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ルノワール

ジャパンナレッジで閲覧できる『ルノワール』の日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

ルノワール
るのわーる
Pierre-Auguste Renoir
[1841―1919]

フランスの印象派の画家。裸婦や少女たちの豊かな魅力を備えた作品によって、国際的にも、日本でも、もっとも親しまれている画家。

 1841年2月25日リモージュに生まれる。幼年時代、一家とともにパリに移住。1854年、陶器の工房に絵付 (えつけ)職人として徒弟奉公に入り、かたわら夜学で素描を学ぶ。4年後、この工房の職を失ったため、家具の絵付け、ついで巻き上げ日よけの絵付けに従事するが、やがて画家となることを決意し、エコール・デ・ボザールのシャルル・グレールCharles Gleyre(1806―1874)の画室に入る。フォンテンブローの森で会ったクールベ、あるいはドラクロワの影響を受ける。1867年の『狩りのディアナ』(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)はクールベの、1872年の『アルジェリア風のパリジェンヌ』(東京、国立西洋美術館)はドラクロワの影響を示す例である。しかし、グレールの画室で出会ったモネ、シスレー、バジールJean Frédéric Bazille(1841―1870)、そして彼らを通じて知ったピサロ、セザンヌたちとともに「カフェ・ゲルボアの集い」に参加し、マネ、モネの影響下にしだいに印象主義の技法とビジョンの形成へと向かってゆく。1869年モネとともに描いた『ラ・グルヌイエール』(ウィンタートゥール、ラインハルト・コレクション)は、印象主義的技法の最初の適用を示している。モネたちとともに画架を立てたパリ近郊のセーヌ川周辺、とくにアルジャントゥーユでの制作は、1874年、1876年の印象派展に出品された。

 この1876年前後はルノワールの独自の作風が形成される時期にあたり、1876年の第2回印象派展には15点の作品が展示されるが、1877年の第3回展には『日の当たる裸婦』『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(ともにパリ、オルセー美術館)などを出品、1869年から1880年にかけてのルノワールの印象派時代を代表する作品群が生み出されている。彼はモネたちと異なり人物像に執着し、戸外や室内の光線が人物に当たる効果を追求している。同じころ、ルノワールはシャルパンティエ家の保護を得て、『腰掛けているジョルジェット・シャルパンティエ嬢』(1876、東京、アーティゾン美術館)、『シャルパンティエ夫人とその子供たち』(1879サロン出品、ニューヨーク、メトロポリタン美術館)など、魅惑的な肖像、室内像が多く描かれる。

 1881年前後、ルノワールは彼自身がいう「壁」に突き当たる。構図・形態の堅固さと明確さ、質感を求めての模索がほぼ10年続いた。いわゆる「酸っぱく描く時期」である。新たな探究のため、1881年、アルジェ、イタリアに旅行。ラファエッロ、ポンペイの壁画に大きな影響を受けて、薄塗りの色面、構図性が『大水浴』(1884~1887、フィラデルフィア美術館)などで試される。後期のルノワールの特徴的な主題である裸婦も、この時期に本格的に始まる。

 1890年前後から薄塗りの色彩を重層させる手法、いわゆる「虹 (にじ)色の時期」が始まり、印象主義と古典的構図や質感の表現との調和が、ルノワールのまったくオリジナルな手法として完成された。『眠る浴女』(1897、ラインハルト・コレクション)など、多くの傑作がこの時期に属する。

 1903年、南フランスのカーニュ・シュル・メールに移住して以後の最晩年は、赤、緋色 (ひいろ)などがいっそう強さと輝きを増し、浴女、子供、花、風景などが大量に描かれ、それらの対象は世俗的な魅力を維持しつつ、象徴的・詩的な世界に到達している。彫刻、リトグラフ類もこの時期に手がけられた。ただ手の神経痛のため、何点かのバリアントをもつ『パリスの審判』など若干の大作はあるが、油彩類はこの時期小品が多い。1919年12月3日カーニュで没。

 私生活では1881年、40歳でアリアーヌAline Charigot(1859―1915)と結婚、長男ピエールPierre Renoir(1885―1952。俳優)、次男ジャン(映画監督)、三男クロードClaude Renoir(1913―1993)をもうけている。また1900年にはレジオン・ドヌール勲章を授与された。

[中山公男]



世界大百科事典

ルノアール
Pierre-Auguste Renoir
1841-1919

フランス印象派の画家。リモージュに仕立屋の息子として生まれる。一家はまもなくパリに出,13歳のときから陶器の絵付師としての修業をし,のちに家具や扇子にロココ風の装飾をして生計を立てる。21歳のとき,エコール・デ・ボザール(国立美術学校)の生徒となり,グレールM.G.C.Gleyreのアトリエに入り,バジール,モネ,シスレーらと親交を結ぶ。1863年ころフォンテンブローの森で戸外制作を試み,そこで会ったディアズN.Díaz de la Peñaの影響もあって,色彩は明るさを増す。友人たち,とくによくいっしょに制作したモネが風景画に強い関心を示したのに対し,ルノアールは戸外人物にひかれる。64年のサロン(官展)初入選作《踊るエスメラルダと山羊》(自身の手で破棄),《狩猟のディアナ》(1867)は物語性が強く,人工的な不自然さを残すが,68年にサロンに出品した《日傘の女》では,戸外に立つ白い服の女性に当たる光と影の効果を,きわめて自然なままに追求して新しい一歩を開いた。このようにして74年の第1回印象派展を迎えたルノアールは,光あふれる戸外での幸福そうな人々の集いを描きつづけ,ドガと並んで印象派における人物画家として,1,2,3,7回目の印象派展に出品した(《船遊びの人々の昼食》1880-81など)。81年のアルジェリア旅行のあと,イタリアに旅立ち,ラファエロの作品に強い感銘を受ける。それはちょうど彼が,感覚を通して移ろいやすい視覚的効果を描き留めようとする印象派のやり方に疑問を持ちはじめ,より堅固で永続的なものを表そうとしていた時期であった。彼の様式は,輪郭線と冷たい色調で特徴づけられる〈酸っぱい様式Manière aigre〉に変わっていく。しかし88年,この様式に行き詰りを感じたルノアールは,再び輪郭線のない,あふれるような豊かさを示す色彩の開花へ,すなわち〈真珠色の時代Période nacrée〉へと移行していく。1903年,地中海岸のイタリアとの国境に近いカーニュ・シュル・メールCagnes-sur-Merにコレット荘を買い取り,持病のリウマチに苦しめられながらも,裸婦や肖像画の制作を続け,意欲は衰えることを知らなかった。親しみやすい小作品がほとんどであったが,《水浴の女たち》(1918ころ)のような大画面に,晩年の裸婦研究の成果を結実させた。
[馬渕 明子]

[索引語]
Renoir,P.A.
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