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天保の改革

ジャパンナレッジで閲覧できる『天保の改革』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

天保の改革
てんぽうのかいかく
江戸時代後期の天保年間(一八三〇―四四)に、幕府や諸藩で行われた政治改革の総称。幕府の天保の改革に関する研究は、明治二十年(一八八七)―三十年代から始まる。それは明治二十八年・二十九年に出版された福地桜痴『水野閣老』そのほかに代表されるが、改革を担当した老中水野忠邦の伝記に焦点をあてている。腐敗堕落した政治・社会を改革しようとした水野の政治を評価することによって、当時の政治・社会の状況を批判しようとしたのである。このような評論的な段階から一挙に研究水準をたかめ、改革の基本的な諸事実を実証的に明らかにしたのが三上参次『江戸時代史』(明治末から大正初めの講義、刊行は昭和十九年(一九四四))である。このアカデミズム史学の政治史的研究とならんで、大正デモクラシーを背景に、社会経済史的研究が主に在野の研究者の手により始められ、内田銀蔵『近世の日本』、竹越与三郎『日本経済史』などが代表的な著作である。その後研究は商人組織に関心が移り、幸田成友『株仲間の解放』、宮本又次『株仲間の研究』など株仲間を中心とした成果が生みだされた。これが、日本経済史研究所編『近世日本の三大改革』に結実し、第二次世界大戦前の天保の改革研究の到達点となった。戦前の政治史的研究では、改革諸政策が羅列的、並列的で、しかも政治が社会・経済の深みから捉えられておらず、社会経済史的研究には、株仲間問題に力点が置かれすぎて、政治改革としての改革全体の把握が商業史的、経済史的側面に偏重した欠陥があった。ただ後者には、天保期を危機の時代と位置付けた点、改革を社会経済史の深みから理解しようとした点が注目される。いずれにしても、天保の改革を明治維新を展望して幕藩制国家解体過程の歴史に位置付ける、という課題からすると非常に不十分であった。
 その課題に正面から取り組んだのは、戦後の諸研究である。明治維新により成立した近代天皇制国家・近代社会の歴史的性格を明らかにする作業の一部として、天保期、天保の改革が取り上げられた。奈良本辰也『近世封建社会史論』は、天保の改革を幕藩体制の危機に対処しようとした改革と捉え、明治維新の前提として位置付けた。そして遠山茂樹『明治維新』は、天保の改革には、天保期までの一定のブルジョア的発展と階級闘争の激化に対応した「絶対主義への傾斜」がみられ、ブルジョア的発展に対応して封建権力の統一・強化を狙った絶対主義的変革としての明治維新の政治的本質の原形が形成された、と評価した。この遠山説に対してはいくつもの批判が出されたが、井上清『日本現代史』一、堀江英一『明治維新の社会構造』が代表的なものである。特に井上は、天保の改革を「単純な生一本のそれだけ強烈な封建反動」と、遠山と正反対の評価を下した。この絶対主義傾斜か封建反動かの論争は、株仲間解散令を中心とした改革諸政策の評価と、基礎構造の分析による天保期のブルジョア的発展の性格とその程度の評価をめぐる議論に発展して行った。
 この昭和二十年(一九四五)―三十年代の研究により、天保期が幕藩制国家と社会の大きな転換期・危機の時期であることが確認され通説化したが、つぎにその危機の歴史的位置・性格が議論された。これについては、佐々木潤之介『幕末社会論』などが、危機を領主的危機・封建的危機・民族的危機の三つに分け、天保期の危機は領主的危機の段階であり、幕藩制国家解体の危機を意味する封建的危機は、開港による民族的危機を契機として到来すると論じた。だが、絶対主義傾斜か封建反動かの論争も、危機の性格の議論も、事実に即した実証的研究が不足しており、いわば議論倒れのような状態にあった。その後、天保期と天保の改革に関して、基礎構造や改革諸政策の個別的、具体的研究が積みかさねられてきた。
 天保期の危機、すなわち天保の改革を断行せざるを得なくさせた危機は、水戸藩主徳川斉昭が幕府に差し出すために書いた「戊戌封事」において指摘したように「内憂外患」である。内憂とは国内的危機のことであるが、内憂の本質は、塩沢君夫・川浦康次『寄生地主制論』、佐々木潤之介『幕末社会論』などがブルジョア的発展を遂げてきた富農や豪農がその発展を止めて地主化するのが天保期であると主張し、中村哲『明治維新の基礎構造』が本源的蓄積の開始は天保期であると論じたように、天保期に近世社会の基礎構造における大きな転換期を迎えたことにある。それは具体的には、地主化する一握りの上層農民と、多数の貧窮化して小作人あるいは日雇い労働者となる下層農民への農民層分解、関東・東北では、農村が荒廃して離村する農民が続出するという事態として現われた。また都市には貧窮して離村した農民が多数移り住み、その結果、其日稼の者と呼ばれる職人・日雇い・棒手振り・小商人らの下層町人が増大し、江戸ではその下層町人が人口の六割以上を占めるに至り、都市構造の面でも大きな転換期を迎えていた。このような、都市・農村を通じて現われたその構造の大きな転換こそが、天保期の国内的危機の最深部の要因である。
 この深部での社会構造の転換が生みだした諸矛盾が、幕藩制国家の危機を示す諸事件を引き起した。天保初年から八年にかけての天保の大飢饉を直接の引金として、その諸矛盾が激化した。凶作は米価など諸物価を高騰させ、都市・農村の下層民衆をさらに一層厳しい生活苦に陥れた。その結果、天保七年には、甲斐の郡内一揆、三河の加茂一揆、翌年には、大坂で大塩平八郎の乱、さらにその翌年にも佐渡一揆が起り、量的にも質的にも江戸時代の民衆蜂起のピークを築いた。特に大塩平八郎の乱は、江戸にまで不穏な状況を作りだして領主階級に衝撃を与え、その一部に強い危機感を抱かせた。
 この内憂とならんで外患、すなわち対外的危機が深刻化する。それはまず、天保八年にモリソン号事件として現われた。これは浦賀に渡来した外国船を、異国船打払令に従って浦賀奉行所が砲撃した事件であるが、翌年オランダ商館長から、外国船はモリソン号というイギリスの船(実はアメリカ船)で、漂流民の送還を口実に日本との通商関係を打ちたてることを目的として渡来したことを知らされた。この事件は、幕府内外の一部に深刻な対外的危機感を生みだし、幕府は、異国船打払令の再検討と江戸湾防備策の立案を開始した。他方渡辺崋山らの洋学者は、イギリスをはじめとする欧米列強の日本接近と異国船打払令の危険性を指摘し、対外的危機について警鐘を乱打した。その上、中国でアヘンの輸入をめぐってイギリスとの間にアヘン戦争が勃発し、中国が劣勢であるという情報が、オランダ船や中国船からもたらされた。この情報は、対外的危機の一層の深刻化を印象付けた。
 だが幕府では、天保八年に将軍が交代して徳川家斉から家慶に代わったが、政治の実権は依然として大御所家斉とその側近が握っており、内憂外患の危機に対処しようとする動きは見られなかった。特に、家斉の子女を通じて姻戚関係のある大名を優遇したその恣意的な大名政策は、共通して財政破綻に直面していたほかの大名を憤激させ、幕藩関係は悪化していった。だが、天保十二年に家斉が没するや老中水野忠邦は、家斉側近を一掃し、現状改革の意志を持つ有司を結集して改革派を形成し、五月に政治改革令を発して、享保・寛政の改革とともに江戸時代の三大改革と称された天保の改革を開始した。この改革は内憂外患の深刻化を反映して複雑多岐にわたったが、大名・農民・町人政策は、「当御代思召次第」を強調して非常に強圧的で、しかも先例にとらわれずに断行しようとしたところにその特徴があり、それだけに現状改革が厳しく、その結果大名以下の反発・抵抗も激しくなり矛盾が一層深まる結果に終っている。
 この改革は、大御所政治を一掃して享保・寛政の時代に復古することを掲げ、綱紀粛正・倹約励行・風俗是正に力を入れ、とりわけ奢侈の取締りは厳格を極めた。都市民に対しては、改革の結果町人の営業・生活が成り立たなくなって離散し、都市が衰退を極めても一向構わないと公言するなど、領主支配にとって無用なものはその存在を許さないという苛酷な改革が容赦なく打ち出された。その取締りは、日常の衣食住の全般にわたり微に入り細を穿つもので、女髪結、高価な装身具、促成栽培の野菜、高価な料理、玄関・長押(なげし)などを備えた家作等々の禁止が有名なものである。また、風俗の悪化・奢侈の元兇と目された歌舞伎に対して弾圧を加え、江戸三座のうち堺町と葺屋町の芝居小屋を江戸の外れの浅草山之宿に移転させ、役者の旅興行も禁止して、歌舞伎と役者を江戸市中から隔離した。さらに、当時江戸の町地だけでも二百ヵ所をこえていた寄席の取り潰しを図り、結局十四ヵ所のみに制限し、しかも演目を軍書講談そのほか四つに限定するなどして、町人のささやかな日常の娯楽すら奪った。なお、風俗是正の名のもとに出版の統制が強化され、すべての出版物に幕府の検閲を行うことになり、特に当時江戸のみならず全国的にもてはやされた絵草紙・錦絵・人情本に厳しい統制を加え、作者である為永春水・柳亭種彦そのほかを処罰するなどして町人文化に干渉した。このような町人文化や洋学そのほかの思想に厳しい取締りを行なったのが、この改革の一つの特徴である。
 さらに特に問題となっていたのは、物価の騰貴であり、その原因はすでに述べた基礎構造の変化に伴う流通構造の変動、文政期以来続けられた貨幣改鋳、凶作・飢饉などにあった。幕府は、物価騰貴の原因を十組問屋仲間などの流通独占による不正な価格引上げにあるとみなし、十二年十二月に株仲間や諸組合などの商人の同業組織の解散を命じた。さらに諸大名が、自藩他藩の国産物を買い占めて物価の引上げを図ることをも禁止した。このように物価を商人や諸藩の人為的な操作から解放し、商人の自由な商取引に任せるならば、必ずや下がると期待したのである。だが物価騰貴の主な原因は上にあげたことにあるし、その上従来の流通機構も混乱したため効果はあがらなかった。このほかでは、町奉行所に諸色掛(しょしきがかり)をおき、町名主のうちから掛名主を任命して、強権的に値段の引下げを命じた。それには、商品の小売り値段の一律値下げ、商人の符帳の禁止、地代・店賃の引下げ、武家奉公人・職人・日雇いの給金・手間賃の公定などがある。これらの措置によって江戸市中は大変な不景気に見舞われ、下層民衆の生活苦は募り彼らの幕府に対する不満は鬱積していった。
 農村に対する改革としては、十四年に実施した御料所改革と人返令が主なものである。寛政期以来荒地の再開発、小規模な新開の検地、代官所の綱紀粛正などの措置が採られてきたが、なかなか実効が上がらなかった。そこで代官に、代官所に常駐することを命じた代官在陣令を出し、幕領支配の強化を図った。そして、六月以降、全幕府領を対象として全耕地の収穫量の調査、定免年季明けの村の検見取り、新田畑・低年貢地の年貢増、小規模な切添・切開地などの全新開地の調査などが、代官や勘定所役人の廻村により行われ、徹底した全耕地とその収穫量の再把握を通じての年貢増徴が図られた。だが、農民の強い抵抗にあい、水野の失脚とともに中止となった。また、天保の飢饉以来関東・東北を中心に下層農民が離村して江戸に流入したため、農村の人口減少、江戸の人口増加が進み、農業労働力の不足と飢饉時にすぐに救済の対象となる都市下層民の増大が大きな問題となった。江戸の人口を減らして農村の人口を増やす一石二鳥の政策として、人返令が出され、出稼ぎ人の帰村・帰農を奨励し、他方新規に農村から江戸へ出ることを原則的に禁止する措置をとった。このほか農民に対しては、倹約による自給自足的生活への回帰と農間余業の制限が強制された。
 この改革の大きな特徴の一つをなすのは、外患、すなわち対外的危機に直接関わる、ないしそれを契機とした諸政策である。アヘン戦争に関連してオランダ船などから幾つかの情報がもたらされた。十三年には、イギリスがアヘン戦争終結後に日本へ艦隊を派遣する計画を立てているという情報、翌十四年には、アヘン戦争における中国の敗北と南京条約の締結、イギリスの測量艦サマラング号日本派遣計画に関する情報が伝えられ、対外的危機がさらに深刻化した。幕府はこの情報を秘匿しつつ、十三年には対外的紛争を引き起す危険性の高い異国船打払令を撤回して薪水給与令を発令した。そして、諸大名には軍事力の増強を命じ、さらに相模・房総の江戸湾沿岸の防備を川越藩と忍(おし)藩に命じ、その上、下田奉行を復活して羽田奉行を新設するなど、江戸湾防備策を実施に移した。幕府は、高島秋帆を登用して徳丸原で西洋式砲術の演習を行わせ、そしてオランダに西洋の大砲・銃を注文し、さらには蒸気船や蒸気機関車の輸入を計画し、西洋流の軍備の導入によりその軍事力の飛躍的増強を図った。なお、幕府内に西洋流の軍備で装備した大筒組を新設している。さらに十四年六月以降、矢継早に重要政策を打ち出している。六月に、出羽庄内藩ほか四藩に普請役を課して印旛沼掘割工事に着工した。今回の工事は前二回と異なって新田開発を直接の目的とせず、利根川を航行した最大五百石積みの高瀬船が行き違いできるだけの川床の幅をもった、印旛沼から検見川を経て江戸湾に抜ける堀割、すなわち運河の造成を主たる目的としていた。そのような運河造成の目的は、洋学者たちや佐藤信淵らの以前からの指摘や工事担当の目付戸田氏栄やのちに海防掛目付となった井戸弘道の証言から、江戸湾が外国の艦船によって封鎖されて江戸への廻船が杜絶した時に起るであろう江戸の大混乱と幕府支配の痲痺という事態に備え、浦賀水道を通ることなく常総・奥羽の物資を江戸に供給しうる銚子→利根川→印旛沼→堀割→検見川→品川という水運ルートを創設することにあったと推測される。これも水野の失脚とともに、幕府の直営の工事とされ、翌年には中止となった。また、同月に発令された江戸・大坂十里四方上知令は、江戸・大坂周辺の入り組んだ所領関係を整理して幕府領に一元化すること、諸大名の在京賄い料などの系譜を引く飛地を整理して城付け領にまとめること、幕府領の大名預所を解消して直轄すること、などがセットにされた政策である。その目的は所領の錯綜と飛地領であるが故の支配の弛緩を克服し、幕府・諸大名の領地支配の強化を狙っているが、特に江戸周辺の直轄支配は、さきの井戸弘道の証言や『続徳川実紀』が語るように警衛、すなわち対外的危機に対応して江戸周辺の海岸防備と人民支配の強化を意図した、海防政策の一環でもあったと推測される。だが、比較的年貢率が高くかつ先祖伝来の領地であったため、諸大名・旗本はさまざまな由緒を並べたてて抵抗し、領民も御用金・先納金などが領地替えを契機に踏み倒されることを恐れて運動したため、ついに撤回された。水野忠邦は、この上知令問題で孤立して失脚に追い込まれた。なおほぼ同時に抜荷取締りと北海の海防のために発令された新潟の上知は、実施され、新潟奉行が新設された。このような海防その他の積極的な改革諸政策の断行には巨額の支出が見込まれるが、破綻に瀕していた幕府財政の立直し策としては、伝統的な年貢増徴策としてのさきに説明した御料所改革と、大坂町人などに課した百万両を越える御用金以外に見るべきものはなく、財政の立直しにはまったく成功していない。
 このようにこの改革は、内憂外患の深刻な危機に対して、先例にとらわれず強権的にしかも大胆に実施されたが、大名・旗本、町人・農民のあらゆる階層の利害と広範囲にわたり著しく懸け離れていたため、激しい抵抗にあって失敗し、かえって幕府の弱体化と幕藩制国家の危機の深まりを如実に示した。
 なおこの時期には、深刻な藩財政の危機に直面してなんらかの改革を行なった藩がかなりある。たとえば長州藩では、二年の防長大一揆を契機に改革を開始し、特に村田清風が中心となってからは、下関その他の主要な港に越荷方を設け、瀬戸内海を通行する商船に資金融通するなど、藩自身が商人化したかのような政策を実施して利潤をあげ、藩財政の立直しに寄与した。その一方で、有能な中下級藩士の登用を進め、その藩政への進出の契機を作った。また、薩摩藩も調所(ずしょ)広郷を中心に改革を実施し、三都商人からの巨額の借金を二百五十年賦返済という踏み倒しに近い強硬な方法で整理し、一方で奄美大島の砂糖専売の強化と琉球を介しての密貿易によって藩財政を立直した。佐賀藩では、国産統制の強化と均田制度を試み、水戸藩でも、国産統制と領内検地を実施している。これら諸藩では共通して強硬な手段で借財を整理して藩財政を立直し、その改革の過程で中下級藩士の藩政への進出が見られ、幕末に雄藩として活躍する基礎を築いた。
→上知令(あげちれい),→異国船打払令(いこくせんうちはらいれい),→印旛沼干拓(いんばぬまかんたく),→江戸湾の防備(えどわんのぼうび),→株仲間解散令(かぶなかまかいさんれい),→倹約令(けんやくれい),→人返しの法(ひとがえしのほう),→水野忠邦(みずのただくに),→明治維新(めいじいしん)
[参考文献]
北島正元『水野忠邦』(『人物叢書』一五四)、津田秀夫『封建社会解体過程研究序説』、佐藤昌介『洋学史研究序説』、藤田覚『幕藩制国家の政治史的研究』、青木美智男・山田忠雄編『天保期の政治と社会』(『講座日本近世史』六所収)、大口勇次郎「天保期の性格」(『(岩波講座)日本歴史』一二所収)
(藤田 覚)


日本大百科全書(ニッポニカ)

天保の改革
てんぽうのかいかく

江戸時代後期の天保年間(1830~44)に、幕府・諸藩によって行われた諸方面にわたる改革の総称。幕政の改革としては、享保 (きょうほう)の改革、寛政 (かんせい)の改革とともに三大改革の一つとされる。

[津田秀夫]

幕政の改革

19世紀初頭以来、全国各地の農村における商品生産の急速度の発展は、従来からの農民層の分解にいっそう拍車をかけ、関東農村の荒廃ももたらしていた。天保の大飢饉 (だいききん)は、この構造のなかで空前の規模となった政災であり、続く大塩平八郎の乱、生田万 (いくたよろず)の乱など都市下層民や農民の生存をかけた闘争とも相まって、封建社会の基礎を大きく揺るがし、幕府財政の窮迫をいよいよ深刻なものとした。一方、ヨーロッパ資本主義列強も「鎖国日本」の扉をますます激しくたたくに至り、「内憂」「外患」はここに極まった。

 1841年(天保12)閏 (うるう)正月、大御所徳川家斉 (いえなり)が没してようやく幕政を親裁することができた12代将軍家慶 (いえよし)は、かねて信任していた老中首座水野忠邦 (ただくに)に改革政治を推し進めさせた。改革が断行された直接的な期間は通常、同年5月から43年閏9月の水野退陣に至る2年半とされるが、いくつかの改革政治はその後も継承されている。この改革は家慶によって「享保・寛政の御政事向 (ごせいじむき)に復する」ことが標榜 (ひょうぼう)されてはいるものの、歴史上の意義のうえで、単なる封建反動とみなすことはできず、絶対主義的傾斜を含んだ改革というべきであろう。とくに、この改革を契機として、明治維新政権樹立運動に登場する諸勢力が社会的にも経済的にも出そろうことを見逃してはならない。また農民層分解、農村荒廃、百姓一揆 (ひゃくしょういっき)の高揚などの内的矛盾を、列強進出による外的矛盾に対置しつつ、経済改革と軍事改革を一体化させた「富国強兵」のコースが打ち出された点も特徴的である。

 改革令のおもな内容を例示すると、(1)風俗矯正と倹約令、(2)低物価政策、(3)江戸における「人返し」令、(4)対外政策、(5)江戸、新潟湊 (みなと)、大坂の最寄地 (もよりち)を対象とした上知 (あげち)令、などである。このうち、天保の改革を特徴づけているのは(2)(4)(5)である。まず(2)の低物価政策として、問屋・組合・株仲間の解散を命じた、いわゆる株仲間解散令(1841年12月令と翌年3月令)は、幕府の指定する市場において、広範な地域からの商品流通が円滑に行われることを目的として、従来からの特権的流通機構を解体したものである。また、これに伴って価格調査が行われ、価格表示、引下げなどの一連の処置が強制的に執行された。これらの施策は、農民的商品経済の進展と諸藩権力の雄藩化に対する幕府としての独自の改革的対応であった。また、水野退陣による改革の頓挫 (とんざ)ののち、1851年(嘉永4)になって幕府が出した問屋・組合再興令も、むしろこの解散令の延長線上のものと解すべきであろう。すなわち、問屋再興令は、冥加金 (みょうがきん)を賦課せず、再興にあたって株札を渡さず、人数も原則として定めないなど、天保の改革以前にあった株仲間――特権的流通機構――を復活させるようなものではなかったのであり、そのことによって、都市のみならず、農村地域でも商工業の組織化を図るという、改革以来の絶対主義的産業規制であると考えられる。したがって、こうした点からみれば、天保の改革全体を、単純に失敗に終わったとみることは正確でない。

 次に(4)の対外政策とは、1825年(文政8)に発した異国船打払令の撤回(1842.7)、緩和と、他方での江戸湾防備を中心とする海防政策――軍事的改革である。これはヨーロッパ資本主義列強のアジア侵略の一環としてのアヘン戦争が清 (しん)国の敗北に終わったという情報や、イギリスが日本に対しても進攻計画をもっているとの情報が伝わったことなどによるものであるが、幕府としては、これらの外圧が国内の体制的矛盾と結び付くことをなによりも恐れて対処したものである。

 最後に、(5)の上知令(1843.6)は、豊饒 (ほうじょう)な土地の幕領編入による貢租確保(とくに大坂周辺)、幕領・私領の複雑な入り組みの解消による人民統制、支配の強化(とくに江戸周辺)、港湾部の直轄支配による国土防衛策と運上徴収(とくに新潟湊)、などを直接的な目的としたものであり、全体として、政治的・経済的・軍事的課題の統一的追求により、幕府権力の富国強兵的強化を図ったものである。しかし、この改革は、年貢先納や調達銀借り上げなど負担が直接かかってきた農民や町人の激しい抵抗を受け(とくに大坂)、それを背景として有力諸藩が反対に回るに及んで、上知令は撤回された(1843・閏9)。この撤回は、三方 (さんぽう)領地替の撤回(1841.7)に続くものであり、江戸・大坂の直轄都市周辺でさえ、封土の転換令が出せなかったことは、天保期の幕府権力が著しく凋落 (ちょうらく)したことを表している。なお、この撤回令は水野が病気中に将軍家慶の名で出されたもので、その直後に水野は退陣を余儀なくされた。しかし、新潟の上知は実施され、発令によって新設された新潟奉行所 (ぶぎょうしょ)を拠点に、直轄支配が幕末まで貫徹する。したがって、上知令全体が破綻 (はたん)したととらえることも、水野の退陣をただちに上知令の撤回(江戸、大坂)のみと結び付けるのも正確ではない。水野の退陣の背後には、風俗矯正令や倹約令の徹底が民情を無視して厳しく行われたことに対する、町人・民衆の反感が大きく働いていることを重視すべきであろう。そのため、退陣により改革の一部は頓挫するものの、改革政治の基本路線は後継幕閣によって継承されていくし、国際事情通であった水野自身が、外交問題を処理するため、1844年6月、再登場するのである。

[津田秀夫]

諸藩の改革

幕府の天保の改革と前後して、諸藩でも藩政改革が行われた。なかでも長州・薩摩 (さつま)・土佐・肥前の各藩は天保の改革においていちおうの成功を収め、「西南雄藩」として幕末維新期の政局に主導的役割を果たすようになる。長州藩では、村田清風 (せいふう)が銀8万貫を超える藩債を緊縮財政や積極的な塩田開発の事業収益などによって整理する一方、文政 (ぶんせい)年間(1818~30)に徹底して行った専売制が領民の激しい抵抗を招いたためにそれを緩和する方向に政策を転換させ、越荷 (こしに)方の改正などを行って藩政改革を成功させた。薩摩藩でも、500万両以上の藩債を抱えていたが、調所広郷 (ずしょひろさと)は三都の債権者に対し250年賦償還という実質的踏み倒しで切り抜け、領内では三島産砂糖の惣 (そう)買入れを押し付けて収奪を図り多くの利益をあげた。水戸藩でも、藩主徳川斉昭 (なりあき)が土地問題(限田制)を提起して藩政改革を推進し、その成功を背景に幕末の政局に尊攘 (そんじょう)藩として活躍した。なお、斉昭は、水野忠邦の幕政改革を支持し、水戸藩での経験を基に十数か条の改革意見書を忠邦に送っている。

[津田秀夫]



世界大百科事典

天保改革
てんぽうかいかく

江戸時代後期の天保年間(1830-44)に行われた幕政改革,藩政改革の総称。領主財政の窮乏・破綻,天保の飢饉を契機とした物価騰貴,一揆の激発などの社会的動揺,外国船来航による対外的危機などを克服し,幕藩体制の維持存続を目ざして行われた。天保の幕政改革は,享保・寛政のそれとともに江戸の三大改革とも称される。

幕政改革の開始と諸政策

天保初年の凶作飢饉は米価の高騰を招き,農村と都市の下層民を貧窮に陥れた。1836年には甲斐の郡内騒動,三河の加茂一揆など数万の農民をまきこんだ一揆が勃発し,翌年には大坂で元町奉行所与力の大塩平八郎が貧民の救済を求めて乱を起こした。この事態に対して,水戸藩主徳川斉昭(なりあき)ら領主階級の一部は幕藩体制の危機ととらえていたが,幕府では将軍家斉(いえなり)が引退したものの大御所として隠然たる勢力をもち,大奥を中心に豪奢な生活を送り,改革を嫌い,太平の世の政治を続けていた。41年家斉が没すると,老中首座の水野忠邦は将軍家慶(いえよし)を擁して家斉側近派を追放し,幕政の改革を開始した。忠邦は,家斉時代の放漫と奢侈(しやし)を改め,享保と寛政の時代に復帰することを目標におき,綱紀粛正,倹約励行,風俗匡正に力を注いだ。なかでも奢侈の抑制は微細にわたり,江戸の町触(まちぶれ)において,女髪結(おんなかみゆい)の禁止,高価な櫛・〓(こうがい)・きせるの売買禁止,早作り野菜やぜいたくな料理の販売禁止など,町人の日常生活を厳しく規制するほか,芝居小屋を郊外に移転させたり寄席を閉鎖するなど,風俗匡正に名をかりて庶民の娯楽にも制限を加えた。江戸の町奉行に抜擢(ばつてき)された鳥居耀蔵(ようぞう)は,市中に隠密を放って違反者の摘発に努め,禁を犯した者には厳罰で臨んだため,市中は火の消えたようになった。

 飢饉以来騰貴を続けた物価を引き下げることは改革の重要課題であった。幕府は,物価騰貴の根本原因を当時の商品流通の機構,つまり十組(とくみ)問屋仲間の流通独占にあると考え,41年12月に株仲間解散令を発し,江戸の十組問屋や三都の問屋・株仲間の名称による商取引をいっさい禁止して,一般の商人の自由な取引を許した。商人相互の自由競争によって商品流通量が増加し,物価は下がるであろうとの期待にもとづいたものであるが,実際には従来の流通機構が解体した結果,商品が江戸・大坂に集中せず,意図した効果をあげることができなかった。さらに物価対策としては,商人に対し直接小売値段の引下げを命じ,商品の買占めを禁じたり,価格の店頭表示を強制したほか,江戸市中の地代・店賃(たなちん)の引下げを断行し,職人の手間賃(てまちん)や日雇(ひやとい)の給金にも公定価格を定め値上がりを抑制した。この結果,幕府の強権によって一時的に価格が下落することはあったが,同時に市中の商況は不景気に陥り,町人らの不満が蓄積された。物価騰貴は,庶民とともに下級の旗本や御家人の生活を苦しめたが,幕府は彼らの生計を救済するために,札差(ふださし)からの借金に対し無利息20年賦返済という棄捐(きえん)に近い処置をとって負債の解消に努めている。農村については,凶作によって生まれた荒廃地を回復し,年貢を強化することが目標であった。人返し令は江戸出稼人の帰農を奨励し,新たに農村から江戸へ移住することを禁止するなど,農村の労働力を確保することを目的とし,同時に江戸市中の貧民の増大を防ごうとしたものである。

 41年には近江の幕領で新開地(しんがいち)の検地を計画したが,農民の反対一揆によって中止となり,このあと幕府は,改革の重点を代官所支配の整備においた。当時は,幕領の代官は江戸在住のまま1,2年で交替するため農政を十分に見ることができなかったので,これを改めて代官に陣屋在住を命じ,10年未満の任地異動を許さないこととした。そのうえで全国の幕領農村に〈御取箇御改正(おとりかごかいせい)〉を実施した。これは,代官や勘定所役人が回村して,村内耕地の検分を行い,新開地の高入れや石盛(こくもり)の変更によって年貢の増徴を目ざした画期的な試みであったが,途中で水野忠邦が失脚したため中止されている。

上知令の失敗

この時期,中国大陸では清国がイギリスとアヘンの輸入をめぐり対立して戦ったが,近代的軍事力の前に屈して開港と領土の割譲を余儀なくされていた(アヘン戦争)。この報を聞いた幕府は,長崎の砲術家高島秋帆をよんで洋式の砲術訓練を行って軍事力の育成に努める一方,42年には文政の異国船打払令を撤回し,沿海に来航した外国船に薪水を供与することを許した(薪水給与令)。また海岸線の警備体制を強化し,江戸湾では浦賀奉行の監督の下に,川越藩・忍(おし)藩に防備を担当させ警戒に当たった。

 ついで43年には,大名・旗本領のうち江戸と大坂10里四方の地を上知(あげち)させて幕領に編入し,ほかに代替地を与えるという上知令を発令した。これまで各地に分散していた幕府の直轄地を,比較的生産力の高い,政治的にも重要な地域に集中させるという方策であり,前述の代官支配の強化と相まって,幕領支配の再編強化を目ざしたものでもあった。しかし上知の対象となる大名らは,高免地(たかめんち)で在府中の賄所(まかないしよ)であり,しかも先祖代々の領地である土地を失うことに強い反対の意向をみせ,大坂周辺の農民も反対の声をあげるなかで,関係の領地をもつ老中や三家の内からも批判が生じ,上知令は撤回された。これを推進してきた水野忠邦は幕閣内で孤立し,43年閏9月には老中を罷免され,ここに幕府の天保改革は中止されるに至った。上知令の失敗は,全国の土地領有者として諸大名を従えてきた幕府の力が減退したことを示している。幕府の天保改革は総じていえば,復古的精神にもとづいて大胆な政策を相次いで提起したことに特徴があるが,現実と政策の乖離(かいり)が明らかになるにつれ,幕藩体制の危機をいっそう鮮明にさせるものであった。

諸藩の改革

幕府の改革と並んで,いくつかの有力な藩でも藩政の危機に際して,独自な改革を断行した。たとえば長州藩では,天保初年に藩専売制に反対する防長大一揆が起こり藩政の危機を迎えたが,1838年に中士層に属する村田清風を登用して改革に着手した。まず従来の専売仕法を改めて農民からの収奪を緩和する一方,下関など主要な港に越荷方を設け他藩の船に資金を融通して利潤をあげた。また城下町商人を抑えて藩士の負債を棄捐にしたり,藩債を解消するなど藩財政の再建に努めた。薩摩藩では茶坊主出身である調所広郷(ずしよひろさと)の改革によって,三都の豪商から借り入れていた多額の借財を250年賦償還という強硬手段で整理し,財政の破局を切りぬけた。また奄美大島のカンショ栽培に専売制をしいて利益を収めるとともに,琉球との密貿易によって藩財政の充実に成功した。佐賀藩では,国産の陶器の専売制を強化するとともに,均田制度をしいて商人地主の発展を抑制し,小農依存の年貢強化を試みている。水戸藩でも藤田東湖ら改革派の主導によって領内の検地を行う一方,領内特産物の国産制を強化している。

 これらの有力諸藩の改革に共通した特徴点をあげると,第1は,破局に瀕した藩財政の再建として改革が始まった点である。そこでは土地改革や国産制などの従来からの仕法のほかに,徹底した抑商主義にもとづくドラスティックな藩債整理が採用されたのが注目される。第2は,対外危機にすばやく対応し,海岸防備のために洋式砲術を導入し,火薬や大砲の製造を始めた点である。第3は,改革を通じて,従来の家格と門閥に縛られた守旧的な藩執行部に代わって,中下士層から能力を備えた人材が藩政に登場してきた点である。とくに第1と第3の点は幕府の改革と比べて対照的である。この改革に成功した雄藩は,開港以降の動乱期に政治的に活躍する足がかりを築いたのである。
[大口 勇次郎]

[索引語]
藩政改革 天保の改革 徳川家斉 大御所 水野忠邦 鳥居耀蔵 株仲間解散令 人返し令 代官 御取箇御改正 上知令 長州藩 薩摩藩 水戸藩
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1. 天保改革
世界大百科事典
老中を罷免され,ここに幕府の天保改革は中止されるに至った。上知令の失敗は,全国の土地領有者として諸大名を従えてきた幕府の力が減退したことを示している。幕府の天保
2. あおやぎがし【青柳河岸】山梨県:南巨摩郡/増穂町/青柳村
日本歴史地名大系
太郎左衛門一人の問屋扱いをめぐって出入を起こしている。このとき太郎左衛門家の河岸成立以来の由緒は認められたが、天保改革による問屋株式の廃止を名目に、以後は御廻米
3. あかんたむら【赤沼田村】岐阜県:益田郡/小坂町
日本歴史地名大系
馬一〇。「斐太後風土記」では家数四〇・人数二七〇で人数の増加が著しい。天保一四年(一八四三)天保改革に伴う休山命令に対し、当村・落合・湯屋・大洞の四ヵ村は阿多野
4. 上知
世界大百科事典
旧普請を行ったもの,北方警備のために寛政・安政の両度,幕府が松前藩から蝦夷地を収公したもの,天保改革の際に江戸・大坂10里四方にある私領を上知して一円的な幕領を
5. 上知令
世界大百科事典
府内部に対立を生み,閏9月には撤回され,この直後老中水野忠邦が罷免され,天保改革が挫折する直接の契機となった。→天保改革藤田 覚
6. 上知令
日本史年表
1843年〈天保14 癸卯⑨〉 6・‐ 幕府、江戸・大坂10里四方上知令を発布(浅見隆「天保改革論―上知令と軍役―」)。 1843年〈天保14 癸卯⑨〉 閏9
7. あさくささるわかまちいつちようめ【浅草猿若町一丁目】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
西は浅草寺地中。この地は寛文新板江戸絵図などでは丹波園部藩小出氏の下屋敷であったが、天保一二年(一八四一)天保改革の一環としてこの屋敷は収公され、その跡地に堺町
8. アヘン戦争画像
世界大百科事典
当局者らに深刻な衝撃を与えた。ちょうどこの時期に幕政の実権を握った水野忠邦によって開始された天保改革も,全体としてこのような対外的危機感を背景としているが,具体
9. あまみ【奄美】鹿児島県:総論
日本歴史地名大系
行うことで道之島のモノカルチャー化を図ったのである。〔黒糖の領主的商品流通〕調所笑左衛門の下で天保改革を強力に推進した海老原清熙は、御用船の育成のため改革方の内
10. あんどうじまちさんちょうめ【安堂寺町三丁目】大阪府:大阪市/南区地図
日本歴史地名大系
る。貞信は今日四世まで続いている錦絵画系長谷川家の初代で、町内の茶布巾袱紗商奈良屋に生れた。天保改革の前までは大判役者絵を描き、改革後は風景画にも作域を伸ばし、
11. いいだし【飯田市】長野県
日本歴史地名大系
は外様でありながら老中格の若年寄として、水野忠邦を助けて天保改革を推進した。一二代目の親広に至って廃藩置県を迎えた。幕末から明治初期にかけて国学運動が盛んとなり
12. 石川島
世界大百科事典
役したり,職業を教えこんだ。また心学の道話を聞かせ,成績のよい者には資金を与えて出所させた。天保改革以後は重い追放刑の者も収容したため,500人以上に達したとい
13. いずみすじ【出水筋】鹿児島県:総論
日本歴史地名大系
れていたが、詳細は不明。当街道の通行者は向田町と市来湊町に宿泊することが多かった。調所広郷の天保改革に協力した大坂商人平野屋五兵衛の片腕と目される高木善助庸之(
14. 市村羽左衛門
世界大百科事典
つぎ,羽左衛門を襲名,市村座を再開場した。幼年のため,福地茂兵衛が後見を勤めた。42年(天保13),天保改革の一環として猿若町へ移転。51年(嘉永4)に次男に座
15. 市村座
世界大百科事典
川花御所染》(1814)など鶴屋南北の傑作を上演した。42年(天保13)12世羽左衛門の時,天保改革の一環として,浅草猿若町に,中村・森田座とともに移転させられ
16. いちむら‐ざ【市村座】
日本国語大辞典
降寛文七年(一六六七)ごろまでに市村宇左衛門が譲り受け、市村座と改称。天保一三年(一八四二)天保改革によって浅草猿若町(台東区浅草六丁目)に中村座、森田座ととも
17. いわやむら【岩屋村】京都府:与謝郡/野田川町
日本歴史地名大系
七〇機に達した。同七、八年は稀有の大飢饉に見舞われて、その打撃の回復するいとまもなくいわゆる天保改革という厳しい政治情勢に直面した。当時の模様は次のように記録(
18. 印旛沼
世界大百科事典
からの利根川の洪水により掘割も破壊され,老中田沼の失脚とともに工事も中断された。第3回目は,天保改革の一環として行われた。1842年(天保13)に,二宮尊徳らも
19. うさじんぐう【宇佐神宮】大分県:宇佐市/旧宇佐町地区/宇佐村
日本歴史地名大系
振、一方で、文化元年の勅使参向の出費や上宮・下宮造営費の捻出などの理由が考えられるが、幕府の天保改革により三都興行は禁止された(太政類典など)。〔神仏分離〕慶応
20. うしろまち【後町】福井県:勝山市/勝山城下
日本歴史地名大系
長渕町へ通じる角には牢獄が置かれていた。また正覚寺門前や寺の横町には遊女体の者が多く居住し、風儀が乱れ、とくに天保改革期には藩の取締を受けた。寺の境内や隣接の九
21. うすきじょうあと【臼杵城跡】大分県:臼杵市/臼杵城下
日本歴史地名大系
揆に走った(党民流説)。天保年間(一八三〇―四四)に入り財政再建を主眼に家老村瀬庄兵衛により天保改革が推進された。改革は「量入制出」を基本に約二六万両近くの借財
22. 歌川広重
世界大百科事典
消同心の岡島林斎から狩野派を学び,また南宋画や四条派も何らかの形で習得したと伝えられている。天保改革のころは一時歴史画が中心となるが,その後弘化・嘉永期(184
23. うんこういん【雲光院】東京都:江東区/旧深川区地区/深川霊巌町地図
日本歴史地名大系
秀忠の死後剃髪して雲光院を名乗り、寛永一四年(一六三七)没した(寺社備考・寛文朱印留)。境内に阿茶局のほか、天保改革後失脚した幕府金改役後藤三右衛門、初代竹本越
24. 江川太郎左衛門
世界大百科事典
揆の頻発,外に異国船来航と内憂外患をかかえる幕府の解体期にあたり,改革派幕吏として水野忠邦の天保改革に参画した。代官役所の綱紀を粛正し,百姓一揆を鎮圧する一方,
25. 越後縮
日本大百科全書
また縮行商人が江戸に出向いたり、縮問屋が江戸や京都に販売拠点を持つなど流通ルートも広がった。天保改革の奢侈禁止令などで一時打撃を受けたが、幕末までほぼ10万反前
26. 越後国
世界大百科事典
間宮海峡を発見した。43年幕府は北海防御の台場を築くため新潟町を幕領とし,奉行所を設置した。天保改革の失敗と相まって物価は高騰し,世相は混乱し一揆がつづくなかで
27. 江戸三座
世界大百科事典
中村座は堺町,市村座は葺屋町(ふきやちよう),森田座は木挽町(こびきちよう)において興行したが,天保改革によって,1841年(天保12)から42年にかけて浅草の
28. 江戸時代
世界大百科事典
改鋳,家臣からの借上(かりあげ),御用金の徴集などがしばしば行われたが,享保改革,寛政改革,天保改革の断行によって,倹約の強制,綱紀粛正,年貢増徴,農村の再整備
29. えど・とうきよう【江戸・東京】東京都
日本歴史地名大系
地廻りという語は米問屋などをよぶ場合に用いられた用語であったが、その他の商品にも及び、十組問屋仲間の衰退は天保改革時に問屋仲間組合停止の政策をもたらした。嘉永四
30. 江戸繁昌記
世界大百科事典
,茶店など,府内の名所や名物,遊興地などの風俗を軽妙に活写。爛熟期の江戸文化を描写したため,天保改革の取締りに抵触し発禁処分をうけた。ほかに《繁昌後記》2冊,1
31. えどはんじょうき[えどハンジャウキ]【江戸繁盛記・江戸繁昌記】
日本国語大辞典
混堂(ゆや)、戯場(しばい)など江戸市中の繁栄を記し、特に武士・僧侶・儒者の生態をきびしく諷刺したので、天保改革の際、風俗を乱した理由により絶板処分、その後静軒
32. 絵本江戸風俗往来 26ページ
東洋文庫
株価は三百両から千両以上のものまであった。入浴料は天保改革以後、大人八文、童形六文、小児四文と定められたが、文久三年以後薪の値上がりによヶ十二文に引き上げられた
33. 絵本江戸風俗往来 132ページ
東洋文庫
養成の最も困難なのは鈴虫とえんまこおろぎだとあり、その養成法と、籠の値段などまで記してある。天保改革以前の虫売は、新形の染浴衣に茶献上の帯、人気役者の手拭を四つ
34. 絵本江戸風俗往来 151ページ
東洋文庫
或いは船をうかべて飲宴するもの勘からずして、弦歌水陸に喧し」(『東都歳事記』)という有様であったが、天保改革以後はめっきり衰えて、往時の盛観は見るべくもなく、品
35. 宴会
世界大百科事典
酒肴を下す例もあり,1843年(天保14)信州松本藩で桜等を植栽させて一種の公園としたのは,天保改革による生活規制の反面に,花見の宴は民心発散の機会とみたからで
36. おうみのくに【近江国】滋賀県
日本歴史地名大系
その過程で惣年寄の不正が露見し、新たな惣年寄を町民の選挙で選出することで落着した(八幡町史)。天保一二年の天保改革の一環として同年一二月近江の湖辺および諸川筋の
37. おうみのくにみかみはん・みなくちはんりょうとうてんぽうじゅうさんねんいっき【近江国三上藩・水口藩領等天保十三年一揆】
国史大辞典
正式の判決を受けるまでもなく、調べの過程で拷問のためすべて惨殺されている。江戸金座の改役後藤三右衛門が天保改革の失敗を誹謗し、近江の大一揆を改革政治の因果に数え
38. おおいたぐん【大分郡】大分県
日本歴史地名大系
数えるほどであった(「府内藩日記」など)。府内藩では文化元年莚会所を設置して青莚専売制を行い、天保改革以降はとくに体制強化を図り、江戸への直送方式をとるようにも
39. 大御所政治
世界大百科事典
含めた彼の治世が,文化文政時代(化政期)と呼ばれる文化・社会の爛熟(らんじゆく)した様相を現出させ,後続する天保改革期の厳しい政治基調とあまりにも対比的であるか
40. 大阪[市]
世界大百科事典
なお中期以降の幕府の買米(かわせまい),御用金は巨額に上り,大坂商人の資金力に打撃を与えたものとみられる。また天保改革の中で,芝居を5座に限り,茶屋・風呂屋の転
41. おおさかさんごう【大坂三郷】大阪府:大阪市
日本歴史地名大系
、この状況が江戸問屋にも及んでいたことを示している。幕府は既存の流通機構が役に立たないとみて天保改革で株仲間解散で対処した。ただ阿部は江戸で株仲間解散がなされた
42. おおすみのくに【大隅国】鹿児島県
日本歴史地名大系
藩の積極的な新田開発策によって、寛永内検高から朱印高を超えた。大規模な開発は享保以前に多く、天保改革前後は小規模なものが多かった。用水開削を伴うものに、万治元年
43. おおつし【大津市】滋賀県
日本歴史地名大系
風流化がみられ、石山寺の開帳の際には東海道筋まで賑いをみせたという。幕末の世情は天保の飢饉や天保改革に伴う株仲間の解散などにより大きな変動をみせ、嘉永六年(一八
44. おおふくだむら【大福田村】茨城県:猿島郡/五霞村
日本歴史地名大系
実渡世仕候哉之旨御尋ニ御座候処、当六月御差留以来聊多り共商仕候義更々無御座候(下略)とあり、天保改革の厳しさがうかがわれる。助郷は日光街道の武州栗橋宿と中田宿(
45. おおむらじょうあと【大村城跡】長崎県:大村市/大村城下
日本歴史地名大系
産物会所に改めて専売化するなど流通統制策を実施、化政の改革とよばれる藩政改革が行われた。一一代藩主の純顕の天保改革は化政改革を修正して俸禄減額を緩め、中級層の家
46. 岡場所
世界大百科事典
盛(めしもり)女として半公認の地区であったから,他の場所とは区別して考えるべきである。寛政・天保改革における取締りでも四宿は対象外であった。岡場所が繁栄したのは
47. おかべはんじんやあと【岡部藩陣屋跡】埼玉県:大里郡/岡部町/岡部村地図
日本歴史地名大系
その裏手に役所下役の住居、仲間部屋・倉庫・炊事場などが配置されていた。弘化三年(一八四六)七月二五日、天保改革期の幕府内対立が原因で捕らわれの身となっていた洋流
48. おだわらじょうか【小田原城下】神奈川県:小田原市地図
日本歴史地名大系
は鎌倉屋・柴田屋・熊沢屋・入木屋など特権的町人の名が知られ、後期では天保一三年(一八四二)に天保改革による株仲間解散令の株仲間禁止覚(県史五)に名を連ねるものに
49. おとわ【音羽】東京都:文京区/旧小石川区地区地図
日本歴史地名大系
延享二年(一七四五)には茶屋再興も許されて町奉行支配に復した。その後六―九丁目、および桜木町辺りは天保改革で取払われるまで、再び江戸有数の岡場所として賑わった(
50. おもちゃ絵
世界大百科事典
ら,寛政(1789-1801)のころには〈切組み〉と呼ばれるおもちゃ絵があったことがわかる。天保改革以来,一枚絵,ことに子どもものは当局に大目に見られたこともあ
「天保の改革」の情報だけではなく、「天保の改革」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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徳政令(国史大辞典)
すでに締結されている売買・貸借・寄進などの契約について、無条件で、もしくは条件を付して、契約関係の継続、もしくは破棄を宣言する法令。一般には契約関係の破棄宣言のみを意味すると理解されやすいが、当代のさまざまな契約形態に対応して除外規定も少なくない。また、契約の破棄を
遠江国(改訂新版・世界大百科事典)
旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。東海道に属する上国(《延喜式》)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。7世紀の中葉,遠淡海,久努,素賀の3国造の支配領域を併せて成立したものと思われる。国郡制に先行する
王政復古(日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
江戸幕府の崩壊から明治政府の成立過程における一つの政治理念で、最終的には、1868年1月3日(慶応3年12月9日)の「王政復古の大号令」の発表による新政府成立を示す。江戸時代には、全国統治の実権は将軍=徳川氏と幕府に握られ、天皇や公卿で構成される朝廷は、儀礼的な存在に形骸
朝幕関係(国史大辞典)
〔鎌倉時代―建武政権〕治承四年(一一八〇)八月、伊豆に挙兵した源頼朝は、以仁王の令旨によって、東国における荘園・公領の沙汰を認められたと主張している。その令旨は、壬申の乱における天武天皇に倣って、高倉上皇・安徳天皇・平清盛によって構成される現王朝を
出羽国(日本歴史地名大系・国史大辞典・世界大百科事典)
出羽の名は「続日本紀」和銅元年(七〇八)九月二八日条に「越後国言、新建出羽郡、許之」とみえるのが初見で、越後国の申請を受けて新たに越後国の北部に出羽郡を置いたと記す。同二年七月一日条には「令諸国運送兵器於出羽柵、為征蝦狄也」とあり、軍事基地として
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長篠の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
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