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日本歴史地名大系

日本歴史地名大系
本郷菊坂町
ほんごうきくざかまち

[現]文京区本郷五丁目

持組大縄地などを隔てて本郷五―六丁目の西方に位置する拝領町屋。町屋は真光しんこう寺の裏手から備中福山藩阿部家の下屋敷まで南東―北西に走る通り(現在の菊坂の通り)の北東側に開け、通りの南西側は崖地となっていた。東から北にかけては持組大縄地・本妙ほんみよう寺・長泉ちようせん寺・本郷菊坂台ほんごうきくざかだい町・三河岡崎藩本多家下屋敷・福山藩下屋敷・小石川丸山田こいしかわまるやまた町など、西から南は本郷菊坂田ほんごうきくざかた町・武家屋敷・伊賀者組屋敷などであった。当地は寛永五年(一六二八)に中間方の大縄拝領地となったが、町屋になった年代は明らかではない。元禄年中(一六八八―一七〇四)に通りを挟んだ向い側の崖地も町屋(本郷菊坂道造屋敷)となったが、寛政一一年(一七九九)に取払われ、武家地とされた。文政町方書上によれば、町内は田舎間で道幅を除き、南北間口が三町九間余、東西は一三―五〇間余。安永三年小間附町鑑によれば、小間数二〇五間余(京間)で公役金を勤めている。家数二八八、うち拝領地主二六(ほか一五軒は他所に居住)・地借五二・店借二一〇(文政町方書上)。町内を大下水(幅九尺―二間)が流れ、土橋が一ヵ所、板橋が三ヵ所に架かっていた。なお当町から本郷菊坂台町・同菊坂田町・小石川丸山田町・同かた町・同丸山新まるやましん町辺りの一帯を俗に丸山という。明治二年(一八六九)本郷菊坂道造ほんごうきくざかみちづくり屋敷の残地および本郷四丁目代地・同五丁目代地を合併、同五年には周辺の旧武家地や妙心みようしん寺などを編入。

本妙寺(現法華宗陣門流)は寺伝によれば元亀二年(一五七一)に駿河国で起立、天正一八年(一五九〇)江戸に移り、江戸のうちで数度移転したのち、元和二年(一六一六)小石川に移り、当地に移ってきたのは寛永一三年のことという。近世には勝劣派の触頭を勤め、中本寺の寺格を有していた(「寺社備考」など)。明暦三年(一六五七)一月一八日から一九日にかけて、江戸で相次いで三つの火災が発生した。世にいう明暦の大火であるが、第一の火災は「本郷丸山本妙寺」から出火したといわれている(「徳川実紀」など)。同寺は明治四四年、巣鴨すがも(現豊島区)に移転した。菊坂は、江戸時代には当町と本郷菊坂台町の間を東へ上る急坂(現在の胸突坂)をいった。「御府内備考」によると、道幅約二間・長さ二〇間余で、坂の名は長禄年間(一四五七―六〇)本郷周辺に町屋ができてきた頃、この辺りに菊畑があったことに由来するという。現在は本郷三丁目の交差点の北方で西へ折れ、同四丁目と五丁目の間を西片にしかた一丁目方面に北西に下る緩やかな坂を菊坂とよんでいる。なお万延二年(一八六一)の尾張屋版切絵図などでは現在の胸突むなつき坂に「ム子ツキサカ」と記されている。梨木なしき坂は現在の菊坂の通りから北に向かい胸突坂上の方へ上る坂をいう。かつて梨の大木があったことから名付けられたといい、江戸時代前期に歌学者戸田茂睡が住んでいたことでも知られる。茂睡は名を恭光、通称を茂右衛門、号を梨本・隠家といい、老いてから茂睡を名乗った。若い頃、岡崎藩本多家に仕えたが、辞して江戸に在住、古典の研究に励んだ。茂睡は「紫の一本」で菊坂について「小石川より本郷六丁目へ出る所の坂を云」と記し、「なしの木坂」については「此坂より菊坂へも出る」と記している。ほかに町内には梨木坂の東方、旧本妙寺の前から南へ下って現在の菊坂の通りに出る本妙寺坂、近世の御弓おゆみ町方面から北上して当町方面へ下るあぶみ(西側)炭団たどん(東側)などがある。前者は、かつて鐙を作る職人が住んでいたことが坂名の由来とか、坂が鐙の形に似ていることがその名の起りとする説があり、後者もかつて炭団を商う者が住んでいたからとか、急坂で人々が転げ落ち、炭団のように黒くなったことが坂の名の由来などとされる。



地図・資料
旧郡界図
図表・資料(PDF)
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「本郷菊坂町」の情報だけではなく、「本郷菊坂町」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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