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カミュ

ジャパンナレッジで閲覧できる『カミュ』の日本大百科全書・世界大百科事典・デジタル版 集英社世界文学大事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

カミュ
かみゅ
Albert Camus
[1913―1960]

フランスの作家、思想家。11月7日、当時フランスの植民地であったアルジェリアの旧コンスタンティーヌ県サン・ポール農場で生まれる。父親リュシアンLucien Auguste Camus(1885―1914)は農場労働者、母親カトリーヌ・サンテスCatherine Hélène Sintes(1882―1960)はスペイン系女性で耳が悪く、字が読めなかったという。1914年9月、父がマルヌの戦闘で死亡、アルベールは兄リュシアンLucien Jean Etienne Camus(1910―?)とともに、アルジェの労働者街ベルクール地区の母の実家に引き取られる。母は家政婦などをして実家の家計を助け、2人の子供を育てた。アルベールは厳しい生活苦と激しく美しい北アフリカの自然のなかで幼年時代を過ごすが、1918年公立小学校に入学、教師ジェルマンLouis Germainに出会う。この教師は教育に無理解なアルベールの家族を説いて給費生試験を受けさせ、高等中学校(リセ)に進学させた。1930年、高等中学校の哲学級に赴任してきた若き哲学者・作家ジャン・グルニエに才能を認められ、ド・リショーAndré de Richaud(1909―1968)の『苦悩』、グルニエ自身の『孤島』などを読んで文学に目を向けるようになった。グルニエとの師弟愛はアルジェ大学文学部に入学後さらに深くなり、生涯続いた。

 しかし、アルベールの青春は、1930年多量の喀血 (かっけつ)をし、医師に死を宣告されるほど重症の結核にかかったこと、1934年最初の結婚が妻のかけおちで破れたことなどによってきわめて暗いものとなった。彼は病身にもかかわらずさまざまなアルバイトをしながら『キリスト教形而上 (けいじじょう)学とネオプラトニズム』と題した論文で1936年にアルジェ大学を卒業し、かたわら、労働座、仲間座で演劇活動を行い、一時共産党に入党したり、人民戦線時代の「文化会館」活動などによって彼なりの政治参加もした。さらに1938年以降、ピアPascal Pia(1903―1979)に協力、『アルジェ・レピュブリカン』紙、『ソワール・レピュブリカン』紙のジャーナリストとして人民戦線内閣を支持し、植民地主義の不正を暴く論陣を張った。文学活動としては、1936年に処女作の自伝的エッセイ『裏と表』、1939年に叙情的エッセイ『結婚』を少部数アルジェで出版したほか、失敗作に終わったが小説『幸福な死』も書いた。

 1940年、カミュは反政府活動のゆえにアルジェリアを追放され、ピアの紹介で『パリ・ソワール』紙に職を得て本国に行き、そののち、対独敗戦、占領と続く動乱期をパリをはじめ各地を転々としながら、小説『異邦人』、哲学的エッセイ『シシフォスの神話』を執筆、人生にはそれ自体意味はないが、まさに意味がないからこそ、生きるに値するのだという「不条理」の哲学に若々しい表現を与えた。さらに1943年ごろから非合法紙『コンバ』の編集長としてレジスタンス運動に参加した。そして1944年8月、パリがドイツ軍による占領から解放されたとき、『異邦人』の作者で、輝かしいレジスタンスの新聞『コンバ』の若き編集長カミュは、「人と行動と作品のすばらしい出会い」(サルトル)を体現する、戦後世代の若き知性の英雄として、アルジェ時代とは対照的に、栄光の絶頂に上り詰める。『カリギュラ』(1944)、『誤解』(1944)の2戯曲は好評を博し、1945年には二度目の妻フランシーヌFrancine Camus(1914―1979)との間にジャンJean Camus(1945― )、カトリーヌCatherine Camus(1945― )の双生児をもうけた。

 だが、サルトルと並び称された戦後のカミュの栄光は長くは続かなかった。1944年、F・モーリヤックとの間に対独協力派の粛清の是否をめぐって論争を行っていた彼は、やがて、やや軽率に旧体制に属する者たちの抹殺を是認した自己の判断に疑いを抱き、政治における暴力の問題で深刻な自己懐疑にとらえられてゆく。戦後の「冷戦時代」に、インドシナ、アルジェリアなどの植民地問題、フランスの政治体制の問題などにおいて、いっさいの政治的暴力の否定を唱えたカミュは、いわば時代の申し子から鬼っ子へと転落してゆく。すでに1946年には『コンバ』紙の編集長を辞し、暴力否定の新しい政治的モラルを論文『犠牲者も否、死刑執行者も否』、翌1947年に小説『ペスト』、戯曲『正義の人々』で表現する。革命ではなく反抗こそが社会を具体的な形で変革しうると説いた『反抗的人間』(1951)はこの時期のカミュの思想の総決算であったが、この本をめぐる有名なサルトルとの論争(1952)の結果、マルクス主義の影響の強かったフランスの思想界におけるカミュの孤立は決定的なものになる。さらに1954年から始まったアルジェリア戦争も、いくつかのむなしい介入の試みのあと、カミュの政治的無力感を際だたせるばかりであった。この時期の孤独は小説『転落』(1956)、『追放と王国』(1957)に色濃くにじみ出ている。1957年10月、「鋭い真摯 (しんし)さをもって、今日、人間の意識に投げかけられる諸問題に光をあてた」功績によりノーベル文学賞を受けたが、フランスではこのニュースは冷ややかに受け取られた。だが1960年1月4日、パリ近郊で突然、交通事故による死亡の報が伝えられると、この「誠実な」作家の早すぎる死を嘆く声が高かった。

[西永良成]2015年5月19日

世界大百科事典

カミュ
Albert Camus
1913-60

フランスの作家。サルトルと並んで,第2次世界大戦直後のフランス文学を代表する存在。フランスの植民地だったアルジェリアの貧しい労働者の家に生まれ,大学で哲学を学んだ後,劇団を結成して演劇活動を行った。初期のエッセー集《裏と表》(1937),《結婚》(1939)は,地中海の風土にはぐくまれた感性に支えられ,生の喜びと苦悩を語った作品である。1938年,アルジェの新聞の記者となり,植民地行政を批判する多数の記事を書くが,ほどなく第2次世界大戦が勃発。こうした時期に書き進められたのが,一躍作家としてのカミュの地位を決定的にした小説《異邦人L'étranger》(1942),哲学的エッセー《シジフォスの神話Le mythe de Sisyphe》(1942)である。《異邦人》は理由なき殺人を犯して死刑の判決を受ける男を主人公に,〈不条理〉の思想を表明した作品であり,《シジフォスの神話》はそれを哲学的に解明しようとしたものである。戯曲《カリギュラCaligula》(1945初演)もまた同一線上にある。この間,彼は42年フランス本土に渡り,レジスタンス運動に参加。その体験を通じて,人間存在の不条理性に対する反抗から集団的な反抗の思想へと進み,それを主題とした小説《ペストLa pest》(1947),エッセー《反抗的人間L'hom-me révolté》(1951)を書き,後者をめぐってサルトルとの間に論争が行われることになった。その後のカミュは戦後の時代を生きる知識人としての苦悩を負いつづけながら,小説《転落》(1956),短編集《追放と王国》(1957)を書いたが,以前ほど大きな評価は得られなかった。そして57年,ノーベル文学賞を授与されたが,60年自動車事故のため死亡した。日本では,50年に初めて《ペスト》が翻訳紹介され,翌年には広津和郎と中村光夫のあいだに〈異邦人論争〉が行われて大きな反響を巻き起こした。その後も長く,戦後日本でもっとも愛読される外国作家の一人としての地位を保ってきた。
[滝田 文彦]

[索引語]
Camus,A. L'étranger Le mythe de Sisyphe 異邦人 シジフォスの神話 La pest 反抗的人間 L'hom-me révolté ペスト 異邦人論争


デジタル版 集英社世界文学大事典

カミュ アルベール
Albert Camus
フランス 1913.11.7-1960.1.4
フランスの作家。当時フランスの植民地だったアルジェリアの旧コンスタンチーヌ県サン・ポール農場で生まれる。父親リュシヤンは農業労働者,母親カトリーヌ・サンテスはスペイン系女性で耳が悪く,ほとんど字も読めなかったという。1914年9月,父が第一次大戦の名高いマルヌの戦いで戦死,アルベールは兄リュシヤンと共に,アルジェの労働者街ベルクール地区の母の実家に移り住む。母は家政婦などをしながら実家の家計を助け,2人の子供を育てた。アルベールは厳しい生活苦と激しく美しい北アフリカの自然の中で幼年時代を過ごすが,18年公立小学校に入学,教師ルイ・ジェルマンに出会う。この教師は教育に無理解なアルベールの家族を説いて給費生試験を受けさせ,高等中学校(リセ)に進学させた。30年,アルジェ高等中学校の哲学級に赴任してきた若き哲学者で作家ジャン・グルニエに文学的才能を認められ,アンドレ・ド・リショーの『苦悩』,グルニエ自身の『孤島』などを読んで文学の道を志すようになった。グルニエとの師弟愛はアルジェ大学文学部に入学後さらに深くなり,生涯続いた。
 しかし,アルベールの青春は1930年多量の喀血(かつけつ)をし,医師に死を宣告されるほど重症の結核にかかったこと,34年最初の結婚が妻の裏切りで破れたことなどによって極めて暗いものとなった。彼は病身にもかかわらずさまざまなアルバイトをしながら「キリスト教形而上(けいじじよう)学とネオプラトニズム」と題した論文で36年にアルジェ大学を卒業し,かたわら,労働座,仲間座で演劇活動を行い,一時共産党に入党するとか人民戦線時代の〈文化会館〉活動などに加わったりすることによって彼なりの政治参加もした。さらに38年以降,パスカル・ピヤに協力,「アルジェ・レピュブリカン」紙,「ソワール・レピュブリカン」紙の記者として人民戦線内閣を支持してファシズムに反対し,植民地主義の数々の不正を暴く論陣を張った。文学活動としては,36年に処女作の自伝的エッセイ『裏と表』L'Envers et l'Endroit,39年に抒情的エッセイ『結婚』Nocesを少部数アルジェで出版したほか,失敗作に終わった未完の小説『幸福な死』La Mort heureuse(1971没後刊)なども書いている。
 1940年,カミュは反政府活動のゆえにアルジェリア政庁当局から退去命令を受け,ピヤの紹介で「パリ=ソワール」紙に職を得て本国に行き,そののち,対独敗戦,占領と続く第二次大戦中の動乱期をパリをはじめ各地を転々としながら,小説『異邦人』(42,解説後出),哲学的エッセイ『シーシュポスの神話』(42,解説後出)を執筆,人生それ自体にはあらかじめ与えられた意味はないが,まさに意味がないからこそ,生きるに値するのだという無神論的な〈不条理の哲学〉に若々しく潑剌(はつらつ)とした表現を与えた。さらに43年ごろから非合法紙「コンバ」の編集長としてレジスタンス運動に参加した。そして44年8月,パリがドイツ軍による占領から解放されたとき,『異邦人』の作者で,輝かしいレジスタンスを代表する新聞「コンバ」の編集長カミュは,「人と行動と作品のすばらしい出会い」(サルトル)を体現する,戦後世代の若き知性の英雄として,アルジェ時代とは対照的に,一躍栄光の座に上り詰める。また,『誤解』Le Malentendu(44刊・初演),『カリギュラ』Caligula(44刊,45初演)の2戯曲はいずれも好評を博し,45年には2度目の妻フランシーヌとの間にジャン,カトリーヌの双生児をもうけた。
 だが,サルトルと並び称された戦後のカミュの栄光はそう長く続かなかった。44年,対独協力派の粛清の是非をめぐってフランソワ・モーリヤックと激しい論争を行っていた彼は,やがて,やや軽率かつ性急に旧体制に属する者たちの抹殺を正当化した自らの判断と主張に疑いを抱きはじめ,政治における暴力の問題で深刻な自己懐疑にとらえられてゆく。1940年代後半から50年代にかけての,いわゆる〈冷戦時代〉に,インドシナ,アルジェリアなどの植民地問題,フランスの政治体制の選択などにおいて,いっさいの政治的暴力の否定,穏健な社会主義を唱えたカミュは,いわば時代の申し子から鬼っ子へと転落してゆく。すでに46年には健康の悪化もあって「コンバ」紙の編集長を辞し,暴力否定のうえに立つ新しい政治的モラルを論文『犠牲者も否,死刑執行者も否』Ni Victimes ni Bourreaux,翌47年には小説『ペスト』(解説後出),さらに戯曲『正義の人々』Les Justes(49初演,50刊)で表現する。政治にあっては目的の正当性は手段の正しさによって証明されねばならず,暴力を容認するレーニン的社会主義革命ではなく,けっして暴力を正当化せず,人間の限界を否定的に明らかにする反抗こそが社会を具体的な形で変革しうると説いた『反抗的人間』L'Homme révolté(51)はこの時期のカミュの思想の総決算であったが,52年,この本をめぐるサルトルとの有名な論争の結果,共産党,マルクス主義の影響の強かったフランスの思想界におけるカミュの孤立は決定的なものになる。さらに54年から始まった,テロが弾圧を生み,弾圧が新たなテロを誘発するといった悪循環が日常的に繰り返されるアルジェリア戦争は,〈市民の平和〉を呼びかけるカミュの政治的主張の無力さを際立たせるばかりだった。この時期の彼の孤独は小説『転落』La Chute(56),短編集『追放と王国』L'Exil et le Royaume(57)に色濃くにじみ出ている。そんな彼に57年10月,「鋭い真摯(しんし)さをもって,今日,人間の意識に投げかけられる諸問題に光をあてた」功績によりノーベル文学賞が与えられたが,フランスではこのニュースはいたって冷ややかに受け取られた。だが,60年1月4日,パリ近郊での,交通事故による突然の死が伝えられると,この〈誠実な〉作家の早すぎる死を嘆く声がフランスのみならず,世界各地から寄せられた。死の直前のカミュは,重要な演劇活動をする予定であり,また,久方ぶりに新しい長編小説『最初の人間』Le Premier Homme(94没後刊)の執筆を開始したばかりであった。
 1960年代,および70年代前半までのフランスでは,カミュは大学における文学研究の対象になりえても,同時代的共感をもって読まれることは,もはやほとんどなくなっていた。だが70年代中ごろから,ソルジェニーツインによるソヴィエトの〈収容所体制〉の告発,中国の〈文化大革命〉の挫折(ざせつ)とその内実,第三世界におけるさまざまな社会主義の実験の行き詰まりなどフランス国外でのマルクス主義の破産を知り,国内では68年5月の一時的な解放(五月危機)を経たあと,結局取り返しのつかぬ袋小路に追い込まれた左翼主義の崩壊を目のあたりにした世代の知識人たちは,〈革命〉神話の幻想から覚醒(かくせい)し,カミュの作品と思想に新しい視線を注ぐことになった。その結果,革命をニヒリズムの産物であり西欧の傲慢(ごうまん)としてしりぞけた『反抗的人間』の予言性を再発見し,サルトル=カミュ論争におけるカミュの主張の正しさを回顧的に認め,論争以後の新たな事実を列挙してカミュを再評価する研究も出はじめている。
「私は哲学者ではない。私は一つの体系を信ずるに十分なだけ理性を信じているわけではない。私に関心があるのは,いかに振る舞うべきか,より正確に言えば,神も理性も信じていない人間はいかに振る舞うことができるか,それを知ることなのだ」(『アクチュエルII』Actuelles II,53)
 このように,倫理の問題こそが自らの文学的・思想的探究の核心にあったことを認めているカミュは,思想の体系性,作品の形式上の独創性といった観点からすれば,彼の好敵手であったサルトルと同じように,必ずしも天才的な仕事を残したわけではない。だが,革命と戦争による混乱の時代の歴史に対して,素手で立ち向かい,関わろうとしたモラリストとしてのカミュの言葉に虚心に耳を傾けるなら,単に革命をめぐる『反抗的人間』の予言性だけでなく,20世紀が提起し,いまだに解決をみていない他のいくつもの問題に関しても少なからぬ示唆が与えられるはずである。
(西永良成)
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1. カミュ
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1951)はこの時期のカミュの思想の総決算であったが、この本をめぐる有名なサルトルとの論争(1952)の結果、マルクス主義の影響の強かったフランスの思想界におけ
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5. カミュ(Camus, Albert
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日本近代文学大事典
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15. 二十世紀フランス小説 83ページ
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おそらくサルトルより生来の芸術家と呼ぶにふさわしいアルベール・カミュは、庶民の階層にいっそう近いところの出身である。サルトルの場合と同じく父親が早くに物故したカ
16. 二十世紀フランス小説 84ページ
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17. 二十世紀フランス小説 85ページ
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18. 二十世紀フランス小説 86ページ
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19. 二十世紀フランス小説 92ページ
文庫クセジュ
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20. 二十世紀フランス小説 93ページ
文庫クセジュ
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21. 二十世紀フランス小説 167ページ
文庫クセジュ
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22. 二十世紀フランス小説 182ページ
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93, 97, 101, 144 カミュ(アルベール) Albert Camus (1913-1960) 22, 69, 72-75, 78, 79 カミュ(ル
23. 蒼ざめた馬
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主人公=作者の抱え込んだニヒリズム、「末期まつごの眼め」に映った自然描写も見どころ。同じ難問をカミュは戯曲『正義の人々』(1949)で取り上げ、カリャーエフに「
24. アナーキズム
世界文学大事典
おいてもアナーキスト的色彩は強く残っている。第二次大戦後では,反逆の論理を展開したフランスのカミュがアナーキズム思想の流れをくむ代表的な文学者といえる。
25. アメリカ彦蔵自伝 2 25ページ
東洋文庫
多くの居留民どもに付添われて、館内に持ちかえった。若い士官(カミュ中尉)が一人で乗馬に出かけたところへ、暴漢が襲いかかったものらしい。士官は翌日の午後、埋葬され
26. アルベルタッツィ(Giorgio Albertazzi)
世界大百科事典
イタリアの俳優,演出家。1956年女優アンナ・プロクレメールと一座を結成,イプセン,ダヌンツィオ,サルトル,カミュなどの作品を上演し知識階級の人気を博す。61年
27. アロン(Raymond (Claude Ferdinand) Aron)
日本大百科全書
から『自由フランス』『コンバ』『フィガロ』などでジャーナリストとしても活躍。一時はサルトル、カミュなどとも交際し影響を与えた。1956年から1968年までパリ大
28. アロン レーモン
世界文学大事典
ンで「自由フランス」誌の編集を行った。解放後,一時マルロー情報相の下で官房長として働いたり,カミュの「コンバ」紙の記者になったりしたが,56年,念願のソルボンヌ
29. 暗黒小説
世界文学大事典
異常な事件を書き留めた16世紀イタリアの作家バンデッロ,フランス・バロック期のロッセ,J.-P.カミュの〈悲劇小説〉histoires tragiquesにその
30. 石沢 秀二
日本近代文学大事典
紀伊國屋書店)、訳書にはE=スーリオ著『二十万の演劇状況』(昭44・1 白水社)、カミュ作『精霊たち』(新潮社刊『カミュ全集』所収)、イヨネスコ作『義務の犠牲者
31. イタリア映画
日本大百科全書
、イタリア人技師と中国人通訳の交流を丹念に描いた『星なき夜に』(2006)の後、アルベール・カミュの遺作を映画化した『最初の人間』(2012)で、アルジェリア在
32. いどがやむら【井土ヶ谷村】神奈川県:横浜市/南区地図
日本歴史地名大系
住吉社は鎮守。文久三年九月二日(一八六三年一〇月一四日)、居留地から遠乗りに出かけたフランス士官アンリ・カミュが三人の浪士に殺害された井土ヶ谷事件(下手人不明)
33. 伊吹武彦
日本大百科全書
ジッド、バレリーらの文学と文体論を専攻。第二次世界大戦後は『世界文学』を発刊し、いち早くサルトル、カミュを紹介した。フロベール『ボバリー夫人』、ラクロ『危険な関
34. いぶき-たけひこ【伊吹武彦】
日本人名大辞典
へて昭和24年京大教授。フランス近・現代文学の翻訳につとめ,21年「世界文学」誌を主宰。サルトル,カミュらの実存主義の紹介に貢献した。昭和57年10月12日死去
35. 伊吹 武彦
日本近代文学大事典
昭35)などのすぐれた翻訳がある。戦後、「世界文学」誌の発刊に協力し、第二号以降は責任編集者となり、サルトル、カミュなどの紹介につとめた。『サルトル論』(昭24
36. 異邦人
日本大百科全書
フランスの作家アルベール・カミュの中編小説。1939年ごろから執筆され、42年に出版。アルジェの平凡なサラリーマン、ムルソーが、養老院で死んだ母の葬式からしばら
37. いほう‐じん[イハウ‥]【異邦人】
日本国語大辞典
さして呼んだことば。【二】(原題 {フランス} L’Étranger )小説。カミュ作。一九四二年発表。母の死に涙せず、葬儀の翌日情婦をつくり、「太陽のせい」で
38. 『異邦人』
世界文学大事典
1939年ごろから執筆され,42年刊の中編小説。アルジェの平凡なサラリーマン,ムルソーが養老院で死んだ母親の葬式からしばらくして,友人の女性関係のいざこざに巻き
39. 『異邦人』論争
日本近代文学大事典
LIVEの問題にふれていないからだとした。中村はこれに答えて『カミュの異邦人について―広津和郎氏に答ふ』(「群像」昭26・12)で、「実験小説」やカミュのいう「
40. 新版 印象派 45ページ
文庫クセジュ
ナショナル・ギャラリー)とクールベ張りの水浴する女を出展した。ドガは、洗練の極みともいうべき《カミュ夫人の肖像》(一八七〇年、ワシントン、ナショナル・ギャラリー
41. ウィルソン コリン
世界文学大事典
淵をのぞき見た実存的〈疎外者〉こそ20世紀を代表する人間像であると見,バルビュスの『地獄』,カミュの『異邦人』をはじめニーチェ,トルストイ,ブレイク,ヘッセ,カ
42. エクリチュール
世界文学大事典
バルトは,近代における〈文学〉のさまざまな形式の実験をブルジョワ的エクリチュールの普遍性の危機を示すものとし,カミュの『異邦人』に見られるような,文学制度を印づ
43. 「演劇」〈白水社〉
日本近代文学大事典
ものに補筆したもの)、高見沢潤子『霊柩車とともに』、中村真一郎『愛を知った妖精』など、ほかにカミュ作『誤解』(加藤道夫訳)がある。 「演劇」,福田恆存,風,岸田
44. 演劇の歴史 143ページ
文庫クセジュ
説明しているように、倫理的で哲学的に問いかける視点に立って、そのとき以来社会参加が拡大する。カミュはノーベル文学賞受賞時の『ストックホルムの演説』(一九五七年)
45. 演劇の歴史 148ページ
文庫クセジュ
不条理は意味の喪失を明示するのである。このような作品は当然ながら哲学的な含みを持つ。しかし、カミュが倫理的観点から不条理を理論化してはいるが、不条理と呼ばれる劇
46. 演劇の歴史 169ページ
文庫クセジュ
 Armand Gatti (1924-) 129 カトリック同盟 la Ligue 55 カミュ(アルベール) Albert Camus (1913-1960
47. お風呂の歴史 117ページ
文庫クセジュ
 アントワーヌ・ル・カミュ〔医師・詩人。一七二二~七二年〕は、『実践医学』(一七六九年)のなかで、ポム博士の方法を実践するよう勧めている。彼に言わせると、窮屈な
48. オラン
日本大百科全書
多く、スペイン風の建物が残り、市街の中心に広場があるさまは、南アメリカの都市によく似ている。カミュの名作『ペスト』の舞台として知られる。独立後多くのヨーロッパ人
49. 改訂新版 音楽の形式 11ページ
文庫クセジュ
様式という言葉は作曲家の筆致さえも示すことができる。文学の場合、ラ・ブリュイエールの様式あるいはアルベール・カミュの様式というように彼らの書法を言い表わすわけだ
50. カザレス(Maria Casarès)
世界大百科事典
れた。1936年に内戦をさけてパリに亡命し,国立演劇学校を首席で卒業後,マチュラン座に入り,カミュの《誤解》(1944),《戒厳令》(1948),《正義の人々》
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曲亭馬琴(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
江戸後期の小説家。姓は滝沢、名は興邦(おきくに)、のち解(とく)と改める。字(あざな)は子翼、瑣吉(さきち)。通称は清右衛門、笠翁(りつおう)、篁民(こうみん)。別号は大栄山人(だいえいさんじん)、著作堂(ちょさどう)主人、飯台陳人、乾坤(けんこん)
十返舎一九(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
江戸後期の洒落本(しゃれぼん)、黄表紙(きびょうし)、滑稽本(こっけいぼん)、合巻(ごうかん)作者。本名重田貞一(しげたさだかず)、通称与七。十返舎は香道の十返(とがえ)しにちなみ、一九は幼名市九による。酔斎、十偏舎、十偏斎などとも号す。前半生の伝記
三島由紀夫(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
小説家。本名平岡公威(きみたけ)。父梓(あずさ)と母倭文重(しずえ)の長男として大正14年1月14日東京四谷(現新宿区)に生まれる。満年齢が昭和の年数と一致するという点にも時代との関係がみられる。1931年(昭和6)学習院初等科に入り、高等科まで学習
上総介広常(日本大百科全書・国史大辞典)
平安末期の武将。平忠常(ただつね)の子孫、常澄(つねずみ)の子。上総権介(ごんのすけ)に任じ、介八郎(すけのはちろう)と称す。その所領は上総国(千葉県中部)から下総(しもうさ)国(千葉県北部)に及び、この地方最大の勢力を誇った。保元(ほうげん)
川端康成(日本大百科全書・世界大百科事典)
小説家。明治32年6月14日、大阪に生まれる。医師の父栄吉、母ゲンの長男。1901年(明治34)父、翌年母が亡くなり、大阪府三島郡豊川村大字宿久庄(しゅくのしょう)(現茨木(いばらき)市宿久庄)で祖父母に育てられた。小学校入学の年祖母、4年のとき姉
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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