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気仙沼市

ジャパンナレッジで閲覧できる『気仙沼市』の日本歴史地名大系・世界大百科事典のサンプルページ

日本歴史地名大系

【気仙沼市】宮城県
気仙沼市
けせんぬまし

面積:一八四・〇三平方キロ

県の北東端に位置し、北から西は岩手県陸前高田りくぜんたかた市・東磐井ひがしいわい室根むろね村、南は本吉もとよし郡本吉町、東は同郡唐桑からくわ町、南東はおお島を含む気仙沼湾を擁して太平洋に臨む。地形は北上山地が太平洋岸の近くまで迫るリアス海岸で、古生代二畳紀から中生代にかけての化石を多数包含する粘板岩や石灰岩からなる地層が岩礁地帯の多い風光明媚な景観を作り出している。そのため山林原野がほとんどで、耕地はわずかにすぎない。山林原野の大半は江戸時代、波路上はじかみ塩田・鹿折ししおり塩田で消費される製塩用の燃料を供給する御塩木山とよばれた藩有林であった。市全域が県立自然公園に指定され、気仙沼湾一帯は陸中海岸国立公園に含まれる。

地名はアイヌ語のケセモイ、ケセムイからきており、湾内の奥、もしくはアイヌの勢力の及ぶはずれの港の意味とする説がある。陸前高田市はもと気仙郡に含まれており、「延喜式」神名帳では牡鹿おしか郡に計仙麻けせま神社、桃生ものう郡に計仙麻大島神社がある。計仙麻神社の所在地は確定しがたいが、計仙麻大島神社は大島のかめ山にある大島神社に比定される。古代においては陸前高田市から牡鹿郡に至る沿海部を広く「けせま」とよんでいたものと考えられる。なお慶長五年(一六〇〇)の葛西大崎船止日記・漆請取日記(伊達家文書)には仮名で「けせぬま」と記されている。

〔原始・古代〕

海岸部に縄文早期から中期の貝塚である磯草いそくさ貝塚がある。完形品の土器出土が多く、県北海岸部の好資料となっている。南最知みなみさいち貝塚からは埋葬人骨が出土し、中期末の竪穴住居跡が検出されている。古墳時代の竪穴住居跡の発見もある。気仙沼湾奥に流入する大川流域には縄文後・晩期の田柄たがら貝塚があり、貝層は三〇層以上に細分される。土砂まで水洗いする調査によって石器・骨角器各々約三千点の遺物が得られた。また詳細な動物遺体の分析がなされ、ハマグリとアサリの各層変化とともに内湾性貝塚の性格が明らかにされた。サケ・マス科の遺存体も多数検出されて、食糧資源を示す資料となった。この流域には、さかえ内の脇ないのわき松岩まついわなどの貝塚が分布する。弥生時代の遺跡は一ヵ所のみでその内容は明らかでない。

古墳は八瀬やつせ地区に本州北限の塚沢つかざわ横穴古墳群があり、築造は九世紀と考えられている。八瀬街道は沿岸部と内陸部を結ぶ交通路であり、古代にも気仙沼や本吉地方から胆沢いさわ江刺えさし(現岩手県)地方への最短路であったとみられる。このようなことが古墳群成立の背景ではないかと考えられている。当地は律令制下では桃生郡に属していたとみられ、同郡磐城いわき郷に含まれたとする説があるが(大日本地名辞書)、確かではない。平安時代末期になると奥州藤原氏の支配下に入り、本良もとよし庄が成立する。当地も同庄に含まれていたと推定される。

〔中世・近世〕

中世の気仙沼地方は、文治五年(一一八九)源頼朝が奥州藤原氏を平定したあと、御家人熊谷次郎直実を本良庄の地頭職に補任し、その子孫(平三直宗と伝える)月館の赤岩つきたてのあかいわ館に拠って支配を続けたと考えられる。鎌倉幕府滅亡後も在地領主として一族を近隣の諸村に配置して支配を行ったが、南北朝期から室町期にかけて葛西氏の勢力下に入った。天正一八年(一五九〇)、豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏が滅びるとともに熊谷氏も帰農し、伊達氏の治下に入った。

慶長年中鴇田淡路が気仙沼で三千石を領し、のちの気仙沼本郷に屋敷を構えていたが、寛文事件で伊達兵部宗勝にくみし、知行の三分の二を没収され仙台に移されたと伝える。この頃気仙沼とよばれていた地域は、気仙沼本郷のほか小原木こはらぎ・唐桑(現唐桑町)、鹿折・大島・新城しんじよう・月館・赤岩の諸村を含んでいたが、寛永一九年(一六四二)の検地の際八ヵ村に分立したという。これらの諸村および市域にあった松崎まつざき岩月いわつき・最知・長磯ながいそ・波路上の村々は本吉郡に属し、寛永以降は気仙沼本郷に置かれた気仙沼代官所の支配下にあった。松崎村には元禄九年(一六九六)以前に鮎貝盛次が所拝領し、初め六〇〇石、のちに一千石を領し、家格は一家の上座として代々藩の要職を歴任した。鮎貝氏の給地は松崎村のほか気仙沼本郷・赤岩村などにあった。

慶長一六年スペイン特派使節セバスチャン・ビスカイノは、牡鹿・桃生・本吉・気仙の沿岸を測量した。一行は仙台―塩竈―松島―石巻いしのまき―牡鹿半島を回り気仙沼に到着、気仙沼湾を今まで発見した諸港のなかで最良の港津と賞讃している(金銀島探検報告)。気仙沼津は前掲葛西大崎船止日記に登場し、この時すでに仙台藩海上交通の拠点となっていたことをうかがわせるが、以後江戸時代を通じ藩領北部の枢要の港津として機能した。陸上交通は、小野おの本郷(現桃生郡鳴瀬町)で石巻街道から分岐して北上、伊里前いさとまえ(現本吉郡歌津町)小泉こいずみ大谷おおや(現同郡本吉町)を経て気仙沼に至り、唐丹とうに(現岩手県釜石市)に向かう気仙道(のちの東浜街道)が主道で、気仙沼本郷に宿駅が設置されていた。

生業は農業・漁業のほか気仙沼本郷・鹿折村・大島村では天当船とよばれる外洋貨物船を保有して廻船業を営む者がおり、また製塩も盛んに行われた。塩田は波路上・鹿折のほか気仙沼本郷内の脇にあったが、波路上が最大であった。波路上塩田は馬籠まごめ(現本吉町)の佐藤三右衛門が、天和年間(一六八一―八四)、播州流の入浜塩田による製塩法をならって帰国、近隣の富豪に出資を仰いで開いたのが始まりという。同塩田の塩は仙台藩御用の御膳塩として上納され、なかでも花塩は波路上名産として知られた。北上山地東麓一帯の村々には砂金や砂鉄採取の遺跡、伝承が多数残されているが、当地新城・赤岩・松崎などにもあり、新城から赤岩羽田はだにかけての廿一にじゆういち山では幕末にも荒鉄一万五千貫を産していた。気仙沼本郷は港津・宿駅、また物資の集散地として賑い、商業を営む者もかなりいたようである。文政一二年(一八二九)には、近江日野ひの(現滋賀県蒲生郡日野町)の豪商中井源左衛門が仙台店の得意先回りで訪れている。

〔近現代〕

江戸時代最後の鮎貝家当主である盛房は、戊辰戦争で先鋒として活躍、鬼太郎の異名をもって恐れられた。明治時代の国文学者落合直文は盛房の次男で、松崎の鮎貝氏屋敷煙雲えんうん館で生れている。明治八年(一八七五)松崎村と赤岩村が合併し松岩まついわ村、月館村と新城村が合併して新月にいつき村、波路上村・長磯村・最知村・岩月村が合併して階上はしかみ村となる。同二二年の町村制施行の結果、以上の三村と鹿折村・大島村・気仙沼町の一町五村となる。昭和二六年(一九五一)鹿折村が町制施行、同二八年気仙沼町・鹿折町・松岩村が合併して気仙沼市が誕生。同三〇年に新月村・大島村・階上村を加えて現在の気仙沼市となり、漁業と観光を中心とした商業都市として発展を続けている。最近は南三陸沿岸の中心都市として人口の流入が続き、住宅地の不足に悩んでいる。

漁業は江戸時代中期以降、俵物の生産とともに隆盛をみるようになるが、それ以前は東廻航路上の港湾として位置づけられていた。明治時代以降は近海漁業の基地として発展し、三陸沿岸の主要な漁港として水揚高も宮城県内で一、二を争っている。かつては陸の孤島といわれた当地方は優れた自然景観と観光資源に恵まれ、自然環境の破壊も少なく、近年交通網の整備に伴い観光事業に積極的に取組んでいる。交通機関は大船渡線(一関―盛間)、気仙沼線(気仙沼―石巻線前谷地間)の鉄道が通じ、道路では三陸海岸に沿って通る国道四五号(仙台―八戸間)、気仙沼と岩手県一関いちのせきを結ぶ国道二八四号がある。二八四号は北上山地によって内陸部との連絡を阻まれている当地方にとって重要な役割を果している。津波の被害に度々あっているが、明治二九年六月一五日の津波では五一二名(階上村四四二・松岩村一・鹿折村八・大島村六一)、昭和八年三月三日の三陸津波では一八〇名余の死者を出す被害があった。



世界大百科事典

気仙沼[市]
けせんぬま

宮城県北東端,岩手県境に位置する市。2006年3月旧気仙沼市と唐桑(からくわ)町が合体して成立し,09年9月本吉(もとよし)町を編入した。人口7万3489(2010)。2011年3月の東日本大震災では,死者行方不明1484人,全壊住宅8380戸にのぼった。

唐桑

気仙沼市北東部の旧町。旧本吉郡所属。人口8103(2005)。岩手県と接する。三陸海岸の南部にあり,気仙沼湾と広田湾をわける唐桑半島が南に突出している。ほとんどが漁業集落で,リアス海岸の各所に18の漁港がある。気仙沼港を基地にする遠洋漁船が多く,沖合・沿岸漁業も盛んで,西海岸ではワカメ,カキの養殖が行われる。舞根にはカキ研究所があり,浅海養殖の振興のためアワビの〈海底牧場〉もつくられている。唐桑半島はタブ,椿が群生し,巨釜(おがま)・半造,大理石海岸,御崎など多くの景勝地があって,全域が陸中海岸国立公園に指定されている。商工業はふるわず,隣接する旧気仙沼市,陸前高田市に依存している。
[千葉 立也]

気仙沼

気仙沼市中西部の旧市。1953年気仙沼町,鹿折(ししおり)町,松岩村が合体,市制。人口5万8320(2005)。南東は太平洋に面し,内に気仙沼湾を抱く。港奥に中心市街地気仙沼があり,湾口の大島が太平洋の風波をさえぎる。北・西部は北上高地に属する山地である。気仙沼の地名は《延喜式》に記された計仙麻神に由来するといわれる。平泉の藤原氏三代(奥州藤原氏)が栄えたころ,気仙沼は海運の門戸として利用され,また,鹿折金山(現在は閉山)の本吉金が平泉文化を支えたといわれている。鎌倉初期から天正期(1573-92)にかけては葛西氏の家臣熊谷氏の領地であったが,近世には仙台藩の直轄地として代官鮎貝家が統治した。歌人落合直文は鮎貝家の出身である。明治に入って桃生県,石巻県,登米県,一関県,水沢県,磐井県とたびたび所属県が変更され,宮城県に入ったのは1876年である。古くから漁港として栄え,現在も産業の中心は水産業であり,漁港,魚市場の整備とともにカツオ,マグロ,サンマなどの水揚げが急増し,またノリ,カキの養殖も盛んである。工業は水産に関係の深い製氷,冷凍,水産加工が活発で,埋立てによる石油基地や工業団地も作られている。商業も盛んで古くから県北東部の商業中心地であった。海岸美に優れた沿岸一帯は陸中海岸国立公園に属し,岩井崎の潮吹岩は天然記念物に指定されている。JR大船渡線,気仙沼線,国道45号,284号線が通じる。
[長谷川 典夫]

気仙沼の諸湊

仙台藩時代,三日市,八日市の六斎市が立ち,本吉郡北方の中心的な町場で,商港・漁港であった。気仙とも呼ばれ,気仙沼湾の周辺部に大島の長崎湊などの諸湊があり諸国廻船の出入津でにぎわった。積出し荷物は魚類,〆粕(しめかす),干魚,塩魚,魚油,フノリ,コンブなどの海産物,および葉タバコがおもなものであった。天明期(1781-89)仙台藩は魚油などの会所を牡鹿郡小淵,石巻と気仙沼に設け江戸方面への販売促進を計り,会所商人はそれぞれ那珂湊,銚子,浦賀,江戸に手代を派遣している。葉タバコは東磐井郡方面産の東山タバコで,気仙沼湊は同地方の江戸下り荷の荷揚地で商権をもっていた。気仙沼諸湊所属の商船はこうした商品を江戸方面に輸送し活躍したが,安永期(1772-81)の大島村には大型の天当船が3艘を数え,また小回り商船の五太木船も多く,石巻湊に次ぐ仙台藩の商港であった。
[渡辺 信夫]

本吉

気仙沼市南部の旧町。旧本吉郡所属。人口1万1588(2005)。東は三陸海岸に面し,南・北・西は北上山系の支脈に囲まれる。海岸沿いをJR気仙沼線が走り,国道45号,346号線が通じる。平安時代には藤原氏の老臣大谷(おおや)氏が大谷に居城したと伝えられ,藤原氏滅亡後は千葉氏の所領となり,南北朝期以降は葛西氏の支配下に置かれた。近世は仙台藩領で,中心集落津谷(つや)は奥州東浜街道と西郡街道が交差する宿駅として栄え,馬籠(まごめ)では製鉄,製塩が奨励された。1896年の三陸大津波では死者553人を数える大被害を受けた。主産業は農林業と漁業で,酪農,タバコやシイタケの栽培,定置網漁やワカメの養殖が行われる。大谷金山は金,銀,銅を産したが,1971年閉山した。海岸には大谷,小泉をはじめ多くの海水浴場がある。
[千葉 立也]

[索引語]
鹿折金山 本吉金 鮎貝家 気仙 津谷 馬籠(宮城)(まごめ) 大谷金山
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16. いそくさかいづか【磯草貝塚】宮城県:気仙沼市/大島村
日本歴史地名大系
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17. いちのせきし【一関市】岩手県
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18. いまいずみむら【今泉村】岩手県:陸前高田市
日本歴史地名大系
天正一五年(一五八七)には浜田安房守・横沢信濃と今泉氏の三氏が連合して岩付(月)の地(現宮城県気仙沼市)を奪取した(同年二月三日「葛西晴信書状」一関石川文書)。
19. いわいさき【岩井崎】宮城県:気仙沼市/波路上村
日本歴史地名大系
[現]気仙沼市 波路上岩井崎 気仙沼湾西岸最先端にある。北上山地の一部を形成する古生代二畳紀の石灰岩地層の岩礁で、付近の海中まで岩礁地帯をなしている。同地層には
20. いわじりむら【岩尻村】宮城県:本吉郡/本吉町
日本歴史地名大系
南は太平洋に面し、西は平磯村、北は松崎村(現気仙沼市)、東は波路上村(現同上)に接し、村内を気仙道が通る。かつては平磯村や波路上村・長磯村・最知村・岩月村・松崎
21. いわつきむら【岩月村】宮城県:気仙沼市
日本歴史地名大系
[現]気仙沼市 岩月箒沢・同長平・同寺沢・同星谷・同宝ヶ沢・同台ノ沢・同千岩田 北から西にかけて松崎村と境し、東は気仙沼湾に臨む。気仙道が現国道四五号の東、海岸
22. うすぎぬじょうあと【薄衣城跡】岩手県:東磐井郡/川崎村/薄衣村
日本歴史地名大系
の陸奥桃生郡の山内定通と葛西宗清との合戦では、同月一九日薄衣などの軍勢が柳沢・太田(現宮城県気仙沼市)に着陣した(「永正年間戦乱記」人首菊池文書)。天正一四年(
23. うちのさてつやまあと【内野砂鉄山跡】岩手県:東磐井郡/大東町/大原村
日本歴史地名大系
石余、最も少ない延享三年は二三四石余。採掘者(山先)は本吉郡月館村二名・同郡鹿折村(現宮城県気仙沼市)一名、気仙郡矢作村(現陸前高田市)二名、下折壁村(現室根村
24. えのしまれっとう【江島列島】宮城県:牡鹿郡/女川町/江島
日本歴史地名大系
藤原基衡の孫樋詰五郎季衡は、文治五年(一一八九)源頼朝に捕らえられたのではなく、本吉郡大島(現気仙沼市)に隠れ、追手が厳しいので江島に渡り、君ヶ磯から上陸した。
25. おうしゅうかいどう【奥州街道】宮城県:総論
日本歴史地名大系
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26. 大島(宮城)
世界大百科事典
宮城県北東部,気仙沼市に属し,気仙沼湾口を扼(やく)する島。東西約3km,南北約5km,丘陵性の地形を有する。面積約9km2の島には4243人(1995)が住み
27. 大島(宮城県)
日本大百科全書
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28. おおしまごう【大島郷】岩手県:陸奥国/気仙郡
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陸奥国桃生郡(現宮城県)六座のうちの計仙麻大島神社所在地とされる近世の本吉郡大島村(現宮城県気仙沼市)を当郷の比定地とする説もあるが、「日本地理志料」は否定して
29. おおしまむら【大島村】宮城県:気仙沼市
日本歴史地名大系
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30. 大谷鉱山
日本大百科全書
宮城県北東部、気仙沼市けせんぬまし南部の旧本吉町もとよしちょう地区にあった鉱山。平安時代末期に金の採掘が行われ、平泉藤原氏の黄金文化を支えたといわれている。鎌倉
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日本歴史地名大系
立した(奥州仙台御崎宮略縁起「唐桑町史」所収、「観蹟聞老志」)。しかし計仙麻大島神社は一般に気仙沼市大島の大島神社にあたるとされ、そのほかにも諸説があり、いずれ
32. おちあいなおぶみ【落合直文】
国史大辞典
二十六歳ごろ直文と改称。号は萩之家(旧号、桜舎)。文久元年(一八六一)十一月十五日、陸奥国本吉郡松岩村(宮城県気仙沼市字松崎片浜)の煙雲館に生まれた。父は仙台藩
33. おなりあな【鳴洞窟】宮城県:気仙沼市/気仙沼本郷
日本歴史地名大系
[現]気仙沼市魚町二丁目 釜前の湾口北側、神明崎西側崖下の波打際にある鍾乳洞。音鳴穴・うなり穴ともいわれ、管絃洞という雅名もある。海水の干満にしたがって窟内を去
34. おりたてむら【折立村】宮城県:本吉郡/志津川町
日本歴史地名大系
が、乳母のはかりごとで着物に刺した針の毒気で死んだ。鱈の死骸は小川を流れ下り、同郡松崎村(現気仙沼市)に流れ着き、それを運ぶのに五駄を要したので、その地を五駄鱈
35. かみありすじょうあと【上有住城跡】岩手県:気仙郡/住田町/上有住村
日本歴史地名大系
天正一六年(一五八八)浜田安房守が葛西氏に反逆したときの戦いでは、浜田氏方の有住下野守は鹿折(現宮城県気仙沼市)で奮戦、結局葛西氏方の大槻但馬守らによって下野守
36. かみありすむら【上有住村】岩手県:気仙郡/住田町
日本歴史地名大系
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37. 唐桑画像
日本大百科全書
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38. からくわちょう【唐桑町】宮城県:本吉郡
日本歴史地名大系
笹長根山(五一九・九メートル)・霧立山(四二九・八メートル)などが連なり、北は岩手県陸前高田市、西は気仙沼市鹿折地区に接する。半島部は北部中央の早馬山(二二〇・
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日本大百科全書
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日本歴史地名大系
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41. きのみじょうあと【黄海城跡】岩手県:東磐井郡/藤沢町/黄海村
日本歴史地名大系
月からの葛西宗清と山内定通の合戦では、同月一九日黄海などの軍勢二千余騎が柳沢・太田(現宮城県気仙沼市)に出陣している(「永正年間戦乱記」人首菊池文書)。天正七年
42. 救急医療情報キット[イミダス編 社会・健康]
イミダス 2018
本人がシートに記入するので、最新の情報への書き換えも容易であることなどのメリットもある。11年11月、宮城県気仙沼市は10年から試験的に導入していたキットを、市
43. 気仙(地域)
日本大百科全書
本吉郡もとよしぐん一帯の旧称。現在の大船渡おおふなと市、陸前高田市、住田すみた町(岩手県)、気仙沼市、登米とめ市の東部、南三陸みなみさんりく町(宮城県)の地域で
44. けせんぐん【気仙郡】岩手県
日本歴史地名大系
中の気仙沼・赤岩・新城・月館・鹿折(現気仙沼市)、唐桑・小原木(現本吉郡唐桑町)の七ヵ村を加え三〇ヵ村、また有住村を上下二村に数え最知・波路上(現気仙沼市)を加
45. けせんどう【気仙道】宮城県:本吉郡
日本歴史地名大系
町)、二里小泉宿(現本吉町)、一里津谷宿(現同上)、二里半大谷宿(現同上)、三里気仙沼宿(現気仙沼市)、五里今泉宿(現岩手県陸前高田市)、五里盛宿(現同県大船渡
46. けせんぬましゅく【気仙沼宿】宮城県:気仙沼市/気仙沼本郷
日本歴史地名大系
[現]気仙沼市三日町一―三丁目・八日町一―二丁目など 小野本郷(現桃生郡鳴瀬町)で石巻街道から分岐して北上、伊里前(現本吉郡歌津町)、小泉・大谷(現同郡本吉町)
47. けせんぬまほんごう【気仙沼本郷】宮城県:気仙沼市
日本歴史地名大系
[現]気仙沼市化粧坂・三日町一―三丁目・沢田・八日町一―二丁目・魚町一―三丁目・入沢・太田一―二丁目・陣山・南町一―四丁目・南町海岸・浜見山・笹が陣・柏崎・港町
48. けせんぬまわん・けせんぬまのつ【気仙沼湾・気仙沼津】宮城県:気仙沼市
日本歴史地名大系
気仙沼市と本吉郡唐桑町に挟まれた湾で、鼎ヶ浦の称もある。湾入口の西に岩井崎、東に御崎岬(唐桑町)があり、湾中央部に浮ぶ大島によって東西二つ、内湾(西側)・外湾(
49. こはらぎむら【小原木村】宮城県:本吉郡/唐桑町
日本歴史地名大系
最高峰に、不動山・霧立山などの山岳で覆われ、北は気仙郡長部村(現岩手県陸前高田市)、西は鹿折村(現気仙沼市)、南は唐桑村に接し、東は海で広田湾に面する。道は三筋
50. さいちむら【最知村】宮城県:気仙沼市
日本歴史地名大系
[現]気仙沼市 最知南最知・同森合・同川原・同北最知・同荒沢 岩月村の南、気仙沼湾に面した海岸および海岸段丘上に立地。気仙道が南北に通りそれに沿って集落が形成さ
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井伊谷村(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。現引佐町の南部、井伊谷川に神宮寺(じんぐうじ)川が合流する小盆地に立地する。「和名抄」にみえる引佐郡渭伊(いい)郷の中心をなしていたという。渭伊は井からの転化とされ、井水を神聖視する聖水祭祀を行ってきた豪族が栄えた地という
中京区(京都市)(日本歴史地名大系)
面積:一二三・三二平方キロ 京都市の中央部に位置し、北は丸太町通北及び二条城北側を回って千本通西側を境として上京区に接し、東は鴨川を境に東山区及び左京区に、南は四条通北及び大宮通以西では松原通を境に下京区に、西は北側が西小路通西、南側が西大路通東を境に右京区に接する。
大東町(静岡県小笠郡)(日本歴史地名大系)
面積:四五・九九平方キロ 小笠郡の西部にあり、南は遠州灘に面し、北は掛川市・袋井市、西は大須賀町、北東は菊川町、東は小笠町・浜岡町に接する。町の北西は小笠山丘陵、北東は牧之原台地丘陵部の一部から構成され、海岸部は天竜川の運んだ砂が堆積して砂丘地帯を形成している。
浜松市(静岡県)(日本歴史地名大系)
面積:二五六・七四平方キロ 県西部、遠州灘に面する。東は天竜川を挟み磐田郡竜洋町・豊田町、磐田市、北は浜北市、引佐郡引佐町・細江町、西は浜名郡雄踏町・舞阪町に接するほか、浜名湖に面する。市域西部から北部には洪積台地の三方原台地が広がる。南部は遠州灘に臨む海岸平野で
鳳来町(日本歴史地名大系)
面積:二六五・五五平方キロ 県の東部に位置し、北は北設楽郡設楽町・東栄町、東は静岡県磐田郡佐久間町・天竜市・引佐郡引佐町、南は引佐郡三ヶ日町、新城市、西は作手村に接する。町の東部、静岡県との境は、赤石山脈の支脈の弓張山脈で、西には木曾山脈の末端が連なる。町のほぼ中央の
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五島列島(日本歴史地名大系・世界大百科事典)
長崎県の西部にある列島。平戸島より南西方に連なる島々は一四一を数え、面積六三六平方キロで、常住島は三〇にとどまる。中通(なかどおり)島(面積一六八・三二二平方キロ)・若松(わかまつ)島(三一・五四二平方キロ)・奈留(なる)島(二三・八九五平方キロ)
東大阪市(日本歴史地名大系・世界大百科事典)
面積:六一・七二平方キロ河内地方の中央東部に位置し、東部は大和との境をなす生駒山地と、西麓の傾斜地・扇状地からなり、金剛生駒国定公園の一部を占める。中央部は恩智(おんぢ)川・玉串(たまくし)川、西部は第二寝屋川・長瀬(ながせ)川流域の沖積低地を市域と
沖縄(県)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
旧琉球王の支配地で、沖縄・宮古・八重山の三郡島からなり、六十余島が散在している。主島は沖縄本島。沖縄は島民の固有語で、琉球は中国名である。「おきなわ」の語の文献上の初見は、宝亀十年(七七九)鑑真の弟子思託の手記に基づいて、淡海三船が撰述した
ヤンバル(山原)(日本大百科全書・日本歴史地名大系)
沖縄本島北部地域の呼び名。漢字で「山原」と書く。行政的には大宜味(おおぎみ)、東、国頭(くにがみ)の3村をさすことが多い。世界でもこの地域にしか分布していないキツツキの一種ノグチゲラの生息地として知られていたが、1981年(昭和56)にヤンバルクイナ
気仙沼市(日本歴史地名大系・世界大百科事典)
面積:一八四・〇三平方キロ県の北東端に位置し、北から西は岩手県陸前高田(りくぜんたかた)市・東磐井(ひがしいわい)郡室根(むろね)村、南は本吉(もとよし)郡本吉町、東は同郡唐桑(からくわ)町、南東は大(おお)島を含む気仙沼湾を擁して太平洋に臨む
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