徳川家康が1603年(慶長8)2月12日征夷大将軍に任命されて江戸に開いた幕府。以後,1867年(慶応3)10月15日15代将軍徳川慶喜の大政奉還までの265年の間,対内的には全国を統治し,対外的には日本を代表する政府として機能した。徳川幕府ともいう。
1598年8月の豊臣秀吉の死後にその政権の運営を託された五大老の筆頭であった家康は,1600年9月の関ヶ原の戦の勝者となって実質的に天下人の位置につき,秀吉の創出した全国支配の体制(これを幕藩体制という)を受け継いだ。そして源氏の一族新田氏の後裔という系図を創作して朝廷から将軍に任ぜられ,名分の上でも全国を統治する権限を獲得した。
権力の性格
将軍の権限の中核は,全国の武士を動員・指揮する源頼朝以来の武家の首長という点にあった。頼朝は,荘園制下の各地域で現実の所領支配に基づいて武力を蓄えた武士を,所領の授受または安堵による御恩と奉公の主従関係で結ばれる御家人として組織した。ここに頼朝(鎌倉殿)-御家人の関係が私的な授封関係であるヨーロッパのレーエン制に比定されるゆえんがあった。しかし,御家人は将軍である頼朝から守護,地頭などの職に補任されることで国家的軍事体系に組み込まれ,その権限を足場に荘園を蚕食して地域的な領主制を展開していったのであり,この点では将軍-御家人の関係には国家の官職による指揮・命令関係という性格を無視することはできない。このように私的に発生した武力を全国的規模において公的に組織した権力という鎌倉幕府の基本的性格は,室町幕府を経て江戸幕府にも受け継がれている。近世においては,大名,旗本あるいはその家臣たちの所領支配と武力の私的性格は極限的にまで失われていたが,彼らはなお独立した戦闘単位としての性格を保存しており,彼らを公的な軍隊に編成・統制するところに江戸幕府の将軍権力の本質があった。
次に頼朝が直接動員しえたのは彼と主従関係を結んだ御家人だけであり,当時の社会には朝廷,寺社,国衙などと結ぶ諸勢力が広範かつ強固に存在し,武士であっても頼朝と主従関係にない非御家人は幕府の統制外にあった。また,御家人が家子,郎党などを従者として戦場に動員するのも,御家人の所領支配上の力によったもので,幕府の直接かかわることではなかった。
室町幕府になると,とくに3代将軍足利義満のころから将軍が朝廷や寺社のことに実質的に介入する傾向が顕著になり,他方で国衙を通じて賦課されていた皇居や伊勢神宮の造営費用が守護大名によって一国平均役である段銭としてその領国内に賦課されるようになり,両者あいまって武家による国家と社会の掌握が強まった。戦国期に入ると,守護大名のあとを受けて各地方に成立した戦国大名は,領国内の土豪的武士の家臣化を強力に推進し,さらに寺社,職人,商人,農民などの諸勢力をも自己のもとに統合しようとした。
この志向を全国的規模で実現したのが豊臣秀吉であった。秀吉は検地(太閤検地)を基礎とした兵農分離によって武士,百姓,町人の身分を設定し,それによって全国民を支配する制度を創設した。検地の結果,戦国大名によっても完全に把握されなかった土豪的武士は士・農いずれかに整理されて下剋上に終止符が打たれ,士とされたものは秀吉を頂点とする大名以下の知行体系の中に位置づけられた。検地帳に付けられた百姓は,年貢を納める存在として移動の自由を奪われ,百姓身分にともなう役として築城や兵糧運搬の労役を提供する義務を課せられた。町人も,それぞれの職能に従って編成され,労役を提供させられた。
この役賦課の方式は,本所と座の関係や一国平均役にその起源を有するが,秀吉は国土に平和を回復することを名分とする,私戦の禁止によってこの方式を全国土に徹底させた。喧嘩(けんか)も含めて私戦とは,個人または集団の権利や利益を武力によって実現する方法であるが,戦国期以前の社会では都市と農村,侍・凡下を問わず一般的であったこの自力救済の慣行を秀吉は禁止し,この禁を無視して平和を乱すものを征伐するための公の軍隊の統制に従い,かつ役を提供するという形でこの軍隊に非戦闘要員として参加することを百姓,町人の身分に伴う義務としたのであった。この軍隊では秀吉の動員によらない武力の私的な行使は禁止された。この原則を百姓,町人にも適用したのが〈刀狩〉であり,彼らは武器を取り上げられることで自力救済の能力を欠く身分におとしめられたのであった。
天下統一の完成後に秀吉が無謀な朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を行ったのは,このようにして戦争に国民を動員することが,そのまま支配体制の構築・強化であったからにほかならない。しかしこの出兵は現地では朝鮮人民の抵抗に出会うとともに国内では深刻な矛盾を引き起こし,敗色の濃いうちに秀吉は死んだ。
その死後の体制を五大老の筆頭として,そしてやがては征夷大将軍として引き継いだ家康の権限は,全国の武士と百姓,町人を軍事的に統率するほかに,室町幕府のそれをも受けて朝廷や寺社にも及ぶかつてない強大なものであった。ただし朝鮮出兵の失敗の教訓から,国内的には独自の大名配置などで軍事的緊張を維持しながらも戦争への動員ではなく,諸大名の参勤,築城,河川普請などへの動員によって体制の維持・強化に努め,対外的には蝦夷については秀吉の政策を受け継いだが,中国,朝鮮については秀吉が破壊した関係の修復に努めた。この基本方針によって諸大名の支持を得た家康は最後まで臣従しようとしなかった豊臣秀頼を大坂城に滅ぼし,徳川氏の幕府の基礎を磐石とした。
政策
国土の平和と繁栄を代償として諸身分が本来的に有していた権利・能力を制限ないし剝奪することで成立していた秀吉以来の支配体制を受け継いだ幕府の政策の基本は,対外的には異文化の侵入から国土を守り体面ある独立を維持し,対内的には諸大名を指揮して百姓,町人の生活を安定させることにあった。国土の繁栄に関係があると当時は一般的に考えられていた宗教と呪術を支配する朝廷や寺社に対しては,幕府は〈禁中並公家諸法度〉や〈諸宗寺院法度〉によって天皇と公家,神官,僧侶が宗教的生活を全うし祈禱や儀式をしきたりどおり行うことを要求した。鎖国は貿易管理の意義もあるが,それ以上に在来の宗教,文化とあまりにも異質なキリスト教文明の侵入により幕府の支配の根底がくずされることを防ぐものであり,琉球,朝鮮,オランダ人などの江戸参府の行列は幕府の統治能力を沿道の貴賤に示すデモンストレーションであった。
次に大名に対しては,〈武家諸法度〉などによって参勤と妻子を江戸に住まわせることを強制し,また城をかってに修理することを禁止するなど,規定以上に武力を蓄えることを防止した。さらに婚姻を許可制とするなど相互に同盟して謀反を起こすことのないように統制したほかに,随時に築城や河川の御手伝普請を命じて大名の財力を削減させる措置を講じた。他方では大名の領内の統治にも実質上介入し,領内の民衆の生活が保たれ,一揆などを起こすことのないよう指導した。大名の領内統治の状況は巡見使,隠密などによって監視し,治績の悪い大名は改易に処した。
農民に対しては,〈宗門人別改帳〉を事実上の戸籍として機能させてその離村を防止し,〈慶安御触書〉に見られるように耕作に専念して年貢を納めるのが百姓の義務であると教諭する一方で,五人組や村に相互監視と連帯責任を課した。初期には〈田畑(でんぱた)永代売買禁止令〉などで百姓が土地を手放すことを防いだが,18世紀以降は地主小作関係を事実上公認した。さらに農村工業の発展を背景とした農村構造の変貌が打毀などに至る過程に有効に対処することができず,幕府崩壊の遠因を招くことになった。
商工業については貨幣,度量衡の制度を統一し,西廻海運,東廻海運などの沿岸航路を開発してその振興をはかる一方で重要都市とくに京,大坂,江戸の三都を直轄することを通じて全国的流通の掌握をはかった。しかし19世紀になると諸大名が独自に国産の開発にのり出したことや,さらに開港後の外国貿易による混乱を統制しきれず,崩壊の一因となることを防げなかった。
組織
幕府は譜代大名と旗本,御家人から成る軍事組織であり,その長である将軍が全国を行政的に支配するものであった。大名の所領支配は形式上は独自性が認められていたが,実質的には大名は幕府の意図を忖度し,それにそった施政を行った。大名の所領支配そのものが領内の平和の維持を含めて将軍の軍事的統率下にあることに立脚していたからである。幕府,大名の意思疎通は日常的には種々なレベルの個別的人脈によっていたが,公的には幕府の意思は大目付によって伝達された。大目付は使番(巡見使や国目付はこの役の者から任命された)とともに,将軍本営の命令を出先の部隊に伝え,かつその実施を監察するのがその本来の機能であり,それが平時の行政上の伝達系統に転用されたのである。
幕府直轄地の支配はそれぞれの奉行や代官が行ったが,近畿地方では所司代を中心とした国奉行が,また一部の大名領を除く関東では関東郡代が公家領や旗本領をも含めた広域的支配を行った。このほかに公家,僧侶,神官,寺社領の人民,職人,えた,非人などに対してそれぞれの身分に応じた別系統の支配が行われた。
それぞれの支配系統に属する者の間の紛争はその系統の内部で内済に付されるのが原則であったが,内済が不調な場合や支配系統を異にする者の間の紛争は最終的には幕府の裁決に持ちこまれた。
初期には,これらの支配と裁判を左右する意思の決定機関は将軍とその側近グループであった。各行政担当者からの報告は側近を経て将軍に伝えられ,将軍の決定は側近を通じて各担当者に下達された。家康の側近には,商人,職人,僧侶,儒者など多彩な人物が活躍したが,秀忠が将軍になると側近から遠ざけられ,秀忠の親衛隊である小性組などの隊長から取り立てられた人々が側近を固めるようになった。これらの人物は家光の代にも幕府の老(としより)/(おとな)として将軍の意思決定・下達に参加したが,このほかに家光の親衛隊長上がりのグループが〈若き老〉として新たに台頭した。前者が老中であり,後者が若年寄であるが,以後老中が主として幕府の全国支配に関することを担当し,若年寄が旗本,御家人の統率など幕府内部にかかわることを担当したのは,このころの職掌が先例として固定したためである。老中,若年寄が日常的に執務した江戸城中の御用部屋には右筆が付属し,先例調査,文書記録の作成に従事した。同じころに評定所一座の制が定められ,老中の指揮・立会いのもとに,政策決定や裁判が行われることになった。以上のように,家光のころ以降の幕府の組織は老中,若年寄を中心とした機構によって先例にのっとり運営されることとなった。初期にはそれぞれの軍事的・政治的能力によって将軍の親衛隊としての役割をになった旗本や譜代大名であったが,その子孫になると家柄(家格)によって幕府内部の地位が決定されることになり,その直参としての役割は形骸化する。他方では,将軍の代替りごとに新たに形成される側用人などの側近が将軍の取次ぎとして幕府の意思決定に実質的に参加することにより,老中以下の評定所の機能が形式化する場合や,家格制の下で有能な下級役人が実務上に大きな手腕を発揮する場合がしばしば見られたことも,中・後期の特徴であった。
幕府の崩壊
幕府崩壊の遠因は貨幣経済の浸透による農村の変質と都市へのその反映に対処できなかったことにあり,享保,寛政,天保の幕政改革も十分な効果をあげえなかった。しかし直接の原因は,ペリーの来航に始まる開国の要求に直面しながら,鎖国にかわる新たな外交体制の樹立に失敗し,征夷大将軍として外国を統御する能力を幕府がもっていないことが天下に明らかになったことによる。来航の当初は別として,近代工業を基礎としたヨーロッパ諸国の軍事力に敵対しえないことが国内で認識されると,これら諸国をオランダのように江戸城に参府させるものとして受け入れるにせよ,対等な相手として国交を打ち立てるにせよ,相手方に対抗できる軍事力の建設が幕府の急務となった。しかし武器や操練法の導入には見るべき成果があったが,軍制の改革は不徹底なものに終わった。これは,幕府の軍制が家格によって成り立っており,その全面的改変は幕府の組織の全面的崩壊に連なりかねなかったからである。その点で幕府の軍制改革は,奇兵隊をはじめとする諸隊によって領内諸階層の軍事的再編に成功した長州藩のそれと対照的であり,その差が第2次長州征伐の敗北から大政奉還へと結果したのである。
→江戸時代
[高木 昭作]
財政
江戸幕府財政の構造は,直轄領(天領)からの貢租収入を基本とし,鉱山収益や,貿易,商業,運輸などの商工業者からの運上等の収入を加え,旗本,御家人への切米(きりまい)・扶持(ふち),役料,奥向や役所の経費,修復費や貸付金などに支出するという形態をとり,財政窮乏が進むと年貢外収入に依存することが多かった。幕府の財政基盤は,(1)関東,畿内,東海を中心に元禄以後400万石を超す直轄領の保持,(2)江戸,大坂,京都,奈良,堺,長崎など政治,商工業,貿易,運輸の要点の直轄と都市商工業者の掌握,(3)鎖国体制と糸割符(いとわつぷ)仲間を通じての貿易独占,(4)貨幣鋳造権の独占と貨幣材料の金銀や主要輸出品の銅の鉱山の直轄,(5)城郭や都市建設材産地の原始林の直轄である。幕府財政は質,量ともに卓越し,大坂を中核とする幕藩制的市場を掌握して藩財政,旗本財政を従属せしめた。
幕府の財政状態は,初期は金銀の産出,貿易の伸張により潤沢で,家康遺金は190万両余にのぼり,三家に75万両を配分,残りを久能(くのう)の蔵に納めたが,家康の蓄財は豊臣氏の遺金も合わせて膨大な額であった。秀忠の遺金は330万両余,大名,旗本らに分配後家光に267万両余が残った。家光は11回の日光社参,1634年(寛永11)の上洛,島原の乱,金56万8000両,銀100貫を要した日光東照宮造替など多額の出費にもかかわらず,死後52万両を一族に分与し財政は豊かであった。57年(明暦3)の大火で江戸城も焼失,本丸再建に93万両余,米6万7000石を使い,大名,旗本,江戸町人への拝借金,恩賜金があったが,駿府,大坂より103万両余を江戸に回送し,384万両余あった天守金銀には手をつけずにすんだ。しかし甲府,館林,尾張家などの拝借,下賜金米があり,76年(延宝4)20万両余の不足を生じ,家康以来の非常用金銀分銅や奥金蔵にも手をつけはじめた。寛永以後技術的限界により金銀採掘量が激減,貿易も不振なのに,旗本子弟の新規召抱えや役料創設など支出増が原因である。綱吉は遺金分配を廃し,80年堀田正俊を農政・国用専管の老中とし,82年(天和2)勘定吟味役を創置,不正代官51名を死罪または免職にした。89年(元禄2)小普請金を創設し収入増をはかったが,館林家臣団の幕臣編入,役料復活,綱吉の大名邸御成(おなり)と恩賜,造寺造仏への支出が膨張したので,荻原重秀は95年より慶長金銀を改悪し500万両の利益を収めたという。97年6000両の酒運上,99年貿易利潤から年数万両を収公する長崎運上金制度を設定した。けれども凶作・地震・大火の災害復旧,貨幣経済発展による物価上昇などで改鋳益金も霧消した。1707年(宝永4)の富士山噴火の灰除(はいよけ)金48万8000両も16万両を使ったのみで財政に繰り入れ,金銀分銅もほとんど鋳つぶした。
正徳の治は勘定吟味役を再置,代官の不正をただし,大庄屋を廃止した。荻原重秀を罷免し貨幣を古制に戻して正徳金銀を鋳造,金銀海外流出防止のため15年(正徳5)長崎貿易の年額を制限した。元禄以来の財政は窮迫し,22年(享保7)奥金蔵金銀は13万6616両に減少,切米支給や商人への支払いが停滞したので吉宗は上米(あげまい)の制を設け,年貢定免(じようめん)制を施行した。財政改革のため老中水野忠之を勝手掛に任じ,不正代官を退け,25年代官所経費を別途支給して口米(くちまい)を収公し,新田開発を奨励した。奥金蔵は100万両に達したが,米価低落に苦しみ,その対策と飢饉で享保末年21万両に減った。37年(元文2)勝手掛老中松平乗邑(のりさと)のもと神尾春央(かんおはるひで)が勘定奉行に就任,有毛検見(ありげけみ)取法による収奪強化で年貢総量,賦課率とも最大となり,宝暦初年まで高度収奪が続く。一方,頻発する江戸大火による拝借金,再建時の瓦ぶき・塗屋・蠣殻(かきがら)ぶき奨励貸付け,新田開発に伴う治水工事費の支出が増加した。年貢増徴は財政を安定させ,42年(寛保2)奥金蔵は100万両に回復,以後増加した。田沼時代には財政収入の重点を年貢外収入に移した。すなわち五匁銀・南鐐二朱銀新鋳,大坂銅座による産銅独占,棹銅・俵物輸出,朝鮮人参などの専売,株仲間への運上・冥加(みようが)賦課である。さらに印旛沼干拓,蝦夷地開発を企てたが,天明の飢饉,農民一揆により挫折,将軍家葬祭・社参費用,新田開発土木事業,飢饉災害救済など臨時出費が重なり,奥金蔵は130万両も激減した。寛政改革では倹約令の頻発にもかかわらず年貢収入は増えず,禁裏・日光・聖堂の修復,米買上げ,治水事業,蝦夷地入用が加わり支出増となった。年貢外収入は大名手伝金,国役金に公金貸付け返納と利子収入が経常収入として固定,未返済元金,延滞利金の回収困難から天保期には縮小せざるをえなかった。1819年(文政2)の貨幣改悪以降は改鋳益金が財政収入上比重を占め,同時に大坂・江戸町人への御用金や地方的な上納金に依存するようになる。天保期の財政は収支償わず,改革失敗後の老中土井利位(としつら)の財政改革は,江戸城本丸炎上と再建費67万両支出により失敗,改鋳益金に依存する態勢が固定した。開港後の関税収入は多くなく,将軍上洛,台場築造,海軍創設,製鉄造船所建設,対外事件償金,長州征伐などに巨費を要し,御用金,改鋳益金やついに外債を頼るに至り,明治政府の引き継いだ幕府外債は約600万ドルに達した。
文書,記録
江戸幕府の文書,記録は大量に作成されたにもかかわらず,現在わずかな量が残されているにすぎない。徳川宗家および幕府諸役所の文書,記録は,幕府倒壊,徳川氏江戸退去にあたってその多くが処分され散逸した。幕府の紅葉山文庫は明治以後修史館のち内閣文庫(現,国立公文書館内)に引き継がれ,書籍類のほか幕府日記等を所蔵している。評定所文書の一部は司法省・太政官文庫を経て帝国大学法科大学に移され,同図書館で関東大震災により焼失した。勘定所文書は散逸,隠滅し,大蔵省に引き継がれたわずかのものも震災で焼失した。寺社奉行所文書は内務省に引き継がれ関東大震災で焼けたが,一部は国立国会図書館と内閣文庫に所蔵されている。町奉行所文書は市政裁判所,東京府ついで上野の帝国図書館に引き継がれ,現在国立国会図書館が管理し,旧幕府引継書と呼ばれる。旧幕府引継書は,法令類を編集した《撰要類集》や《市中取締類集》,触留・町触,南北町奉行所年番書類,諸問屋再興調,札差記録,町方書上・寺社書上,外国事件書などが主要なもので,寺社奉行所の仕置類例集,評定所書留,普請奉行役所の御府内沿革図書などを含む。外国奉行の文書,記録は外務省ついで東京大学史料編纂所に移管され,《大日本古文書・幕末外国関係文書》編纂の基本史料となっている。徳川宗家文書は孝明天皇宸翰,将軍家茂・慶喜関係文書,幕末外国関係文書など点数も少ない。家康・東照宮の宣旨・位記等は日光東照宮に納められている。《江戸幕府日記》は御用部屋日記と本丸,西丸の右筆所日記が代表的であり,将軍や世嗣の動静や諸行事,人事,法令を記す。幕府日記は内閣文庫のほか東京国立博物館,宮内庁書陵部,国立国会図書館にも写本が架蔵され,姫路市立図書館酒井家文書,島原松平文庫にも幕府日記が所蔵されている。
[大野 瑞男]
[索引語]
徳川家康 将軍(日本) 豊臣秀吉 幕藩体制 源頼朝 御家人 大名 旗本 検地 太閤検地 兵農分離 刀狩 朝鮮出兵 禁中並公家諸法度 諸宗寺院法度 江戸参府 武家諸法度 譜代大名 将軍(日本) 大目付 代官 所司代 国奉行 関東郡代 老 老 老中 若年寄 側用人 奥金蔵 荻原重秀 正徳の治 定免(じようめん)制 田沼時代 寛政改革 紅葉山文庫 評定所文書 勘定所文書 町奉行所文書 旧幕府引継書 幕末外国関係文書 徳川宗家文書
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