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  11. 上総介広常

上総介広常

ジャパンナレッジで閲覧できる『上総介広常』の日本大百科全書・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

上総介広常
かずさのすけひろつね
[?―1183]

平安末期の武将。平忠常 (ただつね)の子孫、常澄 (つねずみ)の子。上総権介 (ごんのすけ)に任じ、介八郎 (すけのはちろう)と称す。その所領は上総国(千葉県中部)から下総 (しもうさ)国(千葉県北部)に及び、この地方最大の勢力を誇った。保元 (ほうげん)・平治 (へいじ)の乱には源義朝 (よしとも)に従う。1180年(治承4)8月石橋山 (いしばしやま)の敗戦後、安房 (あわ)国(千葉県南部)に逃れた源頼朝 (よりとも)に誘われたが、初め応ぜず、ようやく9月19日、兵2万騎を率いて隅田 (すみだ)川辺に参会、服属した。以後、常陸 (ひたち)国(茨城県)佐竹氏征討などにも功績があったが、83年(寿永2)冬、謀反の疑いにより誅殺 (ちゅうさつ)された。しかしまもなく無実が判明、弟たちは助命されたという。

[杉橋隆夫]



国史大辞典

平広常
たいらのひろつね
 - 一一八三
平安時代末期の豪族的武士。常澄の子。通称介八郎。世襲の職である上総権介に任じ、上総国全域と下総国の一部に分派した両総平氏の族長として大武士団を構成した。保元・平治の乱では源義朝に属したが、義朝の滅亡により平氏に従う。しかし、治承三年(一一七九)十一月、平氏の有力家人藤原忠清が上総介に任ずると、国務をめぐってこれと対立し、清盛から勘当された。翌年源頼朝が反平氏の兵を挙げると、これに呼応して一族二万騎の大軍を率いて頼朝の陣に参向し、坂東諸武士団の帰趨を決定づけた。富士川の戦後、頼朝の西上を諫止して常陸佐竹氏の征討を主張。佐竹征伐では中心的な役割を果たし、戦後、常陸にも勢力を広げた形跡がみえる。しかし、その強勢のゆえに、頼朝に対して下馬の礼をとらないなど不遜な振る舞いが多く、頼朝にとって家人統制上大きな障害となり、寿永二年(一一八三)末、頼朝の立場が国家的に認められた直後、鎌倉営中において、嫡子能常とともに誅殺された。→上総氏(かずさし)
[参考文献]
『吾妻鏡』、『愚管抄』(『日本古典文学大系』八六)、福田豊彦『千葉常胤』(『人物叢書』一六七)、安田元久『鎌倉幕府―その政権を担った人々―』、野口実『坂東武士団の成立と発展』、同『鎌倉の豪族』一(『鎌倉叢書』三)、同「上総氏の成立・発展とその背景」(川村優編『論集房総史研究』所収)、新田英治「頼朝をめぐる人々」(『日本人物史大系』二所収)、相田裕昭「平安朝末期房総における豪族的領主の支配構造―上総氏と千葉氏について―」(『史潮』一〇七)、伊藤邦彦「上総権介広常について」(『史潮』新九・一〇)
(野口 実)
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検索ヒット数 67
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検索コンテンツ
1. 上総介広常
日本大百科全書
平安末期の武将。平忠常ただつねの子孫、常澄つねずみの子。上総権介ごんのすけに任じ、介八郎すけのはちろうと称す。その所領は上総国(千葉県中部)から下総しもうさ国(
2. あびるのしよう【畔蒜庄】千葉県:袖ケ浦市
日本歴史地名大系
古代の畔蒜郡がほぼ全域にわたり庄園化した、いわゆる郡名庄。本家は内蔵寮、領家(本所)は紀伊熊野山。地頭は上総介広常、のち熊野山別当。広常ののち実際に下地を支配し
3. あわのくに【安房国】千葉県地図
日本歴史地名大系
坂東の武士団の上に立つ棟梁であった源義朝の軍に属し参戦しているが(「保元物語」上)、上総が上総介広常、下総が千葉介常胤の各一人であることと好対照である。ほか在庁
4. いけわだむら【池和田村】千葉県:市原市地図
日本歴史地名大系
頼朝下文写(烟田文書)に佐是郡内矢田・池和田両村とみえ、公事免除・一色別納の地として権介(上総介広常)の娘に宛てられ、年貢は加々美小次郎(小笠原長清)に弁ずるこ
5. いしばしやまのたたかい【石橋山の戦】
国史大辞典
頼朝は箱根を経て真鶴から海路安房国に逃れ、上総・下総の大領主で当時の関東地方で最大級の兵力を有した上総介広常・千葉介常胤を味方に得て、その後の関東地方制圧の出発
6. 岡崎氏
世界大百科事典
るエピソードが多い人物でもある。頼朝にねだって下された水干を着て喜んだのを,やっかみ半分の上総介広常にからかわれて腹を立て大げんかした話や,息子の仇として預けら
7. かいふちむら【貝淵村】千葉県:木更津市地図
日本歴史地名大系
う房総往還が通る。江戸時代には貝淵藩の陣屋が置かれた。「義経記」巻三の源頼朝挙兵の記事に、上総介広常をはじめとする三千余騎の軍勢が「開発の浜」に集まり、頼朝方に
8. 梶原景時
日本大百科全書
して活躍した。82年(寿永1)頼家よりいえ誕生の儀を奉行ぶぎょう、翌年には頼朝の密命により上総介広常かずさのすけひろつねを殺害、さらに平氏追討戦では軍奉行いくさ
9. かつうらじょうあと【勝浦城跡】千葉県:勝浦市/浜勝浦村地図
日本歴史地名大系
。のち正木氏の拠点となる。天慶期(九三八―九四七)興世王が築き、文治期(一一八五―九〇)に上総介広常の一族が入ったという伝承がある。また大永元年(一五二一)真里
10. 甲子夜話三篇 5 79ページ
東洋文庫
〔=〕或日狂言の鷺二日ふ。伜権之丞、頃ろ薩侯の第に於て『狐怪』の狂言を為んとす。其語の中に、三浦介義明、上総介広常と云言あり。此度の能には、見物の侯に有馬上総介
11. 甲子夜話三篇 5 80ページ
東洋文庫
而て総州には千葉介に相並ぷ大名なし。其後代々千葉に住で、鎌倉の下知に従て軍事を勤む。是等に拠れば、上総介広常、千葉介常胤、同時なるより、同属なることも知られたり
12. きさらづ【木更津】千葉県:木更津市
日本歴史地名大系
る要地だったことが知られ、本牧の海民の活動は木佐良津に及んでいた。「義経記」巻三にみえる、上総介広常が赴こうとした「きさうとの浜」は木更津に比定されている。この
13. 義経記 149ページ
日本古典文学全集
かくするこそ久しけれ。八ケ国はもとより源氏に志ある国なりければ、我も我もと  町の各一部の布施付近で、上総介広常の拠点といい、その館跡がある。上総国長柄郡。現在
14. 義経記 1 263ページ
東洋文庫
頼朝が殺生の罪業は三人なり、其外は皆自業自得果なり。其三人と宣 ふは、一条次郎忠頼・三河守範頼・上総介広常なり。         大石寺本 巻三とあって、梶原の
15. 元曲五種 276ページ
東洋文庫
足を濯ぎ、英布を気らす雑劇(補注)という、例によって長い名の芝居ですが、それをわが国の頼朝と上総介広常のことに引き直してみました。もとより原曲の上でもすべて事実
16. 元曲五種 277ページ
東洋文庫
屋台の下手は、あとへ下げて廊下、その止まりには唐戸の出入。そこより前へ築土、よき所に中門。今、上総介広常は、頼朝謀叛により、平家の催促に応じ、兵を集めて今日明日
17. 元曲五種 279ページ
東洋文庫
ま捨ておこう。    と引きかえそうとする。    正面の襖の中にて、広常待て。    と声して、上総介広常、直垂姿、烏帽子、    太刀を手にして、自ら襖を開
18. 元曲五種 287ページ
東洋文庫
得るといえども、賊首頼朝上総の国 に遁れ、再び凶悪の徒を語らい、勢い 獄に及 ぶと聞く。嚢に上総介広常は二豎の犯す処となつ て、病いの床に呻吟するも、今既に加餐
19. 元曲五種 293ページ
東洋文庫
 府の民家の一部がみえる。    時は前幕の翌日午後。幕明くとすぐ下手前    の松蔭から上総介広常、脇立、小手脛当、    いわゆる小具足の姿で薙刀を手にし、
20. 元曲五種 298ページ
東洋文庫
室内の調度よろしく。頼朝 盛長、何か用か。盛長 はっ、上総介広常、軍勢引きつれ、唯今御味 方に馳せ参じましてござります。頼朝 なに上総介広常……はて誰であったか
21. 源平の合戦画像
日本大百科全書
立て直した頼朝は、目代の討滅と国衙こくが行政権の接収をスローガンに、千葉常胤ちばつねたね、上総介広常かずさのすけひろつねらを誘引して勢力を増強しつつ、破竹の進撃
22. さぜぐん【佐是郡】千葉県:上総国
日本歴史地名大系
現市原市南部の佐瀬を遺称地とする。上総国を領国支配していたという上総介広常の兄弟には佐是を称する者がおり、寿永二年(一一八三)上総介広常が滅びたあと、佐是郡内矢
23. しとうぐん【市東郡】千葉県:上総国
日本歴史地名大系
「和名抄」に記す上総国市原郡の東部に置かれた郡。平安末期、当郡は上総介広常の所領であったと推定されるが、その没後は千葉氏の支配下になったようである。鎌倉期と思わ
24. しんじょうじ【真常寺】千葉県:夷隅郡/御宿町/上布施村地図
日本歴史地名大系
ある。また同時期作とみられる木造如意輪観音坐像がある。境内の鎌倉期とみられる石塔は一説には上総介広常の供養塔ともいわれる。
25. すさいぐん【周西郡】千葉県:上総国
日本歴史地名大系
周淮郡が分割して周東郡とともに成立した郡。「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)九月九日条に源頼朝の挙兵に合流した上総介広常の率いた軍勢の一人として周西を称する人物がみ
26. すとうぐん【周東郡】千葉県:上総国
日本歴史地名大系
称する人物が早くから散見しており、「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)九月一九日条に源頼朝の挙兵に合流した上総介広常の率いた軍勢にみえる。これより平安末当郡は平姓上総
27. すみだがわ【隅田川】東京都:総論地図
日本歴史地名大系
頼朝は房総半島に逃れ上総国府・下総国府を経て武蔵に入国する際に隅田川辺に在陣した。このとき上総介広常が二万騎を率いて参陣している(「吾妻鏡」同年九月一九日条)。
28. 曾我物語 130ページ
日本古典文学全集
真つ先に馳せ参る。その夜は、洲崎の明神の御前にて喜びの御託宣蒙らせ給ひつつ、下総の国府へ入らせ給へば、上総介広常、弓の数一万張にて参り向ひたりければ、ここかしこ
29. 曾我物語 133ページ
日本古典文学全集
十余人なり。この内、源氏においては皆、梶原が申状とぞ聞えし。その中に、なほ情なく聞えしは、上総介広常を討たれしこそ、梶原が申状とは言ひながら無下にうたてくぞ覚え
30. 曾我物語 134ページ
日本古典文学全集
「頼朝が殺生の罪業は三人なり。その外は皆、自業自得果なり。その三人といふは、一条次郎忠頼・三河守範頼・上総介広常なり。されば、これらがために毎日読誦の『法華経』
31. 太平記秘伝理尽鈔 2 338ページ
東洋文庫
円明大師)などがいるが、ここに該当する僧は不明。一一かづさの介広常 (8ウ) 平広常。通称上総介広常。治承四年(一一八〇)九月、頼朝の挙兵に際し、兵二万騎を率い
32. 平広常
世界大百科事典
?-1183(寿永2) 平安末期の武将。上総国衙を掌握する東国屈指の武士団の首長。通称上総介広常。常澄の子。保元・平治の乱では源義朝の軍勢に加わった。1180年
33. たまさきじんじゃ【玉前神社】千葉県:長生郡/一宮町/一宮本郷村地図
日本歴史地名大系
を使として奉幣している(「吾妻鏡」同年八月一一日条)。同二年頼朝への謀反の疑いで殺害された上総介広常は、同元年七月に頼朝の心願成就・東国泰平を祈願、成就後は三ヵ
34. たまものまえ【玉藻前】
日本架空伝承人名事典
・番号(枚、丁、日):信‐1刊行/開き:1772(安永元年)(開き)「両介」は三浦介義明と上総介広常。「三浦の介上総の介、両人に綸旨を為されつゝ、奈須野の化生の
35. ちしょう・じゅえいのらん【治承・寿永の乱】
国史大辞典
石橋山の戦で大庭景親以下の軍に敗れ、海路安房国に渡った。ここで再起をはかった頼朝は、安西景益・千葉介常胤・上総介広常ら、安房・上総・下総の大武士団の協力を得て武
36. 千葉氏
世界大百科事典
兼ねて千葉介とよばれた。常重の子千葉常胤のとき源頼朝の挙兵に応じ,忠常の子孫では嫡流の地位にあった上総介広常が討たれたこともあって,鎌倉時代に大いに発展,嫡流は
37. ちんこくじんじゃ【鎮国神社】栃木県:那須郡/黒羽町/黒羽城下
日本歴史地名大系
化天皇。旧郷社。社伝によれば、久寿二年(一一五五)に須藤権守貞信・千葉介常胤・三浦介義明・上総介広常らが九尾の狐を退治したとき八幡宮を勧請、この地を狩野八幡館と
38. とうきょうわん【東京湾】神奈川県:総論地図
日本歴史地名大系
越えて房総半島にまで勢力を伸ばした。治承四年(一一八〇)八月、源頼朝の挙兵に応じた三浦氏に対岸の上総国の上総介広常の弟金田頼次が衣笠城(現横須賀市)で合流したこ
39. ないらんのかくだい【内乱の拡大】 : 治承・寿永の乱
国史大辞典
石橋山の戦で大庭景親以下の軍に敗れ、海路安房国に渡った。ここで再起をはかった頼朝は、安西景益・千葉介常胤・上総介広常ら、安房・上総・下総の大武士団の協力を得て武
40. ながしむら【長志村】千葉県:夷隅郡/大原町地図
日本歴史地名大系
組が持高割で納めること、山番は双方で相談して勤めることで和解している(渡辺家文書)。金山に上総介広常の家臣金山将監が居城したという金山城跡がある。宮下に伊佐奈美
41. はぶのしょう【埴生庄】千葉県:成田市
日本歴史地名大系
神代本千葉系図によれば、上総常澄の子に埴生六郎常益がみえ、平安末当庄は上総氏の支配下にあったと思われる。上総介広常の滅亡後は千葉氏が入り、常胤―常秀(常胤孫)―
42. 原氏
世界大百科事典
がた)社)大宮司となり原大夫と称したのにはじまる。その子高春は平忠度の伯父であったが,母が上総介広常の妹であったため源頼朝軍に参じた。その後広常に縁座して本領を
43. ふせごう【布施郷】千葉県:夷隅郡/大原町/下布施村
日本歴史地名大系
によれば、郷内の宝蔵山真常寺(現御宿町)の存高がこれを寄付している。真常寺の近隣の館山には上総介広常にかかわる砦が築かれたとの所伝がある。近世初期にも郷名が用い
44. へいきたぐん・きたぐん【平北郡・北郡】千葉県:安房国
日本歴史地名大系
源頼朝が海路逃れた先が平北郡猟島(現鋸南町竜島)であった(吾妻鏡)。翌月には平北郡を立って上総介広常の居所に赴いている。宝治元年(一二四七)六月二三日の将軍藤原
45. 真名本 曾我物語 1 166ページ
東洋文庫
のお告げ)を蒙らせ給ひつつ、安房の国を出でて下総の国府(千葉県市川市国府台)へ入らせ給ふ。上総介広常、弓の数一万張とて参り向ひたりければ、ここかしこより起集して
46. 真名本 曾我物語 1 170ページ
東洋文庫
景時)が申状(つげ口が原因の滅亡)とぞ聞えし。この中になほ(どう考えても)情なく聞えしは、上総介広常を討たれけるこそ、梶原が申状とは云ひながら、無下に曝し(まっ
47. 真名本 曾我物語 1 196ページ
東洋文庫
兄弟のたてこもったところである。秀衡の五男 は通衡かと思われるが、厨川五郎と称したかど うかわからない。套 上総介広常を討たれけるこそ……無下に嗄し  広常は桓
48. 源頼朝画像
日本大百科全書
頼朝は安房の武士たちの援助を得て短時日のうちに勢力を挽回ばんかいし、ついで上総かずさの在庁官人上総介広常かずさのすけひろつね、下総しもうさの千葉介常胤つねたねら
49. 源頼朝
世界大百科事典
渡って安房に逃れた。彼に従った三浦一族の勢力下にあった安房の在地武士をはじめ,上総,下総の有力武士たる上総介広常,千葉介常胤らを糾合することに成功し,しだいに勢
50. みなもとのよりとも【源頼朝】画像
国史大辞典
兵とともにひそかに海路安房国に渡った。この地で北条時政・三浦義澄らと合し、再起をはかるため上総介広常・千葉常胤らの協力を求め、上総・下総から武蔵に入り、はじめ平
「上総介広常」の情報だけではなく、「上総介広常」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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