〔意義〕
〔経過〕
〔影響〕
日蘭学会・法政蘭学研究会編『和蘭風説書集成』、『内田銀蔵遺稿全集』、辻善之助『(増訂)海外交通史話』、中村孝也『江戸幕府鎖国史論』、和辻哲郎『鎖国』(『和辻哲郎全集』一五)、井野辺茂雄『新訂維新前史の研究』、岩生成一『鎖国』(中央公論社『日本の歴史』一四)
国史大辞典
日本国語大辞典
解説・用例
国をとざし外国との交際を断つこと。特に、江戸幕府がキリスト教や外国勢力の流入を恐れ、海外通交の統制をはかるため、寛永一六年(一六三九)から安政元年(一八五四)までの二一五年間、朝鮮・中国・オランダを除く諸外国との通商、往来や日本人の海外渡航を禁止したこと。
*鎖国論〔1801〕上「右は鎖国甚其理なきに似たることをいへり」
*徳川禁令考‐前集・第一・巻八・嘉永六年〔1853〕五月「亜墨利加船入港に付目付中上伸書〈略〉鎖国之御制度者比例になく彌以御堅固御遵守被為在候様有之度奉存候」
*和英語林集成(初版)〔1867〕「Sakoku サコク 鎖国」
*新令字解〔1868〕〈荻田嘯〉「鎖国 サコク カウエキセヌト云コト」
*新聞雑誌‐六号附録・明治四年〔1871〕二月「或は鎖国攘夷を唱(とな)へ或は今の世に居て古(いにしへ)の道に反(かへ)らんとす」
*文明論之概略〔1875〕〈福沢諭吉〉六・一〇「昔鎖国の時に在ては、我人民は固より西洋諸国なるものをも知らざりしことなれども」
語誌
この語が広まったのは、長崎出島オランダ商館付医師として来日したエンゲルベルト=ケンペルが帰国後出版した「日本誌」の中の一章を長崎通詞志筑忠雄が享和元年(一八〇一)「鎖国論」と題して邦訳し、幕末の日本知識人に影響を与えたことによる。
発音
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辞書
ヘボン・言海
→正式名称と詳細
表記
【
世界大百科事典
江戸幕府がキリスト教の禁制を軸に,貿易の統制・管理と日本人の海外往来の禁止を企図して実施した対外通交政策,およびそれによってもたらされた状態を鎖国と呼んでいる。この政策は,オランダ人を長崎出島に強制移住させた1641年(寛永18)に確立し,1854年(安政1)ペリー艦隊来航のもとで日米和親条約(神奈川条約)が調印されるまで200余年の間続いた。それは,江戸幕府が内外の情勢に対応して集権的な権力を確立する過程の一環として打ち出されたもので,日本列島が当時の世界交通の辺境である東北アジアにあり,大陸と海で隔てられているという地理的条件と,季節風と海流を利用した帆船の技術的条件によって,長期にわたる状態の固定が外部から支えられた。
〈鎖国〉の語は,1801年(享和1)長崎の通詞で著名な蘭学者でもあった志筑忠雄がケンペルの《日本誌》の一章を翻訳し〈鎖国論〉と題したときに始まる。ケンペルは鎖国状態のもたらす効用を肯定的に記述したのであったが,英訳からの重訳であるオランダ語版は,その是非を問う表題になっていた。志筑の訳語には,すでにロシア使節ラクスマンが通商を求めて根室に来航する時勢のもとで,なお外国との通交を〈祖法〉を盾に拒否しようとする幕府への批判的精神がこめられていた。禁令の発布当時,来航を拒絶された〈かれうたgaleota〉とは軍船にも商船にも用いられた船のことであるが,当時はポルトガル船を意味していた。それが18世紀には幕府当局者にとっても異国船もしくは蕃船一般と理解され,その来航禁止が〈祖法〉と考えられるようになったのである。
1547年(天文16)の遣明船を最後に日明間の公的通交が途絶してからの約1世紀間は,対外関係のあり方が中世から近世のそれへと転換する過渡期であった。この間,国内では日明公的通交の主体であった室町幕府が滅亡し,織豊政権による天下統一がなされ,ついで江戸幕府が成立した。国外では,中国大陸における明の衰亡と清の興起が進行し,明帝国を中核としたアジアの公的通交秩序は崩壊し,貿易は諸港市間を結ぶ私的通交が盛んとなった。日明貿易についていえば,後期倭寇の時代である。ちょうどこの時期,宗教改革とルネサンスを経た西ヨーロッパは世界史の主導権を握り,とくにローマ教皇から世界の領土分割の認可をうけたポルトガル,イスパニア両国は,カトリック布教の強烈な意志に支えられ,東西からあいついでアジアに到達し,活発な貿易活動を開始した。ポルトガル人が1543年種子島に来航し,イエズス会宣教師ザビエルが49年鹿児島に上陸するにいたった背景は以上のごとくである。イエズス会はゴアのインド管区の下に日本とシナの二つの布教区を置いたが,82年(天正10)日本は準管区に昇格してシナ布教区を管下に置き,1609年(慶長14)さらに独立管区としてシナ,マカオの2準管区を管轄した。イエズス会布教の発展期と織豊,徳川氏による天下統一の過程は並行していたのである。
織田政権は統一の中途で倒れたため明確な外交方針を示さぬまま終わったが,ヨーロッパ人宣教師を好遇したことは理由のいかんを問わず事実である。織田信長は宣教師たちによって唐,天竺,本朝以外の新しい世界と文化の存在を認識した最初の為政者であった。豊臣政権も当初同じ態度を継承していたかにみえたが,1587年6月九州平定後5ヵ条からなるキリシタン禁令(伴天連追放令)を発し,宣教師が国郡の人民を信徒にして神社仏閣の破壊行為に出たことを非難し,〈邪法〉としてその布教を禁じ,宣教師の追放を令した。しかし,この禁令では神仏を妨げないかぎり,貿易と〈きりしたん国〉との往来は自由とされていた。秀吉の突然の禁令の背景には,長崎,茂木が教会領となっていたことへの反発があったと考えられている。1580年肥前の領主大村純忠・喜前(よしあき)父子は長崎,茂木をイエズス会に寄進し,その土地所有権,行政権,裁判権とポルトガル船の停泊税が会の手に渡り,大村氏の手にはわずかに入港船の貿易税徴収権が留保されるにとどまった。秀吉の念頭には,寺内町という独自の都市領域を持ち,自宗以外の寺社を破却し〈百姓ノ持タル国〉を現出して天下統一に最大の抵抗を試みた石山本願寺と一向一揆の影が去りやらず,このような外国の宗教領主の存在を容認することはできなかった。まして神社仏閣の破壊行為は,彼のめざす〈天下静謐〉の理念に正面から対立するものであった。彼は長崎,茂木を収公し,直轄領として代官支配下に置いた。
これより早く,ポルトガルはゴアとマカオを結ぶカピタン・モール制貿易を開始した。それはポルトガル国王の名の下に軍事,行政,経済の全権を握る司令官(カピタン・モール)が指揮する大船によって行われる一種の官営貿易であり,1570年(元亀1)からマカオ~長崎間をもその航路の欠くことのできない一部として含みこむことになった。16世紀の30年代ごろから急激に台頭した日本産銀と中国産生糸の交易が大きな利潤を上げ始めており,それへの対応であった。イエズス会の布教資金もここから捻出された。マカオが海賊退治の報償として明から割譲された事実に示されているように,ポルトガルは崩壊した東アジアの公的通交秩序に代わり,仲介貿易の担い手として利益を得ようとしたのである。秀吉は1588年7月海賊禁止令を公布して私貿易の取締りを徹底し,貿易統制に乗り出したが,生糸貿易の主要な部分はポルトガルとイエズス会に掌握されていたため,その関心は買占めへと向かった。89年と推定されている文書で,秀吉は島津領内に着いた黒船舶載生糸を買手の有無にかかわらず全量買い上げるよう命じ,あわせて黒船(ポルトガル船)の日本の港湾への入港の自由と,生糸の一括買上げを保証している。買い上げた生糸は国内へ転売されることにより差益を生んだのである。91年以降,秀吉はインド,フィリピン,台湾に入貢を促し,大陸侵略に乗り出す。彼の頭には日本を中心とする公的通交秩序が空想されていた。96年土佐に漂着したイスパニア船サン・フェリペ号の船員がキリシタン伝道は国土侵略の手段と語った事件を契機に,それまで必ずしも厳格に励行されなかった禁教が強化され,長崎において26名の信徒・宣教師(二十六聖人)が処刑された。
徳川家康が関ヶ原の覇権を手にした1600年は,日本布教が全修道会に開放され,イエズス会による日本布教の独占が破れ,またオランダ船リーフデ号の豊後漂着を機に,プロテスタント国のオランダ,イギリスが日本に進出した年でもある。家康はW.アダムズらによって世界情勢についての新しい知識を得るとともに,秀吉の強硬外交に代わり,和親通交の方針によってヨーロッパと東アジアの諸国に対した。朱印船制度にもとづく東南アジア諸地域との相互交通の推進は,日本を中心とした公的通交秩序の形成を意図したものといえる。ポルトガルの長崎貿易に対しては京都,堺,長崎3ヵ所商人を主体とする糸割符制度を施行して生糸貿易の統制をはかるとともに,イスパニアに対しては江戸近辺への来航を促し,通商を求めた。一方,オランダ,イギリスに対しては軍需品貿易を通じ関係を強め,徳川政権確立への戦略的布石とした。
しかし,キリスト教に関しては,この間一貫して〈邪教〉観を捨てず,1612年ついに直轄諸都市における教会破却,宣教師の追放,布教禁止を令し,信仰それ自体の禁制に踏み切った。この背景には旧教国と新教国の対立,日本貿易をめぐる角逐があったと伝えられ,事実と考えられるが,家康が後水尾天皇の擁立に示されるように国家的形態の権力集中を志向していたことも見逃せない。異民族的・異国的〈邪教〉の禁止は,幕府をして本来は直接干渉することのできない大名の家臣・領民に対する統制を可能にし,権力の強化・集中に大きな役割を果たした。1616年(元和2)8月,2代将軍秀忠はキリシタン禁制を百姓レベルまで徹底するよう命じ,ポルトガル船,イギリス船とも大名領内での自由通商を認めず,貿易を長崎,平戸に限定すること,中国船はこの規定から自由であることを令した。この法令は貿易を禁教の枠内にとらえた点で画期的なものである。
一方,このころから1630年代初頭にかけて,東アジア海域におけるオランダの覇権が確立していった。オランダはマラッカ海峡を押さえ,台湾に進出して,旧教2国の対日貿易ルートを締め上げ,宣教師の潜入を告発し,幕府による2国との断交を引き出した。1622年には長崎で〈元和大殉教〉が起き,翌年幕府はマニラへの日本人渡航を禁止した。この年,イギリスはオランダとの競争に敗れ,平戸の商館を引き揚げ,インドに撤収した。オランダは朱印船との競合にさいしても,日本貿易の独占をねらう長期戦略に立ち,幕府に対して〈臣下の忠節〉をつくして朱印船による宣教師潜入を告発するなどいんぎん,かつ巧妙な外交を展開し,しだいに勝利者の地位を確保していった。
幕府はキリシタン弾圧を強化し,各地で惨烈なテロル,拷問,処刑が繰り返されたが,朱印船についても統制を強め,1631年(寛永8)海外渡航の船には将軍が船主に与える朱印状のほかに,老中から長崎奉行にあてた奉書を必要とするよう定めた(奉書船)。この措置は,船主や長崎奉行の恣意を幕府の統治機構のもとに制約しようとするものであった。さらに同年,中国船舶載生糸についても統制下に入れることとし,糸割符商人団に江戸,大坂の2都市を加え,以前から権利を有した諸都市の占める地位を相対的に低下させた。
3代将軍家光は就任と同時に九州地方への支配を強め,加藤忠広改易を機に豊前,豊後を譜代大名で押さえた。九州は幕府にとって身近な領域となり,長崎は孤立した直轄領ではなくなった。1633年それまで大御所家康の側近や大名が任命されていた長崎奉行に,はじめて将軍直参の旗本2名が任命された。この2名にあてた老中の指示がふつう〈寛永鎖国令〉と呼ばれる最初の条令であり,以後39年まで5次にわたって改変をうけながら整備されていった。内容は(1)日本人の海外往来禁止,(2)キリシタンとくに宣教師の取締り,(3)外国船貿易の規定,である。(1)については,当初は奉書を受けた朱印船のみ渡航を許していたが,1635年からいっさいの日本船渡航を禁じ,海外在住日本人の帰国は死刑をもって迎えられることになった。(2)は禁教令の確認・徹底で,密告の奨励,外国船に対する警備が規定されたが,しだいに密告褒賞額の引上げ,対象とされる教会関係者の範囲拡大が行われた。37,38年天草と島原の一揆(島原の乱)が起き,幕府は12万の大軍をもって鎮圧したが,その後39年の条令で国内キリシタンへの外部からの連絡を絶つことを口実に,ポルトガル船(かれうた)の来航停止を命じている。さらに,ヨーロッパ人妻子ら血縁関係者の国外追放にまで及び,禁教令はほぼ完成した。(3)では,外国船の入出港の時期を限定し,長崎における生糸取引をすべての外国商品の取引の基準にしようとし,武士の貿易への直接干与を禁止した。この対象には中国船舶載商品も含まれていたが,1635年からは中国船の来航も長崎に限定されるようになった。やがて41年オランダ商館が平戸から長崎出島に強制移転を命じられ,すべての外国船貿易は長崎に集中されたのである。将軍の委任を受けた糸割符商人団がまず一括購入した生糸値段を決定し,ついで商人たちによる他の諸商品の取引が行われた。生糸取引の利益は貿易の手段を奪われた直轄都市を中心とする諸都市商人に一定の比率をもって配分された。こうして長崎を窓口とする管理貿易の体制が成立した。
こうした状況のもとで,1635年朝鮮との関係が修復し,翌年正規の通信使(朝鮮通信使)が来日した。島津氏の征服下にあった琉球も,1634年将軍の代替りを祝う賀慶使,44年(正保1)琉球国王の襲封を感謝する謝恩使を送り(琉球使節),以後両国は〈通信の国〉として,中国,オランダの〈通商の国〉と並び,将軍を中心とする公的通交秩序の形式を支える位置に置かれたのである。鎖国における海外渡航の禁止や通交貿易の統制とその形式などには,中国や朝鮮の海禁政策との類似点がみられ,近年の研究では,アジア諸国との比較史的関心から再把握しようとする動向がみられる。
→海禁
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