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東大阪市

ジャパンナレッジで閲覧できる『東大阪市』の日本歴史地名大系・世界大百科事典のサンプルページ

日本歴史地名大系

【東大阪市】大阪府
東大阪市
ひがしおおさかし

面積:六一・七二平方キロ

河内地方の中央東部に位置し、東部は大和との境をなす生駒山地と、西麓の傾斜地・扇状地からなり、金剛生駒国定公園の一部を占める。中央部は恩智おんぢ川・玉串たまくし川、西部は第二寝屋川・長瀬ながせ川流域の沖積低地を市域として大阪市に隣接し、北に大東だいとう市、南に八尾やお市がある。昭和四二年(一九六七)枚岡ひらおか市・河内かわち市・布施ふせ市の合併によって成立した。市域は古代以来の河内・若江両郡の大部分を占め、渋川郡の一部に及ぶ。

〔原始〕

縄文時代前期(約七千―六千年前)には大阪平野には海が広く浸入し、当市域では地質学上でいう河内湾Iが生駒山麓まで入込んでいた。同時代前期末から同中期(約五千―四千年前)になると、流入する淀川と大和川のつくる三角洲で河内湾が縮小してゆく。生駒山地西麓の正興寺山しようこうじやま遺跡・千手寺山せんじゆじざん遺跡・山畑やまはた遺跡で、先土器時代のサヌカイト製ナイフ形石器が採集されている。縄文時代になると、草創期の有舌尖頭器が草香山くさかやま遺跡で採集されているほか、善根寺山ぜんこんじやま遺跡では中期の土器が採集された。同時代晩期から弥生時代前半(約三千―二千年前)には砂洲がさらに北へ延びて湾口が狭まり、縮小した水域は河内潟となる。縄文後期の遺跡には縄手なわて遺跡や馬場川ばばがわ遺跡などがあり、生駒山地西麓の扇状地上に遺跡が増加する。縄手遺跡では竪穴住居跡、馬場川遺跡では多くの晩期の土偶も発見されている。晩期の遺跡は、多くの人骨が発見された日下くさか貝塚などをはじめとして扇状地上に増加する。最近の調査によって、河内の低地部に位置する若江北わかえきた遺跡や新家しんげ遺跡でも、縄文土器が発見されている。

弥生時代になると扇状地上の鬼塚おにづか遺跡などのほか、鬼虎川きとらがわ遺跡、高井田たかいだ遺跡、瓜生堂うりうどう遺跡など低地部に大規模な集落が営まれるようになった。鬼塚遺跡では縄文晩期の土器も発見されており、今後稲作農耕文化を受入れた当時の状況を明らかにするうえで重要な遺跡といえる。鬼虎川遺跡では多くの木製品などのほか銅鐸の石製鎔笵が出土し注目される。瓜生堂遺跡では埋葬主体が明らかな方形周溝墓が多数発見されており、当時の墓制を知るうえで重要な資料が提供された。弥生時代中期末には大和川の洪水によって低地の遺跡の大半は消滅したと考えられるが、その後の様子は明確でない。後期の遺跡も多く、西にしつじ遺跡は代表的なものである。弥生時代後期から古墳時代前期(約一千八〇〇―一千六〇〇年前)になると河内低地の水域はより縮小し、河内湖とよばれる淡水湖となった。近世まで市域北部にあった新開しんかい池はこの名残である。古墳時代前期の古墳は現在まで発見されていない。中期の古墳としては芝山しばやま古墳・塚山つかやま古墳・えの木塚きづか古墳などがあるが、大規模な前方後円墳はない。後期には生駒山西麓の尾根上に山畑古墳群をはじめ、多くの横穴式石室を主体とする群集墳が形成された。

〔古代〕

七世紀後半から八世紀にかけては、河内低地の中央に広大な湖沼が存在した。南からは大和川が現在の長瀬川・平野川などのコースをとって流入し、湖沼の末端は大阪湾に流出した。市域の地名で最も早く文献にみえるものに、「日本書紀」神武天皇即位前紀の「河内国草香邑くさかのむら」「孔舎衛坂くさえさか」、同じ地をさすと思われる「白肩之津しらかたのつ」「草香津」「盾津たてつ(蓼津)のほか、「古事記」同天皇段の「日下の蓼津」、雄略天皇段の「日下の直越ただごえの道」「日下江」、「万葉集」巻四の「草香江」、巻六の「草香山」などがある。記紀の所伝は伝説ではあるが、これらの地名は、古代生駒山麓の日下辺りまで入江になっており、難波の海から草香(日下)江に入って楯津に上陸し、日下の直越道を登って生駒山を越え、大和に至る道が開かれていたことを物語っている。大化前代の大阪府東部は、大和政権の西日本に対する支配、大陸との交渉のルートにおける要衝の地であり、大王家の部民である日下部(大草香部)や直轄領の桜井さくらい屯倉・大戸おおべ屯倉が置かれ、大王による上豊浦かみとようら・下豊浦など河内平野部の開拓が進み、王権に服属する若江地方の三野県主や、天児屋根命を祖神と祀る平岡連、日下部連と同祖とされる川俣公、渡来系氏族の河内連ら諸豪族が勢力を張り、また中央豪族の物部氏も渋川(現八尾市)に家を構えて拠点とし、やがて物部守屋は蘇我馬子と戦い、衣摺きずりで敗死した。守屋の田荘と奴婢は四天王寺(現天王寺区)に施入されたと伝えるが、のちの「四天王寺御手印縁起」に記された古代四天王寺領河内国田地のなかに衣摺地・柏田かした里・蛇草はぐさ地・足代あじろ地など市域の地名がみられる。

律令国家の成立によって大化前代以来の国県が廃止され、国郡(評)里制が施行されたが、三野みの県一帯の地には渋川・若江・河内の三郡が建てられた。なお「和名抄」に記された市域の古代郷は河内郡が英多あがた新居にいい・桜井・大宅おおやけ・豊浦・額田ぬかた・大戸、若江郡が新治にいはり巨麻こま川俣かわまた錦部にしごり余戸あまりべ、渋川郡が邑智おうち賀美かみなどであった。また同地域に施行された条里制の条は、南の志紀郡・丹北郡界から北へ一条・二条と数える順序になっており、里名は数字でなく河内郡の四条梶無かじなし里、若江郡の三条竹村里のごとく固有地名でよんでいる。大和川の河岸や河内低地の湖岸には「河内江」「大江」と総称される入江が広がり、朝廷に供御の魚類を貢進する内膳司所管の「河内国江厨」が設けられ、「延喜式」によればこの御厨から「雑魚鮨十石、味塩魚六斗」を造進する規定になっていた。一方、大和川は増水期にしばしば氾濫し、各地で決壊した堤防を修築しなければならなかった。天平宝字六年(七六二)六月に「河内国長瀬堤」が切れたとき単功一万二千余人を発して修造させ、宝亀三年(七七二)八月の大風雨で「茨田堤六処、渋川堤十一処、志紀郡五処」が同時に決壊するなど(続日本紀)、大洪水との闘いに関する史料が多い。なお奈良時代も大阪府東部地域は平城京と難波を結ぶ交通・軍事上の要地であり、度重なる天皇の難波なにわ(現東区)行幸に大和川の水路が利用されたと考えられ、和銅五年(七一二)正月には河内の高安たかやすの烽を廃して、生駒山の高見の烽と大和の春日の烽が新設されている。当時の大和川の川俣江に臨む川俣の地も、河川交通や水産・交易などの拠点として栄えたと思われ、他方、行基が難波で説法したとき若江郡川派かわまた里の一女人が子連れでその法会に参加した説話も伝えられている(日本霊異記)。平安初期の昌泰元年(八九八)頃、河内の渋川・若江など諸郡の河畔の地に公私の牧野があり、牧の住人(牧子)らが往来する船の牽船をしばしば妨げた事実があるように(類聚三代格)、当時、市域水辺での牛馬の放牧と大和川筋の舟運が盛んであった。

市域には「延喜式」神名帳に載る神社に比定されるものが多い。河内郡枚岡神社・津原つはら神社・梶無神社・大津おおつ神社・栗原くりはら神社・石切剣箭いしきりつるぎや神社、若江郡若江鏡わかえかがみ神社・石田いわた神社・川俣神社・意岐部おきべ神社・弥刀みと神社・宇婆うは神社・仲村なかむら神社、渋川郡鴨高田かもたかだ神社・波牟許曾はむこそ神社・都留弥つるみ神社などである。

平安時代になると、大阪府東部地域にも皇室領・官司領を筆頭として権門寺社の庄園が増大した。河内国江厨に代わって延喜五年(九〇五)に設定された皇室領大江おおえ御厨は、国内の池河津を広く領有して供御の魚類を貢進する巨大な庄園で、若江郡の川俣や山本やまもと(現八尾市に比定する説あり)はその拠点であった。平安初中期に市域に存在した権門寺社領庄園として知られるのは摂関家領玉櫛たまくし庄、小野宮家領辛島からしま(牧)、醍醐寺領若江庄、山城石清水いわしみず八幡宮領はやし灯油薗・若江北条籠作田(延久四年九月五日「太政官牒」石清水文書)などである。

〔中世〕

平安時代末の天養年間(一一四四―四五)市域内水走みずはやの地が藤原季忠により開発され、季忠を祖としてこの地方の代表的中世領主水走氏が登場した。同氏は河内郡五条ごじように屋敷を構え、大江御厨河俣・山本執当職に任じられ、氷野ひの(現大東市)・広見池など池河や、河内郡七条水走里・八条曾禰崎里・九条津辺里にわたる広大な田地を領有し、その他各所の下司職・惣長者職・俗別当職とともに枚岡神社の社務・公文職、枚岡若宮などの神主職をも兼帯して、市域一帯を支配していた。源平合戦のとき、大江御厨に源氏の兵粮米が課せられ、水走開発田にも兵粮米使が乱入したが、当時の領主康忠は源義経に訴えて鎌倉御家人となり、本領を安堵されている。また市域の武士団草香党の武士も、京都の法住寺合戦に加わった。乱のあと市内の箕輪みのわ長田ながたに鎌倉幕府の地頭が置かれたらしく、「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)四月一九日条に記された、地頭が伊勢神宮造営の役夫工米を未済した所々の中に河内国三野和みのわ・長田の地名がみえる。石清水八幡宮領高井田の地頭は将軍家御祈祷所として停止され、八幡宮の直接支配に戻った。また若江北条にも地頭給田があった。しかし鎌倉時代の市域は皇室領の大江御厨・若江御稲田、摂関家領玉櫛庄、中御門家領稲葉いなば庄、興福寺領若江庄、高野山領新開庄、石清水八幡宮領神並こうなみ庄・桜井園、枚岡社領荒本あらもと庄など公家寺社勢力が強く、その特権を帯びた供御人・寄人・神人らが諸産業・交易・交通などの業者として活躍し、やがて玉櫛庄民が日吉社神人と称して八幡宮神人と利権を争い、若江住人が和泉国大鳥おおとり(現堺市)内の抗争に荷担して悪党とよばれたように(田代文書)、庄園体制の旧秩序を攪乱して南北朝の内乱を導くに至る。

元弘の乱の功によって新開庄は楠木正成の所領になったが、湊川合戦の後足利尊氏に没収され、建武三年(一三三六)御祈祷所として東寺に寄進された。また延元二年(一三三七)河内東条の楠木党と尊氏方の河内守護細川顕氏の軍勢が河内一帯で合戦したとき、南朝軍に加わった河内の武士高木遠盛は、八尾城(現八尾市)の北朝軍と市域の五条河原や、若江の南に接する萱振かやふり(現八尾市)で戦っている。正平三年(一三四八)の四条縄手合戦では、楠木正行は市内六万寺の往生ろくまんじのおうじよう院に本陣を進め、東高野街道を北上して、河内讃良さららに布陣した高師直の本隊に決戦を挑んで討死、のち往生院は師直に焼打ちされた。楠木党の本拠に近い市域にはその後も南朝の勢力が及び、正平五年に北畠親房が足代庄を教興きようこう(現八尾市)の祈祷料所とし、同八年頃、楠木正儀が若江北条辛島保・若江寺領の地頭職をめぐる酒匂頼名と山城忠澄の争いに裁許を下している。延文四年(一三五九)新将軍足利義詮が南方に侵攻したとき、南朝軍の水走氏らは廿山つづやま(現富田林市)に陣した北朝軍に降伏し、続く和田・楠木勢の反撃では河内守護代椙原入道が水走の城に籠って戦った。応安二年(一三六九)に正儀が北朝方に走った頃、足代庄は北朝の手に移り、京都妙心寺玉鳳ぎよくほう院に寄進された。一方玉櫛庄は室町幕府御料所となり、また京都相国寺領とされている。

永徳二年(一三八二)畠山基国が河内守護に任じられ遊佐氏が守護代として入国したが、その本拠は若江の地にあったらしい(布施市史)。長禄二年(一四五八)守護代遊佐国助は玉櫛庄に陣夫役を課したが、同四年畠山義就が将軍に追われて河内に下ったとき、遊佐国助に迎えられて若江城に入っている。しかしまもなく義就は畠山政長との合戦に敗れて紀州に退き、政長が若江に入城した。両畠山の抗争を口火として勃発した応仁・文明の乱の渦中で、河内国中は戦場と化し、若江城をめぐる攻防が繰返された。大坂に石山いしやま本願寺(跡地は現東区)が成立すると、当市域一帯の村々の住人は真宗門徒になり、「天文日記」にみえる市域内外の玉櫛・(蛇)ぐさ大平寺たいへいじ横沼よこぬま・バウシ(宝持)、八尾(現八尾市)、サント、たけ(竹)は「河内八里」とよばれ、本願寺に「頭料」や野菜類を献納している。天正元年(一五七三)三好長慶の子義継の居城となっていた若江城は織田信長の軍に攻められ、三好の嫡流はここに滅亡した。

〔近世〕

文禄三年(一五九四)当市域でも豊臣秀吉による検地が行われ、日下村・横小路よこしようじ村の検地帳が残る。慶長一九年(一六一四)大坂冬の陣が起こり、一一月一六日に枚岡に一泊した徳川家康は翌日平野郷(現平野区)へ、秀忠は住吉(現住吉区)に陣を構えた。若江郡高井田村には上杉景勝が、稲田いなだ村には榊原康勝が、森河内もりがわち村には本多忠朝が布陣し、同二六日に今福いまふく村・鴫野しぎの(現城東区)で攻防戦が開始された。一二月二二日に講和が成立したが、同二〇年四月に夏の陣が始まった。家康は五月五日に京都を発ち豊浦村に宿陣した。翌六日若江方面に出撃した木村重成は討死し、八日に大坂城も落城した。小坂こさか村一帯は戦火で焼かれ、河内の農村は戦火と農地の荒廃で被害は大きかった。市域は大坂に隣接し、豊臣氏の蔵入地でもあったので、徳川氏の治世になっても幕府領や大坂城代・京都所司代・大坂町奉行就任者の所領などが多く、領主の変遷が実にめまぐるしい村もあった。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳によると幕府領、それに次いで大坂町奉行曾我古祐領が多く、その他、福留(富)・加藤・山岡・竹中・柘植・小林・石河(川)・三好などの各旗本領、大和小泉・山城淀・河内狭山の各藩領がある。幕府領に対する延宝検地後の状態を示す元文二年(一七三七)の河内国高帳では幕府領、前掲村高控帳に載る加藤・小林ほか曾我・松平・石丸などの旗本領、京都代官小堀仁右衛門領・京都所司代土岐頼稔領、淀藩領、絵師狩野家領・枚岡神社領などがある。幕末の状況を示す一村別旧領主并石高では幕府領、京都守護職領、京都所司代松平定敬(伊勢桑名藩)領、京都代官小堀主馬領、旗本領、相模小田原・上野沼田(土岐頼稔が寛保二年入封)・狭山・淀の各藩領、狩野家・枚岡社・葛井ふじい(現藤井寺市)領などがあった。大坂城近辺、ことに東大阪市域には城はもちろん陣屋もなく、このような所領配置は幕府の要地防衛策の表れであろう。

当市域は付替え以前の大和川流域を占める。大和川は大阪平野に入ると恩智川・玉串川・楠根くすね川・長瀬川・平野川に分流、玉串川はさらに吉田よした川・菱江ひしえ川に分れていた。このうち、長瀬川が約二〇〇メートルと最も川幅が広く、かつては平野川も植松うえまつ(現八尾市)付近で長瀬川から分流していたので、長瀬川が大和川の主流であったと考えてよい。玉串川水系は典型的な天井川で、地図を見ると、氾濫を繰返し何度か流路を変えた痕跡が読みとれる。大和川は一七世紀には六五年間に一二回の洪水を起こし、そのうち玉串川水系の洪水が八回に及ぶ。沿岸の住民は洪水の被害に苦しんだので、吉田川左岸にある今米いまごめ村の九兵衛、その子太兵衛・甚兵衛が大和川の付替えを何度も幕府に嘆願し、甚兵衛の努力で、元禄一六年(一七〇三)ついに幕府も付替工事断行を決定した。翌宝永元年(一七〇四)二月に着工、一〇月に完工し、大阪平野を西流して大阪湾に流出するようになった。市域を流れていた各川は従来どおり大和川から取水したが、水量が減少したため川床やこれらの河川が流入していた新開池の池床は新田として開発されることになった。町人・寺院・農民らが入札し、落札者が幕府に地代を納めて開発を行った。大和川付替えによってもとの大和川筋の村々は洪水の難より免れたが、水量の減少で農業用水に困り、わずかの日照りにも干害になった。それまで川の用水に頼っていたため溜池がなく、井戸による灌漑を行わざるをえなかった。宝永以前は稲八分・綿二分であった荒本村は、宝永以降稲二分・綿八分になったという。また集中豪雨の時には狭くなった川が排水できず溢水することがあった。村々では村境に堤や杭を打ち土俵を積んで水を防ぐ設備を自普請で作っていた。これらの施設を内除堤・請堤・縄手といった。長瀬川も宝永以降は川幅約七メートルとなり水量も減少したので、宝永二年に一〇〇艘を認可された井路川剣先船も、明和四年(一七六七)頃には七一艘になった。楠根川・恩智川・寝屋川を航行した在郷剣先船も元禄五年に七三艘であったが、享保五年(一七二〇)には二五艘になっていた。

田畑はもと大和川の氾濫原であったため湿田が多く、田方は稲の一毛作が多かった。また干害を避けるために早稲を多く作るのが普通であった。麦は裏作で年貢がかからなかったため、年貢米として多くの米を納めたり綿作の盛んな所では、麦は重要な食料で大いに作られた。綿作地域は生駒山地西麓の扇状地ともとの大和川筋に分けられる。扇状地は保水性が悪いため水田には適しない。元禄二年生駒西麓の東高野街道を歩いた貝原益軒は、「南遊紀行」の中で「河内国は木綿を多くうゝ、山の根辺殊におほし、畠持たる者は余の物を作らず、悉くきわたをうゝると云」と記している。もとの大和川筋の綿作は半田(掻揚田・高田)と関係が深い。湿田の土を二尺ほど掻揚げて畦をつくり、一畦から数畦の間を水田にする耕地形態で、灌漑用水不足の地での稲作と、低湿地での綿作を同時に可能にした。中河内の若江・渋川両郡のほぼ全域、河内・高安・志紀各郡と摂津国住吉郡でみられ、大蔵永常の「綿圃要務」に詳しく記される。大和川付替え以後、綿作の増加した村も多く、一例を示すと、楠根川筋荒本村では寛延三年(一七五〇)には田方の六四パーセント、畑方の九六パーセントが綿作で、全体の七七パーセントに相当した。大坂周辺で最も綿作が盛んであったといわれる摂津国住吉郡平野郷の宝暦七年(一七五七)の七〇パーセントを上回る数字である。また菱江川の川床を開発した菱屋東ひしやひがし新田の同三年差出明細帳(岩崎太郎家文書)には「当新田之儀は皆畑、皆木綿作ニ付、稲毛少も無御座候」とある。「堤中納言物語」の諸国の名産をあげた中に、「若江の郡のかうち(河内)蕪」がある。また先述したように、市域の村々から石山本願寺に大根・牛蒡・菜・芹・大豆などの野菜を納めていたことが「天文日記」にみえ、近世にも多くの野菜を栽培していたと考えられる。これらの野菜は昭和一〇年代まで河内の農村で広く作られていた。

商品として最重要品は木綿で、綿作の発展した河内郡・若江郡・渋川郡の各村の明細帳には、必ずといっていいほど「農業作間ニハ男女共もめん稼仕候」と記される。生駒山地西麓の木綿は「南遊紀行」に「此辺、もめんを多く織りいだす、山根木綿とて、京都の人、是を良とす」とあるように良質であった。農家の生産した木綿を寄屋よせやや仲買が買集めた。宝暦五年には恩智村(現八尾市)を中心とする仲買の「山の根き組」に六万寺村・四条しじよう村・横小路村から参加しており、同一三年には久宝寺きゆうほうじ(同上)を中心とする久宝寺組に衣摺村・柏田村・蛇草村・大蓮おばつじ村からも参加していた(西岡家文書)。また、天保一二年(一八四一)に菱江川・吉田川付近の木綿寄屋二八軒が大坂の上町組毛綿仲買組仲間に対し、他所へは売らない旨を誓約した(大阪木綿業誌)。生駒山地西斜面のくるま谷・辻子ずし谷・鷲尾わしお谷・長尾ながお谷・地蔵じぞう谷などの谷川では水車が発達し、水車を利用して製米・製麦・製粉・絞油が行われた。この地域特有のものとしては、芝村・額田村の線香、芝村・神並村の胡粉、神並村・額田村の薬、神並村の鉄針金製造、額田村の真鍮針金の賃引がある。河内郡は東に山があるので、柴・薪つくりや杣・木挽が余業として盛んであった。また、渋川郡の太平寺村・荒川あらかわ村・さん村・長堂ちようどう村・東足代ひがしあじろ村・岸田堂きしだどう村では、余業として菅笠作りが行われていた。

重要な交通路には生駒山西麓を南北に通る東高野街道と、大坂から奈良に向かうくらがり峠越奈良街道がある。明暦元年(一六五五)奈良街道に松原まつばら宿が設けられた。また、十三じゆうさん街道が東足代で奈良街道から分岐して南東に向かう。

〔近現代〕

江戸時代多様な領主配置のもとにあった当市域は、近代以降も幾多の変遷を経て昭和一二年(一九三七)四月に布施市(おもに長瀬川流域)、同三〇年一月に河内市(おもに玉串川水系流域)と枚岡市(おもに生駒山地西麓)が誕生。同四二年二月にこの三市が合併して東大阪市となった。第二次世界大戦後市域への工場進出はめざましく、府下の東部工業地帯の一中心地となった。また近郊農業が盛んで、近畿日本鉄道沿線を中心に宅地化も進んでいる。市域は古代以来低湿地で水害には悩まされてきたが、昭和二七年の集中豪雨では大きな被害を受けた。この前後から本格的な治水対策事業が始まり、生駒山系の砂防工事、寝屋川水系の排水機能の強化を図り、楠根川を中心とする諸川の整備が行われた。



世界大百科事典

東大阪[市]
ひがしおおさか

大阪府東部,大阪市の東に隣接する市。1967年布施市(1937市制),河内(かわち)市(1955市制),枚岡(ひらおか)市(1955市制)が合体,改称。人口50万9533(2010)。大阪~奈良間の最短コースとして知られた暗越(くらがりごえ)奈良街道と東高野街道の交点にあたり,古くから交通の要衝であった。西部の布施,中部の河内は旧大和川が北流して淀川に合流していたため,低湿地が多かったが,1704年(宝永1)大和川の付替工事によって新田開発が進み,綿作が盛んになった。明治中期以降は,綿に代わって野菜,花卉が栽培された。1914年に大阪電気軌道(現,近鉄)奈良線が,24年に同大阪線が開通して以後,大阪市寄りの布施を中心に商工業が発達し,都市化が始まった。一方,東部の枚岡では生駒山麓の渓谷で近世以降水車を利用して胡粉(ごふん)製造,搾油,石加工などが行われた。また古くからの伸線工業(鉄線,針金など)は,現在は電力を使用し,全国的に高いシェアをもっている。そのほか,撚糸,鋳物,作業工具などの地場産業に加え,1930年代ころから金属,機械,化学を中心とした工場も増加している。中央環状線,外環状線,築港枚岡線,近畿自動車道などの道路が市域を通るため,近年,沿線にトラックターミナル,倉庫,卸売施設をもつ東大阪流通センターが造成され,機械卸業団地,紙・文具流通センターなどがセンター内に立地した。

 市域には縄文時代の日下貝塚,弥生時代の瓜生堂(うりゆうどう)遺跡,ほとんどが円墳からなる山畑古墳群などがあり,南北に走る東高野街道沿いには条里制の地割りがみられる。また河内国一宮の枚岡神社や式内社の石切剣箭(いしきりつるぎや)神社があり,市内から出土した遺物を展示する市立郷土博物館もある。
[秋山 道雄]

[索引語]
布施市 河内(かわち)市 枚岡(ひらおか)市 東大阪流通センター
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9. あかいむら【赤井村】大阪府:大東市地図
日本歴史地名大系
・浜町・太子田一丁目・同三丁目・氷野一―四丁目・大東町・南郷町 氷野村の南にあり、新開池(現東大阪市)・深野池干拓以前は、両池を結ぶ吉田川(深野川)の北岸にあた
10. あがたごう【英多郷】大阪府:河内国/河内郡
日本歴史地名大系
「延喜式」神名帳にみえる河内郡の津原神社は市場に鎮座する。現在、福万寺の地は八尾市、それより北は東大阪市に属する。「日本書紀」清寧天皇前紀にみえる河内三野県主小
11. あじろのしょう【足代庄】大阪府:東大阪市/旧布施市地区/東足代村
日本歴史地名大系
本所の大乗院門跡に訴えを起こしている(「大乗院寺社雑事記」同年同月一六日・一八日条)。なお、現東大阪市足代一丁目にある石地蔵には永禄五年(一五六二)一〇月二四日
12. あだち・きよはる【足立清春】[現代人名-シテ方]
能・狂言事典
観世流 東大阪市 1910‐1982 1975 大西信久に師事
13. あまりべごう【余戸郷】大阪府:河内国/渋川郡
日本歴史地名大系
永和(明治六年長堂・横沼・三ノ瀬の三村が合併して成立)・荒川・高井田(高井田は近世には若江郡所属)の諸村(現東大阪市)の地域となる。式内鴨高田神社は高井田、式内
14. 天児屋命
日本大百科全書
つれて、この神が割り込んできたとみるべきである。春日かすが大社(奈良市)、枚岡ひらおか神社(東大阪市)などに祀まつられている。守屋俊彦
15. あらかわむら【荒川村】大阪府:東大阪市/旧布施市地区地図
日本歴史地名大系
[現]東大阪市荒川一―三丁目・荒川・永和一―三丁目 渋川郡に属し、若江郡高井田村の南にある。東は枝郷横沼村、北西は同長堂村、西は東足代村と当村枝郷三ノ瀬村。北西
16. あらもとむら【荒本村】大阪府:東大阪市/旧布施市地区地図
日本歴史地名大系
[現]東大阪市荒本西一―四丁目・荒本新町・荒本など 若江郡に属し、菱江川左岸の自然堤防上にある。南は暗峠越奈良街道を境に岩田村。平坦な地で、条里制の坪名の一ノ坪
17. あんようじ【安養寺】大阪府:東大阪市/旧枚岡市地区/四条村地図
日本歴史地名大系
[現]東大阪市四条町 浄土真宗本願寺派、山号大龍山、本尊阿弥陀如来。草創に関する確たる史料はないが、室町時代に四条村の惣道場として開かれたようで、寺地は旧村域の
18. いいもりじょうあと【飯盛城跡】大阪府:大東市/北条村地図
日本歴史地名大系
三人目は三木判太夫殿であった」という。三ヶ伯耆とは三箇城主の三ヶ伯耆守頼照、池田丹後は若江城(現東大阪市)に拠る若江三人衆の一人池田丹後守教正(のち八尾城主とな
19. いくのく【生野区】大阪府:大阪市地図
日本歴史地名大系
面積:八・二四平方キロ 市域東部に位置し、東は東大阪市、北は東成区、西は天王寺区、南は東住吉区・平野区と接する。南西部には南方の堺方面から続く我孫子台地が延び、
20. 池島・福万寺(いけしま・ふくまんじ)遺跡[考古学]
情報・知識 imidas
大阪府東大阪市池島町から八尾市にかけての地域にある縄紋時代晩期から近代に至る遺跡。従来、弥生時代以後の多くの水田が見つかっていたが、大阪府文化財センターが調査
21. いけだひろし【池田廣司】[人名]
能・狂言事典
1922(大正11)・9・19‐1994(平成6)・8・19中世文学研究者。狂言研究家。東大阪市生れ。一九四八年(昭和二三)東京教育大学卒業。同大学助手、和光大
22. いけのしまむら【池ノ島村】大阪府:東大阪市/旧枚岡市地区地図
日本歴史地名大系
[現]東大阪市池島町一―八丁目・新池島町一―四丁目 六万寺村・横小路村などの西、生駒山地西麓の扇状地と恩智川の間にある。やや東が高くなった平坦地で低湿地が多く、
23. いこまさんち【生駒山地】大阪府:総論地図
日本歴史地名大系
るので、この男山丘陵まで生駒山地に含める場合もある。山地の主峰は生駒山(六四二・三メートル、東大阪市と奈良県生駒市の境)であるが、ほかに飯盛山(三一四・三メート
24. いこまやま【生駒山】
全文全訳古語辞典
[山名]奈良県生駒市と大阪府東大阪市との境にある山。大和と河内を結ぶ要路であった。「いこまのたけ」とも。歌枕。 伊勢物語 二三 筒井筒(5) 「こころうがる」君
25. いこまやま【生駒山】奈良県:生駒市
日本歴史地名大系
表記がある。古代には現生駒山地を総称してイコマの山といったと考えられる。西麓には日下貝塚(現東大阪市)を代表とする弥生時代の集落遺跡が点在、東麓は大和からみれば
26. 石切
日本大百科全書
大阪府中東部、東大阪市の一地区。生駒いこま山地の西麓せいろく、辻子谷ずしだにの扇状地に位置する。地名は生駒山の石(生駒石)を切り出したことに由来し、大坂城築造の
27. 石切神社
日本大百科全書
東大阪市東石切町に鎮座。石切剱箭つるぎや神社とも称し、宮山に上ノ宮(奥ノ院)がある。饒速日尊にぎはやひのみことと可美真手命うましまでのみことを祀まつる。創建年代
28. いしきりつるぎやじんじゃ【石切剣箭神社】大阪府:東大阪市/旧枚岡市地区/芝村地図
日本歴史地名大系
[現]東大阪市東石切町一丁目 生駒山西麓に位置し、少し西に下ると東高野街道が南北に走る。「延喜式」神名帳に載る河内郡の小社「石切劔箭命神社二座」に比定される。現
29. いしごりでら【石凝寺】
国史大辞典
行基が養老四年(七二〇)河内国河内郡早(日下、くさか)村に建立。四十九院の一つ(『行基年譜』)。遺跡は東大阪市日下にあり、昭和三十六年(一九六一)建築基壇(瓦積
30. いずみのくに【和泉国】大阪府地図
日本歴史地名大系
という氏族伝承をもつ。このほか、安閑天皇元年一〇月条には、安閑がその妃香香有媛に桜井屯倉(現東大阪市または富田林市)を与えたとある文の分注に茅渟山屯倉を与えたと
31. いずもいむら【出雲井村】大阪府:東大阪市/旧枚岡市地区地図
日本歴史地名大系
[現]東大阪市出雲井町・出雲井本町・鳥居町・豊浦町・東豊浦町・五条町・喜里川町 生駒山地西麓の扇状地上にある。北から西は豊浦村で、西部を東高野街道が南北に通る。
32. いちばむら【市場村】大阪府:東大阪市/旧河内市地区地図
日本歴史地名大系
[現]東大阪市玉串町東一―三丁目・玉串元町一―二丁目・花園東町一―三丁目・花園本町一―二丁目 玉串川が吉田川と菱江川に分れる地点の南にあり、きわめて平坦な地。河
33. いなだむら【稲田村】大阪府:東大阪市/旧布施市地区地図
日本歴史地名大系
[現]東大阪市稲田・楠根一―三丁目・七軒家一―二丁目など 若江郡に属し、新開池に開発された橋本新田の南にある。大和川付替えまでは菱江川・楠根川が村の西部で合流し
34. いなばむら【稲葉村】大阪府:東大阪市/旧河内市地区地図
日本歴史地名大系
[現]東大阪市稲葉一―四丁目・稲葉 若江郡に属し、大和川付替えまでは村の南で玉串川が東の吉田川と西の菱江川に分れており、両川に包みこまれたような地形であった。貞
35. いのらむきこふん【イノラムキ古墳】大阪府:東大阪市/旧枚岡市地区/日下村地図
日本歴史地名大系
[現]東大阪市日下町八丁目 近鉄奈良線石切駅の東北一・一キロ、標高三六〇メートルの尾根の頂上に単独で存在する。一辺約一五メートルの方墳と推定され、墳丘の西側斜面
36. いまごめむら【今米村】大阪府:東大阪市/旧河内市地区地図
日本歴史地名大系
[現]東大阪市今米 河内郡に属し、北は若江郡加納村。建長四年(一二五二)六月三日の藤原康高処分目録案(水走文書)に「河内郡八条曾禰崎里卅六町内」の四至としてみえ
37. いまづむら【今津村】大阪府:大阪市/鶴見区地図
日本歴史地名大系
徳庵川が西流、同川堤上を古堤街道が通る。宝永元年(一七〇四)の大和川付替え以前は、東方新開池(現東大阪市)より流出した水が村の南東境を流れ、楠根川・長瀬川を合流
38. 今西祐行
日本大百科全書
児童文学者。東大阪市生まれ。1942年(昭和17)早稲田わせだ大学仏文科入学。早大童話会に入る。翌年学徒出陣で海軍に入隊。1945年被爆直後の広島へ救援隊として
39. いわたむら【岩田村】大阪府:東大阪市/旧河内市地区地図
日本歴史地名大系
[現]東大阪市岩田町一―六丁目・西岩田一―四丁目・花園西町一丁目・瓜生堂一―三丁目・若江西新町一丁目 若江郡に属し、下若江村の北にある。大和川付替えまでは北東の
40. うえつけむら【植付村】大阪府:東大阪市/旧枚岡市地区地図
日本歴史地名大系
[現]東大阪市西石切町一―七丁目・中石切町一丁目など 北は芝村、西は恩智川を隔てて水走村。東の生駒山地から流出する音川の扇状地端にあり、東部を古代南海道の後身東
41. うま【馬】画像
国史大辞典
弥生時代の名古屋の熱田(高蔵)貝塚出土の馬骨による馬の身長は一三六センチ前後とみられ、大阪府東大阪市の日下貝塚出土の馬骨も身長一三〇センチ前後とみられている。鎌
42. うらだ‐まつり【卜田祭】
日本国語大辞典
〔名〕大阪府東大阪市の枚岡(ひらおか)神社で正月一五日に行なう祭礼。大釜を社前に据えて小豆粥(がゆ)を煮、これを神に供えて五穀豊穰を祈念した後で、釜の上に掛けて
43. うりうどういせき【瓜生堂遺跡】大阪府:東大阪市/旧河内市地区/岩田村地図
日本歴史地名大系
[現]東大阪市瓜生堂一―二丁目・若江西新町一帯 河内の平野部のほぼ中央低地に位置する。弥生時代前期に始まる集落跡で、昭和四〇年(一九六五)多量の土器や青銅器が発
44. 瓜生堂遺跡
日本大百科全書
大阪府東大阪市瓜生堂に所在する弥生やよい時代の集落跡。河内かわち平野の中央低地に位置し、現地表下3~4メートルに埋没している。弥生時代前期の住居跡、水田跡、中期
45. 瓜生堂遺跡
世界大百科事典
東大阪市瓜生堂および若江西新町一帯に所在する弥生時代の集落遺跡。1965年中央環状線建設に先立つ工業用水管埋設工事によって発見され,以後,数次の調査の結果,住居
46. うりゅうどういせき【瓜生堂遺跡】
国史大辞典
大阪府東大阪市瓜生堂から同市若江西新町にかけて所在する弥生時代前期から平安時代にかけての複合遺跡。河内平野を北流する長瀬川と玉串川にはさまれた旧河内湖南岸の沖
47. うりわりいせき【瓜破遺跡】大阪府:大阪市/平野区/東瓜破村地図
日本歴史地名大系
はじめ、多くの土器・石器・木器などが検出されている。河内の平野部の遺跡では、八尾市の亀井遺跡や東大阪市の巨摩廃寺遺跡からも貨泉が出土しており、これらの遺跡との関
48. うれしのしょう【宇礼志庄】大阪府:富田林市/嬉村
日本歴史地名大系
謹給預候了」と述べ、野宮雑事について国司に尋ねて子細を言上するとしている。これより以前の西岸寺(現東大阪市)蔵大般若経巻四六五の大治四年(一一二九)五月九日付奥
49. うんさいおり【雲斎織】
国史大辞典
第二次世界大戦後衣生活の変化から足袋需要が減少し雲斎織の生産も縮小され、昭和四十五年(一九七〇)には東大阪市の山仁厚織株式会社と岡山県二~三工場、徳島県一工場が
50. 江戸っ子1号
日本大百科全書
杉野ゴム化学工業所(東京都葛飾かつしか区)の社長杉野行雄ゆきお(1949― )が2009年(平成21)に発案。東大阪市の中小企業が打上げに成功した人工衛星「まい
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井伊谷村(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。現引佐町の南部、井伊谷川に神宮寺(じんぐうじ)川が合流する小盆地に立地する。「和名抄」にみえる引佐郡渭伊(いい)郷の中心をなしていたという。渭伊は井からの転化とされ、井水を神聖視する聖水祭祀を行ってきた豪族が栄えた地という
中京区(京都市)(日本歴史地名大系)
面積:一二三・三二平方キロ 京都市の中央部に位置し、北は丸太町通北及び二条城北側を回って千本通西側を境として上京区に接し、東は鴨川を境に東山区及び左京区に、南は四条通北及び大宮通以西では松原通を境に下京区に、西は北側が西小路通西、南側が西大路通東を境に右京区に接する。
大東町(静岡県小笠郡)(日本歴史地名大系)
面積:四五・九九平方キロ 小笠郡の西部にあり、南は遠州灘に面し、北は掛川市・袋井市、西は大須賀町、北東は菊川町、東は小笠町・浜岡町に接する。町の北西は小笠山丘陵、北東は牧之原台地丘陵部の一部から構成され、海岸部は天竜川の運んだ砂が堆積して砂丘地帯を形成している。
浜松市(静岡県)(日本歴史地名大系)
面積:二五六・七四平方キロ 県西部、遠州灘に面する。東は天竜川を挟み磐田郡竜洋町・豊田町、磐田市、北は浜北市、引佐郡引佐町・細江町、西は浜名郡雄踏町・舞阪町に接するほか、浜名湖に面する。市域西部から北部には洪積台地の三方原台地が広がる。南部は遠州灘に臨む海岸平野で
鳳来町(日本歴史地名大系)
面積:二六五・五五平方キロ 県の東部に位置し、北は北設楽郡設楽町・東栄町、東は静岡県磐田郡佐久間町・天竜市・引佐郡引佐町、南は引佐郡三ヶ日町、新城市、西は作手村に接する。町の東部、静岡県との境は、赤石山脈の支脈の弓張山脈で、西には木曾山脈の末端が連なる。町のほぼ中央の
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五島列島(日本歴史地名大系・世界大百科事典)
長崎県の西部にある列島。平戸島より南西方に連なる島々は一四一を数え、面積六三六平方キロで、常住島は三〇にとどまる。中通(なかどおり)島(面積一六八・三二二平方キロ)・若松(わかまつ)島(三一・五四二平方キロ)・奈留(なる)島(二三・八九五平方キロ)
東大阪市(日本歴史地名大系・世界大百科事典)
面積:六一・七二平方キロ河内地方の中央東部に位置し、東部は大和との境をなす生駒山地と、西麓の傾斜地・扇状地からなり、金剛生駒国定公園の一部を占める。中央部は恩智(おんぢ)川・玉串(たまくし)川、西部は第二寝屋川・長瀬(ながせ)川流域の沖積低地を市域と
沖縄(県)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
旧琉球王の支配地で、沖縄・宮古・八重山の三郡島からなり、六十余島が散在している。主島は沖縄本島。沖縄は島民の固有語で、琉球は中国名である。「おきなわ」の語の文献上の初見は、宝亀十年(七七九)鑑真の弟子思託の手記に基づいて、淡海三船が撰述した
ヤンバル(山原)(日本大百科全書・日本歴史地名大系)
沖縄本島北部地域の呼び名。漢字で「山原」と書く。行政的には大宜味(おおぎみ)、東、国頭(くにがみ)の3村をさすことが多い。世界でもこの地域にしか分布していないキツツキの一種ノグチゲラの生息地として知られていたが、1981年(昭和56)にヤンバルクイナ
気仙沼市(日本歴史地名大系・日本大百科全書・世界大百科事典)
面積:一八四・〇三平方キロ県の北東端に位置し、北から西は岩手県陸前高田(りくぜんたかた)市・東磐井(ひがしいわい)郡室根(むろね)村、南は本吉(もとよし)郡本吉町、東は同郡唐桑(からくわ)町、南東は大(おお)島を含む気仙沼湾を擁して太平洋に臨む
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