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  11. 和泉式部

和泉式部

ジャパンナレッジで閲覧できる『和泉式部』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

和泉式部
いずみしきぶ
生没年不詳
平安時代中期の女流歌人。和泉式部は女房名、また式部・江式部とも称された。父は越前守大江雅致、母は越中守平保衡の女。母が冷泉天皇皇后昌子(太皇太后)に仕えたこと(『中古歌仙伝』)、父が長保元年(九九九)に太皇太后宮大進、夫の和泉守橘道貞が同権大進を兼ねていたこと(『小右記』)から推して、長徳二年(九九六)式部二十歳前後で道貞と結婚し、その呼名から推して、結婚後も太后に仕え、長徳年中に二人の間に小式部が生まれたことなどが推定される。夫道貞とは十数年以上の年齢差があったから、道貞のたっての求愛により初恋を経験して、結ばれたのであろう。しかし夫が和泉国在任中に、式部も任国へ下ったことはあるが、長保元年十二月太后の死以後は在京したらしく、一方夫には任国で愛人ができたので、式部との間に破綻が生じ、式部は道貞邸を出てしまった。そして、翌二年ごろから為尊親王との間に恋愛関係が生じた。しかしそれも四年六月、親王の死によってはかなく終り、ついでその一周忌も来ないうちに、今度は故宮の弟敦道親王から求愛された。その恋愛の経緯が『和泉式部日記』に告白的に物語られている。そして翌五年十二月に宮邸に引き取られ、以来召人として生活をともにしたが、四年後の寛弘四年(一〇〇七)十月には敦道親王とも死別した。その悲嘆の情は『和泉式部続集』の挽歌百二十余首に詠われている。その後の式部は、中宮彰子に仕え、また道長の家司藤原保昌に再嫁して、夫が丹後守に任ぜられると、同国へも下った。しかし、二十歳ほど年長の保昌との夫婦生活は円満にはいかない点があったらしい。万寿元年(一〇二四)保昌は大和守となり、翌二年、式部五十歳ころに、娘小式部に先立たれて老少不定の悲しみに暮れた。保昌は長元九年(一〇三六)摂津守として在任中、七十九歳で没したが、式部晩年の消息は不明で、もしもそのころまで生きていたとすれば、六十歳前後で波瀾に富んだ生涯を終ったことになる。
[参考文献]
与謝野晶子「和泉式部新考」(『与謝野晶子選集』四所収)、岡田希雄「和泉式部伝の研究」(『国語国文の研究』四・六・八・一〇・一一・一三)、同「和泉式部の晩年」(同一五・一六・一九・二〇)、上村悦子「和泉式部考」(『日本女子大学紀要』六)、吉田幸一「和泉式部」(『和歌文学講座』六所収)
(吉田 幸一)


世界大百科事典

和泉式部
いずみしきぶ

平安中期の女流歌人。生没年不詳。越前守大江雅致の女。母は越中守平保衡の女。和泉式部は女房名で,江式部,式部などとも呼ばれた。すぐれた抒情歌人として知られ,《和泉式部集》正・続1500余首の歌を残し,《和泉式部日記》の作者として名高い。《後拾遺集》をはじめ勅撰集にも多くの歌を収める。式部の父は,朱雀天皇の皇女で冷泉天皇の皇后となった三条太皇太后昌子内親王に,太皇太后宮大進として仕え,母も同内親王に仕えていたから,式部は幼いころ昌子の宮邸で過ごしたと思われる。20歳のころ,父の推挙で和泉守となった太皇太后宮権大進橘道貞の妻となった。和泉式部の名は,夫が和泉守であったことによっており,父が式部丞ででもあったものかと思われる。2人の間にはまもなく小式部内侍が生まれ,式部は夫の任国和泉に下ったこともあったが,10歳ばかり年長の夫にはあきたりないものがあったらしく,冷泉天皇の皇子弾正宮為尊親王との恋愛に陥った。しかし,親王は1002年(長保4),26歳で亡くなった。一周忌も近い翌年春,為尊親王の弟帥宮(そちのみや)敦道(あつみち)親王から求愛された。この兄弟は,母の女御藤原超子の死後,昌子内親王のもとで成長したから,式部に近づく機会は多かったと想像される。歌の贈答が続くうちに,敦道親王は04年(寛弘1),周囲の反対に抗して式部を自邸に引きとり,そのため宮妃は邸を出るというまでになった。この間の恋愛の経緯を140余首の歌を中心に,自伝的に記したのが《和泉式部日記》である。しかし,この親王も07年に27歳の若さで亡くなった。式部の悲嘆は深く,《和泉式部集》の親王への哀傷の歌120余首がそれを伝えている。09年,式部は藤原道長の召しによって,娘の小式部内侍とともに道長の女中宮彰子に仕えた。彰子のまわりには,紫式部,赤染衛門らがいた。式部は女房として仕えるうちに,道長の家司藤原保昌の妻となり,丹後守に任ぜられた夫に伴われて同国へ下った。25年(万寿2),若くして歌人として名を知られた小式部内侍に先立たれ,悲しみに沈んだが,33年(長元6)以後の諸記録に式部の名を見いだすことはできない。20歳ほど年上の夫保昌は,36年摂津守在任中に79歳で死んだが,2人がいつまで親密な関係にあったかはわからない。式部の没年には諸説があるが,不明とせざるをえない。式部と恋愛の関係にあった人物は,上記のほかにも数人あり,小式部内侍のほかにも子があったと考えられる。〈黒髪の乱れも知らずうち伏せばまず搔きやりし人ぞ恋しき〉(《和泉式部集》正)。

 つぎつぎに恋の遍歴を重ね,敦道親王との関係では世間の非難を浴びた式部は,道長から〈うかれ女〉といわれたように,奔放な生涯を送った。そのため式部は早くから,紫式部の貞淑,清少納言の機知,赤染衛門の謙譲に対して,愛情一筋に生きた女の典型と考えられ,艶麗な美女として語られるようになり,平安時代末以降,数々の説話に登場することとなった。道貞と別れたころ,山城の貴布禰社に参籠した式部が,夫が戻るように祈る歌を詠んだところ,貴布禰明神の慰めの歌が聞こえたという説話が《無名抄》《古本説話集》その他にあるが,神をも動かすような歌の作者としての説話は少なくない。また,藤原道綱の子で好色の僧道命阿闍梨が,式部のもとへ通ったという《宇治拾遺物語》の説話をはじめ,式部は種々の恋愛譚に登場する。さらに,小式部内侍に先立たれて悲しみにくれる話は《宝物集》以下多くの説話集に見え,病む小式部が母のために命ながらえたいと祈ったところ,一度は病が治ったという《十訓抄》などの話とともに,母と娘の愛情の話として語られた。無常を感じた式部が書写山の性空聖人を訪ねて道心をおこす《古本説話集》の話も,のちに種々の変容をみせている。室町時代以降,式部の名は広く知られ,各地に伝説を残すようになった。御伽草子の《和泉式部》では,道命阿闍梨を式部と橘保昌(2人の夫を合わせた名になっている)の間の子とし,通ってくる僧が幼いときに捨てたわが子であることを知った式部が発心するという話になっている。謡曲には,《貴布禰》《東北》《鳴門》《法華経》をはじめ数々の曲に登場するが,かつて名歌を詠んだ式部が,罪障を懺悔して諸国を行脚するといった趣向のものが多い。また歌舞伎には《和泉式部千人男》,人形浄瑠璃には《和泉式部軒端梅》などがある。このように式部の名が広く知られるようになる背後には,式部の生涯を語る唱導の女性たちがあったらしく,式部の誕生地と伝える所は岩手県から佐賀県まで数十ヵ所に及び,墓の数もそれに劣らない。墓所の一つ京都市中京区の誠心(じようしん)院は,唱導の徒の拠点であった。各地に伝えられる式部の伝説には,瘡(かさ)を病んだ式部が,日向国の法華岳寺の薬師如来に平癒を祈ったが,いっこうに効験がないので〈南無薬師諸病悉除の願立てて身より仏の名こそ惜しけれ〉と詠むと,夢の中に〈村雨はただひと時のものぞかし己が身のかさそこに脱ぎおけ〉という返歌があって,難病もたちまちに平癒したという話や,アユ(鮎)の腸を意味する〈うるか〉ということばを,たくみに詠みこんださまざまな秀歌を作ったという話など,歌にまつわるものが多く,中には小野小町や西行の伝説と同じ内容のものもある。また,佐賀県には,式部が鹿の子であったために足の指が二つに割れており,親がそれをかくすために足袋というものを作ったという伝説もある。
→和泉式部集 →和泉式部日記
[大隅 和雄]

[索引語]
和泉式部 和泉式部日記 橘道貞 小式部 敦道(あつみち)親王 藤原保昌 貴布禰社 道命 性空 誠心(じようしん)院 瘡 足袋
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和泉式部の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 1398
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検索コンテンツ
1. 和泉式部画像
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2. 和泉式部
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り,親がそれをかくすために足袋というものを作ったという伝説もある。→和泉式部集 →和泉式部日記大隅 和雄 和泉式部 和泉式部日記 橘道貞 小式部 敦道(あつみち
3. 和泉式部
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4. いずみ‐しきぶ[いづみ‥]【和泉式部】
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5. いずみしきぶ【和泉式部】
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6. いずみしきぶ【和泉式部】
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7. いずみしきぶ【和泉式部】
日本架空伝承人名事典
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8. 和泉式部[文献目録]
日本人物文献目録
【逐次刊行物】:77件 『和泉式部日記総索引』東節夫等(編)『和泉式部研究資料と文献』藤岡忠美(編)『和泉式部日記研究文献』大橋清秀『和泉式部』岡田希雄『和泉式
9. いづみしきぶ【和泉式部】
全文全訳古語辞典
情熱的な恋の歌が多い。女流歌人の中で勅撰集に採られた歌が最も多く、家集に『和泉式部集』がある。『和泉式部日記』でも有名。⇒和泉式部日記
10. 和泉式部(著作ID:91178)
新日本古典籍データベース
いずみしきぶ 泉式部 道明のさうし 室町物語 
11. 和泉式部(著作ID:3661130)
新日本古典籍データベース
いずみしきぶ 
12. 貴船(著作ID:150903)
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きぶね 和泉式部 謡曲 能の本 
13. 和泉式部日記
日本古典文学全集
そのころ、和泉式部は恋人の為尊(ためたか)親王(冷泉天皇の皇子)の若すぎる死に嘆き悲しんでいた。その和泉式部に求愛の歌を贈ったのが、為尊親王の弟、敦道(あつみち
14. 和泉式部集
日本大百科全書
和泉式部の家集。『和泉式部正集』、『和泉式部続集』、宸翰(しんかん)本『和泉式部集』、松井本『和泉式部集』、雑種本『和泉式部集』の5種が知られている。902首か
15. 和泉式部集
世界大百科事典
歌集。和泉式部の家集。正集,続集,宸翰(しんかん)本,松井本,雑種本の5類があり,その総称。すべて他撰である。このうち,正集は902首(本文研究の成果による),
16. いずみしきぶしゅう【和泉式部集】
国史大辞典
『平安和歌史論』、吉田幸一編『和泉式部全集』本文篇・資料篇、清水文雄「和泉式部正集の形態に関する研究」(『国文学試論』一)、『群書解題』九、佐伯梅友他『和泉式部
17. いずみしきぶでんせつ【和泉式部伝説】
国史大辞典
和泉式部は才色兼備で歌集・日記などを残したが、それよりも多情多恨の生涯から多くの伝説をもって語り継がれることになった。その生地と伝える所は佐賀県杵島郡から岩手
18. 和泉式部日記
日本大百科全書
平安時代の日記。1巻。別名を『和泉式部物語』とも。和泉式部と帥宮(そちのみや)敦道(あつみち)親王との恋愛の経緯を歌物語風につづった作品で、1003年(長保5)
19. 和泉式部日記
世界大百科事典
われる。《和泉式部続集》に入る〈すてはてんと思ふさへこそ悲しけれ君に馴れにしわが身と思へば〉〈すくすくと過ぐる月日のをしきかな君がありへし方ぞと思ふに〉などの挽
20. いずみしきぶにっき[いづみしきぶニッキ]【和泉式部日記】
日本国語大辞典
日記。一巻。和泉式部の自作、他作両説がある。長保五年(一〇〇三)四月から翌年正月までの、敦道(あつみち)親王との恋愛の初期の経過を贈答歌を中心に物語風にしるす。
21. いずみしきぶにっき【和泉式部日記】
国史大辞典
[参考文献]遠藤嘉基『新講和泉式部物語』、大橋清秀『和泉式部日記の研究』、円地文子・鈴木一雄『全講和泉式部日記』、吉田幸一『和泉式部研究』一、『群書解題』一一、
22. 『和泉式部日記』
日本史年表
1004年〈寛弘元(7・20) 甲辰⑨〉 1・‐ この月以降、 『和泉式部日記』 成る。
23. いづみしきぶにっき【和泉式部日記】
全文全訳古語辞典
敦道との恋愛が、百四十数首の歌を織りなして情熱的に描かれている。和泉式部の自作とする説が有力だが、他作とする説もある。⇒和泉式部
24. 和泉式部家集(著作ID:91203)
新日本古典籍データベース
いずみしきぶかしゅう 和泉式部家集 和泉式部家集標註 和泉式部集考証 和泉式部(いずみしきぶ) 詠 岸本 由豆流(きしもと ゆずる) 標注 注釈 
25. 和泉式部七百回追福和歌(著作ID:91236)
新日本古典籍データベース
いずみしきぶしちひゃっかいついふくわか 七百回追福和歌 
26. 和泉式部集(著作ID:91225)
新日本古典籍データベース
いずみしきぶしゅう 和泉式部詠 和泉式部詠歌 和泉式部家集 和泉式部歌集 和泉式部正集 和泉式部全集 和泉式部続集 和泉式部(いずみしきぶ) 歌集 平安中期?
27. 和泉式部集の奥書(著作ID:4358260)
新日本古典籍データベース
いずみしきぶしゅうのおくがき 不遠斎 長隣(ふえんさい ちょうりん) 
28. 和泉式部事蹟(著作ID:4358259)
新日本古典籍データベース
いずみしきぶじせき 村上 忠順(むらかみ ただまさ) 
29. 和泉式部事蹟考(著作ID:91214)
新日本古典籍データベース
いずみしきぶじせきこう 法華嶽寺考 山田 清安(やまだ きよやす) 伝記 
30. 和泉式部日記(著作ID:91247)
新日本古典籍データベース
いずみしきぶにっき 和泉式部物語 いづみしきぶの物がたり 和泉式部仮名の記 和泉式部(いずみしきぶ) 日記 物語 
31. 和泉式部日記類標(著作ID:91258)
新日本古典籍データベース
いずみしきぶにっきるいひょう 索引 
32. 小倉百人一首(56) 歌人/和泉式部[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
のおもひでに いまひとたびのあふこともがな定まり字(決まり字):歌を特定する字(音)/あらざ和泉式部(いずみしきぶ)菱川師宣(ひしかわもろのぶ)画[他]『小倉百
33. 役割番附/和泉式部芝居(著作ID:4369125)
新日本古典籍データベース
やくわりばんづけ/いずみしきぶしばい 番附 
34. あい ても 会(あ)わず
日本国語大辞典
*源氏物語〔1001~14頃〕東屋「宮もあひてもあはぬやうなる心ばへにこそうちうそぶきくちすさび給ひしか」*和泉式部日記〔11C前〕「いさやまたかかる道をば知ら
35. あい‐の‐まくら[あひ‥]【相枕】
日本国語大辞典
〔名〕(1)夫婦が共寝に用いる長い枕。また、その共寝。*御伽草子・和泉式部〔室町末〕「あひのまくらの睦言(むつごと)に、はづかしとや思ひけん、五条の橋に捨にけり
36. あおい[あふひ]【葵】画像
日本国語大辞典
の挙例は食物名を連ねた戯笑歌で、「薬てふあふひも過ぎぬ今はただこひわすれじと独りともがな」〔和泉式部集‐上〕と同様、薬用のフユアオイである。(2)賀茂祭で用いら
37. 葵(源氏物語) 36ページ
日本古典文学全集
居るべきところから、さまよい離れる意。「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」(後拾遺・雑六 和泉式部)も同じ発想。前の「年ごろは…」(三三ペー
38. あかし‐がお[‥がほ]【明顔】
日本国語大辞典
〔名〕いかにも夜を寝ないで過ごしてしまったというような顔つき。*和泉式部日記〔11C前〕「まどろまで一夜ながめし月見るとおきながらしもあかしがほなる」
39. 赤染衛門画像
日本大百科全書
生没年不詳。平安中期の女流歌人で中古三十六歌仙の一人。右衛門尉赤染時用(ときもち)の娘。ただし平兼盛(かねもり)の妻が時用と再婚後に生まれたことから、兼盛の娘か
40. 赤染衛門
世界大百科事典
たかちか),江侍従をもうける。和泉式部,清少納言,紫式部,伊勢大輔らと交流し,《賀陽院水閣歌合》《弘徽殿女御十番歌合》などに出詠し,晴(はれ)の歌人として和泉式
41. あかぞめ‐えもん[‥ヱモン]【赤染衛門】
日本国語大辞典
実は平兼盛という。大江匡衡(まさひら)に嫁し、藤原道長の妻倫子に仕える。「後拾遺和歌集」などに多く歌が見え、和泉式部と並び称される。家集に「赤染衛門集」があり、
42. あかぞめえもん【赤染衛門】
日本架空伝承人名事典
挙周(たかちか)、江侍従をもうける。和泉式部、清少納言、紫式部、伊勢大輔らと交流し、『賀陽院水閣歌合』『弘徽殿女御十番歌合』などに出詠し、晴(はれ)の歌人として
43. あかぞめゑもん【赤染衛門】
全文全訳古語辞典
生没年未詳。赤染時用の娘(実は平兼盛の娘という)で、藤原道長の妻倫子に仕えた後、大江匡衡の妻。当時、和泉式部と並び称せられるほど和歌に秀でる。家集『赤染衛門集』
44. あかつき‐おき【暁起】
日本国語大辞典
3頃〕恋五・九一四「おく霜の暁をきをおもはずば君がよどのによがれせましや〈よみ人しらず〉」*和泉式部日記〔11C前〕「いみじう霧りたる空をながめつつ明かくなりぬ
45. あきぎり‐の【秋霧─】
日本国語大辞典
53頃〕恋四・八四三「鏡山あけて来つれば秋ぎりのけさや立つらんあふみてふ名は〈坂上常景〉」*和泉式部集〔11C中〕上「秋ぎりの立田の山にあふ人は立田の山にゆきや
46. あき の 夜(よ)
日本国語大辞典
5~914〕仮名序「春の花にほひすくなくして、むなしき名のみ、秋のよのながきをかこてれば」*和泉式部日記〔11C前〕「見るや君さ夜うちふけて山のはにくまなくすめ
47. あき‐はぎ【秋萩】
日本国語大辞典
五六「安伎波疑(アキハギ)ににほへる我が裳濡れぬとも君が御舟の綱し取りてば〈阿部継麻呂〉」*和泉式部集〔11C中〕上「風をいたみみしたはのうへに成しよりうらみて
48. 秋元 松代
日本近代文学大事典
浪漫性といった点から注目する。『かさぶた式部考』(「文芸」昭44・6)は九州の貴人伝説、かさ病みの和泉式部が放浪のすえ祈願して平癒したという民間信仰を、現代の炭
49. あくがら・す【憧・憬】
日本国語大辞典
どが、人の心をひきつける。人の心をとりこにする。心の落ち着きをなくさせる。そわそわさせる。*和泉式部集〔11C中〕上「梅が香におどろかれつつ春の夜はやみこそ人は
50. あくがれ‐い・ず[‥いづ]【憧出】
日本国語大辞典
拾遺和歌集〔1086〕雑六・一一六二「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出るたまかとぞみる〈和泉式部〉」*有明の別〔12C後〕二「れいの思ひあまり、又なぐさむか
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