古代以来もっとも長い歴史をもつ東アジアの音楽。中国で成立し,朝鮮,日本,ベトナムなどの王朝国家に伝えられ,主として国家的制度のもとで管理,伝承されてきた。中国の雅楽は,〈雅正の楽〉の意で俗楽に対立し,儒教の礼楽思想に基づいて成立,発展したために狭義には天地宗廟の祭祀楽を意味するが,広義には国家,宮廷の儀式や宴饗の楽も含める。狭義の雅楽は古来の雅楽器を用い,堂上登歌(どうじようとうか),堂下楽懸(どうかがくけん)の2種の楽を奏し,八佾(はちいつ)の舞を舞うという一定の形式を有する。朝鮮,ベトナムには中国から狭義の雅楽も伝わったが,日本に伝来した雅楽は唐朝の宮廷俗楽であって,使用する楽器も異なり,儒教に基づく古制の雅楽ではない。
雅楽の起源は太古の祭祀と結びついた歌舞にあるが,雅楽という観念は,春秋時代(前8~前5世紀)に孔子が雅声(雅正の楽)と鄭声(娯楽的で人の耳をよろこばす鄭国や衛国の楽)を区別し,儒教の礼楽として雅声を尊重したことに始まる。戦国時代(前5~前3世紀)には祖先をまつる廟祭楽,天地山川の神をまつる郊祀楽,儀礼宴饗の宴饗楽があり,文武の舞が行われた。舞人ははじめ4人であったが,戦国時代末には12人の六佾の舞が現れた。五声,七声,十二律の音楽理論もしだいに整い,琴(きん),瑟(しつ),鐘(しよう),磬(けい),管,籥(やく),笙(しよう),篪(ち),壎(けん),缶(ふ),柷(しゆく),敔(ぎよ),鼓,編鐘,編磬などの古代雅楽器もひととおりそろい,これらの楽器は材質によって八音(はちおん)(金,石,土,革,糸,木,匏(ほう),竹)に分類された。漢代(前206-後220)に至り,礼楽思想のもとに国家は統治政策の一端として雅楽の制度確立をはかった。雅楽を司る太楽署が設けられ,周制を復活して宗廟,郊祀の楽が制定されて後世の雅楽制度の規範ができあがった。周代にはそれぞれ独立していた器楽,歌,舞は,器楽を歌舞とともに奏するようになり,舞人の数も一佾を8人とし,64人からなる八佾の舞が行われた。
三国時代(3世紀中ごろ)から南北朝(5~6世紀)にかけての混乱期には,西域楽などの流入とともに俗楽が盛んとなり雅楽は著しく衰退した。南北を統一した隋朝(581-619)は雅楽の復興をはかったが,西域楽が宮廷で重視されたために,古制の雅楽は発展しなかった。西域系,朝鮮系の諸楽に中国俗楽を加えた七部伎,のちの九部伎および唐初に完成された十部伎は公式の宴饗楽として用いられたが,雅楽の範囲には入らない。しかしこのころ,楽官鄭訳(ていやく)(540-591)は西域の七調に基づき,七声がそれぞれ主音となって七つの音階(七調)をなし,七調が十二律によって八十四調を生ずるという理論を想定し,これは唐代の雅楽にとり入れられた。
唐朝(618-907)初代高祖は626年(武徳9)祖孝孫に命じて七声十二律八十四調の理論を採用させ,〈十二和之楽〉を制定して郊廟,宗廟,先蚕の祭,殿庭の朝会などに演奏した。のちに玄宗の時,さらに三和を加え,開元雅楽と称する大規模な雅楽を制定した。また太宗,高宗の時に制作された三大舞(〈七徳舞〉〈九功舞〉〈上元舞〉)以後,同様の宴饗楽が多く作られ,14曲よりなる二部伎(立部伎,坐部伎)の制定に至った。これは,西域系や中国俗楽の楽器に少数の雅楽器(鐘,磬など)を加えた楽器編成で,雅楽の堂上登歌,堂下楽懸,文武の舞の形式による宴饗雅楽ともいうべきものである。立部伎は,〈安楽〉〈太平楽〉〈破陣楽〉〈慶善楽〉〈大定楽〉〈上元楽〉〈聖寿楽〉〈光聖楽〉の8曲で堂下で立奏し,坐部伎は〈讌楽〉〈長寿楽〉〈天授楽〉〈鳥歌万歳楽〉〈竜池楽〉〈小破陣楽〉の6曲よりなり,堂上で坐奏する。これらの宴饗雅楽曲は胡楽・俗楽であるが,雅楽の形式をとり入れている点で雅楽に似る。二部伎の中には日本に渡って舞楽曲となったものもある。
儒教色の濃い宋代(北宋960-1126,南宋1127-1279)には雅楽の復興が盛んに行われた。唐の十二和は五代(907-960)の十二順を経て十二安と呼ばれるようになった。太祖以後,文武の舞を〈文徳の舞〉,〈武功の舞〉と改め,宮中の大朝会にも廟楽,雅楽の登歌とともに使用した。新しい楽曲の制定,音律の整理が続けられ,神宗の時,さらに雅楽を改訂して大規模な大晟楽(たいせいがく)を制定した。宋代は宮廷で学者が楽議を論じ,音律を改定し勅撰の楽書を編纂した時代であり,陳暘(ちんよう)の《陳暘楽書》,蔡元定の《燕楽書》《律呂新書》などすぐれた理論書が著された。また初唐以来の宴饗楽や中唐以後に胡楽と俗楽が融合してできた新俗楽を燕楽(宴楽)と称して,明確に雅楽と区別するようになった。
異民族の統治する元代(1271-1368)は新しい雅楽を制定したが,古制を著しく崩す結果となり,雅楽の範囲には入らない俗楽化した宴楽がいっそう栄えた。明代(1368-1644)はふたたび漢民族の王朝となったので,漢,唐,宋の楽制を規範として,太楽,郊祀の楽,中和韶楽,丹陛太楽などの新しい雅楽を制定し,多数の曲を新作した。明代の雅楽の制度と楽器は朝鮮に伝えられて,現在に伝わる朝鮮の雅楽に大きな影響をおよぼした。
清代(1616-1911)の雅楽は,明代を継承しさらにそれを大規模に改革したもので,多数の楽曲が制定され,祭祀のほか朝会,宴饗,三大節にも雅楽を奏するようになった。1713年(康煕52)には律呂(りつりよ)を修正し大規模な楽器の製造が行われ,勅により《律呂正義》が撰進された。従来の雅楽器のほかに,征服地から貢献された音楽を奏するために,スルナイ,タンブーラ,サーランギー,タブラ,ナッカーラなどアラブ,ネパール,ビルマ,新疆などの楽器も用いられた。アヘン戦争(1840-42)以後,雅楽は衰微しはじめ,たびたび楽器の製造が行われたが回復することなく,清朝滅亡とともに宮廷雅楽は滅びてしまった。中華民国に至り,新文化運動,儒教排斥にともなって雅楽廃止の議論がおこり,各地の孔子廟雅楽も廃絶しかけた。しかしその後,中国文化保存の国策による国家の援助によって孔子廟雅楽の復活が行われ,第2次世界大戦中までは著しく崩れた形ではあるにせよ,山東省曲阜,北京などに保存されていた。台湾では清代初めに移された孔子廟の祭礼楽が残っており,現在も釈奠(せきてん)に楽舞が行われている。
狭義には中国の雅楽を受け継ぎ古制を備える文廟(孔子廟)の祭礼楽をいい,広義には李王家に伝わった宮廷音楽をさす。つまり,文廟の祭礼楽のほかに,唐楽(中国伝来の音楽),郷楽(朝鮮固有の音楽)を含めて,民俗楽に対するものとして正楽と称し,これを雅楽ということもある。これらは現在,韓国国立国楽院に継承されている。
すでに統一新羅時代(668-935)から唐の文物制度とともに唐楽が輸入されていたが,中国の雅楽と雅楽器が大規模に伝わったのは,高麗時代(936-1392)の1116年(睿宗11)に宋の徽宗から送られた大晟楽である。これは,36人の文舞,武舞の佾舞も備え,楽は登歌(堂上)と軒架(堂下)にわかれ,その中間の庭で佾舞を舞う。大晟雅楽はこれより文廟をはじめとする祭祀と宮中の宴享(饗)に用いられた。高麗時代を通じて雅楽と宮中楽の整備をはかり,最後の恭譲王の時には雅楽署が設置された。李朝(1392-1910)に入ると,第4代世宗は朴堧(ぼくせん)に命じて唐代雅楽の制度を研究させ,宮中の祭祀楽と宴礼楽を再整備し,〈定大業〉〈保太平〉〈発祥〉〈鳳来儀〉などの新楽を加えた。〈定大業〉〈保太平〉は1464年(世祖9)に宗廟の祭礼楽として採択された。成宗(在位1469-94)の時に置かれた妓楽は,次の燕山君によりいっそう盛んとなり,これより宴舞は妓女が舞うようになった。その後李王家の衰微にともない雅楽も漸次衰退した。正祖や高宗は古楽復興に努め,1892年には掌楽院を国楽司と改め,さらに掌楽課と改めた。1910年の日韓併合後は財政難から危機に瀕したが,田辺尚雄の尽力もあって李王職雅楽部として存続し,1948年大韓民国成立後は,これを国楽として復興保存に努め,現在,国立国楽院その他によって器楽,声楽,舞ともに盛んな演奏活動が行われ,また国楽の研究も盛んである。
現在,〈雅楽〉という語は,広い意味において,宮内庁式部職楽部で行われる楽舞(洋楽以外)およびそれと同様式の芸能の総称として用いられている。その内容はふつう,(1)大陸系鑑賞芸能,(2)神道系祭式芸能,(3)平安時代の新声楽,の3種に大別される。狭義には,このうち(1)のみをさして〈雅楽〉というが,これは唐時代の大陸の宮廷俗楽(宴饗楽)を取り入れたものであり,儒教的礼楽思想にもとづいた正楽としての〈雅楽〉ではない。
(1)の大陸系鑑賞芸能には,中国系の楽舞を中心とする〈唐楽(とうがく)〉と朝鮮系の楽舞を中心とする〈高麗楽(こまがく)〉とがあり,唐楽の舞を〈左舞〉または〈左方の舞〉,高麗楽の舞を〈右舞〉または〈右方の舞〉という。例外的に《陪臚(ばいろ)》《還城楽(げんじようらく)》《抜頭(ばとう)》の3曲は,曲籍は唐楽であるが右方に配されることがある(表
管楽器,弦楽器,打楽器の3種は,それぞれ奏法によって,〈吹きもの〉〈弾きもの〉〈打ちもの〉と呼ばれる(表
大陸から楽舞とともにもたらされた理論や用語は,当初は実際の音楽と適合していたにちがいないが,やがて音楽のほうが変わってきたため,しだいに実態とかけはなれていった概念が多い。
平安時代以来の説によると,音階には宮・商・角・徴(ち)・羽の〈五声〉(五音(ごいん))を洋楽音階名のド・レ・ファ・ソ・ラに配する〈律(りつ)〉と,ド・レ・ミ・ソ・ラに配する〈呂(りよ)〉との2種があり,さらに宮音の位置によりそれぞれが3種の調をもつとされ,壱越調(いちこつちよう)(壱越),平調(ひようぢよう),双調(そうぢよう),黄鐘調(おうしきちよう)(黄鐘),盤渉調(ばんしきちよう)(盤渉),太食調(たいしきちよう)のつごう6種類の調が規定される(律呂)。これを唐楽六調子またはたんに六調子という(表
調子は季節,月,時刻に応ずるものとされており,春は双調,夏は黄鐘調,秋は平調,冬は盤渉調といった習慣的な結びつきがある。これを〈時の調子〉という。調子はまた一定の情緒や状況とも関連づけられることがあり,たとえば盤渉調は深い哀しみをたたえた調子であるとされ,葬礼などで奏されることが多い。盤渉調《越殿楽(えてんらく)》はその代表曲であるが,同じく盤渉調の《白柱》《竹林楽》などはもっぱら葬礼曲として奏される。
雅楽曲は本来の調子から別の調子に渡し(移し)て編曲されることがあり,これを〈渡物(わたしもの)〉という。渡物は律なら律,呂なら呂の各調子の間で行われ(《林歌(りんが)》は例外的に高麗平調から唐楽の平調へ渡されている),現在《越殿楽》(平調,盤渉調,黄鐘調の3種があり,原曲は平調とも盤渉調ともいわれている),双調《鳥》(破,急。原曲は壱越調《迦陵頻(かりようびん)》の破,急)をはじめ,十数曲が行われている。
雅楽曲のリズムには非拍節的なものと拍節的なものとがあり,神道系祭式芸能では前者を静(しず)拍子,後者を揚(あげ)拍子ということがある。大陸系の楽舞では,非拍節的リズムは序破急(後述)の〈序〉の部分,および〈音取(ねとり)〉,〈調子〉(〈品玄(ぼんげん)〉〈入調(にゆうぢよう)〉),〈乱声(らんじよう)〉などにみられるが,リズム型そのものを表す用語はない。拍節的リズムは〈~拍子〉といって区別され,代表的なものに早(はや)拍子,延(のべ)拍子,只(ただ)拍子,八多良(やたら)拍子の4種がある。これらは,リズム周期の最小単位である〈小拍子〉が何拍の基本となる拍でみたされるかを示すもので,小拍子を洋楽の小節にたとえるなら,それぞれ4拍子,8拍子,6(2+4)拍子,5(2+3)拍子に相当する。拍子はたんにリズム周期を表すだけでなく,三鼓(鼓,鉦鼓,太鼓)の演奏パターンをも規定する。そこで,リズム型とそのくり返し回数とを示すことによって曲の規模,ひいては広義の楽式をも表現することができるのである。たとえば〈早四(よ)拍子,拍子8〉は,〈早拍子〉つまり四つの基本拍で一つの小拍子を形成し,〈四拍子〉すなわち四つの小拍子(16拍)で打ちものの演奏パターンが一巡する(この間に太鼓の強打音が1回ある)ことを意味しており,最後の〈拍子8〉によって打ちものの演奏パターン8回で曲そのものが一巡することを示している(以上はすべて唐楽の拍子型である)。このように打楽器の奏法とその周期および反復回数とによって楽曲の構成を表すやり方は,アジアのかなりの地域で行われているものである。
大陸系雅楽曲には1帖(1楽章)で1曲をなすものと,数帖で1曲をなす多楽章形式のものとがある。また,曲の規模と格とによって〈大曲〉〈中曲〉〈小曲〉といった等級(〈曲品〉という)があり,小曲は多く1帖1曲である。中曲には多楽章形式のものがあり,その基本形式は序・破・急の三部分構成であるが,完備しているもの(例,平調《五常楽》)はまれで,多くは〈破・急〉(壱越調《賀殿》),〈序・破〉(黄鐘調《喜春楽》)のように一部を欠いているか,〈破〉(黄鐘調《西王楽》)または〈急〉(平調《三台塩》)の1帖だけが伝えられている。序破急をリズム上よりみると,〈序〉は非拍節的リズムで〈序拍子〉といわれることがあり,このときの吹きものの吹奏法を〈序吹(じよぶき)〉という。ただ,拍子数は定められており,太鼓の打拍によって旋律が適宜区分される。〈破〉は多く延拍子でできており,〈急〉はほとんど早拍子である。
大曲はこれら小曲,中曲と異なる非常に特殊なもので,すべて多楽章形式をとっており,それも序破急の型にとらわれない個性的な構成をみせている(表
以上,すべて〈当曲〉(演目の本体をなす楽曲)について述べたが,その前奏,後奏にあたる部分については〈管絃〉〈舞楽〉の項目を,また神道系祭式芸能などの構成については各項目を参照されたい。
神楽の起源として有名な〈天の岩屋戸〉前の歌舞をはじめ,《古事記》《風土記》《日本書紀》などに芸能関係の記事が多く,コト,フエ,ツヅミなど楽器に関する記述もかなりある。古くから行われていたこれら諸芸能は,直接・間接に雅楽の〈神道系祭式芸能〉につながるものであるが,それが体系化組織化され皇室の管理するところとなったのは,大陸楽舞の渡来,皇権の強化・安定という内外の事情を契機としている。
《日本書紀》その他によると,外国楽舞としての最古の記録は朝鮮三国の楽,すなわち新羅楽,百済楽,高麗楽に関するもので,《日本書紀》天武12年(684)1月18日条に〈三国の楽を庭中に奏す〉とあるので,それまでに三国楽(三韓楽)のすべてが伝わっていた。中国系楽舞の伝来経過は不明であるが,はじめて遣唐使の派遣された630年(舒明2)以後であろう。《続日本紀》大宝2年(702)1月15日条には《五帝太平楽》(一本には《五常太平楽》)という,唐楽らしきものの奏演が記されている。それ以前,612年(推古20)には伎楽が伝えられ,聖徳太子の政策によって,少年を集め桜井の地で教習させた。これ以後の外来楽の発展は,〈三宝を供養するには諸蕃楽を用いよ〉(《聖徳太子伝暦》)と語った太子の仏教興隆政策と深い関係にある。一方676年(天武4)2月には国内十数ヵ国に対して〈よく歌う男女および侏儒伎人を選んで貢上せよ〉との詔勅があり,外国楽舞の摂取と並行して国内歌舞の中央集権化も進行していたということはみのがせない。
《日本書紀》持統1年(687)1月1日条に〈楽官奏楽〉と書かれており,役職としての楽人の存在が示唆されているが,その制度の詳細を知りうるのは701年(大宝1)の大宝令(散佚)と養老令とによってである。今,後者の職員令(しきいんりよう)をみると雅楽寮は治部省に属する大寮,国風歌舞(くにぶりかぶ)ならびに外来楽舞の教習施設で,管理職から雑役まで総勢四百数十名という大規模なものであるが,実際に規定どおりの人員があてられたかは疑問である。うち,国風歌舞(計262名)については歌,儛,笛の師と生とを記すのみで個々の種目名を明記しないが,外来系のもの(計147名)には,唐楽,高麗楽,百済楽,新羅楽,伎楽の名がみえる。令制施行後も度羅楽(とらがく),林邑楽,渤海楽が渡来した。まず度羅楽(伝来の経緯も出自も未詳)が奈良時代初期に伝わり,731年(天平3)7月の雅楽寮定員改訂の際に度羅楽生62名が追加された。これは当時の唐楽生39名を大きく上回る。《婆理舞(ばりまい)》《久太舞(くたまい)》,《那禁女舞》(一本に《邪禁女舞》),《韓と楚と女を奪う舞》の四つが度羅楽の演目であった。このころ雅楽大属であった尾張浄足(おわりのきよたり)その他によれば,当時雅楽寮所轄の国風歌舞は久米舞,五節舞,田舞,楯臥舞,筑紫舞,諸県舞の6種目であった(《令集解》《続日本紀》)。このあと736年(天平8)には婆羅門僧正,仏哲らが来日して林邑楽が伝えられ,勅命により,もっぱら大安寺において伝習された(《東大寺要録》)。これが雅楽寮に編入されたのは平安時代,809年(大同4)3月のことである(《令集解》《類聚三代格》)。仏哲らの伝えた楽舞は《菩薩》《迦陵頻》《抜頭》《陪臚》《万秋楽》《蘭陵王》《安摩(あま)・二ノ舞》《胡飲酒(こんじゆ)》の8曲であったとされ,〈林邑八楽〉と称する。渤海楽の初見は《続日本紀》天平12年(740)1月30日条であり,次いで749年(天平勝宝1)12月25日に東大寺で奏された。雅楽寮との関係は明らかでない。
このような事情で雅楽寮の定員はたびたび改められたが,全体として削減されていった。他方,736年には〈歌舞所〉の〈諸王臣子〉らが〈古曲〉を奏した(《万葉集》巻六)。〈このごろ古舞さかんに興りて……〉とある。759年(天平宝字3)1月には〈内教坊の踏歌〉〈内裏の女楽〉が行われた(《続日本紀》)。9世紀に入って,右近衛将監であった興世書主(おきよのふみぬし)は和琴にすぐれており,816年(弘仁7)大歌所別当に任ぜられた(《日本文徳天皇実録》嘉祥3年(850)11月6日条の卒伝)。〈常に節会に供奉す〉とある。すでに《続日本紀》天応1年(781)大嘗祭の条に〈雅楽寮の楽および大歌〉と並記されている。また,《日本紀略》その他によれば,814年(弘仁5)以来,本来軍事を司る衛府の官人による奏楽がしばしば行われている。以上のような公的,準公的な機関による奏演がしだいに雅楽寮の地位を低下させていったことは想像にかたくない。
内外の楽舞が広範な人々によって奏演,享受され,また政治的にはいわゆる律令体制が崩壊しつつあった9世紀の半ば約50年間に,外来系の楽舞は大幅に整理され,日本化への大きな一歩を,しかし徐々にすすめた。今日これを〈楽制改革〉という。そのおもな内容は以下のようであった。(1)楽器の整理統合。代用可能なものは一方を廃する。例えば箜篌(くご)は箏(そう)に吸収された。次に,同種のものは一方を選択し他を廃する。例えば琵琶では4弦のものが選ばれ5弦のものは廃された。また,趣味に合わせて,竽(う),大篳篥といった低音楽器も廃された。(2)種々雑多であった外来楽を唐楽,高麗楽に二大別し,それぞれ左方,右方とした。従前の唐楽と林邑楽とは左方に,三韓楽と渤海楽とが右方に配された。これにともなって左舞の〈答舞(とうぶ)〉としての右舞が定められ〈番舞(つがいまい)〉が行われるようになった。(3)雑多であった唐楽の調子を基本的な6種の〈母調子〉に整理し,他の調子は,例えば沙陀調(さだちよう),壱越性調(いちこつせいちよう)を壱越調の,また性調,水調(すいちよう),乞食調(こつじきちよう)をそれぞれ平調,黄鐘調,太食調の〈枝調子〉とするなど,いわゆる〈六調子〉の体系をまとめた。以上のほか,古代以来の神道系祭式芸能に篳篥,竜笛といった外来系の楽器を取り入れるなど新しい様式を整えたのもおおむねこの時期であるという。
このような改革・整理は内外楽舞の深い理会,体験とその普及とを前提とせずには考えられない。事実,このころ皇族,貴族から管絃にすぐれた人物が輩出している。当然,鑑賞眼も鍛えられてくる。先述のとおり9世紀初めから下級官人である衛府の人々の奏楽がさまざまな目的に供されていたが,9世紀末ころにはそれが貴族の趣味にこたえきれなくなってくる。889年(寛平1)4月24日,宇多天皇はその日記(《寛平御記》)に〈近衛府の歌舞(うたまい)するところ,極めて以って冷淡(すさま)じ。仍はち殿上人らを喚びてふたたび歌舞せしむ〉と記した。政治的意味の強い式楽としての雅楽がしだいに鑑賞芸能としての娯楽的性格を前面に出してくるのである。この傾向はその後も続き,10世紀に入ると〈御遊〉という形で,もっぱら鑑賞のために管絃などが行われるようになった。
このような風潮のうちで邦人作曲家によって外来楽の様式を模した作品が多くつくられ,大戸清上(おおとのきよかみ)の《北庭楽》《拾翠楽》《海青楽》《壱団橋》,藤原忠房の《延喜楽》,源博雅の《長慶子(ちようげいし)》など,その多くは今日も演奏されている。また9世紀前半ころに催馬楽,10世紀末までには朗詠という,いずれも声楽中心の新しい種目がつくられた。やがて雅楽寮の活動は《延喜式》にみられるように,儀式,祭式への出仕に限定され,かわって10世紀半ばころには常設されるようになった〈楽所(がくしよ)/(がくそ)〉が準公的な機関として幅広い演奏活動を行った。
平安時代末期になると,地下(じげ)の楽人とは別に準家業として雅楽の特定の種目や楽器を伝承する貴族が現れた。一例をあげると,朗詠には当時藤家(とうけ),源家(げんけ)の2流があり,藤家は源博雅にはじまり藤原氏北家の人々を中心に伝承され,鎌倉時代まで続いた。源家は宇多天皇皇子の敦実(あつみ)親王から,いわゆる宇多源氏の系統に伝承され,室町時代に絶えた。
鎌倉時代に入り政治の実権が完全に武家の手に渡ると,皇室の経済力は衰え,また白拍子,田楽などの芸能に衆人の興味が集中して,皇室系楽人は困窮に陥る。これは楽人が家芸を秘守する傾向に拍車をかけたが,そのため応仁の乱(1467-77)は雅楽の伝承に潰滅的な打撃を与えた。他方,経済的に安定していた大寺社では法会,神事に際して雅楽曲を奏することが行われ,なかにはそのために専属の楽人を擁するものもあって伝統は比較的よく保たれていた。そこで皇室は16世紀後半,2回にわたって四天王寺および南都興福寺から楽人を召集して宮廷楽人と併せた。それぞれ天王寺方,南都方,京都方といい,この三方からなる奏演者集団を〈三方楽所(がくそ)〉または〈三方楽人〉と総称する。京都方は多(おおの)家,山井(やまのい)(大神(おおが))家,安倍家,豊(ぶんの)(豊原)家の4家,天王寺方は太秦(うずまさ)または秦(はた)姓,薗(その)家,林家,岡家,東儀(とうぎ)家および安倍姓東儀家の5家,南都方は上(うえ)家,西(にし)家,辻家,芝家,奥家,東(ひがし)家,窪家,久保家の8家であり,これによって大規模曲の上演がふたたび可能になった。
江戸時代には幕府の政策として朝儀が重んぜられ,三方楽所に〈楽所料〉として土地が封ぜられるなど,雅楽も保護された。1642年(寛永19)には江戸城紅葉山の徳川家康廟での祭祀のため,三方楽所の楽人数名を移住させ,ここに〈紅葉山楽所〉が成立した。また,応仁・文明の戦乱期に伝承を失った催馬楽をはじめ東遊,久米舞なども江戸時代に復元もしくは新作されて復興したのである。
新政府発足後,1870年(明治3)11月に楽所,雅楽寮は廃され,かわりに雅楽局が設けられ,三方楽人,紅葉山楽人も統合されて,秘曲・秘伝の類は皇室に奉還された。のち式部寮雅楽課(1871),宮内省雅楽課(1875)と推移する。この間,73年には雅楽教習の道が華族,楽人から一般人に開放された。やがて各家各系の伝承を整理することが必要になり,76年,88年の2回にわたって演目を選定,記譜法なども統一された(《明治撰定譜》)。84年宮内省式部雅楽課と改称,7年間の教習課程が定められ,その後88年に雅楽部,そして第2次大戦後1949年6月1日付で総理府宮内庁式部職楽部となり,55年重要無形文化財の総合指定の認定を受けた。
現在の楽部は〈楽師〉はじめ30名ほどの人員で構成され,そのほか楽師を目ざす〈楽生〉がある。楽生には原則として7年間の教習課程が定められており,吹きもの,弾きもののそれぞれ1種,打ちものはひととおり,左舞・右舞のどちらか一方と,洋楽器1種が必修とされる。おもな活動は皇室の祭祀での奏演,春秋2回の公開演奏のほか,依頼による出張演奏も行う。国賓来日の際,皇居での晩餐会では相手国の国歌など洋楽も演奏する。皇室関係のほかにも寺社,宗教法人の下部組織として,また同好会として全国に多数の雅楽演奏団体があり,祭祀への出仕,国内外での公演など多彩な演奏活動を行っている。それらの中には天王寺楽所や南都楽所の伝統を受けつぐものがあり,宮内庁楽部の現行曲にない演目を伝承していたり,独自の,または古式の演出を継承しているなど注目すべきものが少なくない。
日本にもたらされた雅楽は中国の宮廷俗楽であって,いわゆる郊祀廟堂の楽ではなかったが,《令義解》(833)は雅楽頭の職掌を〈文武の雅楽,正舞,雑楽……〉と記しており,雅楽を公的な雅正の楽と規定している。実際には散楽のように,曲芸や滑稽戯を中心とする演目もないではなかったが,やがて廃された。雅正を志向するということが雅楽の第一の特徴である。次に音楽の性格として,とくに管絃の抽象性をあげることができる。日本音楽の多くの種目は声楽曲であり,特定の意味内容を有する詞章をもっている。これに対し管絃は,箏曲段物や尺八曲の一部などと同様に,曲自体である感情や意味内容を伝えるのでなく,音の持続と調和およびその形式美が曲を支えている。また,他種目の多くが相対音高すなわち歌い出しを任意の音高にとることができるのに対し,雅楽曲はつねに絶対音高で演奏される。さらに,楽譜というものが重視されるのも特徴的で,さまざまな按譜法(記譜法)が工夫された。
このような特徴をもつ雅楽は後代の芸能に大きな影響を与えた。芸能に限らず〈二の舞を踏む〉〈二の句がつげぬ〉など,今日の日常語にまで雅楽を出自とする語がある。この影響の広汎さは,雅楽が最初に伝来し,しかも本格的な体系をもつ大規模な芸能であったことを思うならば,むしろ自然である。まず,箏,笛,鼓などの楽器は民間にわたり工夫が加えられて,さまざまな種目に応用された。またその按譜法は声明(しようみよう)譜とともに後世の按譜法に多大な示唆を与えている。音楽の構造よりみるならば,外来楽の井然(せいぜん)たる拍節構造は管絃の伝統を直接うけつぐ筑紫箏,箏曲組歌にそのまま継承され,一曲の構成部分としての序破急は,能の大成者世阿弥により鮮やかに換骨奪胎されて,能楽のみならず華道,茶道,連歌などの諸芸能の基本理念に加えられるに至った。序破急に限らず,雅楽は後代日本音楽のほとんどすべての種目に,その豊富な〈用語〉を提供したのである。
一般に雅楽に関する著述を〈楽書〉といい,とくに《教訓抄》(狛近真,1233),《体源鈔》(豊原統秋,1512),《楽家録》(安倍季尚,1690)の3書を〈三大楽書〉と称するが,これに《続教訓抄》(狛朝葛,1322)を加えて四大楽書ということもある。いずれも理論書というよりは当家の伝承を書きとどめたもので,系譜,奏演記録,故事来歴などをおもな内容としている。中国の楽書で記録上はじめて日本へもたらされたのは,735年(天平7)4月,入唐留学生吉備真備が聖武天皇に献じた《楽書要録》である。則天武后の撰とされ,もと10巻あったが,大部分が散佚した。やがて日本でも楽書がつくられるようになり,古くは845年(承和12)113歳で舞を演じたという尾張浜主(おわりのはまぬし)の《五重記》,貞保親王(870-924)の《十操記》がある。2人の著者の真偽に関して今日ではおおむね否定的であるが,《五重記》は独特の芸位論に,また《十操記》は拍子による笛の吹きわけに特徴がある。両者を併せ《五重十操記》として流布している。以後,大神惟季(?)《懐竹抄》,大神基政《竜鳴抄》(1133),凉金《管絃音義》(1185),中原有安《胡琴教録》(1190),藤原師長《三五要録》《仁智要録》,俊鏡《糸竹口伝》,藤原孝道《夜鶴抄》《新夜鶴抄》《知国秘抄》,隆円《文机談》などが生まれた。1233年(天福1)の《教訓抄》は最初に現れた包括的な楽書で,《続教訓抄》はこれをうけつぐものである。その後も楽書は書かれたが,応仁の乱後の混乱期に書かれた《体源鈔》には伝統存続への強い危機感がにじみ出ている。これに対し,三方楽所が成立し治安も整った江戸時代の楽書《楽家録》は,全編が井然と構成され,ある種のゆとりさえ感じられる。
近世楽書のいま一つの特徴は音律論への強い関心であって,この系統のものとして中根元圭(璋)《律原発揮》(1692),中村惕斎(てきさい)《筆記律呂新書》,鈴木蘭園《律呂弁説》(1815)などがあり,漢学者,考証学者の活躍が目だつ。他方,国学者は古代歌謡の詞章注釈を盛んに行った。また,小川守中《歌儛品目》(1822)は雅楽の曲目や用語を整理し解説を加えるという新しい趣向のもので,いわば〈雅楽事典〉の体である。
以上のほか系譜(血脈),奏演記録(《御遊抄》など),記録(《楽所補任》など)も基本資料であり,その他,史書,日記,文学書や古文書にも参照すべきものが少なくない。上述の楽書のおもなものは《日本古典全集・音楽》(正・続),《群書類従・管絃部》(正・続),《日本歌謡集成》,《陽明叢書》などの叢書・全集はじめ,比較的参照しやすい形で出版されているが,まだ研究者の渇を癒すにはほどとおい。さらに,大部分のものは校合,校訂,本文決定という文献操作の基礎作業すら行われていないというのが,残念ながら研究の現状である。
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