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  11. ロダン

ロダン

ジャパンナレッジで閲覧できる『ロダン』の日本大百科全書・世界大百科事典・岩波 世界人名大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

ロダン
ろだん
François Auguste René Rodin
[1840―1917]

フランスの彫刻家。生気に満ちた写実主義、モニュメンタルな表現性、象徴主義的なテーマ、彫刻を量塊(マッス)としてとらえ、その動きと表現的な肌によって周辺空間と関連させる手法などにより、19世紀の彫刻に活気を与え、現代彫刻への道を開いた近代彫刻最大の芸術家として知られる。

 1840年11月12日、警視庁の職員を父としてパリに生まれる。14歳のときから3年、古典主義の彫刻家のもとで修業、国立美術学校を志すが三度にわたり失敗し、建築装飾のための石工をしながら、アントアーヌ・ルイ・バリー、カリエ・ベルーズたちに師事し、1871年には、カリエ・ベルーズのブリュッセル商品取引所の装飾彫刻の制作の助手をつとめる。それ以前の1864年には『鼻のつぶれた男』をサロンに出品するが落選。しかし、この作品の激しい肉づけによって、ロダンは醜のなかに美をみいだすという美学と、量塊としての表現性という後の彼の作品の核となるものを示している。1875年イタリアに遊学、とくにミケランジェロに感動し、「アカデミズムからの解放」を得る。1876年、その写実性の巧みさによって人体から直接型取りしたとのスキャンダルを生んだ『青銅時代』を発表、その清新なレアリスムとムーブマンの追求は、その後『歩く人』『洗礼者ヨハネ』などの作品へと展開する。とくに、頭部を欠く『歩く人』によって量塊としての存在感、表現性、動きなどの探求が深められる。1879~1882年にはセーブル製陶所のための模型の制作、パリ市庁舎のための『ダランベールの肖像』などがある。

 1880年、パリ装飾美術館の門扉のための『地獄の門』の発注を受ける。しかしこの作品は、その後の40年近くの生涯の努力を傾けてなお未完成に終わった。残された石膏 (せっこう)原型からの鋳造は、ロダンと親交のあった日本のコレクター松方幸次郎によって初めてなされた。ダンテの『神曲』に想を得たこの作品は、フィレンツェ洗礼堂のギベルティによる『天国の門』、システィナ礼拝堂の大壁画『最後の審判』、ブレイクやギュスターブ・ドレの版画『神曲』などのさまざまな刺激と、ロダンが愛した女弟子兼助手カミーユ・クローデルCamille Claudel(1856―1943。詩人ポール・クローデルの姉。大理石の女性頭部像『物思い』のモデルとされる)との悩み多い愛などを背景とし、総計186点の単独像を含んで構想されている。実際に、『考える人』、『接吻 (せっぷん)』『永遠の青春』など、ロダンの大理石やブロンズによる名作の単独像が数多く、この構想の過程に実現されていった。この『地獄の門』およびその周辺に派生した単独像、群像は、ちょうど19世紀末から20世紀初頭にかけての象徴主義的芸術の全盛期に対応している。たとえば、『接吻』は、その大胆さにおいて、象徴派の画家たちが開発した愛と性のテーマに影響を与えたし、また、これが単に『神曲』中のパオロとフランチェスカの恋の物語ではなく、いわゆる「呪 (のろ)われた女」との愛の表現だという解釈すらも提出されている。一方、彼を彫刻における印象派とする考えもあるが、これは、ロダンが印象派と同世代であり、モネたちと親交し、1889年にはモネと二人展を開催したこと、また、彫刻の肌のモデリングで光の効果を重視したことなどに由来している。

 1884年、ロダンはカレー市と、百年戦争の際の英雄的な市民の記念碑の制作を契約、作品『カレーの市民』は1886年に制作されるが、さまざまな批判があったため、実際にカレー市で除幕されたのは1895年である。ロダンは、この作品以前にも、プロイセン・フランス戦争の際のパリ防衛記念の像に応募(コンクールでは当選せず、のちにベルダン防衛記念碑『国の護 (まも)り』として没後の1922年除幕)し、1880年代以降もさまざまな記念碑の注文を受けているが、未完に終わった作品が多く、完成はしても、実現は彼の死後となったものが多い。『バルザック記念像』がその一例で、1891年に文芸家協会から注文を受け、大胆な部屋着姿と裸体像で物議を醸して1898年に引き取りは拒否され、部屋着姿の像がパリの町に建立されたのは1939年、ラスパイユ通りとモンパルナス通りの合流を記念してであった。ロダンはこうした記念碑のために、また友人知己のために、数多くの肖像彫刻を制作し、ここでも従来の伝統的な肖像彫刻を離れて個性的な陰影表現をみせている。晩年は、踊り子の姿態とムーブマンを追求した連作を発表したが、日本の踊り子『ハナコの頭部』(1908)なども制作された。1917年11月17日、パリ郊外ムードンで死去。

 晩年ロダンが購入して住居とアトリエにしたパリの由緒ある邸館オテル・ビロンは、1916年に全作品とともにフランス国家に寄贈され、国立ロダン美術館として一般に公開されており、ムードンのアトリエも同じく美術館として公開されている。日本では、松方コレクションの大量のロダンの作品が、東京の国立西洋美術館で展示公開されている。

[中山公男]

世界大百科事典

ロダン
Auguste Rodin
1840-1917

フランスの彫刻家。モニュメンタルで生命力にあふれた表現,さらに彫刻を量塊としてとらえ,周辺空間との関連で彫刻の肌をつくる態度によって,近代彫刻に新生面をひらき,ブールデル,マイヨールなど,以後の彫刻家に多大の影響を与えた。パリに生まれ,装飾美術学校でカルポーに学んだのち,1864-70年カリエ・ベルーズCarrier-Belleuseの工房で働く。64年,伝統的な美の観念を無視する《鼻かけの男》をサロン(官展)に出品するが落選。普仏戦争で戦傷,戦後カリエ・ベルーズの仕事の助手としてブリュッセルに赴く。75年イタリアに遊学し,とりわけミケランジェロに傾倒する。帰国後,77年《青銅時代》をサロンに出品し,人体から直接石膏どりしたのではないかと疑われる。この作品に示された的確な写実力とムーブマンの感覚は,《歩く人》《バプテスマのヨハネ習作》でいっそう深められる。頭部を欠く人体の運動感と量感のみによって成り立つ習作こそ,ロダンの新しい彫刻観を示したものといえる。80年,政府の注文によるパリ装飾美術館の扉《地獄の門》の制作を開始。最終的に186点の像をふくむ扉の構想と実現に,その後の生涯を捧げた(実際の鋳造は,死後,松方幸次郎によってなされる)。その構想と習作のなかから,《考える人》《接吻》などの多くの単独像が生まれる。他方,80年代には《カレーの市民》,90年代には《バルザック》などの大作も制作。1900年の個展以降,その名声が確立する。死後,作品(デッサン,水彩を含む)とアトリエが国家に遺贈され,ロダン美術館となる。日本では国立西洋美術館(東京)のコレクションが知られる。
[中山 公男]

[索引語]
Rodin,A.


岩波 世界人名大辞典

ロダン
Rodin, François-Auguste-René
1840.11.12~1917.11.17

フランスの彫刻家.

パリの素描・数学学校(のちの国立装飾美術学校)でボワボードラン(Horace Lecoq de Boisbaudran 1802~97)に学び,J.C.カザンダルー等と交友.20歳の頃から彫刻家の助手や建築装飾彫刻の下働きなど徒弟的修業を積み,雇い主にはカリエ=ベルーズがいた.24歳の時,最初の傑作〈鼻のつぶれた男, 1863-64〉をサロンに出品して落選した [1865].普仏戦争後しばらくベルギーに滞在し,またフィレンツェ,ローマに旅行して古典作品,ドナテッロミケランジェロの作品の影響を受けた.帰国してベルギー滞在中に制作した大作〈青銅時代, 1876-77〉を発表し,その迫真的写実のため大いに物議を醸すと共に一躍有名となった.ついで〈説教する洗礼者ヨハネ, 1879〉〈地獄の門, 1880-1917〉(未完),〈カレーの市民, 1895〉〈バルザック, 1898〉〈接吻, 1900〉等を相次いで発表.〈考える人, 1904〉〈歩く人, 1900-07〉〈クレマンソー, 1911-13〉をはじめ多数の作品を遺した.中世ゴシックの彫刻家にならって,彫刻と建築を組み合わせようとし,これら多くの彫刻は未完の〈地獄の門〉に取り付けられる予定であった.その作風は鋭い写実の技法を駆使して,人間のあらゆる喜怒哀楽の感情,内面にこもる生命の躍動を人間の裸体を通して表現しようとし,近代彫刻に新しい方向を与え,世界的に多大な影響を与えた.アトリエだったパリのオテル・ビロン(Hôtel Biron)はロダン美術館,ムードンのヴィラ・デ・ブリヤン(La Villa des Brillants)は分館となった.

〖作品〗 肖像:J.P.ローランス, 1881.A.ルグロ, 1881-82.V.ユゴー, 1883.A.プルースト, 1884.ヴィクーニャ夫人, 1884.ベルトロ, 1906.B.ショー, 1906.G.マーラー, 1906.ベネディクトゥス15世, 1915(以上,ロダン美術館).〖主著〗 フランスの聖堂:Les cathédrales de France, 1914.〖参考〗L'art entretiens réunis par Paul Gsell, 1911.R. M. Rilke: Rodin, 1913.A. Beausire&H. Pinet他編:Correspondance de Rodin, 4巻, 1985-92.

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検索コンテンツ
1. ロダン画像
日本大百科全書
これは、ロダンが印象派と同世代であり、モネたちと親交し、1889年にはモネと二人展を開催したこと、また、彫刻の肌のモデリングで光の効果を重視したことなどに由来し
2. ロダン(Auguste Rodin)
世界大百科事典
ヨハネ習作》でいっそう深められる。頭部を欠く人体の運動感と量感のみによって成り立つ習作こそ,ロダンの新しい彫刻観を示したものといえる。80年,政府の注文によるパ
3. ロダン
日本国語大辞典
(Auguste Rodin オーギュスト─)フランスの彫刻家。近代彫刻の第一人者。自然主義を基礎に、人間の内的生命を表現する独自の作風を確立、近代彫刻を開拓
4. ロダン(Rodin, François-Auguste-René
世界人名大辞典
与え,世界的に多大な影響を与えた.アトリエだったパリのオテル・ビロン(Hôtel Biron)はロダン美術館,ムードンのヴィラ・デ・ブリヤン(La Villa
5. ろ‐だん【炉壇】
日本国語大辞典
将門弓箭を帯して、炉壇の炎の中に影はると見て」*太平記〔14C後〕一二・神泉苑事「東寺炉壇(ロダン)を構へ、大威徳明王の法を修し給ふ」
6. ろ‐だん【炉壇】
仏教語大辞典
密教で、修法のとき、護摩をたく炉のある壇。 とはずがたり 二 「炉壇に手を結びて、難行苦行の日を重ね」
7. 廬談(著作ID:4282580)
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ろだん 照源(しょうげん) 天台 
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9. ロダン『永遠の青春』[百科マルチメディア]画像
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13. ロダンカリ
日本国語大辞典
〔名〕({ドイツ}Rhodankali )「チオシアンさんカリウム(─酸─)」に同じ。〓[カ]
14. ロダン酸
世界大百科事典
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15. ロダン‐さん【─酸】
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〔名〕(ロダンは {ドイツ}Rhodan )「チオシアンさん(─酸)」に同じ。〓[0]
16. ロダン体操[新語流行語]
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17. ロダンバック
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ベルギーのフランス語詩人。トゥールネーの生まれ。ガンの中学時代から詩にひかれ、1878年から1年間パリに出たおり『悪の華』を知り、以後ボードレールの模倣をするが
18. ロダンバック
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(Georges Rodenbach ジョルジュ─)ベルギーの詩人、小説家。パリに住み、故郷フランドル地方の風物を幻想的に描いた。詩集「純白の青春」、小説「死都
19. いろ‐だんぎ【色談義】
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種々の仕掛の秘密を聞て、新艘子(しんざうす)勿ち手管の悟を開き」イロダン〓
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〔名〕かんころでつくった団子。(1)薩摩芋(さつまいも)の切り干しを粉にして作った団子。《かんころだんご》山口県大島801 《かんだご》佐賀県040 (2)色の
21. 慣性核融合炉断面図〔図C〕[百科マルチメディア]画像
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23. しょうろ‐だんご【松露団子】
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小豆のこしあんと白あんをまぶした小さな団子。大阪府堺市浜寺の名物。ショーロダン〓
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25. トカマク型核融合炉断面図〔図A〕[百科マルチメディア]画像
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27. 長野県神城断層地震[イミダス編 科学]
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33. 雙猨路談(著作ID:1355039)
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35. 爾前三身相即/廬談(著作ID:4386851)
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これは遺憾である。ガリマールはロダンにボードレールの『悪の華』の原刊本を一部献呈し、あちらこちらに数枚の挿絵を入れるよう依頼した。そのうち一冊は現在ロダン博物館
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ROCHEGROSSE, Georges 68 ロシュビリエール ROCHEBILIÈRE 31 ロダン RODIN, Auguste 68   ―― 博物館 
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うける.フランスに帰化[30],パリのハンガリー人芸術家グループの一翼を担い,レジスタンス運動に参加.ロダン,ロマネスク彫刻などの影響を経て抽象彫刻にむかう.大
40. アヴリーヌ クロード
世界文学大事典
Philippe Denis(1930−55)が代表的作品。小説のほか,詩,児童文学,紀行,ロダン(27),ブールデル(69)に関する美術批評,ラジオ台本(55
41. アマン・ジャン画像
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42. 有島 武郎
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43. 「ARS」
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44. 石中 象治
日本近代文学大事典
経て徳島高工、山口高校、六高、九州大、千葉商大教授。ニーチェ著『人間的なあまりに人間的な』、リルケ『ロダン』、ヘッセ『郷愁』(昭14・12 三笠書房)『車輪の下
45. イタリア美術
世界大百科事典
,イタリアのロマン派ともいうべき〈スカピリアトゥーラ派〉が出た。この中では彫刻家M.ロッソがロダンに劣らぬ悲劇的な生命力を表現した。フランス印象主義もイタリアで
46. 印象主義画像
日本大百科全書
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47. 浮彫
世界大百科事典
らゆる部門で浮彫の全盛期をなした。近代美術ではモニュメンタルな作品は減少しているが,しかし,ロダンの《地獄の門》のような例を見ることができる。また,20世紀に入
48. う・く【浮】
日本国語大辞典
などが皮膚からうきあがっているように見える。*花子〔1910〕〈森鴎外〉「学生は挨拶をして、ロダンの出した腱の一本一本浮いてゐる右の手を握った」*泥人形〔191
49. 歌麿 302ページ
東洋文庫
うになった。」 一八八七年:ロダンが浮世絵版画を見るためにゴンクールを訪問する。ゴンクールの『日記』の最初の二巻が出版される。エドモンはドーデ家が購入したばかり
50. えいえん‐せい[エイヱン‥]【永遠性】
日本国語大辞典
現在、未来を通じて変わらずに存在する性質。永久性。*和解〔1917〕〈志賀直哉〉一一「自分はロダンの芸術の持つ永遠性を沁々(しみじみ)と感じた」*愛の無常につい
「ロダン」の情報だけではなく、「ロダン」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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福地源一郎(国史大辞典)
一八四一-一九〇六明治時代の代表的ジャーナリスト。天保十二年(一八四一)三月二十三日、医師福地苟庵と松子の長男として長崎に生まれる。幼名は八十吉、長じて源一郎と称す。諱は万世。桜痴は、江戸で馴染みとなった芸妓「桜路」に因んで付けた号。少年時代より神童
アーネスト・サトウ(東洋文庫)
幕末・明治維新の激動期に,日本語を自在に駆使して活躍したイギリスの外交官アーネスト・サトウ。日本,シャム,清国,モロッコ各地でのエピソードを交えてその生涯を活写する。1999年02月刊【閲覧画面サンプル】【目次】表紙(扉)はじめに序章神秘な異国日本へ
モネ(岩波 世界人名大辞典・世界大百科事典)
フランスの画家,印象派の開拓者,指導者.パリに生まれる.少年時代をルアーヴルで過ごして海と陽光の美しさに啓発され,同地でブーダンに師事し風景画に開眼する.パリに戻り[1859],はじめトロワイヨン,のちグレールに師事し,P.A.ルノワール,シスレー
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ベートーベン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ドイツの作曲家。盛期古典派から初期ロマン派への転換期に56歳の生涯を送ったベートーベンは、古典派音楽様式を極点にまで高めるとともに、19世紀の音楽家たちにとっての偶像的な存在となり、後世に無限の広範な影響を与えた。[中野博詞]▲生涯フランドルから移住
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