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中京区(京都市)

ジャパンナレッジで閲覧できる『中京区(京都市)』の日本歴史地名大系のサンプルページ

中京区
なかぎようく

面積:一二三・三二平方キロ

京都市の中央部に位置し、北は丸太町まるたまち通北及び二条城北側を回って千本せんぼん通西側を境として上京区に接し、東はかも川を境に東山区及び左京区に、南は四条通北及び大宮通以西では松原まつばら通を境に下京区に、西は北側が西小路にしこうじ通西、南側が西大路にしおおじ通東を境に右京区に接する。また北側西部では北区にも接する。

区域全体はほぼ平坦地で、西南にやや低い。本区の中央にはほり川が南北に貫流し、東には鴨川沿いに高瀬たかせ川が、西にはほぼ区境沿いに天神てんじん川・西高瀬川の流路がある。

〔原始〕

京都盆地の中心を南北に貫く沖積平野部は、河川氾濫原としての粘土砂層を伴い、弥生も早い時代より、農耕文化の足跡があったはずであるが、市街地のためその調査は十分ではない。四条通国鉄山陰本線交差南西域の現壬生花井みぶはない町付近のいわゆる朱雀院すざくいん跡からは、縄文式土器や弥生式石包丁が出土しており、西にし京車坂きようくるまざか町朱雀第六小学校地からは、先土器時代のナイフ形石器も出土している。また壬生朱雀第一小学校地や隣接の壬生坊城みぶぼうじよう町の壬生車庫楊門みぶしやこようもん遺跡(左京四坊一条)からは、弥生より古墳時代までの複合遺跡が発見されている。

〔古代〕

本区の疆域を平安京の条坊割域に投影すれば、左京の春日かすが小路以南、四条大路以北の全域と左京五条一坊の大部分、右京では木辻きつじ大路以東の鷹司たかつかさ小路以南三条大路以北までの大部分と、四条一坊・同二坊東半部(一保・二保)及び五条一坊・同二坊東半部(一保・二保)と大内裏の一部を含んでいる。「拾芥抄」の東西京図では右京は低地のため小泉地が多く、西宮領・棲霞寺せいかじ領・修理大夫領などの領地、穀倉こくそう院、右京職・御倉みくら町・左馬さめ町・兵部ひようぶ町・左衛門さえもん町・采女うねめ町・大学だいがく町・民部みんぶ省・西囚獄にししゆうごくなどの官衙がみられ、貴族官人の邸宅や里内裏にはわずかに小野篁おののたかむら家・崇賢門すうけんもん院・西三条百花にしさんじようひやつか亭・かま殿などと、朱雀院があるのみである。

一方、左京では大学だいがく寮・左京職さきようしき後院ごいん町・木工もく寮木工町・雅楽うた町などの官衙町のほか、里内裏・貴族邸宅は枚挙にいとまがないが、主なるものをあげると、冷泉れいぜい院・高陽かや院の大邸宅、御子左みこひだり堀河ほりかわ院・かん院・東三条殿ひがしさんじようどのかも院などの二町に及ぶものがみられ、神泉苑しんせんえんが構築された。東三条内裏ひがしさんじようだいり・西三条内裏や悪所鬼殿おにどの、祇園会由縁の少将井殿しようしよういどの桟敷殿さじきどの、また四条宮しじようのみや・二条院・陽明ようめい院・竹三条たけさんじよう・小三条・高松殿たかまつどの蛟松殿はいまつどの大西殿おおにしどの中西殿なかにしどの山井殿やまのいどの大炊殿おおいどのなどがみえる。

寺院は、六角堂頂法ろつかくどうちようほう寺・東薬師ひがしやくし堂・法興ほうこう院が区内に存在した。

〔中世〕

院政期から鎌倉時代に至ると、左京域に、上級武士や下級官人の宅もみえてくる。寺院では京極きようごく寺・新地蔵しんじぞう・壬生地蔵堂などが現れる。

一方、鎌倉時代中期から街路に面して現れる町棚は市町の衰退に代わって、日用のものを売りひさぐようになり、やがて座の商業が生れる。町尻まちじり小路、室町むろまち小路の三条以南は特にその発展がめざましく、比叡山門の支配下たる祇園社の綿本座・材木座・小袖座などや釜座・六条魚供御人、更に四府駕丁座の一部もこの地に集中し、室町時代に至った。

南北朝前後になると区内の左京域に足利氏歴代将軍の館が造られ、佐々木泰綱・斯波高経などの武士も、こぞって館を設けた。新仏教も漸く民衆に定着し、大炊道場聞名おおいどうじようもんみよう寺、三条烏丸道場が開かれ、また法華ほつけ堂・明円みようえん堂・安国あんこく寺・千手せんじゆ堂・等持とうじ寺なども建立された。

室町時代の華は祇園会山鉾巡行である。応仁の乱で中絶したが、乱前には区内で二六基、乱後には二一基の山鉾が祭礼当日町辻に立並んだ。これは現在につながる洛中の町の基本形態である両側町が、この頃に成立したことを物語っている。本区の中心部分をなす町々は、応仁の乱後の都市復興に伴い、二条以南に室町・新町を中心に東西二町の中で展開し、町衆の自治の世界を形成した。天文期(一五三二―五五)には町組も確認され、本区関係では牛寅組・中組・七町半組・川西組がある。

また、その頃台頭した法華宗寺院も多く、二十一ヵ本山のうち、妙顕みようけん寺・住本じゆうほん寺・妙覚みようかく寺・妙満みようまん寺・本能ほんのう寺・上行じようぎよう院・本法ほんぽう寺・妙泉みようせん寺・本覚ほんかく寺・本隆ほんりゆう寺が本区にあり、法華一揆の有力な拠点となった。同じ頃、本区姥柳うばやなぎ町には南蛮なんばん寺が異風をただよわせ、二条柳にじようやなぎ町には遊里が興り、茶道の盛行は、市中の名水(少将井・柳の水・菊水井・西行水など本区内)を有名にした。

〔近世〕

天正一八年(一五九〇)の豊臣秀吉による町割は、方一町の町の中心に南北に通りをつける都市計画であったが、それは応仁・文明(一四六七―八七)以来の古町に対する新町の組織的形成を背景にもち、同時に寺院の洛中周辺への移転政策を伴うものであった。本区内でも、新たに御幸町ごこまち通・富小路とみのこうじ(旧来の富小路は麩屋町通となる)堺町さかいまち通・岩上いわがみ通・黒門くろもん通、姉小路あねこうじ以北で間之町あいのまち通・車屋町くるまやちよう通、三条以北で両替町りようがえまち通・衣棚ころものたな通・釜座かまんざ通が開かれ、そしておそらく小川おがわ通・さめ通も本来は三条以北のものと思われる。従って、本区高倉たかくら通以西油小路あぶらのこうじ通以東、三条以南、四条以北の区域は、方一町のままで残されたが、これはなによりもこの区域の町衆たちの由緒、経済力、宅地占有力と、市街地としての完成度を物語っている。

町組も発展して、古町・親町に対する枝町・新シ町が形成されたが、その景観的特色は町数の増加よりも、前代に四圏空地で隔てられていた上京・下京が市街地の拡大で密接し、二条通を境にして両京を区別し、組織するまでに至ったことであった。また、寺院は曇華どんげ院・六角ろつかく堂など行政的機能を有するものや、空也くうや堂・こぬか薬師など民間信仰に基づく小庵を除いて、ほかはすべて寺町てらまち通東側と神泉苑町しぜんえんちよう通東側に集められた。寺町通には北から革堂行願こうどうぎようがん寺・妙満みようまん寺・本能ほんのう寺・天性てんしよう寺・誓願せいがん寺などの大刹が建並び、裏寺うらでら町・桜之さくらの町・中筋なかすじ町や四坊大宮しぼうおおみや町・錦大宮にしきおおみや町・因幡いなば町などは文字どおり「寺の町」となった。また同じ頃、天正一九年着工の御土居おどい構築は、本区では東は寺町の北東高瀬川の西沿いに、西は佐井さい通の出水でみずより南へ、更に西土居にしどい通を南へ、旧西京にしのきよう村を突っ切って高辻上ル付近から壬生へ東行し、中堂寺ちゆうどうじ村に至っている。

江戸時代一七世紀以後は徳川幕府官衙が設定される。二条御城はいうまでもなく「京都の城」であったが、その西側に御蔵屋敷、京都代官・同手代屋敷、御門番頭屋敷をはじめ、東・西両町奉行所、東・西両町奉行所組屋敷が設置された。二条城大手門前の土橋は山城国中里程表示の起点となった。公家屋敷は、わずかに二条川西の九条家・鷹司家・近衛家のみであったが、諸藩大名の京屋敷は多く散在。移動が多いので天保年間(一八三〇―四四)の版行系絵図で拾ってみると、東から西へ、長州(毛利)・加賀(前田)・対馬(宗)・岩国・彦根(井伊)・土佐(山内)・明石・大垣・川越・安志(小笠原)・米沢(上杉)・秋田(佐竹)・薩摩(島津)・尼崎(青山)・尾張(徳川)・紀伊(徳川)・篠山(青山)・久留米(有馬)・出雲・姫路(酒井)・越前・古河(土井)・津(藤堂)・高槻(永井)などがみられ、代官角倉・大工頭中井氏の屋敷、更には幕藩経済統制にかかわる要衝としての金座・銀座・朱座・桝座・秤座などの御用商人衆や、茶屋・三井など糸割符系・両替商系の豪商も区内に集中していた。

高瀬川の開削(慶長一八年)は、樋口を二条河原に求めて、石橋から四条まで七ヵ所の船入をすべて区内に設け、材木・塩・石材等基材市場の展開を導いた。その川沿いに走る木屋町きやまち通には先斗町ぽんとちよう遊郭も開け、その界隈は壬生村新撰組屯所などと並んで、明治維新騒乱の舞台となった。また堀川沿いの二条にも木場があり、幕末には西高瀬川も開通。物資が運ばれて賑った。

区内洛中の同業者町として著名なものは、このほかに寺町通の仏具・人形、三条通の書肆・薬種、三条橋西や六角堂前の旅宿、衣棚通三条の法衣・呉服、錦小路の魚市・青物市、竹屋町たけやまち通堀川西の竹屋などがあげられよう。

こうした市街地の発展は、皮肉には度重なる大火災からの復興に、むしろ支えられていた。宝永五年(一七〇八)三月八日油小路三条上ルより出火した火災では、区内錦小路以北、河原町通以西、堀川以東の洛中部分のほとんどを焼いたし、天明八年(一七八八)正月の大火では川端二条以南のごく一部を残す区内洛中全域が罹災した。元治元年(一八六四)七月の鉄砲焼けでも、堀川以東(二条城以南一部千本通付近まで)の区内全域が焼失している。

本区千本通以南は村域で、東から葛野郡聚楽じゆらく村・二条御城廻にじようおしろまわり・西京村・壬生村の四ヵ村であるが、二条城の北方は早くから町地化していた。

〔近代〕

慶応四年(一八六八)二月一九日、戊辰戦役の直後、新政府は京都裁判所を設置、閏四月改めて府が立庁されたが、これは当初旧東町奉行所を使用、のち守護職屋敷を経て明治四年(一八七一)六月には二条城内に移った。更に府は二年一月町組仕法の改正を実施、二条通を上・下両京の境界として両京大組に番組を設定した。

行政単位としての中京区の成立は昭和四年(一九二九)四月で、それまでに成立していた上京区・下京区をそれぞれ割って設けたが、それ以前の大正七年(一九一八)四月に下京区に編入されていた西京村・二条御城廻・壬生村・聚楽村と、西院さいいん村の一部をも中京区域に加えた(もっとも西京村・聚楽村の一部は明治元年に上京に編入されており、そのまま上京区にとどまった)

明治三二年には、京都・園部間の京都鉄道が開通。二条通千本の地に二条駅ができた。また昭和三年一一月には新京阪電鉄(現阪急)が西院まで開業、同六年三月には地下を四条大宮まで延長して、大阪方面への人員輸送網の一環を形成した。また明治四五年には市電敷設のため烏丸通が拡張され、千本通が整備された。河原町通も大正一五年には整備されたが、それらに伴い、商業・レジャー圏は東進し、新京極は新しい京都の歓楽街となった。昭和一九年には戦時防災政策の一環として堀川通・御池通が拡幅され、現在の景観につながっている。

なお、本区内には明治以降の旧学区として、梅屋うめや竹間ちくかん富有ふゆう城巽じようそん竜池たついけ初音はつね柳池りゆうち銅駝どうだいぬい本能ほんのう明倫めいりん日彰につしよう生祥せいしよう立誠りつせい教業きようぎようの一五学区があった。

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40. いけすちょう【池須町】京都市:中京区/本能学区地図
日本歴史地名大系
中京区西洞院通六角下ル 南北に通る西洞院通(旧西洞院大路)を挟む両側町。北側を六角通(旧六角小路)、南側を蛸薬師通(旧四条坊門小路)が通る。平安京の条坊では、町 ...
41. いけにしごんすい【池西言水】
国史大辞典
た。晩年は奈良に引込んだが享保七年(一七二二)九月二十四日京都で没した。七十三歳。墓は京都市中京区新京極通六角下ルの誠心院にある。代表句「木枯の果てはありけり海 ...
42. いけもとちょう【池元町】京都市:中京区/教業学区地図
日本歴史地名大系
中京区御池堀川西入 南北に通る堀川通(堀川小路)西の片側町で、北側を押小路通、南側を御池通(旧三条坊門小路)が東西に通る。平安京の条坊では、ほぼ左京三条二坊一保 ...
43. いしずえむら【石居村】滋賀県:大津市/南部地域
日本歴史地名大系
石居村庄屋小百姓中としており、江戸前期から独立した村であった。年貢のほか京都二条城(現京都市中京区)の掃除夫代として銭一貫文を下村庄助へ納めている(同文書)。浄 ...
44. いしばしちょう【石橋町】京都市:中京区/立誠学区地図
日本歴史地名大系
中京区三条通寺町東入 三条通を挟む両側町で、西側は寺町通と接する。応永三二年(一四二五)一一月一〇日付酒屋交名(北野天満宮史料)には「少輔 三条京極東南頬 源有 ...
45. いしばしちょう【石橋町】京都市:中京区/城巽学区地図
日本歴史地名大系
中京区御池通西洞院西入 東西に通る御池通(旧三条坊門小路)の両側町。町の西寄りを南北に小川通が通る。平安京の条坊では、町の南側は左京三条二坊三保一四町北、同北側 ...
46. いしやちょう【石屋町】京都市:中京区/立誠学区地図
日本歴史地名大系
中京区木屋町通三条下ル東入 町の西側を高瀬川、東側を鴨川が南流し、三条通の南に位置。町名は、筆描図系では、寛文末洛中洛外大図に「石や町」とみえる。木版図系では、 ...
47. いしやちょう【石屋町】京都市:中京区/富有学区地図
日本歴史地名大系
中京区丸太町通寺町西入 東西に通る丸太町通(旧春日小路)に北面する片側町。平安京の条坊では東京極大路上に位置し、平安中期以降は春日東京極大路の南にあたる。寛永一 ...
48. 和泉式部
世界大百科事典
生地と伝える所は岩手県から佐賀県まで数十ヵ所に及び,墓の数もそれに劣らない。墓所の一つ京都市中京区の誠心(じようしん)院は,唱導の徒の拠点であった。各地に伝えら ...
49. いずみしきぶ【和泉式部】
日本架空伝承人名事典
式部の誕生地と伝える所は岩手県から佐賀県まで数十ヵ所に及び、墓の数もそれに劣らない。墓所の一つ京都市中京区の誠心(じょうしん)院は、唱導の徒の拠点であった。各地 ...
50. いずみちょう【泉町】京都市:中京区/梅屋学区地図
日本歴史地名大系
中京区夷川通西洞院東入・新町東入 東西に通る夷川通(旧冷泉小路)を挟む両側町。現在、夷川室町西入(夷川通北側のみ)、同衣棚西入、同新町(旧町尻小路)西入、同釜座 ...
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井伊谷村(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。現引佐町の南部、井伊谷川に神宮寺(じんぐうじ)川が合流する小盆地に立地する。「和名抄」にみえる引佐郡渭伊(いい)郷の中心をなしていたという。渭伊は井からの転化とされ、井水を神聖視する聖水祭祀を行ってきた豪族が栄えた地という
中京区(京都市)(日本歴史地名大系)
面積:一二三・三二平方キロ 京都市の中央部に位置し、北は丸太町通北及び二条城北側を回って千本通西側を境として上京区に接し、東は鴨川を境に東山区及び左京区に、南は四条通北及び大宮通以西では松原通を境に下京区に、西は北側が西小路通西、南側が西大路通東を境に右京区に接する。
大東町(静岡県小笠郡)(日本歴史地名大系)
面積:四五・九九平方キロ 小笠郡の西部にあり、南は遠州灘に面し、北は掛川市・袋井市、西は大須賀町、北東は菊川町、東は小笠町・浜岡町に接する。町の北西は小笠山丘陵、北東は牧之原台地丘陵部の一部から構成され、海岸部は天竜川の運んだ砂が堆積して砂丘地帯を形成している。
浜松市(静岡県)(日本歴史地名大系)
面積:二五六・七四平方キロ 県西部、遠州灘に面する。東は天竜川を挟み磐田郡竜洋町・豊田町、磐田市、北は浜北市、引佐郡引佐町・細江町、西は浜名郡雄踏町・舞阪町に接するほか、浜名湖に面する。市域西部から北部には洪積台地の三方原台地が広がる。南部は遠州灘に臨む海岸平野で
鳳来町(日本歴史地名大系)
面積:二六五・五五平方キロ 県の東部に位置し、北は北設楽郡設楽町・東栄町、東は静岡県磐田郡佐久間町・天竜市・引佐郡引佐町、南は引佐郡三ヶ日町、新城市、西は作手村に接する。町の東部、静岡県との境は、赤石山脈の支脈の弓張山脈で、西には木曾山脈の末端が連なる。町のほぼ中央の
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国府・府中・城府・駿府(日本歴史地名大系)
古代に駿河国の国衙が置かれた地。静岡平野の中央、安倍川下流の左岸に位置する。現在の静岡市中心部とされる。古代の駿河国府の比定地については、現在の駿府城跡北方の長谷通の南側あるいは北側、駿府城跡の南東地区(城内中学校・青葉小学校などを含む一帯)、駿府城跡北東の横内・上足洗方面
大東町(静岡県小笠郡)(日本歴史地名大系)
面積:四五・九九平方キロ 小笠郡の西部にあり、南は遠州灘に面し、北は掛川市・袋井市、西は大須賀町、北東は菊川町、東は小笠町・浜岡町に接する。町の北西は小笠山丘陵、北東は牧之原台地丘陵部の一部から構成され、海岸部は天竜川の運んだ砂が堆積して砂丘地帯を形成している。
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面積:一二三・三二平方キロ 京都市の中央部に位置し、北は丸太町通北及び二条城北側を回って千本通西側を境として上京区に接し、東は鴨川を境に東山区及び左京区に、南は四条通北及び大宮通以西では松原通を境に下京区に、西は北側が西小路通西、南側が西大路通東を境に右京区に接する。
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