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今川義元

ジャパンナレッジで閲覧できる『今川義元』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
今川義元
いまがわよしもと
一五一九 - 六〇
戦国時代の武将。治部大輔。父は今川氏親、母は中御門宣胤の女。永正十六年(一五一九)に生まれ、幼時より出家させられ、承芳と称し、駿河国善徳寺にいたが、天文五年(一五三六)家督を相続した兄氏輝が早世すると、兄の玄広恵探と家督を争い、六月十日これを倒して家督をつぎ、同日「承芳」の印文の黒印状を出している。翌六年義元は従来敵対関係にあった甲斐の武田氏と結び、武田信虎の女をめとった。そのため同盟関係にあった北条氏との関係が悪化し、同年北条氏綱は駿東・富士二郡に侵入した。義元は同十四年富士川をこえて兵を進め、関東の上杉憲政と提携して氏康を挾撃し、これを破り北条氏の勢力を伊豆国境の線まで後退させた。一方今川氏の主力が東部に向かっているうちに、尾張の織田氏の勢力が三河に進出し、松平氏を圧迫するようになった。同十六年織田信秀は同国岡崎城を攻撃し、松平広忠は義元に援を求め、子竹千代を質に送ったが、途中信秀に奪われた。同十八年広忠が死ぬと、義元は松平氏が織田氏に属することを恐れ、決戦にでて、太原崇孚(雪斎)らの働きにより同国安城城を攻略し、城主織田信広を捕え、これと竹千代を交換した。この安城城攻略と人質の交換により、松平氏は完全に今川氏の保護下におかれ、織田氏の東部進出も阻止され、天文末年までに、三河はほとんど今川氏の勢力下におかれるようになった。さらに義元は、信秀死後の織田氏の混乱に乗じ、尾張にも勢力を浸透させた。そこで、信秀のあとをついだ信長は、同二十三年北条氏康と連携し、氏康を駿河東部に侵入せしめた。義元は、武田晴信の援を求めて、北条氏と戦ったが、戦いは膠着状態におちいり、太原崇孚の斡旋で三者の和議が成立した。この和議は善徳寺の会盟というが、晴信の女を北条氏康の子氏政に、氏康の女を義元の子氏真に嫁せしめ、すでに義元の女は晴信の子義信に嫁しているから三者の政略結婚による同盟が成立したわけである。東部での戦線をこのような形で安定せしめた義元は、全力を西部に向け、尾張春日井郡の科野城、知多郡の大高城・鳴海城まで勢力をのばした。永禄三年(一五六〇)五月義元は、駿河・遠江・三河の兵を動員し、西上の途につき、沓掛に本営を進め、松平元康・朝比奈泰能をして織田方の防衛陣丸根砦・鷲津砦を陥し、同十九日みずから進んで桶狭間に本営を移したが、信長の奇襲にあって討死した。四十二歳。法号は天沢寺秀峯哲公。今川氏の守護から戦国大名への転換は、義元の父氏親の晩年に一応の確立をみた。同じ東国の上杉・武田氏などの戦国大名より早くその転身に成功したわけで、義元はこの遺産を継承しそれを深化させていった。まず検地であるが、駿河においては、天文十・十三・十五・十八・十九・二十・二十一・二十二・二十三年、弘治元・二・三年、永禄元年など、遠江では、天文十七・二十・二十二年、弘治二・三年など、三河では弘治二・三年などに施行しているのが知られる。この検地の執拗なまでの繰り返しにより厖大な年貢の増分を摘発し、あるばあいには、それを給恩として家臣にあたえて、軍役を負担させ、軍事力の増加をはかり、あるばあいには、それを没収して蔵入地として財政の強化を行なっているが、いずれにせよ、この検地が今川氏の戦国大名の体制確立、その富強化の核心をなすものであった。次に軍事組織であるが、郷村のなかにおける名主層の地位を保証し、彼らを直接把握して寄子という形で軍事組織にくりこみ、在地領主たる寄親に預け、その指揮に従わせる寄親・寄子制がとられていることは有名であるが、義元の時代に制定されたと目される訴訟条目によれば、すでに分限帳が作成され、家臣の定量的軍役負担の体制が成立していたことがわかる。次に領国内の殖産興業の振興と商工業の統制・保護をきわめて強力に行なっている。安部・富士両金山の開発、軍需物資たる皮革については、駿府への皮革商人の集住、駿・遠両国の製革業の統制、製品の上納などを命じている。また、駿府の松木・友野氏などの豪商を御用商人とし、彼らに特権を与えるとともに、その機能を利用して、領国内外の流通を統制しており、友野氏は駿河の主要都市での木綿の役銭徴収権を与えられ、松木・友野両氏は駿河産の茜の移出権を個別領主から奪って与えられている。ところで駿河・遠江・三河は、畿内の経済流通の影響を完全に免れえない東海道に位置している点、関東の北条氏と違って西部への進出を義元に強く志向させた原因の一つと考えられる。義元は、天文二十二年二月二十六日、仮名目録追加二十一ヵ条を制定したが、父氏親の仮名目録の制定より約三十年、その領国統治は明瞭に進展していることが知られ、追加の「只今ハをしなへて自分の以〓力量〓国の法度を申付」という宣言は、文字通り戦国大名としての領国体制を確立せしめた義元の自信を示すものであろう。→桶狭間の戦(おけはざまのたたかい),→善徳寺の会盟(ぜんとくじのかいめい)
[参考文献]
『静岡県史料』、『浜松市史』一、小島広次『今川義元』、菊池武雄「戦国大名の権力構造」(『歴史学研究』一六六)
(勝俣 鎮夫)


日本大百科全書(ニッポニカ)
今川義元
いまがわよしもと
[1519―1560]

戦国大名。今川氏親(うじちか)の三男。母は中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の女(むすめ)(寿桂尼(じゅけいに))。幼名は芳菊丸。最初駿河(するが)国富士郡今泉(静岡県富士市)の善徳寺の僧として梅岳承芳(ばいがくしょうほう)と称し、一時は京都建仁寺、妙心寺で修養を重ねた。1536年(天文5)4月に兄氏輝(うじてる)が早世すると異母兄の玄広恵探(げんこうえたん)(良真(りょうしん))と家督を争い(花倉(はなくら)の乱)、同年6月これを倒し今川家を継ぎ、還俗(げんぞく)して義元と名のった。翌年2月、武田信虎(のぶとら)の女をめとり同盟を結んだが、これを契機に、従来同盟関係にあった北条氏綱(うじつな)が駿河東部に侵攻したため、以後富士川以東の支配をめぐって戦い(河東一乱)、45年同地域の支配を回復する。一方、尾張(おわり)の織田信秀(おだのぶひで)の勢力拡大により三河松平氏が圧迫されると、これを援助し三河へ出兵、42年、48年の小豆坂(あずきざか)合戦(愛知県安城市)をはじめ、織田氏としばしば戦っている。この過程で東三河の吉田(豊橋)城を制圧、49年には松平氏の岡崎城を占領し、ついで織田氏の支城となっていた安祥(あんじょう)城を奪取し、その際の人質交換により織田氏のもとにいた松平竹千代(徳川家康)を駿府(すんぷ)に迎えた。天文(てんぶん)(1532~55)末期にはそれまでの駿河、遠江(とおとうみ)に加えて、ほぼ三河の領国化に成功し、領国の拡大とともに支配体制を着実に強化していった。検地の実施、家臣団・寺社統制、商工業・伝馬(てんま)政策、鉱山開発などはその例であり、53年制定の仮名目録追加第20条にみられる「只今(ただいま)はをしなべて自分の力量を以(もっ)て国の法度(はっと)を申付」という一節は、東海一の戦国大名としての自信を表している。また西進を目ざす義元は領国東部の政治的安定を意図し、54年には政略結婚による北条氏康(うじやす)、武田晴信(はるのぶ)(信玄(しんげん))との三者同盟を完成させ(甲相駿同盟)、さらに58年(永禄1)には駿遠支配を子息氏真(うじざね)に分掌させ、自らは三河支配と尾張領国化を策した。今川氏の発展はこうした一連の内政と外交の充実、連携に基因していたといえる。しかし60年5月、駿遠三の兵力を動員し尾張へ侵入した義元は、織田方の丸根(まるね)・鷲津砦(わしづとりで)を陥落させ、同月19日、本陣を桶狭間(おけはざま)(愛知県豊明(とよあけ)市)に移したところで織田信長の急襲を受け、壮烈な戦死を遂げた。法名天沢寺殿秀峰哲公大居士。
なお近世史書類は、幕府の手前、神君家康を人質とした義元を戦国大名の器量として描いていないが、残された当時の史料による限り、義元はもっとも有能な戦国大名の一人だったといえる。
[久保田昌希]



改訂新版 世界大百科事典
今川義元
いまがわよしもと
1519-60(永正16-永禄3)

戦国時代の武将。氏親の三男。治部大輔。初め出家して承芳と称し駿河善徳寺にいたが,1536年(天文5)兄氏輝の早世後,次兄恵探と家督を争いこれを倒し相続,太原崇孚(たいげんすうふ)(雪斎)を登用して駿河・遠江両国の経営に着手した。翌年武田氏と結び,北条氏と対立した。他方,織田氏が三河に進出すると松平氏の求めに応じ三河に出兵,48年,小豆坂に織田氏を破り,翌年安祥城を攻略して人質竹千代(徳川家康)を奪い返し,本格的に三河経営に着手した。その間隙をぬって北条氏が駿河に侵入したが,54年,北条氏康,武田晴信と三国同盟を結び東方を安定させ西進策を整えた。60年駿遠三の大軍を率いて西上の途につき尾張に侵入したが,桶狭間に在陣中織田信長の奇襲にあい討死した(桶狭間の戦)。義元は父氏親の政策を発展させ,領国内に繰り返し検地を実施するとともに,《仮名目録追加》21ヵ条を制定し,戦国大名今川氏の最盛期を築いた。
→今川仮名目録
[加藤 益幹]

[索引語]
太原崇孚 雪斎 仮名目録追加
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1. 今川義元
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1519-60(永正16-永禄3) 戦国時代の武将。氏親の三男。治部大輔。初め出家して承芳と称し駿河善徳寺にいたが,1536年(天文5)兄氏輝の早世後,次兄恵探 ...
3. いまがわ‐よしもと【今川義元】
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[1519〜1560]戦国時代の武将。駿河・遠江(とおとうみ)・三河を支配。京都へ進出の途中、桶狭間(おけはざま)で織田信長勢に急襲され敗死。  ...
4. いまがわ‐よしもと【今川義元】
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5. いまがわよしもと【今川義元】
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6. いまがわ-よしもと【今川義元】
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1519−1560 戦国時代の武将。永正(えいしょう)16年生まれ。今川氏親の子。母は寿桂尼。兄氏輝の死で駿河(するが)・遠江(とおとうみ)(静岡県)を領国とす ...
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11. 愛知(県)
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織田常松(じょうしょう))となり、信長は清洲城主となった。信長は桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元(よしもと)を破り、天下統一を目前に、京都・本能寺で殺される ...
12. あおきごう【青木郷】静岡県:静岡市/旧有渡郡・庵原郡地区/青木村
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13. あおみむら【青見村】静岡県:富士宮市
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16. あかおしぶたれこおりべじんじゃ【赤尾渋垂郡辺神社】静岡県:袋井市/赤尾村
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21. あさば【浅羽】静岡県:磐田郡/浅羽町
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先の新田開発では小笠原氏も深く関与しているので、これも同様の地名であろう。なお天文九年(一五四〇)八月一日の今川義元朱印状写(三浦文書)にみえる浅羽庄内の上村や ...
22. あさひな【朝比奈】静岡県:志太郡/岡部町
日本歴史地名大系
。天文一二年(一五四三)九月一九日、朝比奈又八郎は今川義元から当知行分の朝比奈谷等を安堵され、棟別・人足等の諸役を引続き免除された(「今川義元判物」朝比奈文書) ...
23. あさひなごう【朝夷郷】静岡県:小笠郡/浜岡町
日本歴史地名大系
平田寺(現相良町)領であったと確認されて、同寺長老に安堵されている。天文二〇年(一五五一)二月二三日の今川義元判物(中山文書)には「先年鼻連神田増分以朝比奈専念 ...
24. あしあらいのしょう・あしあらいごう【足洗庄・足洗郷】静岡県:静岡市/旧安倍郡地区
日本歴史地名大系
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25. あしくぼむら【足久保村】静岡県:静岡市/旧安倍郡地区
日本歴史地名大系
さす。天文二一年八月六日には今川義元が当地の南に隣接する慈悲尾の増善寺住持惟頓に「内槙之内池端以南之田地内五俵地、并西谷塔頭領田山屋敷表之切起」を安堵している( ...
26. あしたかやま【愛鷹山】静岡県:沼津市
日本歴史地名大系
下者足鷹惣山」が、渡辺春徳に給恩として与えられている。また天文一九年(一五五〇)二月一二日の今川義元朱印状(多聞坊文書)では、「愛鷹林」が須津庄(現富士市)内の ...
27. あずきさかこせんじょう【小豆坂古戦場】愛知県:岡崎市/羽根村
日本歴史地名大系
[現]岡崎市羽根町 小豆坂 羽根地籍東方の丘陵地。松の木立に覆われた起伏の多い一帯が今川義元と織田信秀の軍が激しく戦った小豆坂古戦場である。「信長記」「朝野旧聞 ...
28. 小豆坂
日本大百科全書
向けたので、松平広忠(ひろただ)(徳川家康の父)はこの危機を乗り切るため、駿河(するが)(静岡県)の今川義元(よしもと)に援を求めた。織田、今川の両雄決戦の場と ...
29. 小豆坂
日本史年表
1542年〈天文11 壬寅③〉 8・10 今川義元,織田信秀と三河 小豆坂 で戦う(信長公記)。 1548年〈天文17 戊申〉 3・19 太原崇孚ら今川義元・松 ...
30. あずきざかのたたかい【小豆坂の戦】
国史大辞典
すなわち西から矢作川をこえて上和田・羽根から馬頭・簑川にぬける間の起伏する地一帯で、尾張進入をはかった今川義元勢が、織田信秀の迎撃をうけて勝敗決しなかった戦い。 ...
31. あつはらむら【厚原村】静岡県:富士市/旧吉原市・鷹岡町地区
日本歴史地名大系
(一五五四)二月中旬、北条氏が富士郡下方庄へ打入り、吉原・柏原に陣を取った時、三河に出陣中の今川義元に代わって武田晴信が出兵し、大宮(現富士宮市)から「アツハラ ...
32. あつみぐん【渥美郡】愛知県
日本歴史地名大系
送られる人質松平竹千代(家康)を奪って尾張の織田信秀に送ったことから、天文一六年(一五四七)今川義元に攻略されて戸田氏は滅び、田原城は今川氏の出城として渥美郡が ...
33. 安土桃山時代
日本大百科全書
構え、豊かな濃尾(のうび)平野を地盤として勢力の伸長に努め、1560年(永禄3)東海一の大名今川義元(よしもと)を桶狭間(おけはざま)の一戦で討ってから急速に頭 ...
34. あなやまこうじ【穴山小路】山梨県:甲府市/甲府
日本歴史地名大系
要する(甲斐武田氏文書目録)。「高白斎記」天文二一年(一五五二)一一月二七日条には、晴信嫡男義信に嫁ぐ今川義元の息女が府中穴山宿に到着したことが記録されるが、こ ...
35. あの・あののしょう【阿野・阿野庄】静岡県:沼津市/旧駿東郡地区
日本歴史地名大系
寺領を安堵したのをはじめ(「今川義元判物」大泉寺文書)、今川義元は同一八年二月二八日に善得寺(現富士市)末の真如寺に対し「阿野庄井出郷内」で寺領を寄進(「今川義 ...
36. あべし【安部氏】
国史大辞典
信濃諏訪郡の出身と伝えるが、早く駿河安部谷に移って、元真から安部氏を称し、安倍郡を知行して今川義元・氏真に属していたが、永禄十一年(一五六八)武田信玄の駿河攻 ...
37. あめのみやじんじゃ【天宮神社】静岡県:周智郡/森町/天宮村
日本歴史地名大系
れば古くは一宮(現小国神社)神領五ヵ郷の摂社であったとする。天文一二年(一五四三)九月六日、今川義元は「一宮庄之内金胎両部之一社天宮」の社務を中村新左衛門尉に安 ...
38. あめのみやむら【天宮村】静岡県:周智郡/森町
日本歴史地名大系
翁宗順から受戒した。天文一二年(一五四三)九月六日、今川義元は「一宮庄之内金胎両部之一社天宮」の神主中村新左衛門尉に社務を安堵(「今川義元判物」天宮神社文書)、 ...
39. 荒尾氏
世界大百科事典
や寺本代官職を知行した。室町後期には木田城城主となった空善がおり,その子善次は織田信長の下で今川義元と戦い功をたてたが,孫善久は三方原の戦で討死した。旭 澄江 ...
40. あわくらむら【粟倉村】静岡県:富士宮市
日本歴史地名大系
村山村をコの字型に囲む。富士山南西麓の丘陵および山地に立地する。天文二三年(一五五四)七月九日の今川義元判物写(葛山文書)に「粟蔵」とみえ、村山浅間神社別当寺興 ...
41. あんかいくまのじんじゃ【安海熊野神社】愛知県:豊橋市/吉田城下/魚町
日本歴史地名大系
を造営したことが明応四年(一四九五)三月の棟札にみえる。また、天文年中(一五三二―五五)には今川義元から永銭一〇貫二四文の社領寄進があった。この頃境内に魚市場が ...
42. あんざいごう・あんざい【安西郷・安西】静岡県:静岡市/旧安倍郡地区
日本歴史地名大系
五年目一花堂方」と記されている。天文一三年九月二八日、今川義元は海老江弥三郎に駿河国知行分の一つとして「小安西之内屋敷分」を安堵している(「今川義元判物」海老江 ...
43. あんざいじあと【安西寺跡】静岡県:静岡市/駿府城下/馬場町
日本歴史地名大系
しかし同五年一一月七日、今川義元が住持職安堵の判物(安西寺文書)を当寺に与え、同二〇年一二月七日には同じく義元が覚阿譲与の旨に任せて寺領田畠屋敷などを師阿弥陀仏 ...
44.&nbsnbsp;あんしょうじょうあと【安祥城跡】愛知県:安城市/安城村
日本歴史地名大系
この時の戦死者を祀った塚の跡という。以後一〇年間は、松平・織田両軍の攻防の的となった。天文一八年信秀と今川義元の間に安祥城をめぐる攻防戦が展開され、今川軍が安祥 ...
45. あんどうのしょう・あんどう【安東庄・安東】静岡県:静岡市/旧安倍郡地区
日本歴史地名大系
天文一一年(一五四二)九月一三日の今川義元判物(静岡浅間神社文書)によると、関口刑部息女が浅間新宮(静岡浅間神社)神主に安東築地屋敷を寄進した。弘治二年(一五五 ...
46. あんらくじ【安楽寺】愛知県:渥美郡/田原町/野田村
日本歴史地名大系
真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。境内一千一九七坪、もとは西円寺支配の説教道場で、天文二三年(一五五四)の今川義元の寺領証文(太平寺蔵)に、渥美郡野田郷之内、保井西円 ...
47. 井伊氏
世界大百科事典
っていた。井伊氏の活動が歴史上,具体的になるのは戦国争乱期である。家譜によれば,直宗,直盛は今川義元に仕え織田氏との合戦で戦死した。直盛の養子直親は義元の子氏真 ...
48. いいお-のぶむね【飯尾信宗】
日本人名大辞典
宗の子。父とともに織田信長に属し,桶狭間(おけはざま)の戦いのとき,鷲津砦(わしづとりで)で今川義元軍に敗れて父をうしなう。本能寺の変後は織田信雄,豊臣秀吉につ ...
49. いいだむら【飯田村】静岡県:周智郡/森町
日本歴史地名大系
文案(教王護国寺文書)にみえる京都蓮華王院領飯田庄の遺称地。弘治三年(一五五七)二月一三日の今川義元判物(蓮華寺文書)によれば、山内通輔が蓮華寺に寄進した「飯田 ...
50. いい-なおみつ【井伊直満】
日本人名大辞典
戦国時代の武将。遠江(とおとうみ)(静岡県)井伊谷(いいのや)城主井伊直平の次男。父とともに今川義元につかえる。兄直宗の惣領(そうりょう)直盛に子がないため,子 ...
「今川義元」の情報だけではなく、「今川義元」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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