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三岳城跡

ジャパンナレッジで閲覧できる『三岳城跡』の日本歴史地名大系のサンプルページ

三岳城跡
みたけじようあと

[現]引佐町三岳・川名

三岳山の山頂部にある山城跡。標高四六六・八メートルの山頂を中心として東西約七〇〇メートルにわたる尾根上に築かれていた。国指定史跡。井伊氏の本城で、平時の居館であった井伊谷いいのやの井伊谷城に対し、詰の城として利用され、当城と井伊谷城は同一視されていた。御嵩城・三嶽城・深嶽城あるいは井伊城ともいう。築城年代は定かでないが、建武の新政の瓦解に伴い南北朝の内乱が始まると、井伊氏は南朝方につき、建武三年(延元元年、一三三六)九月下旬には「井責」(井伊城攻め)の攻防で美差大郎が中条殿を討取っている(「瑠璃山年録残編裏書」大福寺文書)。同年一〇月に宗良親王が大和吉野から遠江に移り(「太平記」巻一七)、井伊氏に迎えられたことで当城は南朝方の有力拠点となり、延元二年七月には「井ノ城」が遠江守護今川範国軍の攻撃を受けた(前掲残編裏書)。宗良親王は翌三年春に北畠顕家軍に合流していったん吉野に帰ったが(李花集)、九月には再び「井伊城」に戻っている(関城書裏書)。暦応二年(一三三九)七月、三河守護高師泰が大平おいだいら(現浜北市)を攻めるなど幕府方の攻勢が始まり、当城も翌三年一月三〇日に高師泰と遠江守護仁木義長の軍勢によって攻め落された(前掲残編裏書、「鶴岡社務記録」)。その後もなお残党の抵抗が続いたようだが(三月二二日「高師泰挙状」保阪潤治氏所蔵文書)、同年八月二四日の大平城落城とともに終息した(前掲残編裏書など)。遠江平定を目指す遠江新守護今川氏親が永正七年(一五一〇)に前守護家の斯波義達を攻めると、井伊氏は斯波方として当城に拠り抵抗した(年月日未詳「伊達忠宗軍忠状」駿河伊達文書)。同一〇年三月には井伊氏が義達を擁して「深嶽ノ城」に立籠ったものの、今川氏の朝比奈泰以に攻められて落城し(重編応仁記・宗長日記)、以後廃城となった。

城跡は南斜面の三岳神社の上が中央鞍部にあたり、一辺一〇メートルの枡形門跡がある。そこから西へ塁段状斜面を登ると約二〇メートル四方の平坦な本丸跡がある。この周囲に帯郭があり、西側の急峻な坂を下ると尾根に対して直角方向に二重の堀がある。下の堀は幅八メートル・深さ三メートルほどである。本丸の南西方向炭井戸すみいどに水源の井戸がある。二の丸は鞍部から東側の尾根端まで約二〇〇メートルの規模をもつ。

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