北島正元『水野忠邦』(『人物叢書』一五四)、津田秀夫『封建社会解体過程研究序説』、佐藤昌介『洋学史研究序説』、藤田覚『幕藩制国家の政治史的研究』、青木美智男・山田忠雄編『天保期の政治と社会』(『講座日本近世史』六所収)、大口勇次郎「天保期の性格」(『(岩波講座)日本歴史』一二所収)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
江戸時代後期の天保年間(1830~44)に、幕府・諸藩によって行われた諸方面にわたる改革の総称。幕政の改革としては、享保 (きょうほう)の改革、寛政 (かんせい)の改革とともに三大改革の一つとされる。
19世紀初頭以来、全国各地の農村における商品生産の急速度の発展は、従来からの農民層の分解にいっそう拍車をかけ、関東農村の荒廃ももたらしていた。天保の大飢饉 (だいききん)は、この構造のなかで空前の規模となった政災であり、続く大塩平八郎の乱、生田万 (いくたよろず)の乱など都市下層民や農民の生存をかけた闘争とも相まって、封建社会の基礎を大きく揺るがし、幕府財政の窮迫をいよいよ深刻なものとした。一方、ヨーロッパ資本主義列強も「鎖国日本」の扉をますます激しくたたくに至り、「内憂」「外患」はここに極まった。
1841年(天保12)閏 (うるう)正月、大御所徳川家斉 (いえなり)が没してようやく幕政を親裁することができた12代将軍家慶 (いえよし)は、かねて信任していた老中首座水野忠邦 (ただくに)に改革政治を推し進めさせた。改革が断行された直接的な期間は通常、同年5月から43年閏9月の水野退陣に至る2年半とされるが、いくつかの改革政治はその後も継承されている。この改革は家慶によって「享保・寛政の御政事向 (ごせいじむき)に復する」ことが標榜 (ひょうぼう)されてはいるものの、歴史上の意義のうえで、単なる封建反動とみなすことはできず、絶対主義的傾斜を含んだ改革というべきであろう。とくに、この改革を契機として、明治維新政権樹立運動に登場する諸勢力が社会的にも経済的にも出そろうことを見逃してはならない。また農民層分解、農村荒廃、百姓一揆 (ひゃくしょういっき)の高揚などの内的矛盾を、列強進出による外的矛盾に対置しつつ、経済改革と軍事改革を一体化させた「富国強兵」のコースが打ち出された点も特徴的である。
改革令のおもな内容を例示すると、(1)風俗矯正と倹約令、(2)低物価政策、(3)江戸における「人返し」令、(4)対外政策、(5)江戸、新潟湊 (みなと)、大坂の最寄地 (もよりち)を対象とした上知 (あげち)令、などである。このうち、天保の改革を特徴づけているのは(2)(4)(5)である。まず(2)の低物価政策として、問屋・組合・株仲間の解散を命じた、いわゆる株仲間解散令(1841年12月令と翌年3月令)は、幕府の指定する市場において、広範な地域からの商品流通が円滑に行われることを目的として、従来からの特権的流通機構を解体したものである。また、これに伴って価格調査が行われ、価格表示、引下げなどの一連の処置が強制的に執行された。これらの施策は、農民的商品経済の進展と諸藩権力の雄藩化に対する幕府としての独自の改革的対応であった。また、水野退陣による改革の頓挫 (とんざ)ののち、1851年(嘉永4)になって幕府が出した問屋・組合再興令も、むしろこの解散令の延長線上のものと解すべきであろう。すなわち、問屋再興令は、冥加金 (みょうがきん)を賦課せず、再興にあたって株札を渡さず、人数も原則として定めないなど、天保の改革以前にあった株仲間――特権的流通機構――を復活させるようなものではなかったのであり、そのことによって、都市のみならず、農村地域でも商工業の組織化を図るという、改革以来の絶対主義的産業規制であると考えられる。したがって、こうした点からみれば、天保の改革全体を、単純に失敗に終わったとみることは正確でない。
次に(4)の対外政策とは、1825年(文政8)に発した異国船打払令の撤回(1842.7)、緩和と、他方での江戸湾防備を中心とする海防政策――軍事的改革である。これはヨーロッパ資本主義列強のアジア侵略の一環としてのアヘン戦争が清 (しん)国の敗北に終わったという情報や、イギリスが日本に対しても進攻計画をもっているとの情報が伝わったことなどによるものであるが、幕府としては、これらの外圧が国内の体制的矛盾と結び付くことをなによりも恐れて対処したものである。
最後に、(5)の上知令(1843.6)は、豊饒 (ほうじょう)な土地の幕領編入による貢租確保(とくに大坂周辺)、幕領・私領の複雑な入り組みの解消による人民統制、支配の強化(とくに江戸周辺)、港湾部の直轄支配による国土防衛策と運上徴収(とくに新潟湊)、などを直接的な目的としたものであり、全体として、政治的・経済的・軍事的課題の統一的追求により、幕府権力の富国強兵的強化を図ったものである。しかし、この改革は、年貢先納や調達銀借り上げなど負担が直接かかってきた農民や町人の激しい抵抗を受け(とくに大坂)、それを背景として有力諸藩が反対に回るに及んで、上知令は撤回された(1843・閏9)。この撤回は、三方 (さんぽう)領地替の撤回(1841.7)に続くものであり、江戸・大坂の直轄都市周辺でさえ、封土の転換令が出せなかったことは、天保期の幕府権力が著しく凋落 (ちょうらく)したことを表している。なお、この撤回令は水野が病気中に将軍家慶の名で出されたもので、その直後に水野は退陣を余儀なくされた。しかし、新潟の上知は実施され、発令によって新設された新潟奉行所 (ぶぎょうしょ)を拠点に、直轄支配が幕末まで貫徹する。したがって、上知令全体が破綻 (はたん)したととらえることも、水野の退陣をただちに上知令の撤回(江戸、大坂)のみと結び付けるのも正確ではない。水野の退陣の背後には、風俗矯正令や倹約令の徹底が民情を無視して厳しく行われたことに対する、町人・民衆の反感が大きく働いていることを重視すべきであろう。そのため、退陣により改革の一部は頓挫するものの、改革政治の基本路線は後継幕閣によって継承されていくし、国際事情通であった水野自身が、外交問題を処理するため、1844年6月、再登場するのである。
幕府の天保の改革と前後して、諸藩でも藩政改革が行われた。なかでも長州・薩摩 (さつま)・土佐・肥前の各藩は天保の改革においていちおうの成功を収め、「西南雄藩」として幕末維新期の政局に主導的役割を果たすようになる。長州藩では、村田清風 (せいふう)が銀8万貫を超える藩債を緊縮財政や積極的な塩田開発の事業収益などによって整理する一方、文政 (ぶんせい)年間(1818~30)に徹底して行った専売制が領民の激しい抵抗を招いたためにそれを緩和する方向に政策を転換させ、越荷 (こしに)方の改正などを行って藩政改革を成功させた。薩摩藩でも、500万両以上の藩債を抱えていたが、調所広郷 (ずしょひろさと)は三都の債権者に対し250年賦償還という実質的踏み倒しで切り抜け、領内では三島産砂糖の惣 (そう)買入れを押し付けて収奪を図り多くの利益をあげた。水戸藩でも、藩主徳川斉昭 (なりあき)が土地問題(限田制)を提起して藩政改革を推進し、その成功を背景に幕末の政局に尊攘 (そんじょう)藩として活躍した。なお、斉昭は、水野忠邦の幕政改革を支持し、水戸藩での経験を基に十数か条の改革意見書を忠邦に送っている。
世界大百科事典
江戸時代後期の天保年間(1830-44)に行われた幕政改革,藩政改革の総称。領主財政の窮乏・破綻,天保の飢饉を契機とした物価騰貴,一揆の激発などの社会的動揺,外国船来航による対外的危機などを克服し,幕藩体制の維持存続を目ざして行われた。天保の幕政改革は,享保・寛政のそれとともに江戸の三大改革とも称される。
天保初年の凶作飢饉は米価の高騰を招き,農村と都市の下層民を貧窮に陥れた。1836年には甲斐の郡内騒動,三河の加茂一揆など数万の農民をまきこんだ一揆が勃発し,翌年には大坂で元町奉行所与力の大塩平八郎が貧民の救済を求めて乱を起こした。この事態に対して,水戸藩主徳川斉昭(なりあき)ら領主階級の一部は幕藩体制の危機ととらえていたが,幕府では将軍家斉(いえなり)が引退したものの大御所として隠然たる勢力をもち,大奥を中心に豪奢な生活を送り,改革を嫌い,太平の世の政治を続けていた。41年家斉が没すると,老中首座の水野忠邦は将軍家慶(いえよし)を擁して家斉側近派を追放し,幕政の改革を開始した。忠邦は,家斉時代の放漫と奢侈(しやし)を改め,享保と寛政の時代に復帰することを目標におき,綱紀粛正,倹約励行,風俗匡正に力を注いだ。なかでも奢侈の抑制は微細にわたり,江戸の町触(まちぶれ)において,女髪結(おんなかみゆい)の禁止,高価な櫛・(こうがい)・きせるの売買禁止,早作り野菜やぜいたくな料理の販売禁止など,町人の日常生活を厳しく規制するほか,芝居小屋を郊外に移転させたり寄席を閉鎖するなど,風俗匡正に名をかりて庶民の娯楽にも制限を加えた。江戸の町奉行に抜擢(ばつてき)された鳥居耀蔵(ようぞう)は,市中に隠密を放って違反者の摘発に努め,禁を犯した者には厳罰で臨んだため,市中は火の消えたようになった。
飢饉以来騰貴を続けた物価を引き下げることは改革の重要課題であった。幕府は,物価騰貴の根本原因を当時の商品流通の機構,つまり十組(とくみ)問屋仲間の流通独占にあると考え,41年12月に株仲間解散令を発し,江戸の十組問屋や三都の問屋・株仲間の名称による商取引をいっさい禁止して,一般の商人の自由な取引を許した。商人相互の自由競争によって商品流通量が増加し,物価は下がるであろうとの期待にもとづいたものであるが,実際には従来の流通機構が解体した結果,商品が江戸・大坂に集中せず,意図した効果をあげることができなかった。さらに物価対策としては,商人に対し直接小売値段の引下げを命じ,商品の買占めを禁じたり,価格の店頭表示を強制したほか,江戸市中の地代・店賃(たなちん)の引下げを断行し,職人の手間賃(てまちん)や日雇(ひやとい)の給金にも公定価格を定め値上がりを抑制した。この結果,幕府の強権によって一時的に価格が下落することはあったが,同時に市中の商況は不景気に陥り,町人らの不満が蓄積された。物価騰貴は,庶民とともに下級の旗本や御家人の生活を苦しめたが,幕府は彼らの生計を救済するために,札差(ふださし)からの借金に対し無利息20年賦返済という棄捐(きえん)に近い処置をとって負債の解消に努めている。農村については,凶作によって生まれた荒廃地を回復し,年貢を強化することが目標であった。人返し令は江戸出稼人の帰農を奨励し,新たに農村から江戸へ移住することを禁止するなど,農村の労働力を確保することを目的とし,同時に江戸市中の貧民の増大を防ごうとしたものである。
41年には近江の幕領で新開地(しんがいち)の検地を計画したが,農民の反対一揆によって中止となり,このあと幕府は,改革の重点を代官所支配の整備においた。当時は,幕領の代官は江戸在住のまま1,2年で交替するため農政を十分に見ることができなかったので,これを改めて代官に陣屋在住を命じ,10年未満の任地異動を許さないこととした。そのうえで全国の幕領農村に〈御取箇御改正(おとりかごかいせい)〉を実施した。これは,代官や勘定所役人が回村して,村内耕地の検分を行い,新開地の高入れや石盛(こくもり)の変更によって年貢の増徴を目ざした画期的な試みであったが,途中で水野忠邦が失脚したため中止されている。
この時期,中国大陸では清国がイギリスとアヘンの輸入をめぐり対立して戦ったが,近代的軍事力の前に屈して開港と領土の割譲を余儀なくされていた(アヘン戦争)。この報を聞いた幕府は,長崎の砲術家高島秋帆をよんで洋式の砲術訓練を行って軍事力の育成に努める一方,42年には文政の異国船打払令を撤回し,沿海に来航した外国船に薪水を供与することを許した(薪水給与令)。また海岸線の警備体制を強化し,江戸湾では浦賀奉行の監督の下に,川越藩・忍(おし)藩に防備を担当させ警戒に当たった。
ついで43年には,大名・旗本領のうち江戸と大坂10里四方の地を上知(あげち)させて幕領に編入し,ほかに代替地を与えるという上知令を発令した。これまで各地に分散していた幕府の直轄地を,比較的生産力の高い,政治的にも重要な地域に集中させるという方策であり,前述の代官支配の強化と相まって,幕領支配の再編強化を目ざしたものでもあった。しかし上知の対象となる大名らは,高免地(たかめんち)で在府中の賄所(まかないしよ)であり,しかも先祖代々の領地である土地を失うことに強い反対の意向をみせ,大坂周辺の農民も反対の声をあげるなかで,関係の領地をもつ老中や三家の内からも批判が生じ,上知令は撤回された。これを推進してきた水野忠邦は幕閣内で孤立し,43年閏9月には老中を罷免され,ここに幕府の天保改革は中止されるに至った。上知令の失敗は,全国の土地領有者として諸大名を従えてきた幕府の力が減退したことを示している。幕府の天保改革は総じていえば,復古的精神にもとづいて大胆な政策を相次いで提起したことに特徴があるが,現実と政策の乖離(かいり)が明らかになるにつれ,幕藩体制の危機をいっそう鮮明にさせるものであった。
幕府の改革と並んで,いくつかの有力な藩でも藩政の危機に際して,独自な改革を断行した。たとえば長州藩では,天保初年に藩専売制に反対する防長大一揆が起こり藩政の危機を迎えたが,1838年に中士層に属する村田清風を登用して改革に着手した。まず従来の専売仕法を改めて農民からの収奪を緩和する一方,下関など主要な港に越荷方を設け他藩の船に資金を融通して利潤をあげた。また城下町商人を抑えて藩士の負債を棄捐にしたり,藩債を解消するなど藩財政の再建に努めた。薩摩藩では茶坊主出身である調所広郷(ずしよひろさと)の改革によって,三都の豪商から借り入れていた多額の借財を250年賦償還という強硬手段で整理し,財政の破局を切りぬけた。また奄美大島のカンショ栽培に専売制をしいて利益を収めるとともに,琉球との密貿易によって藩財政の充実に成功した。佐賀藩では,国産の陶器の専売制を強化するとともに,均田制度をしいて商人地主の発展を抑制し,小農依存の年貢強化を試みている。水戸藩でも藤田東湖ら改革派の主導によって領内の検地を行う一方,領内特産物の国産制を強化している。
これらの有力諸藩の改革に共通した特徴点をあげると,第1は,破局に瀕した藩財政の再建として改革が始まった点である。そこでは土地改革や国産制などの従来からの仕法のほかに,徹底した抑商主義にもとづくドラスティックな藩債整理が採用されたのが注目される。第2は,対外危機にすばやく対応し,海岸防備のために洋式砲術を導入し,火薬や大砲の製造を始めた点である。第3は,改革を通じて,従来の家格と門閥に縛られた守旧的な藩執行部に代わって,中下士層から能力を備えた人材が藩政に登場してきた点である。とくに第1と第3の点は幕府の改革と比べて対照的である。この改革に成功した雄藩は,開港以降の動乱期に政治的に活躍する足がかりを築いたのである。
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