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永井荷風

ジャパンナレッジで閲覧できる『永井荷風』の日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

日本近代文学大事典

人名
永井 荷風
ながい かふう
明治12・12・3~昭和34・4・30
1879~1959
本文:既存

小説家、随筆家。東京市小石川区金富町に、永井久一郎、恆の長男として生れた。本名壮吉。別号断腸亭主人、石南居士、鯉川兼待、金阜山人など。久一郎は尾州(現・愛知県)の出身、藩儒鷲津毅堂に漢学を学び、上京後、大学南校貢進生となり、明治四年渡米、六年帰国して官途につき、帝国大学書記官、文部大臣官房秘書官や同会計課長などを歴任、三〇年退官後、日本郵船上海支店長や横浜支店長を勤めた。明治一〇年、毅堂の次女恆と結婚、荷風出生のときは内務省衛生局事務取扱に任じられていた。漢詩人として令名があり『来青閣集』その他がある。一六年、荷風は弟貞二郎出生のため、下谷竹町の鷲津家に預けられ、翌一七年東京女子師範付属幼稚園に通いはじめ、一九年一月(カ)小石川区内の黒田小学校に初等科第六級生として入学、二二年四月、同校尋常科第四学年卒業、七月、東京府尋常師範付属小学校高等科に入学、二三年一一月、同校を退学して神田錦町の東京英語学校に学び、二四年九月、高等師範付属尋常中学科(六年制)第二学年に編入学した。二七年末、ルイレキ(カ)治療のため、下谷の大学病院に入院、翌二八年正月から流感にかかって三月末まで病臥、中学は落第となった。四月、小田原十字町の足柄病院に転地療養して、九月、第四学年に復学したが、学校の空気になじめなくなった。三〇年三月、同校卒業。この月、父久一郎は退官して、四月、日本郵船会社上海支店支配人となった。七月、高校入試に失敗。九月、父母とともに上海に渡り、一一月末、母や弟と帰国し、高等商業学校付属学校清語科に臨時入学。三一年九月、『簾の月』という作をたずさえ、かねてより尊敬していた広津柳浪の門をたたき小説修業をはじめた。翌三二年には、人情噺をしたいという熱望のため、三遊派の落語家朝寐坊むらくの弟子となり、夜々市内の席亭に出入りするかたわら、小説や俳句を試み、また初冬のころ、清国人羅臥雲(蘇山人)の紹介で巌谷小波の木曜会に参加した。外国語学校は第二年(原級留年)のまま除籍になった。三三年、父は日本郵船横浜支店長に転任、荷風は歌舞伎座立作者福地桜痴の門弟となったが、翌三四年四月、桜痴が日出国やまと新聞社の主筆に迎えられ、荷風も行を同じくして雑報欄の助手のほか『新梅ごよみ』を連載したが、九月、桜痴のやり方をめぐって内紛が起き、荷風は桜痴系のために解雇された。同月から暁星学校の夜学に入りフランス語を学びはじめた。このころ英訳を通してゾラの文学に心酔し、これがやがて三五年発刊の「饒舌」(木曜会機関誌)誌上におけるゾラ紹介となり、同年四月刊『野心』(美育社)、九月刊『地獄の花』(金港堂)、翌三六年五月刊『夢の女』(新声社)、九月刊『女優ナヽ』(新声社)などとして展開した。この時期は日清戦争後の社会的昂揚期であり、西洋近代思想の移入紹介と結びついて、個我の覚醒、主張の気運が強まっており、ゾラはニーチェと同心円を描くところの旧道徳、旧文芸への反抗として受容されていた。荷風のゾラへの親近とその摂取には、良家の子弟としての拘束にたいする自立と自己主張とをモチーフとする青春の真実が賭けられていた。柳浪風の写実主義と木曜会のひきずっている古風さが濃く残っているとはいえ、当代のゾライズムの作品の中で、もっとも文学的に肉付けされており、注目されるべきものとなっている。『新任知事』という作品で叔父阪本釤之助をモデルに扱って絶交を宣せられたこともあり、父久一郎は荷風を渡米留学させ、実業家への道を歩かせようとした。荷風はかねてから西洋文化に憧れていたので、父の話をうけて、三六年九月、信濃丸にて出帆、一〇月、タコマに到着した。そこでは古屋商店タコマ支店支配人山本方に寄寓し、日本人出稼ぎ人の生活に触れたり、アメリカの自然の景色に深い感銘をうけた。翌三七年一一月、ミシガン州カラマッズウ大学の聴講生となり、英文学とフランス語の講座に出席。三八年六月、ニューヨークに出て、七月、アメリカの生活が詩情に欠けているのを嘆じてフランス行きをもくろみ、旅費稼ぎにワシントン日本公使館に雇いとして住込んだが、このフランス行きは父の同意を得ることを得ず、憂悶の中でイデスという女性と知合い耽溺生活にのめりこんだ。日露戦争講和とともに公使館を去って、いちじカラマッズウに帰ったが、父の命で正金銀行ニューヨーク支店に勤めることになった。四〇年七月、ついに父の配慮で正金銀行フランス、リヨン支店に転勤することを得たが、銀行業務に甘んじることができず、翌四一年三月、辞職した。しかし父の意志により長期のフランス滞在を果たしえず、五月末、パリに別れを告げ、ロンドン出帆讃岐丸にて帰国した。荷風の外遊は、四年の歳月をアメリカで送るものであり、フランス滞在は一〇ヵ月にすぎなかったが、市民的社会における個人主義と自由を愛する精神において、深い影響をうけた。日露戦争の間、ちょうどアメリカに滞在、戦争の推移にほとんど国民的関心を示さなかったことも注目されるが、外から旅人の目で日本を観る眼を養ったことは、外遊体験の大きい収穫であった。

 明治四一年七月、荷風は、父のもくろみに反し、ひとまわり大きい新時代の文学者としての見識と個性の持ち主として帰国した。かねて送ってあった滞米、渡仏直後執筆の『あめりか物語』(明41・8 博文館)は、好評をもって迎えられ、新帰朝者としてつぎつぎに作品を発表。『ふらんす物語』(明42・3 博文館)は納本とともに発禁処分を蒙り、ここに当局の荷風文学にたいする干渉の歴史がはじまった。しかしこの前後は、荷風の生涯におけるもっとも文学意欲の充実した時期であり、『狐』『深川の唄』『監獄署の裏』『祝盃』『歓楽』などの短編集『歓楽』(明42・9 易風社、発禁)に結晶する作品、『帰朝者の日記』(のち、『新帰朝者日記』)『すみだ川』などを発表し、また漱石の依頼で「朝日新聞」に長編『冷笑』(明42・12・13~43・2・28)の連載をはじめ、おりからの自然主義主流の文壇に耽美主義の新風を吹込んだ。翌四三年二月、森鷗外、上田敏の推薦をうけ、慶大の文科刷新の期待をになって、教授に就任し、五月「三田文学」を主宰創刊、随筆『紅茶の後』の連載をはじめとし、戯曲『平維盛』などがあり、反自然主義陣営の中心的存在の一人となった。

 荷風には早くから快楽主義的嗜欲が強く、それが良家の家風への反逆と結びついてその青春を彩っていた。帰国後の孤独の中で柳橋や新橋の花柳界に親しんだが、あいつぐ自著の発禁や大逆事件に象徴される圧力状況下において、近代的文学者として生きることの困難さを痛切に感じ取り、江戸戯作者の姿勢に身をやつすことを好むようになるにおよび、芸術的審美的にも生活態度の上でも花柳狭斜趣味が顕在化していった。それはまず『妾宅』『掛取り』『風邪ごこち』『五月闇』などの『新橋夜話』(大元・11 籾山書店)にまとめられる諸作品の上にあらわれた。大正元年九月、本郷湯島四丁目の斎藤政吉の次女ヨネと見合い結婚したが親しまなかった。二年一月二日、父久一郎が脳溢血で死去、これを機会にヨネと離婚、八重次を外妾とした。帰国以後、持続的にフランス近代詩を翻訳紹介し、また海外文芸の批評紹介を行ってきたが、それらを合して翻訳詩文集、評論集『珊瑚集』(大2・4 籾山書店)一巻を上梓し、アクチィブな近代芸術思潮の鼓吹者として奮戦した記念碑とした。これは、荷風の眼が西洋から江戸へ向けられたことと表裏をなしていた。その江戸文化、趣味への傾斜は急速にすすみ、柳亭種彦を主人公にした『戯作者の死』(のち、『散柳窓夕栄』)、笠森お仙を扱った『恋衣花笠森』などの創作のほか、浮世絵、狂歌、演劇などにおよぶ包括的な江戸文化への考察となって展開していった。三年八月、かねてから交情濃やかな八重次を正妻としたが、この結婚をめぐり弟威三郎との間に感情的対立を生じ、母恆と威三郎とが同居することになった。家督相続人、長男でありながら、「家」から進んで遠ざかるという自覚は、以後いっそう強くなっていった。荷風はこの年、東京市中の散策をこころみ、「三田文学」に『日和下駄』を連載(大4・11 籾山書店)、また『夏すがた』(大4・1 籾山書店、発禁)を書きおろした。大正四年二月、八重次が荷風の浮気を嫉妬して家出を敢行、ついに離婚。以来荷風は多くの女性と関係をもつが妻帯はしなかった。胃腸をこわし慶應義塾のほうも休講がちになり、五年二月限り、教授および三田文学編集を退任、この前後、築地や代地河岸に隠れ住んだ。四月、井上啞々、籾山庭後らと「文明」を創刊(大6・12、以後手を引く)、反時代的戯作者的態度をいっそう鮮明にして、『腕くらべ』や『断腸亭雑稾』(大7・1 籾山書店)所収の雅致に富んだ随筆をつぎつぎに掲げた。七年五月、啞々、久米秀治と「花月」を創刊(大7・12廃刊)、一二月、大久保余丁町の邸を売却して築地二丁目に移居した。また春陽堂から元版『荷風全集』全六巻が刊行されはじめ、ここに著者自身の編集と校訂によって荷風文学が統一的世界として読者の前に現れることになった。こういう気運も作用してか、荷風の創作力はこの時期に生気を回復し、『腕くらべ』(大6・12 私家版)『おかめ笹』(大9・4 春陽堂)などに結晶している。九年五月、麻布市兵衛町一ノ六に偏奇館を建てて移居した。この前後から玄文社芝居合評会に出席したり、『三柏葉樹頭夜嵐』『夜網誰白魚』の創作と上演があったりして演劇方面の仕事が目だち、脚本集『三柏葉樹頭夜嵐』(大10・7 春陽堂)『秋のわかれ』(大11・3 春陽堂)などがある。しかしようやく小説創作力に劣えが見え、『雨瀟瀟』などのほかはめぼしいものがない。むしろ、荷風文学の別の大きい側面である随筆において、反時代的な文明批評と懐旧的情趣との渾然とした世界が創り出された。大正初期からのものをまとめた『江戸芸術論』(大9・3 春陽堂)や『雨瀟瀟』(大11・7 春陽堂)『麻布襍記』(大13・9 春陽堂)『下谷叢話』(大15・3 春陽堂)『荷風文稾』(大15・4 春陽堂)など、および『荷風随筆』(昭8・4 中央公論社)がそれである。これらの背景には、大正から昭和へという時勢の激しい推移や関東大震災以後の東京風物の変化などがあるわけだが、荷風は隠者的な傍観の目で時勢を白眼に見据えながら、一方で新しい世相に強烈な好奇心を抱きつづけていた。荷風の快楽追求の対象も芸妓から私娼へと移ってき、大正末年からは銀座のカフエ、タイガーに通いはじめ、女給や私娼との交渉も生れた。しかし荷風は、昭和六年に入ると、『榎物語』(執筆は昭4)『あぢさゐ』などについで『つゆのあとさき』を「中央公論」に発表し、齢五〇を越えた作者の新しい飛躍と充実とを見せたのである。つぎの『ひかげの花』(昭9)は私娼とヒモの生態を冷徹に描き出しており、そこに若き日以来親しんだフランス自然主義の「肉化」と「再生」を見ることも可能である。一一年、荷風は私娼の町玉の井をしばしばたずねたが、一二年、これが大作『濹東綺譚』として「朝日新聞」夕刊に連載され、時代の閉塞された重苦しさに涼気を送るものとして読書界に迎えられた。同年九月母恆が死去した。一一月、ひさしぶりに浅草公園の興行ものを観て以来、とくにオペラ館の常連となった。オペラ脚本『葛飾情話』(昭13)はその産物である。一三年刊行の小説随筆集『おもかげ』(岩波書店)以後、二、三の随筆を発表したのみで作品の発表は諦め、作家として直接的に時勢と相渉ることを拒否した。しかし文学者としての営みを停止し放棄したのではなく、彼はかえって、峻拒と緘黙とを通じて文学者の道を守ろうとしたのである。日米開戦の日には、『浮沈』の稿を起こし、ついで『勲章』『踊子』『来訪者』『問はずがたり』などの諸作の執筆と完成への情熱を燃やしつづけ、文学一途に生きたのであった。二〇年三月一〇日の大空襲で偏奇館も焼亡、岡山へ疎開して敗戦を迎えた。その後、熱海にもどり、やがて千葉県市川市菅野の大島五叟方に寄寓した。大正六年以来休むことなくつづけられた『断腸亭日乗』の昭和二〇年度の『罹災日録』(昭22・1 扶桑書房)としてとくに注目されている。前記の戦時下執筆の諸作品は、戦後のジャーナリズムに迎えられ、文学に飢えていた人々の渇をいやし、文化再出発にあたって機運醸成にあずかる点があった。戦後の著作として、『偏奇館吟草』(昭23・11 筑摩書房)『葛飾土産』(昭25・2 中央公論社)『裸体』(昭29・2 中央公論社)『葛飾こよみ』(昭31・8 毎日新聞社)『あづま橋』(昭32・11 中央公論社)などがあり、『荷風全集』の編集刊行(中央公論社)があった。大正六年以来書きつづけられた日記『断腸亭日乗』も公表されるにしたがい、荷風文学の重大な面が明らかにされ、世の注目を浴びた。昭和二七年、文化勲章を受け、二九年にはさらに芸術院会員に選ばれた。だがその偏奇をつらぬく隠者的生き方は死にいたるまで変わりはなかった。三二年三月、市川市八幡町四ノ一二二八に移り、翌三四年四月三〇日朝、ひとり吐血し死亡しているのが通いの手伝い婦によって発見された。死因は胃潰瘍の吐血による心臓マヒと診断された。

 おもなる全集の編集刊行はつぎのとおりである。『荷風全集』全二四巻(昭23~28 中央公論社)『荷風全集』全二八巻一刷(昭37~40 岩波書店)、全二九巻二刷(昭46~49 岩波書店)。

(竹盛天雄 1984記)

代表作

代表作:既存
地獄の花
じごくのはな
中編小説。明治三五・九、金港堂刊。同書店発刊の「文芸界」の景気づけのために行われた小説の懸賞募集に応じて等外に落ちたが、編集者の好意により単行本として刊行された。木曜会例会記録にでる『楽しき地獄』という作品名が原題ではなかったかと推測される。私立女学校のハイカラ教師常浜園子は、富豪黒淵家の家庭教師となり、金持ちの内幕の紊乱ぶりを知った。そこに出入りする笹村という文学者志望のクリスチャンと恋をささやくようになるが、彼は黒淵の淫乱な妻の若い燕であったのだ。園子は黒淵家の別荘のある小田原に行き、そこで偶然いっしょになった水沢校長から暴行をうけ純潔を失ってしまう。彼女に自己の行き方を示唆するのは黒淵家の出戾り娘富子であった。彼女はこのアクシデントを通じて、世間なみな平穏な女としての幸福を破り、かえって人間的で自由な生き方をしようと決心していく。ゾライズムの影響をうけつつあった時代の代表作。しかしこの作品の生命は、家への反抗的生き方をしていた作者自身の、自由への憧れが脈動している点にあるといってよい。跋文はゾライズム宣言として知られている。なお、この本の装幀は、幾種もの色変わりがあって書誌的にも有名。
あめりか物語
アメリカものがたり
短編小説集。明治四一・八、博文館刊。荷風のアメリカ滞在中の作品二一編に、付録「フランスより」としてフランス滞在初期における三編が添えられている。その中、一二編は明治三七年四月から四〇年一〇月までに「文芸俱楽部」「太陽」「新小説」「文章世界」「大西洋」に発表されている。全体の構成は、アメリカ渡航船中の情景に素材を得た『船室夜話』(のち『船房夜話』)を巻頭にすえ、つぎに最初の滞在地タコマの日本人出稼ぎ労働者の悲惨な話を描いた『野路のかへり』(のち『牧場の道』)を置き、三番目につぎの滞在地カラマッズウで聞いた『岡の上』をならべるというように、作者自身の明治三六年九月渡米以後のアメリカ内部での移動に沿っての見聞を機軸にした創作と感想録集となっている。ゾライズム信奉者として渡米した荷風が、自己の資質に適したものとしてモーパッサンを見いだし、親炙していく推移を作中にたどることが可能である。アメリカという異郷の自然と社会に対面した孤独感が全体を通じて流れており、清新なロマンチシズムの香気につつまれた人生の悲哀がにじんでいる。この作品集の出現を迎えた当時の批評家が、「濁らないピュアな自然派の態度」(相馬御風)を読取り、荷風を自然主義系の作家として歓迎したのも、ゆえなき誤解ではなかった。
すみだ川
すみだがわ
中編小説。明治四二・八起稿、明治四二・一〇脱稿。「新小説」明治四二・一二。明治四四・三、籾山書店刊の同名の短編集に収録。常磐津の師匠文字豊には長吉という一粒種の息子がいた。しかし彼は、母親の願いから外れて役者になろうと憧れ、また芸者になった幼馴染みのお糸を恋している。俳諧師松風庵蘿月は文字豊の兄だったので、妹に頼まれてがらにない説諭をした。しかし彼は、絶望した長吉が腸チフスで入院したあと、長吉が秘めていたお糸の写真と手紙の断片を見いだし、甥の気持ちに同情し、二人を添わせてやろうと覚悟する。作者によれば、すみだ川両岸の下町の風景に、近代文明によってなお侵蝕されていない荒廃の美を見立て、それを晩夏から翌年の初夏にいたる一年間の季節の推移の中に写しだすことにも大きいねらいがあった。ヨーロッパの郷土文学を試みるというモチーフが動いていた。荷風の帰国以後、幾多の作品で展開していた明治の偽文明批判が、古風な下町の人情と風物の情趣と融合って、一種の抒情詩的哀感をともなった物語世界を創り出している。昭和四五年四月、日本近代文学館より『新選名著複刻全集』の一冊として復刻された。
腕くらべ
うでくらべ
長編小説。「文明」大正五・八~六・一〇。私家版大正六・一二、十里香館刊、五〇部限定。削除版大正七・二、新橋堂刊。私家版修訂版昭和二九・一一、荷風全集刊行会刊、限定五〇〇部。現在、この系統の本文が読まれている。新橋の芸者、尾花家の抱え駒代は実業家吉岡を旦那にしているが、人気役者瀬川一糸と情を通じ夢中になってしまう。それを知った吉岡は彼女の朋輩の菊千代を身請けしてしまい、一方、吉岡を寝取られた恨みをもっていた姐さん芸者力次は、芸者上がりの君龍と一糸の仲を取りもち、一糸は駒代を捨てた。駒代はいちじは半狂乱になるが、そのころ尾花家の女主人が急死し、亭主の呉山老人の好意でその跡を継ぐという筋。荷風中期の代表作で、柳橋よりも当世的な大正初期の新橋花柳界を舞台にし、金と色の世界の「腕くらべ」を描き出している。エロチックな描写によって注目をひいたが、季節の推移をたくみにあしらった詩的情趣に富んだ作品であり、荷風独自のやや固定化した文明批評の枠組みにおいてではあるが、前代の人情と情趣が残っているはずの花柳の巷が、忌むべき功利主義的な現代によって侵蝕され、変質していくさまを批判的に浮上がらせている。昭和四四年四月、日本近代文学館より『名著複刻全集』の一冊として復刻された。
おかめ笹
おかめざさ
長編小説。前半は「中央公論」大正七・一、後半は「花月」大正七・五~一一、未完。大正九・四、春陽堂刊。『腕くらべ』とともに荷風中期の代表作であるが、印象はかなり違う。日本画家の大家の息子内山翰と弟子鵜崎巨石が富士見町、白山、麻布などの三流の花柳界で放蕩するさまをグロテスクに描き出したもの。作者は詩的情趣を避け、冷酷に突放した眼に終始しており、荷風文学における硬質な諷刺性が、もっとも鮮やかに示現されている。
濹東綺譚
ぼくとうきだん
長編小説。昭和一二・四、烏有堂(私家版)刊。「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」昭和一二・四・一六~六・一五、夕刊。昭和一二・八、岩波書店刊。老作者の「わたくし」(大江ただす)は、小説の腹案を練りながら散歩の途中、隅田川の向こうの私娼街玉の井の売春婦お雪と知合った。以後彼女をたずねては休息かたがた娼家の新風俗を観察し、かつ昔を懐かしむ。お雪は彼を頼りにして自立する夢をもち、真剣になりはじめた。だが、彼には過去の失敗の記憶もあり、これ以上深入りすることを避け、仲秋の明月の夜とともにひそかに別れを告げてもはや逢うこともしない、という筋。玉の井とそこの女お雪とは、「わたくし」にとって過去の世の裏淋しい情味を再現し、その幻影をよみがえらせてくれるよすがであった。見方をかえれば、この作品は、当時の社会一般にひろく瀰漫びまんしている恋愛の不首尾、人間の結合不能そのものを浮上がらせているといえるだろう。方法的には作中に別の小説「失踪」の筋を挿入して複眼的効果をあげつつ、作者がほとんど素顔のままで登場して全体をまとめ上げるしくみになっており、随筆体小説の味わいすらただよっている。荷風の昭和期における最高の到達点を示すもの。昭和四四年九月、日本近代文学館より『名著複刻全集』の一冊として復刻された。
断腸亭日乗
だんちょうていにちじょう
日記。「新生」昭和二一・三~六の掲載をはじめとし、「中央公論」などに発表。昭和二二・一、扶桑書房刊『罹災日録』。昭和二二・六、扶桑書房刊『荷風日暦』上、下。昭和二六・七~二七・四、中央公論社刊『荷風全集』一九~二二巻。昭和三三・一一~三四・五、東都書房刊『永井荷風日記』全七巻。昭和三八・三~三九・九、岩波書店刊『荷風全集』一九~二四巻。岩波版は原本を翻刻したもので、それ以前の諸本とは異本関係にある。『断腸亭日乗』とは、荷風が大正六年九月一六日より昭和三四年四月二九日(死の前日)まで四二年間にわたって書きつづけた日記で、起筆当時に住んでいた「断腸亭」にちなんで著者みずから名づけたもの。大久保余丁町から麻布偏奇館移居、罹災生活、岡山疎開、終戦、岡山引揚げ、熱海から市川定住にいたる半生の記録である。ほぼ執筆時から自分自身の覚え書きとしてではなく、後世に残すものとして意識的に叙述されている。「独居凄涼の生涯」を送っている非情な傍観者の眼をもって、しかしきわめて趣味的な態度で、おのれに興味ある部分を切取って示す。花鳥風月をめぐっては隠者的感慨をもらし、時勢を批判し、俗物を痛罵し、また女たちとの多彩な交渉を記録する。そこに一種の定型が感じられなくはないが、詩人の感性と小説家の観察眼とに支えられた、独特な味わいのある文語文体の妙趣は、余人の追随を許さない。同時代における風俗資料としても高く評価されているが、この世界を支えている反俗、非妥協の精神と態度とは、近代日本におけるまれなケースとして注目されている。
(竹盛天雄 1984記)

全集

  • 『荷風全集』全24巻(1948~53 中央公論社)
  • 『荷風全集』全28巻一刷(1962~65 岩波書店)、全29巻二刷(1971~74 岩波書店)
  • 『荷風小説』全7巻(1986~86 岩波書店)
  • 『荷風全集』全30巻(1992~95 岩波書店)
  • 分類:小説家
    分類:随筆家
    修正PDF:1000003296.pdf
    既存新規:既存


    日本大百科全書(ニッポニカ)

    永井荷風
    ながいかふう
    [1879―1959]

    小説家、随筆家、劇作家。明治12年12月3日東京・小石川に生まれる。本名壮吉 (そうきち)。別号に断腸亭 (だんちょうてい)主人、金阜 (きんぷ)山人など。父久一郎は尾張 (おわり)藩の出身でアメリカ留学後官吏となり、のち日本郵船上海 (シャンハイ)、横浜支店長を歴任した。鷲津毅堂 (わしづきどう)(宣光)の門下で漢詩人として令名がある。母恒 (つね)は毅堂の娘。

    [竹盛天雄]

    青春の反逆

    荷風は高等師範附属尋常中学科を経て外国語学校清 (しん)語科に学び中退。1898年(明治31)広津柳浪 (りゅうろう)の門に入り小説家を志したが、その一方で落語家や歌舞伎 (かぶき)作者の修業をした。当初、柳浪風の写実的作品をもって出発し、やがておりから盛んになったゾライズムの影響をいわれる『地獄の花』(1902)などを書いた。1903年(明治36)アメリカに遊学、以後、フランス滞在を経て1908年帰国する。この外遊体験は、西欧市民社会の個人主義と伝統文化への認識を深めさせ、彼本来の批評的資質と感覚的柔軟さとに磨きをかける機会を与えた。

    [竹盛天雄]

    新帰朝者の眼

    帰国した荷風は、『あめりか物語』(1908)によって、自然主義主流の文学界に新風を吹き込む者として歓迎され、『ふらんす物語』(1909、発禁)、『すみだ川』『冷笑』などを次々に発表。新帰朝者の眼 (め)に映じた明治文明への違和感と下町や花柳 (かりゅう)界の情趣に親しむ耽美 (たんび)的傾向とが色濃く現れていた。1910年、慶応義塾大学文科教授に迎えられ、『三田文学』を創刊、反自然主義陣営の中心的存在の一人となった。おりから、大逆事件が発覚し、それに伴う強権の抑圧政策は、彼のかねてからの明治社会への反感をいっそうあおり、享楽的戯作 (げさく)者的な姿勢を意識的にとらせる結果となった。『新橋夜話』『散柳窓夕栄 (ちるやなぎまどのゆうばえ)』などにその反映がある。またこの時期、訳詩集『珊瑚 (さんご)集』があり、戯曲『秋の別れ』などの試みもあった。

    [竹盛天雄]

    疎外と充実

    明治から大正への時代の移行は、荷風個人にとっても一つの節目にあたっていた。父の死去をきっかけに妻を離別し、花柳界出身の藤蔭 (ふじかげ)静枝を正妻に迎えたがふたたび離婚した。このような、いわゆる醇風 (じゅんぷう)良俗に反したふるまいは、弟や親戚 (しんせき)縁者との関係を悪化させ、長男で家督相続者でありながら、逆に「家」から排除され、疎外される因となった。1916年(大正5)健康を理由に慶大を辞し、『三田文学』編集も退いた。大久保余丁町の父の邸を売り、やがて麻布に木造洋館を買入れて偏奇 (へんき)館と名づけ、独身にして自由な生活に入り始めた。が、作家としての力は充実し、『腕くらべ』(1917)、『おかめ笹 (ざさ)』(1920)のような大正期荷風文学の代表作が生まれた。『断腸亭日乗 (にちじょう)』の起筆(1917)もこの時期のことである。

    [竹盛天雄]

    好奇心と傍観

    大正から昭和への時代の転換のなかで創作力に劣えがみえるが、関東大震災以後の新風俗に彼の好奇心は向けられ、これがやがて私娼 (ししょう)やカフェーの女給、あるいは女のヒモとして生きる男たちの姿などを非情に描き出した昭和期の作品を生んだ。『つゆのあとさき』(1931)、『ひかげの花』などがそれである。軍国主義が跳梁 (ちょうりょう)する時代、荷風は夜ごと銀座、浅草界隈 (かいわい)に出没、その陋巷 (ろうこう)趣味、狭斜 (きょうしゃ)趣味はいよいよ時代への一つの風刺的意味をもってきた。隅田 (すみだ)川の向こう玉の井の私娼窟 (くつ)を探訪し、そこに素材を得た『濹東綺譚 (ぼくとうきだん)』(1937)は、荷風文学の到達点を指し示すものといってよい。またこの時期、歌劇『葛飾 (かつしか)情話』があった。戦争下の荷風は、反国策的な作風のため作品発表の場を失うが、むしろ、それは彼の純粋な創作意欲を鼓舞した。敗戦後、一斉に発表される作品は、こうしてひそかに書き続けられた。

    [竹盛天雄]

    「偏奇」の美学

    1945年(昭和20)3月の東京大空襲によって偏奇館焼亡、兵庫県明石 (あかし)を経て岡山に疎開、その地で敗戦を迎えた。戦中の非妥協の生き方は、戦後、ジャーナリズムによって持ち上げられるが、時勢を白眼に視 (み)て傍観する姿勢は、戦後社会に対しても変わらなかった。1952年(昭和27)文化勲章受章、1954年芸術院会員に選ばれたが、千葉県市川の自宅で自炊生活を続け、買物籠 (かご)を提げて浅草通いをする「偏奇」の美学は、死に至るまで貫き通された。昭和34年4月30日没。胃潰瘍 (かいよう)の吐血による心臓麻痺 (まひ)であった。

    [竹盛天雄]



    世界大百科事典

    永井荷風
    ながいかふう
    1879-1959(明治12-昭和34)

    明治・大正・昭和にわたる小説家,随筆家。東京生れ。本名壮吉,別号断腸亭主人,金阜山人など。父久一郎は官吏,のち日本郵船の上海,横浜支店長を歴任,漢詩人として令名があった。荷風は高等師範学校付属中学校(1897年卒)をへて東京外国語学校清語科を中退(1899)。良家の風に反抗,1898年広津柳浪門に入り小説家を志す一方,落語家や歌舞伎作者の修業もした。初期の作品に〈明治30年代〉のゾライズムの洗礼を受けた《地獄の花》(1902)などがある。彼の特色が明らかになるのは,1903年から08年におよぶアメリカ,フランスの外遊体験をもとにした《あめりか物語》(1908),《ふらんす物語》(1909。発禁)による。帰国後の作品は,新帰朝者として明治社会の浅薄な文明を批判,下町や花柳界の情趣を追う耽美的傾向を示し,《すみだ川》(1909),《冷笑》(1910)などがあった。10年慶応義塾の文科教授,《三田文学》主幹となり,反自然主義陣営の一つの中心となった。明治末期,反時代的姿勢はいっそう濃厚となり,《新橋夜話》(1912)などを著したが,大正期に入ると,16年慶応義塾の教授と《三田文学》主幹をやめ,隠退的自由さの中で花柳小説《腕くらべ》(1917)や《おかめ笹》(1920)の傑作を生んだ。《断腸亭日乗(だんちようていにちじよう)》の起筆もこの時期である。反時代的であっても新風俗への好奇心はさかんであり,それは昭和期に入って《つゆのあとさき》(1931),《ひかげの花》(1934)などに結晶し,また《濹東綺譚(ぼくとうきだん)》(1937)となっている。しかし太平洋戦争下の軍国主義には断固として非妥協を貫き,反国策的な《浮沈》《踊子》などをひそかに書きつづけた。これらの作品は敗戦後のジャーナリズムから歓迎され,〈大家の復活〉をいわれた。52年文化勲章を受け,54年には芸術院会員に推されたが,彼自身の反時代的態度は変わることなく,陋巷に隠れ,浅草の踊子たちと親しむという〈偏奇〉で〈自由〉な姿勢を保ちつづけ,ひとり胃潰瘍の吐血をして死亡。
    [竹盛 天雄]

    [索引語]
    断腸亭主人 金阜山人 地獄の花 ふらんす物語
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    1. 永井荷風
    日本大百科全書
    小説家、随筆家、劇作家。明治12年12月3日東京・小石川に生まれる。本名壮吉そうきち。別号に断腸亭だんちょうてい主人、金阜きんぷ山人など。父久一郎は尾張おわり藩
    2. 永井荷風
    世界大百科事典
    1879-1959(明治12-昭和34) 明治・大正・昭和にわたる小説家,随筆家。東京生れ。本名壮吉,別号断腸亭主人,金阜山人など。父久一郎は官吏,のち日本郵船
    3. ながい‐かふう【永井荷風】
    日本国語大辞典
    小説家。東京出身。本名壮吉。初めゾラを模倣した自然主義的作品を書いて出発したが、アメリカ・フランスに赴き、帰朝後、耽美派の代表的作家として活躍。かたわら慶応大学
    4. ながいかふう【永井荷風】
    国史大辞典
    。『荷風全集』全二十九巻がある。 [参考文献]吉田精一『永井荷風』(『吉田精一著作集』五)、秋庭太郎『永井荷風伝』、磯田光一『永井荷風』、野口冨士男『わが荷風』
    5. ながい-かふう【永井荷風】画像
    日本人名大辞典
    1879−1959 明治-昭和時代の小説家。明治12年12月3日生まれ。永井久一郎の長男。広津柳浪(りゅうろう)の門にはいる。アメリカ,フランスに外遊,帰国後「
    6. 永井 荷風
    日本近代文学大事典
    昭和二六・七~二七・四、中央公論社刊『荷風全集』一九~二二巻。昭和三三・一一~三四・五、東都書房刊『永井荷風日記』全七巻。昭和三八・三~三九・九、岩波書店刊『荷
    7. 永井荷風[文献目録]
    日本人物文献目録
    荷風と潤一郎』-『特集・永井荷風 作家論と作品集』-『永井荷風』-『永井荷風』新井声風『永井荷風』生松敬三『永井荷風』臼井吉見『永井荷風』桑原武夫『永井荷風
    8. おうげんおう【王彦泓】(Wáng Yànhóng
    世界人名大辞典
    〔1598?~1647?〕中国明末清初の詩人.江蘇金壇の人.生没年については諸説あるが,過去の詩人になぞらえた表現などから上記のように推定される.江蘇華亭県学の
    9. あ
    日本国語大辞典
    けえ』」(4)がっかりしたり、いやになったりしたときに発する語。あああ。*薄衣〔1899〕〈永井荷風〉一「あ、何だか陰気臭くって為様が無い」*斜陽〔1947〕〈
    10. あいあい‐がさ[あひあひ‥]【相合傘】画像
    日本国語大辞典
    すかす眸(ひとみ)を不審と据ゑると白墨の相々傘(アヒアヒガサ)が映る」*すみだ川〔1909〕〈永井荷風〉二「皆(みん)なから近所の板塀や土蔵の壁に相々傘(アヒア
    11. あい‐ちゅう[あひ‥]【相中・間中・合中】
    日本国語大辞典
    ◎着流し三尺帯、素見(ひやかし)の仕出しにて茶を呑み居る」*腕くらべ〔1916~17〕〈永井荷風〉一六「一糸の父先代菊如の時分から相中(アヒチュウ)の古い弟子菊
    12. あい‐の‐す【愛巣】
    日本国語大辞典
    こと」*〓東綺譚〔1937〕〈永井荷風〉六「そのころには男を『彼氏』といひ、女を『彼女』とよび、二人の侘住居を『愛の巣』などと云ふ
    13. あいのり‐ぐるま[あひのり‥]【相乗車】
    日本国語大辞典
    篁村〉四・三「毎日合乗車(アヒノリグルマ)で物見遊山と洒落こめば」*新梅ごよみ〔1901〕〈永井荷風〉二〇「角町の角から出て来た一台の奇麗な相乗車(アヒノリグル
    14. あい‐ばこ[あひ‥]【相箱】
    日本国語大辞典
    〉三「おい姉さん、其の腕車(くるま)はな、合乗(アヒバコ)にしてお呉れ」*祝盃〔1909〕〈永井荷風〉二「賃銭をきめて二人乗りの合箱(アヒバコ)に乗った」
    15. あい‐よ・る[あひ‥]【相寄】
    日本国語大辞典
    りつ)した樅の木は引っ扱(こ)いた様な梢が相倚(アヒヨ)って」*つゆのあとさき〔1931〕〈永井荷風〉二「西洋文字を裸体の女が相寄って捧げてゐる漆喰細工」[発音
    16. あえぎ[あへぎ]【喘】
    日本国語大辞典
    〔名〕(動詞「あえぐ」の連用形の名詞化)(1)激しく呼吸すること。また、その声。*珊瑚集〔1913〕〈永井荷風訳〉暗黒「臨終の喘咽(アヘギ)聞ゆる」*十六歳の日
    17. あお‐くさ・い[あを‥]【青臭】
    日本国語大辞典
    )〔1770頃〕「人倫類にあらず色ドス色にして、甚青臭(アヲクサ)し」*三重襷〔1899〕〈永井荷風〉下「半兵衛は長煙管を取上げ、ふーっと、青臭い秦野煙草の煙を
    18. あお‐まめ[あを‥]【青豆】
    日本国語大辞典
    アオエンドウ。また、これを甘く煮たもの。うぐいす豆。グリンピース。*冷笑〔1909~10〕〈永井荷風〉一〇「青豆を浮かしたコンソンメヱの暖かいのを啜って」[方言
    19. あか‐ゲット【赤─】
    日本国語大辞典
    云々(しかじか)の所に案内せんといふもの、頻りにうるさく附纏ひ来る」*ふらんす物語〔1909〕〈永井荷風〉船と車「後から旅の赤毛布(あかゲット)を突飛ばして行く
    20. アカデミー
    日本国語大辞典
    ネル)アカデミース(学士集会院)の門戸を二十度空しく叩きたりき」*ふらんす物語〔1909〕〈永井荷風〉再会「若手の劇詩人が新(あらた)にアカデミーの会員に選ばれ
    21. あがな・う[あがなふ]【贖・購】
    日本国語大辞典
    謝野鉄幹〉「世の中の黄金のかぎり身につけて、まだ見ぬ山を皆あがなはむ」*珊瑚集〔1913〕〈永井荷風訳〉序「邦人伊太利亜珊瑚珠の美と印度更紗の奇に驚き、争ひて此
    22. あがり‐だか【上高】
    日本国語大辞典
    多くしようとすれば」(2)商品などの売れた金銭の高。収益の額。また、そのかね。*夢の女〔1903〕〈永井荷風〉一三「営業の上り高は、皆お浪が所得である」*蓼喰ふ
    23. あきば-たろう【秋庭太郎】
    日本人名大辞典
    収集し,昭和4年「軟文学研究」を刊行した。戦後,日大教授。32年「日本新劇史」で芸術選奨,52年「永井荷風伝」で読売文学賞。昭和60年3月17日死去。77歳。東
    24. 秋庭 太郎
    日本近代文学大事典
    三二年京都智恩院において得度。ほかに『考證永井荷風』(昭41 岩波書店)がある。資料を博捜し、精密な考証を加えた実証的学風が特色。 個人雑誌,永井荷風 [図・式
    25. あき‐ま【空間・明間】
    日本国語大辞典
    はれて居ながら而も空室(アキマ)はいくらもない程の繁盛であった」*あめりか物語〔1908〕〈永井荷風〉夜の女・一「下宿人を捜す明室(アキマ)の広告と共に相交り」
    26. あき‐やしき【空屋敷・明屋敷】
    日本国語大辞典
    明(ア)き屋敷(ヤシキ)ではあるまい。二軒ながら、キッと表札が打ってある」*地獄の花〔1902〕〈永井荷風〉一四「大方東京の空邸(アキヤシキ)に道ならぬ楽みに耽
    27. あきれ‐ぎみ【呆気味】
    日本国語大辞典
    〔形動〕(「ぎみ」は接尾語)あっけにとられるさま。物事の程度のはなはだしさに驚くさま。*薄衣〔1899〕〈永井荷風〉一「顔を背向けた御新造の様子に、老婢は少しく
    28. あき・れる【呆・惘】
    日本国語大辞典
    仮名垣魯文〉三・下「イヤおころさんの口のわるいのにゃアあきれるヨ」*かし間の女〔1927〕〈永井荷風〉「あきれて物が言へない」(ロ)(感嘆の気持を含んで用いる)
    29. あく‐ぎ【悪戯】
    日本国語大辞典
    幸田露伴〉三「悪太郎と相伍して悪戯(アクキ)をすること更に無く」*あめりか物語〔1908〕〈永井荷風〉長髪「私は繰返して運命の悪戯(アクギ)と云ひませう」*北史
    30. 芥川 龍之介
    日本近代文学大事典
    ある。芥川は名文家だが、その文体が小説のための文体であるかどうかは、大きな疑問だと思われる。永井荷風のような、すぐれた修辞家にちかい。小説を芸術として完成させる
    31. あく‐た・れる【悪─】
    日本国語大辞典
    今でも月に二三度はお手が附くのだと悪(アク)たれたので厶(ござ)います」*あめりか物語〔1908〕〈永井荷風〉ちゃいなたうんの記「又は悪(アク)たれて其の場に行
    32. あく‐とう【悪闘】
    日本国語大辞典
    *それから〔1909〕〈夏目漱石〉六「現実と悪闘(アクトウ)してゐるものは」*冷笑〔1909~10〕〈永井荷風〉一「将棋のお対手(あひて)をしても初めの二度は勝
    33. あく‐ば【悪罵】
    日本国語大辞典
    〔名〕口ぎたなくののしること。ひどい悪口を言うこと。*地獄の花〔1902〕〈永井荷風〉一四「最も猛烈なる悪罵の文字(もんじ)と卑猥なる浄瑠璃的の章句とで」*生〔
    34. あく‐ま【悪魔】
    日本国語大辞典
    〕〈木下尚江〉五・三「光明(ひかり)を亡ぼす悪魔の祝典(いはひ)です」*珊瑚集〔1913〕〈永井荷風訳〉奢侈「覚醒に憤る不眠症の荊棘。睡眠の高き壁に蠢(うごめ)
    35. あけ‐はなち【開放・明放】
    日本国語大辞典
    〔名〕戸や障子などの仕切りがなく、開け放たれていること。*ひかげの花〔1934〕〈永井荷風〉二「間口三間ほど明放ちにした硝子店で、家の半分は板硝子を置いた土間に
    36. アコーディオン
    日本国語大辞典
    *十五少年〔1896〕〈森田思軒訳〉二「小風琴(アッコーヂオン)を嗜(たしな)みて」*おもかげ〔1938〕〈永井荷風〉「廓内(くゎくない)を流す手風琴(アコオジ
    37. あさぎ‐もめん【浅葱木綿・浅黄木綿】
    日本国語大辞典
    〉七「浅黄木綿(アサギモメン)の着物をきた七十許(ばか)りの坊主が」*牡丹の客〔1909〕〈永井荷風〉「浅黄木綿(アサギモメン)の大きな四角な包を背負った商人体
    38. あざむ・く【欺】
    日本国語大辞典
    )結果としてだます、の意。期待や推測のとおりにならないことを表わす。*すみだ川〔1909〕〈永井荷風〉九「伯父さんはきっと自分を助けてくれるに違ひないと予期して
    39. あし が=遠(とお)い[=遠(とお)くなる・=遠(とお)のく]
    日本国語大辞典
    びの足が遠退(トホノ)いて、ちっと狐が離れたかと思ふと直にくすぶって」*夢の女〔1903〕〈永井荷風〉一七「先月、先々月あたりから、不思議に足が遠くなって」
    40. あし‐びょうし[‥ビャウシ]【足拍子】
    日本国語大辞典
    二「あまのうずめのみこと、足拍子をふみ、まひしより、はじまる也」*あめりか物語〔1908〕〈永井荷風〉市俄古の二日「彼の愉快なる『デキシー』の一節(ひとふし)、
    41. あし を 向(む)ける
    日本国語大辞典
    〇章「此頃は、廓(あっち)へなんぞは足を向(ムケ)た事もなひから」*冷笑〔1909~10〕〈永井荷風〉一三「例へば彼が三度の中に二度まで其の足を向けた美術館は」
    42. あじきな‐さ[あぢきな‥]【味気無─】
    日本国語大辞典
    おもひわきまへかね侍る、形(アヂキ)なさを猜(すい)したまへ」*腕くらべ〔1916~17〕〈永井荷風〉二二「老後の身の果敢(はか)なさ、世のあぢきなさを一時に感
    43. あずかり[あづかり]【預】
    日本国語大辞典
    仮名垣魯文〉一〇・下「例の空論はここらで預(アヅカ)りとして」*腕くらべ〔1916~17〕〈永井荷風〉一七「十段目が幕になると初日の事とて琵琶湖の乗切はあづかり
    44. あせ‐まみれ【汗塗】
    日本国語大辞典
    に同じ。*海に生くる人々〔1926〕〈葉山嘉樹〉一八「二人は汗まみれになって」*断腸亭日乗〈永井荷風〉昭和二〇年〔1945〕八月二一日「汗まみれになりて寓居にか
    45. あそび‐ちら・す【遊散】
    日本国語大辞典
    )び散(チ)らして、夜まで遊んで、終(つひ)に遊びくたびれて」*腕くらべ〔1916~17〕〈永井荷風〉五「これまで随分遊散してゐるが、実際吉岡はかういふ妙な心地
    46. あそび‐な・れる【遊慣・遊馴】
    日本国語大辞典
    ぶことになれる。遊興、遊蕩(ゆうとう)になれる。あそびならう。*腕くらべ〔1916~17〕〈永井荷風〉一「それにつけて今は遊ぶが上にも遊馴れてしまった身の上に思
    47. あそび‐にん【遊人】
    日本国語大辞典
    拵(こしらへ)から言方は遊(アソ)び人(ニン)に違(ちげ)えねえが」*牡丹の客〔1909〕〈永井荷風〉「帽子も冠(かぶ)らぬ遊人らしい若い好い男が乗って居た」[
    48. あたい
    日本国語大辞典
    2〕〈尾崎紅葉〉上・一「然してくれれば私(アタイ)の方は可いけれど」*すみだ川〔1909〕〈永井荷風〉二「約束してよ。あたいの家(うち)へお出よ。よくッて」[方
    49. あたらしい 女(おんな)
    日本国語大辞典
    誌『青鞜』は、女に購読せられるよりは男に依って多く購読せられ」*腕くらべ〔1916~17〕〈永井荷風〉二〇「兎に角新しい女とか云ふ奴で、理窟を云はせちゃ切のねえ
    50. あたら ず 触(さわ)らず
    日本国語大辞典
    05~06〕〈夏目漱石〉四「鈴木君は当らず障らずの返事はしたが」*ふらんす物語〔1909〕〈永井荷風〉晩餐「高田と呼ばれた若い男は当(アタ)らず触(サハ)らず笑
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