時期明和八年さらに厳しい定額となって倹約が令せられている。寛政の改革にあたって倹約令を頻発したが年貢収入はあまり増加せず、禁裏・日光・聖堂・上野・西ノ丸の修復、米買上げ、治水事業、それに蝦夷地入用が加わって支出増となる。年貢外収入の主体は大名御手伝金と国役金であるが、公金貸付返納と利子が経常的収入として固定してくる。公金貸付策は荒地起返・小児養育手当など幕領本百姓経営維持資金を捻出するため大名・旗本・私領農民を対象にした顕わな財政補填策であったが、未返済元金・延滞利金の回収困難から、利子率引下げ、長年賦返済などの措置にせまられ、積極性を失い天保期に課題を持ち越した。文政二年(一八一九)の貨幣改悪以降は改鋳益金が財政収入上少なからぬ比重をもつようになるが、同時に大坂・江戸などの町人に対する御用金および地方的な上納金が財政不足補填に重要な位置を占めるようになる。天保期には歳出は二百万両を超す年があるのに歳入が伴わず、収支償う年は一年もない。その不足を補うのが貨幣改鋳益金であった。天保十四年(一八四三)水野忠邦の天保の改革失敗後、経費節減を目標とする老中土井利位の財政改革が実施されたが、翌年の江戸城本丸炎上、再建費用六十七万両支出により失敗し、改鋳益金に依存する態勢が固定化した。開港後は関税収入が加わったが年数十万円(両)にすぎず、将軍上洛、台場築造など沿海防備、海軍創設、製鉄造船所建設、対外事件償金支払、長州征伐などに巨費を要した。たとえば品川台場築造費七十五万両、外国艦船購入費約三三〇万ドル、長崎製鉄所建設費五万両、横浜造船所・横須賀製鉄所建設費約二四〇万ドル、生麦事件償金一一万ポンド(四四万ドル)、下関事件償金三〇〇万ドル、二度の将軍上洛費大判五百七十枚・金百七万六千両・銀六千八百貫目、長州征伐費四百三十七万両などであった。このため数度にわたる御用金を課し、歳入の五〇%を超す貨幣改悪益金を繰り入れ、ついに外国からの借款に頼るなど破局的状態は幕府の財政的崩壊を招き、明治政府が引きついだ幕府外債は約六〇〇万ドルに達したのである。
[参考文献]
勝海舟編『吹塵録』(『海舟全集』三・四)、本庄栄治郎『日本社会経済史通論』(『本庄栄治郎著作集』三)、萩野由之『日本財政史』、竹越与三郎『日本経済史』三、大蔵省編『大日本租税志』別冊、大山敷太郎『幕末財政金融史論』、同『幕末財政史研究』、古島敏雄「商品流通の発展と領主経済」(『(岩波講座)日本歴史』一二所収)、同「近世経済史総論」(『日本経済史大系』三所収)、同「幕府財政収入の動向と農民収奪の画期」(同四所収)、竹内誠「幕府経済の変貌と金融政策の展開」(同四所収)、土屋喬雄「徳川幕府の財政状態の変遷」(『(近世日本)封建社会の史的分析』所収)、同「徳川幕府の財政について」(『経済論叢』二三ノ三)、栗田元次「元禄以前における江戸幕府の財政について」(『史学雑誌』三八ノ一二)、遠藤佐々喜「徳川幕府非常用の金銀分銅の研究」(『史学』三ノ一)、大口勇次郎「天保期の幕府財政」(『お茶の水女子大学人文科学紀要』二二ノ二)、大野瑞男「元禄末期における幕府財政の一端」(『史料館研究紀要』四)、同「享保改革期の幕府勘定所史料大河内家記録」(『史学雑誌』八〇ノ一―三)、村上直・大野瑞男「幕末における幕府勘定所史料」(同八一ノ四)、大野瑞男「江戸幕府財政の成立」(北島正元編『幕藩制国家成立過程の研究』所収)、森田武「幕末期における幕府の財政・経済政策と幕藩関係」(『歴史学研究』四三〇)
(大野 瑞男)


日本大百科全書(ニッポニカ)

江戸幕府
えどばくふ

江戸時代、将軍徳川氏の統治機関をいう。1603年3月24日(慶長8年2月12日)徳川家康が征夷大将軍 (せいいたいしょうぐん)になったときに開府し、1867年11月9日(慶応3年10月14日)15代将軍慶喜 (よしのぶ)が大政奉還上表を提出したことによって閉じた。この間、将軍は、2代秀忠 (ひでただ)から家光 (いえみつ)、家綱 (いえつな)、綱吉 (つなよし)、家宣 (いえのぶ)、家継 (いえつぐ)、吉宗 (よしむね)、家重 (いえしげ)、家治 (いえはる)、家斉 (いえなり)、家慶 (いえよし)、家定 (いえさだ)、家茂 (いえもち)と継いだ。

[佐々木潤之介]

幕府の機能

将軍徳川氏はもともと武士の棟梁 (とうりょう)であり、封建的主従関係の頂点に位置しているとともに、公儀として幕藩制国家の君主としての地位をも占めていた。そこで、その将軍の統治機関としての幕府も、その両面の性格を兼ねもつこととなった。

 そこで幕府の機能については、大きく次のようにまとめることができる。

〔1〕幕藩制国家の国家中央権力としての機能。幕藩制国家の国家権力機関は、幕府と、大名の統治機関である藩とからなっていた。藩は、大名領に区分された地方統治機関であったが、その統治の独自性は兵農分離制のもとで著しく制約を受け、幕府を中心とする中央集権的な国家機構の一部を担っているにすぎなかった。

 幕府が国家中央権力として果たした機能は、以下のとおりである。

(ア)鎖国制のもとでの対外的国家主権の確立。長崎貿易における貿易独占、キリシタンの禁止と宣教師・信者の弾圧・追放がその例である。同時に、朝鮮に対する対馬 (つしま)の宗 (そう)氏、中国に対する琉球王府 (りゅうきゅうおうふ)―島津氏、アイヌに対する松前氏などの、近隣他民族との関係についての国家的見地からの措置もとられた。

(イ)鎖国制と石高制 (こくだかせい)のもとでの国内における国家的支配機能。(1)都市、商品流通の統制・支配の機能。三都(江戸、京都、大坂)をはじめとする主要都市の直轄支配とそれを通じての全国的商業に対する支配、流通支配と不可分に結び付いている貨幣鋳造権の独占、金銀銅など鉱産物に対する独占的統制、全国的交通運輸体制の支配と統制などの機能を果たした。(2)イデオロギー、宗教統制の機能。国家思想としての儒学に基づくイデオロギー体系とイデオローグの編成、キリシタンをはじめとする異端宗教・宗派の国家権力による弾圧・否定と寺社統制権の掌握と支配の機能を果たした。(3)国家支配の正統性論拠としての、伝統的呪術 (じゅじゅつ)的権威の取り込みと統制。禁中並公家諸法度 (きんちゅうならびにくげしょはっと)(禁中并公家中諸法度)に代表される天皇・朝廷の国家権力への包摂を実現し維持する機能を果たした。

〔2〕集権的領主制支配の中央権力としての機能。将軍は幕藩領主制の最高位者であり、その幕藩領主制は兵農分離の過程の所産として、統一的・集権的特質をもっていたから、将軍を君主とする国家統治機関としての幕府は、領主制権力中央機関としての性格をも強くもっていた。徳川氏は、その領主制的性格においては、日本全国の土地(約3000万石)の土地所有者であった。他方、徳川氏は、大名(御三家 (ごさんけ)、親藩 (しんぱん)、譜代 (ふだい)、外様 (とざま)に区分される)、旗本、御家人 (ごけにん)よりなる直属家臣団を擁していた。このうち、大名と一部の旗本とは将軍から知行 (ちぎょう)として所領を宛行 (あてが)われ、それぞれにその所領支配をゆだねられていた。この部分を私領といい、その総額は約2300万~2500万石であった。旗本の他の部分と御家人とは、将軍から知行として禄米 (ろくまい)を与えられて、支配所領をもたなかった。これらの直属家臣団と将軍との関係は、基本的には知行給与と御恩・奉公としての軍役関係によって貫かれていた。しかし同時に、これらの直属家臣団、とくに親藩、譜代大名、旗本、御家人は幕府行政の担当者でもあった。

 この関係のもとで、幕府が果たした機能の一つは、約700万石の御領(幕府直轄領。天領ともよばれるようになった)支配であった。御領からの年貢諸役の収入は、前記の禄米と、幕府の行政経費と、将軍の家財政との主要な財源だったのである。そしてそのことは、集権的国家財政の主要な財政基礎であるということをも意味した。こうして幕府は、重要な機能の一つとして「地方 (じかた)」支配を行った。そしてこの幕府の財政機能は、将軍財政が幕府財政と統合されていたから、将軍財政の財政機能をも果たすことになった。

 同時に、幕府は、大名以下の武士団の結合の機関でもあった。武家諸法度に示されるように、集中と統一の原理に基づいて、武士団の結束を固めることが至上命令とされ、これに反する者は、将軍のもとに統一的に集結している圧倒的に強大な軍事力を背景にした、改易・移封・減封という懲罰方法によって処分された。

[佐々木潤之介]

幕府体制の確立

幕府のこれらの機能は、一挙に形成されたものではなかった。関ヶ原の戦い後、西軍の諸大名の所領没収や減・転封と譜代大名への所領配分を終わってのち、畿内 (きない)の諸都市をはじめとする都市の直轄支配への組み込み、貨幣鋳造権の独占と鋳貨、農政の基本方針の決定などのことは、幕府が開府される前にすでに進行したことであった。

 開府後2年で家康は秀忠に将軍職を譲ると駿府 (すんぷ)(静岡市)に移ったが、なお幕政の実権を握っていた。家康は秀忠に軍事政権としての徳川政権の強化を任せ、自らは駿府で本多正信 (ほんだまさのぶ)らを重用して、国政にかかわる財政から貿易、キリシタン問題などを扱っていた。この体制を駿府・江戸両政権併立の体制という。やがて、大坂の陣の帰趨 (きすう)が明らかになるころから、陣後にかけて、家康は、軍役規定の改定、一国一城令、五山をはじめとする仏教諸宗への法度、禁中並公家諸法度、武家諸法度の制定、畿内の御領への組み込み、大坂・堺 (さかい)支配などの重要政策を次々と強行したうえで、1616年(元和2)に病死した。両政権併立時代は終わり、幕府は江戸に一本化されたが、家光時代の幕府体制の確立は、秀忠の死(1632)後に始まった。後の若年寄 (わかどしより)の先駆である六人衆の設置、溜詰 (たまりづめ)の始まりとされる補佐役の任命、駿府・京都などの町奉行 (まちぶぎょう)の新・再置、作事 (さくじ)・書物方 (かきものかた)などの奉行や大目付の設置など諸役が整えられるとともに、評定所 (ひょうじょうしょ)取扱規定や、老中・若年寄以下の幕府職務規定が定められ、ついで武家諸法度や軍役規定の改定を行った。同時に1633年(寛永10)に第1回の鎖国令が出た。一方で、大坂を中心とする国内の経済体制を整えながら、鎖国は進められていき、1637年の天草・島原の乱を経て、1639年に鎖国は完成した。それに続いて、凶作による農村立て直しを機に、新たな「地方 (じかた)」支配の方向が追求され、展開していく。田畑永代売買禁止令 (でんぱたえいたいばいばいきんしれい)(1643)から慶安御触書 (けいあんのおふれがき)(1649)に至る経緯はその所産であった。

 参勤交代制も譜代大名の交代制までを含めて1642年に確立したし、幕府財政・勘定方制度の確定や、年貢米の大坂への廻米制 (かいまいせい)、大坂・江戸の町方制度の整備等々のことが行われたのも、1643年(寛永20)から1651年(慶安4)までの間のことであった。そして、幕府の中央国家権力としての絶対的地位の確立を示すのが、正保 (しょうほう)の国絵図と郷帳の作成(1644)であったといわれる。

[佐々木潤之介]

幕藩制的官僚

家康・秀忠時代、幕政の国政的側面を担当したのは、大久保長安 (おおくぼながやす)らの出頭人 (しゅっとうにん)とよばれる人々であった。それは封建的主従関係の序列とは別の、行政的能力によって登用された者であった。家光時代に至り、幕府職制が確定するにつれて、譜代大名・旗本の国政上の役割が明らかにされるようになり、分役制度によって、彼らによる幕政の実際が運用されることとなった。そしてそのことは、譜代大名・旗本の、幕藩制的官僚化をも進めた。将軍の直属家臣団は、軍事的体系である番方 (ばんがた)と、行政的体系である役方 (やくがた)との、二つの序列によって編成されることとなった。

 将軍の家臣は、それぞれに、将軍との間の封建的体系と秩序のなかに位階制的に編成され、その序列は格として定められていた。したがって、軍事的序列と行政的序列とは、この格によって対応させられることとなった。

 このように形成された幕藩制的官僚が担い手となった幕政は、家光時代に続く寛文 (かんぶん)・延宝 (えんぽう)年間(1661~1681)に展開した。この時期は、幕府体制や幕政の諸機構の整備と、幕政の展開によって、幕藩体制の確立期ともいわれる。しかし、現実の戦争状態と可能性とが遠ざかり、国内の社会経済が変動しつつ進展してくるにつれて、格は軍事的序列との間には矛盾がないものの、行政的な資質と能力とを必要とし、それによって体系だてられるべき、行政的体系・秩序との間に矛盾関係が出てくるのは当然であった。また、官僚制的機構が確立したとはいっても、なお将軍の公儀としての絶対的権力が前提となっており、将軍の独裁性は保持されていた。

 そこで、17世紀末ごろから、幕政の主導権は不安定に変転していった。(1)将軍がその政治的実権を自ら行使した場合(綱吉時代、吉宗の享保 (きょうほう)の改革など)、(2)将軍の政治的無能力を前提として、格序列に基づく行政担当者が実権を掌握した場合(寛政 (かんせい)の改革、天保 (てんぽう)の改革など)、(3)行政的能力によって登用され、格序列はその登用につれて変動していった者が実権を握った場合(側用人 (そばようにん)政治の時代や正徳 (しょうとく)の治、田沼時代など)に分けることができる。しかし、江戸時代を通じて、開国に至るまで、幕府とその政治は、一貫して、どのように、幕府成立期の状態に即して幕藩体制を立て直すかという方針をとり続けていた。その方針が開国によって否定されたところから、幕府はその倒壊の仕方について、大きく動揺し始めた。安政 (あんせい)・文久 (ぶんきゅう)・慶応 (けいおう)年間(1854~1868)の幕政の改革はその現れであった。

[佐々木潤之介]



世界大百科事典

江戸幕府
えどばくふ

徳川家康が1603年(慶長8)2月12日征夷大将軍に任命されて江戸に開いた幕府。以後,1867年(慶応3)10月15日15代将軍徳川慶喜の大政奉還までの265年の間,対内的には全国を統治し,対外的には日本を代表する政府として機能した。徳川幕府ともいう。

 1598年8月の豊臣秀吉の死後にその政権の運営を託された五大老の筆頭であった家康は,1600年9月の関ヶ原の戦の勝者となって実質的に天下人の位置につき,秀吉の創出した全国支配の体制(これを幕藩体制という)を受け継いだ。そして源氏の一族新田氏の後裔という系図を創作して朝廷から将軍に任ぜられ,名分の上でも全国を統治する権限を獲得した。

権力の性格

将軍の権限の中核は,全国の武士を動員・指揮する源頼朝以来の武家の首長という点にあった。頼朝は,荘園制下の各地域で現実の所領支配に基づいて武力を蓄えた武士を,所領の授受または安堵による御恩と奉公の主従関係で結ばれる御家人として組織した。ここに頼朝(鎌倉殿)-御家人の関係が私的な授封関係であるヨーロッパのレーエン制に比定されるゆえんがあった。しかし,御家人は将軍である頼朝から守護,地頭などの職に補任されることで国家的軍事体系に組み込まれ,その権限を足場に荘園を蚕食して地域的な領主制を展開していったのであり,この点では将軍-御家人の関係には国家の官職による指揮・命令関係という性格を無視することはできない。このように私的に発生した武力を全国的規模において公的に組織した権力という鎌倉幕府の基本的性格は,室町幕府を経て江戸幕府にも受け継がれている。近世においては,大名,旗本あるいはその家臣たちの所領支配と武力の私的性格は極限的にまで失われていたが,彼らはなお独立した戦闘単位としての性格を保存しており,彼らを公的な軍隊に編成・統制するところに江戸幕府の将軍権力の本質があった。

 次に頼朝が直接動員しえたのは彼と主従関係を結んだ御家人だけであり,当時の社会には朝廷,寺社,国衙などと結ぶ諸勢力が広範かつ強固に存在し,武士であっても頼朝と主従関係にない非御家人は幕府の統制外にあった。また,御家人が家子,郎党などを従者として戦場に動員するのも,御家人の所領支配上の力によったもので,幕府の直接かかわることではなかった。

 室町幕府になると,とくに3代将軍足利義満のころから将軍が朝廷や寺社のことに実質的に介入する傾向が顕著になり,他方で国衙を通じて賦課されていた皇居や伊勢神宮の造営費用が守護大名によって一国平均役である段銭としてその領国内に賦課されるようになり,両者あいまって武家による国家と社会の掌握が強まった。戦国期に入ると,守護大名のあとを受けて各地方に成立した戦国大名は,領国内の土豪的武士の家臣化を強力に推進し,さらに寺社,職人,商人,農民などの諸勢力をも自己のもとに統合しようとした。

 この志向を全国的規模で実現したのが豊臣秀吉であった。秀吉は検地(太閤検地)を基礎とした兵農分離によって武士,百姓,町人の身分を設定し,それによって全国民を支配する制度を創設した。検地の結果,戦国大名によっても完全に把握されなかった土豪的武士は士・農いずれかに整理されて下剋上に終止符が打たれ,士とされたものは秀吉を頂点とする大名以下の知行体系の中に位置づけられた。検地帳に付けられた百姓は,年貢を納める存在として移動の自由を奪われ,百姓身分にともなう役として築城や兵糧運搬の労役を提供する義務を課せられた。町人も,それぞれの職能に従って編成され,労役を提供させられた。

 この役賦課の方式は,本所と座の関係や一国平均役にその起源を有するが,秀吉は国土に平和を回復することを名分とする,私戦の禁止によってこの方式を全国土に徹底させた。喧嘩(けんか)も含めて私戦とは,個人または集団の権利や利益を武力によって実現する方法であるが,戦国期以前の社会では都市と農村,侍・凡下を問わず一般的であったこの自力救済の慣行を秀吉は禁止し,この禁を無視して平和を乱すものを征伐するための公の軍隊の統制に従い,かつ役を提供するという形でこの軍隊に非戦闘要員として参加することを百姓,町人の身分に伴う義務としたのであった。この軍隊では秀吉の動員によらない武力の私的な行使は禁止された。この原則を百姓,町人にも適用したのが〈刀狩〉であり,彼らは武器を取り上げられることで自力救済の能力を欠く身分におとしめられたのであった。

 天下統一の完成後に秀吉が無謀な朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を行ったのは,このようにして戦争に国民を動員することが,そのまま支配体制の構築・強化であったからにほかならない。しかしこの出兵は現地では朝鮮人民の抵抗に出会うとともに国内では深刻な矛盾を引き起こし,敗色の濃いうちに秀吉は死んだ。

 その死後の体制を五大老の筆頭として,そしてやがては征夷大将軍として引き継いだ家康の権限は,全国の武士と百姓,町人を軍事的に統率するほかに,室町幕府のそれをも受けて朝廷や寺社にも及ぶかつてない強大なものであった。ただし朝鮮出兵の失敗の教訓から,国内的には独自の大名配置などで軍事的緊張を維持しながらも戦争への動員ではなく,諸大名の参勤,築城,河川普請などへの動員によって体制の維持・強化に努め,対外的には蝦夷については秀吉の政策を受け継いだが,中国,朝鮮については秀吉が破壊した関係の修復に努めた。この基本方針によって諸大名の支持を得た家康は最後まで臣従しようとしなかった豊臣秀頼を大坂城に滅ぼし,徳川氏の幕府の基礎を磐石とした。

政策

国土の平和と繁栄を代償として諸身分が本来的に有していた権利・能力を制限ないし剝奪することで成立していた秀吉以来の支配体制を受け継いだ幕府の政策の基本は,対外的には異文化の侵入から国土を守り体面ある独立を維持し,対内的には諸大名を指揮して百姓,町人の生活を安定させることにあった。国土の繁栄に関係があると当時は一般的に考えられていた宗教と呪術を支配する朝廷や寺社に対しては,幕府は〈禁中並公家諸法度〉や〈諸宗寺院法度〉によって天皇と公家,神官,僧侶が宗教的生活を全うし祈禱や儀式をしきたりどおり行うことを要求した。鎖国は貿易管理の意義もあるが,それ以上に在来の宗教,文化とあまりにも異質なキリスト教文明の侵入により幕府の支配の根底がくずされることを防ぐものであり,琉球,朝鮮,オランダ人などの江戸参府の行列は幕府の統治能力を沿道の貴賤に示すデモンストレーションであった。

 次に大名に対しては,〈武家諸法度〉などによって参勤と妻子を江戸に住まわせることを強制し,また城をかってに修理することを禁止するなど,規定以上に武力を蓄えることを防止した。さらに婚姻を許可制とするなど相互に同盟して謀反を起こすことのないように統制したほかに,随時に築城や河川の御手伝普請を命じて大名の財力を削減させる措置を講じた。他方では大名の領内の統治にも実質上介入し,領内の民衆の生活が保たれ,一揆などを起こすことのないよう指導した。大名の領内統治の状況は巡見使,隠密などによって監視し,治績の悪い大名は改易に処した。

 農民に対しては,〈宗門人別改帳〉を事実上の戸籍として機能させてその離村を防止し,〈慶安御触書〉に見られるように耕作に専念して年貢を納めるのが百姓の義務であると教諭する一方で,五人組や村に相互監視と連帯責任を課した。初期には〈田畑(でんぱた)永代売買禁止令〉などで百姓が土地を手放すことを防いだが,18世紀以降は地主小作関係を事実上公認した。さらに農村工業の発展を背景とした農村構造の変貌が打毀などに至る過程に有効に対処することができず,幕府崩壊の遠因を招くことになった。

 商工業については貨幣,度量衡の制度を統一し,西廻海運,東廻海運などの沿岸航路を開発してその振興をはかる一方で重要都市とくに京,大坂,江戸の三都を直轄することを通じて全国的流通の掌握をはかった。しかし19世紀になると諸大名が独自に国産の開発にのり出したことや,さらに開港後の外国貿易による混乱を統制しきれず,崩壊の一因となることを防げなかった。

組織

幕府は譜代大名と旗本,御家人から成る軍事組織であり,その長である将軍が全国を行政的に支配するものであった。大名の所領支配は形式上は独自性が認められていたが,実質的には大名は幕府の意図を忖度し,それにそった施政を行った。大名の所領支配そのものが領内の平和の維持を含めて将軍の軍事的統率下にあることに立脚していたからである。幕府,大名の意思疎通は日常的には種々なレベルの個別的人脈によっていたが,公的には幕府の意思は大目付によって伝達された。大目付は使番(巡見使や国目付はこの役の者から任命された)とともに,将軍本営の命令を出先の部隊に伝え,かつその実施を監察するのがその本来の機能であり,それが平時の行政上の伝達系統に転用されたのである。

 幕府直轄地の支配はそれぞれの奉行や代官が行ったが,近畿地方では所司代を中心とした国奉行が,また一部の大名領を除く関東では関東郡代が公家領や旗本領をも含めた広域的支配を行った。このほかに公家,僧侶,神官,寺社領の人民,職人,えた,非人などに対してそれぞれの身分に応じた別系統の支配が行われた。

 それぞれの支配系統に属する者の間の紛争はその系統の内部で内済に付されるのが原則であったが,内済が不調な場合や支配系統を異にする者の間の紛争は最終的には幕府の裁決に持ちこまれた。

 初期には,これらの支配と裁判を左右する意思の決定機関は将軍とその側近グループであった。各行政担当者からの報告は側近を経て将軍に伝えられ,将軍の決定は側近を通じて各担当者に下達された。家康の側近には,商人,職人,僧侶,儒者など多彩な人物が活躍したが,秀忠が将軍になると側近から遠ざけられ,秀忠の親衛隊である小性組などの隊長から取り立てられた人々が側近を固めるようになった。これらの人物は家光の代にも幕府の老(としより)/(おとな)として将軍の意思決定・下達に参加したが,このほかに家光の親衛隊長上がりのグループが〈若き老〉として新たに台頭した。前者が老中であり,後者が若年寄であるが,以後老中が主として幕府の全国支配に関することを担当し,若年寄が旗本,御家人の統率など幕府内部にかかわることを担当したのは,このころの職掌が先例として固定したためである。老中,若年寄が日常的に執務した江戸城中の御用部屋には右筆が付属し,先例調査,文書記録の作成に従事した。同じころに評定所一座の制が定められ,老中の指揮・立会いのもとに,政策決定や裁判が行われることになった。以上のように,家光のころ以降の幕府の組織は老中,若年寄を中心とした機構によって先例にのっとり運営されることとなった。初期にはそれぞれの軍事的・政治的能力によって将軍の親衛隊としての役割をになった旗本や譜代大名であったが,その子孫になると家柄(家格)によって幕府内部の地位が決定されることになり,その直参としての役割は形骸化する。他方では,将軍の代替りごとに新たに形成される側用人などの側近が将軍の取次ぎとして幕府の意思決定に実質的に参加することにより,老中以下の評定所の機能が形式化する場合や,家格制の下で有能な下級役人が実務上に大きな手腕を発揮する場合がしばしば見られたことも,中・後期の特徴であった。

幕府の崩壊

幕府崩壊の遠因は貨幣経済の浸透による農村の変質と都市へのその反映に対処できなかったことにあり,享保,寛政,天保の幕政改革も十分な効果をあげえなかった。しかし直接の原因は,ペリーの来航に始まる開国の要求に直面しながら,鎖国にかわる新たな外交体制の樹立に失敗し,征夷大将軍として外国を統御する能力を幕府がもっていないことが天下に明らかになったことによる。来航の当初は別として,近代工業を基礎としたヨーロッパ諸国の軍事力に敵対しえないことが国内で認識されると,これら諸国をオランダのように江戸城に参府させるものとして受け入れるにせよ,対等な相手として国交を打ち立てるにせよ,相手方に対抗できる軍事力の建設が幕府の急務となった。しかし武器や操練法の導入には見るべき成果があったが,軍制の改革は不徹底なものに終わった。これは,幕府の軍制が家格によって成り立っており,その全面的改変は幕府の組織の全面的崩壊に連なりかねなかったからである。その点で幕府の軍制改革は,奇兵隊をはじめとする諸隊によって領内諸階層の軍事的再編に成功した長州藩のそれと対照的であり,その差が第2次長州征伐の敗北から大政奉還へと結果したのである。
→江戸時代
[高木 昭作]

財政

江戸幕府財政の構造は,直轄領(天領)からの貢租収入を基本とし,鉱山収益や,貿易,商業,運輸などの商工業者からの運上等の収入を加え,旗本,御家人への切米(きりまい)・扶持(ふち),役料,奥向や役所の経費,修復費や貸付金などに支出するという形態をとり,財政窮乏が進むと年貢外収入に依存することが多かった。幕府の財政基盤は,(1)関東,畿内,東海を中心に元禄以後400万石を超す直轄領の保持,(2)江戸,大坂,京都,奈良,堺,長崎など政治,商工業,貿易,運輸の要点の直轄と都市商工業者の掌握,(3)鎖国体制と糸割符(いとわつぷ)仲間を通じての貿易独占,(4)貨幣鋳造権の独占と貨幣材料の金銀や主要輸出品の銅の鉱山の直轄,(5)城郭や都市建設材産地の原始林の直轄である。幕府財政は質,量ともに卓越し,大坂を中核とする幕藩制的市場を掌握して藩財政,旗本財政を従属せしめた。

 幕府の財政状態は,初期は金銀の産出,貿易の伸張により潤沢で,家康遺金は190万両余にのぼり,三家に75万両を配分,残りを久能(くのう)の蔵に納めたが,家康の蓄財は豊臣氏の遺金も合わせて膨大な額であった。秀忠の遺金は330万両余,大名,旗本らに分配後家光に267万両余が残った。家光は11回の日光社参,1634年(寛永11)の上洛,島原の乱,金56万8000両,銀100貫を要した日光東照宮造替など多額の出費にもかかわらず,死後52万両を一族に分与し財政は豊かであった。57年(明暦3)の大火で江戸城も焼失,本丸再建に93万両余,米6万7000石を使い,大名,旗本,江戸町人への拝借金,恩賜金があったが,駿府,大坂より103万両余を江戸に回送し,384万両余あった天守金銀には手をつけずにすんだ。しかし甲府,館林,尾張家などの拝借,下賜金米があり,76年(延宝4)20万両余の不足を生じ,家康以来の非常用金銀分銅や奥金蔵にも手をつけはじめた。寛永以後技術的限界により金銀採掘量が激減,貿易も不振なのに,旗本子弟の新規召抱えや役料創設など支出増が原因である。綱吉は遺金分配を廃し,80年堀田正俊を農政・国用専管の老中とし,82年(天和2)勘定吟味役を創置,不正代官51名を死罪または免職にした。89年(元禄2)小普請金を創設し収入増をはかったが,館林家臣団の幕臣編入,役料復活,綱吉の大名邸御成(おなり)と恩賜,造寺造仏への支出が膨張したので,荻原重秀は95年より慶長金銀を改悪し500万両の利益を収めたという。97年6000両の酒運上,99年貿易利潤から年数万両を収公する長崎運上金制度を設定した。けれども凶作・地震・大火の災害復旧,貨幣経済発展による物価上昇などで改鋳益金も霧消した。1707年(宝永4)の富士山噴火の灰除(はいよけ)金48万8000両も16万両を使ったのみで財政に繰り入れ,金銀分銅もほとんど鋳つぶした。

 正徳の治は勘定吟味役を再置,代官の不正をただし,大庄屋を廃止した。荻原重秀を罷免し貨幣を古制に戻して正徳金銀を鋳造,金銀海外流出防止のため15年(正徳5)長崎貿易の年額を制限した。元禄以来の財政は窮迫し,22年(享保7)奥金蔵金銀は13万6616両に減少,切米支給や商人への支払いが停滞したので吉宗は上米(あげまい)の制を設け,年貢定免(じようめん)制を施行した。財政改革のため老中水野忠之を勝手掛に任じ,不正代官を退け,25年代官所経費を別途支給して口米(くちまい)を収公し,新田開発を奨励した。奥金蔵は100万両に達したが,米価低落に苦しみ,その対策と飢饉で享保末年21万両に減った。37年(元文2)勝手掛老中松平乗邑(のりさと)のもと神尾春央(かんおはるひで)が勘定奉行に就任,有毛検見(ありげけみ)取法による収奪強化で年貢総量,賦課率とも最大となり,宝暦初年まで高度収奪が続く。一方,頻発する江戸大火による拝借金,再建時の瓦ぶき・塗屋・蠣殻(かきがら)ぶき奨励貸付け,新田開発に伴う治水工事費の支出が増加した。年貢増徴は財政を安定させ,42年(寛保2)奥金蔵は100万両に回復,以後増加した。田沼時代には財政収入の重点を年貢外収入に移した。すなわち五匁銀・南鐐二朱銀新鋳,大坂銅座による産銅独占,棹銅・俵物輸出,朝鮮人参などの専売,株仲間への運上・冥加(みようが)賦課である。さらに印旛沼干拓,蝦夷地開発を企てたが,天明の飢饉,農民一揆により挫折,将軍家葬祭・社参費用,新田開発土木事業,飢饉災害救済など臨時出費が重なり,奥金蔵は130万両も激減した。寛政改革では倹約令の頻発にもかかわらず年貢収入は増えず,禁裏・日光・聖堂の修復,米買上げ,治水事業,蝦夷地入用が加わり支出増となった。年貢外収入は大名手伝金,国役金に公金貸付け返納と利子収入が経常収入として固定,未返済元金,延滞利金の回収困難から天保期には縮小せざるをえなかった。1819年(文政2)の貨幣改悪以降は改鋳益金が財政収入上比重を占め,同時に大坂・江戸町人への御用金や地方的な上納金に依存するようになる。天保期の財政は収支償わず,改革失敗後の老中土井利位(としつら)の財政改革は,江戸城本丸炎上と再建費67万両支出により失敗,改鋳益金に依存する態勢が固定した。開港後の関税収入は多くなく,将軍上洛,台場築造,海軍創設,製鉄造船所建設,対外事件償金,長州征伐などに巨費を要し,御用金,改鋳益金やついに外債を頼るに至り,明治政府の引き継いだ幕府外債は約600万ドルに達した。

文書,記録

江戸幕府の文書,記録は大量に作成されたにもかかわらず,現在わずかな量が残されているにすぎない。徳川宗家および幕府諸役所の文書,記録は,幕府倒壊,徳川氏江戸退去にあたってその多くが処分され散逸した。幕府の紅葉山文庫は明治以後修史館のち内閣文庫(現,国立公文書館内)に引き継がれ,書籍類のほか幕府日記等を所蔵している。評定所文書の一部は司法省・太政官文庫を経て帝国大学法科大学に移され,同図書館で関東大震災により焼失した。勘定所文書は散逸,隠滅し,大蔵省に引き継がれたわずかのものも震災で焼失した。寺社奉行所文書は内務省に引き継がれ関東大震災で焼けたが,一部は国立国会図書館と内閣文庫に所蔵されている。町奉行所文書は市政裁判所,東京府ついで上野の帝国図書館に引き継がれ,現在国立国会図書館が管理し,旧幕府引継書と呼ばれる。旧幕府引継書は,法令類を編集した《撰要類集》や《市中取締類集》,触留・町触,南北町奉行所年番書類,諸問屋再興調,札差記録,町方書上・寺社書上,外国事件書などが主要なもので,寺社奉行所の仕置類例集,評定所書留,普請奉行役所の御府内沿革図書などを含む。外国奉行の文書,記録は外務省ついで東京大学史料編纂所に移管され,《大日本古文書・幕末外国関係文書》編纂の基本史料となっている。徳川宗家文書は孝明天皇宸翰,将軍家茂・慶喜関係文書,幕末外国関係文書など点数も少ない。家康・東照宮の宣旨・位記等は日光東照宮に納められている。《江戸幕府日記》は御用部屋日記と本丸,西丸の右筆所日記が代表的であり,将軍や世嗣の動静や諸行事,人事,法令を記す。幕府日記は内閣文庫のほか東京国立博物館,宮内庁書陵部,国立国会図書館にも写本が架蔵され,姫路市立図書館酒井家文書,島原松平文庫にも幕府日記が所蔵されている。
[大野 瑞男]

[索引語]
徳川家康 将軍(日本) 豊臣秀吉 幕藩体制 源頼朝 御家人 大名 旗本 検地 太閤検地 兵農分離 刀狩 朝鮮出兵 禁中並公家諸法度 諸宗寺院法度 江戸参府 武家諸法度 譜代大名 将軍(日本) 大目付 代官 所司代 国奉行 関東郡代 老 老 老中 若年寄 側用人 奥金蔵 荻原重秀 正徳の治 定免(じようめん)制 田沼時代 寛政改革 紅葉山文庫 評定所文書 勘定所文書 町奉行所文書 旧幕府引継書 幕末外国関係文書 徳川宗家文書
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1. 江戸幕府画像
日本大百科全書
江戸時代、将軍徳川氏の統治機関をいう。1603年3月24日(慶長8年2月12日)徳川家康が征夷大将軍せいいたいしょうぐんになったときに開府し、1867年11月9
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世界大百科事典
このように私的に発生した武力を全国的規模において公的に組織した権力という鎌倉幕府の基本的性格は,室町幕府を経て江戸幕府にも受け継がれている。近世においては,大名
3. えど‐ばくふ【江戸幕府】
日本国語大辞典
徳川家康が、慶長八年(一六〇三)に征夷大将軍に任ぜられて、江戸に開いた武家政権。慶応三年(一八六七)一五代慶喜が大政奉還するまで、二六五年間継続。全国の二割余を
4. えどばくふ【江戸幕府】画像
国史大辞典
武家政権としての江戸幕府の成立を慶長八年とする説が一般に用いられている。ただし、この時に、江戸を覇府の地と定め、諸組織を設け、幕府の成立を宣言したのではないから
5. えどばくふきのてんのう【江戸幕府期の天皇】 : 天皇
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6. えどばくふ‐きんさつ【江戸幕府金札】
日本国語大辞典
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7. 江戸幕府軍役[図版]画像
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8. 江戸幕府将軍一覧[図版]画像
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9. 江戸幕府将軍一覧[百科マルチメディア]画像
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10. えどばくふしょうぐんけ【江戸幕府将軍家】 : 松平氏/(一)
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(一)江戸幕府将軍家  『寛永諸家系図伝』『朝野旧聞〓藁』『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』など江戸幕府自身が編纂した資料によれば
11. 江戸幕府職制一覧1[図版]画像
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12. 江戸幕府職制一覧2[図版]画像
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13. 江戸幕府職制一覧3[図版]画像
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14. えどばくふしりょう【江戸幕府史料】
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江戸時代二百六十余年にわたって全国を支配した江戸幕府の史料は、その事蹟の大きさに較べるときわめてわずかな史料が残されているにすぎない。ことに幕府史料の中心とな
15. えどばくふじだい【江戸幕府時代】 : 清
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江戸幕府時代〕 清朝が北京に都したのは、一六四四年(正保元)、将軍徳川家光の晩年であり、これより明治維新に至る二百二十余年間の日清関係として次のことが列挙で
16. 江戸幕府天領の地域分布[図版]画像
国史大辞典
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17. 江戸幕府日記
世界大百科事典
江戸幕府の諸役所で公務について記した日記類のこと。江戸幕府の各セクションは,時代によって精粗はあるが,それぞれ業務上のことを備忘のため記録した。それらのなかで幕
18. えどばくふにっき【江戸幕府日記】
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19. 江戸幕府の郡代・代官所配置図[百科マルチメディア]画像
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21. 江戸幕府重職一覧(著作ID:4368107)
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22. 江戸幕府令達書写(著作ID:679083)
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23. 江戸幕府日記(著作ID:110418)
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24. 江戸幕府寺院本末帳集成[文献解題]千葉県
日本歴史地名大系
三冊 寺院本末帳研究会編 雄山閣出版 昭和五六年刊 解説 国立公文書館内閣文庫・国会図書館・水戸彰考館の所蔵する諸宗末寺帳を編んだもの。本文では寛永一〇年の関
25. 大名一覧(著作ID:440733)
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26. えどばくふしょもつかたにっき【江戸幕府書物方日記】
国史大辞典
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27. えどばくふひきつぎしょるい【江戸幕府引継書類】
国史大辞典
⇒旧幕府引継書類(きゅうばくふひきつぎしょるい)
28. 松平氏(一)江戸幕府将軍家 系図[図版]画像
国史大辞典
義季 頼有 頼氏 教氏 家時 満義 政義 親季 有親 (長阿弥) 親氏 (徳阿弥) 泰親 信広 信光 守家 (竹谷松平氏) 親忠 親長 (岩津松平氏) 乗元 (
29. めいじいしん【明治維新】 : 明治維新/第一期 ペリー来航から江戸幕府倒壊まで(嘉永六年―慶応三年)
国史大辞典
第一期 ペリー来航から江戸幕府倒壊まで(嘉永六年―慶応三年)
30. 書評 歴史書の棚 情報の取り扱いに長けた江戸幕府の特性に新たな光=今谷明
週刊エコノミスト 2021-22
江戸幕府八代将軍徳川吉宗が設けた将軍直属の諜報(ちょうほう)組織(密偵)である“御庭番(おにわばん)”は広く知られている。だがそれ以前の諜報についての実態は、体
31. しんなんぴん【沈南蘋】(Shěn Nánpín)
世界人名大辞典
1]に長崎に来航した.中国の史料では,この来航が日本の国王が招聘したものであることを伝える.しかし,実際には,江戸幕府が長崎奉行を通じて唐船主に中国画を持ち帰る
32. ほうさい【方済】(Fāng Jì)
世界人名大辞典
字:巨済 号:西園など〔1736[乾隆1]~?〕 中国清代の画家,貿易商.出身地については,江戸幕府の命により編纂された《通航一覧》には江蘇新安(現,江蘇無錫)
33. 相川画像
日本大百科全書
を佐渡奉行ぶぎょうに任じ、諸国の鉱山技術者を集め、鉱坑の開発を進めてから急激に発展し、以来、江戸幕府の金蔵かなぐらとして重きをなし、慶長けいちょう・元和げんな・
34. 相川音頭
日本大百科全書
なみかぜの 荒き折節おりふし義経よしつね公は……」のくだりの「義経弓流し」である。相川金山に江戸幕府の奉行所が置かれたころ、毎年7月15日の盆に、その奉行所の前
35. あいそ【相訴】
国史大辞典
江戸幕府の民事裁判手続上の用語。原告・被告双方から同じ問題について訴えが出された場合とされている。訴状が先に出された方を先訴とし、その提出者を原告として訴状を
36. 相対死
日本大百科全書
情死、心中に対する江戸幕府の法制上の用語。近松門左衛門らの世話浄瑠璃じょうるりなどによって、情死、心中の語が美化され、当時の男女がこれを賛美する傾向さえ生じた。
37. あいたいすまし‐れい[あひタイすまし‥]【相対済令】
日本国語大辞典
〔名〕債権の訴えを奉行所で受理しないで、当事者の自主的解決に任せることを命じた江戸幕府の法令。主として、利子付き無担保の金公事(かねくじ)債権を対象に何回か発せ
38. あいだきん【間金】
国史大辞典
「あいの金」ともいった。江戸幕府は、寛文四年(一六六四)に、オランダ人の要請もあって、長崎の唐・蘭船に対する金の輸出禁止を一部解除した。そして、同七年までの四
39. 愛知(県)画像
日本大百科全書
を果たし、関白に任ぜられる。家康は岡崎城の生まれで、関ヶ原の戦いで豊臣氏に勝利を収めたのち、江戸幕府を開き、300年の太平の世とした。信長時代は22年(桶狭間の
40. アイヌ
世界大百科事典
この山丹交易で樺太アイヌは負債がかさみ,そのためアムール川下流地方に連行されることがあった。江戸幕府はサハリンを北蝦夷地として直轄地にすると,負債を清算し交易を
41. アイヌ語地名
世界大百科事典
麻呂(はたあわきまろ)《東蝦夷地名考》や上原熊次郎《蝦夷地名考幷里程記》から始まった。それは江戸幕府が蝦夷地を直轄し,地理の調査が行われた成果の一つであった。幕
42. アウグスチノかい【アウグスチノ会】
国史大辞典
十七年には長崎にも天主堂と修道院を建て、そこの修道院内にコルドンの組という信心会をつくった。同十七年江戸幕府最初の禁教令についで同十九年の大追放後、布教はすこぶ
43. あおい[あふひ]【葵】画像
日本国語大辞典
「家伝の葵の紋を用て、某に相応也と奏せらる」(ロ)徳川家の紋所の葵巴(あおいどもえ)。転じて江戸幕府。(11)「あおいまつり(葵祭)」の略。*随筆・槐記‐享保九
44. あおの‐が‐はら[あをの‥]【青野原】
日本国語大辞典
)に打出たり」〔二〕兵庫県、播州平野の中央部、加西台地の東端にある台地。享保八年(一七二三)江戸幕府により本格的に開発される。明治二四年(一八九一)に陸軍の演習
45. あおびょうし【青標紙】
国史大辞典
な諸法令を編集した書。大野広城(権之丞、忍軒)著。前編・後編に分かれ、懐中用の小型折本二冊。江戸幕府の武家の儀式・典礼などを知るのに便利。前編は天保十年(一八三
46. あおやま‐ぐみ[あをやま‥]【青山組】
日本国語大辞典
〔名〕江戸幕府の職名の一つ。鉄砲百人組(甲賀組、根来組、伊賀組、二十五騎組の四組)のうちの伊賀組の前身。創設の際、青山忠成が頭となったための称。*柳営年表秘録〔
47. あかおむら【赤尾村】岐阜県:山県郡/高富町
日本歴史地名大系
元和二年(一六一六)の村高領知改帳でも同高。旗本保々氏は美濃守護土岐頼忠の次男右馬頭之康の後裔で、則貞は江戸幕府に仕えて書院番、小普請を勤めた。正保郷帳には幕府
48. 赤子養育仕法
日本大百科全書
江戸中期以降進行する農村荒廃への対応として行われた人口の維持・増加政策の一つ。1767年(明和4)江戸幕府は「出生之子取扱之儀御触書おふれがき」を出し、出生の子
49. 赤坂(愛知県)画像
日本大百科全書
愛知県南東部、豊川市とよかわしの地名。東海道五十三次の第37番目の宿場。1601年(慶長6)江戸幕府の直轄地として代官所が置かれ、明治維新後も三河県の県庁所在地
50. アカプルコ【Acapulco】
国史大辞典
同時にフィリピンを中継地とする中国産の「絹」と新大陸の「銀」との交換を基調とするガレオン貿易の中心であった。江戸幕府のメキシコ貿易計画によってわが国にも知られ、
「江戸幕府」の情報だけではなく、「江戸幕府」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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徳政令(国史大辞典)
すでに締結されている売買・貸借・寄進などの契約について、無条件で、もしくは条件を付して、契約関係の継続、もしくは破棄を宣言する法令。一般には契約関係の破棄宣言のみを意味すると理解されやすいが、当代のさまざまな契約形態に対応して除外規定も少なくない。また、契約の破棄を
遠江国(改訂新版・世界大百科事典)
旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。東海道に属する上国(《延喜式》)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。7世紀の中葉,遠淡海,久努,素賀の3国造の支配領域を併せて成立したものと思われる。国郡制に先行する
王政復古(日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
江戸幕府の崩壊から明治政府の成立過程における一つの政治理念で、最終的には、1868年1月3日(慶応3年12月9日)の「王政復古の大号令」の発表による新政府成立を示す。江戸時代には、全国統治の実権は将軍=徳川氏と幕府に握られ、天皇や公卿で構成される朝廷は、儀礼的な存在に形骸
朝幕関係(国史大辞典)
〔鎌倉時代―建武政権〕治承四年(一一八〇)八月、伊豆に挙兵した源頼朝は、以仁王の令旨によって、東国における荘園・公領の沙汰を認められたと主張している。その令旨は、壬申の乱における天武天皇に倣って、高倉上皇・安徳天皇・平清盛によって構成される現王朝を
異国渡海御朱印帳(日本大百科全書)
江戸初期に幕府が海外渡航の貿易船に与えた許可証の控え。金地院崇伝 (こんちいんすうでん)(以心 (いしん)崇伝)の自筆、1冊。京都市南禅寺金地院所蔵(国指定重要文化財、京都国立博物館保管)。崇伝が、前任の豊光寺承兌 (ぶこうじしょうだ/
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鎖国(国史大辞典・日本国語大辞典・世界大百科事典)
〔意義〕「鎖国」という言葉は、長崎のオランダ通詞中の逸材志筑忠雄(しづきただお)が、出島商館に在勤したことのあるドイツ人医師エンゲルベルト=ケンペルEngelbertKaempferの大著『日本誌』の蘭訳本付録の「現在のように日本帝国を鎖して、国民に
江戸幕府(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
徳川氏の全国統治の覇府で、慶長八年(一六〇三)家康の征夷大将軍補任に始まり、慶応三年(一八六七)慶喜の大政奉還に至るまで二百六十五年間続き、この間将軍の歴世十五代を数えた。武家政治史上、最も高度に組織された強大な統一政権である。〔成立〕家康の覇権掌握
征夷大将軍(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
もとは陸奥の蝦夷(これを「夷」といい、日本海側のそれを「狄」と称した)征討のために、朝廷が臨時に派遣する軍隊の総指揮官を意味したが、のちには幕府首長の職名となった。唐名に因んで大樹あるいは大樹将軍とも称す。古代の征夷大将軍は同大使ともいわれ
五・一五事件(日本大百科全書・世界大百科事典)
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元寇(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典)
鎌倉時代のなかば、1274年(文永11)と1281年(弘安4)の2回にわたり行われた蒙古(もうこ)(元)の日本侵略。文永の役(ぶんえいのえき)・弘安の役(こうあんのえき)、蒙古襲来ともいい、当時は蒙古合戦、異国合戦と称し、元寇の語は近世以後定着した。
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