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  11. 箱崎

箱崎

ジャパンナレッジで閲覧できる『箱崎』の日本歴史地名大系のサンプルページ

日本歴史地名大系
箱崎
はこざき

宇美うみ川下流の左岸に位置し、博多湾に面している。筥崎宮が鎮座し、本来宮は筥崎、地名などは箱崎と記すのが原則らしいが、史料上は混用されている。「後拾遺往生伝」巻上(上人安尊)によると、応徳―寛治(一〇八四―九四)頃に「筑前国内山寺」(現太宰府市にあった有智山寺)の住僧安尊が「山中之草庵」を辞して「筥崎之松窓」に移っており、この地を別所とした可能性がある。大江匡房の「筥埼宮記」によると筥崎宮は那珂なか郡にある八幡大菩薩の別宮で、「戒定恵」を三つの箱に入れて埋めたという伝承から当地を「筥崎」と称するようになったという。

中世の箱崎は筥崎宮の門前町として発展したのみならず、貿易・商業・軍事的にも重要な地域であった。仁平元年(一一五一)九月二三日に官廷で行われた対問によれば、筥崎・博多で大宰府の目代宗頼の命によって、検非違所別当安清・同執行大監種平・季実らが五〇〇余騎の軍勢を引連れて大追捕を行った。彼らは宋人王昇後家をはじめとする一千六〇〇家の資財・雑物を運び取り、筥崎宮に乱入して神宝物を押取るなどの乱暴を働いた(文治二年八月一五日「中原師尚勘文案」宮寺縁事抄/鎌倉遺文一)。この背景には日宋貿易をめぐる筥崎宮と大宰府の主導権争いがあったとみられる。箱崎津は筥崎宮北側の多々良たたら川河口の湾入部に位置したらしい。「平家物語」巻八によれば大宰府を出た平氏は水城(現太宰府市)から箱崎津に逃げている。「蒙古襲来絵詞」では文永の役の際竹崎季長がモンゴル軍の上陸に備えて箱崎の地にいた。箱崎の石築地築造と異国警固番役は薩摩国御家人が担当しており(正応二年四月五日「島津忠宗覆勘状」川田家文書/鎌二二、元亨四年一二月二日「薩摩日置庄雑掌・地頭代道慶連署和与状」島津家伊作文書/鎌倉遺文三七など)、「異国警固筥崎番役」(弘安四年五月一日「異国警固番役覆勘状」比志島文書/鎌倉遺文一九)ともいわれた。鎌倉時代末期に各地で反鎌倉幕府方の蜂起が続くと、長門探題北条時直の御台以下の女性たちが避難するために船で箱崎津に到着している。同時に門司もじ(現北九州市門司区)に向かう大隅守護桜田師頼らは箱崎津から出発しており(「博多日記」元弘三年三月条)赤間関あかまがせき(現山口県下関市)・門司関と箱崎津を結ぶ航路が存在したことを示す。

建武三年(一三三六)三月、九州に下向した足利尊氏方と南朝の菊池武敏らが激突した多々良浜の戦は筥崎合戦とも称された(同月五日「島津道鑑挙状」旧記雑録/南北朝遺文(九州編)一など)。戦後肥前の御家人深堀氏は「筥崎前浜灯炉堂宿直」や「箱崎内夜廻」を勤仕している(同年六月一〇日「佐竹重義・実之連署奉書」・同年七月一日「時広注進状」深堀文書/南北朝遺文(九州編)一など)。応永二七年(一四二〇)には朝鮮回礼使宋希〓が、博多妙楽みようらく寺の無涯亮倪とともに箱崎の松亭を見学している。その際宋希〓箱崎浜を、「西は大海に浜して平堤は閑広たり。中に雑樹なく、唯だ白沙青松のみ。これを名づけて青松亭と曰う」(原漢文)と評した(老松堂日本行録)。康正二年(一四五六)一一月には大内氏によって、門松や祇園会に筥崎松を伐採・使用することが禁止されている(「大内氏奉行人連署奉書」田村文書/筥崎宮史料)。応仁元年(一四六七)筑前で少弐教頼が挙兵して大内氏に対抗した際、大内方の武士が箱崎津に到着している(四月二七日「大内政弘感状」大内氏実録土代/大日本史料八―二)。この頃の遣明船は大量の朝貢品・貿易品を調達する必要があり、箱崎には重要貿易品であった硫黄が保管されていた(戊子入明記)。文明一〇年(一四七八)一〇月一七日、博多に在陣していた大内政弘は「京都御礼已下御用」のために博多と同様「筥崎地下」に対して一千貫文を賦課し、箱崎の住人たちは進納すべき旨の請文を提出している(正任記)

応仁元年筥崎津寄住の藤原孫右衛門尉安直と藤原兵衛次郎直吉が、朝鮮人漂流民を送還することで朝鮮に使いを派遣している。直吉は博多商人藤原信重の兄の子とされている(海東諸国紀)。天正一五年(一五八七)豊臣秀吉は箱崎の地で、博多の神屋宗湛や島井宗室らと茶会などを催している(「宗湛日記」同年六月二六日条など)。なお明代に成立した中国の兵法書「武備志」や「日本風土記」には「法哥〓機」として表記されている。当地域には多数の板碑が存在する。米山よねやま弁財天社には至徳二年(一三八五)七月日の板碑など八基、勝楽しようらく寺には永和四年(一三七八)四月八日の年紀を有するものなど五基がある。米一丸よねいちまる地蔵堂には嘉元元年(一三〇三)一一月日の年紀を有するものなど一九基の板碑があり、一角にある九重塔とともに石造九重塔(附伝米一丸墓石および境内板碑群)として県指定文化財。なお米一丸墓には米一丸と妻にまつわる悲運の伝説があるが(続風土記)、伝説と板碑は無関係。勝軍地蔵しようぐんじぞう堂には貞和二年(一三四六)七月一五日の年紀を有する板碑など四八基がある。堂内の地蔵菩薩像とともに石造地蔵菩薩坐像(附境内板碑群一括)として県指定文化財。



箱崎 福岡県 旧区群域・現群市区町村域対照図
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検索コンテンツ
1. 箱崎画像
日本大百科全書
流通センターの役割を果たしている。JR鹿児島本線と市営地下鉄箱崎線が通じ、地下鉄は貝塚駅で西日本鉄道貝塚線と接続している。また、福岡都市高速1号の箱崎入口がある
2. はこざき【箱崎】
日本国語大辞典
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3. はこざき【箱崎】
国史大辞典
商業や貿易で栄えた。近世には箱崎村と箱崎浦に分かれた。博多から東にのびる街道の宿場町ともなり、藩主の本陣も置かれた。近世初期の石高は二千五百八十四石余。明治二十
4. はこざき【箱崎】宮城県:石巻市/湊村
日本歴史地名大系
[現]石巻市八幡町一丁目 牧山西麓の突出部。箱崎山は古来湊村の景勝の一つとして知られ、別称は五松山。箱崎山丘陵端に石灰岩洞窟三ヵ所が確認されていたが、昭和一二年
5. はこざき【箱崎】福岡県:福岡市/東区/箱崎村
日本歴史地名大系
めに船で箱崎津に到着している。同時に門司関(現北九州市門司区)に向かう大隅守護桜田師頼らは箱崎津から出発しており(「博多日記」元弘三年三月条)、赤間関(現山口県
6. はこざき【箱崎】[能曲名]
能・狂言事典
神宮皇后が三学の経文を納めた箱を箱崎の松原に埋めたことから箱崎宮が生まれたという説話(「八幡愚童訓」など)を軸に、八幡大菩薩(神宮皇后の子、応神天皇)の神詠「箱
7. 箱崎(著作ID:411701)
新日本古典籍データベース
はこざき 謡曲 能の本 
8. はこざきがわ【箱崎川】東京都:中央区/旧日本橋区地区/浜町三丁目
日本歴史地名大系
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9. はこざきごう【箱崎郷】長崎県:壱岐郡/芦辺町
日本歴史地名大系
遺)に「箱崎八幡宮箱崎郷」とみえ、同郷六四町のうち七町が宮地村(新庄の内、現勝本町)・江角村・赤崎・諸津・中山村・瀬戸浦であった。文明三年(一四七一)の箱崎八幡
10. はこざきじんじゃ【箱崎神社】鹿児島県:伊佐郡/菱刈町/入山村
日本歴史地名大系
[現]菱刈町市山 下市山の市山川南岸にある。祭神は応神天皇。旧村社。かつては箱崎八幡宮と称した。社地のある入山村は筥崎宮(現福岡市東区)の神領で(大隅国建久図田
11. 箱崎町
日本大百科全書
東京都中央区東端の町名。正しくは日本橋箱崎町。江戸時代は霊岸(れいがん)島と中州(なかす)(隅田(すみだ)川河口部)に挟まれて河口に一島をなしていたが、徳川家康
12. はこざきちよういつちようめ【箱崎町一丁目】東京都:中央区/旧日本橋区地区地図
日本歴史地名大系
丁」と記される。箱崎の地名由来には二説あり、一つは筑前箱崎(現福岡市東区)にちなむとするもので、同地には八幡(現東区筥崎宮)の祭礼の際に神輿が来たといい、その例
13. はこざきちようさんちようめ【箱崎町三丁目】東京都:中央区/旧日本橋区地区地図
日本歴史地名大系
[現]中央区日本橋箱崎箱崎町二丁目の東にある。明治五年(一八七二)旧三河吉田藩(豊橋藩)松平氏下屋敷、旧下総古河藩土井氏中屋敷を合せて起立した。松平氏下屋敷
14. はこざきちようにちようめ【箱崎町二丁目】東京都:中央区/旧日本橋区地区地図
日本歴史地名大系
[現]中央区日本橋箱崎箱崎町一丁目の東にある片側町。享保一八年(一七三三)久世堀から東を永久橋まで埋立て新地町屋が立てられ、箱崎町二丁目となった(沿革図書)
15. はこざきちようにちようめうらがしうめたてち【箱崎町二丁目裏河岸埋立地】東京都:中央区/旧日本橋区地区地図
日本歴史地名大系
[現]中央区日本橋箱崎箱崎町二丁目の西に位置し、箱崎川に面する。天明(一七八一―八九)頃箱崎川を埋立て形成された(沿革図書)。安永三年小間附町鑑に記載される
16. はこざきちようよんちようめ【箱崎町四丁目】東京都:中央区/旧日本橋区地区地図
日本歴史地名大系
[現]中央区日本橋箱崎箱崎町三丁目の東にある。明治五年(一八七二)起立。幕末には三卿の田安家が下屋敷を構えていた。北は箱崎川、東と南は大川(隅田川)に面する
17. はこざき の 松原(まつばら)
日本国語大辞典
福岡市東区箱崎の海岸にあった松原。博多湾に面する景勝地として古歌に多く詠まれた。九州大学構内、筥崎宮の境内にその一部が残る。千代の松原ともいう。
18. はこざきはちまんじんじゃ【箱崎八幡神社】鹿児島県:出水市/上知識村
日本歴史地名大系
[現]出水市上知識町 江戸時代の上知識村の南部、米ノ津川の左岸に位置する。祭神は誉田和気命・息長足姫命・高良玉垂命の三神で(出水風土誌)、旧村社。明治維新までは
19. はこざき‐まつり【箱崎祭・筥崎祭】
日本国語大辞典
〔名〕福岡市東区箱崎にある筥崎宮の例祭。九月一五日(古くは陰暦八月一五日)に行なわれる。《季・秋》*俳諧・誹諧初学抄〔1641〕中秋「箱崎祭 八月一五日也。筑前
20. はこざきむら【箱崎村】岩手県:釜石市
日本歴史地名大系
「参考諸家系図」箱崎氏の譜に、元禄一〇年(一六九七)「願ニ依テ百石ノ換地ヲ閉伊郡箱崎村一円ニ賜フ、命アリテ箱崎氏ニ改ム」とみえ、以来箱崎氏の知行地となった。「邦
21. はこざきむら【箱崎村】福島県:伊達郡/伊達町
日本歴史地名大系
愛宕神社の例大祭に奉納される箱崎の獅子舞は、県指定重要無形民俗文化財。室町時代末期、農地を荒す野獣を追払うために始められたと伝える。真言宗豊山派の福厳寺がある。
22. はこざきむら【箱崎村】福岡県:福岡市/東区
日本歴史地名大系
・宮前町・網屋町浦分など。箱崎浦と原田村を含む箱崎村の戸数六二三・人数三千一六七。馬一八三、人力車二・荷車三、小船一・漁船七八・小漁船九。なお同書は戸数について
23. はこざきむら【箱崎村】長崎県:壱岐郡/芦辺町
日本歴史地名大系
[現]芦辺町箱崎・瀬戸浦 国分村の北に位置する広域の村。西部以外は玄界灘に臨み、南西部を谷江川が流れ瀬戸浦の入江に注ぐ。根柢山に箱崎八幡宮が鎮座し、「延喜式」神
24. 箱崎釜破故(著作ID:411712)
新日本古典籍データベース
はこざきかまはこ 雑史 
25. 箱崎物狂(著作ID:411723)
新日本古典籍データベース
はこざきものぐるい 謡曲 能の本 
26. 特集 おまかせ投資 投資の12達人に聞く「わが運用哲学」 ラッセル・インベストメント 箱崎真紀子
週刊エコノミスト 2019-20
<ラッセル・インベストメント 箱崎真紀子・シニアポートフォリオマネージャー>  ◇複数の運用会社を組み合わせ安定収益  当社が運用するファンドのポートフォリオは
27. 神田上水箱崎町川内潜樋其外共御普請一件(著作ID:4380038)
新日本古典籍データベース
かんだじょうすいはこざきまちかわうちくぐりどいそのほかどもごふしんいっけん 
28. 太平箱崎文庫(著作ID:2976912)
新日本古典籍データベース
たいへいはこざきぶんこ 実録 
29. 筑州箱崎文庫(著作ID:3134563)
新日本古典籍データベース
ちくしゅうはこざきぶんこ 黒田騒動記 実録 
30. 鎧渡柳原/両国柳原/辺図(著作ID:2145155)
新日本古典籍データベース
よろいのわたしやなぎわら/りょうごくやなぎわら/へんず 鎧之渡柳原両国箱崎辺絵図 再板/鎧渡柳原両国柳原辺図 地図 嘉永六刊
31. TCAT【2019】[欧文略語【2019】]
現代用語の基礎知識
東京シティエアターミナル。ティーキャット 。中央区箱崎にある。
32. あかさか【赤坂】福岡県:福岡市/中央区
日本歴史地名大系
良浜の近隣とされている。永禄一一年(一五六八)の大友氏と毛利氏の抗争の時、大友氏の三老が博多、箱崎(現東区)に陣を取ろうとしたが、博多の那珂川が大水を出したので
33. あかじじようあと【赤司城跡】福岡県:三井郡/北野町/赤司村
日本歴史地名大系
勤めたという。のち大友氏に従った赤司氏が城主となったが、永禄一二年(一五六九)に赤司資清が筑前国箱崎(現福岡市東区)で戦死したため(同書)、同年戸次鑑連が当城を
34. 赤間
日本大百科全書
)となる。古来、鹿児島街道など主要道路が通過、江戸時代には木屋瀬(こやのせ)(北九州市)から、箱崎(はこざき)(福岡市)に通じる街道と、芦屋(あしや)(遠賀(お
35. 芦辺画像
日本大百科全書
旧芦辺町は1955年(昭和30)田河(たがわ)町(1947年町制)と那賀(なか)村が合併して成立。1956年箱崎村を編入。2004年(平成16)郷ノ浦(ごうのう
36. あしべうら【芦辺浦】長崎県:壱岐郡/芦辺町
日本歴史地名大系
用案詞、弘化五年(一八四八)以降の海通丸作事帳、嘉永七年(一八五四)以降の万覚帳や諸吉村海図・箱崎村境場図などが伝蔵されていた(現在長崎図書館が所蔵)。文政九年
37. あしべちょう【芦辺町】長崎県:壱岐郡
日本歴史地名大系
北岸の瀬戸浦と南岸の芦辺地区に分けられ、明治二三年当時は壱岐捕鯨会社が箱崎村を漁場の拠点としていた(長崎県編「漁業誌」)。昭和二四年八幡浦・箱崎・田河町・芦辺の
38. あじきかし【安食河岸】千葉県:印旛郡/栄町/安食村地図
日本歴史地名大系
公儀や諸家の通行では通船役を負担したとある。文化八年の十組奥川積問屋場所付(東京都立中央図書館蔵)では江戸箱崎町の竜ヶ崎屋、同小網町長島屋・加田屋の持場河岸にな
39. 油座
世界大百科事典
地位を確保していた。ほかに油座は山城国大山崎,摂津国木野,近江国建部,駿河国今宿,筑前国博多(箱崎八幡宮を本所とする油座)など各地にみられたが,なかでも石清水八
40. あめすくい【雨掬】[方言]
日本方言大辞典
座方言資料(内田武志)1949 愛媛県周桑郡026日本星座方言資料(内田武志)1949 福岡県箱崎026日本星座方言資料(内田武志)1949
41. あめ‐すくい【雨掬】
日本国語大辞典
静岡県駿東郡・賀茂郡026 岡山県御津郡026 山口県佐波郡026 愛媛県周桑郡026 福岡県箱崎026
42. あゆかわはま【鮎川浜】宮城県:牡鹿郡/牡鹿町
日本歴史地名大系
富士見通しと、大箱崎と駒形山見通しの交差点は夏根の中心で、二月から四月まで赤魚、一〇月から一二月まで根魚・そい・どんこ・あら、一〇月から四月までは鱈がとれ、漁法
43. あらまきむら【新巻村】群馬県:利根郡/新治村
日本歴史地名大系
「荒牧之内十貫文之所」が中沢半右衛門に宛行われている。「加沢記」によると沼田顕泰は三歳の時須川郷箱崎城に居城、その頃池の原に諏訪大明神社を建立したという。寛保二
44. あんこくじ【安国寺】長崎県:壱岐郡/芦辺町/深江村
日本歴史地名大系
持院など四ヵ所の塔頭、寿徳院(深江)・定光寺(湯岳)・大宝院(河北)・妙泉寺(諸吉)・高源寺(箱崎)、正伝庵(池田)・印通寺(印通寺浦)・寿慶院(石田)・西福寺
45. あんさいかし【安西河岸】千葉県:成田市/安西新田地図
日本歴史地名大系
。文化八年(一八一一)の十組奥川積問屋場所付(東京都立中央図書館蔵)によると、竜ヶ崎問屋(江戸箱崎町竜ヶ崎屋宗次郎)の持場であった。安西新田は山城淀藩領であるが
46. いきぐん【壱岐郡】
国史大辞典
風早(勝本町本宮)・可須(同可須)・那賀(芦辺町中の郷)・田河(同諸吉)・鯨伏(勝本町立石)・潮安(芦辺町箱崎)・伊宅(同湯岳)の七郷を記している。『和名類聚抄
47. いきぐん【壱岐郡】長崎県
日本歴史地名大系
このとき二関と一四ヵ所の要害が島内に設置されたといわれ(壱岐名勝図誌)、うち見目関(現勝本町)・箱崎関(現芦辺町)の二関と風本・浦海(現勝本町)・瀬戸(現芦辺町
48. いきのくに【壱岐国】長崎県
日本歴史地名大系
岐神領図(壱岐史拾遺)に国分天満宮領として八ヵ村・六四町、鯨伏郷住吉大神の社領六ヵ所・九四町、箱崎郷八幡大神(以上現芦辺町)領六四町、聖母大明神領七ヵ村・九四町
49. いしだぐん【石田郡】長崎県:壱岐国
日本歴史地名大系
が、敗退を余儀なくされ、日高氏の支配下となった。延徳二年(一四九〇)には波多氏が壱岐島の有力社箱崎八幡宮(現芦辺町)の宝殿を造営している。永禄八年(一五六五)に
50. 石築地
世界大百科事典
,鎌倉幕府の支配が強化される契機ともなった。九州各国は博多湾沿岸を地域別に分担し,香椎は豊後,箱崎は薩摩,博多は筑前・筑後,姪浜(めいのはま)は肥前,生ノ松原(
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面積:二六五・五五平方キロ 県の東部に位置し、北は北設楽郡設楽町・東栄町、東は静岡県磐田郡佐久間町・天竜市・引佐郡引佐町、南は引佐郡三ヶ日町、新城市、西は作手村に接する。町の東部、静岡県との境は、赤石山脈の支脈の弓張山脈で、西には木曾山脈の末端が連なる。町のほぼ中央の
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