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曲亭馬琴

ジャパンナレッジで閲覧できる『曲亭馬琴』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

曲亭馬琴
きょくていばきん
[1767―1848]

江戸後期の小説家。姓は滝沢、名は興邦 (おきくに)、のち解 (とく)と改める。字 (あざな)は子翼、瑣吉 (さきち)。通称は清右衛門、笠翁 (りつおう)、篁民 (こうみん)。別号は大栄山人 (だいえいさんじん)、著作堂 (ちょさどう)主人、飯台陳人、乾坤 (けんこん)一草亭、玄洞陳人、蓑笠漁隠 (さりつぎょいん)、信天翁 (しんてんおう)など。変名に傀儡子 (かいらいし)、一竹斎達竹など。明和 (めいわ)4年6月9日、1000石取の旗本松平鍋五郎 (なべごろう)源信成 (のぶなり)の用人滝沢運兵衛興義 (おきよし)と妻門 (もん)の五男倉蔵 (くらぞう)として江戸・深川の主家の邸内に生まれる。長兄興旨は羅文 (らぶん)と号して俳諧 (はいかい)を好んだ。10歳にして滝沢家を継ぎ、主君の孫八十五郎に仕えたが、その暗愚に耐えかね、14歳で主家を出奔、長兄や叔父のもとにいて、長兄の師越谷吾山 (こしがやござん)に俳諧を学び、文学趣味を涵養 (かんよう)した。その間、旗本の間を転々と渡り奉公をし、放蕩 (ほうとう)の生活を送ったが、23歳のとき官医山本宗英の塾に入って医を志す。だが、むしろ亀田鵬斎 (ほうさい)の儒学の講説を聞くほうを好んだという。

 1790年(寛政2)24歳の彼は戯作 (げさく)で身をたてることを決意し、山東京伝に弟子入りしたが、おりから深川永代寺の弁財天開帳の境内で評判をとっていた壬生 (みぶ)狂言に取材して、黄表紙『尺用二分狂言 (つかいはたしてにぶきょうげん)』を大栄山人の名で著し、翌年に刊行した。それより京伝の代作などをして、もっぱら黄表紙を著し、一時、当時一流の版元書肆 (しょし)蔦屋重三郎 (つたやじゅうざぶろう)の番頭に雇われたりした。27歳、元飯田町中坂下の商家伊勢屋 (いせや)の寡婦会田 (あいだ)氏のお百 (ひゃく)という3歳年上の女に婿入りした。姑 (しゅうとめ)の死後には商売をやめ、姓を滝沢氏に復し、1796年30歳のころにはすでに2女をもち、翌年には男子宗伯 (そうはく)(興継)も生まれた。同年には読本 (よみほん)の処女作『高尾船字文 (たかおせんじもん)』を著したが、まだ評判をよばず、長編への準備期間中であった。

 1802年(享和2)36歳の彼は京坂に旅行したが、上方 (かみがた)の文人たちに触れて大いに刺激を受け、のちに作品に登場させる人物の遺跡や墳墓を実地踏査し、読本作者としての力を養った。このときの経験を記した随筆が『蓑笠雨談 (さりつうだん)』(1804刊)であり、大坂の河内屋 (かわちや)太助と契約して1805年(文化2)に本格的な読本の初作として刊行した作品が『月氷奇縁 (げっぴょうきえん)』であった。その好評により、おのが境地を確立した彼は、『稚枝鳩 (わかえのはと)』『石言遺響 (せきげんいきょう)』『四天王剿盗異録 (してんのうしょうとういろく)』『三国一夜 (さんごくいちや)物語』『勧善常世 (かんぜんつねよ)物語』『標注園 (その)の雪』『隅田川梅柳新書 (すみだがわばいりゅうしんしょ)』『頼豪阿闍梨怪鼠伝 (らいごうあじゃりかいそでん)』『雲妙間雨夜月 (くものたえまあまよのつき)』『松浦佐用姫石魂録 (まつらさよひめせきこんろく)』『旬殿実々記 (じゅんでんじつじつき)』など、1808年に至るまで続々と読本を著したが、なかでもとくに好評であったのは『三七全伝南柯夢 (さんしちぜんでんなんかのゆめ)』(1808刊)と長編『椿説弓張月 (ちんせつゆみはりづき)』であった。不眠不休ともいえる努力に基づいたこの多作によって、彼は師京伝との読本制作の競争に勝った形になったが、1814年にはいよいよ数年来温めていた『南総里見八犬伝 (なんそうさとみはっけんでん)』を世に送り始め、この大長編は28年間かけて完成されることになる。

 1809年(文化6)から1813年の間には、『昔語質屋庫 (むかしがたりしちやくら)』『夢想兵衛蝴蝶 (むそうびょうえこちょう)物語』『常夏草紙 (とこなつぞうし)』『占夢南柯後記 (ゆめあわせなんかこうき)』『青砥藤綱摸稜案 (あおとふじつなもりょうあん)』『糸桜春蝶奇縁 (いとざくらしゅんちょうきえん)』『皿皿郷談 (べいべいきょうだん)』などが著され、また随筆『燕石襍誌 (えんせきざっし)』『烹雑之記 (にまぜのき)』『玄同放言 (げんどうほうげん)』『兎園小説 (とえんしょうせつ)』などに学問考証の成果を問うこともあったが、彼の学芸趣味は耽奇 (たんき)会、兎園会における屋代弘賢 (やしろひろかた)、山崎美成らとの交流にも発揮された。『八犬伝』と並行して、『朝夷巡島記 (あさひなしまめぐりのき)』『近世説美少年録 (きんせせつびしょうねんろく)』『開巻驚奇侠客伝 (かいかんきょうききょうかくでん)』などの長編歴史物も書かれたが、1839年(天保10)ごろからの眼疾の悪化その他の理由によって、それらは中絶され、『八犬伝』のみが宗伯の嫁おみちの献身的な代筆などの協力によって完成された。その間には1835年の宗伯の死、おみちと馬琴の仲を邪推するお百との葛藤 (かっとう)、失明、生活苦など、さまざまな困難が彼を襲ったが、不撓 (ふとう)不屈の気力でそれらを切り抜けた結果であった。ほかに『傾城水滸伝 (けいせいすいこでん)』『新編金瓶梅 (きんぺいばい)』などの多くの合巻 (ごうかん)を著したが、それらは読本よりも収入の点で彼を助けた。また膨大な日記、殿村篠斎 (とのむらじょうさい)、小津桂窓 (おづけいそう)ら彼の愛読者への書簡と家記『吾仏 (あがほとけ)の記』を残し、その几帳面 (きちょうめん)さと精力絶倫の努力ぶりには人を驚かしめるものがある。

 嘉永 (かえい)元年11月6日に82歳で永眠し、墓所は現に小石川・茗荷谷 (みょうがだに)(東京都文京区)の菩提寺 (ぼだいじ)深光寺に存する。法名は著作堂隠誉蓑笠居士。その読本は幕末から明治にかけて大人気を博し、坪内逍遙 (しょうよう)が『小説神髄』で小説近代化のために『八犬伝』を批判したりしたが、明治30年代まで根強い人気を保ち、小説の方法、出版、批評、文学論争などのさまざまな点において、近代の作家と作品のあり方を準備した意義には甚だ大きいものがある。

[徳田 武]



世界大百科事典

曲亭馬琴
きょくていばきん
1767-1848(明和4-嘉永1)

江戸後期の読本,合巻,黄表紙作者。本名滝沢興邦(おきくに),のち解(とく)。幼名は倉蔵また左七郎。通称清右衛門,笠翁また篁民。戯作号に,曲亭馬琴,著作堂主人,飯台陳人,玄同陳人,大栄山人,蓑笠漁隠(さりつぎよいん),信天翁など。狂名,変名は曲わの馬ごと,傀儡子清友,魁雷陳人など多数。1767年旗本松平信成の用人を務める滝沢運兵衛興義の五男として,江戸深川海辺橋東の松平屋敷内長屋で生まれた。ときに父43歳,母門(もん)30歳,長兄興旨(のち羅文)9歳,仲兄興春3歳。馬琴の下には妹2人(蘭,菊)が生まれた。9歳のとき父が大吐血して死に,長兄が家督をついだが,翌年故あって浪人し,10歳の馬琴が主家嫡孫八十五郎の相手として召され,滝沢の家督を継いだ。その後母妹らは長兄の宿所に移り,馬琴はひとり主家に起臥し,幼主の呵責に耐えるという少年時代を過ごしたが,14歳のとき,ついに〈木がらしに思ひたちけり神の旅〉の一句を障子に書きつけて松平屋敷を出奔した。以後,長兄,仲兄らの勧める戸田家徒士等の卑職武士職を嫌って,生活の自立を目ざす流寓時代がつづく。

 幼時より読書を好み,独学ながら漢籍,和書,俳書の類を読みふけり,かたわら浄瑠璃本,戯作書をも愛好した。一時,医師として立つことを考えて従学したが挫折。この間,亀田鵬斎,石川雅望,橘千蔭らの門をたたいたとの説もある。1790年(寛政2)24歳のとき,初めて山東京伝を訪ねて入門を請い,その温情に接したことが彼の文学者(戯作者)としての道をひらいた。翌年深川永代寺で行われた京の壬生(みぶ)狂言の大評判に取材した黄表紙《廿日余四十両 尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきようげん)》を豊国の絵,〈京伝門人大栄山人(だいえいさんじん)〉の署名で,和泉屋より刊行,これが処女作である。以後,京伝の食客,売卜師などをしながら黄表紙を執筆,一時は京伝の紹介で書肆蔦屋重三郎の番頭もつとめた。27歳のとき,飯田町中坂の履物商伊勢屋の寡婦,会田(あいだ)氏お百(30歳)に入夫し,生活の基盤を作るとともに戯作に専念する態勢をととのえた。そのころ,京伝の筆禍事件(1791)を契機に,読本と称する伝奇小説が行われはじめており,曲亭馬琴の戯号のもとに,《高尾船字文(たかおせんじもん)》(1796)を書いた。馬琴の生れついての俠気と正義感や道徳思想,伝奇幻想趣味や中国白話小説,和漢故事等の該博な知識,そしてうむことを知らぬ考証癖等が結びついて,時の小説界に新機軸をひらいたのが,大坂本屋の依頼で書いた 《復讐 月氷奇縁(げつぴようきえん)》(流光斎如圭画,1804)であった。当時の読者は,ここにひらかれた妖異な伝奇幻想,そして因果応報と勧善懲悪に徹した強烈な迫力をもつ物語性に瞠目し,馬琴の文名は大いにあがった。以後,馬琴は陸続として,《復讐奇談 稚枝鳩(わかえのはと)》(豊国画,1805),《繡像復讐 石言遺響》(北馬画,1805),《四天王剿盗異録(してんのうそうとういろく)》(豊広画,1805)と書きはじめる。

 このころ馬琴は40歳だが,以後の作品の量産ぶりは驚異的であり,しかも作はつねにヒットして,しだいに江戸文壇の王者の道を歩みはじめた感がある。私生活においては,文名を慕って集まる人々を避け,また大身武家,豪商らの客をも謝して会わず,長男宗伯(琴嶺(きんれい))の医業修得を助けつつ,ひたすらに執筆にあけくれていた。ために,恩人京伝との仲も疎遠になり,名声ゆえの孤立感をかみしめることもあった。やがて画工葛飾北斎とのコンビによる《墨田川梅柳新書》《新累解脱(しんかさねげだつ)物語》(以上1807),《椿説(ちんせつ)弓張月》(1807-11),《三七全伝南柯夢(さんしちぜんでんなんかのゆめ)》(1808),《占夢南柯後記》(1812)等の傑作がつぎつぎに上梓され,彼の地位を不動のものとした。かくして名作《南総里見八犬伝》(1814-42)の執筆,刊行がはじまった。一方彼のあくなき知的探究心は,天象,歴史,博物についての考証でも,《燕石雑志》《玄同放言》などの独自で宇宙論的な成果をあげるかたわら,屋代輪池,山崎美成らと耽奇会を起こし,奇物・名物を論じあうという一面もあった。1835年には長男宗伯(38歳)に先立たれる不幸にみまわれるが,孫の太郎の成長と小説へのひたすらな情熱によって打撃を克服し,書き続けた。そのころは小説稗史(はいし)の方法論についても独自な見解をもち,稗史七法をとなえ,木村黙老,殿村篠斎らの知己と,自作を中心に,注釈ではない文学評論の必要を論じている。しかし長年の刻苦努力は,晩年の馬琴を作家として致命的な両眼失明という苦痛に追いやった。文学にくらい宗伯未亡人お路を筆記者として,いらだち,叱り,怒り,なだめながら,口述で著作を続け,《八犬伝》は28年の歳月を経て完成した。お路の艱難辛苦のほどはその完結付録《回外剰筆》にくわしい。しかし,ついに完結を見ずに終わった《開巻驚奇 俠客伝》(1832-),《近世説美少年録》(1829-)の二大作が残ってしまった。82歳で死去。近代の文学者,史家はこの文豪を遇するにきわめて酷であった。
→読本
[高田 衛]

[索引語]
大栄山人 廿日余四十両 尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきようげん) 復讐 月氷奇縁(げつぴようきえん) 葛飾北斎 回外剰筆


国史大辞典

曲亭馬琴
きょくていばきん
一七六七 - 一八四八
江戸時代後期の小説家。本名は滝沢興邦、のちに解(とく)、隠居して篁民と称す。幼名は倉蔵・左七郎。通称は左吉(瑣吉)・清右衛門。別号は彫窩坊・大栄山人・著作堂主人・蓑笠漁隠・飯台陳人・乾坤一草亭・魁蕾(傀儡)子・玄同・笠翁・蟹行山人など数多くある。明和四年(一七六七)六月九日、江戸深川海辺橋の東、旗本松平鍋五郎信成(千石)の邸に、用人滝沢興義の五男として生まれた。安永四年(一七七五)九歳で父に死別、長兄興旨(羅文)が家督をついだが俸禄を半減され、翌年には浪人となった。次兄興春(鶏忠)は他家へ養子となり、幼年の倉蔵が家督をつぎ松平家の嫡孫八十五郎の童小性となったが、幼君の癇症に耐えきれず、同九年十月に出奔、放浪ののちに戸田大学に仕えた長兄の家に同居、翌年叔父田原忠興宅に移り元服した。長兄に従って越谷吾山に俳諧を学び、また戸田家の徒士となったが、間もなく去って市中を放浪し、水谷信濃守・小笠原上総介・有馬備後守と主を替え、寛政元年(一七八九)には官医山本宗英の塾に入り宗仙と号し、また亀田鵬斎に儒を、石川五老(雅望)に狂歌を学んだ。やがて深川仲町の裏家に独居し、文筆で身を立てようと、同二年二十四歳の秋に山東京伝を訪ねて入門、翌年正月に京伝門人大栄山人の名で黄表紙『(廿日余四十両)尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)』を刊行、その後京伝の代作をし、また書肆蔦屋重三郎の手代となり、名を解、字を左吉と改めた。同五年、二十七歳で飯田町中坂(千代田区九段北一丁目)の履物商伊勢屋の寡婦百(三十歳)のもとへ入夫、名を清右衛門と改め、また京橋の富商小林勘助の家守となって生活の安定をはかった。同七年、妻の母の没後は下駄屋を廃業し、滝沢姓に戻って手習師匠をし、売薬を販売、著述に専念して黄表紙を書き、同七年には読本の処女作『高尾船字文』を著わした。すでに二女をあげ、同九年十二月末には長男興継(宗伯)が生まれ、のちさらに一女を得ている。享和二年(一八〇二)三十六歳の夏に京坂へ旅行して『羈旅漫録』を著わし、文化元年(一八〇四)には読本『小説比翼文』を、また半紙本読本の初作『(復讐)月氷奇縁』を刊行して評判を得、同三年には著述繁多で手習師匠を止めた。同四年に『椿説弓張月』前編を、翌五年には『三七全伝南柯夢』『俊寛僧都島物語』『頼豪阿闍梨怪鼠伝』などをつづけて発表、かつての師の山東京伝を圧倒するに至った。同十一年、四十八歳、畢生の大作になる『南総里見八犬伝』初輯を、翌年『朝夷巡島記(あさいなしまめぐりのき)』初輯を発表して読本の第一人者となった。一方、長男宗伯に期待をかけ諸名家に医・儒・書・画を学ばせ、文化八年刊の随筆『烹雑の記』の挿絵を画かせたりしている。文政元年(一八一八)二十二歳の時に神田同朋町に医師として独立させ、同三年には松前老侯の抱医師となったが、虚弱で癇症強く常に病気勝ちであった。同六年、長女幸に聟を迎え、翌年五十八歳で飯田町の家を聟の清右衛門にゆずり、剃髪して笠翁と称して神田同朋町に宗伯と同居、同十年三月に宗伯(三十一歳)に医師土岐村氏の女路(二十三歳)をめとるが、その夏に馬琴は大病に罹る。翌十一年には孫の太郎が生まれ、つづいて二人の女子を得た。近所に住む幕臣の国学者屋代弘賢と交わり、その縁で文政七年、山崎美成・石川畳翠ら好古趣味の耽奇会の同人に加わり、『耽奇漫録』が編まれ、翌八年に桑山修理・荻生維則らと兎園会をつくり、『兎園小説』がまとめらる。文政十二年、読本『近世説美少年録』初輯を、天保三年(一八三二)に『開巻驚奇侠客伝』初輯その他を刊行し、また江戸作者の評伝『近世物之本江戸作者部類』を著わす。天保五年、六十八歳の二月に右眼が見えなくなり、その夏には大病に罹り、宗伯もまた病んだ。翌六年五月に宗伯は三十九歳で病没し、馬琴は『後の為の記』を書く。同七年夏、好評の『八犬伝』は木挽町の森田座で『八犬伝評判楼閣』の外題で上演された。同年八月、柳橋の万八楼で古稀算賀の書画会を開き、その入金と蔵書売却の代を合わせて、九歳の孫太郎に四谷信濃坂の持筒同心の株を買って移転し、代番を立てた。天保八年、女婿清右衛門が没し、同九年より左眼も衰えて手探りで原稿を書いたが、同十一年、七十四歳の時にはほとんど失明した。正月、太郎は十三歳で元服、年齢を偽って十一月より出仕した。六月ごろより路に口述して手紙を代筆させたが、翌年正月より『八犬伝』の原稿も代筆させた。二月に妻百と死別、なお苦心して稿を続けて八月末に脱稿、翌十三年二月に最終巻を刊行して完成した。また家譜『吾仏の記』を口述し、合巻『新編金瓶梅』を完結させ、読本『新局玉石童子訓』・合巻『女郎花五色石台』を口授したが、嘉永元年(一八四八)十一月六日、八十二歳で病没した。法名著作堂隠誉蓑笠清澄居士。小石川茗荷谷(文京区小日向)深光寺に葬る。著作はきわめて多く、約四十種の読本、約百種の黄表紙、約六十種の合巻、二百七十種の雑著がある。
[参考文献]
洞富雄・暉峻康隆・木村三四吾・柴田光彦編『馬琴日記』、木村三四吾編『馬琴書翰集』(『天理図書館善本叢書』和書之部五三)、水野稔他編『曲亭馬琴』(『図説日本の古典』一九)、麻生磯次『滝沢馬琴』(『人物叢書』三七)、植谷元・石川真弘・鮫島綾子「馬琴年譜考」(『ビブリア』三七・三八)
(柴田 光彦)
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1. 曲亭馬琴画像
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江戸後期の小説家。姓は滝沢、名は興邦おきくに、のち解とくと改める。字あざなは子翼、瑣吉さきち。通称は清右衛門、笠翁りつおう、篁民こうみん。別号は大栄山人だいえい
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本名滝沢興邦(おきくに),のち解(とく)。幼名は倉蔵また左七郎。通称清右衛門,笠翁また篁民。戯作号に,曲亭馬琴,著作堂主人,飯台陳人,玄同陳人,大栄山人,蓑笠漁
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新日本古典籍データベース
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15. あおとふじつなもりょうあん[あをとふぢつなモリョウアン]【青砥藤綱摸稜案】
日本国語大辞典
江戸後期の読本。二編、各五巻。曲亭馬琴作。葛飾北斎画。文化九年(一八一二)、江戸、平林庄五郎等刊。「本朝藤陰比事」「拍案驚奇」「酔菩提全伝」、実録「越後屋伝吉之
16. 青砥藤綱摸稜案(著作ID:10151)
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あおとふじつなもりょうあん 摸稜案 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 葛飾北斎一世(かつしかほくさい1せい) 画 読本 文化九刊
17. あがほとけのき【吾仏乃記】
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18. 秋山記行・夜職草 229ページ
東洋文庫
同様、浅草寺、亀戸天神、三囲稲荷、回向院、江戸城本丸、吉祥寺等の名所旧跡を訪ね、十返舎一九、曲亭馬琴、亀田鵬斎、蜀山人らの知名文士を時折訪問し、詩句を作り、六月
19. 『朝夷巡島記』
日本史年表
1815年〈文化12 乙亥〉 この年 曲亭馬琴 『朝夷巡島記』 刊(~文政10年、未完)。
20. あさいなしまめぐりのき【朝夷巡島記】
国史大辞典
曲亭馬琴作の読本。六編二十九巻。文化十二年(一八一五)から文政十年(一八二七)にかけて刊行。未完。七・八編を松亭金水が嗣作し、八編四十巻となる。木曾義仲の落胤
21. 朝夷巡島記(著作ID:81710)
新日本古典籍データベース
あさいなしまめぐりのき 朝夷巡島記全伝 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 歌川豊広(うたがわとよひろ) 画 松亭金水(しょうていきんすい) 作 葛飾為斎(かつし
22. あさひなしまめぐりのき【朝夷巡島記】
日本国語大辞典
江戸時代後期の読本。六編。曲亭馬琴作。歌川豊広画。三〇巻三一冊。正称「朝夷巡島記全伝」。文化一二~文政一〇年(一八一五~二七)刊。中国の「快心編伝奇」等を踏まえ
23. 朝夷巡島記(あさひなしまめぐりのき)
日本大百科全書
江戸時代の読本よみほん。曲亭馬琴作、歌川豊広とよひろ挿絵。30巻30冊。初編は1815年(文化12)、2編は1817年、3編は1819年(文政2)、4編は182
24. 足手書草紙画賦(著作ID:82666)
新日本古典籍データベース
あしでがきそうしのえくばり 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 北尾重政一世(きたおしげまさ1せい) 画 黄表紙 寛政一三刊
25. 蘆名辻蹇児仇討(著作ID:605276)
新日本古典籍データベース
あしなつじいざりのあだうち 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 歌川国丸(うたがわくにまる) 画 合巻 文化一二刊
26. 東発名皐月落際(著作ID:83658)
新日本古典籍データベース
あずまそだちさつきのおちぎわ 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 歌川豊国一世(うたがわとよくに1せい) 画 黄表紙 寛政一一刊
27. あそさん【阿蘇山】熊本県:総論
日本歴史地名大系
古代以来歌に詠まれることが少ない。景観が大きすぎ、しかも異国的であるためとも考えられる。文芸では曲亭馬琴の「椿説弓張月」、頼山陽の漢詩「過坂梨嶺望阿蘇山」などが
28. 安達原穐錦木(著作ID:84162)
新日本古典籍データベース
あだちがはらあきのにしきぎ 安達原穐二色木 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 歌川豊国一世(うたがわとよくに1せい) 画 合巻 文政三刊
29. 仇名物数寄(著作ID:610004)
新日本古典籍データベース
あだなものずき 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 勝川春亭(かつかわしゅんてい) 画 合巻 文化九刊
30. 膏油橋河原祭文(著作ID:85096)
新日本古典籍データベース
あぶらばしかわらのさいもん 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 歌川豊国一世(うたがわとよくに1せい) 画 合巻 文政六刊
31. 安倍清兵衛一代八卦(著作ID:85132)
新日本古典籍データベース
あべのせいべえいちだいはっけ 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 北尾重政一世(きたおしげまさ1せい) 画 黄表紙 寛政九刊
32. 買飴帋鳶野弄話(著作ID:86180)
新日本古典籍データベース
あめをかったらたこやろうばなし 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 北尾重政一世(きたおしげまさ1せい) 画 黄表紙 享和元刊
33. 荒山水天狗鼻祖(著作ID:86817)
新日本古典籍データベース
あらやまみずてんぐのはじまり 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 北尾政美(きたおまさよし) 画 黄表紙 寛政五刊
34. 石童丸
日本大百科全書
竹座初演)ができて、石童丸の名はあまねく知られるようになった。また、1806年(文化3)には曲亭馬琴の読本よみほん『石堂丸苅萱物語』まで刊行され、歌舞伎かぶきや
35. 石堂丸苅萱物語(著作ID:90540)
新日本古典籍データベース
いしどうまるかるかやものがたり 石童丸苅萱物語 苅萱後伝玉櫛笥 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 葛飾北斎一世(かつしかほくさい1せい) 画 読本 文化三刊
36. いとざくらしゅんちょうきえん[いとざくらシュンテフキエン]【糸桜春蝶奇縁】
日本国語大辞典
江戸後期の読本。八巻八冊。曲亭馬琴作、歌川豊清・豊広画。文化九年(一八一二)刊。もと管領家家臣五十四塚(いしづか)東六郎の娘小草と十以子(小糸)が、母の先夫糸屋
37. 糸桜春蝶奇縁(著作ID:12420)
新日本古典籍データベース
いとざくらしゅんちょうきえん 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 歌川豊清(うたがわとよきよ) 歌川豊広(うたがわとよひろ) 画 読本 文化九刊
38. 異聞雑稿(著作ID:646491)
新日本古典籍データベース
いぶんざっこう 曲亭馬琴(きょくていばきん) 随筆 
39. 今戸土産女西行(著作ID:98339)
新日本古典籍データベース
いまどみやげおんなさいぎょう 曲亭馬琴(きょくていばきん) 合巻 文政一一刊
40. 伊与簀垂女純友(著作ID:650055)
新日本古典籍データベース
いよすだれおんなすみとも 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 勝川春好二世(かつかわしゅんこう2せい) 画 合巻 文化一四刊
41. いわでものき[いはでものき]【伊波伝毛乃記】
日本国語大辞典
江戸後期の評伝。一巻一冊。无名子(曲亭馬琴)著。文政二年(一八一九)刊。山東京伝について、その出生、行状、結婚、生活、死から、著者との関係までを詳細に述べたもの
42. 伊波伝毛之記(著作ID:656053)
新日本古典籍データベース
いわでものき 曲亭馬琴(きょくていばきん) 随筆 文政二
43. 上田秋成画像
日本大百科全書
論じた『也哉抄やかなしょう』、句集『俳調義論』などがある。秋成は、国学者としてよりは、井原西鶴いはらさいかく、曲亭馬琴きょくていばきんと並んで近世を代表する小説
44. 上田秋成
世界大百科事典
型文人の典型であり,その生き方と,豊饒な幻想を織りあげた作品は,江戸後期の戯作者,山東京伝,曲亭馬琴らにも深い感銘を与えている。高田 衛 嶋屋仙次郎 和訳太郎 
45. 雨月物語
日本大百科全書
いて、単なる怪異を超えて人間性の深淵しんえんが可視化されている。山東京伝さんとうきょうでんや曲亭馬琴きょくていばきんなど、後続の作家たちに大きな影響を与えた。中
46. 雨月物語
世界大百科事典
持ちながら,順次に連環的に配置されており,小説集全体としても,緊密で高度な完成度を得ている。山東京伝や曲亭馬琴らの江戸後期の小説にも大きな影響を与えた。高田 衛
47. 歌川広重[文献目録]
日本人物文献目録
木次郎『女に好かれる広重』小島烏水『葛飾八幡と広重の額』高橋青磁『橋梁の画家広重』竹内梅松『曲亭馬琴と歌川広重の関係』小島烏水『後素閑話 京伝の絵、北斎の文、広
48. 奉打札所誓(著作ID:103797)
新日本古典籍データベース
うちたてまつるふだしょのちかい 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 喜多川月麿(きたがわつきまろ) 画 黄表紙 文化二刊
49. 姥桜女清玄(著作ID:104438)
新日本古典籍データベース
うばざくらおんなせいげん 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 勝川春亭(かつかわしゅんてい) 画 合巻 文化七
50. 梅渋吉兵衛発心記(著作ID:671885)
新日本古典籍データベース
うめしぶきちべえほっしんき 曲亭馬琴(きょくていばきん) 作 勝川春好二世(かつかわしゅんこう2せい) 画 合巻 文化八刊
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