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  11. 大石良雄

大石良雄

ジャパンナレッジで閲覧できる『大石良雄』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

国史大辞典

大石良雄
おおいしよしお
一六五九 - 一七〇三
江戸時代中期の播磨国赤穂藩士。正しくは「よしたか」とよむ。赤穂事件における浪士の中心的指導者。万治二年(一六五九)播磨赤穂の浅野家の代々家老の家に生まれる。通称喜内。代々の通り名は内蔵助。父は権内良昭で、早く没し、延宝五年(一六七七)に、祖父内蔵助良欽(よしただ)の家督を相続して家老見習となり、翌々年に家老職を継いだ。禄高は千五百石。大石家は近江の出身、藤原秀郷の家系で、曾祖父内蔵助良勝のとき浅野長重(長政の三男)に仕え、その子長直の時、笠間(常陸)より赤穂への転封に従った。良勝には良欽と頼母良重の二人の子があり、良重は浅野家の姻戚となり、家中で重きをなした(山鹿素行の赤穂での謫居は良重の家である)。『大石小山系譜』によれば、大石家と小山家とは、一族である。良雄は山鹿素行について軍学を、伊藤仁斎に儒学を、奥村権左衛門に剣を学んだとの説があり、温厚篤実にして深謀遠慮、君子の風をもっていたともいわれる。元禄十四年(一七〇一)三月十四日、浅野内匠頭長矩が、勅使御馳走役としての四日間の務めの最終日の朝、江戸城中松之廊下において、同役高家筆頭の吉良上野介義央に、刀を抜いて切りつけ傷を負わせる事件がおきた。このため、長矩は切腹・城地収公の裁断が直ちに行われ、長矩は当日夕刻、田村右京大夫建顕邸で切腹した。この報告が赤穂に伝えられたのは三月十九日で、それ以来、家中の論議は激発したが、良雄はこれを総括して、まず長広による浅野家再興を願うこと、吉良への裁断を求めることとし、四月十九日には赤穂城を受城使脇坂淡路守安照らに無事明け渡しを行い、金札交換や家中の割賦金支給の事務処理も五月二十一日に終り、六月中に京都郊外山科に移り住んだ。江戸では、吉良義央の身分にも変動(隠居)があり、居宅も本所一ツ目(のちの松坂町)に移転した。しかも江戸には早期復讐派=急進派の堀部安兵衛らがおり、良雄は意見調整のため、十月から十一月にかけて江戸に出、在住の人々と会い、諸方の挨拶をも済ませて帰った。しかし、一周忌をすぎても長広の閉門は解けず、再興の話もすすまず、全体に焦燥感の深い時期には良雄も遊蕩したし、浪士の中には脱落する者も出た。同十五年五月、良雄は長男主税良金をのこして妻子を離別、七月には長広の広島浅野家預けが確定して、再興の見通しはなくなった。七月二十八日、良雄ら有志が京都円山で会議して、義央を討って長矩の怨念を晴らすことと、十一月初めまでの江戸参集を決議した。十一月五日、良雄は垣見五郎兵衛の名で、鎌倉・川崎を経て江戸に入り、石町三丁目(中央区日本橋)の小山屋弥兵衛店に入ったが、これは公事訴訟を行うというのが表向きの理由であった。最終的会議は十二月二日に深川八幡前で行われ、具体的な相談をし、義央の在宅を確かめて、十二月十四日夜より討入りの行動をおこし、十五日午前四時ごろ吉良邸に乱入し、義央の首級をあげることに成功した。高輪の泉岳寺の長矩の墓前に参集し、幕命によって熊本細川綱利の高輪台の下屋敷に預けられ、翌十六年二月四日に切腹し、遺骸は泉岳寺に葬られた。年四十五。妻の陸(りく)は、但馬豊岡の京極家家老石束毎公(いしづかつねきみ)の女で、息大三郎とともに広島浅野家に迎えられた(墓は国泰寺にある)。良雄の人物評は、この吉良邸討入りの成功と切腹によって、この事件の中心的指導者として、後年多くの讃辞が呈され、さまざまの逸話があるが、大部分は後年の過大評価である。事件の遂行にあたった浪人たちの構成を見るとき、吉田忠左衛門・原惣右衛門・小野寺十内らの協力を無視することができず、この人々の上に、大石良雄はまとめ役として行動したということができる。→赤穂事件(あこうじけん)
(松島 栄一)


日本大百科全書(ニッポニカ)

大石良雄
おおいしよしお
[1659―1703]

赤穂 (あこう)浅野 (あさの)家の家老。代々家老で内蔵助 (くらのすけ)と称し家禄は1500石。いわゆる赤穂事件で吉良邸討入りの首領となり、名を知られた。1701年(元禄14)浅野長矩 (ながのり)が江戸城中で刃傷 (にんじょう)事件を起こし、改易 (かいえき)、切腹の処分を受けてから、家中をよく統制し過激な行為を抑えてまず加里屋 (かりや)(仮屋)城を幕府に引き渡した。このとき早くも幕府派遣の目付 (めつけ)を介して浅野家の再興を申し出ている。この事件に対する大石の基本方針は一方的な処分によって失われた浅野家の名誉の回復であり、吉良義央 (きらよしなか)に対する処分と長矩の弟大学 (だいがく)による浅野家の再興によってそれが果たされるとして幕府に嘆願したが、翌02年7月、大学が広島の浅野本家に御預けとなって挫折 (ざせつ)した。この段階を経て大石は吉良殺害に方針を転ずる。それは刃傷事件を幕府が長矩の犯罪とみたのと異なり、喧嘩 (けんか)とみて幕府の処分を片落ちとし、相手の吉良を殺して事実上両成敗の処分を完成させることで、亡君の鬱憤 (うっぷん)を晴らすというよりは、浅野家の名誉回復を指向するものである。この点で堀部武庸 (ほりべたけつね)(安兵衛)ら急進派とは考えが違っている。そして12月14日、大石は浅野家遺臣を率いて吉良邸を襲い、義央を殺してその首を泉岳寺 (せんがくじ)の長矩の墓前に献じた。大石らの目的はそれで遂げられたが、幕府は「主人の讐 (あだ)を報ずる」という彼らの理由は認めず、「公儀を恐れざるの段重々不届」として切腹を命じ、大石以下の46人は元禄 (げんろく)16年2月4日に死についた。墓は東京都港区芝高輪 (たかなわ)の泉岳寺。赤穂市大石神社に旧大石邸の一部を残す(国指定史跡)。

[田原嗣郎]



世界大百科事典

大石良雄
おおいしよしお
1659-1703(万治2-元禄16)

赤穂浅野家の家老。代々家老で内蔵助(くらのすけ)と称し,家禄は1500石。主君浅野長矩(ながのり)の一件に対する大石の方針は浅野家の名誉の回復であったが,名誉あるかたちでの浅野家再興を幕府に嘆願したがいれられず,長矩のけんかの相手とみなす吉良義央(きらよしなか)を殺して両成敗の処分を事実上完成させる方針に転じた。1702年(元禄15)12月14日,長矩の遺臣を率いて吉良邸に討ち入り目的をとげたが,幕府から切腹を命じられ翌年2月4日に死んだ。
[田原 嗣郎] 大石良雄は赤穂浪士の討入りに取材した〈忠臣蔵物〉の作品群の中心人物で,大星由良助(ゆらのすけ)の名で親しまれている。《仮名手本忠臣蔵》においては,廓遊びもするが人の心の奥底を見抜く明知と武士としての強固な意志をそなえ,心の広い大人物として描かれている。体軀堂々たる偉丈夫という大石の人物像は,《大矢数四十七本》(1747初演)の主人公大岸宮内(大石良雄にあたる)を演じて大当りをとった初代沢村宗十郎が決定づけた。その後さらに名優たちのすぐれた点をとり入れて由良助像を完成したのが,初代尾上菊五郎であった。《古今いろは評林》では,〈家老職の体(てい)・ほど・位を考へて,菊五郎を最上ともいふなるべし〉という評価を与えられている。また,大石良雄は国定教科書《尋常小学国史》に忠義を尽くした人物として記述された。
→赤穂浪士
[中山 幹雄]

[索引語]
大石内蔵助 大星由良助 大矢数四十七本 沢村宗十郎(初世) 尾上菊五郎(初世)


新版 日本架空伝承人名事典

大石内蔵助
おおいしくらのすけ
1659‐1703(万治2‐元禄16)
 大石良雄。赤穂浅野家の家老。代々家老で、家禄は一五〇〇石。主君浅野長矩ながのりの一件に対する大石の方針は浅野家の名誉の回復であったが、名誉あるかたちでの浅野家再興を幕府に嘆願したがいれられず、長矩のけんかの相手とみなす吉良義央きらよしなかを殺して両成敗の処分を事実上完成させる方針に転じた。一七〇二年(元禄一五)一二月一四日、長矩の遺臣を率いて吉良邸に討ち入り目的をとげたが、幕府から切腹を命じられ翌年二月四日に死んだ。
[田原 嗣郎]
伝承
 どんな場合にも沈着、冷静、大きな器量の持主で、持続する志をもち、多くの人たちの意見に耳を傾け、彼らの意志を統合して、強力なリーダーシップを発揮する。知的、論理的で、しかも行動力をもっている。「昼行灯ひるあんどん」と呼ばれるように、表面なにごともないかのように遊びほうけ、巧みに世間の目を欺きながら、本心を内に秘して、じっと時節の到来する時を待ち、綿密な計画のもとに実行し、主君の仇を報じたのち、従容しょうようとして死につく。これが、『忠臣蔵』の主人公に対して日本人が描くイメージである。これは江戸時代以来現代まで、日本人が抱いてきた一つの男の理想像であった。少なくともきわめて日本人好みの、日本人の精神構造に合致した人間の典型(タイプ)になりえていることは間違いない。『忠臣蔵』がかつては「芝居の独参湯どくじんとう」と呼ばれて起死回生の妙薬にたとえられ、今日もなお映画やテレビ映画の娯楽作品としてもてはやされる大衆的人気の源泉に、主人公の備えている人間的魅力があるのは疑いない。
 しかし、日本人が思い描いている『忠臣蔵』の主人公のイメージは、史実に知られる大石良雄その人よりも、むしろ近世の演劇(歌舞伎、人形浄瑠璃)や話芸(講談など)、絵画(浮世絵、絵本の類)などに幾度となく繰返し演じられ、出版されてきたなかで、民衆知によって育て上げられてきた大星由良助おおぼしゆらのすけ(由良之助とも表記)像によるところが大きい。史実の大石良雄の風貌や性格について、詳しいことはわかっていない。わずかに書き残された信頼できそうな資料によれば、彼は小柄で、声が低く、物静かな男だったらしい。それは、われわれが思い描いている彼のイメージとの間に大きな隔りを感じさせるものである。歌舞伎の舞台で現代も人気狂言の筆頭として演じつづけられている『仮名手本忠臣蔵』は、一七四八年(寛延一)八月、人形浄瑠璃で初演された。いわゆる赤穂事件を脚色した作品はすでにこれ以前の段階で、歌舞伎にも浄瑠璃にもたくさん作られており、『仮名手本忠臣蔵』はそれらの集大成であった。先行した原「忠臣蔵」の中で、もっとも重要な作品は『大矢数四十七本』(一七四七年(延喜四)上演)で、その主人公大岸宮内おおぎしくない(大星由良助の原型)を演じた初世沢村宗十郎の容姿・人柄・芸風が『仮名手本忠臣蔵』における由良助像の造型に大きな影響を与え、以後のこの人物のイメージをほとんど決定づけることになったと思われる。われわれの由良助像は決して剛毅木訥ごうきぼくとつ、武骨一辺倒の地方藩の家老というイメージではない。彼には、紫の粋な着物を着て祇園一力茶屋で遊興にふけるといった、やわらかではなやかな一面もある。史実の大石良雄が祇園に遊んだのは事実らしいが、そのようすを視覚化して印象を強調したのは芸能の力であり、そこに人間としての大きさやふくらみを加えたのは間違いない。講談、映画、テレビドラマ、小説などで、名を大石良雄として創作しているものも、実はそのイメージを虚構部分の多い大星由良助像に負うているのを見逃すことはできない。
[服部 幸雄]
ウヲ、言ふにや及ぶと諸手をかけ。ぐっ〓〓と引回し。苦しき息をほっとつき。由良助。此九寸五分は汝へ形見。我鬱憤を晴らさせよと。切先にてふゑ刎切。血刀投出しうつ伏せに。どうど転び息絶れば。御台を始め並居る家中。眼を閉息を詰歯を喰しばり扣ゆれば。由良助にじり寄刀取上押戴。血に染る切先を打守り〓〓。拳を握り。無念の涙はらはらはら。判官の末期の一句五臓六腑にしみ渡り。扨こそ末世に大星が。忠臣義心の名を上し根ざしは。斯と知られけり。
仮名手本忠臣蔵
「塩谷判官たかさだは、白木の三方腹切刀、由良之介はまだ来ぬか、ササ追付参上よしよし。「十二梯子の二階より、お軽は見卸すのん〓〓のべ鏡、下で由良之介が文をよむ、サヽ縁の下で九太夫がよしよし。
殿々奴節根元集
人のしらぬは大石は養子ツ子
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『藐姑柳』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):13
刊行/開き:1785年(天明5)(刊)
良雄の母は備前の家老池田玄蕃の娘であったところから、良雄を備前国生れとする訛伝が生じ、この説もかなり流布された。
煤掃の日迄は顔を汚してる
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):27‐31
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
江戸期には年中行事として「煤掃(煤払い)の大掃除は一二月一三日を慣例とした。討入りした日が翌一四日であったための見立て。良雄は遊蕩三昧に日を送り、ために「張抜き石」とか「昼行灯」と呼ばれたという。
一力の仲居オヤ〓〓あの人か
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):95‐30
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
討入りのあとであきれる。「野良之助さまと一力の下女おぼへ」(別中32)の句もある。
由良鬼はいくら酔てもしやうき也
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):95‐12
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
めんない千鳥で目隠ししての鬼ごっこに興じている由良助だったが、正気(鍾馗にかける)。
洞庭の月を大星見ておやし
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):50‐39
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
お軽が梯子を下りるくだりで、由良助、「道理で船玉様が見える……、洞庭の秋の月様を拝み奉るぢや」と軽口をたたく。「おやし」は生やしで、エレクトすること。「月」に対する「星」という句構。
かな手本いの字は京にわび住居
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):42‐32
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
九段目の由良助。いろは四十七文字の第一字「い」(大星)と対する最後の文字「京」。
生酔も九段めからはやぼになり
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):梅‐2
刊行/開き:1759(宝暦9年)(開き)
「生酔」はへべれけに酔った由良助。
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大石良雄の関連キーワードで検索すると・・・
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検索コンテンツ
1. 大石良雄画像
日本大百科全書
赤穂あこう浅野あさの家の家老。代々家老で内蔵助くらのすけと称し家禄は1500石。いわゆる赤穂事件で吉良邸討入りの首領となり、名を知られた。1701年(元禄14)
2. 大石良雄
世界大百科事典
率いて吉良邸に討ち入り目的をとげたが,幕府から切腹を命じられ翌年2月4日に死んだ。田原 嗣郎 大石良雄は赤穂浪士の討入りに取材した〈忠臣蔵物〉の作品群の中心人物
3. おおいし‐よしお【大石良雄】
日本国語大辞典
赤穂義士の頭領。播磨赤穂藩浅野家の家老。正しくは「よしたか」。通称内蔵助。元祿一五年(一七〇二)一二月、同志と共に吉良(きら)邸を襲って、主君浅野長矩の仇を討つ
4. おおいしよしお【大石良雄】
国史大辞典
見るとき、吉田忠左衛門・原惣右衛門・小野寺十内らの協力を無視することができず、この人々の上に、大石良雄はまとめ役として行動したということができる。→赤穂事件(あ
5. おおいし-よしお【大石良雄】
日本人名大辞典
1659−1703 江戸時代前期の武士。万治(まんじ)2年生まれ。播磨(はりま)(兵庫県)赤穂(あこう)藩家老。儒学を伊藤仁斎(じんさい)に,兵学を山鹿素行(や
6. 大石良雄[文献目録]
日本人物文献目録
』森林助『大石良雄と仏教』前田慧雪『大石良雄の画賛』-『大石良雄の画事』渡辺乙羽『大石良雄の自画像』しげたみ『大石良雄の書翰に就いて』阿久津沼村『大石良雄の真画
7. 大石良雄
日本史年表
1702年〈元禄15 壬午⑧〉 12・15 赤穂浪士 大石良雄 ら、吉良義央を討つ(実紀)。 1703年〈元禄16 癸未〉 2・4 幕府、大石良雄ら46人に切腹
8. 大石良雄娘 (見出し語:大石良雄)
古事類苑
禮式部 洋巻 第1巻 1259ページ
9. 大石良雄登青樓 (見出し語:大石良雄)
古事類苑
居處部 洋巻 第1巻 1131ページ
10. 大石良雄(大石内蔵助)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
1847~1852年(弘化4~嘉永5) 歌川国芳くによし画国立国会図書館所蔵
11. おおいしよしおたくあと【大石良雄宅跡】京都市:山科区/西野山村地図
日本歴史地名大系
蔵助カ隠居所ト定メテ、敵討ノ時節ニハ其辺ノ禅宗僧ニチナミヲ致シ、此僧ニ屋鋪ヲ預ケ」たとみえる大石良雄の「隠レ所」。ここに住んで島原・撞木町などへ遊興に通ったとい
12. 大石良雄遺書(著作ID:116552)
新日本古典籍データベース
おおいしよしおいしょ 大石内蔵助遺状写 
13. 大石良雄大高源吾手簡(著作ID:116563)
新日本古典籍データベース
おおいしよしおおおたかげんごしゅかん 
14. 大石良雄自画像記(著作ID:15269)
新日本古典籍データベース
おおいしよしおじがぞうき 赤松 滄洲(あかまつ そうしゅう) 
15. 大石良雄筆扇面(著作ID:676073)
新日本古典籍データベース
おおいしよしおひつせんめん 元禄一五
16. 介石記(著作ID:126647)
新日本古典籍データベース
かいせきき 大石良雄忠義物語 実録 
17. 赤穂大石良雄之状写(著作ID:4385740)
新日本古典籍データベース
あこうおおいしよしおのじょううつし 
18. 赤穂(市)画像
日本大百科全書
電機の諸工業が立地し、播磨工業地域の一角を形成し、西播磨テクノポリスの副母都市ともなっている。 赤穂城跡、大石良雄宅跡(国指定史跡)、花岳寺(浅野氏菩提ぼだい寺
19. あこうぎしろん【赤穂義士論】
国史大辞典
大石良雄以下旧赤穂浅野家(赤穂藩)の浪士四十七人が、元禄十五年(一七〇二)十二月十四日、江戸本所一ツ目の吉良義央邸に討ち入った行動を賞讃する論。赤穂事件の結末
20. あこうし【赤穂市】兵庫県
日本歴史地名大系
跡が多い。一二月一四日の義士祭は、明治元年明治天皇が泉岳寺(現東京都港区)へ勅使を差遣わして大石良雄らを嘉賞した勅語を与えたことに始まる。同四一年提灯行列が開始
21. あこうじょう【赤穂城】
国史大辞典
)の設計を修正したことなどが城郭史上重要。周辺の地形は変わったが遺構はよく遺り、大手門内史跡大石良雄宅跡には長屋門が遺る。城址は国史跡に指定されている。 [参考
22. あこうじょうあと【赤穂城跡】兵庫県:赤穂市/赤穂城下
日本歴史地名大系
れ、著述に励みながら延宝三年(一六七五)許されるまで在留した。浅野氏の家臣に影響を与え、家老大石良雄(内蔵助)も兵法を学んでいる(「山鹿家譜並年譜」山鹿家文書、
23. 赤穂浪士画像
世界大百科事典
れた浅野家の名誉を回復しようとする者があった。いわゆる急進派である。それに対して家老であった大石良雄は長矩の弟大学によって浅野家の再興を図るとともに,吉良へもな
24. 赤穂浪士
世界大百科事典
1927-28年(昭和2-3),《東京日日新聞》に連載。28-29年,改造社から3巻本として刊行。この小説中の大石良雄は,松の廊下での刃傷事件に対する幕府の処置
25. あこうろうし【赤穂浪士】
日本架空伝承人名事典
れた浅野家の名誉を回復しようとする者があった。いわゆる急進派である。それに対して家老であった大石良雄は長矩の弟大学によって浅野家の再興を図るとともに、吉良へもな
26. 赤穂浪士(小説)
日本大百科全書
の期待を裏切って虚無的な行動に走り、やがて上杉家の家老千坂兵部ひょうぶのスパイ組織に加入し、大石良雄たちの動静を探る。赤穂義士とせず浪士としたところに作者の批判
27. 赤穂浪士(日本史)画像
日本大百科全書
または亡君の遺志を継いで吉良を殺し両成敗の処分を事実上完成させることで回復されると考えた。前者は家老であった大石良雄おおいしよしお以下多数の考えであり、長矩の弟
28. 赤穂浪士一覧
日本大百科全書
長子主税ちからとともに参加。変名、池田久右衛門、垣見五郎兵衛。法名、忠誠院刃空浄剣居士こじ。〈大石良雄〉吉田忠左衛門兼亮よしだちゅうざえもんかねすけ 64歳。足
29. あさい-もとあき【浅井元秋】
日本人名大辞典
陸奥(むつ)仙台藩士。大地寄治に甲州流兵学をまなび,大番頭(おおばんがしら)などをつとめた。大石良雄,細井広沢(こうたく)と親交があり,大石から愛刀をおくられた
30. あさのながのり【浅野長矩】
国史大辞典
江戸芝高輪の泉岳寺に葬る。法名は冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士。この事件によって領地は没収され、また遺臣大石良雄らの諸士による復讐が行われた。室は浅野長治
31. あさの-ながのり【浅野長矩】
日本人名大辞典
墓所は泉岳寺(東京都港区高輪(たかなわ))。官職名は内匠頭(たくみのかみ)。翌年12月14日家老の大石良雄以下遺臣47人が吉良邸に討ち入り長矩の仇(あだ)を討っ
32. 一寸の光陰軽んずべからず
故事俗信ことわざ大辞典
わずかな時間であっても、決して無駄にしてはならない。 大石良雄(1906~07)〈塚原渋柿園〉続編・下・一三「御意通り百日にも偽りますなあ。一寸の光陰軽んずべか
33. いとうじんさい【伊藤仁斎】
国史大辞典
持とうとしなかったが、門人の中には京都在勤の諸藩の武士などもあり、赤穂義士中の小野寺十内秀和はその一人であり、大石良雄もそうであったといわれる。その性質は温厚で
34. 岩屋寺
日本大百科全書
る本尊の不動明王は、浅野家の遺臣大石良雄よしおが山科に隠棲いんせいしていたときの念持仏であった。境内には47人の赤穂あこう義士の木像を安置する木像堂、大石良雄
35. 江戸近郊道しるべ 300ページ
東洋文庫
大師河原すべて三千石の地也、海道より海端まで長さ一里ありと云、元禄のいにしへ、 浅野長矩の臣大石良雄が徒、しばしこ』にかくれ住し時、石の地蔵尊一躯を作り、夜深く
36. 江戸小咄集 1 272ページ
東洋文庫
」とある。播州赤穂の城主浅野内匠頭、私怨にて吉良上野介を江戸城内にて斬り、切腹。その仇を家来大石良雄以下四十七人が打った事件を脚色した歌舞伎劇の題名 (∈丁稚と
37. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
制定1697(元禄10)7月 旗本知行制改正(地方直し)1702(元禄15)12月 赤穂浪士大石良雄ら吉良義央を討つ1707(宝永4)10月 幕府、藩札を禁止1
38. 江戸繁昌記 2 204ページ
東洋文庫
尾に坐下し、仮果して天を仰ぐ。風無し、波無し。看る、那の舟漸ぐ揺動し来るを。忽ち見る、大石良雄が数箇の幕間を拉ぎて、下流より活り過ぐるを。條ち見る、伴頭、手代(
39. 江戸繁昌記 3 212ページ
東洋文庫
元禄十四年勅使接待役浅野長短を苦しめ、殿中に刃傷せられ、わずかに死を免れたが、翌年長矩の遺臣大石良雄らに殺された。六二歳(四)小忽小さな怒り (五)大礼を妨げ勅
40. 絵本江戸風俗往来 273ページ
東洋文庫
発するのである。師匠の方は佐倉宗五郎の甚兵衛の渡しをやったが、デロレンがひどく長かった。弟子の方は大石良雄だったが、ギヤマンのコップなどという新しい感じのことば
41. えんつうじ【円通寺】兵庫県:城崎郡/竹野町/円通寺村
日本歴史地名大系
寺内抱井山投老庵に隠居していた京都南禅寺の大休の弟子となり祖錬元快と称した。こうした関係から大石良雄の書状や、りく夫人の打掛けも秘蔵されている。
42. おおいし‐き[おほいし‥]【大石忌】
日本国語大辞典
〔名〕毎年三月二〇日(陰暦二月四日)、赤穂義士の忌日に、京都祇園の万亭(一力)で営む法会。この万亭で、大石良雄が遊興したと伝えられており、当日、義士の遺墨、遺品
43. 大石内蔵助
日本大百科全書
大石良雄
44. おおいし-くらのすけ【大石内蔵助】
日本人名大辞典
大石良雄(おおいし-よしお)
45. おおいしくらのすけ【大石内蔵助】
日本架空伝承人名事典
大石良雄。赤穂浅野家の家老。代々家老で、家禄は一五〇〇石。主君浅野長矩(ながのり)の一件に対する大石の方針は浅野家の名誉の回復であったが、名誉あるかたちでの浅野
46. 大石神社
世界大百科事典
兵庫県赤穂市にあり,大石良雄以下四十七士を主神とし,萱野三平(《仮名手本忠臣蔵》の早野勘平)を併せまつる。境内地は赤穂城内大手門近くにあった大石良雄の屋敷跡にあ
47. おおいし-せざえもん【大石瀬左衛門】
日本人名大辞典
県)赤穂(あこう)藩士。四十七士のひとり。藩主浅野長矩(ながのり)につかえ馬廻役をつとめる。大石良雄らと東軍流剣術を奥村重旧(しげひさ)にまなぶ。長矩自刃(じじ
48. おおいし-ちから【大石主税】
日本人名大辞典
1688−1703 江戸時代前期の武士。元禄(げんろく)元年生まれ。大石良雄の長男。播磨(はりま)(兵庫県)赤穂(あこう)四十七士のひとり。元禄14年藩主浅野長
49. おおいしまとら【大石真虎】
国史大辞典
寛政四年(一七九二)尾張国名古屋門前町の医師小泉隆助の次子として生まれる。幻名を門吉。成人後、大石良雄を敬慕して姓を大石と改めた。通称は小門太・衛門七・寿太郎・
50. おおいし-むじん【大石無人】
日本人名大辞典
播磨(はりま)(兵庫県)赤穂(あこう)藩士。浅野長直につかえ,寛文のころ辞して江戸にうつる。大石良雄らの主君仇(あだ)討ち計画を支援した。正徳(しょうとく)2年
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徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
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