人物に関連するサンプルページ一覧

武田耕雲斎(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一八〇四 - 六五 幕末尊攘派の水戸藩士。文化元年(一八〇四)同藩士跡部正続の嫡男として生まれる。正続の兄正房の養子となり本家を継いだが、のち跡部の旧姓武田に復す。名は正生。通称は彦太郎、彦九郎、のち修理。字は伯道。号は如雲、致仕後に耕雲斎。文化十四年
高島秋帆(世界大百科事典・国史大辞典)
幕末の長崎会所調役頭取で砲術家。名は茂敦,通称は四郎太夫,秋帆は号。長崎防備のため,はじめ荻野流砲術を学び,のち出島のオランダ人から西洋砲術を学んで,これを高島流砲術と名づけた。西洋近代砲術を最初に紹介したものといえる。アヘン戦争が起こった1840年
菅義偉(日本大百科全書)
政治家。秋田県の生まれ。秋田県立湯沢高等学校を卒業後、上京し就職するがほどなくして帰郷。二浪して法政大学法学部政治学科に進学する。空手道部に4年間在籍し空手道二段。1973年(昭和48)3月同大学卒業。1975年政治家を志し大学OBで自由民主党
石川丈山(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典)
江戸初期の漢詩人。名は凹 (おう)。丈山は字 (あざな)。六六山人、四明山人、凹凸窠 (おうとつか)などと号した。代々徳川氏に仕える三河武士の家に生まれたが、大坂夏の陣のとき軍律を犯してとがめを受けたため武士を捨て、藤原惺窩 (せいか)に入門
清水次郎長(日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・国史大辞典)
江戸後期・維新期の侠客。駿河国有渡郡清水湊の海運業三右衛門の三男として生まれ、のち母の弟である米屋山本次郎八の養子となる。山本長五郎が本名で次郎長は通称。幼年期より粗暴の性質であった。一八三五年(天保六)に養父が死去し、家業を相続した。四一年に博徒
安倍晴明(日本架空伝承人名事典・世界大百科事典・国史大辞典)
平安中期の陰陽家。系図類によれば、八世紀はじめの右大臣阿倍御主人(あべのみうし)の系譜を引き、益材の子とされる。九六〇年(天徳四)に天文得業生として歴史に姿をあらわし、以後、天文博士・主計権助などを歴任して、大膳大夫・左京権大夫となる。極位は従四位
富永平兵衛(歌舞伎事典・国史大辞典・世界大百科事典)
生没年不詳。歌舞伎作者。別号西林軒。俳名辰寿。役者として出発したが、延宝(1673‐1681)頃作者に転じた。延宝八年、番付に〈狂言作り〉と記し、非難を受けた。しかし、のちに作者名を明記する習慣ができた。以降京、大坂で活躍したが、元禄一〇(1697
芳沢あやめ(歌舞伎事典・世界大百科事典・国史大辞典)
歌舞伎役者。【初世】1673‐1729 前名吉沢あやめ。元禄初年には若女方で出演の記録が見え、以後京・大坂の舞台で次第に認められ、元禄一一(1698)年《傾城浅間嶽(けいせいあさまがたけ)》の傾城三浦の好演で、この年若女方上上吉に進む。上方の
坂田藤十郎(歌舞伎事典・日本大百科全書・国史大辞典)
歌舞伎役者。【初世】1647‐1709 延宝四(1676)年には立役で京の都万太夫座四天王の一人とされ、二年後大坂で演じた《夕霧名残の正月》の伊左衛門はその名声を高めた。以来夕霧狂言の伊左衛門は生涯の当り芸として繰り返された。主として京都で活躍し
趙之謙(岩波 世界人名大辞典・日本大百科全書)
中国清の金石家,書画家.紹興(現,浙江紹興)の人.挙人 [1859:咸豊9].紹興の富裕な家に育ったが,少年の頃に家運が翳り,困苦を味わうことが多くなった.30歳の頃に太平天国軍が江南地方をかけめぐり,戦禍がおびただしくなると,知人の丁令威の招きに
以心崇伝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五六九 - 一六三三 江戸時代前期の臨済宗の僧侶。金地院崇伝・伝長老ともいわれる。足利義輝の臣一色秀勝の子で、足利氏が滅亡したのち、南禅寺に赴いて玄圃霊三に師事した。醍醐の三宝院に学んだこともあるが、のちに南禅寺金地院の靖叔徳林についてその法をついだ
徳川斉昭(国史大辞典・世界大百科事典)
一八〇〇 - 六〇 江戸時代末期の常陸国水戸藩主。第七代治紀(武公)の三男。母は烏丸資補の女。幼名敬三郎。はじめ紀教(のりたか)のちに斉昭。兄の第八代藩主斉脩(なりのぶ、哀公)の嗣子となる。字は子信、号は景山・潜竜閣。夫人は有栖川宮織仁親王女吉子
渋沢栄一(国史大辞典・世界大百科事典)
一八四〇 - 一九三一 近代日本の指導的大実業家。その生涯は、(一)天保十一年(一八四〇)二月から明治六年(一八七三)五月までの在郷および仕官時代、(二)明治六年六月から同四十二年五月までの主として実業界の指導に力を注いだ時代、(三)明治四十二年六月
徽宗(世界大百科事典)
中国,北宋第8代の皇帝。在位1100-25年。姓名は趙佶(ちようきつ)。第6代皇帝神宗の第11子。母はその侍御陳氏。兄の第7代皇帝哲宗の病死後,向太后(しようたいこう)(神宗の皇后)の支持をうけて帝位についた。太后摂政中は,新(革新政策)
文徴明(日本大百科全書・世界大百科事典・世界人名大辞典)
中国、明(みん)代中期の文人、書画家。初名は璧(へき)、徴明は字(あざな)。のち字をもって行われ、さらに徴仲(ちょうちゅう)と字を改めた。号は衡山(こうざん)。長洲(江蘇(こうそ)省蘇州)の人。科挙の試験に数度失敗したが、1523年(嘉靖2)
王羲之(日本大百科全書・世界文学大事典・世界人名大辞典)
中国、東晋 (とうしん)時代の能書家。中国、日本において書聖として尊重される。東晋の建国に功労のあった王導 (おうどう)の従弟 (いとこ)王曠 (おうこう)の子。字 (あざな)は逸少 (いっしょう)。琅邪 (ろうや)臨沂 (りんぎ)
エリザベス1世(世界人名大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
イングランドおよびアイルランド女王 [1558/1603].ヘンリー8世とアン・ブーリンの娘としてロンドンに生まれ,議会の承認を得た父の遺言により,異母弟エドワード6世および異母姉メアリ1世につぐイングランド(およびアイルランド)王位継承者となる
カトリーヌ・ド・メディシス(世界人名大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
フランス王アンリ2世の王妃.フィレンツェのメディチ家のロレンツォ・ディ・メディチ(Lorenzo de' M. 1492~1519)の娘.フランソワ2世,シャルル9世,アンリ3世の母.不幸な結婚生活 [1533-59]を送り,夫王の死後は政治的野心
カルバン(世界文学大事典・世界人名大辞典・日本大百科全書)
フランスの宗教改革者。北フランスのピカルディー地方ノワイヨンに生まれ,パリ,オルレアン,ブールジュの各大学で神学,法学を修め,さらにフランソワ1世の創設した王立教授団において,人文学を学んだ。22歳にして『セネカ〈寛仁論〉注解』
パッラディオ(世界人名大辞典・日本大百科全書)
イタリアの建築家.パドヴァに生まれる.ヴィチェンツァで人文主義者トリッシノに出会い,ウィトルウィウスをはじめ古代ローマ建築の研究を始める.田園の別荘住宅に古代建築の要素を持ち込んだ.円柱,アーチ,ペディメントを自在に重ね構成されるスタイルは
スレイマン1世(世界大百科事典・世界人名大辞典・日本大百科全書)
オスマン帝国第10代のスルタン。立法者(カーヌーニー)とも呼ばれる。在位1520-66年。彼の時代に帝国は最盛期を謳歌し,その領土はアジア,アフリカ,ヨーロッパ3大陸にまたがり,東地中海一帯を覆う大帝国となった。在位中,13回の親征を行ったが
小早川秀秋(国史大辞典・日本大百科全書)
一五八二 - 一六〇二 安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の第五子。母は杉原七郎左衛門家次の女。天正十年(一五八二)近江長浜に生まれる。幼名辰之助。幼少から秀吉の養子となり高台院の膝下に養育され羽柴秀俊と名のり、同十九年参議に任じ
竹中半兵衛(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一五四四 - 七九 戦国時代の武将。もとの名は重虎、通称は半兵衛。重元の子。天文十三年(一五四四)生まれる。竹中氏は美濃国(岐阜県)の豪族であり、当初は美濃国守護斎藤竜興の武将として仕えていたが、永禄十年(一五六七)八月、織田信長が斎藤竜興を攻め
立花宗茂(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
? - 一六四二 安土桃山・江戸時代前期の武将。筑後国三潴郡柳川を居城とした立花家の初代大名。大友氏の一族吉弘氏から出て、筑後の高橋氏を継いだ高橋鎮種(紹運)の子。鎮種の同僚で立花城城督の戸次(べっき)鑑連(道雪)の娘千代の婿として戸次家に入った
柴田勝家(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
? - 一五八三 安土桃山時代の武将。尾張国愛知郡に生まれる。織田信行(信長の弟)に属して信長と敵対したが、のち許されて信長の家臣となる。元亀元年(一五七〇)六角承禎・義治父子と戦って近江長光寺に籠城した際、飲料水を貯えた水甕を叩き割って決死の覚悟を
佐々木小次郎(日本架空伝承人名事典・世界大百科事典・日本大百科全書)
?‐1612(慶長17) 安土桃山時代から江戸初期の剣豪。幼名は九三郎といわれ、巌流とも称した。出身は越前国とも、周防国ともいわれる。幼い頃から富田流剣法の中興の祖である富田勢源に剣法を学び、長じて諸国を武者修行の末、「物干し竿」といわれる長太刀で
前田利家(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一五三八 - 九九 安土桃山時代の武将。犬千代、孫四郎、又左衛門尉。天文七年(一五三八)尾張国愛知郡荒子村(名古屋市中川区荒子町)に前田利春(利昌)の四男として生まれる。幼少のころより織田信長に仕えたが、永禄二年(一五五九)同輩との争いから信長の勘気を
藤堂高虎(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一五五六 - 一六三〇 江戸時代前期の伊勢国津藩主。幼名与吉、通称与右衛門。弘治二年(一五五六)生まれる。近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)の地侍藤堂源助虎高の次男。母は多賀良氏の女とら(妙青夫人)。元亀元年(一五七〇)浅井長政に属し姉川の戦に
長宗我部元親(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一五三八 - 九九 戦国時代の武将。土佐国の大名。幼名弥三郎、のち宮内少輔、羽柴土佐侍従。長宗我部国親の長男として天文七年(一五三八)長岡郡岡豊(おこう)城(高知県南国市)に生まる。幼少時は姫若子といわれた柔和な性格で国親は心痛していたという。永禄三年
滝川一益(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一五二五 - 八六 安土桃山時代の武将。左近将監。大永五年(一五二五)滝川一勝の子として生まれる。織田信長に仕え、伊勢国司北畠氏との戦いに参加。永禄十二年(一五六九)大河内城攻撃の功によって北伊勢五郡を与えられ、付近一帯の指出検地を行なっている
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