1. ルノワール
日本国語大辞典
《ルノアール》〔一〕(Pierre Auguste Renoir ピエール=オーギュスト─)フランスの画家。印象派の代表者の一人。明るく甘美な色調で、子ども、花
2. ルノワール(Lenoir, Jean Joseph Étienne)
世界人名大辞典
〔1822.1.12~1900.8.4〕フランスの技術者.実用的ガス機関の製作者.原理的には従来の内燃機関と変わりはないが,初めてその実用化に成功し[1859頃
3. ルノワール(Renoir, Jean)
世界人名大辞典
〔1894.9.15~1979.2.12〕フランスの映画監督.P.A.ルノワールの次男.はじめ画家を志すが,のちに映画へ移り,ゾラ原作の映画化〈女優ナナ▼:Na
4. ルノワール(Renoir, Pierre Auguste)
世界人名大辞典
〔1841.2.25~1919.12.3〕フランスの画家.リモージュに生まれる.印象派の代表的画家の一人.リモージュの貧しい裁縫師の子として生まれ,12-13歳
5. ルノワール(Jean Renoir)
日本大百科全書
フランスの映画監督。1894年9月15日パリに生まれる。父は印象派の画家オーギュスト・ルノワールである。第一次世界大戦後、前衛芸術家たちと交わり、非商業的な前衛
6. ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)画像
日本大百科全書
0年にかけてのルノワールの印象派時代を代表する作品群が生み出されている。彼はモネたちと異なり人物像に執着し、戸外や室内の光線が人物に当たる効果を追求している。同
7. ルノワール ジャン
世界文学大事典
フランスの映画監督。画家オーギュスト・ルノワールの息子。物語や演出の約束事にとらわれず,人間や自然の表情の微細な揺れを官能的なまでの美しさで映像化した,映画史上
8. ルノワール(Jean Joseph Étienne Lenoir)
日本大百科全書
→ルノアール
9. ルノワール『テラスにて(二人の姉妹)』[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
1881年 油彩シカゴ美術研究所所蔵
10. マニエル‐ノワール
日本国語大辞典
〔名〕({フランス}manière noire 黒の技法の意)「メゾチント」に同じ。
11. ユムール・ノワール
世界文学大事典
アンドレ・ブルトン編纂の『黒いユーモア選集』(1940)に端を発して世に広まった言葉であり,今日,ペシミズムと残虐趣味とスキャンダルで味つけされた不謹慎な悪ふざ
12. アメリカ映画
日本大百科全書
楽作品がつくられた。また、ヨーロッパからはナチズムに同調しなかったルネ・クレール、ジャン・ルノワール、ジュリアン・デュビビエ、ジャン・ギャバンらが、アメリカに逃
13. アルドリッチ
日本大百科全書
で、ロックフェラー家と姻戚(いんせき)の名家に生まれる。1941年に映画界入りし、ジャン・ルノワールやチャールズ・チャップリンなど多くの監督の下で助監督を務めた
14. 印象主義画像
日本大百科全書
俗を描いた。ルノワールは風景と人物、風俗をほぼ等分に描き、またセザンヌとルノワールは水浴図をも多作した。グループの様式上の等質性と作風の円熟がもっともよくみられ
15. 印象主義[美術]
情報・知識 imidas
浴びた空気に包まれた印象をそのままキャンバスに写しとろうとした。代表的画家にモネ、シスレー、ルノワール、ドガなど。 [橋秀文]2008 03
16. いんしょうは【印象派】
国史大辞典
一八六三年の落選画展に出品されたマネの「草上の食事」に刺激を受けた若い画家たち、モネ・ピサロ・シスレー・ルノワール・ドガらは、マネを中心にカフェーゲルボワに集ま
17. 新版 印象派 1ページ
文庫クセジュ
口絵1 ルノワール《ピアノに向かう少女たち》,1892年,パリ,オルセー美術館 [図版]口絵2 マネ《オランピア》,1863年,パリ,オルセー美術館 [図版]
18. 新版 印象派 4ページ
文庫クセジュ
掲載図版一覧 口絵1:ルノワール《ピアノに向かう少女たち》,パリ,オルセー美術館 口絵2:マネ《オランピア》,パリ,オルセー美術館 口絵3:モネ《サン=ラザール
19. 新版 印象派 6ページ
文庫クセジュ
水とその反映に魅されていたモネ、あるいは庶民気質ながら、繊細な感性に恵まれ、官能的な裸婦を描いたルノワール、さらにまた、精確なテクニックで遠近法の効果を生かしつ
20. 新版 印象派 7ページ
文庫クセジュ
印象主義絵画の理念を見事に体現している。ところが、モネはグループ展から最初に離脱したひとりなのである。ルノワールの場合も同様で、早くも一八八三年には、「印象主義
21. 新版 印象派 8ページ
文庫クセジュ
結局のところ、印象主義の運動とは、一八七八年に美術批評家テオドール・デュレが言ったように、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、そしてベルト・モリゾ、この五人の画
22. 新版 印象派 12ページ
文庫クセジュ
さらにかなりの時を要したのである。ドガは「アンデパンダン(独立画家)」という名称のほうを好んだし、ルノワールはひとつの流派に属するという考え自体になじめなかった
23. 新版 印象派 14ページ
文庫クセジュ
一八五九年から一八七三年 ピサロ、ドガ、マネ、ファンタン=ラトゥール、ホイッスラー、モネ、ルノワールの全員が初めてパリに集まったのは、一八五九年のことである。
24. 新版 印象派 18ページ
文庫クセジュ
ウジェーヌ・ブーダンから野外で描くことを勧められた。 モネよりもさらに若いオーギュスト・ルノワール(リモージュ、一八四一年~カーニュ、一九一九年)は、陶器絵付
25. 新版 印象派 19ページ
文庫クセジュ
ルーヴルに通い、巨匠たちの絵を模写していたのである。マネ、ドガ、ホイッスラー、ファンタン=ラトゥール、ルノワール、彼らは皆、絵画の革新をめざすに先立って、古典絵
26. 新版 印象派 20ページ
文庫クセジュ
生徒たちの指導に情熱を傾けていた。ルノワールが彼のアトリエに入ったのは一八六一年のことであるが、翌年に国立美術学校の入学試験に合格したのも、おそらくはグレールの
27. 新版 印象派 21ページ
文庫クセジュ
レッスンを同時に受けていたが、医学部のほうはじきにやめてしまった。グレールのアトリエでは、ルノワール、モネ、シスレーと知り合いになった。この四人の若者は固い友情
28. 新版 印象派 25ページ
文庫クセジュ
同じ一八六三年、グレールはアトリエを閉ざした。生徒たち、すなわちモネ、ルノワール、シスレー、そしてバジールは、もはや他の師を探そうとはせず、フォンテーヌブロー
29. 新版 印象派 26ページ
文庫クセジュ
。モネは非常に古典的な《狩猟の獲物》(一八六二年、パリ、オルセー美術館)を描き、花を愛するルノワールは《春の花》(一八六二年、ハンブルク美術館)を描き、ピサロは
30. 新版 印象派 30ページ
文庫クセジュ
とりわけ裸体画を得意としたのはルノワールである。当時のルノワールがクールベの系譜に属していたことは、《水浴する女》(一八七〇年、サン・パウロ美術館)からもはっき
31. 新版 印象派 31ページ
文庫クセジュ
彼を賛美する画家や作家たちに取り囲まれている。批評家ザカリー・アストリュック、ゾラ、そしてルノワール。モネの姿もあるが、絵の枠と長身のバジールに挟まれて、居心地
32. 新版 印象派 33ページ
文庫クセジュ
ルノワールは、愛人であったリーズ・トレオーをしばしば描いているが(《夏、習作》、一八六八年、ベルリン国立美術館)、それ以外の人物の見事な肖像画も多数残している
33. 新版 印象派 36ページ
文庫クセジュ
同じ一八六七年、われらが画家たちの何人かはサロンに入選した。モネ、ルノワール、バジール、ピサロは落選したが、ドガの《ベルレッリ家の肖像》、ベルト・モリゾの《イ
34. 新版 印象派 40ページ
文庫クセジュ
(1)」と、ルノワールは書いている。彼らには哲学的ないし道徳的意図などはなく、ただひたすら、楽しい日々の色彩豊かな情景を写し取ったのである。 (1) アンヌ・デ
35. 新版 印象派 43ページ
文庫クセジュ
ボートを漕いだり、飲んだり、踊ったりした。モネは、サロンに出す作品のための着想を得ようと、友人のルノワールを連れて、ここにやって来た。ふたりはさっそく一連の習作
36. 新版 印象派 45ページ
文庫クセジュ
エルとの出会いまで 普仏戦争前夜、一八七〇年のサロンで、モネとセザンヌの作品は落選した。ルノワールは、ドラクロワ風の作品《アルジェの女》(一八七〇年、ワシント
37. 新版 印象派 46ページ
文庫クセジュ
バジールはボーヌ=ラ=ロランドで戦死した。彼は「印象主義」という言葉すら知らずに死んだのである。ルノワールも徴募されたが、ボルドー近くのリブルヌで馬の飼育の任務
38. 新版 印象派 47ページ
文庫クセジュ
一八七二年、ルノワール、ファンタン、ピサロ、セザンヌ、そしてマネが、新たな落選者展を開くよう嘆願したが、聞き入れてもらえなかった。しかし、その翌年には第二回落選
39. 新版 印象派 48ページ
文庫クセジュ
審査委員会が厳選の態度で臨んだのである。前回と同様、観客は多かったし、批評の数も多かった。ルノワールは《ブーローニュの森の乗馬道》(一八七三年、ハンブルク芸術ホ
40. 新版 印象派 49ページ
文庫クセジュ
シスレーは《マルリーの水門》(一八七三年、コペンハーゲン、新カールスベア彫刻館)を、それぞれ出品した。ルノワールは《踊り子》(一八七四年、ワシントン、ナショナル
41. 新版 印象派 51ページ
文庫クセジュ
自分の芸術を印象主義絵画の名のもとにひと括りにされることをけっして受け入れようとはしなかったし、ルノワールも、ひとつの流派に属するという考え自体に抵抗を示してい
42. 新版 印象派 53ページ
文庫クセジュ
モネが一八七二年に移り住んだアルジャントゥイユで、一八七四年に描かれた絵にいっそう明確に現われている。ルノワールが定期的にモネを訪れ、五年前にラ・グルヌイエール
43. 新版 印象派 54ページ
文庫クセジュ
しかし彼は、一八七八年、債鬼の追及を逃れるために、アルジャントュイユを去らねばならなかった。 ルノワールもセーヌの河岸を描いているが(《アルジャントゥイユのセ
44. 新版 印象派 55ページ
文庫クセジュ
エにある実家で夏を過ごすマネも、彼らといっしょになることが多く、そのため、彼の技法がモネやルノワールのそれに近づく結果となった。《アルジャントゥイユ》(一八七四
45. 新版 印象派 58ページ
文庫クセジュ
新しい蒐集家がひとり現われたことであった。ヴィクトール・ショケである。彼はルノワールの絵をとりわけ高く評価していた。ルノワールは彼をタンギー爺さんの店に連れて行
46. 新版 印象派 59ページ
文庫クセジュ
ベルト・モリゾの見事な英国風景、そして《舞踏会にて》(一八七五年、パリ、マルモッタン美術館)、ルノワールの《陽を浴びる裸婦》(一八七五~一八七六年頃、パリ、オル
47. 新版 印象派 60ページ
文庫クセジュ
友人たちについての小冊子を出したが、そのなかで、印象派の画家と見なしうるのは、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ベルト・モリゾだけであることを強調している。じ
48. 新版 印象派 61ページ
文庫クセジュ
雨》(一八七七年、シカゴ美術研究所)、《ヨーロッパ橋》(一八七七年、ジュネーヴ、プチ・パレ)。ルノワールはのちに非常に有名になる《ムーラン・ド・ラ・ガレットの舞
49. 新版 印象派 64ページ
文庫クセジュ
われらが画家たちはまた、毎週水曜日に、ケーキ屋ミュレールの店に集まった。ミュレールはしばしばギヨーマン、ルノワール、シスレーなどを招くと同時に、彼らの絵を安く買
50. 新版 印象派 65ページ
文庫クセジュ
こうした度重なる失敗にうんざりしたルノワールは、ふたたびサロンに応募することにした。第四回印象派展は、一八七九年、オペラ座通りで開かれたが、ルノワールだけでな