与謝野晶子「和泉式部新考」(『与謝野晶子選集』四所収)、岡田希雄「和泉式部伝の研究」(『国語国文の研究』四・六・八・一〇・一一・一三)、同「和泉式部の晩年」(同一五・一六・一九・二〇)、上村悦子「和泉式部考」(『日本女子大学紀要』六)、吉田幸一「和泉式部」(『和歌文学講座』六所収)
国史大辞典
世界大百科事典
平安中期の女流歌人。生没年不詳。越前守大江雅致の女。母は越中守平保衡の女。和泉式部は女房名で,江式部,式部などとも呼ばれた。すぐれた抒情歌人として知られ,《和泉式部集》正・続1500余首の歌を残し,《和泉式部日記》の作者として名高い。《後拾遺集》をはじめ勅撰集にも多くの歌を収める。式部の父は,朱雀天皇の皇女で冷泉天皇の皇后となった三条太皇太后昌子内親王に,太皇太后宮大進として仕え,母も同内親王に仕えていたから,式部は幼いころ昌子の宮邸で過ごしたと思われる。20歳のころ,父の推挙で和泉守となった太皇太后宮権大進橘道貞の妻となった。和泉式部の名は,夫が和泉守であったことによっており,父が式部丞ででもあったものかと思われる。2人の間にはまもなく小式部内侍が生まれ,式部は夫の任国和泉に下ったこともあったが,10歳ばかり年長の夫にはあきたりないものがあったらしく,冷泉天皇の皇子弾正宮為尊親王との恋愛に陥った。しかし,親王は1002年(長保4),26歳で亡くなった。一周忌も近い翌年春,為尊親王の弟帥宮(そちのみや)敦道(あつみち)親王から求愛された。この兄弟は,母の女御藤原超子の死後,昌子内親王のもとで成長したから,式部に近づく機会は多かったと想像される。歌の贈答が続くうちに,敦道親王は04年(寛弘1),周囲の反対に抗して式部を自邸に引きとり,そのため宮妃は邸を出るというまでになった。この間の恋愛の経緯を140余首の歌を中心に,自伝的に記したのが《和泉式部日記》である。しかし,この親王も07年に27歳の若さで亡くなった。式部の悲嘆は深く,《和泉式部集》の親王への哀傷の歌120余首がそれを伝えている。09年,式部は藤原道長の召しによって,娘の小式部内侍とともに道長の女中宮彰子に仕えた。彰子のまわりには,紫式部,赤染衛門らがいた。式部は女房として仕えるうちに,道長の家司藤原保昌の妻となり,丹後守に任ぜられた夫に伴われて同国へ下った。25年(万寿2),若くして歌人として名を知られた小式部内侍に先立たれ,悲しみに沈んだが,33年(長元6)以後の諸記録に式部の名を見いだすことはできない。20歳ほど年上の夫保昌は,36年摂津守在任中に79歳で死んだが,2人がいつまで親密な関係にあったかはわからない。式部の没年には諸説があるが,不明とせざるをえない。式部と恋愛の関係にあった人物は,上記のほかにも数人あり,小式部内侍のほかにも子があったと考えられる。〈黒髪の乱れも知らずうち伏せばまず搔きやりし人ぞ恋しき〉(《和泉式部集》正)。
つぎつぎに恋の遍歴を重ね,敦道親王との関係では世間の非難を浴びた式部は,道長から〈うかれ女〉といわれたように,奔放な生涯を送った。そのため式部は早くから,紫式部の貞淑,清少納言の機知,赤染衛門の謙譲に対して,愛情一筋に生きた女の典型と考えられ,艶麗な美女として語られるようになり,平安時代末以降,数々の説話に登場することとなった。道貞と別れたころ,山城の貴布禰社に参籠した式部が,夫が戻るように祈る歌を詠んだところ,貴布禰明神の慰めの歌が聞こえたという説話が《無名抄》《古本説話集》その他にあるが,神をも動かすような歌の作者としての説話は少なくない。また,藤原道綱の子で好色の僧道命阿闍梨が,式部のもとへ通ったという《宇治拾遺物語》の説話をはじめ,式部は種々の恋愛譚に登場する。さらに,小式部内侍に先立たれて悲しみにくれる話は《宝物集》以下多くの説話集に見え,病む小式部が母のために命ながらえたいと祈ったところ,一度は病が治ったという《十訓抄》などの話とともに,母と娘の愛情の話として語られた。無常を感じた式部が書写山の性空聖人を訪ねて道心をおこす《古本説話集》の話も,のちに種々の変容をみせている。室町時代以降,式部の名は広く知られ,各地に伝説を残すようになった。御伽草子の《和泉式部》では,道命阿闍梨を式部と橘保昌(2人の夫を合わせた名になっている)の間の子とし,通ってくる僧が幼いときに捨てたわが子であることを知った式部が発心するという話になっている。謡曲には,《貴布禰》《東北》《鳴門》《法華経》をはじめ数々の曲に登場するが,かつて名歌を詠んだ式部が,罪障を懺悔して諸国を行脚するといった趣向のものが多い。また歌舞伎には《和泉式部千人男》,人形浄瑠璃には《和泉式部軒端梅》などがある。このように式部の名が広く知られるようになる背後には,式部の生涯を語る唱導の女性たちがあったらしく,式部の誕生地と伝える所は岩手県から佐賀県まで数十ヵ所に及び,墓の数もそれに劣らない。墓所の一つ京都市中京区の誠心(じようしん)院は,唱導の徒の拠点であった。各地に伝えられる式部の伝説には,瘡(かさ)を病んだ式部が,日向国の法華岳寺の薬師如来に平癒を祈ったが,いっこうに効験がないので〈南無薬師諸病悉除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ〉と詠むと,夢の中に〈村雨はただひと時のものぞかし己が身のかさそこに脱ぎおけ〉という返歌があって,難病もたちまちに平癒したという話や,アユ(鮎)の腸を意味する〈うるか〉ということばを,たくみに詠みこんださまざまな秀歌を作ったという話など,歌にまつわるものが多く,中には小野小町や西行の伝説と同じ内容のものもある。また,佐賀県には,式部が鹿の子であったために足の指が二つに割れており,親がそれをかくすために足袋というものを作ったという伝説もある。
→和泉式部集 →和泉式部日記
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