NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1700冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 人物
  6. >
  7. 文化人
  8. >
  9. ジャーナリスト・写真家・画家・彫刻家・音楽家
  10. >
  11. ショパン

ショパン

ジャパンナレッジで閲覧できる『ショパン』の日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

ショパン
しょぱん
Fryderyk Franciszek (Frédéric François) Chopin
[1810―1849]

ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新 (ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的に親しまれている。

 父ニコラスは16歳のときからポーランドに移り住んだフランス人、母ユスティナは没落貴族の出のポーランド人で、フレデリック・ショパンは長男としてワルシャワ近郊のジェラゾワ・ウォーラに生まれた。生年月日については諸説があり、1810年3月1日が一般に支持されているが、1809年説も有力である。両親をはじめ家族そろって音楽を愛好したが、4、5歳から姉のルドウィカにピアノの手ほどきを受け、1816年からはウォイチェフ・アダルベルト・ジブヌイに師事した。7、8歳ごろから作曲に興味を示し、民族舞曲やロンドなどいくつかピアノ曲をつくったが、1817年作のポロネーズは作曲後すぐに出版され、最初期の作品として今日に伝えられている。当時から作曲や即興演奏に秀で、ワルシャワの音楽愛好家たちの間では「モーツァルトの後継者」などと噂 (うわさ)されていた。

 1818年2月24日、最初の公開演奏会を開き大成功を収めて、貴族社会の寵児 (ちょうじ)となった。そしてほどなく師のジブヌイをしのぐほどの上達をみせ、ワルシャワ随一の音楽家と世評の高かったユセフ・エルスネルの指導を受けて、1826年にはエルスネルが院長を務めるワルシャワ音楽院に入学した。エルスネルの教育法は独創性を自由に伸ばすことを主眼とし、型にはめることを極力避けるものであった。それはショパンの個性的な作曲語法の形成にきわめて有益であったし、同時にまた、生涯にわたる対位法などの技術修得への渇望や、規模の大きな作品での構成的な苦心の原因ともなった。2年生のときに協奏的作品を課題として与えられ、モーツァルトの主題による『ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ(お手をどうぞ)の変奏曲』を作曲したが、この作品はのちにシューマンの「諸君、帽子をとりたまえ、天才ですぞ」の評言によってショパンの名をヨーロッパ中に広めることになった。この時期、ヨーロッパ楽壇への進出や自作自演による音楽活動への布石としてオーケストラを伴うピアノ作品を集中的に作曲したが、『ロンド・ア・ラ・クラコビアク』(1828)、ピアノ協奏曲第2番ヘ短調、同第1番ホ短調(ともに1830)など、当時ウィーンで人気の高かったベートーベン門下の巨匠チェルニーらの名技主義やフンメルなどに代表される叙情美を多分に意識した技巧的で華やかな作風が特徴的である。

 音楽院を卒業すると、より広い活動の場を求めてワルシャワを離れることを決意、1830年10月に告別演奏会を開き、11月ウィーンに旅立ったが、故国での反ロシア暴動、独立革命失敗の報を聞き悲憤と絶望に憔悴 (しょうすい)した。彼自身は故国の危機に際して同志たちと行動をともにすることを選ばなかったが、この事件は若い魂に決定的な影を落とし、彼の創作の根底に流れる悲劇性やニヒリズムの源となった。ショパンは芸術家として生きるべきことをはっきりと自覚して帰国を断念、以後二度と故国の土を踏むことはなかった。

 1831年9月中旬、自由の都としてさまざまな文化人や芸術家たちの集まるパリに落ち着き、不遇のうちに研鑽 (けんさん)を積むかたわら、連日オペラに通いベッリーニなどから旋律のもつ意味について深い啓示を受け、ピアノという楽器に人間の声のようなしなやかなメロディを歌わせる表現方法を研究、アクセントの移動とリズムのくふう、和声上の革新や音色変化、三部形式を発展させて独自の音楽的発想を盛り込むなど、個性的な音楽語法を確立した。パリではピアニストのカルクブレンナーや、リスト、ロッシーニ、ケルビーニ、ベルリオーズらの作曲家、ユゴー、ミュッセ、ハイネ、バルザック、シャトーブリアン、ラマルティーヌらの文人、画家のドラクロワ、アングルなどが妍 (けん)を競っていたが、ショパンもまた1832年のパリ・デビューの成功によって夜会に招かれ、淑女たちにピアノのレッスンをし、トレードマークになった白い手袋をはめてサロンに出入りし、請われて演奏したり貴族や芸術家たちと交友を結んだ。1836年リストの紹介で女流作家ジョルジュ・サンドを知ったが、2年後にはいっしょに暮らし始め、2人の共同生活は9年間続いた。この間、肺結核を病んでいたショパンの療養のために転地したマヨルカ(マジョルカ)島では『24のプレリュード』(1839)を完成している。その後も悪化する健康状態のなかで、リズムの洗練、複雑化、形式の拡大、幻想性の重視など創作力は豊かさを増し、ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調「葬送」(1839)、同第3番ロ短調(1844)、幻想曲(1841)、『幻想ポロネーズ』(1846)、バラード第2番(1839)、同第3番(1841)、同第4番(1842)などの傑作を次々に発表、名声を博した。1848年、二月革命の喧噪 (けんそう)を避けて多年の宿望だったロンドンに渡り、スコットランドにも旅したが、濃霧や寒さに病状は悪化する一方で、ふたたびパリに帰るが経済的にも逼迫 (ひっぱく)し、孤独と焦燥のうちに1849年10月17日その生涯を閉じた。

 ショパンはピアノの性能が急速に改良・発達しつつある時代に創作期の頂点を迎え、作品は演奏法やペダル技法の拡充と密接に結び付いている。ことにエチュード(練習曲)集には高度な音楽的着想やその成果がちりばめられ、演奏技術を磨くためのエクササイズであると同時に、彼が発見したピアノ表現の奏法上の秘訣 (ひけつ)にさまざまな形を与えた記念碑的な名曲となった。先輩作曲家のなかではバッハ、モーツァルト、フィールドのノクターン様式などを愛し、研究の成果を作曲にも取り入れた。ポーランドの民族舞曲であるマズルカやポロネーズのリズムと精神は彼の大きな支えとなり、それらを芸術的に昇華した名曲を数々生み出している。演奏の容易なワルツやノクチュルヌ(夜想曲)から演奏至難なエチュードまで広く親しまれているが、ピアノ作品以外ではチェロ・ソナタ(1846)と歌曲が比較的よく知られている。

[青澤唯夫]



世界大百科事典

ショパン
Fryderyk Franciszek (Frédéric François) Chopin
1810-49

ポーランドの作曲家,ピアニスト。フランス人を父に,ポーランド人を母に,ワルシャワ近郊に生まれた。4歳からピアノを習い,8歳で公開演奏をするほどの進歩をみせたが,型にはまらない自由な指導を受け,ほとんど独学でピアノ演奏の技術を身につけた。J.S.バッハ,ヘンデル,モーツァルトなどをテキストに用い,この3者に対する尊敬は終生変わることはなかった。早くから作曲に興味を示したが,作品はマズルカやポロネーズのようなポーランドの民俗舞曲や小品が多い。中学に入学後,クヤービをはじめポーランド各地を旅行。農民の生活に密着した民俗音楽の姿を知る。その中から旋法,和声,大胆な転調,移動するアクセントとリズムの複合関係を学び取り,その諸要素を確実に作曲技法として身につけたが,それは生涯を通じて彼の音楽の最も個性的な部分をなしている。高等教育を受ける時期に,ようやく音楽家になることを決意。ワルシャワ音楽院に入学,和声と対位法を専攻,J.A.F.エルスネルの指導を受けた。音楽院の2年次に,課題として協奏的作品を与えられ,モーツァルトの主題を選び,《ラ・チ・ダレム・ラ・マーノの変奏曲》(1827)を作曲。この作品はのちにシューマンによって紹介され,ショパンの名が知られるようになる。この変奏曲に続いて作曲された同じく協奏的作品《ロンド・ア・ラ・クラコビアク》(1828)と《ピアノ協奏曲第1番》《同第2番》(ともに1830)には,ウィーンのチェルニーらの派手なブラブーラ奏法やフンメルなどの抒情的奏法が影響して,かなり技巧的な作風がみられる。

 音楽院を卒業して,1830年末ウィーンに演奏旅行に出発したが,同地に滞在中ワルシャワで反ロシア暴動が起こる。ショパンもポーランド人として暴動に参加することを考えたが,健康上の理由に加えて,芸術家として大成しなければならないという自覚から帰国を断念。その後二度とポーランドに帰ることはなかった。翌31年パリに移り,演奏家・作曲家として認められるまでの数年間は,生涯で最も不遇な時代であったが,彼の音楽のスタイルを完成するうえで貴重な時期でもあった。華美で技巧の冴えを誇るウィーン派の影響を脱し,自然なタッチで微妙な音色の変化を生命とするショパン独得の奏法を確立した。また三部形式から出発して,音楽的発想を作品として完成するための形式上の創造を始めるなど,ショパン独自の音の世界を展開し始めた時でもあった。二つの練習曲集,バラード,スケルツォ,前奏曲集等を,この時期に着手・推敲している。

 36年,著名な女流作家G.サンドに紹介された。当初ショパンは彼女に一種の畏れを感じていたが,サンドの方は高貴なショパンの容貌や繊細な性格,芸術家としての素質に魅せられ,2年後にはこの二人は決定的に結ばれてしまう。このサンドとのマリョルカ島旅行の時に完成した《24の前奏曲》(1839)は,ショパンの音楽が純粋な形で表現された傑作の一つに数えられている。パリ時代の後半は,著しく健康を害したが創作に集中した時期で,ポロネーズにその例をみるように,内容的により豊かになり,形式は拡大してゆき幻想曲風の自由な形式をとりはじめた。歌謡風の旋律はますます磨かれ,ポリフォニックな書法が用いられ,リズムが複雑となっている。《幻想即興曲》(1835),《バラード第4番》(1842),《ソナタ第3番》(1844),《バルカロール》《幻想ポロネーズ》(ともに1846)を次々に発表,ピアノ音楽の作曲家としての地位を不動のものとした。ショパンはヒューマニストとして,ポーランド国民運動の熱心な支持者であり,ポーランド人としての誇りを生涯失うことはなかった。サンドとの恋愛,ドラクロアやハイネとの交遊があるが,パリの社交界の華麗さに流されることなく,つねに精神的独立を守っていた。芸術家としてのショパンは,美に対して厳しい完全主義者であった。
[佐藤 允彦]

[索引語]
Chopin,F.F. ラ・チ・ダレム・ラ・マーノの変奏曲 サンド,G. 24の前奏曲
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


ショパンの関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 422
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. ショパン画像
日本大百科全書
ポーランドに移り住んだフランス人、母ユスティナは没落貴族の出のポーランド人で、フレデリック・ショパンは長男としてワルシャワ近郊のジェラゾワ・ウォーラに生まれた。
2. ショパン(Fryderyk Franciszek (Frédéric François) Chopin)
世界大百科事典
脱し,自然なタッチで微妙な音色の変化を生命とするショパン独得の奏法を確立した。また三部形式から出発して,音楽的発想を作品として完成するための形式上の創造を始める
3. ショパン(Kate Chopin)
世界大百科事典
1851-1904 アメリカの作家。ミズーリ州セント・ルイスの生れ。夫の仕事でニューオーリンズに住む。夫の死後1888年ころから文筆活動を始め,ルイジアナ州のフ
4. ショパン
日本国語大辞典
(Fryderyk Franciszek Chopin フリデリク=フランツィシェク─)作曲家、ピアニスト。フランス人を父としてポーランドに出生。幼時からピアノ
5. ショパン(Chopin, Frédéric François
世界人名大辞典
〔1810.3.1~49.10.17〕ポーランドの作曲家.父はフランス人,母はポーランド人.幼少より才能を発揮し,8歳で公開演奏会をする.ウィーンやドイツ各地を
6. ショパン(Chopin, Kate
世界人名大辞典
〔1850.2.8~1904.8.22〕アメリカの作家.ミズーリ州セントルイス生まれ.父親は成功したビジネスマンでアイルランドからの移民,母方の祖母はフランス系
7. ショパン ケイト
世界文学大事典
して生まれた。母はフランス系。カトリックの学校で教育を受けた。1870年,棉花商人オスカー・ショパンと結婚し,ニューオーリンズに新居をかまえた。9年間に男5人女
8. ショパン国際ピアノ・コンクール
日本大百科全書
ショパンの生地に近いポーランドのワルシャワで5年に一度催されるコンクール。1927年に第1回が催され、その後第二次世界大戦による休止を挟みつつ続けられ、2000
9. ショパン・コンクール【2019】[音楽【2019】]
現代用語の基礎知識
正式にはショパン国際ピアノコンクール 。1927年からポーランドのワルシャワで開催されている、ピアノのみで、課題曲はショパンの曲のみなのが特徴。5年に一度の開催
10. ショパン像[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
ジェラゾワ・ウォーラにあるショパンの生家(ショパン博物館)の庭に建つ。ポーランド ワルシャワ近郊©Shogakukan
11. フレデリック・ショパン国際ピアノコンクール[イミダス編 文化・スポーツ]
情報・知識 imidas
作曲家フレデリック・ショパンの命日である10月17日の前後3週間にわたり、5年に一度、ポーランドのワルシャワで開催されるピアノコンクール。課題曲はショパンのみ
12. マンガ作品の動向【2019】[マンガ【2019】]
現代用語の基礎知識
の人気を集めた。NHK連続テレビ小説『半分、青い。 』では、くらもちふさこ『いつもポケットにショパン 』など、実在の作品が時代を反映するアイテムとして登場。また
13. アイルランド(共和国)画像
日本大百科全書
できる。このほか各種社会保障制度が実施されている。上野 格文化1982年に、アイルランドではショパンに大きな影響を与えたノクターンの作曲家、ピアニストのジョン・
14. 悪魔の文化史 153ページ
文庫クセジュ
の女流作家。歴史の新しい担い手としての力強い民衆像を提示した。田園小説にも優れる。ミュッセ、ショパンとの恋愛でも知られる〔訳註〕。
15. アシュケナージ
日本大百科全書
1963年以来ロンドンを本拠として活躍している。モスクワ音楽院でオボーリンに学ぶ。1955年ショパン国際ピアノ・コンクールで第2位になったのを手始めに、1956
16. アシュケナージ(Ashkenazi, Vladimir Davidovich
世界人名大辞典
〔1937.7.6~〕ソ連生まれのピアニスト,指揮者.6歳でピアノの学習を始め,2年後にモスクワでデビューするという早熟ぶりを見せた.モスクワ音楽院へ進み,オボ
17. アナーキズム 49ページ
文庫クセジュ
書き、また当時の文人名士とのひろい交友と恋愛によって、パリのはなばなしい存在となった。ミュッセ、ショパン、リストらとの恋愛はよく知られている。人道主義、民主主義
18. 雨だれの前奏曲
日本大百科全書
ショパンのピアノ曲。1839年に完成した『24の前奏曲』(作品28)の第15番変ニ長調。曲を通して反復される変イ音(中間部では異名同音の嬰(えい)ト音)が雨の滴
19. アメリカ文学
日本大百科全書
のフェミニズム、女性解放運動のなかで、それまで事実上忘れられていた南部ルイジアナ州のケイト・ショパンKate Chopin(1851―1904)が、アメリカを代
20. アラウ
日本大百科全書
勝後、世界各地で活発な演奏活動を行う。1965年(昭和40)初来日。初めシューマン、リスト、ショパンなどロマン派の作品を得意にしていたが、第二次世界大戦後はベー
21. ありが-かずこ【有賀和子】
日本人名大辞典
のち桐朋学園大教授。ピアノ指導者として知られ,岡本美智子,羽田健太郎,伊藤恵,岡田将らを育てる。日本ショパン協会理事,日本ピアノ教育連盟相談役をつとめる。東京出
22. アルカン(Alkan, Charles Valentin
世界人名大辞典
〔1813.11.30~88.3.29〕フランスの作曲家,ピアニスト,オルガニスト.父や兄弟も音楽家.神童と呼ばれ,父からバイオリンの指導を受けたのち,6歳でパ
23. アルゲリッチ(アルヘリッチ)Argerich, Martha
世界人名大辞典
〔1941.6.5~〕アルゼンチンのピアニスト.生地ブエノスアイレスでスカラムッツァ(Vincenzo Scaramuzza 1885~1968)に学んだ後ヨー
24. アルヘリッチ
日本大百科全書
、ヨーロッパに渡り、グルダ、マガロフ、ミケランジェリに師事。1957年ジュネーブ、1965年ショパンの各国際コンクールに優勝して名をあげた。1970年(昭和45
25. イタリア・オペラ 135ページ
文庫クセジュ
ぎない。ヴェルディの言葉を借りるならば、ベッリーニの「長い、長い、長い」旋律を書く術に対してショパンやワグナーらが上げた感嘆の声は、しかし、音楽のそれぞれのナン
26. イタリア音楽史 236ページ
文庫クセジュ
Sonnambula》(1831),《Beatrice di Tenda》(1833)などのオペラを残し,ショパンやヴァーグナーにもその旋律の高貴さが称讃された
27. イワシキエヴィチ ヤロスワフ
世界文学大事典
知識人の運命を描いた大河小説『栄光と称賛』Sława i chwała(3巻,56−62)。ショパンの生涯に題材を取った『ノアンの夏』Lato w Nohant
28. 牛田智大[コンクール5年連続1位の12歳の天才ピアニストがCDデビュー]
情報・知識 imidas
から1位に選ばれた。国際レベルの優れた演奏家の発掘・育成を目的とした若手ピアニストの登竜門「ショパン国際ピアノコンクール in ASIA」では、8歳から各部門に
29. 内田光子[「デイム」の称号を授与されるピアニスト]
情報・知識 imidas
共にウィーンに移り住み、21歳まで同地で学んだ。69年ベートーベン・コンクール第1位、70年ショパン国際ピアノコンクールでは歴代日本人最高の第2位、75年リーズ
30. 内田光子[第53回グラミー賞で最優秀インストゥルメンタル・ソリスト演奏賞を受賞]
情報・知識 imidas
12歳でウィーンに移り住み、ウィーン国立音楽大学で学ぶ。69年ベートーベン・コンクール第1位、70年ショパン国際ピアノコンクールでは日本人歴代最高となる第2位、
31. うちだ-みつこ【内田光子】
日本人名大辞典
)で松岡貞子に学ぶ。昭和36年外交官の父に同行して渡欧,ウィーンでハウザーに師事。昭和45年ショパン国際ピアノコンクールで2位入賞。モーツァルトのピアノ-ソナタ
32. エチュード
日本国語大辞典
ピアノのエチュードが聞えていようという趣向」*あじさいの歌〔1958~59〕〈石坂洋次郎〉捻挫「曲はショパンの練習曲(エチュウト)のどれからしかったが」(4)演
33. エラール(Érard, Sébastien
世界人名大辞典
〔1752.4.5~1831.8.5〕フランスの楽器製作者.ダブル・アクション・ハープを発明し[1811],これはL.H.ベルリオーズの作品に取り入れられた.ま
34. エリザベート王妃国際音楽コンクール[イミダス編 文化・スポーツ]
情報・知識 imidas
ベルギーの首都ブリュッセルで毎年開かれている世界的音楽コンクール。若手音楽家の登竜門とされ、フレデリック・ショパン国際ピアノコンクール、チャイコフスキー国際コン
35. エルツ(Herz, Henri
世界人名大辞典
〔1803.1.6~88.1.5〕フランスの作曲家,ピアニスト.ウィーンに生まれ,コブレンツのヒュントン(Daniel Hünten 1760~1823)のもと
36. オボーリン
日本大百科全書
ソ連のピアノ奏者。1927年第1回ショパン国際コンクールで優勝、ソ連の代表的新鋭と目された。38年からダビッド・オイストラフと組んで二重奏を、41年からさらにス
37. 音楽画像
世界大百科事典
いわゆるロマン派は,個人的感情の表現を重視し,F.シューベルト以来のドイツ歌曲,シューベルト,R.シューマン,ショパンなどに見られる抒情的オペラやR.ワーグナー
38. 音楽コンクール
日本大百科全書
ール。スイスのモントルー・ブベー音楽祭のなかで開催)・ショパン国際ピアノ・コンクール(1927年から5年ごとにワルシャワで開催。ショパンの作品のみによる)・ブザ
39. 音楽コンクール
世界大百科事典
国際音楽コンクール,ショパン国際ピアノ・コンクール(ポーランド,1927創設)などが群を抜いている。成沢 玲子 concours 作曲コンクール 演奏コンクール
40. 改訂新版 音楽の形式 56ページ
文庫クセジュ
完全な意味でのエテュード〔練習曲〕は、音楽そのものと名人芸とにほぼ等しくかかわるべきものであり、ショパンの場合がそうである。エテュードの起源はかなり昔にさかのぼ
41. 改訂新版 音楽の形式 86ページ
文庫クセジュ
その構造はきまったものではないが、多くの場合ABAという図式に従っている。即興曲は、とりわけシューベルト、ショパン、フォーレなどの十九世紀ピアノ音楽において、非
42. 改訂新版 音楽の形式 125ページ
文庫クセジュ
その名が示すとおり、フーガや舞踊組曲など他のいくつかの曲の導入部たる機能をもつ。しかしながら、ショパンやドビュッシーのような作曲家たちは、それだけでじゅうぶんに
43. 改訂新版 音楽の形式 126ページ
文庫クセジュ
きわめつくしたと言いたくなるだろう。だがこの更新は、なによりも様式面で行なわれる。たとえば、ショパンやドビュッシーのプレリュードは、表現のうえでは驚嘆すべきもの
44. 改訂新版 音楽の形式 141ページ
文庫クセジュ
そして、非舞踊的であるといういっそう近代的な性格およびリズムの面で、メヌエットとは異なっている。ショパンはスケルツォを独立した作品として扱う。右に述べた二つの側
45. 改訳 音楽の歴史 3ページ
文庫クセジュ
ベートーヴェン ―― シューベルト ―― ヴェーバー ―― シューマン ―― メンデルスゾーン ―― ショパン ―― ベルリオーズ ―― リスト ―― 叙情劇の
46. 改訳 音楽の歴史 110ページ
文庫クセジュ
創刊し、そこでアカデミックな精神、一般の悪趣味、音楽家や公衆の因習に対して戦いを起こした。彼はショパンの天才の出現にあたり、これをまっさきに認め、これに敬礼した
47. 改訳 音楽の歴史 114ページ
文庫クセジュ
ショパン  ショパン(一八一〇 ― 四九)の芸術は孤立した現象である。彼の場合、前駆者も指摘できなければ、後継者も見いだせない。ショパンを模倣すれば必ず腰骨を折
48. 改訳 音楽の歴史 115ページ
文庫クセジュ
ジョルジュ・サンドははじめ、その《病身の愛人》のそばで半分は母親のような役割をつとめていた。そのころからすでにショパンは結核に冒されており、けっきょくこれで死ん
49. 改訳 音楽の歴史 116ページ
文庫クセジュ
 ショパンはもっぱらピアノのために作曲した。彼はピアニストとして考え、かつ創作している。そうして彼の手によってはじめて生きてくるような音の組合せを、ピアノから引
50. 改訳 音楽の歴史 117ページ
文庫クセジュ
ベルリオーズ  ショパンと同じく、ベルリオーズも孤立しており、音楽史上の特殊な一例である。ショパンはピアノ音楽に多くの特異な魅惑をもたらした。ベルリオーズの革新
「ショパン」の情報だけではなく、「ショパン」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

ショパンと同じジャーナリスト・写真家・画家・彫刻家・音楽家カテゴリの記事
福地源一郎(国史大辞典)
一八四一-一九〇六明治時代の代表的ジャーナリスト。天保十二年(一八四一)三月二十三日、医師福地苟庵と松子の長男として長崎に生まれる。幼名は八十吉、長じて源一郎と称す。諱は万世。桜痴は、江戸で馴染みとなった芸妓「桜路」に因んで付けた号。少年時代より神童
アーネスト・サトウ(東洋文庫)
幕末・明治維新の激動期に,日本語を自在に駆使して活躍したイギリスの外交官アーネスト・サトウ。日本,シャム,清国,モロッコ各地でのエピソードを交えてその生涯を活写する。1999年02月刊【閲覧画面サンプル】【目次】表紙(扉)はじめに序章神秘な異国日本へ
モネ(岩波 世界人名大辞典・世界大百科事典)
フランスの画家,印象派の開拓者,指導者.パリに生まれる.少年時代をルアーヴルで過ごして海と陽光の美しさに啓発され,同地でブーダンに師事し風景画に開眼する.パリに戻り[1859],はじめトロワイヨン,のちグレールに師事し,P.A.ルノワール,シスレー
ロダン(日本大百科全書・世界大百科事典・岩波 世界人名大辞典)
フランスの彫刻家。生気に満ちた写実主義、モニュメンタルな表現性、象徴主義的なテーマ、彫刻を量塊(マッス)としてとらえ、その動きと表現的な肌によって周辺空間と関連させる手法などにより、19世紀の彫刻に活気を与え、現代彫刻への道を開いた近代彫刻最大の芸術
ベートーベン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ドイツの作曲家。盛期古典派から初期ロマン派への転換期に56歳の生涯を送ったベートーベンは、古典派音楽様式を極点にまで高めるとともに、19世紀の音楽家たちにとっての偶像的な存在となり、後世に無限の広範な影響を与えた。[中野博詞]▲生涯フランドルから移住
ジャーナリスト・写真家・画家・彫刻家・音楽家と同じカテゴリの記事をもっと見る


「ショパン」は人物に関連のある記事です。
その他の人物に関連する記事
ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
人物に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1700冊以上(総額750万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶