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スタンダール

ジャパンナレッジで閲覧できる『スタンダール』のデジタル版 集英社世界文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

デジタル版 集英社世界文学大事典

スタンダール
Stendhal
フランス 1783.1.23-1842.3.23
フランスの小説家。本名アンリ・ベールHenri Beyle。小説のほか,文芸批評,美術・音楽論,旅行記,評伝,自伝なども手がけており,未定稿や日記,書簡の類いを併せれば,執筆量は膨大なものになる。文筆活動以外にも,ナポレオン時代の軍人・軍属としての経歴,七月王政下の外交官としての経歴があり,また周知の数多い恋愛遍歴に彩られた生涯は,自ら選んだ墓碑銘「生きた,書いた,愛した」がみごとにこれを要約している。
 1783年,フランス東部の都市グルノーブルに生まれた。家は代々の法曹家で,父は同市高等法院所属の弁護士,母の実家は医家で,ともに裕福なブルジョワである。少年アンリの精神生活はかなり特異なものだった。彼は母を熱愛し,父を憎悪した。父親は,やや視野は狭いものの,きまじめな堅物であったにすぎない。が,少年は,熱愛する母,音楽好きでダンテを原語で読み,快活で,おそらく肉感的な美人でもあった母親と自分の間を引き裂く存在として,父を意識した。「母は魅力的な人だった。そして私は母に恋した……父が私たちのキスを邪魔をしに来るときなどは,無性に父が憎らしかった」という自伝の一節は,典型的なエディプス・コンプレックスの記録と言えよう。この母を,彼は7歳のとき失った。「この時から私の精神生活が始まる」。大嫌いな父,口やかましい信心家の老嬢である叔母セラフィー,狭量な厳格派の家庭教師ライヤーヌ神父,以上3人の抑圧者に取り囲まれた自分を,少年は〈奴隷〉だと思う。「私は暗く,陰険で,不平家だった……」。この種の形容詞を彼は自伝の中で何度繰り返していることだろう。しかし,この不幸,ないし彼がそう信じたものこそ,やがて作家となるべき少年の魂を鍛えあげるのに力あったことは言うまでもない。彼はこの時期に,愛すべきものと憎むべきものを截然(せつぜん)と区別することを学び,かつ生涯その区別に忠実だったのである。憎むべきものとは,父であり,セラフィーであり,ライヤーヌであり,彼らが代表する偽善,曖昧(あいまい),不合理,そしてブルジョワ的分別だった。他方,彼が愛したのは,亡き母であり,母方の祖父ガニョンであり,大伯母エリザベートである。祖父は少年に18世紀的啓蒙(けいもう)思想と文芸への愛を植えつけ,また〈人間の心を知ること〉の重要さを説いた。大伯母が彼に吹きこんだものは,いわゆる〈スペイン気質〉すなわち高貴さ,偉大さに対する無打算の熱狂的傾倒だった——少なくともスタンダールはそう信じている。これに,放蕩(ほうとう)家の叔父ロマン・ガニョンから学んだドン・フアン的人生訓をつけ加えれば,反抗児アンリの受けた家庭教育をほぼ概観したことになるだろう。
 13歳でグルノーブル中央学校に入学。これは大革命後の新しい教育理念に沿ってその年創設された学校だが,ここで彼が発見した情熱は数学だった。「二つの仇敵(きゆうてき),偽善と曖昧を許さぬもの」として彼が熱愛した数学は,大嫌いな故郷から彼をパリへ連れ出してくれた。卒業試験で数学の首席をとったため,理工科学校(ポリテクニツク)受験の機会に恵まれたのである。しかし上京した少年の本心は「モリエールのような劇作家になる」こと,「女優を恋人にする」こと,すなわち,〈書き〉〈愛する〉ことにあった。結局,受験は放棄される。のみならず,山出しの16歳の少年は,大都会の孤独に耐えきれずノイローゼ状態に陥ってしまう。救いの手を差し伸べてくれたのは親戚(しんせき)の陸軍高官ダリュで,その斡旋(あつせん)によりアンリはナポレオンのイタリア遠征軍に加わることになり,竜騎兵少尉としてアルプスを越え,17歳の春,初めてイタリアの土を踏んだ。灰色の年月ののちに,ついに訪れた解放としてのイタリア経験は,彼にとって決定的だった。彼はここで自由を知り,愛と快楽を,美と音楽を知り,イタリア人の生き方を知る。以来,イタリアは,ことにミラーノは,彼の精神的故郷となった。
 まもなく軍職を去り,1802年に再びパリへ出た青年ベールは,以降数年間,劇作家を志して文学修業に精進する。彼は劇作の前提として人間研究の深化を自らに課し,その基礎をエルヴェシウスカバニスデスチュット・ド・トラシーらの〈イデオロジー哲学〉(観念学)に置いた。彼らの著作をはじめ有用と思われる書物を片端から濫読するかたわら,熱心に観劇に出かけ,また自らの人間観察をノートし,彼一流の人間学を構築しようと試みる。執拗(しつよう)な努力にもかかわらず,直接の成果としては数編の劇の断片的草稿を得たにとどまるが,後年の小説家の形成にとって,この時期の修業の意味は計りしれない。
 1804年末,女優メラニーを知ったベールはまもなく恋におちる。この事件は人間観察家に絶好の機会を提供した。当時の日記はメラニーとの交渉の記述に埋め尽くされている。ひとかどの誘惑者を気取る青年は,実際行動においては不器用きわまる臆病(おくびよう)者でしかない。その一方,日記の中で以上の事情を冷静に分析するもう一人の彼がいる。この両者の関係は,後年の小説における主人公と作者の関係になんと酷似していることか。ある評家が,この時代のスタンダールの日記を〈無意識的小説〉と呼んだのも故ないことではない。メラニーとの恋は,彼女の出演先のマルセイユで同棲(どうせい)生活を送るところまで進展するが,破局は意外に早く訪れ,1年ほどで2人は別れた。
 1806年から14年の帝政崩壊まで,ベールは,軍属として,また官僚として,さまざまの役職に就き,ヨーロッパ各地を転々とした。文学よりも,社会的地位を築くことに野心を燃やした時期と言ってよい。生活は派手になり,女性遍歴も多彩である。一時はオペラ・ブッファの歌姫を囲って豪奢(ごうしや)な生活を送ったこともあり,知事職や爵位を夢みたことすらあった。
 1814年「ナポレオンと共に失脚」。失意のベールは今や精神的故郷イタリアへ赴くことを熱望する。その前に,小遣い稼ぎの意味もあって書きとばしたのが,処女作『ハイドン・モーツァルト・メタスタージョ伝』Vies de Haydn, de Mozart et de Métastase(1815)である。大部分は他人の著作からの剽窃(ひようせつ)だが,最愛の作曲家モーツァルトを語った部分には,さすがに独創的な見解が光る。ミラーノへ戻ったベールは,まもなく愛人アンジェラの裏切りに遭い,絶望のうちに彼女との関係を断つ。が,〈愛する〉ことに挫折(ざせつ)し傷ついたとき,〈書く〉ことに最良の治療法を見いだすのは彼の常である。後述のメチルドに失恋した際は『恋愛論』,クレマンチーヌのときは『アルマンス』,アルベルトのときは『赤と黒』。そしてこの場合は『イタリア絵画史』Histoire de la peinture en Italie(17),およびイタリア印象記『ローマ・ナポリ・フィレンツェ』Rome, Naples et Florence(17)だった。後者で,初めてスタンダールという筆名が用いられた。
 ミラーノ時代の彼にとって最大の事件は,18年から21年へかけてのメチルド(本名マティルデ・デンボウスキ)への不幸な恋である。この多感な魂をもつ美貌(びぼう)の人妻へスタンダールが寄せた思慕は,その生涯において最も純粋かつ熱烈なものだった。この体験をふまえて書かれた『恋愛論』(22,解説後出)は,単に恋愛に関する〈イデオロジー〉的分析の書ではなく,メチルドへの私的告白の様相をも呈している。メチルドは求愛を拒み続け,彼は何度も死を思うほど絶望に陥った。加えて,著作の不穏当な字句や自由主義者との交際などからオーストリア官憲ににらまれるという事態も生じ,21年6月,やむなく彼はミラーノを去った。再会の機はついになく,メチルドは25年に病没する。しかし,スタンダールはとうに自身の墓碑銘を選んでいた——「アッリゴ・ベーレ,ミラーノ人……」。
 ミラーノ人ベーレは,祖国にあって異邦人でしかない。絶望をおし隠すため,彼は努めて陽気を装い,辛辣(しんらつ)な才気で人々を煙に巻く。定職もなく,サロンを放浪するうちに,やがて〈書く〉欲求が彼の内部に目ざめたらしく,フランス・イギリスの諸雑誌への多種多様な評論の寄稿が始まる。ロマン派に与(くみ)して古典派をこきおろした『ラシーヌとシェイクスピア』Racine et Shakspeare(第1部23,第2部25)もこの系列の仕事である。こうした文壇放浪時代の著作としては,ほかに『ロッシーニ伝』Vie de Rossini(23),『ローマ散策』Promenades dans Rome(29)があるが,小説としての処女作『アルマンス』(27,解説後出)は,キュリアル伯爵夫人クレマンチーヌとの恋の破局の直後に書き始められた作品である。性的不能者の絶望的な恋をテーマとしたこの小説は,作者の失恋体験を反映したものであると同時に,「1827年のパリのサロン風景」という副題が示すとおり,王政復古期(レストラシヨン)の貴族社会の頽廃(たいはい)を告発するという意図をも秘めていたが,世評を得るには至らなかった。
 長い不遇ののち,30年の七月革命は彼に領事職をもたらした。前後して出版した『赤と黒』(30,解説後出)は長編小説の第2作であり,彼の代表作と目されるが,当時はバルザックほか一部の文壇人に注目された程度で,好評を得たとは言いがたい。成立の事情については〈解説〉で触れるが,ヒロインの一人マチルドのモデルになった2人の恋人,奔放な人妻アルベルト,風変わりなイタリア人少女ジューリアが,執筆のころ作者の周辺にいたことを記しておく。
 1831年からその死に至るまで,スタンダールはローマの外港チヴィタヴェッキア駐在のフランス領事の職にとどまった。領事は職務にはなはだ不熱心だった。折さえあればローマの社交界に顔を出し,狩猟や遺跡発掘,あるいはイタリア語古文書の蒐集(しゆうしゆう)などに鬱屈(うつくつ)を紛らわす。が,最大の慰めは,やはり〈書く〉ことにあった。すでに五十の坂にさしかかったベールは自問する。自分は何ものか? 何ものであったか? こうして彼は自伝の筆を執る。われわれに遺(のこ)されたものは,21年ごろのパリ生活を回顧した『エゴチスムの回想』Souvenirs d'égotisme(32執筆,1892没後刊),幼少年期を語った『アンリ・ブリュラールの生涯』(35−36執筆,1890没後刊,解説後出)である。いずれも未完の草稿だが,スタンダールという人物を知るための鍵となる証言を多々含む貴重な資料である。この2つの自伝に挟まれて未完の長編『リュシヤン・ルーヴェン』(34−35執筆,1894没後刊,解説後出)が位置する。これは旧知の某夫人の『中尉』Le Lieutenantと題する小説原稿がヒントになって書かれた作品で,詳しくは〈解説〉に譲るが,槍騎兵(そうきへい)少尉リュシヤンも,『赤と黒』のジュリヤン,『パルムの僧院』のファブリスと同様,作者の分身であることに変わりはない。しかし,さまざまな事情が重なって,この作品は結局未完に終わった。
 領事は再び鬱屈する。「太陽はもうたっぷり見た!」。今や彼にとって必要なのは,「汽船に石炭が必要なように,日に3,4立方フィートの新しい思想(イデー)」なのである。36年,庇護(ひご)者,外相モレの好意により,スタンダールは実に3年もの長期休暇を得てパリに帰る。このフランス滞在は,滋味あふれるフランス漫遊記『ある旅行者の手記』Mémoires d'un touriste(38)を副産物として生むことになるが,この時期,小説の創作はそれにも増して多産だった。37~39年にかけて,スタンダールは,後年『イタリア年代記』(解説後出)の総称を与えられる短編群を続々と発表しているが,いずれも往古のイタリア人の精力(エネルジー)を称(たた)える激しい物語である。この作品群の延長線上に,生涯の傑作『パルムの僧院』(39,解説後出)が位する。古文書『ファルネーゼ家隆盛の起源』をもとに短編を書く計画が突如変更されてこの長編が生まれたのは,われわれの幸福と言わねばなるまい。のちに教皇パウルス3世となる青年アレッサンドロ・ファルネーゼの物語は,19世紀初頭のイタリア貴族の息子ファブリス・デル・ドンゴの物語に換骨奪胎される。ナポレオンにあこがれるファブリスは,スタンダールの生んだ〈息子たち〉のうちの末子である。作者はそれにふさわしい愛情を主人公に注いだ。魂の故郷イタリアという枠を得て,彼の想像力はかつてない昂揚(こうよう)をみせ,この長編はわずか50余日の口述筆記によって成った。
 1839年,チヴィタヴェッキアに帰任したのちも創作欲は衰えず,長編『ラミエル』Lamiel(1889没後刊)に着手する。従来とはやや作風を変えた一編をものしようとの意図をもっていたようだが,他の長編と違って〈下敷き〉がなかったせいか,スタンダールの筆は思うように伸びず,結局この〈スカートをはいたジュリヤン・ソレル〉の物語は未完に終わった。
 このころから,スタンダールの健康は急速に悪化する。若いころの放蕩がたたったものか,激しい偏頭痛に悩まされたり,一時的に失語症に陥ったりしている。〈愛する〉男スタンダールにとって,40年に彼の心をとらえたアーライン(おそらくチーニ伯爵夫人の偽名)は,老境にかいま見た最後の恋の幻影だったろう。
 任地で病苦と倦怠(けんたい)に悩まされている老領事にとって大きな慰めは,40年バルザックが雑誌に発表した『パルムの僧院』への賛辞だった。「各ページに崇高が輝く」という絶賛は,スタンダールが生前に受けた最大の,そしてほとんど唯一の称賛と言っていい。41年3月,最初の脳卒中の発作。「虚無と襟首をつかみ合いました」と,後日友人に書き送る。それでも,同年11月,3度目の,そして最後の賜暇を得て,パリへ帰った。静養ののち,翌年3月には『ラミエル』の草稿に手を入れたり,『イタリア年代記』のうちの1編に着手するなど,〈書く〉意欲は依然衰えをみせていないが,健康はもはや完全に蝕(むしば)まれていた。3月22日の夕方,パリの街頭で,脳出血の発作に襲われて昏倒(こんとう),意識を回復せぬまま翌未明没した。
 小説家スタンダールの功績は,近代小説におけるリアリズムの一つの型を打ち立てた点にある,と言ってよいだろう。『赤と黒』の副題「1830年年代史」が暗示するとおり,作者が年代史作家(クロニクール)としてフランスの現実を描くことを自らに課していたことは,他の多くの証拠から明らかであり,また,『赤と黒』の自家所蔵本への書き込み「人はもはや小説においてしか真実に到達し得ない」という省察を胸に畳んでいたことも確かである。これに「小説,それは往来に沿って持ち歩かれる鏡である」という例の有名な警句を重ね合わせてみよう。たしかに彼の小説は,〈鏡〉を標榜(ひようぼう)し〈年代史〉を意図するとはいっても,バルザックのそれのように社会総体のパノラマを志すものではない。むしろ,物語はただ一人の主人公をめぐって展開する,という印象が強い。つまり,スタンダールの〈鏡〉は,時代を,社会を,政治を映し出しはするが,それはほとんど常に主人公というレンズを通じてなのである。作中であれほど内的独白が多用されるゆえんであろう。また,創作ノートに言う——「風俗の描写は小説中において味気ないものだ……描写を驚きに変えてみるがいい,描写は一つの感情になるだろう」。スタンダールの小説の主人公たちの髪の色,瞳(ひとみ)の色を,人はあまり覚えていない。書かれていないわけではないが,記憶に残らないのである。バルザックなら舌なめずりして書きつづるであろうサロンの調度や女性の服飾などについても,筆は極度に抑えられる。その種の描写はスタンダールの関心外にあるらしい。それよりも,現実のさまざまな動きに直面して揺れ動く主人公の内面を的確に捉え,神速の筆によって紙上に移す——これがスタンダールの創作の最大の秘密,すなわち,心理的リアリズムの骨法なのである。
 ところで,小説中の特権的なレンズにほかならぬ主人公たちを,彼はどのように設定したか。言うまでもなく,自己の分身としてである。その意味では,スタンダールの主人公たちはいずれも作者と等身大の存在であり,互いによく似通った人物たちである。スタンダールは生涯にただ一種類の小説を書いた作家だ,と言われることがあるが,たしかに彼の三大長編小説は,いずれも青年主人公(ジュリヤン,リュシヤン,ファブリス)の社会への登場とその教育の物語であるという意味で軌を一にしているし,優れた資質をうけた純潔な青年が,世間の麈(ちり)にまみれつつも,結局は外界と同化し得ない自己の本性を苦渋のうちに再確認するという基本構造においても,また,主人公をめぐる2人の,そして2種類の女性(レナール夫人とマチルド,シャストレール夫人とグランデ夫人,クレリアとサンセヴェリーナ夫人),あるいは,青年主人公を,ときに皮肉にときにひそかな愛情をこめて見守る年配の保護者(ラ・モール侯爵,父ルーヴェン,モスカ伯爵)という人物配置においても,同一のパターンが踏襲されていると言っていい。性的不能者オクターヴや,ジュリヤンの女性版を目指したかに見えるラミエルの場合には,かなりの留保が必要だろうが,それでも若き主人公の挫折というテーマについては一貫している。
 スタンダールの主人公たちは作者の理想化された姿だ,というのもかなり流布した説であるが,これには多少の検討を加える要があろう。たしかに,主人公の才能や肉体的美点については〈理想化〉を云々できようが,ひるがえって彼らの内面の葛藤(かつとう)なり,行動の軌跡なりを検討してみるに,作者自身の内面の矛盾や,常に冷静と明敏を志しながら感性の発作に足をすくわれるという失敗のパターンは,作中人物においてなんら緩和されてはいない。むしろ筋の進行は,多く主人公の失敗に原動力を負うているとすら言える。作者は,主人公の失敗を通じて,かつての自己の失敗を分析することに皮肉な快楽を味わういっぽうで,失敗せざるを得なかった自己の本性を確認し,また容認する契機をも見いだす。理想化されたのは,実は自己認識のための視点にほかならない。不惑の年を越えた作者が青年主人公のうちに投影された自己を分析する——作品中におけるこの作者の奇妙な二重生活こそ,スタンダールの多くの小説に共通する構成の秘密である。作者が〈若き主人公の社会へのデビュー〉というテーマを飽かず繰り返したゆえんであろう。主人公への揶揄(やゆ)ないしは注釈という形で頻用される〈作者介入〉の技法,前言した内的独白の多用,人物の〈驚き〉をなぞるように鋭角的な屈折を重ねる跳躍的文体,原因ぬきに結果を述べ,あるいは逆に結果を全く言い落とす,しかし心理的には極めてリアルな叙述法。スタンダールは実にさまざまの〈非連続〉によってその小説を構築してゆく。
 発想と手法の斬新(ざんしん)さによって生前多くの理解は得られなかったが,まさにその故に,自ら予言したとおり,死後50年,100年を経て,彼の作品はますます多くの読者を獲得していった。テーヌブールジェバレスらによる再発見を経て,スタンダール研究が本格化するのは20世紀に入ってからのことである。日本への紹介は,明治末年の上田敏に始まり,『赤と黒』の初訳が1922(大正11)年,本格的翻訳が出始めるのは昭和期以降になる。なかでも『赤と黒』は,あらゆる翻訳小説中最も多くの読者を獲得した作品の一つと言って間違いあるまい。
(冨永明夫)


日本大百科全書(ニッポニカ)

スタンダール
すたんだーる
Stendhal
[1783―1842]

フランスの小説家。本名アンリ・ベールHenri Beyle。19世紀前半のフランスの小説家としてバルザックと並び称されるが、ほかに文芸評論、旅行記、評伝、自伝などにも手を染めている。文筆活動以外にも、ナポレオン時代の軍人、軍属、また七月革命以後の外交官の経歴があり、周知の数多い恋愛遍歴に彩られた生涯はきわめて波瀾 (はらん)に富む。

[冨永明夫]

生涯

1783年1月23日、フランス東部ドーフィネ地方の首府グルノーブルの裕福なブルジョア家庭に生まれる。少年ベールの精神生活はかなり特異なものだったようだ。彼は母を熱愛し、ひたすら父を憎悪した。「母は魅力的な人だった。そして私は母に恋していた……父が私たちのキスを邪魔 (じゃま)しにくるときなどは無性 (むしょう)に父が憎らしかった」という自伝の一節は、典型的なエディプス・コンプレックスの記録といってよいだろう。その母を、彼は7歳のとき失った。「このときから私の精神生活が始まる」と彼はいう。大嫌いな父、狂信家の老嬢である叔母、家庭教師の神父に囲まれた自分を、少年は奴隷だと思う。地方都市のブルジョア家庭の保守性・偽善性への反発、他方リベラルな母方の祖父から授けられた18世紀的合理主義思想と文芸への愛、なによりも高潔を愛する大伯母から吹き込まれた「スペイン気質(エスパニヨリスムespagnolisme)」、さらに放蕩 (ほうとう)家の叔父から学んだドン・ファン的人生訓、以上がこの反抗児の教育の総体である。数学に秀でたため、16歳でパリに上京、理工科学校(エコール・ポリテクニク)受験の機会に恵まれたものの、彼の本心は「モリエールのような劇作家になる」ことであり、結局受験は放棄した。が、親戚 (しんせき)の陸軍高官の世話でイタリア遠征軍に加わり、17歳の1800年初夏、アルプスを越えてミラノの土を踏む。灰色の年月ののちに訪れた解放としてのイタリア体験は彼にとって決定的だった。彼はこの地で自由を知り、愛と快楽を、美と音楽を、そしてイタリア人の生き方を知る。それ以来イタリアは彼の精神的故郷となった。

 まもなく軍職を離れ、1802年ふたたびパリへ出たベールは、以降数年間、劇作家を目ざして文学修業に精進する。読書、観劇のかたわら、エルベシウス、カバニス、デスチュット・ド・トラシなどの「イデオロジー哲学」に傾倒、その影響下に彼一流の人間学構築に腐心した。執拗 (しつよう)な努力にもかかわらず劇作にみるべき成果はなかったが、この時期の修業の意味は計り知れない。後年の小説家の素地は多くこの時代に培われたのである。この間、女優メラニーに恋して出演先のマルセーユまで同行したが、これは彼が初めて経験した同棲 (どうせい)生活でもあった。1806年から1814年の帝政崩壊まで、ベールは軍属として、また官吏としてさまざまの役職につき、ヨーロッパ各地を転々とした。文学よりも社会的地位を築くことに野心を燃やした時期といってよい。

 1814年、ナポレオンの没落とともに失職。以後、文筆活動が本格化する。『ハイドン・モーツァルト・メタスターシオ伝』(1815)を皮切りに、ミラノ移住後の『イタリア絵画史』(1817)、『ローマ・ナポリ・フィレンツェ』(1817)が続く。後者で初めてスタンダールなる筆名が用いられた。1818年に知り合ったマチルデ・デンボウスキは生涯最大の恋人だったが、この恋は実らず、その経験はのち『恋愛論』(1822)に結晶する。1821年、それまでの執筆活動とリベラル派との交際から官憲ににらまれてミラノ退去の勧告を受け、マチルデへの恋に絶望しつつパリへ戻る。王政復古下のパリで、彼は失意の文壇放浪児でしかない。定職もないまま、フランス、イギリスの諸雑誌に多種多様の評論の寄稿が始まる。ロマン派への援護射撃『ラシーヌとシェークスピア』(1823、1825)もこの系列の仕事である。ほかに『ロッシーニ伝』(1823)、『ローマ散歩』(1829)があるが、小説としての処女作『アルマンス』(1827)は、性的不能者を主人公とする特殊な主題を扱いながら、その点を包み隠した作品だったため、さして注目を集めるに至らなかった。

 長い不遇ののち、1830年の七月革命は彼に領事職をもたらした。前後して出版された『赤と黒』(1830)は彼の代表作だが、好評を博したとはいいがたい。以後は、ローマ近郊のチビタベッキアの領事として同地とローマの間を往復し、かたわら何回か年単位の休暇を得てパリに遊ぶ生活が続く。職務に倦 (う)む領事は書くことに慰めをみいだした。二つの自伝『エゴチスムの回想』『アンリ・ブリュラールの生涯』、長編小説『リュシヤン・ルーベン』『ラミエル』はいずれも未完(死後刊行)に終わったが、『カストロの尼』(1839)を含む「イタリア年代記」と総称される中短編群、『ある旅行者の手記』(1838)などを発表。ことに、『イタリア年代記』の延長線上に位する『パルムの僧院』(1839)は生涯を締めくくる傑作である。1842年3月22日、パリ滞在中に街頭で卒中の発作に襲われ、意識を回復しないまま翌23日没した。

[冨永明夫]

小説技法と特徴

小説家スタンダールの功績は、近代小説におけるリアリズムの一つの型を打ち立てた点にある。『赤と黒』の副題「1830年年代史」が暗示するとおり、作者が年代記作家としてフランスの現実を描くことを課題としていたことは多くの証拠から明らかであり、「人はもはや小説においてしか真実に到達しえない」という省察を胸に畳んでいたことも確かである。これに「小説、それは往来に沿って持ち歩かれる鏡である」という彼の有名な警句を重ね合わせてみればいい。確かに彼の小説は、バルザックのそれのように社会総体のパノラマを志すものではなく、むしろただ1人の主人公の物語に終始することが多い。スタンダールの鏡は、時代を、社会を映し出しはするが、それはほとんどつねに主人公というレンズを通じてなのである。作中であれほど内的独白が多用されるゆえんであろう。また創作ノートにいう「風俗の描写は小説中において味気ないものだ(中略)描写を驚きに変えてみるがいい、描写は一つの感情になるだろう」。現実に直面して揺れ動く主人公の内面を的確にとらえ、神速の筆に移す、これがスタンダールの創作の最大の秘密、すなわち心理的リアリズムの骨法なのである。

 ところで、小説中の特権的なレンズにほかならぬ主人公を、彼はどのように設定したか。いうまでもなく自己の分身としてである。スタンダールの主人公は作者の理想化された姿だとよくいわれるが、作者自身の内面の矛盾や、明敏を志しつつ感性の発作に足をすくわれるという失敗のパターンは、作中人物においてなんら緩和されていない。むしろ小説の筋は、多く主人公の失敗にその原動力を負うている。作者は、主人公の失敗を通じてかつての自己の失敗を分析することに皮肉な快楽を味わう一方で、失敗せざるをえなかった自己の本性を確認し、容認する契機をみいだす。理想化されたのは、実は自己認識のための視点にほかならない。不惑の年を越えた作者が青年主人公のうちに投影された過去を生き直す――作品中における作者のこの奇妙な二重生活こそ、スタンダールの多くの小説に共通する構成の秘密である。作者が「若き主人公の社会へのデビュー」というテーマを飽かず繰り返したゆえんであろう。

 主人公への揶揄 (やゆ)ないし注釈という形で頻出する作者介入の技法、内的独白の多用、人物の「驚き」をなぞるように、鋭角的に屈曲する跳躍的文体、原因抜きに結果だけを述べ、あるいは逆にまったく結果を省略する、しかし心理的にはきわめてリアルな叙述法、スタンダールは実にさまざまな非連続的手法によってその小説を構築していく。発想と手法の斬新 (ざんしん)さのために生前多くの理解は得られなかったが、まさにそのゆえに、自ら予言したとおり、死後50年、100年を経て、彼の作品はますます多くの読者を獲得していったのである。

[冨永明夫]



世界大百科事典

スタンダール
Stendhal
1783-1842

フランスの小説家。本名アンリ・ベールHenri Beyle。地方都市グルノーブルの富裕なブルジョア家庭の生れ。7歳で母を失い,父や家庭教師に代表されるブルジョア的偽善を憎みつつ反抗的な少年時代を送る。数学に優れたため,16歳でパリに出て,名門校受験の機会に恵まれたものの,彼の本心は〈モリエールのような劇作家になる〉ことにあり,結局は受験を放棄,やがてナポレオンのイタリア遠征軍に加わり1800年春ミラノの土を踏む。灰色の年月の後に訪れた解放としてのイタリア体験は決定的だった(彼が自ら選んだ墓碑銘は〈アッリゴ・ベール,ミラノ人。生きた,書いた,愛した〉である)。まもなく軍職を離れ,パリで1805年ごろまで劇作家を目ざして文学修業に精進するが,少年時代以来,彼の精神形成に最も深くかかわったのは18世紀的合理主義であり,この時期の修業は後年の作家の形成に深い意味をもつ。その後再び軍属としてナポレオン軍に従い,モスクワ遠征を含む外地体験を積み,また官吏としてパリで華やかな生活も経験した。

 1814年帝政崩壊とともに失職,以後文筆活動が本格化する。第二の故郷イタリアでの長期滞在,多く不幸な結末に終わる数々の恋愛事件,筆禍によってミラノを追われパリで文壇を放浪した失意の時代を経るうち,評伝,旅行記,美術評論,文芸時評に筆を染めた。なかでは《恋愛論De l'amour》(1822)が有名だが,小説としては《アルマンス》(1827)が処女作である。長い不遇の後,1830年七月革命後の政変で領事職を得たが,この年発表した《赤と黒》が彼の代表作となる。以後ローマ近郊のチビタベッキアに領事として駐在する一方,休暇を得て何回かパリに長期滞在する生活が続き,その間に長編小説《リュシアン・ルーベン》《ラミエル》,自伝《エゴティスムの回想》《アンリ・ブリュラールの生涯》(いずれも未完,死後発表)を執筆,また《カストロの尼》(1839)をはじめとする《イタリア年代記》の諸編,《旅行者の手記》(1838)などを発表したが,38年パリで口述筆記により完成した長編《パルムの僧院》こそ生涯の傑作であろう。死は,42年パリ滞在中に,街頭で脳卒中のかたちで彼を襲った。

 ロマン派の時代に生きながらロマン派の饒舌に耐ええなかった感性豊かな魂が,18世紀的合理精神に拠りつつ,自らの内面の自伝を語るとすればどうなるか。その答えがスタンダールの小説の書き方だったといってよいだろう。時代の偽善,退廃,抑圧に抗しつつ,ひたすら自由を希求する精神が〈生き〉,〈愛する〉ためには,どのように行動し,どのような内面の劇を経験しなければならなかったか,それをスタンダールはいっさいの虚飾を去った簡潔な文体で〈書いた〉。すべては主人公の眼を通して見られ,主人公の内面の劇として語られる。心理分析の小説として,時代を告発する政治小説・社会小説として,未到の境地をひらきえたゆえんであり,近代小説の一典型として今なお多くの読者をもちうるゆえんでもある。文体と手法の斬新さが,生前の不評,死後の栄光をもたらしたのはある意味で当然のことであった。
[冨永 明夫]

[索引語]
Stendhal ベール,H. Beyle,H. 恋愛論(スタンダール) De l'amour アンリ・ブリュラールの生涯 カストロの尼
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スタンダールの関連キーワードで検索すると・・・
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検索コンテンツ
1. スタンダール
日本大百科全書
リア絵画史』(1817)、『ローマ・ナポリ・フィレンツェ』(1817)が続く。後者で初めてスタンダールなる筆名が用いられた。1818年に知り合ったマチルデ・デン
2. スタンダール(Stendhal)
世界大百科事典
な魂が,18世紀的合理精神に拠りつつ,自らの内面の自伝を語るとすればどうなるか。その答えがスタンダールの小説の書き方だったといってよいだろう。時代の偽善,退廃,
3. スタンダール
日本国語大辞典
(Stendhal )フランスの小説家。本名マリー=アンリ=ベール。明晰(めいせき)な文体で強烈な自我を描く。鋭い心理分析と社会批判は、心理主義小説の伝統に期を
4. スタンダール(Stendhal
世界人名大辞典
〔1783.1.23~1842.3.23〕フランスの小説家.グルノーブルに生まれる.パリに出て[1799],ナポレオン(1世)の領袖であった従兄の世話で陸軍省に
5. スタンダール
世界文学大事典
〈下敷き〉がなかったせいか,スタンダールの筆は思うように伸びず,結局この〈スカートをはいたジュリヤン・ソレル〉の物語は未完に終わった。 このころから,スタンダー
6. スタンダール症候群[カタカナ語]
情報・知識 imidas
値の高い芸術作品を鑑賞した人が,動悸やめまいなどの症状を呈する心因性の疾患.フランスの作家スタンダールが「イタリア紀行」に記した経験にちなむ. 2015 11
7. 日本近代文學とスタンダール
日本近代文学大事典
いするスタンダールの書簡を収録してあって、ゾラのレアリスムよりもバルザック、スタンダールの政治的レアリスムを評価したものであった。杉山英樹、大岡昇平が同じ文献を
8. 二十世紀フランス小説 3ページ
文庫クセジュ
ある。十九世紀にも、たしかにこの種の核心的な論争が巻き起こりはした。だが二十世紀の小説は、スタンダールがその到来を予感していた「疑念の時代」とどうやら不可分であ
9. 二十世紀フランス小説 101ページ
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ロマネスクな題材をはばかることなく選びだすことが可能になる。たとえば「アンジェロ」連作で、ジオノはスタンダール的な軽やかさへと回帰し、主人公に一八三〇年代のプロ
10. 二十世紀フランス小説 188ページ
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スヴェストル(ピエール) Pierre Souvestre (1874-1914) 16 スタンダール Stendhal (1783-1842) 8, 86 ス
11. 愛書趣味 18ページ
文庫クセジュ
後日に施された装幀は小箱の用だけをした。一方、同時代の半仔牛皮による〈バルザック〉ないし〈スタンダール〉の方が、たとえ何箇所も茶ばみに害されているにせよ、もっと
12. 愛書趣味 40ページ
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一書にまとめたのが『ベルギー版バルザック真正原刊本目録』(一九四〇年、ブリュッセル)である。  スタンダールについては、『赤と黒』と『パルムの僧院』とは常に極め
13. 愛書趣味 43ページ
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と有名であった。ルグーヴェ作『女の長所』はユゴーやヴィニィを圧倒し、ボーヴォワールの小説はスタンダールの小説よりも豪華に装幀されている。『若いアナカルシスのギリ
14. 愛書趣味 50ページ
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、十分に校訂された『フローベル書簡集』、〈バルザック〉、〈ボードレール〉が刊行されている。スタンダールについては、最初のレヴィ版が重要な未刊行作品を収めているの
15. 愛書趣味 166ページ
文庫クセジュ
ヌイイにある厖大を蔵書を有するルイ=フィリップ王図書館のカタログを繙いても、有名であった〈ユゴー〉一冊、〈スタンダール〉一冊さえなく、バルザックの質素な半装幀本
16. 愛書趣味 198ページ
文庫クセジュ
Madeleine de 35 スゴンザック SEGONZAC, André Dunoyer de 70 スタンダール STENDHAL, Henri Beyl
17. 青柳 瑞穂
日本近代文学大事典
大雅洞)の二冊。ラクルテル『反逆児』、ロートレアモン『マルドロールの歌』(部分訳)、ツヴァイク『スタンダール』、トロワイヤ『金牛宮』、ルソー『孤独な散歩者の夢想
18. 赤と黒
世界大百科事典
スタンダールの長編小説。1830年刊。素材は1827年に起きた元神学生の殺人未遂事件。才能に恵まれ野心に燃える貧しい青年の立身出世とその挫折の物語を通じ,王政復
19. あかとくろ【赤と黒】
日本国語大辞典
(原題 {フランス}Le Rouge et le Noir )長編小説。一八三〇年刊。スタンダールの代表作。青年ジュリアン=ソレルの野望と、レナール夫人や侯爵令
20. 『赤と黒』
世界文学大事典
1830年刊。素材は1827年に起こった元神学生の殺人未遂事件。貧しい育ちのジュリヤン・ソレルは,才能を見込まれ田舎町の有力者レナール家の家庭教師になる。が,金
21. 赤と黒(スタンダールの小説)
日本大百科全書
フランスの作家スタンダールの長編小説第二作。1830年刊。素材は、1827年、作者の故郷に近い寒村で某神学生がもと家庭教師を務めていた家の夫人に対して起こした殺
22. アザール
日本大百科全書
学の確立者の一人。18世紀関係の著作が多い。『フランス革命とイタリア文学』(1910)、『スタンダールの生涯』(1927)のほか主著として『ヨーロッパ意識の危機
23. 阿部 昭
日本近代文学大事典
ており、阿部はさまざまな屈辱感のなかで少年時代を送った。二八年東大に入学、仏文科にすすみ、スタンダールを専攻。学内演劇サークルに入会して演劇にも興味をもった。就
24. アラゴン ルイ
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l'Oubli(67),『小説アンリ・マチス』Henri Matisse, roman(71),評論集『スタンダールの光』La Lumière de Stend
25. アラン
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本名エミール=オーギュスト=シャルチエ。デカルト的な合理主義者。著に「芸術論集」「わが思索のあと」「スタンダール」「教育論」「幸福論」など。(一八六八~一九五一
26. アラン
世界文学大事典
話』Entretiens chez le sculpteur(37)など。文学については『スタンダール』Stendhal(35),『バルザックを読んで』En l
27. 『アルマンス』
世界文学大事典
1827年刊。十字軍以来の名家マリヴェール家の一人息子オクターヴは聡明な美青年だが,憂鬱症に悩む〈哲学者〉であり,奇行が多い。彼の従妹アルマンスはロシア人を父と
28. アンドレ・ル・シャプラン
世界大百科事典
収める。第2部は恋愛の持続・衰え・終焉を論ずるが,前記マリーらの名流婦人による,そして後にスタンダールの《恋愛論》に取り上げられる〈恋愛判決〉を含むことで有名。
29. 『アンリ・ブリュラールの生涯』
世界文学大事典
発見してゆく方法を選んだ。原稿中に見いだされる数々のスケッチ(間取り,風景,事件当時の人物の配置等々)は,スタンダールが過去の事件を〈見よう〉としていたことを物
30. 生島遼一
日本大百科全書
落合太郎に師事し、三好達治みよしたつじと交遊があり、桑原武夫たけおと同学で、スタンダール『赤と黒』(1933)を共訳した。スタンダール研究家として知られる。フロ
31. いくしま-りょういち【生島遼一】画像
日本人名大辞典
昭和時代のフランス文学者,評論家。明治37年9月2日生まれ。昭和39年京大教授,のち関西学院大教授。スタンダール研究家として知られ,桑原武夫と「赤と黒」を共訳。
32. 生島 遼一
日本近代文学大事典
誌に寄稿。翻訳家としても名高く、スタンダール、フローベールを中心に、ルソー、ジイド、プルースト、サルトル、ボーヴォワールなどと幅広く、人文書院版『スタンダール
33. イスラムとヨーロッパ 前嶋信次著作選 2 346ページ
東洋文庫
ただ夢幻境としてなつかしむのもけっして正しい理解に立ったものとはいえなかろう。盲目的憎悪や、スタンダールが恋愛論でいったような結晶作用などを通して見た歴史現象は
34. イタリア・オペラ 22ページ
文庫クセジュ
暇人たちにはつねに彼らのコロッセウムが用意されている。」これほどの辛辣さはまったくないが、スタンダールは一八二〇年頃、コモの劇場の美しさに驚き、こう付言している
35. イタリア・オペラ 27ページ
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ほとんどイタリア全体に存在することになったオペラの聴衆は、貪欲で我慢のできない人びとであった。スタンダールは、オペラは三〇回ほど聴かれて、その後忘れ去られてしま
36. イタリア・オペラ 32ページ
文庫クセジュ
終える前に、聴衆について、とくにその最大の長所と短所について言及しておかなければならないだろう。スタンダールは、ローマのカプラニカ劇場の美しい女性たちに心奪われ
37. イタリア・オペラ 41ページ
文庫クセジュ
〔演奏者の受ける〕音楽教育と、演奏者の創造性と、そしてとりわけ、最高の基準たる良き趣味である。スタンダールは、装飾をつけたり即興的に歌ったりする歌手の自由をロッ
38. イタリア・オペラ 43ページ
文庫クセジュ
彼がなぜそのような異名を持つかといえば、両手を広げ、指まで広げて、棒立ちで歌うからである。スタンダールはジュディッタ・パスタに関して熱狂的な文章を書いており、そ
39. イタリア・オペラ 54ページ
文庫クセジュ
三つのバレエを含めると、ゆうに六時間を必要とする」(レオポルト・モーツァルト、一七七〇)。また、スタンダールは、一八一八年のミラノでの公演について言及している。
40. イタリア・オペラ 56ページ
文庫クセジュ
あてがわれている。」しかしなぜこれほどまでにバレエが好まれたのか? オペラをこよなく愛するスタンダールは、その理由を説明してくれている。パリのとある劇場で、ロッ
41. イタリア・オペラ 85ページ
文庫クセジュ
も、彼がヨーロッパ中で名声を得ていた(彼を称賛する人びとのなかには、ヴォルテール、ルソー、スタンダールもいた)からでもなく、むしろ彼が劇的な要請 ―― 筋の運び
42. イタリア・オペラ 128ページ
文庫クセジュ
シズムの入った陽気さ、ひとりの人物像を設定し、そこに個性を与える特徴づけの完璧さ、しばしばスタンダールを魅了した妄想趣味によって、彼はオペラ・ブッファの伝統をさ
43. イタリア・オペラ 133ページ
文庫クセジュ
当初それは、すでに存在する旋律線を豊かにするための装飾として考案されたが ―― だからこそスタンダールは、作曲家の利益のためだけに歌手からコロラトゥーラが奪われ
44. イタリア音楽史 121ページ
文庫クセジュ
今でもイタリアで上演される《奥様になった女中La Serva padrona》は価値なしとしない。またスタンダールの言うところを信ずると、ローマの人びとはこの作
45. 『イタリア年代記』
世界文学大事典
て雑誌に発表された,イタリアの古記録に基づく中・短編群,および同根の未定稿を総称していう。スタンダールはこの数年前に知人の書庫で一群の古文書を発見していたが,こ
46. イブン・ハズム
日本大百科全書
うがよく知られている。これは恋愛および恋する人についての諸例を30章に分けて書いたもので、スタンダールやモーロアの『恋愛論』の先駆をなす、と評されている。矢島文
47. 英語語源学 218ページ
文庫クセジュ
(5)フランソワ・シュヴィエ(François Chevillet)(1942年生)はグルノーブル・スタンダール第3大学の英語学担当の教授.主なる著書はLes
48. エゴイズム
世界大百科事典
イズムに対抗して,エゴティストがみずからの自我を防衛し,かつ積極的に主張する場合(たとえばスタンダールのエゴティスム),彼のエゴティズムは個人主義の一形態である
49. エゴチスム
日本国語大辞典
28〕〈竹野長次・田中信澄〉「エゴチズム Egotism 英 自尊、自慢、自愛等の意」*スタンダールの小説主張〔1943〕〈大井広介〉「彼の、『非妥協性』の最
50. エゴチスム
世界文学大事典
いう標題はもちろんその意味で用いられているが,スタンダールの小説の主人公は,それぞれにエゴチスムのしるしを強烈に刻みつけられている。スタンダールは特にこの面にお
「スタンダール」の情報だけではなく、「スタンダール」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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一八四一-一九〇六明治時代の代表的ジャーナリスト。天保十二年(一八四一)三月二十三日、医師福地苟庵と松子の長男として長崎に生まれる。幼名は八十吉、長じて源一郎と称す。諱は万世。桜痴は、江戸で馴染みとなった芸妓「桜路」に因んで付けた号。少年時代より神童
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